夫の「妻」を取材したあと、私は徹底的にやり返した

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夫の「妻」を取材したあと、私は徹底的にやり返した

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テレビ局で働いて八年、私はついにこの街で最も成功した自立した女性に単独インタビューできる機会を手にした。 取材相手はまだ若い女の子なの...

Chương (1)

第1章

テレビ局で働いて八年、私はついにこの街で最も成功した自立した女性に単独インタビューできる機会を手にした。 取材相手はまだ若い女の子なのに、すでに上場企業二社を率いる女性社長だった。 カメラの前で、二十歳そこそこの若き女性実業家は頬を赤らめ、はにかんだ笑みを浮かべていた。 「実は、私が成功できたのって別に大した秘訣があるわけじゃないんです。全部、旦那が支えてくれたおかげで」 「この二社、私もう何百回も潰しかけたんですけど、そのたびに彼が立て直して、また私の名義に戻してくれるんです」 「いちばんいい愛って、相手を持ち上げてくれることだと思うんですけど、うちの旦那はまさにその言葉そのものです」 私は羨ましさで胸がいっぱいになり、彼女の夫が誰なのか尋ねた。 女の子は顎を上げ、誇らしげな顔をした。 「そちらのテレビ局の最大の出資者、伊藤隆之です」 そう言うと、彼女は洗いすぎて色褪せた私の仕事着に目をやった。 「あなた、仕事はできそうだし、あとで旦那に一言言っておきますね。部長にでも昇進させてもらえばいいじゃないですか」 その瞬間、私の手から力が抜け、握っていたマイクが床に落ちた。 女の子は口元を押さえてくすりと笑った。 「どうしたんです?昇進って聞いて、そんなに興奮しちゃった?」 私はきつく唇を噛みしめた。喉がひりついて、声が出なかった。 なぜなら、私と婚姻届を出した夫の名前も伊藤隆之(いとう たかゆき)で、しかも、このテレビ局の最大の出資者でもあったからだ。 第1話 テレビ局で働いて八年、私はついにこの街で最も成功した自立した女性に単独インタビューできる機会を手にした。 取材相手はまだ若い女の子なのに、すでに上場企業二社を率いる女性社長だった。 カメラの前で、二十歳そこそこの若き女性実業家は頬を赤らめ、はにかんだ笑みを浮かべていた。 「実は、私が成功できたのって別に大した秘訣があるわけじゃないんです。全部、旦那が支えてくれたおかげで」 「この二社、私もう何百回も潰しかけたんですけど、そのたびに彼が立て直して、また私の名義に戻してくれるんです」 「いちばんいい愛って、相手を持ち上げてくれることだと思うんですけど、うちの旦那はまさにその言葉そのものです」 私は羨ましさで胸がいっぱいになり、彼女の夫が誰なのか尋ねた。 女の子は顎を上げ、誇らしげな顔をした。 「そちらのテレビ局の最大の出資者、伊藤隆之です」 そう言うと、彼女は洗いすぎて色褪せた私の仕事着に目をやった。 「あなた、仕事はできそうだし、あとで旦那に一言言っておきますね。部長にでも昇進させてもらえばいいじゃないですか」 その瞬間、私の手から力が抜け、握っていたマイクが床に落ちた。 女の子は口元を押さえてくすりと笑った。 「どうしたんです?昇進って聞いて、そんなに興奮しちゃった?」 私はきつく唇を噛みしめた。喉がひりついて、声が出なかった。 なぜなら、私と婚姻届を出した夫の名前も伊藤隆之(いとう たかゆき)で、しかも、このテレビ局の最大の出資者でもあったからだ。 カメラはまだ回っていた。 私は腰をかがめてマイクを拾い上げ、無理やり自分を落ち着かせた。 「伊藤隆之という名前は、あまりにも重みがありますから。驚いてしまいました」 小林思穂(こばやし しほ)は私を二秒ほどじっと見つめた。 「まあ、それもそうですよね。私の旦那ですし、名前を聞いて平然としていられる人なんていないでしょう?」 彼女は小首をかしげ、まるで羽を広げた孔雀みたいに得意げな口調だった。 私はマイクを持ち直し、取材を続けた。 私は彼女に、二つの上場企業の中核となる強みは何かと尋ねた。 彼女は首をかしげたまましばらく考え込み、指に髪の一束を絡めて三回くるくると回した。 「えっと……物を売ること、ですかね。化粧品とか。女の子向けのものを」 私は続けて、経営理念について聞いた。 「それは私、あんまり分からなくて。全部旦那がやってくれてるんです。要するに、赤字が出たら彼が埋めてくれるし、儲かったら私のもの、ってことです」 彼女はそれを少しも悪びれず、むしろ当然のことのように言い切り、カメラに向かって指でハートまで作ってみせた。 壇下のスタッフたちは顔を見合わせ、無言で私に口の形だけでこう伝えてきた――「これで自立した女性って言える?」 私は何も返さなかった。 うつむいて、手元の資料冊子をぱらぱらとめくった。 ブランド紹介のページを開いたところで、私の手が止まった。 彼女のコスメブランドの名前は「Sakié」だった。 私の視線はその名前に釘づけになった。まるで赤く焼けた針で刺されたみたいだった。 三年前、私は国産コスメの台頭を扱う特集の深掘り取材をしたことがあった。 その番組のために、私は半月の休みを取り、六つの都市を飛び回り、十二の工場を取材し、半年かけて市場データを調べ尽くした。 そして最後に、詳細なブランド企画書を一本まとめ上げた。 ブランド名は「Sakié」 私の名前――寒川沙希(かんかわ さき)から取ったものだった。 「é」には、美しさの響きを重ねた。 それは、どこにでもいる普通の女の子にも手の届く美しさを届けたいという、私の願いでもあった。 あのとき私は意気揚々と企画書を隆之に見せ、投資家につないでほしいと頼んだ。 彼は二ページほど目を通して閉じると、まだ時期がよくない、もう少し待てと言った。 私は待った。 生活情報の取材へ回されるまで待った。 あの企画書が机の引き出しのいちばん奥で埃をかぶるまで待った。 そして今日、私のアイデアは思穂のパンフレットに載っていた。 上質な印刷に、金の箔押しまでされていた。 取材が終わりかけたころ、私は最後の質問をした。 「小林社長、差し支えなければ、伊藤さんとはどうやって知り合ったのか教えていただけますか?」 思穂の目がぱっと輝き、彼女は体ごと前のめりになった。まるで、その質問をずっと待っていたかのように。 「三年前、私はバーで働いてて、彼がお酒を飲みに来たんです。それで、一目で私に惚れたんですよ。 私が、ある人に似てるって言ってました」 第2話 「誰に似てるって?」 「彼の元妻に、です」 私の爪は掌に深く食い込んでいた。かなり強く刺さっていたはずなのに、痛みはまったく感じなかった。 「彼が言うには、元妻は二年以上前に事故で亡くなったそうなんです。その人のことをずっと忘れられなくて、私に出会うまでは立ち直れなかったって」 彼女は一瞬だけしんみりした顔をして、涙でメイクが崩れないようにするみたいに、指先で目尻をちょんと押さえた。 けれど次の瞬間には、また笑っていた。 「私、彼女に六、七割くらい似てるんですって。でも、彼女より若いし、彼女より言うことを聞くって」 彼女より若い。 彼女より言うことを聞く。 私は自分の心臓の音を聞いた。 どくん、どくん、どくん。 一つ鳴るたびに、重く沈んでいった。 撮影が終わるころ、思穂が駆け寄ってきて、私の手をつかんだ。 彼女の手は柔らかく、薬指には鳩の卵みたいに大きなダイヤの指輪がはまっていた。 「寒川さん、撮るのすごく上手ですね。明後日、新商品の発表会があるんですけど、同行撮影してもらえませんか? そのとき、うちにも連れて行ってあげます。生活風景の素材も少し撮れたら、絶対に視聴率がすごいことになりますよ」 彼女は声をひそめ、少し自慢げな秘密を打ち明けるように私の耳元へ顔を寄せた。 「うちには二歳半の息子もいるんです。すっごく可愛いんですよ」 私は笑顔をほとんど保てなくなっていた。 それでも、うなずいた。 「ええ」 …… 自分の席に戻ると、私は暗闇の中に座ったまま、スマホを開いた。 アルバムをいちばん下までめくると、暗号化したフォルダが一つある。 中に入っているのは三枚だけだった。 一枚はエコー写真。ぼんやりしているけれど、赤ん坊が身を丸めている輪郭だけは分かった。 一枚は妊婦健診の報告書で、日付は三年前の五月になっていた。 最後の一枚は、お腹に手を当てて笑っている私の自撮りだった。 あのころ、私は妊娠六か月だった。 お腹はもうかなり大きくなっていた。 私はその子のために、薄いベージュ色の小さな帽子を編んだ。ひどく不格好で、目も当てられない出来だった。 隆之は、捨てればいい、産まれたらちゃんとしたものを買えばいいと言った。 でも私は手放せなかった。 こっそり枕の下に隠していた。 そのあと、その帽子もなくなった。 子供と一緒に、消えてしまった。 三年前、隆之は私のために精密な妊婦健診を手配したと言った。 連れて行かれたのは、彼の友人が経営している私立病院だった。設備がもっといいから、と。 健診のあと、医者は彼を長いこと外に呼び出して話していた。 戻ってきたとき、彼の表情はひどく複雑だった。 子供の発育に異常があって、このまま妊娠を続けると私の体に大きな危険がある、だから医者はできるだけ早く手術で妊娠を中断するよう勧めている、と彼は言った。 私は信じなかった。 報告書を見せてほしいと言った。 彼は報告書を私に渡した。専門用語がぎっしり並んでいて、私には読めなかった。 でも、一行だけ分かる言葉があった――「直ちに中絶を行うことを推奨」 私は泣きながら、どうにか他の方法はないのかと彼にすがった。 彼はしゃがみ込んで私の手を握り、初めて私の前で目を赤くした。 「沙希ちゃん、子供はまたできる。いちばん大事なのは君の命なんだ」 麻酔が打たれるときも、私はまだ泣いていた。 意識がぼんやりしていく中で、何かの声が聞こえた気がした。 とてもかすかな、まるで子猫の鳴き声みたいな音だった。 目が覚めたときには、すべて終わっていた。 隆之はベッドのそばに座っていて、目を真っ赤に腫らしていた。 「子供は助からなかった」と彼は言った。 私はまる一か月、泣き続けた。 ベビー用品店を見ることもできず、子供の笑い声を聞くこともできず、産婦人科の前を通ることさえできなかった。 彼は、もう子供はやめよう、体に負担が大きすぎると言った。 私はそれを信じた。 あの不格好な小さな帽子と一緒に、私が子供を産めるかもしれないという可能性も、全部消えてしまった。 もしあの子がまだ生きていたら―― 今ごろ二歳半のはずだった。 私はスマホの画面を消した。真っ黒になった画面の反射に、自分の顔が映る。 ひどく見知らぬ顔だった。 記者を八年やってきた。殺人犯に取材したこともあるし、ねずみ講の巣に潜入したことだってある。どんな修羅場だって見てきた。 なのに今、私は自分の席に座っているだけなのに、四方八方が深海に囲まれているような気がした。 私は十回以上も深呼吸してから、隆之のLINEを開いた。 彼のSNSアカウントは、いつ見ても空っぽだった。 アイコンは初期設定のままの灰色で、プロフィールにはただ一言、「多忙」とだけ記されていた。 第3話 ここ三か月の私たちのやり取りを見返しても、出てくるのは同じような言葉ばかりだった―― 残業、会議、出張、お先に寝てて。 次に思穂のSNSを開いた。 固定された投稿―― 【旦那がまた年次報告書を片づけてくれた♡ ありがとう、愛してるよ~】 添えられていた写真は、赤いバラの花束だった。白い陶器の花瓶に挿してある。 私はその花瓶を、ずっと見つめていた。 白くて、丸みのある胴に、底のあたりには手描きの青い小花が一周している。 結婚して最初の年、海外へ旅行したときに私が買ったものだった。 隆之は、ダサいと言っていた。 私は、ダサいくらいのほうが家らしい温かみがあるのだと言った。 今その花瓶には赤いバラが挿され、別の女の食卓に置かれている。 家の温もり。 なんて皮肉なのだろう。 二日後、私はカメラマンを連れて思穂の新商品発表会へ向かった。 発表会は盛大だった。照明も、モデルも、メディア席も、一目でかなりの金がかかっていると分かった。 司会者がブランド理念を読み上げると、私は壇下でひそかにその文言を一字一句なぞるように口の中で唱えていた。 あの言葉は、三年前に私が書いたものだったからだ。 一字たりとも違わずに。 思穂はオーダーメイドのピンクのドレスをまとい、壇上でスピーチ原稿を読み上げていた。だが、ときおり言葉に詰まり、「エンパワーメント」を「エンタテインメント」と読み違えた。 壇下の広報チームは焦って冷や汗をかき、今にも壇上へ駆け上がって代わりに読んでしまいたそうだった。 終わると、彼女はぴょんぴょん跳ねるようにこちらへ駆けてきた。ハイヒールが床を打つ音まで弾んでいた。 「行きましょ行きましょ、うちへ!お手伝いさんに美味しいものを作ってもらってるんです」 私は彼女と一緒にポルシェに乗り込んだ。 車内にはピンク色の子ども用チャイルドシートが置かれていた。 シートにはぬいぐるみのくまがぶら下がっていた。 そのくまは少しくたびれていて、片方の目の糸が緩み、だらりとしていたが、誰かが丁寧に繕った跡があった。 私の視線は、くまの胸元に落ちた。 そこには、一文字だけ刺繍されていた――「希」 私の手が宙で止まった。 そのくまは、私が妊娠四か月のときにネットで買ったものだった。 わざわざ人に頼んで、その字を刺繍してもらった。 生まれてくる子に、最初から母親の名前を覚えていてほしかったのだ。 けれど、そのあと子どもはいなくなった。 隆之は、こんなものを残しておいたら私がつらくなるだけだと言った。 そして彼が、赤ん坊のための物を全部「処分」してくれた。 哺乳瓶、小さな服、歩行器。 そして、このくまも。 つまり彼の言う「処分」とは、ここへ持ってくることだったのだ。 もう一人の「母親」の車へ。 車は高級マンションの前で止まった。 鉄の門扉、ヤシの木、噴水。 私は車を降りた瞬間、その場で凍りついた。 このマンションは、見覚えがありすぎた。 三年前、結婚したばかりのころ、私は隆之の手を引いて十数軒の物件を見て回った。 最後に選んだのが、ここだった。 南向きの広い2LDKで、日当たりがよく、下には幼稚園もある。 将来、子どもが通うのに便利だと私は言った。 彼は、いいね、と答えた。 頭金の1200万円は、私が五年間働いて貯めた金だった。 一円一銭まで、全部、徹夜で映像を編集し、豪雨の現場を走り回り、ニュースの手がかりを追って稼いだものだった。 権利証には私の名前が記されていた。 その後、彼はこの一帯は最近あまり治安がよくないから、自分の会社の近くへ引っ越そうと言った。 この部屋は貸しに出して、毎月40万円の家賃収入を受け取ればいい、と。 それで資産運用を覚えて、自立した女性になれるだろう、と彼は言った。 私は毎月きっかり振り込みを受け取り、一度もここへ戻って確認しようとしなかった。 彼を信じていたからだ。 「入ってよ。ぼーっとしてどうしたの?」 思穂はもうエントランスカードをかざしていて、振り返って私に手を振った。 私は彼女のあとについてエレベーターに乗り込み、階数表示が一つずつ上がっていくのを見つめた。 十五階。 扉が開いた。 玄関の靴棚には、スリッパが二足並んでいた。男物のダークグレーと、女物のピンク。 男物のほうは、見覚えがあった。 隆之のサイズだ。二十七センチ。 靴棚の脇には風鈴が掛かっていて、ちりんちりんと音を立てていた。 私が買ったものだった。 引っ越す前にネットで見つけて、風鈴は幸運を呼ぶ気がして気に入っていた。 第4話 隆之はうるさいから外せと言っていた。 それが今では、別の女の家の玄関先に掛けられて、ちりんちりんと鳴っている。 幸運は私には来なかった。他の誰かのところへ行ったのだ。 リビングは広く、床まで届く窓から陽の光がたっぷり差し込んでいた。 玄関の真正面の壁には、大きな写真がずらりと飾られていた。 一枚じゃない。壁一面だった。 隆之が思穂を抱き、思穂が子どもを抱いている。 海辺で撮ったもの、芝生の上のもの、遊園地でのもの、クリスマスのもの。 どの写真でも、彼は笑っていた。 付き合いで見せる愛想笑いでもなければ、私に向ける疲れたような笑みでもない。 本当に、心から笑っていた。 目尻の線までやわらかくほどけていた。 結婚して三年、私と彼の写真はたった一枚しかない。 それも、私が何度も頼み込んで、やっと隣に立ってもらって撮ったものだった。 写真の中の彼はカメラも見ず、スマホを見ていた。 あのときの私は、自分にこう言い聞かせていた――彼は写真が好きじゃない人なんだ、と。 違った。 写真が嫌いなんじゃない。 私と撮るのが嫌だったのだ。 「ほらほら、うちの息子を見てください!」 思穂は私の手を引いて廊下の奥へ向かった。 キャラクターのシールが貼られた扉を開けると、子ども部屋は小さな遊園地みたいだった。 壁一面に星や月のシールが貼られ、床には分厚いプレイマットが敷かれている。 小さな本棚には絵本がぎっしり並び、部屋の隅には積み木の城ができていた。 ベッドのそばでは、二歳を少し過ぎた男の子がうつ伏せになってミニカーで遊んでいた。 扉の開く音を聞いて、その子は顔を上げた。 丸い顔に、大きな目。 思穂を見ると、ミニカーを放り出し、よちよちとこちらへ走ってきて、両腕を広げた。 「ママ!」 思穂はその子をひょいと抱き上げて、頬にキスをした。 「いい子ね。ほら、沙希さんって言って」 子どもは首をかしげて、私を見た。 何秒もじっと見つめた。 それから、ふいににかっと笑った。 ふっくらした小さな手を伸ばして、私の人差し指をつかんだ。 ぎゅっと、強く。 その瞬間、私は頭のてっぺんから足の裏まで、稲妻に打たれたみたいに全身が痺れた。 その眉、その目元―― 思穂には似ていない。 丸い顎、少しだけつり上がった目尻、笑うと左側にできる小さなえくぼ。 私に似ていた。 あまりにも、似すぎていた。 「この子、あなたに懐いてるみたいですね」 思穂は笑って言った。 「普段は人見知りが激しくて、知らない人には触られるのも嫌がるのに」 私はしゃがみ込み、あやすふりをしながら、さりげなく視線をその子の首元へ走らせた。 左の鎖骨の下。 赤い小さなほくろ。 豆くらいの大きさで、色は濃い赤。形はまるで涙のしずくみたいだった。 私はとっさに手を引っ込めた。 子どもは不満そうにして、また私の指をつかみにきた。 私はそのままつかませて、もう片方の手で自分の服の裾を強く握りしめた。 妊婦健診のとき、エコー室の医者がモニターのその場所を指して見せてくれたことがあった。 「ここに血管腫があります。ちょっと珍しい位置ですね、鎖骨の下です。生まれたらもっとはっきりしますよ」 「この子、名前は?」 自分の声とは思えないほど、張りつめた声だった。 「伊藤思希(いとう しき)ですよ」 思穂は子どもの鼻先に自分の鼻をすり寄せた。 「うちの旦那がつけたんです。希って、元妻の名前に入ってる字なんですって。思希で、その人を想うって意味なんだそうです」 彼女は小さくため息をついた。口元には、かすかな嫉妬がにじんでいた。 「たまにちょっと妬けちゃうんです。息子の名前にまで元妻の字を入れるなんて。でも、元妻は亡くなったときお腹に子どもがいて、母子ともに亡くなったらしくて……せめて供養みたいなものなんだって」 母子ともに亡くなった。 その一言が、煮え湯をそのまま耳に流し込まれたみたいに響いた。 私は陽の光の中で、ぴくりとも動けなかった。 思希。 その名前は、私がベッドに寝転んだまま辞書を一冊めくり続けて、ようやく思いついたものだった。 最初は「心春」を考えた。でも、少しありきたりな気がした。 次に「心安」も考えたけれど、隆之におとなしすぎると言われた。 最後に私が「思希」と書くと、彼は私の指を包み込むように握って、こう言った―― 第5話 「これがいい。思希。君の名前には希の字が入っているだろう。だから、この子にはずっと母親のことを覚えていてほしいんだ」 ずっと自分の母親を忘れないでいてほしい。 なのに今、この子は別の女をママと呼んでいる。 そして実の母親である私は、都合よく「亡き人」にされていた。 子どもの名前に使うためだけの、死んだ人間にされて。 …… 私はトイレに行くと口実をつけて、中から鍵をかけた。 冷たいタイルの壁に背中を預け、そのままずるずると床に座り込んだ。 手が震えていた。 かすかに震えるなんてものじゃない。片手全体が震えていて、スマホすら落としそうだった。 私はスマホを開き、三年前の妊婦健診の報告書を引っ張り出した。 暗号化アルバムに入っていたあの三枚の写真が、今は三本の刃みたいだった。 エコー記録には、白い紙に黒い文字でこう書かれていた。 【胎児左側鎖骨下に皮下血管腫を認める。約0.5cm】 私は目を閉じた。 それから、また開いた。 文字は消えていなかった。 ドアの外では、思希の笑い声が板一枚越しに聞こえてくる。 澄んだ、甘い幼い声だった。 「ママ!ぶーぶー!」 「はいはい、ママが取ってあげる」 その「ママ」という声が、針みたいに何度も何度もこめかみに突き刺さった。 私はさらに画面をスクロールした。 手術同意書。 署名欄――隆之の代理署名。 あのとき彼は、私の精神状態が不安定すぎるから、医者が家族による代理署名を勧めたのだと言った。 私はうなずいた。 あのときの私の頭の中は恐怖でいっぱいで、彼が何に署名したのかなんて確かめる余裕はなかった。 術式欄には、中絶術と記載されていた。 けれど術後、看護師に病室へ戻されるとき、朦朧とした頭で私は一度だけ子どもはどうなったのかと尋ねた。 そのとき看護師が口にしたのは―― 胎児死亡後の子宮内容除去は済んでいます、という言葉だった。 中絶と子宮内容除去は、同じじゃない。 片方は、生きたまま取り上げる処置。 もう片方は、亡くなったあとに取り除く処置だ。 あのときの私は、問いただす力もなかった。 そのあとも、怖くて聞けなかった。 だって隆之はこう言ったのだから――子どもはもう火葬した、と。 私が刺激を受けるのを怖れて、見せなかったのだと。 遺体もなければ、骨壺もない。この子が確かに存在していたと示すものは何ひとつ残っていなかった。 あるのは退院時の簡単な記録と、入院費の支払いだけだった。 その入院費ですら彼が立て替えていた。 私は一度も明細を見たことがなかった。 三年。 千日を超える昼と夜。 私は、自分が子どもを失ったのだと思っていた。 いくつもの真夜中に目を覚まし、空っぽになったお腹を撫でながら、ただぼんやりしていた。 あの不格好な帽子の写真をスマホに残し、毎年五月十七日――あの子の出産予定日になると、私は一人で酒を一杯飲んだものだった。 あの子は一度もこの世界に来ることができなかったのだと、ずっとそう思っていた。 なのに、本当はずっと生きていた。 すぐ隣の部屋で。 他人が買った服を着て、他人が整えたベッドで眠り、他人をママと呼んで。 毎日笑って、毎日わめいて、毎日大きくなっていた。 それなのに私は、この子の写真を一枚も持っていない。 私は子どもを失ったんじゃない。 子どもを奪われたのだ。 私はトイレの扉を開けて、外へ出た。 廊下の奥から、思穂の声が聞こえてきた。急に調子が高くなっている。 「あなた!どうしてこんなに早く帰ってきたの?」 「君に会いたくなって、早めに切り上げたんだ」 隆之の声だった。 私は廊下の真ん中に立ったまま、隠れなかった。 隆之は玄関のほうから姿を現した。片手でネクタイを緩め、もう片方の手には果物の入った袋を提げていた。 彼の視線が、いつもの癖みたいに廊下をさっとなぞる。 そして、私の目とぶつかった。 果物の袋が、彼の手から滑り落ちた。 りんごも、オレンジも、床の上をころころと転がっていった。 思穂はまだ状況が飲み込めず、彼の腕を引いて尋ねた。 「あなた?どうしたの?」 私は、血の気を失った彼の顔を見つめた。 「伊藤社長、奇遇ですね」 「あなたの元妻は、死んでいませんよ」