十年前に戻った妻は初恋を選び、すべてを失った

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十年前に戻った妻は初恋を選び、すべてを失った

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初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。 そのときになって、ようやく...

Chương (1)

第1章

初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。 そのときになって、ようやく俺は知った。 彼女は一度も、水沢奏太(みずさわ そうた)のことを忘れていなかったのだと。 少女の頃に戻った彼女は、迷いなく俺の手を振りほどき、初恋のもとへ駆けていった。 俺は二人の背中を見送って、そのまま背を向けた。 それから先、俺たちの人生が交わることはなかった。 ただ並んで伸びていくだけの、交わらない二本の平行線になった。 十年後、海市のパーティーで俺たちは再会した。 彼女はすでに社交界の新たな寵児となっていて、奏太の腕に親しげに寄り添いながら姿を見せた。 俺が人を捜して会場に入ってきたのを見ると、彼女は思わず口を開いた。 「どうしてそこまで私に執着するの?たとえ十年待ったとしても、私はあなたを愛したりしないわ」 俺は相手にせず、隅でこっそりケーキをつまみ食いしていた息子の首根っこをつかまえた。 その瞬間、彼女ははっとしたように目を赤くして、俺の手を強くつかんだ。 「わざと私を怒らせようとしてるの?あなた、言ったじゃない。この一生、愛するのは私だけだって」 第1話 初恋が死んだと知った妻の成瀬美咲(なるせ みさき)は、新婚旅行中のクルーズ船から身を投げ、この世を去った。 そのときになって、ようやく俺は知った。 彼女は一度も、水沢奏太(みずさわ そうた)のことを忘れていなかったのだと。 少女の頃に戻った彼女は、迷いなく俺の手を振りほどき、初恋のもとへ駆けていった。 俺は二人の背中を見送って、そのまま背を向けた。 それから先、俺たちの人生が交わることはなかった。 ただ並んで伸びていくだけの、交わらない二本の平行線になった。 十年後、海市のパーティーで俺たちは再会した。 彼女はすでに社交界の新たな寵児となっていて、奏太の腕に親しげに寄り添いながら姿を見せた。 俺が人を捜して会場に入ってきたのを見ると、彼女は思わず口を開いた。 「どうしてそこまで私に執着するの?たとえ十年待ったとしても、私はあなたを愛したりしないわ」 俺は相手にせず、隅でこっそりケーキをつまみ食いしていた息子の首根っこをつかまえた。 その瞬間、彼女ははっとしたように目を赤くして、俺の手を強くつかんだ。 …… 「わざと私を怒らせようとしてるの?あなた、言ったじゃない。この一生、愛するのは私だけだって」まさかこの人生で、もう一度美咲と再会することになるなんて、夢にも思わなかった。 海市の名士たちが集う華やかなパーティーで、彼女は奏太の腕に手を添え、人々の輪の中に立っていた。笑みは優雅で気品に満ちていて、あの頃の少女の面影はもう少しも残っていなかった。 周囲に集まった人たちはみな愛想笑いを浮かべ、へつらうような口調で口々に言った。 「成瀬さんは本当に男勝りですね。こんな若さで県レベルのプロジェクトを勝ち取るなんて、先が楽しみです!」 「お隣の方はお相手でしょうか。まさにお似合いで、見ているこっちがうらやましくなりますね」 奏太は美咲を優しく見つめ、穏やかな声で言った。 「俺たちは年末に結婚する予定です。お時間がありましたら、ぜひ披露宴にいらしてください」 周囲からまた祝福の声が上がり、その中の誰かがふと尋ねた。 「お二人、もう十年も付き合ってるって聞きましたけど、どうして今になってようやく結婚なんですか?」 その疑問は、俺もちょっと気になっていた。 前の人生で、美咲は奏太を愛するあまり、後を追って死んでもいいと思うほどだった。 生まれ変わって戻ってきてからは、すぐに俺と別れた。 だから俺はてっきり、二人は卒業したらそのまま結婚するものだと思っていた。まさか今になっても、まだ籍を入れていなかったなんて。 その言葉を聞いた瞬間、美咲の顔にほんのわずかなこわばりがよぎった。だが次の瞬間には、それを隠すように笑みを浮かべた。 「まずは仕事、結婚はそのあと、ってことです。奏太には一番いい暮らしをさせてあげたいので」 彼女は奏太を見つめた。その目に浮かぶ甘やかな愛情は、今にもあふれ出しそうだった。 一回目の人生で俺と付き合っていたとき、俺は何度も彼女にプロポーズした。 それでも、家族から圧力をかけられるまで、美咲はようやくしぶしぶ俺との関係を認めるだけだった。 愛しているかどうかなんて、ここまではっきり出るものなんだな。 俺が背を向けて立ち去ろうとしたそのとき、視界の端に小柄な人影が映り、体が反射的にそのあとを追っていた。 「きゃっ!」 シャンパンが床一面に飛び散り、トレーを持ったスタッフが不機嫌そうに俺をにらみつけた。 「どこから入り込んできたの?ちゃんと前を見て歩けないの?」 声が大きかったせいで、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。 俺の顔を見た美咲は、はっきりと驚いた顔をした。 「白石柊真(しらいし しゅうま)、どうしてここにいるの?」 俺はうつむいてスタッフに謝りながら、事情を説明した。 「人を探しに来たんです」 それを聞いた誰かが興味深そうに美咲へ尋ねた。 「成瀬さん、お知り合いですか?」 美咲はグラスを持つ手にわずかに力を込め、目つきをすっと冷やした。 「ええ、元彼ですよ」 その場の誰かが口を滑らせた。 「十年も付き合ってたなら、てっきりお互い初恋同士かと思ってましたよ」 奏太の笑みがわずかに薄れた。だが彼は美咲の手を握ったまま、何でもないことのように言った。 「若い頃のことですからね。けんかして少し離れていただけです。若いうちって、誰だって一度くらいは道を踏み外すものでしょう?」 美咲は何も言わなかった。俺の上を視線がかすめ、そのままスタッフへ向けられる。 「損害は私のほうで持つわ。この人は帰してあげて」 彼女は静かにそこに立っていた。さっき目が合ったとき以外、俺のほうを見ようともしない。 奏太の前で、かつて道を誤った過去としての俺と、きっぱり線を引くつもりなのだろう。 スタッフはすぐに俺を外へ押し出そうとした。 「成瀬さんが親切に尻ぬぐいしてくれたんですよ。次はありませんからね」 そして俺のしわだらけの寝間着を見下ろし、あからさまに顔をしかめた。 「ここはあんたみたいなのが来る場所じゃない。さっさと出ていってください」 俺はその手を振りほどき、できるだけ穏やかに言った。 「人を探しに来ただけなんです。見つけたら、自分で出ていきます」 スタッフは鼻で笑い、白けたように目をむいた。 「玉の輿でも狙ってるような奴は、これまで何人も見てきましたよ。こんなパーティーに、あんたみたいなのが入れる立場だと思ってるんですか?これ以上しつこく居座るなら警備を呼びますよ!」 「待って」 そのとき、背後から美咲の声がした。 彼女はドレスの裾をつまみながらこちらへ歩いてきて、俺を見て小さくため息をつき、困ったように言った。 「この人は私に会いに来たの。だから、私が話すわ」 奏太は彼女の隣に立ち、所有を誇示するようにその肩を抱いた。 「白石、俺と美咲はもうすぐ結婚するんだ。少しでも羞恥心ってものがあるなら、このタイミングで元恋人に会いに来たりはしないと思うけど?」 美咲の顔色はさらに悪くなり、とうとう我慢できなくなったように俺を諭した。 「どうしてそこまで私に執着するの?たとえあなたが十年待っていたとしても、私はあなたを愛したりしない。 そもそも、あなたと付き合っていたこと自体が間違いだったの。ようやくその間違いを正す機会を得たんだから、あなたにも早く過去を手放してほしい」 奏太は俺を上から下まで眺め、その目にあからさまな嘲りを浮かべた。 「美咲に会いに来たくなる気持ちは、まあ分からなくもないよ。今の美咲は有名な実業家だからね。取り入ろうと寄ってくる連中がいても不思議じゃない」 おそらく、俺の身につけたしわくちゃの寝間着が彼をいっそう増長させたのだろう。奏太は得意げに言い放った。 「お前だって一応は名門校の出なんだろ?それが今じゃこの有様か。俺がお前なら、恥ずかしくて外なんて歩けないけどね」 美咲は眉をひそめ、スマホを取り出すと、いら立ちをにじませた声で言った。 「昔の別れ方が納得いかないっていうなら、今ここで手切れ金を払ってもいいわ。 一千万で足りる?」 彼女の指が画面の上を二度ほど滑ったところで、不意にその動きが止まった。 「……私の連絡先、削除したの?」 第2話 俺は少し首をかしげた。どうして彼女がそこまで大きく反応するのか、よく分からなかった。 別れたあとに連絡先を消すなんて、普通のことじゃないか。 それに、うちにはとんでもなく嫉妬深いやつがいる。もし俺がまだ元カノの連絡先を残してるって知ったら、きっとしばらく大騒ぎになる。 「前に言っただろ。別れたあと、もう自分を探しに来ないでほしいって」 美咲の表情がすっと冷えた。何か言いたげだったが、結局口にはしなかった。 俺は淡々とした口調で付け加えた。 「手切れ金もいらない。必要ないから」 立て続けに思い通りにならなかったせいか、美咲の顔色はさらに悪くなり、冷たく言い放った。 「今さら私の前で何を取り繕ってるの?今のあなたがあまりにもみじめだから、少し声をかけてあげただけ。そうでなければ、一言だって話したくなかったわ」 奏太はやさしく彼女をなだめた。 「美咲、君は本当に甘いな。こんな男のこと、気にかける必要なんてあるかい?その薄汚れた格好を見れば分かる。どうせ何をやってもものにならない男だよ」 見下したようなその口ぶりは、まるで十年前の自分のほうが俺よりましだったことにでもなっているみたいだった。 前の人生で、美咲の家が娘と奏太の交際に反対したのは、彼に学がなく、裏社会に足を突っ込むようなチンピラだったからだ。 大学で初めて美咲に会ったとき、彼女はちょうど奏太を警察から保釈してきたばかりで、家族に無理やり別れさせられていた。 美咲がいちばん塞ぎ込んでいたあの時期、ずっとそばにいたのは俺だった。彼女がそこから抜け出せるよう、支え続けた。 彼女は写真を撮るのが好きだったから、俺は起業資金にするはずだった金を回して、何十万もする機材を買ってやった。 真冬でも真夏でも、何十キロもある機材を背負って彼女のあとをついて回った。ただ心から笑ってくれれば、それでよかった。 まさか、先に告白してきたのが美咲のほうだったなんて、当時の俺は思いもしなかった。 俺は彼女と奏太の過去を知っていたし、彼女が時おりアルバムの中のツーショットを見つめてぼんやりしているのも見ていた。 だから、美咲に告白されたとき、俺は本気で尋ねたんだ。 本当に奏太のことはもう吹っ切れたのか、と。 あのとき彼女は俺をぎゅっと抱きしめ、きっぱりと言った。 「あれはもう過去よ。誰が本当に自分を大事にしてくれるのか、私はとっくに分かってる。柊真、大好きだよ。付き合って」 俺たちは七年付き合った。それを見て、彼女の親友ですら驚きを隠せなかった。 「あんなに奏太のこと好きだったのに、まさかこんなに続くなんて思わなかった」 けれど、誰も知らなかった。 美咲が人知れず、何度も俺のプロポーズを断っていたことを。 「柊真、私は結婚する気がないの。このままずっと一緒じゃだめ?」 その後、両親からの結婚の催促が厳しくなって、ようやく彼女は結婚に同意した。 だが、新婚旅行の最中、奏太が事故で亡くなったという知らせが届くと、彼女はクルーズ船から海へ身を投げた。ただ一通の遺書だけを残して。 その遺書に綴られていたのは、最初から最後まで奏太への愛だけだった。俺への言葉は一文字たりともなかった。 そして最後に、彼女は血でこう書き残していた。 【奏太、私はこの一生、あなたの花嫁になりたかった。今、あなたのところへ行くわ】 その瞬間、彼女へ向けていた俺の愛も完全に灰になった。 だから、やり直したあとで美咲が別れを切り出してきたとき、俺は引き止めなかった。 引き止めたところで無駄だと、分かっていたからだ。 二人がよりを戻すのを見届けたあと、俺は美咲の連絡先をすべて消した。この人生でもう会うことはないと思っていた。 なのに、まさかこんな場所で再会するなんて。 俺は立ち去ろうとしたが、奏太はなおも食い下がり、どうしても皆の前で俺に恥をかかせたいらしかった。 「美咲に取り入るために、ずいぶん必死なんだな。その格好を見るに、どうせまともに食っていける仕事すらないんだろう。 そうだな、ここで給仕でもやればいい。人に仕えることを覚えれば、月に十八万や十九万くらいは稼げるんじゃないか?」 そばにいた連中も機嫌を取ろうとして、へらへら笑いながら口を挟んだ。 「ここは海市でも一等地のホテルですよ。ここで働けるなんて、あなたみたいな人にはこの上ない幸運でしょう。ほら、水沢さんにお礼を言ったらどうです?」 人に囲まれてしまい、すぐには抜け出せそうになかった。俺は仕方なく言った。 「お気持ちだけで結構です。でも、もう仕事はあります。写真を撮ってるんです」 その一言に、美咲はぴくりと反応して俺を見た。目の奥に複雑な色がよぎり、唇がわずかに動く。 だが彼女はすぐ顔をそらし、そっけなく言った。 「写真でいくら稼げるっていうの?趣味を仕事にしたって食べてはいけないわ。顔なじみだから言ってるのよ。私なら、あなたに仕事を回してあげられる」 俺は一瞬きょとんとしたが、すぐに彼女が勘違いしているのだと分かった。 第3話 写真が好きなのは、別に美咲への未練があるからじゃない。 実際、前の人生であの遺書を見た時点で、俺の気持ちは完全に冷めきっていた。 ただ、生まれ変わって戻ってきたときには、金はもう全部カメラ機材につぎ込まれたあとだった。 中古のフリマに出しても売れず、仕方なく自分で使い始めた。 そしたら、本当に写真そのものが好きになった。 今世では、もう誰かに気に入られるためじゃない。ただ、自分のためだけに撮っている。 俺はもう一度、礼儀正しく美咲の申し出を断った。口調はあくまで丁寧で、よそよそしい。 「自分の趣味だけで生活費は十分まかなえてる。気遣ってくれてありがとう」 俺が恩知らずだとでも思ったのか、美咲の顔に一瞬、怒りがよぎった。 「せっかくチャンスをあげたのに断るなんて。あとで泣きついてきても、もう知らないから!」 俺は何も言わなかったし、彼女にも伝えなかった。 今の俺の写真作品は、いくつかの国レベルの媒体や海外の一流誌に専門で提供している。 著作権使用料だの掲載料だのを合わせれば、収入は美咲にだって引けを取らない。 もっとも、口にしたところで、どうせ大ぼらだとしか思われないだろう。 なにせこのしわくちゃのパジャマ姿じゃ、どう見てもみすぼらしい。 まったく、うちの息子も困ったものだ。どうしても俺に砂場で遊べとせがんできたくせに、少し目を離した隙にまた下へ降りていってしまった。 服を着替える暇もないまま、俺はそのまま追いかけてきたのだ。 そろそろ適当な理由をつけてここを離れようと思った矢先、さっきのスタッフが何かに気づいたらしい。 そいつは俺の服を指さして言った。 「バレンシアガ?その服、どこで拾ってきたんです?まさかここの清掃員で、宿泊客の部屋からくすねたんじゃないでしょうね?」 さすがに俺も眉をひそめた。 「その服が俺の物って可能性はないんですか?」 奏太は鼻で笑い、あざけるように言った。 「お前の物?買えるわけないだろ。金持ちで、お前みたいにだらしない格好のままうろつく人間がどこにいるんだ?」 わざとらしく鼻を押さえる。 「こんなに汚れてるし、洗いもせずにこっそり着たんじゃないのか?」 美咲は俺を見つめ、眉間に深いしわを寄せた。 「柊真、今こんな有様なのに、まだ強がるつもり?」 俺は相手にしたくなくて、そのままスタッフに向かって言った。 「本気で俺が盗んだと思うなら、今すぐ警察を呼べばいいでしょう」 こいつが奏太の顔色をうかがって、ついでに俺を踏みつけて機嫌を取ろうとしているのは分かっていた。 案の定、スタッフの勢いはすぐにしぼみ、小声でぶつぶつ言った。 「今日はホテルに大物のお客様が来てるんです。あんたみたいなのが騒いで、その方を驚かせでもしたらまずいから、通報しないだけですよ」 奏太の目がぱっと輝き、すぐに話をつないだ。 「有馬家のお嬢様のことだろ?ご家族で海市に遊びに来ていて、このホテルに泊まってるって聞いたよ」 美咲もうなずき、目に期待の色を浮かべた。 「今進めているプロジェクト、有馬家が後ろ盾になってくれたら最高なのに」 有馬家のお嬢様という言葉は、熱した油に水を入れたみたいに、たちまち会場の空気を沸き立たせた。 「今日みんながこのパーティーに来たのだって、有馬さんに一目会うためでしょう?このビル自体、有馬家の持ち物らしいし」 「二十代前半で結婚して子どもまでいるって聞いたけど、いったいどこの御曹司と縁談がまとまったんだろうな」 そんなふうに皆が話していると、ロビーの支配人が汗だくで駆け込んできた。後ろにはぞろぞろと人を連れている。 「皆さま、この辺りで七歳くらいの男の子を見かけませんでしたか?これくらいの背の子です」 支配人は汗をぬぐいながら、焦ったように会場内を見回した。 察しの早い者が、この騒ぎの大きさを見てすぐに何かを悟った。 「有馬家の坊っちゃんですか?たしか今年でちょうど七歳ですよね」 パーティーの出席者たちは色めき立ち、慌ててあちこち探し始めた。 見つけさえすれば、有馬家とつながるきっかけになるかもしれないのだから当然だ。 美咲と奏太も探し始め、もう俺に構っている暇はなくなった。 俺は騒然とした会場を見渡し、そのまままっすぐデザートコーナーへ向かった。 案の定、そこにいた。顔じゅう生クリームだらけにした息子の和也(かずや)が下にもぐり込んでいた。 俺は冷たい顔で手を差し出した。 「こっちへ来い」 和也はびくっと肩を震わせ、テーブルの脚にしがみついて離さなかった。 「やだ、行かない」 俺が引っぱり出そうとしたそのとき、奏太がどこからともなく飛び出してきて、もっともらしい顔で俺の前に立ちはだかった。 「白石、何をしてるんだ! 有馬家に取り入ろうとしてるにしたって、子ども相手に手を上げるなんて最低だろ!」 声を聞いて駆けつけた美咲は、俺を見るなり目いっぱい失望をにじませた。 「柊真、まさかあなたが名声や利益のためにこんなことまでするなんて」 スタッフは支配人にすがるように告げ口した。 「こいつです!急にパーティーに押し入ってきたうえに、ほかのお客様の服まで盗んでるんです!」 支配人の顔がたちまち険しくなり、すぐさま警備員を呼んだ。 「この泥棒を取り押さえて、そのまま警察へ突き出せ!もしこいつのせいで坊っちゃんが怖い思いでもしたら、お前たちは全員クビだ!」 奏太の目にしてやったりという笑みがよぎった。彼は腰をかがめ、和也に向かっていかにも親しげな顔を作った。 「さあ、おいで。お兄さんのところへ。お兄さんが守ってあげるからね」 だが和也は彼のことなど見向きもせず、その場にいた全員があっけに取られる中、おそるおそる俺の手をつかみにきた。 「パパ、ごめんなさい」