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捧げた想いは、届かなくて
誕生日当日。 六年付き合った恋人、柏木恒一(かしわぎ こういち)は、私にプロポーズするはずだった。 だが現場に駆けつけた私が目にしたのは...
Chương (1)
第1章
誕生日当日。
六年付き合った恋人、柏木恒一(かしわぎ こういち)は、私にプロポーズするはずだった。
だが現場に駆けつけた私が目にしたのは、本来なら私のために用意されていたはずの指輪を、別の女に差し出す彼の姿だった。
恒一は、悪びれる様子もなく淡々と言った。
「恩師の奥様が不治の病なんだ。最期を迎える前に、優月(ゆづき)の花嫁姿を見たいそうなんだ。いい子で待っていてくれ。長くても三か月だ」
――その一か月後。
私は栄都市随一の富豪と盛大な結婚式を挙げた。
式場に駆け込んできた恒一は、息を切らして復縁を懇願した。私は薬指に輝く十カラットのダイヤをひらりと掲げ、微笑んだ。
「悪いけれど恒一。私、もうあなたに割く時間はないの。どうぞ大人しく列に並んでちょうだい。来世なら、まだチャンスがあるかもしれないわよ」
第1話
今日は二十八歳の誕生日。私・高梨美咲(たかなし みさき)と柏木恒一(かしわぎ こういち)は、付き合って六年になる。
そして彼は、ようやくこの特別な日に、私へプロポーズしてくれるはずだった。
「キスして、キスして!」
華やかで上品なイブニングドレスに身を包み、会場の扉の前まで来た私は、中から響いてくる囃し立てる声に足を止めた。
主役の私がまだ来ていないのに、いったい誰と誰がキスをするというの?
そう思いながら扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、恒一が小林優月(こばやし ゆづき)を抱き寄せ、深く唇を重ねている姿だった。
優月の指にはめられたダイヤの指輪が、灯りを受けて目に痛いほどの輝きを放っている。それは、恒一が私に贈ると約束していた婚約指輪だった。
私が現れたことで、さっきまで熱気に満ちていた場の空気は、一瞬で冷えきった。恒一は平然とした顔で優月から身を離し、私のもとへ歩み寄ってきた。
「先生の奥様が不治の病なんだ。最期を迎える前に、優月の花嫁姿を見たいと望んでいるようで、優月に頼まれたんだ。先生の奥様の願いをかなえてほしいって。全部、芝居だよ。演技に決まってるだろ」
私は彼を見つめたまま、問い返した。
「唇まで重ねておいて、それも芝居だっていうの?」
恒一は背後にちらりと目をやり、悪びれもせず言った。
「先生の奥様が見ているんだ。なら、ちゃんと本物らしく見せないといけないだろ。いい子で帰って待っていてくれ。三か月あれば十分だ」
そのとき、周囲からひそひそと声が上がるのが聞こえた。
「この女、なんでこんなに気合い入れて来てるの?知らない人が見たら、まるで自分が柏木教授の恋人みたいじゃない」
「ほんとよ。こういう女に限って出しゃばるのよね。自分の立場もわきまえないで」
「柏木教授と小林さんこそ、お似合いの二人じゃない。片や小林教授の一番弟子、片や実の娘なんだから」
「そうそう。小林教授は彼をずいぶん可愛がっていたそうよ。生前も、ずっと力になっていたって聞いたわ」
恩に報いるにしても、恒一のやり方はずいぶん行き過ぎている。結婚まで引き受けるなんて。
彼にとって、小林家はやはり特別な存在なのだろう。
「そう。三か月じゃ足りないわね。いっそ、一生仲良くしていればいいじゃない」
唇の端をわずかに吊り上げ、私はそのまま背を向けた。
「美咲、そんなふうに言うな……」
恒一が私を引き止めようと手を伸ばしかけた、そのとき。背後で、優月の悲鳴のような声が上がった。
「お母さん、お母さん、どうしたの!」
騒然とする物音を背に、私は一度も振り返ることなく、その場をあとにした。
第2話
私はタクシーで、恒一と暮らすはずだった新居へ戻った。道中ずっとこらえていた涙は、玄関の扉を開けた瞬間、堰を切ったようにあふれ出した。
耳の奥によみがえったのは、恒一が初めて私をここへ連れてきた日の言葉だった。
「美咲、鍵も通帳も、これからは全部君に預ける。この家のことは、これから先ずっと君が決めていい。どんな雰囲気にするかも、どんな家具を置くかも、全部好きにしていい。君が喜んでくれるなら、それでいいんだ」
けれど今、私が心を尽くして整えたこの部屋を見渡すと、何もかもが滑稽に思えた。私は結局、誰かのために嫁入り支度をしていたようなものだ。
六年のあいだ注いできた想いも、待ち続けた時間も、返ってきたのはこんな結末だった。
涙を拭い、私は手早く荷物をまとめた。ちょうど玄関を出ようとしたときだった。
扉が開き、恒一が入ってくる。その後ろには、優月の姿もあった。
「美咲、何をしてるんだ?」
私は顔を上げ、淡々と答えた。
「別れたんでしょう?だったら、出ていくしかないじゃない。小林さんに場所を空けてあげないと」
すると恒一は私の腕をつかみ、そのままベランダへ引っ張っていった。そして、気が気でないといった顔で私を見つめた。
「さっき、ちゃんと説明しただろう?優月だって、今日になって急に俺を訪ねてきたんだ。俺もあの人たちとは、ずっと連絡を取っていなかった。
小林教授には、本当に世話になったんだ。今はもう、奥様に残された時間が少ない。心残りを抱えたまま逝かせるなんて、そんなことできるわけがないだろう。なあ、美咲。頼むから、これ以上騒がないでくれ」
小林家が彼を助けてきた。そんなこと、私だってわかっている。
でも、彼を支えてきたのは小林家だけではない。身の回りの世話をし、生活を支え、彼が二年間海外へ留学しているあいだも、私は必死に働いてお金を工面した。
それすら彼には、当たり前のことに思えているのだろうか。しかも、彼がその留学の機会を手に入れられたのも、もとはといえば私が奔走したからだった。
ただ、それを口にしなかっただけだ。感謝を盾にして、二人の関係をつなぎとめたくはなかったから。
私が黙っていると、恒一は手を伸ばし、私の髪に触れようとした。以前なら、私が少し意地を張ったとき、彼がこうしてくれさえすれば、それだけで機嫌を直していた。
けれど今回は、私は身を引いてそれを避けた。
「私、茶番に付き合う気はないの。今回は本気よ。それともあなたは、三人でひとつのベッドにでも寝るつもり?」
恒一の表情がわずかに変わる。そのとき、ちょうど彼のスマホが鳴った。
私は玄関へ向かい、キャリーケースを引いて外へ出ようとした。すると背後から、優月の声が追いかけてきた。
「美咲さん、本当に出ていかなくていいんですよ。恒一さん、結婚したら私の家で暮らすって約束してくれてますから。それに私、誰かが住んでいた家って、なんだか落ち着かないんです」
なるほど。恒一は婿入りするつもりなのか。
私は振り返り、ふっと笑った。
「ずいぶん都合がいいのね。誰かの手垢がついた男は平気で欲しがるのに、家は嫌なの?」
第3話
優月は私に言い返され、たちまち顔を真っ赤にした。
「美咲さん、そんな言い方、あんまりです。私だって、こうするしかなかったのは……お母さんのためで……」
「どうした?」
そこへ恒一が駆け寄ってきた。目を潤ませた優月が、大げさに言いつのるように自分へ訴えるのを見るなり、恒一は冷たい目を私へ向けた。
「美咲、どうして優月を責めるんだ?彼女こそ、本当の被害者じゃないか」
私に何があったのか、一言も確かめようともしないまま、彼は優月をかばった。
――これが、私が六年も愛してきた男なの?あれほど私を信じてくれていた彼は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
もう、彼の心は私にはない。優月が被害者だというのなら、私は何なのだろう。
どうしてこんな理不尽な扱いを受けなければならないのか。私は小さく息を吸い込んだ。
これ以上、彼と言い争う気にはなれない。深い失望を抱えたまま、私は背を向けた。
「美咲、どうしてそこまで意地を張るんだ?じゃあ、しばらくは親友のところにでもいればいい。頭を冷やしたら戻ってこい」
私の決意の固さを見て取ったのか、今度の恒一は引き止めようとはしなかった。
「恒一さん、美咲さんが本当に怒って帰ってこなくなったりしない?」
「まさか。何日かすれば、あいつのほうから戻ってくるさ」
私はこれまで、恒一の前ではずっと聞き分けがよく、物分かりのいい女でいた。明るくて、大らかで、彼を困らせない恋人であろうとしてきた。
ただ一度だけ、本気で腹を立てたことがあったが、それでも親友の家に一晩泊まっただけで、翌日には、恒一がちゃんと自分の面倒を見られないのではないかと気になって、自分から帰ってしまった。
それに、この家には私の時間も思い出も、あまりにも多く注ぎ込まれている。だから彼は、私が手放せるはずがない、必ず戻ってくると高をくくっているのだ。
けれど、彼は何ひとつわかっていなかった。これまで彼の前で素直で従順でいたのは、ただ彼を愛していたから。
でも、もう違う。彼は私を欺いただけではない。別の女と結婚までした。
恒一の体に残っていた香水の匂いが、その何よりの証拠だった。マンションを出ると、ちょうど兄が高級車で迎えに来たところだった。
「高梨家のお嬢様、ようやく遊びは終わったか?やっと家に帰る気になったんだな」
その声を聞いた瞬間、目の奥がじわりと熱くなる。
「兄さん、からかわないでよ。ただ少し、人の情けの薄さってものを思い知っただけよ」
兄は私の顔を見るなり、胸を痛めたように顔をしかめ、あのろくでなしを懲らしめてやると言った。
けれど私は首を横に振り、住む場所だけ手配してほしいと頼んだ。それ以外は、自分で片をつけるつもりだった。
翌日、私は記者の仕事を辞め、高梨グループへ戻って働き始めた。
失恋で私がひどく落ち込んでいると思ったのだろう。兄は気を遣って、ラヴィーナ島への豪華旅行まで用意してくれた。けれど私は、人に付きまとわれるのが好きではない。
わざと隙を作って、護衛たちをまいた。それからバーに入り、ひとりで赤ワインを一本頼んだ。
親友から電話がかかってきたのは、そのときだった。
優月がSNSで恒一との結婚写真をこれ見よがしに投稿している、と彼女は言った。いったいどういうことなのか、と。
私は酔いにまかせて、これまでの経緯をすべて打ち明けた。
「はあ?彼最低すぎるでしょ!なんでそんなこと、あんたにできるのよ!結婚を何だと思ってるの?子どものままごとじゃあるまいし、結婚したい時だけして、嫌になったら終わりなんて通るわけないでしょ!」
「私が見る目なかっただけよ。相手を見誤ったの」
私はグラスを持ち上げ、目の前の赤ワインをまた一気に飲み干した。
「美咲、あんたが六年もかけて大事にしてきた恋なのに、本当にこのままで終わらせるつもりなの?」
親友は悔しそうに、そして心底いたわるようにそう言った。
第4話
「まさか、このままで終わらせるわけないでしょう?
今の私は、もう恒一の知っている高梨美咲じゃない。御影(みかげ)市の名家、高梨家の令嬢なのよ」
「わかった。何か手伝えることがあれば、ひと言ちょうだい」
彼女は病院で働いている。私は優月の母親の病状が本当なのか、調べてほしいと頼んだ。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。私はふらつく頭のまま立ち上がり、外へ向かった。
だが、廊下で足元がもつれ、よろけた拍子にひとりの男の胸へぶつかってしまう。
「ごめんなさい……あつ」
慌てて顔を上げると、整った目鼻立ちの男が目に入った。
――うそ。今どきのホストって、こんなに格好いいの?
顔立ちがいいだけじゃない。この体つきも、この雰囲気も、文句のつけようがない。
ここ数年、自分を閉じ込めすぎていたのかもしれない。ほんの狭い世界しか見えていなかったのだ。
私は手を上げ、彼の頬から胸元へと指先を滑らせ、軽くつつく。そして、英語で話しかけてみた。
「ねえ、イケメン。一晩いくら?あなたを一晩、買いたいの」
「二十万だ」
男は深い眼差しのまま答えた。
「いいわ。二十万で」
そう言うなり、私は彼の首に腕を回し、その唇へ顔を寄せた。男は私の腰を抱き寄せ、そのキスをさらに深くした。
翌朝、目を覚ますと、隣には見知らぬ男が寝ていた。驚いて、ベッドから転げ落ちそうになる。
昨夜の記憶が、途切れ途切れによみがえってきた。
――嘘でしょ。完全に、酒の勢いでやらかしたじゃない。
私、まさか……ホストと寝てしまった……?
あまりにも無茶苦茶すぎる。だめ、早くここを出ないと。
昨夜、いくらで話をつけたのかも思い出せない。私は仕方なく、手持ちの現金を全部置いて、その場をあとにした。
ホテルに戻ると、すぐに護衛へ連絡し、帰国の便を手配させた。予定より早く帰ってきた私を見て、兄は驚いた顔をした。
理由を聞かれ、私はしどろもどろになりながら答える。
「ひとりで海外にいても、ちっとも楽しくなかったの。それに、もう気持ちの整理もついたし」
「それならよかった。うちの美咲は、見切りをつけるときは早いからな」
兄は笑いながら私を見て、こう続けた。
「ちょうどいい。実はじいちゃんがお前の見合いを決めていてな。明日はちゃんと身支度して行けよ」
――は?いくらなんでも、展開が早すぎない?
なんだか自分が、家族の仕掛けた罠に落ちたような気分になった。とはいえ、断る口実も見つからず、私はしぶしぶ見合いの場へ向かうことになった。
指定された店に着いてみると、なんとあの夜の「ホスト」がそこにいた。
……まさか。お金、足りなかった?どうしてここまで追ってきたの?
私はぎょっとして、とっさに顔を隠し、背を向けて逃げ出そうとした。だが、そのとき背後から男の声がした。
「高梨さん。お見合い相手にそんな態度を取るのは、さすがに失礼ではありませんか?」
お見合い相手?ということは――
この人が、榊原玲司(さかきばら れいじ)。
しまった。
私、この人をホストだと思い込んでいたうえに、寝てまでしまったんだ。それどころか、寝たあと金額も足りないまま、そのまま逃げたことになる。
「ど、どうして私だってわかったの……?」
私は振り返り、おずおずと尋ねた。玲司は唇の端をわずかに上げた。
「写真でわかりました。あなたのお祖父様からいただいていたので」
――なんだ、そういうこと。それを聞いて、私はようやく少しだけ胸をなで下ろした。
「っ……!」
私は彼の向かいに腰を下ろし、スマホを取ろうとした拍子に、額をうっかりテーブルの角へぶつけてしまった。
「どうしました?」
その様子を見た玲司は、慌ててこちらへ回り込み、怪我の具合を確かめようとする。
「大丈夫。ただ、ちょっとぶつけただけだから」
私は腕を上げ、反射的に彼の手を避けた。
「大丈夫なわけないでしょう。赤くなっています。動かないでください」
玲司は私の腕をそっとつかみ、身をかがめると、私の額にふうっと温かな息を吹きかけた。その瞬間、顔がかっと熱くなる。
こんなにも親密な仕草をされて、昨夜のことを思い出さないわけがなかった。そのとき、不意に店の入口に、恒一と優月の姿が並んで現れた。
恒一は一瞬目を見開き、次の瞬間には顔色を変えて、こちらへ早足で歩いてくる。
「やめろ!美咲、君たちは何をしているんだ?」