情は深くとも、初恋には敵わない

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情は深くとも、初恋には敵わない

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年明け、夫の賀川明輝(かがわ はるき)の教え子たちがわざわざ学校へ遊びに来て、彼が食事をご馳走することになった。 学生たちは口々に「先...

Chương (1)

第1章

年明け、夫の賀川明輝(かがわ はるき)の教え子たちがわざわざ学校へ遊びに来て、彼が食事をご馳走することになった。 学生たちは口々に「先生」「奥さん」と親しげに呼んできた。 ただ、初めて私を見た時の視線にはどこか驚きの色が混じっていた。 個室で明輝が私の手を握ると、皆が一斉にひやかした。 「お二人、本当にラブラブですね。超羨ましいーー!」 私、桜庭柚月(さくらば ゆずき)は照れたようにうつむき、トイレに行くと言って席を立った。 すると、廊下で女子学生二人の話し声が聞こえてきた。 「さっきびっくりした!奥さんって水城澪(みずき みお)先輩かと思ったもん!」 「でも澪先輩にそっくりよね、入ってきた時、マジで見間違えるところだった」 私はその場に呆然と立ち尽くした。 澪が明輝の元カノだということは知っている。 けれど、実際に会ったことは一度もなかった。 冷たい水が手に当たるのを感じながら、鏡に映る念入りにメイクした自分を見つめていると、突然吐き気がこみ上げてきた。 第1話 年明け、夫の賀川明輝(かがわ はるき)の教え子たちがわざわざ学校へ遊びに来て、彼が食事をご馳走することになった。 学生たちは口々に「先生」「奥さん」と親しげに呼んできた。 ただ、初めて私を見た時の視線にはどこか驚きの色が混じっていた。 個室で明輝が私の手を握ると、皆が一斉にひやかした。 「お二人、本当にラブラブですね。超羨ましいーー!」 私、桜庭柚月(さくらば ゆずき)は照れたようにうつむき、トイレに行くと言って席を立った。 すると、廊下で女子学生二人の話し声が聞こえてきた。 「さっきびっくりした!奥さんって水城澪(みずき みお)先輩かと思ったもん!」 「でも澪先輩にそっくりよね、入ってきた時、マジで見間違えるところだった」 私はその場に呆然と立ち尽くした。 澪が明輝の元カノだということは知っている。 けれど、実際に会ったことは一度もなかった。 冷たい水が手に当たるのを感じながら、鏡に映る念入りにメイクした自分を見つめていると、突然吐き気がこみ上げてきた。 元の席に戻ると、学生たちはまだ飲んで騒いでいた。 明輝は、隣の男子学生の乾杯の言葉に、少し耳を傾けていた。 その横顔を見ていると、これまでのことが次々と頭に浮かんできた。 明輝は自分の意見をはっきり持つ人だ。 とくに私の服装やメイクに関しては。 付き合い始めてから今まで、私の服はほとんど彼が選んで買ってくれた。 私がミニマル系やスポーツ系を好んでいても、彼はいつも決まった様子の服ばかりを買ってくる。 フレンチ風のワンピースと、ニットのカーディガン。 差し色ひとつないカシミヤのコート。 それに、小ぶりで丸みのある真珠のアクセサリー。 今日も家を出る前、私は黒のツイードジャケットを着るつもりだった。 でも彼は眉をひそめ、今私が着ているこの白いワンピースを選んだ。 これまでは、ただ彼の好みの問題だと思っていた。 けれど、さっきの会話を聞くまでは、すべてが、どこかおかしく思えてきた。 ぞっとするほどに。 学生たちが私を見る表情は、あまりにも妙だった。 「奥さん」と呼ぶその声に、明らかに意味ありげな笑いが混じっていた。 …… 騒がしい個室に、チェロの低音が唐突に流れた。 BGMがインスト曲に切り替わった。 すると、女子学生の一人が思わず口にした。 「あれ、水城先輩が一番好きだった曲じゃない? 昔、研究室で毎日かけてたから、もう耳に焼きついてるよ」 その瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。 私は思わず明輝に目を向けた。 彼には、何ら変わったところはなかった。 でも彼は何事もなかったように、からあげを私の皿にのせて、やさしい声で言った。 「最近、食欲ないって言ってただろ。もう少し食べな」 私は笑って、うなずいた。 …… 数時間後、重い気持ちを抱えたまま、私はようやくその食事会をやり過ごした。 明輝が運転しながら、いつものようにカーオーディオをつけた。 空いた右手で少し冷えた私の手を握り、親指でそっと手の甲を撫でる。 「今日はあのやんちゃな連中の相手、疲れただろ」 彼の掌の温かさを感じながら、私は黙って窓の外を流れていく景色を見ていた。 一曲のポップスが終わり、次の曲に自動で切り替わる。 イントロが流れた瞬間、心臓がひやりと止まった気がした。 これって、さっきの食事会であの女子学生が言っていた、澪のいちばん好きな曲じゃない? モニターには明輝が「よく聴くプレイリスト」と表示されている。 曲が流れた瞬間、私の手を握る彼の指がぴくりと強ばった。 そして、慌てて画面を何度もタップし、すぐ別の曲へ切り替えた。 「あ……この前、同僚を送ったときにさ、適当に触られて……そのまま消し忘れてた」 強ばった顎を見つめながら、私はその嘘を指摘しなかった。 ただ、小さく「うん」と返した。 たった一曲。 たったひとつの、見え透いた言い訳。 それだけで、心の奥の温もりが、すっかり凍りついた。 第2話 翌日は週末だった。 けれど明輝は大学のプロジェクトで休日出勤になり、朝早くから出かけていった。 私は一人で家に残された。 当初は彼の通勤が少しでも楽になればと思って、この家を買うことに決めた。 部屋はどこを見ても、いかにも女の子が好きそうな雰囲気でまとめられている。 でも私は、そんな甘い女の子らしさが、あまり好きじゃなかった。 内装を決めるときも、明輝は何度も何度も言った。 こういうほうが、家らしくてあたたかいだろうって。 私は彼が好きだったから、全部受け入れた。 今になって思う。 こういうものが本当に好きだったのは、私じゃなくて、別の誰かだったのかもしれない。 私は、澪みたいな服を着て、澪が好きそうな部屋に住み、澪の好きな曲を聴いているのだ。 私はソファに長いこと座ったままだった。 気がつけば日が傾き、部屋の中は薄暗くなっていた。 涙はもう乾いていた。 そのかわり、心は不思議なくらい静かだった。 私はスマホを手に取り、支社の責任者に電話をかけた。 「社長、前におっしゃっていた支社への異動枠、まだ空いていますか? 受けたいです。それと、会社で用意していただけるマンションにも入りたいです」 社長の松本さんは少し驚いたようだったが、すぐに了承してくれた。 「マンションはずっと空いてるよ。掃除と準備に三日くらいかかるから、三日後にそのまま出社してくれればいい」 「はい。ありがとうございます」 …… 夕方、明輝が帰ってきた。 手にはケーキの箱があった。 「今日、わざわざ並んで買ってきたんだ。お前の好きな栗のケーキ。 そうだ、もうすぐ俺の誕生日だろ。今年はどう祝ってくれる?」 私は視線を落とし、きれいに包装された箱を見つめた。 栗は好きじゃない。昔から、ずっと。 前に一度だけそう伝えたことがある。 でも彼は、たぶんすぐ忘れたのだろう。 そのあとも相変わらず、何度も栗のケーキを買ってきた。 私が無理して食べるのを見て、満足そうに笑っていた。 私は受け取らなかった。 期待に満ちた彼の顔を見て、淡々と聞いた。 「私のこと、好き?」 明輝は一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。 私の髪をくしゃりと撫でる。 「何言ってるんだよ。また変なこと考えて。 愛してるに決まってるだろ。お前じゃなきゃ、誰を愛すんだよ」 私はわずかに口元を引きつらせただけで、何も言わなかった。 ケーキはそのまま冷蔵庫に入れられた。 私が食べたかどうかなんて、明輝は気にもしていなかった。 彼はそのまま浴室へ入っていく。 私は書斎に向かった。 退職の引き継ぎに使う書類を探すためだった。 机の上には、明輝のノートパソコンが置かれていた。 画面はついたままで、LINEが開いていた。 別に、覗くつもりなんてなかった。 けれど、次々に表示される通知が、嫌でも目に入ってしまった。 グループ名は――水城先輩親衛隊。 【水城先輩、明日到着するって。ちょうど明後日の夜は賀川先生の誕生日だし、歓迎パーティーをやろう!】 【会場の飾りつけも終わったよ。全部、水城先輩が大好きな白いリシアンサス。絶対感動して泣くって!】 【でも、奥さんのほうはどうするの?】 【水城先輩の歓迎パーティーなんだから、別にいいじゃん】 最新のメッセージは、明輝からだった。 【あんたたち騒ぐな、彼女を驚かせないでくれ。俺少し遅れて行くから】 この「彼女」が、私でないことは言うまでもない。 さっき、明輝に「今年はどう祝ってくれる?」 そう聞かれたばかりだった。 胸の奥がじんと痛み、目がひどく熱くなった。 それでも、涙は一粒も出なかった。 サプライズは、もうとっくに用意されていた。 驚かせたい相手も、最初から決まっていた。 私はまるで部外者で、何かを準備する必要すらなかったのだ。 私は視線を逸らし、何も見なかったふりをして、静かに書斎を出た。 第3話 結局、明輝の誕生日には私も顔を出した。 会社が用意してくれる社宅はまだ整っていなかったし、支社へ行くことも彼に話すつもりはなかった。 離婚のことまで考えていた。 けれど、どう切り出せばいいのか分からなかった。 せめて最後に、もう一度だけ彼の誕生日を一緒に過ごそうと思った。 何年か夫婦として過ごした、その情けだと思えばいい。 今回は、自分の好きなように黒のロングワンピースを着た。 明輝はそれを見て、わずかに眉をひそめた。 「ゆず、なんでそれ着てるの? クローゼットに白いのがあっただろ、そっちじゃだめなの?」 また私の選択に口を出してきた。 「汚れちゃって、もう落ちないの」 明輝は私の言葉の含みに気づかず、時計をちらりと見て、急かすように言った。 「わかった、じゃあ早く行こう。学生たちを待たせたら悪い」 …… 学生たちが予約した個室に着き、扉を開けた瞬間、紙テープと歓声が一斉に飛んできた。 個室はやけにロマンチックに飾りつけられていて、白いリシアンサスが部屋いっぱいに並べられていた。 私はそっと明輝を見た。 彼の目の奥に、言いようのない色が一瞬よぎった。 直後、個室の反対側の扉が開いた。 白いワンピースをまとった、物腰の柔らかな女性が姿を現した。 私と同じ黒いストレートの長い髪に、私とよく似た小ぶりの真珠のピアスをつけていた。 その人は、澪だった。 やっぱり、「サプライズ」として現れたのだ。 「明輝、久しぶり。誕生日おめでとう。」 澪は柔らかく、控えめに微笑んでいた。明輝はその場で固まり、思わず私の手を離した。 「澪……いつ帰ってきたんだ?」 「昨日着いたばかり」 澪の視線が彼越しに、するりと私へ向けられた。 「桜庭さん、ですよね。明輝からよく聞いています」 私は軽くうなずき、愛想笑いを返した。 席に着くと、学生たちは「学生時代の思い出話」や「ゲーム」という口実で、当然のように明輝と澪を隣同士に座らせた。 二人は大学時代のエピソードを語り合い、研究室での徹夜を懐かしんでいた。 それは、私が決して入り込めない二人だけの過去だった。 輪の真ん中で、私の夫は初恋の相手と目を合わせて笑っていた。 そして、最初から最後まで、私のところに見ていなかった。 誕生日ケーキは、二段重ねのフォンダンケーキだった。 代表となる学生が最初の一切れを切り分け、澪に差し出した。 「はい!最初の一切れは絶対、水城先輩に!」 そのとき、誰かに後ろから押されたのだろう。 私の前にいた人のワイングラスが大きく傾いた。 赤ワインがこちらへ飛んできた。 見えていたから、反射的に身をかわそうとした。 でも、すぐ後ろには澪が立っていた。 明輝が素早く手を伸ばし、澪を自分の胸に引き寄せた。 その動きに巻き込まれ、私はよろけてテーブルに背中を打ちつけた。 残っていた半分のワインが、私にかかった。 赤い液体が髪の毛先からぽたぽたと垂れる。 一瞬で、私はひどくみっともない姿になった。 なのに。 「澪、大丈夫?かかってない?」 明輝は焦った様子で澪を確かめ、無事だと分かるとほっと息をついた。 そこでようやく、私の存在を思い出したように。 彼は振り返り、赤ワインに染まった私の蒼白な顔を見て、気まずそうに口を開いた。 「ゆず……ごめん。今ちょっと気づかなくて。大丈夫か?」 私はとても静かだった。 けれど、がっかりしていた。 ドレスは汚れた。 そして、さっき彼が見せた本能的な動きが教えてくれた。 私たちの関係は、こんなにも濁りきっていたのだと。 騙され続け、それでも幸せだと信じていた愚かな妻。 自分にも相手にも嘘をつく卑怯な夫。 「大丈夫」 私は立ち上がり、明輝の横を通り過ぎた。 唇の端にかすかな笑みを浮かべている澪の横も通り過ぎた。 学生たちは面白そうにこちらを見ているだけだった。 私はお手洗いへ向かい、ワインの染みを少しずつ洗い流そうとした。 水が肌を打ち、冷たくて、骨まで沁みた。 三年間の馬鹿げた夢が、ようやく終わろうとしていた。 そのとき、支社の松本さんからメッセージが届いた。 【桜庭さん、マンションの準備が早めに整った。明日からいつでも入居できるよ】 私はスマホを手に取り、文字を打った。 【はい】 第4話 明輝は昨夜飲みすぎて、家に戻るとそのまま倒れ込むように眠った。 翌朝七時半、市立中央病院から突然電話がかかってきた。 「桜庭様、先月ご予約いただいた乳腺の低侵襲手術が、本日午前十時のご案内となっております。 ご来院はお時間通りに可能でしょうか?」 あ、そうだ。手術の予約があったんだ。 最近いろいろありすぎて、手術のことをすっかり忘れていた。 良性の線維腺腫の低侵襲切除手術。 小さな手術だけど、腫瘍の位置がかなり厄介だ。 そのため医師には、早めの切除を勧められていた。 でも今の私には、一刻も早く荷物をまとめて出ていくことしか頭になかった。 「申し訳ありません。今日は急用が入ってしまって。キャンセルか延期はできますか?」 相手は困ったように言った。 「こちらの専門医の予約はなかなか取れない状況でして。 本日キャンセルされますと、次のご案内は三ヶ月以上先になってしまう可能性がございます」 ちょうどそのとき、明輝が眉間を揉みながら寝室から出てきた。 どうやら、電話の会話を聞いてしまったらしい。 眉をひそめながらも、声は穏やかだった。 「ゆず、そんなに予約の取れない手術をキャンセルするなんてだめだよ。 体が一番大事だ。今日は大学の仕事は全部断って、ずっと付き添うから」 私は顔を上げた。 彼の目に浮かぶ心配は、とても本物に見えた。 「……わかった」 ぼんやりと頷いた。 手術には家族の付き添いが必要だったが、急に頼める人も思い浮かばなかった。 午前九時。 病院へ向かうために家を出ようとしたときだった。 明輝が車のキーを手に取った瞬間、スマホが鳴った。 電話に出ると、彼の顔色が変わった。 「え?どの道路だ?」 「……わかった、今すぐ行く!」 電話を切り、明輝は焦りと申し訳なさの滲んだ顔で私を見た。 「澪が交通事故に遭って。怪我はないんだけど、パニック障害が出てしまって、今、路肩でひどく泣き崩れてるらしくて…… ちょっとだけ様子を見てくる。すぐ病院に向かうから、待ってていいか?」 手が震えるほど、澪のことを心配していた。 私は静かに、彼の手を払った。 「うん、大丈夫。行って」 「ありがとう。本当に助かる。すぐ行くから」 そして振り返りもせず、玄関を飛び出して行った。 私はその場に立ったまま、閉まったドアを見つめ、ふっと笑った。 一人でタクシーを呼び、病院へ向かった。 手術の同意書を渡されたとき、医師は私の後ろのがらんとした廊下をちらりと見た。 そして言った。 「ご家族は来ていないんですか? 低侵襲とはいえ、術後は付き添いがいた方がいいんですが」 「夫は亡くなりました。一人で大丈夫です」 医師は一瞬言葉に詰まり、同情するような目で私を見たが、それ以上は何も言わなかった。 手術は四十分ほどで終わった。 その間、明輝からメッセージが届いていた。 【ゆず、澪がまだ落ち着かなくて。病院に着くの、少し遅くなりそう】 手術が終わり、じんじんと痛む傷口を押さえながら、私は返信した。 【もう来なくていい】 そして、明輝のすべてのSNSアカウントをブロックした。 少し休んでから、私は家に戻り、荷物をすべてまとめた。 出ていく前に、左手の薬指からダイヤの結婚指輪を外す。 そして、すでに私の名前を署名してある離婚届を、リビングのテーブルの真ん中に置いた。 スーツケースを引きながら、私は一度も振り返らずに、この家を出た。 夜十一時。 澪をようやく落ち着かせた明輝が、罪悪感を抱えたまま家のドアを開けた。 「ただいま。今日は本当にごめん……ゆず?」 返事はなかった。 リビングの電気をつけた瞬間、彼の視線はローテーブルの上で止まった。 離婚届と、外された結婚指輪。 それを目にした瞬間、明輝の心臓がぎゅっと締め付けられた。 慌てて私に電話をかける。 だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、感情のない機械音声だった。 「おかけになった電話番号は……」