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7年間支えた弁護士夫に捨てられ、目が覚めた
法律事務所で999件連続で勝訴した。それを受けて、長年結婚の事実を隠していた弁護士の夫・渡辺翼(わたなべ つばさ)が、ようやく私・高橋凛菜...
Chương (1)
第1章
法律事務所で999件連続で勝訴した。それを受けて、長年結婚の事実を隠していた弁護士の夫・渡辺翼(わたなべ つばさ)が、ようやく私・高橋凛菜(たかはし りんな)との結婚式を挙げることに同意してくれた。
けれど、日が暮れても翼は現れなかった。代わりに私が見たものは、彼がパラリーガルの杉本日和(すぎもと ひより)と結婚式でキスをしている、インスタの投稿だった。
【さっき同僚に『売れ残り』ってバカにされたけど、弁護士の彼が助けに来てくれた。これから、昼は彼の優秀な部下、夜は彼の愛する妻になるわ】
写真の日和のひとと翼の薬指にはめられた結婚指輪が、やけに目に焼きついた。
きっと誰もが、私が怒りで我を忘れると思っただろう。でも私はあっさり笑って、こうコメントをつけた。
【次は赤ちゃんだね!ご祝儀、たっぷり包んであげる!】
すると次の瞬間、一日中電源を切っていた翼のほうから、電話がかかってきた。
「日和は妊娠したのに、相手のクズ男に捨てられたんだ。彼女の両親はすごく保守的な人たちだから、このことがバレたら、きっと勘当されてしまう。お腹の子とどうやって生きていけっていうんだ。同じ弁護士なのに、君には少しも同情心がないのか?
今すぐあのコメントを消して、日和に直接謝罪するんだ。彼女が何の問題もなく無事に子供を産めたら、君との結婚式はちゃんとやり直すから」
でも、私は手にした離婚訴訟の書類を見つめながら、ただ冷ややかに笑った。
「もう必要ないわ。あなたは、私たちの離婚裁判の準備でもしていればいい」
第1話
法律事務所で999件連続で勝訴した。それを受けて、長年結婚の事実を隠していた弁護士の夫・渡辺翼(わたなべ つばさ)が、ようやく私・高橋凛菜(たかはし りんな)との結婚式を挙げることに同意してくれた。
けれど、日が暮れても翼は現れなかった。代わりに私が見たものは、彼がパラリーガルの杉本日和(すぎもと ひより)と結婚式でキスをしている、インスタの投稿だった。
【さっき同僚に『売れ残り』ってバカにされたけど、弁護士の彼が助けに来てくれた。これから、昼は彼の優秀な部下、夜は彼の愛する妻になるわ】
写真の日和のひとと翼の薬指にはめられた結婚指輪が、やけに目に焼きついた。
きっと誰もが、私が怒りで我を忘れると思っただろう。でも私はあっさり笑って、こうコメントをつけた。
【次は赤ちゃんだね!ご祝儀、たっぷり包んであげる!】
すると次の瞬間、一日中電源を切っていた翼のほうから、電話がかかってきた。
「日和は妊娠したのに、相手のクズ男に捨てられたんだ。彼女の両親はすごく保守的な人たちだから、このことがバレたら、きっと勘当されてしまう。お腹の子とどうやって生きていけっていうんだ。同じ弁護士なのに、君には少しも同情心がないのか?
今すぐあのコメントを消して、日和に直接謝罪するんだ。彼女が何の問題もなく無事に子供を産めたら、君との結婚式はちゃんとやり直すから」
でも、私は手にした離婚訴訟の書類を見つめながら、ただ冷ややかに笑った。
「もう必要ないわ。あなたは、私たちの離婚裁判の準備でもしていればいい」
私が言い終わると、電話の向こうで翼はしばらく黙っていた。でも、次に聞こえてきた声には、明らかに苛立ちが混じっていた。
「凛菜、少しは冷静になれないのか?
言ったはずだ。日和との式はただの形式的なものだって。それに、後で君との結婚式もちゃんとやり直すって約束しただろう。どうして少しも我慢できないんだ?もうちょっと待つことくらい、できないのか?
まさか君は、日和が未婚で妊娠した上に男に捨てられたなんてことを、俺に世間に公表させたいわけじゃないだろう?彼女が周りから白い目で見られて、両親に勘当されて、お腹の子と二人で路頭に迷うのを、黙って見ていろとでも言うのか?」
電話の向こうから聞こえる、あまりにも自分勝手な翼の言い分に、裁判所の前に立っていた私は、思わず嘲るように笑った。
私と翼は、7年も前に入籍を済ませていた。だけど、結婚式は挙げていないし、誰にも夫婦だと明かしていなかった。
あの頃、翼は全財産をつぎ込んで自分の法律事務所を立ち上げたばかりだった。ちゃんとした結婚式も新婚旅行も、私にあげることはできなかった。彼がくれたのは、いつか幸せにするっていう、口約束だけだった。
私たちはまるで悪いことでもしているかのように、お互いの両親にも内緒で、こっそりと入籍した。
この7年間、私は翼が仕事で成功して、1日でも早く結婚式を挙げてくれる日をずっと待ち焦がれていた。
そして翼は、本当に仕事だけに打ち込んだ。依頼人はどんどん増えて、彼の名も世間に知られるようになっていった。
私もとっくに結婚式の会場を選んで、ドレスだって決めていたのに……
翼の一言さえあれば、私たちはいつでも式を挙げられる状態だった。
だけど、私が結婚式の話を持ち出すたびに、翼はいつももっともらしい言い訳を並べたてた。「事務所の経営が軌道に乗るまで」とか、「新人が一人前になるまで」って。もう少しだけ待ってくれと、何度も、何度も……
そうして私は、7年間も待ち続けた。
そんな日々が続いていた中、先週私は寝食を忘れて資料をまとめあげ、事務所に999件目の勝訴をもたらした。
これで翼も言い訳ができなくなったのか、ついに私へのご褒美として、結婚式を挙げることを承諾してくれた。
それからの1週間、私は毎日睡眠時間を4時間以下に削って、結婚式の段取りを一つ一つ自分で決めた。式の前の晩は、嬉しくて一睡もできなかったほどだ。
でも式の当日、日が暮れて招待客が帰り始める時間になっても、翼は現れなかった。会場にいるみんなの、私を見る目がだんだん哀れみの色を帯びていくのを感じるだけだった。
もしあの日、偶然日和のインスタ投稿を見ていなければ、私は今でも何も知らないままだっただろう。
それなのに、翼は私が我慢できないのが悪いとでも言いたげな口ぶりだった。
要するに、翼は私と結婚式を挙げたくない。私が自分の妻だと、誰にも知られたくない。ただそれだけのことだった。
はっと我に返った。もう今までみたいに、おとなしく翼の言うことを聞くのはやめよう。そして、私は冷たく笑って、こう言い返した。
「ええ、結婚式なんてただの形式よ。でも、どうしてかしらね?杉本さんが少し泣いただけであなたは慌てて駆けつけるのに、7年も待った私のためには、たった1日すら時間を作ってくれなかったの?それどころか言い訳すら考えず、スマホの電源を切って丸一日も音信不通になるなんて。
もうお互いに取り繕う必要もないなら、この結婚を続ける意味なんてある?」
私の言葉に、電話の向こうの翼は押し黙った。私がここまで彼のメンツを潰し、7年間うわべだけで保ってきたこの関係を、自ら壊しに来るとは思わなかったのだろう。
しばらくして、翼はいかにも困ったという風に、長いため息をついた。
「なあ凛菜、すぐに離婚なんて言葉を口にするのはやめてくれ。俺は今、事務所の仕事で手一杯なんだ。それに日和のご両親の対応もある。その上、君に何度も同じ説明をするのは、正直しんどい。
君だってこの事務所の人間だ。日和のような新人たちを育てるために、うちがどれだけ時間と金と労力をかけてきたか、知っているだろう。
俺は事務所を大きくして、君と、これから生まれてくる俺たちの子供に、もっといい暮らしをさせてやりたいんだ。それが、そんなに悪いことか?」
また始まった。
いつもの、長々しいお説教。もっともらしい綺麗事のオンパレード。
この7年間、翼はずっとこうだった。自分が絶対に正しくて、すべては私のため。「君を愛しているから」って言葉を盾にして、何度も私に我慢を強いてきた。
でも、彼がどれだけ弁解しても、日和が無能であるという事実は覆せない。
翼が選び抜いたパラリーガルのはずなのに、日和の実務能力はゼロに等しかった。法律の基礎知識すらおぼつかず、相談に来た依頼人を怒らせることもしばしばだった。
他の新人だったら、依頼人を怒らせるなんてとんでもない。提出書類に句読点一つでも間違いがあったり、法的な表現があいまいだったりしただけで、すぐに辞めさせられてしまう。
なのに、日和に限っては、どんなミスを犯そうと翼は決して罰しなかった。それどころか、いつも穏やかな口調で、怒ったことすらない。「まだ大学を卒業したばかりで、仕事のペースに慣れていないんだ」なんて、もっともらしい理由をつけて。
でも、翼が忘れているのか、日和は入社してもう2年目になる。とっくに新人なんかじゃない。
翼の日和に対する特別扱いは、もはやただの上司と部下の域をはるかに超えていた。
だから、日和が翼との結婚式をインスタに投稿しても、周りは誰も驚かなかった。それどころか、コメント欄は【やっぱりお似合いだと思ってた!ついにゴールインか!】なんていう祝福の声で溢れかえっていた。
そのことを思い出し、私は冷たい声で言った。
「あなたの言う通りね。間違っているのは、あなたじゃなくて、私よ」
電話の向こうで、翼はまた私が彼の言い分を受け入れたと思ったのだろう。安堵したような声で言った。
「そうだよ、それでいいんだ、凛菜。自分の過ちを認めてくれて、俺も安心した。あとは……」
しかし、その言葉を最後まで聞かずに、私は冷たく言い放った。
「翼。私が犯した、一番取り返しのつかない過ちが何か分かる?
7年前、家族の反対を押し切って、あなたとこっそり結婚したことよ。
それから、離婚の調停はもう申し立ててあるわ。近いうちに法廷で会うことになるわね」
そう言って、私は翼に何も言わせず、電話を切った。
すぐに、裁判所からの呼出状のデータを翼に送ろうとした。だけど、いくら待ってもスマホの画面に既読はつかなかった。
彼にブロックされたが、意外にも驚かなかった。
この7年間、私が言うことを聞かないと分かると、翼はいつもこうやって私との連絡を絶った。家の鍵の暗証番号を変え、私の銀行口座を凍結させることさえあった。そして、私が自分から折れて頭を下げるまで、そうやって精神的に追い詰めるのだ。
でも、もう、こんなくだらないお芝居に付き合う気はなかった。これ以上、一緒にいるつもりもなかった。
はっとして、スマホの画面を消そうとした瞬間、事務所のクライアントグループチャットで、日和が私宛にメッセージを送ってきた。
その次の瞬間、それまで静かだったチャットに、無数の通知が一気に表示された。
第2話
【高橋先生。渡辺先生が素敵な人なのはわかります。それに、事務所でずっと一緒だったんですもんね。だから、高橋先生が渡辺先生を好きになってしまったとしても、責めたりしません】
【でも、私は最近、お腹に新しい命を授かったことが分かったんです。それなのに、高橋先生は渡辺先生にメッセージを送って、私と離婚するように迫るなんて……そんなことをされたら、私とお腹の赤ちゃんはどうすればいいんですか?】
【どうしてもと言うなら、私が事務所を辞めます。だから、お願いです。どうか私たちの家庭を壊さないでください。私の夫を奪わないでください、お願いします。@高橋凛菜】
日和のその書き込みをきっかけに、普段は静かなクライアントグループの通知が、一気に鳴りやまなくなった。
【杉本さんが可哀想。渡辺先生と結婚したばっかりなのに、年増の女に嫉妬されるなんて】
【高橋先生って、普段は優しくて仕事もできる人だと思ってたけど、まさかねぇ。人が妊娠してるって時に、家庭を壊そうとするなんて最低じゃない?】
【@高橋凛菜、見てるんでしょ、とぼけないで出てきなさいよ!あんたみたいな不倫女が弁護士だなんて笑わせる。人として終わってるわ!】
【@渡辺翼、渡辺先生、もしこんなクズを事務所に置いておくつもりなら、うちの依頼はすべてキャンセルさせてもらいますよ。他の事務所を探しますから】
【……】
数百人が参加するクライアントグループは、あっという間に私への中傷と罵詈雑言で埋め尽くされた。
元凶である日和は、デマを流すだけ流して、さっさと画面の向こうに隠れてしまった。
日和のあまりの恥知らずな振る舞いに、私は言葉を失った。
私の結婚式をめちゃくちゃにして家庭を壊したのはそっちなのに。それなのに被害者ぶって、私が妊娠中の彼女を差し置いて翼を誘惑したなんて、よく言えたものだ。
さらに驚いたことに、普段はROM専で、グループができてから一度も発言したことがなかった翼が、このタイミングで自ら発言したのだ。
【妻の言っていることはすべて事実です。皆様、お騒がせして申し訳ありません。どうかご安心ください。自分と高橋先生との間には、恋愛感情や不適切な関係は一切ありません】
【事務所の名誉のため、本日付で、当事務所の高橋先生の解雇手続きを開始します】
グループでの翼の断定的な書き込み。平然と嘘をつくその姿に、私は皮肉としか思えなかった。
もしかしたら、翼自身も覚えてないのかもしれない。
かつての彼は、嘘と裏切りを何よりも嫌う、正義感の強い弁護士だったのに。
事務所を立ち上げたばかりの頃、ある依頼人から離婚裁判で勝たせてほしいと頼まれたことがある。報酬は破格の金額だった。
でも翼は調査を進めるうち、依頼人の本当の目的が財産隠しだと突き止めた。依頼人は、愛人と海外へ高飛びするつもりだったのだ。翼は依頼人の反感を買い、この業界で干されるリスクを覚悟の上で、その依頼を断った。
なぜなら翼自身も、幼い頃に父親から同じような形で捨てられた経験があり、それがずっと心のしこりになっていたからだ。
それでも翼は、目を赤くしながら私に謝ってきた。「依頼を断ったせいで、君に楽な暮らしをさせてあげられない。ダメな夫でごめん」と。
それなのに、日和が現れてたった1年で、翼はかつて自分が最も軽蔑していた人間になってしまった。
好きという気持ちには、本当に不思議な力があるらしい。
信念を貫いていたはずの弁護士をここまで変えてしまうのだから。日和が私をデマで陥れても、それに加担するほどに。
でも、私もこの事務所のエース弁護士だ。黙ってやられるわけにはいかない。
次の瞬間、私はさっきの翼との通話を録音したデータを、グループに投稿した。
「凛菜、言ったはずだ。日和との結婚式はただの形式なものだって……日和が未婚で妊娠した上に男に捨てられたなんてことを、俺に世間に公表させたいわけじゃないだろう?周りから白い目で見られて、両親に勘当されて、お腹の子と二人で路頭に迷うのを、黙って見ていろとでも言うのか……」
それを投稿した途端、あれほど騒がしかったクライアントグループが、一瞬で静まり返った。
まさか私が通話を録音しているなんて、翼も思ってもみなかっただろう。
しばしの沈黙の後、グループの空気は一変した。今度は翼と日和に、説明を求めるメンションが次々と飛び交い始めた。
私はただ冷たく鼻で笑うと、そのグループを抜けた。
自分たちで招いた面倒だ。あとは勝手に後始末すればいい。
数日後、私は裁判所から通知された時刻通りに出向き、離婚調停の結果を待っていた。
しかし、相手方であるはずの翼は、時間になっても現れなかった。
裁判所の職員が何度も電話をかけたが、翼が出ることはなかった。
翼は欠席により離婚訴訟に移ろうとしていた。その時、翼から電話がかかってきた。
第3話
裁判所の担当者から電話を繋いでもらうと、すぐに翼の怒鳴り声が聞こえてきた。
「凛菜、いい加減にしろよ。君がグループチャットで通話録音をばらまいたせいで、日和がネットで叩かれて、精神的に不安定になって入院したんだぞ。そのせいで、お腹の子まで危なかったのに、それでもまだ足りないのか?
今度は誰かに担当者のフリをさせて、離婚調停だと?日和がその話を聞いて、どれだけ自分を責めたか分かってるのか?死んで詫びしようとしたんだぞ。君は日和を追い詰めないと気が済まないのか?」
その怒り狂ったような声を聞いて、私はやっと理解した。翼は裁判所からの電話に応じていなかったわけではない。離婚調停の通知を、私のいたずらだと思い込んでいただけなのだ。
はっと我に返り、私はすぐに言い返した。
「杉本さんがわざと嘘をついて私を陥れた時は、私が悪いと言ったわよね。今度は相手がしっぺ返しを食らっているのも、私のせいになるわけ?
それと、最後に言っておくけど、調停は本当にやることよ。もしあなたが……」
でも私の言葉を最後まで聞かず、翼はイライラした様子で話を遮った。
「もういい!凛菜、その茶番に付き合ってる暇はない。
日和は今、妊娠中で精神的にも不安定で、とても仕事ができる状態じゃない。君が日和の仕事を引き継げ。今夜の会食にも代わりに行って、彼女のクライアントをしっかりもてなしてこい。
ちゃんとやり遂げたら、君がやきもちで起こした騒ぎは特別に許してやる。事務所での立場も保証してやろう」
まるで王様か何かのように偉そうな翼の命令口調に、私は思わず鼻で笑った。
彼は忘れているらしい。昨日まで、ネットで叩かれていたのは日和だけじゃなかったということを。
弁護士という仕事柄、クライアントや相手方の家族から責められることは避けられない。
以前、ある刑事事件の弁護を担当したことがある。被告の罪を軽くすることに成功した直後、私は原告の家族に水を浴びせられ、「人殺しの味方!グルになってるんだろ!」と罵られた。
ひどいときには、ネットに個人情報を晒されて、実家の両親まで巻き込んで中傷されたこともあった。
あの頃の私は怖くて家に閉じこもり、スマホを開く勇気さえなかった。
でも翼は、それが当たり前だという顔をしていた。私を慰めるどころか、逆に感情的すぎるとか、心が弱いと責めてきたのだ。
弁護士になったからにはプレッシャーに耐えることを学べ、自分の感情くらいコントロールしろ、この業界ではよくあることだ、と。
この程度のプレッシャーに耐えられないなら、時間の無駄だからさっさと転職しろ、とまで言った。
笑えることに、当時の私は翼の都合のいい言葉を本気で信じていた。「自分が未熟で、弱いからだ」と思い込み、その後は必死で働いた。クライアントや相手の家族に侮辱されても、歯を食いしばって笑顔で耐え、「強くならなきゃ」と自分に言い聞かせてきた。
それなのに、日和がグループチャットで少し悪く言われただけで、翼はまるで世界の終わりのような顔をしている。おまけに日和を休職させ、その仕事まで私に押し付けるなんて。
何よりひどいのは、私が少し前に、働きすぎで胃の手術をしたばかりだと知っていることだ。まだ本調子じゃないのに、翼は私を少しも気遣わず、日和の代わりに会食に行けと言う。
事務所には男性弁護士だってたくさんいる。なのに、わざわざ手術したばかりの私に行かせようとするのだ。
要するに、私のことなんて都合のいい道具としか見てない。だから、私の体や気持ちなんてどうでもいいんだろう。
愛があるかないかで、ここまで態度が変わるなんて。本当にひどいダブルスタンダードだ。
我に返った私は、もう翼の言いなりにはならなかった。そして、冷たい声で、きっぱりと断った。
「翼、私は手術したばかりでお酒は飲めない。
それに、これは杉本さんの仕事だわ。私が代わりにやる義務はない」
その言葉に、電話の向こうは一瞬静まり返った。
いつも言いなりだった私が逆らうなんて、思ってもみなかったのだろう。翼はすぐに激怒した。
「凛菜、これは決定事項だ。相談してるんじゃない。
俺が君に給料を払ってるんだから、俺の命令に従う義務がある!」
でも、私はもう翼の言いなりにはならず、すぐに言い返してやった。
「なら、辞めるよ。
私も相談してるわけじゃなくて、これは決定事項よ!」
そう言うと、翼が何か言う前に、私は一方的に電話を切った。
調停は結局、不成立に終わった。そのまま訴訟に進み、離婚を認める判決が下りた瞬間、私はすぐに国際電話をかけた。
「イーサン先生、お話をお受けします」
第4話
「本当ですか?高橋先生、そう決心してくれて本当に嬉しいですよ!」
電話の向こうで、イーサンは少し訛りのある口調で興奮気味に言った。
私はただ、静かにうなずいただけだった。
イーサンは、私が以前に海外クライアントの国際訴訟を担当したとき、偶然知り合った相手側の弁護士だった。
あの時、私は被告側が提出した証拠に偽造の疑いがあることに気づいた。すぐに休廷を申し出て、そのことをイーサンに伝えたんだ。
私の指摘を受けても、イーサンは私が敵だからといって動機を疑わなかった。それどころか、真剣に依頼人の情報を調査し、実際に大量の証拠が偽造されていると突き止めてくれたんだ。そしてイーサンはすぐに弁護契約を打ち切り、自分と事務所の名誉を守った。
もし判決後に発覚していたら、イーサンの法律事務所は業界から追放されていただろうから。
それ以来、イーサンは私の人柄と鋭い洞察力を買ってくれた。何度も私を海外に誘って、彼の事務所にパートナーとして加わってほしいと言ってくれた。最低でも数百万ポンドの年俸は保証するとも言ってくれた。
でも、あの頃の私は翼が描いてみせた偽りの未来を信じきっていた。だから、イーサンの誘いもきっぱり断り、翼と一緒に家庭を築いていきたいと思っていたのだ。
イーサンはそれを聞いても怒らなかった。むしろ、「気が変わったら、いつでも歓迎します」と言って、彼のプライベートな連絡先を教えてくれたんだ。
今思えば、本当にバカな選択をしたものだ。
翼のために、輝かしい未来を諦めた。7年もの青春を捧げ、心も体もボロボロになるまで尽くしたのに。結局、事務所のパートナーどころか、妻という公の立場さえ手に入らなかった。
もう、自分の人生のために考え直すときだ。環境を変えて、ゼロからやり直そう。
イーサンとの電話を切ると、私はすぐにスマホから翼に退職届を出した。
でも、予想外のことが起きた。いつもは返信が遅くて、翌日になることさえある翼が、今回はすぐに退職届を承認したのだ。
私が驚いていると、スマホに通知が来た。翼がインスタを更新したのだ。
写真には、カラオケで日和と手をつなぐ翼が写っていた。彼は歌いながら、笑って日和にお菓子を食べさせてあげていた。
私は思わず、乾いた笑いを漏らした。どうりで、承認がやけに早いはずだ。日和とのデートで忙しかったんだから。
翼はいつも落ち着いていて、滅多にインスタを更新しない。私たちの結婚記念日や誕生日ですら、彼がお祝いの投稿をしたことは一度もなかった。
たまに仕事で事務所の写真を投稿することはあったけど、翼はいつも慎重に写真を選んだ。私の服の裾が少しでも写っていれば、わざわざ加工して消すほどだった。
まるで私が、翼にとって恥ずかしい存在みたいに、私との関係がバレるのを、彼は異常なほど恐れていたんだ。
なのに、さっきの投稿は一気に9枚もの写真がアップされていた。しかもコメント欄では、日和が堂々といちゃついていた。
【お腹の赤ちゃんに歌を聴かせてあげたいな、って言ったら、夫が一件で数百万になる仕事をキャンセルしてくれたの。一緒にカラオケに来てくれるなんて、こんな素敵な人、他にはいないよね】
写真の中で得意げに笑う日和を見て、私は冷たい笑みを浮かべた。
さっき翼は、日和が体調を崩して仕事に行けないほど落ち込んでるって言っていたのに。写真の中の彼女は、どう見ても元気そうだった。
それに、翼が一番嫌いな場所はカラオケだったはず。
彼の父親が、のちに母親を不幸のどん底に突き落とした水商売の女と出会ったのが、カラオケだったから。
だから翼は、もう何年も、ああいう場所には一度も足を踏み入れたことがなかった。
たとえ大事なクライアントに誘われても、絶対に断っていた。店の前まで行って引き返すこともあったくらい。仕事を一つ棒に振ってでも、そこには入りたくなかったんだ。
でも今は、日和を喜ばせるために、ためらいもなくその場に足を運んでいる。
どうやら、好きという気持ちってすごいみたい。人のトラウマさえ、乗り越えさせてしまうんだから。
しかも、翼は私がこの投稿を見るって分かっててやっている。日和がコメント欄で、わざと妻みたいに振る舞って私を挑発しているのも、止めようとしない。
分かってる。私が嫉妬して、自分から謝ってくるように仕向けてるんだ。
でも残念。翼の思い通りにはならない。
私は翼に連絡する代わりに、親友の内田梓(うちだ あずさ)に電話をかけた。
「梓、今日私のおごりで、あなたの大好きな、マッスルバーのイケメンに会いに行かない?」
第5話
深夜、店の個室。
梓は、楽しそうにスタッフの腹筋を触っていたが、ふと何かを思い出したようにスマホで時間を確認し、おずおずと私に尋ねてきた。
「凛菜、もう3時間近くも翼さんに連絡してないけど……平気なの?怒らないかな?」
梓の言いにくそうな様子に、私は思わず鼻で笑ってしまった。
翼と大学で付き合い始めたころ、彼にこう言われた。家庭の事情で、裏切りが何よりも怖いから、毎日どこで何をしてるか連絡して、安心させてほしいって。
翼の生い立ちが可哀想で、私はその通りにした。寮からスーパーに行くだけでも、必ず連絡してたんだ。
そうやって誠実に対応すれば、翼の傷ついた心も少しは癒えるんじゃないかって、そう思ってた。
でも、現実は違った。彼の疑い深さと支配欲はどんどんエスカレートしていった。特に入籍してからは、1時間おきに、何をしていても報告しろって言われるようになった。
次の日の予定も、どこで何をするか、どれくらい時間がかかるかまで、全部前の日に決めておかないといけなかった。
一度、急にお腹が痛くなってトイレに5分長くいただけで、大変なことになった。すぐに報告しなかったら、翼は私が嘘をついて裏切ってるんじゃないかって疑って。挙句の果てには、職場の監視カメラまでチェックした。
でも翼自身は、自分にはめちゃくちゃ甘かった。
どこで何をしようと、一切報告なんてしてこない。私がたまに「次は何するの?」って聞いただけでも、ものすごく怒るの。「俺の人生を支配するつもりか」とか「信頼してない証拠だ」とか言って。
本当にバカみたい。当時の私は、翼の心が傷つきすぎてるからだって、私の愛情や信頼が足りないからだって、本気で思い込んでた。
今になって思えば、ただ翼がおかしかっただけ。
私はグラスのワインを一気に煽り、吹っ切れたように言った。
「もうどうでもいいの。だって、翼とはもう離婚したから。
あとは、裁判の判決書を役所へ届出するだけだし。彼の機嫌を伺う義務なんて、もうないのよ」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、梓は夢じゃないかと自分の頬を思いっきりつねった。そして、痛みに顔を歪めながら、勢いよく私に抱きついてきた。
「よかった、凛菜!やっと目が覚めたのね!
正直、前からあの男にはムカついてたのよ!凛菜が彼の魔の手から逃れられたお祝いだもん、今日は私がおごるから!ほら、乾杯!
これで、やっと自由だ!」
梓とグラスを合わせた、まさにその瞬間。個室の入り口から、氷のように冷たい声が聞こえた。
「誰の魔の手から逃れるんだって?」
第6話
振り返ると、ドアの前に翼が立っていた。険しい顔で、私を睨みつけている。
私が黙っていると、翼は隣のスタッフを一瞥してから、歯を食いしばって問い詰めてきた。
「おい凛菜、聞いてるのか。1時間ごとに行動を報告しろって言っただろ。なんで連絡しないんだ?
後ろめたいことがあるんだろ。俺に隠れて他の男と会ってたから、何も言えないんじゃないのか?」
だけど私は、冷めた目で翼を一瞥しただけだった。
「私が誰と会おうと、あなたには関係ないよね?
こんなところで大きなお世話を焼くくらいなら、奥さんとカラオケにでも戻ったらどうかしら?」
その言葉に翼は一瞬言葉を詰まらせた。そして、不機嫌そうに眉をひそめた。
「また嫌味か?
日和とカラオケに行ったのは、彼女のご両親に見せるためだ。仲のいいフリをして、安心させるためだったんだ。
君のために、今日の仕事も付き合いも全部断って、家で君の大好物だった豚の角煮を作ってきたっていうのに。まったく、こっちの気も知らないで!」
そう言うと、翼は保温ジャーをテーブルに叩きつけた。
目の前には、湯気の立つ美味しそうな豚の角煮。それなのに、私はいきなり吐き気に襲われた。
また、これだ。
付き合い始めた頃は、翼の気持ちがこもっているようで、素直に嬉しかった。
でも、いつからか分かってしまった。これはただの、翼のワンパターンな手口だって。彼が日和のことで私に何か頼みたいとき、いつもこの料理でごまかそうとする。
胃の病気で手術したから、もう脂っこいものは食べられないのに。翼は手口を変えることすらしなかった。相変わらず、こってりと脂の浮いたこの料理を作り続けている。
はっと我に返り、私は冷たく言い放った。
「もう食事は済ませたから。こんなご馳走、杉本さんにでも食べさせてあげたら?」
でも翼は、私の不機嫌な声色に気づかなかった。いつものように機嫌が直ったと勘違いして、待ってたとばかりに口を開いた。
「そうか。それならいい。実は、頼みがあるんだ。明日、日和のご両親が家に来ることになってな。俺が日和と、将来生まれてくる子供の面倒をちゃんと見れるか、確かめに来るらしい。
君は前に育児書を色々読んでたよな。だから、どうすれば良い夫、良い父親になれるか教えてくれ。妊婦と赤ちゃんの世話の仕方も知りたいんだ。日和のご両親の前で、いいところを見せたいんだよ」
得意げに話す翼の顔を見ていると、胸がむかむかしてきた。
他の人は知らない。でも、翼は知っているはずだ。昔、育児書を読んでいた理由は、私も妊娠していたからだ。彼と一緒に、お腹の子を大事に育てたいと願っていたから。でも、私は流産してしまった。それ以来、このことは二人の間で決して触れてはいけない話題になったのに。
それなのに今、翼は私に聞くのだ。どうすれば日和の良い夫になれるのか。どうすれば良い父親になれるのか、と。
私は、即座に言い返した。
「翼。私は弁護士であって、あなたの家政婦じゃない。そんなことは、他の誰かに頼んで」
その言葉を聞いた翼は、信じられないというように目を見開いた。
これまでなら簡単に私の機嫌を取れた、あの豚の角煮が、全く効果がないなんて。想像もしていなかったのだろう。
翼はカッと顔を赤くして怒鳴ろうとした。だがその時、彼のスマホが鳴った。
電話の相手は、日和だった。
電話の向こうで日和が何を言ったのか。翼は私を怒鳴りつけるのも忘れ、振り返りもせずに慌てて個室を出て行ってしまった。
残された私は、梓と夜が明けるまで飲み続けた。
翌朝、ようやく酔いが覚めた私は、荷物をまとめるために家へ向かった。もう出ていくつもりだった。
しかし、家の庭に入った瞬間、目の前の光景に言葉を失った。
第7話
この郊外にある邸宅は、翼の法律事務所の経営が軌道に乗り始めた頃に、わざわざ私のために選んでくれた家だった。庭で花や果物を育てたいという、私のささやかな願いを叶えるために。
仕事で疲れて帰ってきても、庭で丹精込めて育てた花や果物がすくすく育っているのを見ると、疲れなんて吹き飛んでしまった。
果物が実る季節になると、私と翼は庭でのんびりドラマを見ながら、もぎたての果物を頬張る。二人にとって、かけがえのない幸せな時間だった。
でも今は、熟したばかりのいちごが業者によって根こそぎ引き抜かれ、無残にも踏み潰されていた。家庭菜園だった場所は更地にされ、そこには新しくハンギングチェアが置かれていた。
2年前に私が植えたばかりの木も、根元から切り倒されていた。そして、薪のようにバラバラにされて、トラックで運び去られてしまった。
それだけじゃない。飾りとして植えていた蘭もすべて引き抜かれ、代わりに華やかな薔薇が植えられていた。
私は思わず業者に詰め寄ったけれど、これはすべて翼の指示だと聞かされた。
翼は日和とその両親に気に入られようと、私の痕跡をすべて消し去り、日和の好みに合わせて庭をめちゃくちゃにしたのだ。
翼、なんて残酷な人なの。
我に返った私は、もう業者を止めることはせず、まっすぐ家の中に入った。一刻も早く荷物をまとめて、ここから出て行きたかった。
けれど、クローゼットの中を探っていると、何かが突然、床に落ちた。
音がした方を見ると、それは翼と結婚したときに買った、結婚指輪だった。
あの頃、翼は法律事務所を立ち上げたばかりだった。事務所を維持するだけで貯金は底をつき、結婚式の費用すら用意できなかった。もちろん、盛大な式なんて夢のまた夢だった。
だから、私たちはお金を節約するために、ただ籍を入れただけだった。その後は事務所に住み込み、毎日カップラーメンを食べるか、接待の席でなんとか食事を済ませる日々。年末になっても、暖かいダウンジャケット一枚買うお金すらなかった。
そんな私を見て、当時の翼はひどく自分を責めていた。私のためにプライドを捨て、かつてはライバルだった相手に頭を下げにいったことさえあった。お酒の力を借りて、仕事を回してほしいと土下座までしたのだ。
あの日のことは、今でも覚えている。翼は泥酔して帰ってきた。シャツにはタバコの火で穴が空いていて、顔には平手打ちの跡まで残っていた。
でも翼はそんなこと気にもせず、笑ってダイヤモンドの指輪を私に差し出した。「償いのプレゼントだ」と。そう言ったあと、トイレに駆け込んで、一晩中便器を抱えて吐き続けていた。
あの日からだった。この人は心の底から私を愛してくれているんだって、そう確信した。だから、翼の支えになって、一緒に頑張っていこうと心に決めたんだ。
でも結局、翼がプライドと引き換えに手に入れてくれたこの指輪を、私が外につけていく機会は一度もなかった。
私たちの関係も、とっくにボロボロ。あの頃の面影はどこにもない。
我に返った私は、ダイヤモンドの指輪を最後にもう一度だけ見つめ、ためらうことなくゴミ箱に投げ捨てた。そして、再び荷造りを始めた。
でも、笑ってしまう。
こんなに広い寝室で半日かけて荷造りしたのに、スーツケース一つさえ満タンにならなかったのだから。
まるで、私と翼の結婚生活みたい。名前だけの、中身は空っぽな関係。
フッと自嘲の笑みが漏れ、スーツケースを引いて、家を出ようとした。
でも、部屋の角を曲がろうとした時、ハイヒールのヒールが突然折れてしまった。私はバランスを崩し、棚に激しく体をぶつけてしまった。
次の瞬間、棚から黒っぽい木箱が床に落ちた。
それは、翼が何よりも大切にしている物だった。中には、亡くなった母親の形見が入っていると聞いていた。
私の顔からサッと血の気が引いた。
翼はこの箱を、誰にも触らせなかった。もちろん、誰かの前で開けたことなんて一度もない。ご丁寧に、ダイヤル式の鍵までつけていたのに。
それなのに、今の衝撃で箱が壊れてしまい、中身が露わになってしまった。
けれど、その中身を一目見た瞬間、私はその場に凍りついてしまった。
第8話
箱の中には、貴重な骨董品や、翼の母親の形見が入っているわけではなかった。
その代わり、見たこともない女性と翼が一緒に写っている写真で、箱はいっぱいになっていた。
それは彼が高校生の頃の写真だった。遊園地ではしゃぐ二人、学校の制服姿、ショッピングモールでデートしている様子。いろいろな写真があった。
どの写真の裏にも、翼の字で何か書き込みがしてあった。
【4月10日。岡本佳奈(おかもと かな)という女の子と知り合った。胸のドキドキが止まらない。これが恋ってやつなのかな?】
【5月6日。ついに佳奈ちゃんの連絡先を交換できた。あああ、なんてメッセージを送ればいいんだ……すごく迷う】
【7月16日。待ちに待った夏休み。今日は佳奈ちゃんと初めての遊園地デート。佳奈ちゃんは本当にきれいだった……】
【12月10日。佳奈ちゃんがずっと学校に来ない。クラスのみんなは、事故に遭って車に轢かれたって言うけど……そんなの、信じられるわけない!】
【12月16日。今日、佳奈ちゃんのお葬式があった】
【3月21日。裁判の判決が出た。犯人は大物の弁護士を雇ったらしく、刑事責任は問われず、1日も刑務所に入らずに済んだらしい……】
【4月5日。佳奈ちゃん、待っていて。俺が弁護士になって、佳奈ちゃんのために必ず真実を明らかにするから……】
そこまで読んでから、もう一度写真に目をやった。写真の中の佳奈は、私にも、そして日和にも、どこか似ている。その瞬間、すべてを悟ってしまった。
そういうことだったのか。私と日和は、佳奈という女性の、ただの替え玉に過ぎなかったのだ。
翼は私と日和の中に、ただ佳奈の面影を追い求めていただけ。翼が弁護士になったのだって、すべては佳奈のためだったのだ。
どうりで、この箱を長年大事に隠して、誰にも触らせようとしなかったわけだ。
でも、翼の過去の感傷に、どうして私の大切な時間と人生が犠牲にされなくちゃいけないの?
私はハッとして、箱を棚に戻した。そして、もう二度と振り返らずにその部屋を後にした。
この家には、もう私にとって惜しむべきものは何一つ残っていなかった。
旅立つ前に、梓が「どうしても、もう一度だけ一緒にご飯を食べたい」と言い、飛行機の時間は夜だったから、私はその誘いを断らず、タクシーでレストランへ向かった。
でも、タクシーを降りたところで、隣の写真館にいる翼の姿が目に入ってしまった。
隣には、日和とその両親も一緒で、4人はまるで本当の家族みたい。カメラマンに言われるがまま、幸せそうに微笑みながら、新婚の記念写真を撮っていた。
なんて皮肉なんだろう。翼と結婚して7年になるけど、彼は一度だって私と一緒に写真を撮ってくれたことなんてなかったのに。
私の母が亡くなる直前、「最後にみんなで家族写真を撮りたい」とお願いした時でさえ、無情で断った。母は、きっと心残りに思っていたはずだ。
私は鼻で笑い、その場を立ち去ろうとした。でも次の瞬間、翼とばっちり目が合ってしまった。
すると、日和の肩に回された彼の手が、ぴくりと震えるのが見えた。
その様子に気づいた日和も、私の方を見た。彼女は挑発するようにニヤリと笑うと、写真館から出てきて、今にも泣き出しそうな顔を作って、悲しそうに言った。
「高橋先生、私のことが嫌いなのは分かります。でも、私はみんなに後ろ指をさされず、ただ普通に生きたいだけなんです。だから、わざわざ尾行までして、うちの親に告げ口する必要はないんじゃないですか?」
その言葉を聞くと、翼は見るからに不機嫌な顔になり、私の腕を掴んで脇へと引っ張っていった。そして、こう問い詰めてきた。
「凛菜、結婚して7年にもなるのに、君がこんなに根性の悪い女だったとはな!
日和はか弱く、ただ、まっとうに生きたいだけなのに、それの何が悪いんだ。君はそんな彼女の人生を、めちゃくちゃにしないと気が済まないのか?」
善悪の区別もつかない翼の様子に、私の心はもう何も感じなかった。私は日和の方に向き直ると、思いきり平手打ちを食らわせた。
「今日は友達に会いに来ただけ。あなたたちのゴタゴタに口を出すつもりはない。でも、これ以上ありもしないことで騒ぎ立てるなら、私が全部ぶちまけても文句は言えないからね!」
そう言うと、私は日和の方をもう見るのも嫌で、その場を去ろうとした。
でも翼は、慌てて日和を抱きかかえ、心底心配そうな顔を向けた。そして、私の腕を強く掴むと、冷たい声で脅してきた。
「凛菜!よくも日和に手をあげたな!
今すぐ、謝れ。さもないと……事務所をクビにする。この業界で二度と働けないように、干してやるからな!」
翼の脅しを聞いても、私はただ冷ややかに笑うだけ。そして、退職証明書を、彼の顔に叩きつけた。
「あいにく、もうとっくに辞めてるの。
私を業界から干すって?さすがは敏腕弁護士の渡辺先生ね。できるもんなら、やってみればいいじゃない!」