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いつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。 「結婚するか?」 何かに突...

Chương (1)

第1章

いつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。 「結婚するか?」 何かに突き動かされるように、私は頷いた。 これが恋の始まりなのだと思っていた。けれど、三年にも及ぶ彼との秘密の結婚生活で、私が正式な妻として認められることは決してなかった。 結婚記念日の当日――彼の忘れられない初恋の人が帰国したその日、彼は私を放っておき、彼女の歓迎会のためにバーへと向かった。私は一人、レストランの閉店まで待ち続け、土砂降りの雨の中を帰路についた。 急性胃腸炎で意識が遠のきかけた時すら、彼は彼女からのたった一本の電話で、苦しむ私をその場に置き去りにして去っていった。 彼女に私のことを尋ねられても、彼は素っ気なく答えた。 「ただの秘書だよ」 あの日、私は法律事務所へ離婚相談の予約を入れた。部屋を綺麗に片付け、彼への感情もすっきりと整理して、彼の世界から永遠に姿を消した。 第1話 いつもは冷淡で近寄りがたい社長が、酔った勢いで私を部屋に連れ込んだ。 激しい一夜を過ごした後、彼は言った。 「結婚するか?」 何かに突き動かされるように、私は頷いた。 これが恋の始まりなのだと思っていた。けれど、三年にも及ぶ彼との秘密の結婚生活で、私が正式な妻として認められることは決してなかった。 結婚記念日の当日――彼の忘れられない初恋の人が帰国したその日、彼は私を放っておき、彼女の歓迎会のためにバーへと向かった。私は一人、レストランの閉店まで待ち続け、土砂降りの雨の中を帰路についた。 急性胃腸炎で意識が遠のきかけた時すら、彼は彼女からのたった一本の電話で、苦しむ私をその場に置き去りにして去っていった。 彼女に私のことを尋ねられても、彼は素っ気なく答えた。 「ただの秘書だよ」 あの日、私は法律事務所へ離婚相談の予約を入れた。部屋を綺麗に片付け、彼への感情もすっきりと整理して、彼の世界から永遠に姿を消した。 …… 「牧野(まきの)さん、こちらがご依頼の離婚協議書です」 法律事務所の応接室で、向かいに座る弁護士が書類を差し出してきた。 「ただし、この協議書は双方の署名があって初めて効力を持ちます。また、届出から正式な離婚成立までにはしばらくの期間を要します」 私は離婚協議書を握りしめ、静かに頷いた。 タクシーで勤め先の星創(せいそう)グループに戻った時には、すでに午後一時半を回っていた。 デスクに着いた途端、電話が鳴った。 「牧野さん、コーヒーを一杯」 聞き慣れているのに、どこか突き放したような冷たい声。私は一呼吸置いてから答えた。 「かしこまりました、社長」 コーヒーを淹れ、書類を抱えて志村辰哉(しむら たつや)のオフィスに入った。 彼は俯いて手元の書類に目を通していた。午後の陽光が大きなガラス窓から差し込み、彼を柔らかく照らし出して、どこか穏やかな空気を纏わせている。 私が入っていくと、辰哉は顔を上げた。切れ長の美しい瞳に、私の姿が映り込む。 「樹美(きみ)、昼はどこへ行ってた?どうして昼食を持って来なかった?」 私は目を伏せ、彼の前にコーヒーを置いた。 「忘れ物があって、一度家に戻っておりました。ご連絡しそびれて申し訳ありません」 適当に言葉を濁し、極めて自然な動作で書類を差し出した。 「こちら、城東の土地開発案件の契約書です。ご署名をお願いします」 辰哉はそれ以上追及せず、私から書類を受け取った。二、三ページめくり、ペンを取って末尾にある三枚の署名欄に次々とサインを入れていく。 よどみなくペンを走らせる彼を見て、私の張り詰めていた心はようやく緩んだ。 この三枚の署名ページの中に、離婚協議書の最終ページをこっそり紛れ込ませていることなど、彼は知る由もない。 五年間、彼の秘書として一度もミスをしたことがなかった。いつの間にか彼は、私が差し出す書類を細かくチェックしなくなっていたのだ。 でなければ、こんなに上手くいくはずがない。 サインを終えると、辰哉はペンを置き、こめかみを揉みながら言った。 「樹美、ここ数日は開発案件でずっと忙しかったからな、君も疲れただろう。先週の記念日の埋め合わせに、今夜は君が好きなあの店を予約したんだ。一緒に……」 彼が言い終わらないうちに、社長室のドアが勢いよく開かれた。 「辰哉さん、暇すぎて来ちゃった。遊びに来ても迷惑じゃない?」 鈴を転がすような甘い声に、辰哉が振り返る。そこには、一瞬で目を奪われるほどの華やかな顔があった。 千葉弓月(ちば ゆづき)――辰哉の、忘れられない初恋の人。 辰哉の視線は、もう完全に彼女に奪われていた。一瞬ハッとしたように目を見開き、それからふっと甘い口元を緩める。 「迷惑なわけないだろ。可愛いお嬢様のお出ましだ。ほら、早くこっちへ」 そして、私には振り返りもせず淡々と告げた。 「サインは終わった。もう下がっていい」 さっきまでとはまるで別人のような冷たい態度だった。 弓月はそこでようやく、傍らに立ち尽くす私に気づいたらしかった。少し悪びれたように小さく舌を出す。 「ごめんなさい。そちらの美人さん、辰哉さんの社員?見惚れちゃった」 私は何も答えず、辰哉に向かって軽く一礼し、社長室を後にした。 ドアが閉まる瞬間、視界の端に映った――椅子から立ち上がり、弓月へと歩み寄る辰哉の姿だった。 そして、彼の甘く優しい声が聞こえた。「ああ、あの人?ただの秘書だよ。それより、来るなら連絡をくれればよかったのに。ケーキでも用意させたものを」 第2話 辰哉の甘く優しい声を聞きながら、私の胸には様々な感情が込み上げ、無意識のうちに手元の書類を強く握りしめた。 結婚して三年経っても、彼にとって私は相変わらず「ただの秘書」でしかなかったのだ。 …… 三年前のパーティーでのことだ。辰哉はひどく酔っ払っていた。私がやっとの思いで彼をホテルの部屋まで送り届けると、彼は有無を言わさず私をベッドに押し倒し、拒絶を許さないほどのキスを浴びせてきた。 抵抗しようとした瞬間、耳元で彼の低く掠れた声が聞こえた。 「樹美……」 アルコールのせいか、それとも彼から発せられる熱のせいか、私は魔が差したように彼を押しのけることができなかった。 翌朝目を覚ました時、辰哉は何事もなかったかのように口止め料を振り込んでくるか、あるいは直接クビを言い渡してくるかのどちらかだろうと思っていた。ところが彼は、極めて冷静な声でこう切り出した。 「身分証は持ってるか?」 私は戸惑いながら小さく頷いた。 すると彼は言った。 「結婚するか?」 婚姻届の提出を終え、二人で役所から出てきた時も、私はまだ夢の中にいるような気分だった。 実のところ、私はずっと前から辰哉のことを知っていた。 大学時代、彼は二つ上の先輩であり、数えきれないほどの女子学生の憧れの的だった。 自分が平凡だと自覚していた私は、彼と関わることすら恐れ、ただ遠くから憧れの眼差しで見つめることしかできなかった。そんな私がした最も大胆な行動といえば、卒業後に彼の星創グループに履歴書を送り、秘書として採用されたことくらいだ。 私と結婚してくれるということは、彼も少しは私のことを想ってくれているのだと、そう信じていた。 たとえ彼が秘密の結婚を望み、当面は二人の関係を公表しないと言い出しても、私は一向に構わなかった。 結婚して一年以上が経った頃、私はようやく残酷な真実に気づいた。あの夜、辰哉が泥酔して私と激しい一夜を過ごしたのは、ただ彼の忘れられない初恋の人――弓月が、海外で新しい恋人の存在を発表したからに過ぎなかったのだと。 彼の心の中でずっと愛し続けているのは、弓月ただ一人だったのだ。 真実を知った時は胸が張り裂けそうだったけれど、諦めようとは思わなかった。だって、彼はすでに私と結婚しているのだから。 これからの人生は長い。私が懸命に尽くし、ずっと彼のそばに寄り添い続ければ、いつかきっと私に目を向け、心を動かしてくれる日が来るはずだと信じていた。 けれどこの三年間、辰哉の私に対する態度は終始よそよそしいままで、妻というより、やはり私はただの「秘書」でしかなかった。 先月、辰哉の書斎を片付けていた時、偶然一冊の日記帳を見つけてしまった。 そこには、この十年間彼が弓月に抱き続けてきた深い想いが、びっしりと綴られていた。 ページの間に、二人のツーショット写真も挟まれていた。 写真の裏には、見慣れた彼の筆跡でこう書かれていた。 【Love】 あの凛として気高く、まるで高嶺の花のような男が、こんなにも深く誰かを愛せるなんて思いもしなかった。 誰も愛せないわけでも、生まれつき冷たい人間なわけでもなかった。ただ、私を愛していないだけだったのだ。 …… 先週は、私たちの結婚三周年の記念日だった。 私は辰哉の好きなレストランを予約し、花とプレゼントを用意して、彼のスケジュールも空いていることを確認していた。 なのに記念日の夜、私は一人でレストランの席に座り、ただ待ち続けた。彼はいつまで経っても現れなかった。 メッセージを送っても返信はなく、電話をかけても出ない。次第に心は乱れ、辰哉が事故にでも遭ったのではないかと気が気でなくなり、今すぐ警察に届け出ようかとさえ思った。 でも、仕事のトラブルで連絡できなかっただけかもしれない。もし用事を終えてレストランに駆けつけてくれた時、私がいなかったら――そう思うと、どうしても席を立つことができなかった。 テーブルに並んだ料理がすっかり冷めきってしまうまで待った。 隣のテーブルの客が何組も入れ替わるまで待った。 やがて店員が申し訳なさそうに「閉店のお時間です」と告げに来るまで待った。 私は花とプレゼントを抱えて店を出た。帰ろうとしたその時、突然土砂降りの雨が降り出した。 不意を突かれて全身ずぶ濡れになった。身体の芯まで冷え切ってしまい、道端の軒下で雨宿りしていた時、ふと思い出した。秘書である私は、辰哉の親友である篠原沢哉(しのはら たくや)の連絡先を知っていることを。 慌ててメッセージアプリを開き、辰哉が彼と一緒にいるか聞こうとした。その時、手が滑ってタイムラインの画面を開いてしまったのだ。 最新の投稿が目に飛び込んできた。そこには、薄暗いバーで楽しそうにグラスを傾ける彼らの動画があった。添えられていた言葉は――【愛し合う二人はいつか必ずまた巡り会う。祝福を】 第3話 動画の主役は、まさに辰哉だった。 いつも氷のように冷たい彼の表情は、まるで春の陽射しに溶けたかのように柔らかく崩れ、目元には優しさが満ち溢れていた。彼は微笑みながらグラスを手に取り、目の前に座る艶やかな顔立ちの女性に向かって言った。 「弓月、おかえり」 私の心は、その瞬間完全に冷え切った。 結局、彼が私をすっぽかし、一晩中心配させ、レストランで何時間も待ちぼうけを食わせた挙句、大雨に打たせた理由は――帰国したばかりの弓月の歓迎会のためだったのだ。 私は再び震える手で辰哉に電話をかけた。 今度は彼が電話に出た。 私は声を振り絞り、心の奥底にまだわずかな希望を抱きながら口を開いた。 「今どこにいるの?レストランでずっと待ってたのに……外は雨が降っていて、傘もないの。迎えに来てくれない?」 電話越しに聞こえる背景音は、もう耳をつんざくような音楽ではなかった。おそらく静かな場所を探して電話に出てくれたのだろう。 彼は言った。 「手が離せないんだ。急遽いくつかの取引先と会うことになって、まだ飲んでいる。自力でタクシーを拾って帰ってくれ」 私は沈んだ声で聞いた。 「じゃあ、今夜は帰ってくるの?」 彼は少し沈黙した。 「帰らない。早く休めよ」 私は「うん」とだけ言い、電話を切った。 三年間見続けてきた夢から、一気に目が覚めた。 私は大雨に打たれながら、魂が抜けたように家へ帰り、花とプレゼントをすべてゴミ箱に投げ捨てた。 ソファに座り込み、一晩中一睡もできないまま、沢哉のタイムラインの動画を何度も何度も繰り返し再生してしまった。 まるで自傷行為のように、自分が本当に一度も愛されていなかったという事実を、何度も何度も確認したのだ。 …… 翌朝になっても、私は無理やり気力を振り絞って出社した。会社に着くとすぐに、スーツをビシッと着こなし、かすかに笑みを浮かべて歩いてくる辰哉の姿が目に入った。彼はすれ違う社員一人一人に軽く頷いて挨拶をしている。 みんな驚いて、コソコソと囁き合っていた。 「わあ、今日の社長、なんだかすごく機嫌がいいね……」 「まさか私たちに笑いかけるなんて!いつもは血も涙もない氷みたいに冷たい人だと思ってたのに」 隣の同僚が私の肩をポンポンと叩き、小声で聞いた。 「牧野さん、長く社長の秘書をやってるけど、あんな風に笑うのを見たことある?」 私は無意識に指を強く握りしめ、無理やり笑顔を作って答えた。 「ううん、一度も見たことないわ」 そう、結婚して三年、彼があんなに心から嬉しそうにしているのを見たことは、本当に一度もなかったのだ。 同僚はゴシップ好きそうな顔で頷いた。 「社長みたいな堅物にも、ついに春が来たのかしらね……」 辰哉は私の前まで歩み寄ると、私の青白い顔色を見て、一瞬だけ申し訳なさを顔に浮かべて言った。 「牧野さん、ちょっと中へ」 私は彼の後ろについて社長室に入った。 「樹美、どうしてそんなに顔色が悪いんだ?昨夜はよく眠れなかったのか?」 彼はスーツのジャケットを脱ぎながら、穏やかな声で口を開いた。 私は何も答えなかった。 彼は再び私の前に歩み寄り、手を伸ばして私の髪を撫でた。 「怒ってるのか?昨夜はごめん。緊急のトラブルで連絡する暇がなくて、スマホもマナーモードにしていたから、君からの電話に出られなかったんだ」 緊急のトラブル? 私は黙って彼を観察した。今日の彼はシャツからネクタイ、スーツに至るまですべて新品で、かすかに女性用香水の匂いが漂っていた。首元には、うっすらとキスマークの痕さえ見え隠れしている。 その痕を見つめていると、再び胸が締め付けられるような痛みが込み上げてきた。 私の様子がおかしいことに気づき、辰哉は軽く唇を噛み締めた。 私にはわかる。これは彼が少し苛立っている時のサインだ。 彼は目を伏せ、ポケットから精巧な小さな箱を取り出した。 「樹美、これを君に。記念日のプレゼントとしてわざわざ選んだんだ。もう怒らないでくれないか?」 私が手を出そうとしないのを見て、彼は自ら箱を開けた。中には美しいダイヤモンドのネックレスが入っており、一目で高価なものだとわかる。 彼はネックレスを取り出し、私の後ろに回って、自らの手で私の首に着けてくれた。 冷たいチェーンが肌に触れ、私は思わず身震いし、不意に口を開いた。 「このネックレスは、私にだけ贈ってくれたの?」 辰哉は少し戸惑った後、すぐに笑って答えた。 「当然だ。君だけだよ」 第4話 けれど、このネックレス――昨夜の動画で、弓月の首にも全く同じものがかかっていた。 辰哉は私の肩に手を添え、唇を寄せてきた。けれど私は、その唇が触れる寸前に顔を背けた。 「社長、まだ仕事がありますので、失礼します」 そう言って彼の手をすり抜け、ドアを押し開けて足早に社長室を後にした。 本当に愛する人が戻ってきたのだ。三年も彼女の場所を奪っていた私は、そろそろ身を引くべきだろう。 …… 唐突な着信音が、回想の糸をぷつりと切った。内線電話――辰哉からだった。 「牧野さん、お茶を用意して持ってきてくれ」 お茶を載せたトレーを手に社長室のドアを開けると、さっきまでデスクで仕事をしていたはずの辰哉はソファに移動していた。弓月が彼の肩にもたれかかり、親しげにスマホを覗き込んでいる。 彼の視線は弓月に注がれたまま離れない。その眼差しには、隠しきれない深い愛情が滲んでいた。 まるで絵に描いたような、お似合いのカップル。 そして私は、その美しい絵に紛れ込んだ無粋な異物だった。 私が入ってきたのを見て、弓月はすぐに身を起こした。にっこりと目を細めて言う。 「ありがとう!あなたが辰哉さんの秘書さんなのね。彼のお世話、大変でしょ?」 すっかり女主人気取りの口ぶりだった。 辰哉に目を向けると、その顔に一瞬だけ気まずそうな色が過ぎったが、彼は弓月を窘めるようなことは何も言わなかった。 私はすべてを悟り、完璧な営業スマイルを貼りつけた。 「私は社長の秘書ですから、当然の業務です。どうぞごゆっくり」 辰哉は目に見えてホッとした様子で、私の弁えた対応に満足したようだった。 辰哉は素っ気なく頷いた。 「仕事に戻れ」 退社後、辰哉からメッセージが届いた。会社の近くのレストランで食事をしないか、という誘いだった。 私が店に着いた時には、彼はすでに席に着いていた。 「樹美、千葉家と志村家は昔からの家族ぐるみの付き合いでね。弓月は妹みたいなものなんだ。変に誤解しないでくれ」 私が席に着くなり、彼はそう切り出した。 その言い訳を重ねて取り繕う姿は、あまりに滑稽だった。私は内心の嘲笑を押し殺し、無表情を貫いた。 「わかってる。説明しなくてもいいわ」 私はバッグからプレゼントの箱を取り出し、口元だけで微笑んだ。 「この前の三周年のプレゼント、渡しそびれてたの」 受け取った彼がその場で開けようとするのを、私は慌てて止めた。 「しばらくしてから開けて」 怪訝そうな視線を向けられ、私はにっこりと笑って答えた。 「サプライズだから。ね、待ってて?」 私がこんな風に甘えた口調で話すことは滅多にない。彼はすっかり上機嫌になり、箱を鞄にしまった。 「わかった。樹美の言う通りにしよう」 あの箱の中身は離婚協議書。一ヶ月後、私たちはそれぞれの道を行き、あなたは晴れて自由の身になる。これ以上素晴らしいサプライズがあるかしら? 彼はグラスを掲げて言った。 「樹美、三周年おめでとう……」 私が自分のグラスに手を伸ばすより早く、辰哉のスマホが震えた。 彼はすぐにグラスを置いて電話に出た。 「もしもし?」 静かなレストランに、電話の向こうの声がはっきりと響いた。 「辰哉さん、罰ゲームで負けちゃって、みんなが彼氏を呼べって言うの……早く来て!」 弓月の声は少し酔っているようだった。 「弓月?大丈夫か?」 辰哉は明らかに動揺していた。顔を上げ、私を見る。 「樹美、弓月は帰国したばかりでこっちに友達もいないし、俺は……」 私はどこまでも穏やかな声で言った。 「行ってあげて。私は大丈夫だから」 彼はすぐに安堵と感謝の入り混じった笑みを浮かべた。 「やっぱり君は物分かりがいいな。今度、必ず埋め合わせするから」 去っていく彼の背中を見つめながら、私の心は少しずつ温度を失い、完全に冷え切っていった。 辰哉が帰ってきたのは深夜だった。私は彼を待たず、ベッドで寝たふりをしていた。 彼はシャワーを浴びて布団に潜り込み、私の腰に腕を回して、耳元に唇を寄せてきた。温かい吐息が首筋をくすぐる。 彼が何を求めているのかはわかっていた。けれど私は、胸の奥底から湧き上がる苛立ちを抑え、彼をそっと押しのけた。 「今日、生理なの」 辰哉は元々、そういうことには淡白な人だ。あの最初の夜を除けば、彼から私を求めることは滅多になかったし、私も拒んだことは一度もなかった。これが初めての拒絶だった。 彼の手が一瞬強張った。けれど引っ込めることはせず、そのまま私を抱きしめて、暗闇の中で小さく呟いた。 「……わかった。寝よう」 第5話 その夜は、ぐっすりと眠れた。 …… それからの半月間、会社での業務上のやり取りを除けば、私と辰哉はほとんど言葉を交わさなかった。 弓月は毎日昼になると彼を誘ってランチに出かけ、社内ではすっかり「社長夫人」として噂されていた。 辰哉は根も葉もない噂を嫌う人だ。以前、取引先の令嬢から熱烈なアプローチを受けた時も、すぐにきっぱりと否定していた。 なのに今回は、何も言わない。まるで暗黙のうちに認めているかのようだった。 私が三年かけても手に入れられなかった地位を、彼はあっさりと弓月に与えたのだ。 ある日、急性胃腸炎が突然ぶり返し、オフィスで冷や汗が止まらないほどの激痛に襲われた。 社長室に書類を届けた時、彼は私の異変に気づいた。 「大丈夫か?病院まで送ろうか?」 けれど私が口を開きかけたその時、辰哉のスマホが鳴った。電話の主は弓月だった。 「辰哉さん、具合が悪いの……そばにいてくれない?」 辰哉の顔色がさっと変わった。今すぐにでも飛び出していきそうな勢いだ。 戸口へ向かって数歩踏み出したところで、ようやく私がまだ部屋にいることを思い出したらしい。彼は足を止め、ためらいがちに振り返った。 「樹美……悪いが、俺は行かないと。君は大丈夫か?運転手に病院まで送らせようか?」 瞳の奥に熱いものが込み上げ、視界が滲みそうになる。私はそれを必死で堪え、歯を食いしばって答えた。 「大丈夫。行ってあげて」 私の返事を聞いた途端、辰哉の表情がふっと緩んだ。そして一瞬の迷いもなく、社長室を出ていった。 やはり彼は、いとも簡単に彼女を選んだのだ。 私は一人でタクシーを拾い、病院へ行き、診察を受け、点滴を打った。看護師が私の真っ青な顔を見て、心配そうに聞いてきた。 「ご家族とか、旦那さんは来られないの?」 私は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。 「もう離婚したので。誰も来ません」 辰哉が帰宅した時、私はすでに薬を飲んでベッドに横になっていた。彼は私の手の甲に残る点滴の針跡を見て、申し訳なさそうな顔をした。 「すまなかった、樹美。どうしても外せない急用があって、病院に付き添えなかった。弓月が……」 私は首を横に振り、彼の言葉を遮った。 「いいの。わかってるから」 どうせもうすぐ、私たちは他人同士になる。今さら波風を立てても仕方ない。 数日後、辰哉は取引先との商談のため、一週間の出張に出ることになった。 ちょうどよかった。一週間後は、届出期間が満了し、離婚が正式に成立する日だ。 本来なら彼の出張には私が秘書として同行するのだが、今回は私の体調を理由に、家で休むよう言われた。 好都合だった。私も何か口実を探していたところだったから。 出張へ向かう前、彼は私を優しく抱きしめた。 「樹美、ずっとオーロラを見たいって言ってただろ。帰ってきたら休みを取って、北欧へオーロラを見に連れていってやるよ」 私は目を伏せ、素直に頷いた。 「うん」 彼が出発した途端、私は家中の自分の荷物をすべて段ボールに詰め、引越し業者を呼んで、結婚前に買っておいたマンションへと運ばせた。 家を出る時、リビングのテーブルに一通の封筒を置いていった。 会社に立ち寄り、退職届のメールを作成した。一週間後に辰哉のアドレスへ届くよう、予約送信を設定する。 それから人事部に、一週間の年休を申請した。 手続きをしている時、人事の社員たちがひそひそと噂話をしているのが耳に入った。 「今回社長の出張、千葉さんのチケットも手配させられたのよ。一緒に行くみたいね」 「千葉さんじゃないでしょ、もう社長夫人なんだから。呼び方変えなきゃ」 なるほど、と心の中で呟いた。今回は弓月を連れていくから、私を置いていったのか。愛しい人に何か悟られるのが怖かったのだろう。 すべての手続きを終えると、胸につかえていた重しがすとんと落ちた。私はスーツケースを引いて空港へ向かい、南の島行きのフライトに乗り込んだ。 一週間後。 私がビーチのデッキチェアに寝そべり、海辺を行き交うイケメンたちを眺めていると、スマホが鳴った。 「樹美、今どこにいる?あのプレゼントは何のつもりだ?」