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深く愛した果てに、結末はあまりにも淡く
結婚も間近に迫っていたある日、江本清司(えもとせいじ)が招待状を手に私と招待客の名簿を確認していたとき、何の前触れもなく、こう言った...
Chương (1)
第1章
結婚も間近に迫っていたある日、江本清司(えもとせいじ)が招待状を手に私と招待客の名簿を確認していたとき、何の前触れもなく、こう言った。
「話がある。
俺、法律上はもう妻がいるんだ。
君さえ気にしないなら、招待状はそのまま出す。式も予定どおりやる」
彼は何でもないことのように煙草に火をつけ、気のない口調で言い添えた。
「昔、家に押しつけられたんだよ。受け入れた以上は、責任くらい取らないとな」
頭の中が真っ白になった。
しばらくして、ようやく声を絞り出した。
「じゃあ、この六年……私たちは何だったの?」
「俺が最低だったってことだ」
彼は灰を落としながら言った。
「で、これからどうするかは、君が決めろ」
下腹に添えていた手が、かすかに震えた。
そこには、今日こそ彼に伝えようと思っていたサプライズがあった……
第1話
結婚も間近に迫っていたある日、江本清司(えもとせいじ)が招待状を手に私と招待客の名簿を確認していたとき、何の前触れもなく、こう言った。
「話がある。
俺、法律上はもう妻がいるんだ。
君さえ気にしないなら、招待状はそのまま出す。式も予定どおりやる」
彼は何でもないことのように煙草に火をつけ、気のない口調で言い添えた。
「昔、家に押しつけられたんだよ。受け入れた以上は、責任くらい取らないとな」
頭の中が真っ白になった。
しばらくして、ようやく声を絞り出した。
「じゃあ、この六年……私たちは何だったの?」
「俺が最低だったってことだ」
彼は灰を落としながら言った。
「で、これからどうするかは、君が決めろ」
下腹に添えていた手が、かすかに震えた。
そこには、今日こそ彼に伝えようと思っていたサプライズがあった……
何の心構えもないまま突きつけられた真実は、真正面から私を打ちのめし、胸の奥をぎゅっと締めつけた。
「でも六年も、一度も言わなかったじゃない……」
彼はあまりにも誠実に振る舞っていたから、あの優しいぬくもりの裏に、もうひとつの人生が隠れているなんて、一度だって疑ったことはなかった。
清司は煙をひと息吐いた。
「言ったところで、どうなった?」
口元だけわずかに歪めたその笑みは、目の奥までは届いていなかった。
なのに、そこには妙な確信があった。
「由紀子、俺たちの間に、そんな形は必要ないだろ」
必要ない?
私は、まだ出していない招待状に目を落とした。
あのとき彼が結婚式をしたがらなかったのは、現実的だったからじゃなくて……
重婚だと世間に知れ渡るのを恐れていたから?
胃の中がひっくり返るようにむかつき、私は洗面所へ駆け込んでえずいた。
「そこまで大げさに反応することないだろ!」
清司もついてきて、そっと私の背中をさすった。
「君と知り合う前に、田舎の親戚がこっちへ寄こしてきた子なんだ。教養もないし、学ぶ気もない。実家で何年かうちの親の面倒を見て、去年こっちに呼んだ」
「都内に適当に住まわせてる」清司はそこで少し間を置いた。「月に一、二回会って、生活費を渡すくらいだ」
私は振り向いて、彼を見た。
そこには背筋を伸ばし、上質なスーツに身を包んだ清司が立っていた。
六年間、私が愛してきたそのままの姿だった。
けれど今は、その目ににじむわずかな冷たさが全身を凍えさせた。
「じゃあこの六年、実家に帰って親に会うって言ってたのは、ほんとは……」
「あの子に会いに行ってた」彼はあっさりと言った。「親も年だし、世話をする人間は必要だろ。あいつはそこそこやってる」
そこそこやってる。
笑いたかったのに、口元は重く沈んだままで持ち上がりもしなかった。
六年。二千日を超える昼と夜。
彼には、この関係を始末する時間も、機会も、いくらでもあった。
彼女を切ることもできたし、私を手放すことだってできた。
それなのに彼は、曖昧な立ち位置に居座ったまま、両方の平穏を当然みたいな顔で手にしていた。
また下腹に、かすかな痛みが走った。
私は反射的にそこを押さえた。
清司の視線が私の手に落ち、眉がわずかに寄った。
「顔色が悪い」彼は近づいてきて、私の額に手を伸ばした。
私はとっさに後ずさりし、背中を冷たいタイルにぶつけた。
「触らないで」
彼の手が宙で止まった。
そのとき、スマホが鳴った。
彼は画面を一瞥して、切った。
また鳴って、また切った。
三度目に鳴ったとき、彼は小さく舌打ちして電話に出た。
受話口の向こうから、細く途切れがちな泣き声が聞こえてきた。
「清司さん……お薬、飲みたくない……あなたが来てくれたら治るのに……」
清司は眉間を揉んだ。
「もういい、助手を行かせる」
通話を切ると、彼は私を見て、少しだけ口調を和らげた。
「あの子はずっと体が弱くて、何かと手がかかるんだ」
私は何も言わず、ただ彼を見ていた。
この六年、こんな場面は何度もあった。
彼の電話は、いつだってひっきりなしに鳴っていた。
そのたび私は聞き分けよく、「先に行って」と言ってきた。
深夜に慌ただしく出ていくときも、祝日に約束をすっぽかされるときも、そのいくつかは、もうひとりの「妻」に割かれていたのだ。
私は笑った。涙が頬を伝い落ちた。
「その人に会わせて」
「必要ない」彼は顔を曇らせた。
「必要ない?」私は招待客の名簿をつかんで床に叩きつけた。「六年よ!私の青春も期待も、全部あなたに注いだの!それで今さら私に選べって?何を?このまま愛人でいるかどうかを?!」
彼は床に散らばった紙を見つめた。
「誰も愛人なんかじゃない。黙っていたのは俺だし、君に未来をあげたいと思ったのも俺だ。君は誰に対しても悪くない。罪悪感なんて持たなくていい」
……ああ。
馬鹿げた冷たさが、じわじわと全身に広がった。
どこか責任感があるようにすら聞こえるその言い分が、たまらなく吐き気を誘った。
「神田由紀子(かんだゆきこ)、君への気持ちは本物だ」
「じゃあ、あの子には?」私は問い詰めた。
彼は長いこと黙っていた。
そして最後に言った。
「ただの責任だ」
責任。
たった二文字の、あまりにも軽い言葉だった。
それなのに、六年間抱いてきた私の信じるものを、きれいに打ち砕くには十分だった。
またスマホが震えた。今度は私のものだった。
スピーカーから流れた声が、静まり返った部屋にひどく鮮明に響いた。
「由紀子、招待状はもう全部出したわよ!親戚みんな、清司は頼もしいって、あなたは幸せ者だって言ってたわ!」
第2話
弾んだその声が、神経の先まで鋭く突き刺さった。
私は泣きそうになるのを必死にこらえて答えた。
「お母さん、ちょっと今取り込んでるの。先に切るね!」
通話を切ると、男の残酷なほど冷静な声が響いた。
「招待状はもう出した。ホテルも押さえた。ウェディングフォトも撮った」彼は少し間を置いてから言った。「君が望んだ形は、全部用意した」
私は顔を上げて彼を見た。
「何が言いたいの?それで私を縛って、このまま何も知らないふりでもして、三人でやる結婚式を最後まで演じろって?」
「縛ってなんかいない」彼は窓辺まで歩いていき、私に背を向けた。「言っただろう、続けるかどうかは君が選べるって」
「ただ、ちゃんと考えたほうがいい。この六年の気持ちも、二人で思い描いてきた未来も、それに君のお母さんや親戚や友人たちの期待も……たった形だけの契約があるってだけで、全部捨てる価値があるのかどうか」
形だけの契約……
私は泣き笑いみたいになりそうだった。
「あの女は人間なのよ、清司。生きてるの。しかも、法律が認めたあなたの妻なの!ただの紙切れの問題じゃない!」
彼は振り返ったが、顔にはほとんど何の感情も浮かんでいなかった。
まるで私が、どうでもいい細部にしつこくこだわっているだけみたいに。
「じゃあ、君はどうしてほしいんだ?」彼は言った。「今すぐ俺が戻って、彼女に離婚を切り出せばいいのか?」
私は言葉に詰まった。
心臓が胸の中でぶつかるように痛んだ。
「じゃああなたの言いたいことは……あの人が生きている限り、私はずっと表には出せない存在のままってこと?
たとえ私たちが式を挙げて、誰の目にも夫婦に見えたとしても、私はずっと陰で生きていくしかないの?毎月あなたが時間を作って『責任を果たしに行く』のを待ちながら?」
清司は黙って私を見つめていた。長い沈黙のあと、ようやくゆっくり息を吐いた。
「君は考えすぎだ。俺は一度だって、君を人目にさらせないような立場に置いたつもりはない。
式を挙げれば、君は名実ともに俺の妻だ。俺の子どもを産むのも、君だけだ。
あの子が俺たちの交友関係に入ってくることはないし、君の生活に影響することもない。君たちが顔を合わせる必要もない」
その口ぶりは、まるで譲歩してやっているかのようだった。
「俺の心には君しかいない。俺にできることは全部、君に渡す」
できることは全部……
でもその中に、誠実さは入っていない。他の誰もいない未来も、そこには含まれていなかった。
第3話
私はふっと笑ってしまった。
そして不意に、彼の会社がまだ立ち上がったばかりの頃のことを思い出した。
酒の席で、でっぷり腹の出た社長がどう見ても本妻ではない若い女を抱き寄せながら、酔った勢いで清司の肩を叩いて言ったのだ。
「江本くん、男が成功して何のためかって?気持ちよく生きるために決まってるだろ?家じゃ本妻の座は揺るがず、外では愛人を侍らせる。これができてこそ甲斐性ってもんだ!
俺なんか見てみろよ。家のほうは年寄りの世話に子どもの面倒、文句も言わずによく働く。外のほうは空気が読めて連れ歩いても見栄えがする。お互い干渉しないし、最高だろ!」
あのとき清司は微笑みながら相手に杯を返し、そつのない調子でこう言った。
「村上社長、冗談きついですよ。俺は由紀子一人で十分手いっぱいです」
その場にいた全員が笑った。
彼は一途だとか、私は幸せ者だとか、口々にもてはやしていた。
私もまた、それを自分だけに向けられた特別な愛情と大切さだと信じていた。
けれど今思えば、あの言葉は、反論ですらなかったのかもしれない。
彼には「家のほうで」黙々と尽くす女がいたのか?
いた。
あの、法律上の妻が。
彼には「外で」連れ歩けば体裁のいい女がいたのか?
それもいた。
私のことだ。
お互い干渉しない……
あの頃にはもう、彼はその流儀を実践していたのだ。
ただ私が愚かで、その言外の意味に気づけなかっただけ。
「出ていって」
清司は一瞬、虚を突かれたようにした。
「由紀子……」
「出ていけって言ってるの!」
私は手近にあった物をつかみ、ありったけの力で彼に向かって投げつけた!
彼は避けなかった。
置き物は彼の額の端をかすめて飛び、たちまちそこが赤く染まった。
「今の君は感情的になりすぎてる。そんな状態で口にすることも、決めることも、あとできっと後悔する。
俺の言ったことを覚えておけ。子どもさえいなければ、君にはいつだって引き返す道がある。選べる余地もある」
彼の目には、子どもがいなければ、簡単に身を引けるとでも映っているのだろうか。
私は掌を爪が食い込むほど強く握りしめ、その痛みで生理的な吐き気に抗った。
「あとでまた来る」
ドアが静かに閉まった。
私は壁伝いにずるずると崩れ落ち、その場に座り込んだ。
心に穿たれた穴を、冷たい風がごうごうと吹き抜けていく。
この六年、私が信じてきたものも、願ってきたものも、積み上げてきたものも、すべて砂の上に築かれていたのだと、突きつけるように。
そして今、その砂の城は崩れ落ちた。
スマホが震えた。
実家の近所に住む今田晴香(いまだ はるか)おばさんからだった。
私は深く息を吸ってから通話に出た。
「晴香おばさん?」
「由紀子ちゃん」晴香の声は珍しく切迫していた。「どんなに忙しくても、一度は帰ってきて顔を見せなきゃだめだよ!もう三か月も帰ってないじゃない。それに結婚の日取りだって、電話でひと言伝えただけ。お母さん、ずっとあんたのこと気にかけてるんだよ、分かってるのかい?」
「……はい」
喉が詰まった。
三か月。
そうだ。
この三か月、私の目には清司しかいなかった。私たちの未来しか見えていなかった。
お母さんが私を待っていたことすら、忘れていた。
「さっきも慌てて電話を切っただろう?あのあと、お母さん、ぽろっと泣き出しちゃってね……」
晴香はため息をついた。
「私がこんなこと言うべきじゃないのは分かってる。でもあの様子を見たら、どうしても黙っていられなくてね。由紀子ちゃん、お母さん……もう、長くないんだよ」
私は凍りついた。
「晴香おばさん……な……何を言ってるんですか?」
「末期なんだよ。もう治らない。あの人が黙ってたのは、あんたがお腹に子どもを抱えて耐えられなくなるのを怖がったからさ。このところは、あんたが晴れやかに嫁ぐ姿を見るために、ただ気力だけで持ちこたえてたんだ」
スマホが手から滑り落ちた。
私はその場で、わっと声を上げて泣き崩れた。
もう一滴も涙が出なくなるまで。
それからようやく手探りでスマホを拾い、清司の番号を押した。
つながった。
「由紀子?」
私は全身の力を振り絞って、乾ききった声で一言を押し出した。
「結婚式は……予定どおりで!」
第4話
母に会ったとき、私は何も言わなかった。
ただいつも通り、結婚の日はどうすれば縁起よく順調にいくか、これから子どもを産んだあとの養生はどうすればいいか……そんな細かな話を、途切れることなく語る母の言葉を聞いていた。
その口調には、ありふれた生活の温もりと……まるで後のことを託すかのような、重くて細やかな願いが混ざっていた。
私はうなずきながら相槌を打った。
肩を揉んでやり、ずっと前から用意してくれていた嫁入り道具を整えた。
古びた居間に差し込む陽の光は、これまでの幾つもの午後と変わらなかった。
ただ、水を注ぎに立ち上がったとき、ふと鏡に映った自分の姿が目に入った——
たった二日しか経っていないのに、まるで十歳は老けたように見えた。
結婚式の前、私はどうしてもあの女に一度会いたいと言い張った。
清司はそれを受け入れた。
おそらく彼は分かっていたのだろう——
私がその女を実際に目にすれば、彼女の平凡さや臆病さ、そして私との埋めがたい差を目の当たりにすれば、彼が用意した未来を、私が受け入れると。
彼は私のプライドも、情にほだされやすいところも知っている。
それに……母がどれほど彼という未来の婿を気に入り、私の結婚をどれほど望んでいるかも。
車は西側の、静かで高級な別荘地へと向かった。
私の心は少しずつ沈んでいった。
彼の言う「適当に住まわせている場所」には、とても見えなかった。
白い三階建ての邸宅の前で、使用人が扉を開け、にこやかに言った。
「お帰りなさいませ、旦那様」
室内は、流行のイタリアンスタイルでまとめられていた。
高価で、品のある空間だった。
そして——私は彼女を見た。
階段の踊り場に立っていたその人は、とても若かった。
どこか壊れやすそうな美しさを持った顔立ち。
「清司さん!」柔らかく細い声で、わずかに訛りが混じっていた。
清司は「ん」と短く応じた。
わずかに咎めるような口調で言った。
「どうして靴も履かずに降りてくるんだ?床は冷えるって、何度も言っただろ」
「わ……私、車の音がして……」彼女は小さな声で答え、無意識に服の裾を指でいじっていた。
「こちらは神田由紀子だ」清司は簡単に紹介した。
私の立場については触れず、彼女のことも私に説明しなかった。
相手はちらりと私を見上げ、さらに声を小さくした。
「神田……神田さん、はじめまして。山下明里(やましたあかり)といいます!」
私は彼女を見つめた。
若くて、美しくて、か弱い。
清司が言っていた「世間知らずで、面倒を見なければならない存在」という像に、ぴたりと当てはまっていた。
彼は言っていた。
彼女に道を与えようとしなかったわけではないと。
学校に通わせようとしたり、会社で楽な職を用意して、自分で体面のある収入を得られるようにもした。
だが彼女はそれを望まなかった。
見知らぬ人と関わるのが怖くて、覚えられないのが怖くて、苦労するのも嫌だった。
ただ今のように、この美しい家の中で、彼が帰ってくるのを待つか、あるいは思い出してもらうのを待つだけでいいのだと。
……
私が口を開こうとしたそのとき、清司はすでに歩み寄り、彼女を横抱きにしていた。
そして使用人に言いつけた。
「山田さん、妻のスリッパを持ってきてくれ」
その子は自然に彼の肩に身を預けた。
私はその場に立ち尽くした。
彼が差し出されたスリッパを受け取り、片膝をついて彼女に履かせるのを、ただ見ていた。
本来なら私に向けられるはずだった「妻」という呼び名と、骨の髄まで染みついたように自然なその世話の仕草が、まるで氷水のように、六年間積み重ねてきたすべての温もりを一瞬で消し去った。
終始、彼の口調は手のかかる子どもに向けるような、どこか呆れ混じりのものだった。
だが、その世話の手つきは、呼吸のように当たり前だった。
それは長い年月の中で染みついた、考えるまでもない習慣。
答えは、この場所に足を踏み入れた時点で、すでに出ていたのだ。
もしこのまま結婚すれば、傷つく人間が、もう一人増えるだけ。
三分も座らないうちに、私は立ち上がった。
「もう行くわ」
第5話
清司も私に合わせて立ち上がった。
「送るよ」
廊下に差しかかったところで、彼は使用人に呼び止められ、夕食の献立について尋ねられた。
その場に残ったのは、私と明里の二人だけだった。
私は思った。もしかしたら彼女は、このすべてをまだ知らないのかもしれないと。
わざわざこの醜い現実を暴く必要はない。
そう思って立ち去ろうとしたとき、彼女が一歩、行く手を遮った。
その目に張りついていた怯えたような感情が、唐突に消えた。
口元には、あざけるような笑みが浮かんでいた。
「もう見て満足した?」彼女は少し声を潜めて言った。「自分がほんとにこの家に入り込めるとでも思ってたの?私がうなずかない限り、あんたは一生、日の当たらないまま、いずれ始末されるのを待つ愛人でしかないの。分かった?」
私はわずかに呆気に取られた。
あまりにも見事な変わり身に、かえって馬鹿らしさすら覚えた。
けれど、ここまで来てしまった今、言い争う気力はなかった。
彼女はさらに半歩近づき、刺のある声で私を引き止めた。
「聞いたわよ。あんたのお母さん、あちこちに招待状ばらまいてるんでしょ。笑わせないで。よくそんなに馬鹿になれるわね。娘が人の男の愛人になるっていうのに、よく平気で触れ回れるものだわ……」
「黙りなさい」
私は鋭く振り返り、冷えきった視線を彼女の顔に突き刺した。
最初はただ、彼女も私と同じように、男に弄ばれた被害者なのだと思っていた。
だから彼女が私を恨もうと、罵ろうと、それは受け止めるつもりだった。
でも、母を巻き込むのだけは駄目だった。
相手は若く美しい顔を上げて言い返した。
「私、何か間違ったこと言った?あんたの母親なんて、ただの年寄りの間抜け――」
ぱしん——
その一発に、私は一切容赦しなかった。
彼女は打たれた勢いで顔をそむけ、目にはみるみる涙が溜まった。
「……よくも私を叩いたわね?!」
私は一歩前へ出て、彼女を真正面から睨み据えた。
「もう一度でも母のことを口にしたら、その口を引き裂く。私は本気よ」
物音を聞きつけて、清司が駆けつけてきた。
彼は彼女の赤く腫れた頬を見て、目の色を変えた。
「由紀子、この子を困らせないって約束しただろ」
私はまっすぐ彼を見返した。
「本人に聞けば?さっき何を言ったのか」
明里はたちまち声を震わせ、か細く言った。
「清司さん……私、何も……」
あまりにも自在に切り替わるその二つの顔に、怒りを通り越して笑いそうになった。
もう彼女に合わせてやる気などなかった。
私はそのまま言い放った。
「清司、この人、うちの母が娘をあなたの愛人に差し出そうとしてるって言ったのよ!これが、あなたの言う何も分かってない子なの?!」
清司は深く息を吸った。
「たとえ彼女が何か不適切なことを言ったとしても、手を上げるべきじゃなかった。君、いつからそんな聞き分けのない人間になったんだ?」
聞き分けがない?
彼が明里をかばうように背後へ庇った姿を見て、私は胸の中の怒りが一瞬で氷水を浴びせられたみたいに冷えきっていくのを感じた。
「うちの母を侮辱した。だから私は懲らしめた。それが聞き分けがないっていうの?」
笑いがこぼれた。けれど同時に、何の前触れもなく涙が溢れ、視界が滲んだ。
「じゃあ、あなたが両方を騙して、六年も平然と立ち回ってきたことは——何になるの?」
「もういい!」彼は私の手首をつかんだ。「全部ちゃんと説明しただろ。まだ何を求めるんだ?明里みたいに少しは物分かりよくなれないのか。受け入れることを覚えろよ」
彼は眉間を揉み、少し間を置いてから言った。
「冷静に話そう、いいな?こんなところで騒ぐな。みっともない」
私はその、どこまでも理性的な顔を見つめた。
そして唐突に気づいた。
もう、何を言い争っても無意味なのだと。
私は顔を上げ、涙を押し戻した。
「清司」声はもう静かだった。「私たち、もう話すことなんて何もない」
彼はわずかに言葉を切った。
「君、結婚式は……」
「ええ、結婚式は予定どおりよ」私は、他人の不幸を楽しんでいるあの芝居がかった「妻」にちらりと目をやり、それから彼の顔へ視線を戻した。「この六年に、けじめをつけてもらわないとね。そうでしょう?」
昔の私は、誰にでも知ってもらえるような結婚式を、あれほど望んでいた。
でも今は、この結婚式がただの形式にすぎないことを、むしろありがたいと思っている。
演じ終えさえすれば、幕は下りるのだから。
第6話
結婚式当日、陽射しはやわらかく降り注いでいた。
母は白いドレスを身にまとい、疲れた顔色を隠すようにファンデーションを薄くのせていた。
会う人ごとに笑っては、「うちの由紀子は本当に幸せ者でね、これ以上ないほどいい婿を見つけたの。将来有望で、気遣いもできて……」と誇らしげに語っていた。
そう、彼は気遣いのできる人だった。
付き合って六年、母に対する彼の気配りは非の打ちどころがなかった。
年長者の目には、落ち着いていて、礼儀があって、頼れる男に映っていた。
もし二十一歳のとき、あの十八歳の娘と入籍していなければ。
今日の私は、どれほど幸せな花嫁だっただろう……
私はこみ上げる涙をこらえた。
「お母さん、無理しないで」
「大丈夫よ」母は笑い、真っ白なウェディングドレスをまとった私に目を細めた。「今日のうちの娘、本当にきれいだわ」
司会者が壇上でめでたい言葉を並べていた。
清司は私の隣に立ち、仕立てのいいスーツをきっちり着こなしていた。
すべては滞りなく進んでいた。
指輪を交換する、その直前までは。
会場の扉が乱暴に開かれた。
華奢な体つきの明里が、よろめきながら中へ飛び込んできた。
か細い声で言った。
「清司さん……わ、私、こわくて……」
言い終わるより早く、そのまま床に崩れ落ちた。
心臓が一瞬で締めつけられた。
視界の端に、必死に笑みを保とうとしている母の顔が映る。私は荒れ狂う感情を力の限り押し殺した。
清司が反射的に壇から降りようとするのを見て、私は強く彼の手をつかんだ。
顔を上げ、ほとんどすがるように頼んだ。
「清司……二十分だけ……この儀式だけ終わらせて。あの子なら、誰かが病院へ連れて行くから。
母が見てるの……お願い……私が人を見る目を間違えたなんて、思わせないで……お願い、今回だけでいいの。最後まで演じて。だめ?」
私は必死に、泣き顔よりもひどい笑みを作った。
清司は眉をきつく寄せ、私を責めるように言った。
「明里が今どんな状態か分からないのに、まだここで二十分も芝居を続けろっていうのか?君のその儀式へのこだわりは、人の命より大事なのか?」
その言葉は毒針のように、かろうじて保っていた私の鎧を突き破った。
次の瞬間、呆然とした私の体は、彼に激しく振り払われていた。
私は後ろのシャンパンタワーにぶつかって倒れ込んだ。
そして彼は会場中の客が息を呑む中、足早に倒れた明里のもとへ向かっていった。
「清司!」
私は力の限り、彼を呼び止めた。
ぶつけた腹部の激しい痛みをこらえながら、言った。
「今日、あなたがこの扉を出ていくなら、私たちは……この先一生、これで終わりよ」
会場は水を打ったように静まり返った。
それでも彼はただ少しだけ横顔を向け、冷たく言い捨てた。
「今の君を見ていると、本当に別人みたいだ」
そうして明里を抱き上げると、一度も振り返らずに去っていった。
司会者は気まずそうに、その場に立ち尽くしていた。
私は膝から力が抜け、冷たい床にそのまま崩れ落ちた。
下腹の重い痛みは、どんどん激しさを増していった。
やがて真っ白なドレスの裾が赤く染まり――
鈍い音とともに、母は体がよろけ、気を失って倒れた。
あの痩せ細った手。
最期の時まで、私を「幸せをともに築く相手」に託そうとしてくれていたその手が、力なく離れたのだった。
……
車が走り出してしばらくしてから、明里はゆっくりと目を覚ました。
弱々しく清司の肩にもたれかかりながら、「わざとじゃないの、ただすごく怖くて……」そんな言い訳めいたことを口にしていた。
清司は上の空で、「ああ」とだけ返していた。
ふいに、由紀子が最後に自分を見た、あの眼差しが脳裏をよぎった。
胸の奥が妙に沈むような感覚が走ったが、すぐに苛立ちがそれを塗りつぶした。
女というのは面倒だ。
少しのことで大騒ぎして、人の命をあんなにも軽く見るのか。
そのとき、スマホが震えた。
彼は通話を取るなり、苛立ちを隠さずに言った。
「何だ」
電話の向こうで、幼なじみの声が、めったにないほど動揺していた。
「清司さん、結婚式場で……大変なことになった!」