雪が降り、君はもういない

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雪が降り、君はもういない

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天才経営者と称される白橋優弥(しらはし ゆうや)は生まれつき身体が弱かった。少し歩けば息が上がり、走ると咳き込み、一時間でも薬を切らせ...

Chương (1)

第1章

天才経営者と称される白橋優弥(しらはし ゆうや)は生まれつき身体が弱かった。少し歩けば息が上がり、走ると咳き込み、一時間でも薬を切らせば喀血して倒れてしまう――そんな体だった。 それでも、海川市界隈の名家において、誰一人として彼を軽んじる者はいない。 理由は簡単だ。 優弥のそばには、常に私、上杉美琴(うえすぎ みこと)がいたからだ。 私は――彼のために働く、最も鋭い剣。 十七歳のとき、私はまだ九歳だった優弥を連れて敵の追跡をかいくぐり、命からがら逃げ延びた。二十三歳になる頃には、彼の地位を脅かす相手をすべて排除し、二十八歳では、白橋家のために数百億規模の案件を獲得して、没落しかけていた家を再び名門の頂点へ押し上げた。 気がつけば十一年、私はずっと彼のそばにいた。 幼い頃からの、唯一の友人として。彼の身代わりになって三発の銃弾から守ってあげた恩人として。そして――彼の欲望が暴走しそうになった時の、捌け口として。 周囲の人間には、私たちが闇の中で絡み合うイバラのようだと言われてきた。いつ婚約が発表されても不思議ではない――そう思われていた。 あの女、斉藤ひより(さいとう ひより)が現れるまでは。 彼女は秘書として優弥の前に現れ、彼を外の世界へ連れ出した。夜の街を走り抜けるドライブも、バンジージャンプも、一万メートル上空からのスカイダイビングも、雪山でのスキーも――それまで優弥が一度も経験したことのなかった刺激を、次々と彼に教えていった。 私は最初、それを深く気にしていなかった。 長いあいだ狭い世界に閉じこもっていた彼の遊びたい気持ちが、くすぐられていただけなのだろうと思っていたからだ。 けれど―― 優弥とひよりが海で溺れたというニュースが速報に上がり、私は救助のため現場へ向かった。 そしてそこで、信じられない光景を見ることになる。 異性との接触を極端に嫌っていたはずの優弥が、岸辺で目を真っ赤にしながら、何度も何度もひよりに人工呼吸を続けていたのだ。 私は思わず、自分の手元を見下ろした。 十一年という長い年月の中で、私は一度も、彼の手に触れたことがない。 思わず、乾いた笑いがこぼれた。 ――そうか。 彼は身体的接触が嫌いだったわけじゃない。血にまみれた私の手に、触れたくなかっただけなんだ。 第1話 天才経営者と称される白橋優弥(しらはし ゆうや)は生まれつき身体が弱かった。少し歩けば息が上がり、走ると咳き込み、一時間でも薬を切らせば喀血して倒れてしまう――そんな体だった。 それでも、海川市界隈の名家において、誰一人として彼を軽んじる者はいない。 理由は簡単だ。 優弥のそばには、常に私、上杉美琴(うえすぎ みこと)がいたからだ。 私は――彼のために働く、最も鋭い剣。 十七歳のとき、私はまだ九歳だった優弥を連れて敵の追跡をかいくぐり、命からがら逃げ延びた。二十三歳になる頃には、彼の地位を脅かす相手をすべて排除し、二十八歳では、白橋家のために数百億規模の案件を獲得して、没落しかけていた家を再び名門の頂点へ押し上げた。 気がつけば十一年、私はずっと彼のそばにいた。 幼い頃からの、唯一の友人として。彼の身代わりになって三発の銃弾から守ってあげた恩人として。そして――彼の欲望が暴走しそうになった時の、捌け口として。 周囲の人間には、私たちが闇の中で絡み合うイバラのようだと言われてきた。いつ婚約が発表されても不思議ではない――そう思われていた。 あの女、斉藤ひより(さいとう ひより)が現れるまでは。 彼女は秘書として優弥の前に現れ、彼を外の世界へ連れ出した。夜の街を走り抜けるドライブも、バンジージャンプも、一万メートル上空からのスカイダイビングも、雪山でのスキーも――それまで優弥が一度も経験したことのなかった刺激を、次々と彼に教えていった。 私は最初、それを深く気にしていなかった。 長いあいだ狭い世界に閉じこもっていた彼の遊びたい気持ちが、くすぐられていただけなのだろうと思っていたからだ。 けれど―― 優弥とひよりが海で溺れたというニュースが速報に上がり、私は救助のため現場へ向かった。 そしてそこで、信じられない光景を見ることになる。 異性との接触を極端に嫌っていたはずの優弥が、岸辺で目を真っ赤にしながら、何度も何度もひよりに人工呼吸を続けていたのだ。 私は思わず、自分の手元を見下ろした。 十一年という長い年月の中で、私は一度も、彼の手に触れたことがない。 思わず、乾いた笑いがこぼれた。 ――そうか。 彼は身体的接触が嫌いだったわけじゃない。血にまみれた私の手に、触れたくなかっただけなんだ。 …… 気づけば、優弥の人工呼吸に助けられ、ひよりは意識を取り戻していた。 「ひより……よかった。本当に……心臓が止まるかと思ったよ」 優弥の安堵しきった声を聞くと、ひよりは返事をする代わりに私へちらりと視線を向け、挑発するように小さく笑った。そしてそのまま、両手で優弥の頬を包み込み――唇を重ねた。 周囲から一斉に歓声が上がる。 私は少し離れた場所で、ただその光景を見ていた。 胸の奥が、静かに軋んだ。 十一年間、彼のボディーガードとしてそばにいた私はよく知っている。優弥がどれほど異性との接触を嫌っていたか。 髪がわずかに触れただけでも、熱い湯で何度も身体を洗い直し、皮膚が裂けるほど擦り続けるような人だ。 たとえ理性を失いかけた夜でさえ、それでも彼は何重にもラップを巻いて、決して私の肌に直接触れようとはしなかった。 それでも私は待っていた。彼が過去の影を乗り越える日を、心から私を受け入れてくれる日を待ち続けていたのだ。 けれど、十一年待っても、その日は来なかった。 ひよりは、三ヶ月もかからなかったのに。 彼女はまるで火のようだった。優弥の胸に積もっていた氷を、あっけないほど簡単に溶かしてしまった。 これまでの十一年間、私は沈黙することに慣れていた。感情を隠すことにも、闇の中で動くことにも、両手が血に濡れることにも。彼のためなら、自分がどれほど汚れてもいいと思っていた。 けれど、ひよりは違う。 彼女はまるで太陽みたいだった。いつも明るく笑って、次から次へと面白い話を口にして、彼を笑わせていた。 私は彼女のように話題を見つけることができなければ、人を楽しませることもできない。 私の人生で一番大事なのは、優弥を守り、それを繰り返し続けること。ひよりのように彼にときめきを与え、楽しい世界を見せることなど――私にはきっと、一生かかっても真似できないだろう。 そして、白橋家はすでに頂点へ返り咲き、優弥が誰かに狙われることもなくなった今、敵を仕留めることしかできない剣は、もう必要ないのかもしれない。 しばらくして、空は暗く沈み、細かな雨が降り始めていた。 ひよりの腕の中からようやく離れた優弥が顔を上げ、傘を差したまま立っている私に気づく。 「……美琴?来てくれてたんだ」 その表情に浮かんだ笑みが、ほんのわずかに固まった。私がここにいるとは思っていなかったのだろう。 胸の奥に込み上げてくるものを押し込めるように、私は一度深く息を吸い、何事もない顔で歩み寄ると、彼のために用意した傘を差し出した。 「優弥様。傘を」 優弥はそれを受け取ろうとして、申し訳なさそうに小さく笑った。 けれど、その指先が傘の柄に触れかけた瞬間、ほんのわずかに止まる。そして私の手に触れないよう、わざと角度を変えて反対側から握り直した。 たとえ手袋越しでも、ほんの一瞬でも、彼は私に触れようとはしなかった。 おそらく、それは本能に近い行動だろう。私は思わず苦笑いをこぼした。 優弥も私の表情の変化に気づいたようで、何か言いかける。 「美琴、俺は……」 けれど私は首を横に振って、その言葉を遮った。 「私のことなら気にしないでください。まずは斉藤さんを家まで送ってあげましょう」 それだけ言うと、私は傘も差さず、そのまま雨の中へ歩き出した。 背後では、ひよりの明るい声が弾む。 「ねえ優弥さん、私、体調は大丈夫ですし、サーフィンの続きをやりましょうよ」 優弥は生まれつき身体が弱く、しかも高いところが苦手だ。昔、山中に身を隠していたときなど、足が震えて一歩も動けなくなったことすらある。 ましてやさっき、命の危険にさらされたばかりだ。慎重な優弥が、そんな提案を受け入れるはずがない―― そう思ったのに。 「……まったく、君には敵わないな」ため息まじりに、優弥は笑った。「でも約束だ。安全対策はちゃんとすること。さっきみたいなことがまた起きたら……本当に困るんだから」 その声には、はっきりとした甘さが混じっていた。 私は思わず足を止める。 たった三か月。それだけの時間で、人はここまで変わるものなのか。あんなふうに笑って、あんなふうに人と軽口を交わして、まるでごく普通の人みたいに。 本当なら、喜ぶべきことだ。 だが今、胸の奥に残ったのは、言葉にならない苦さだけだった。 しばらくして、私は小さく首を振り、そのまま病院へ向かった。兄、上杉安彦(うえすぎ やすひこ)の見舞いに行くためだ。 七年前、私が何度も優弥を守ったことへの報復として、白橋家の敵は兄を狙った。その結果、兄は両目の視力を失い、身体もすっかり弱ってしまった。 せめて少しでも元気になってもらいたくて、私は兄が好きな店のクッキーを買った。 「兄さん、今日は――」 病室の前でいつものように笑顔を作り、扉を開けたその瞬間だった。 手にしていた紙袋が、足元に落ちる。 病室の中で、マスクをした男が兄の首を両手で締め上げていた。兄の顔はすでに紫色に変わりかけている。 「兄さんを離して!」 私は反射的に駆け出そうとした。 そのとき、背後から聞き慣れた声が鋭く響いた。 「美琴、動くな!」 第2話 優弥だったのだ。 その声に、私は思わず動きを止めた。どうして優弥がここに? けれど考える暇はなかった。振り返りながら、私は思わず声を張り上げる。 「優弥様、兄さんはもう息が――!」 しかし優弥は、表情一つ変えずに言葉を続けた。 「動くなと言ったはずだ。俺の命令に背くつもりか?」 私は兄のほうを見る。酸欠で唇はすでに紫色に変わりかけていた。 身体が、考えるより先に動く。 「申し訳ありません、優弥様。今回の命令には……従えません」 男を蹴り飛ばし、そのまま兄のもとへ駆け寄って呼吸を整えさせる。 その瞬間――病室の空気が一気に張り詰めた。優弥の表情が、さらに暗く沈む。 「……いい度胸だな、美琴。やはり兄妹そろって、裏で手を組んでいたというわけか」 意味がわからず、私は思わず振り返る。 「優弥様……何を仰っているんですか?」 優弥は冷たく笑い、果物の入ったバスケットを床に放り投げる。 「ひよりがサーフィン中に海水を飲んで、苦しそうにしてたから、念のため病院に連れて来た。だが回復しかけたところで、突然激しく嘔吐して、そのまま意識を失った。 その直前に病室を訪ねてきたのは――君の兄だ」 私は息を呑む。 優弥の声がさらに低くなる。 「君が嫉妬心に駆られ、兄に毒を盛らせたんじゃないのか?美琴、今すぐ解毒剤を出せ」 その言葉を聞いた瞬間、兄がふらつく身体で私の前に立ち、はっきりとした声で言った。 「白橋社長、命にかけて誓います。私は毒など入れていません。斉藤さんがあなたのご友人だと聞いたから、見舞いに果物を持って行っただけです。この件は妹とも無関係です。どうか誤解を解いてください」 兄の性格は、誰より私が知っている。 子どもの頃、自分が空腹で苦しんでも、道端の物乞いに食べ物を分け与えるような人だった。 報復を受け、視力を失い、デザイナーになる夢まで奪われた今でも、誰かを恨む言葉を一度も口にしなかった。 そんな人が、理由もなく誰かに毒を盛るはずがない。 けれど優弥は、ただ薄く笑っただけだった。 「つまり、俺の勘違いだと?」 そう言って彼はポケットから、小さな銀の鈴を取り出して、軽く振った。 「ちりん」と、その音が響いた瞬間、私の腹の奥に激痛が走った。まるで無数の蟻が内側から血肉を噛み裂いていくような痛み。 思わず悲鳴が漏れ、膝から崩れ落ちる。 ボディーガードとしての経験が、即座に答えを導き出していた。 これは――かつて優弥の両親を死に追いやり、私が焼き払ったはずの毒虫の呪術だ。 私は震えながら優弥を見上げる。 「優弥様……どうして?」 優弥は、まるで当然のことのように言う。 「意外だったか?人の心は読めないからな。君が裏切られない保証はどこにもない。だから何年も前に、君の体には毒虫を入れておいた。死にたくなければ、解毒剤を出せ」 その言葉と同時に、痛みがさらに強まった。けれど、身体の痛みよりも、胸の奥の方がずっと痛かった。 十七歳のあの日から、私は自分の命を優弥に預けてきた。人を斬り、弾丸を受け、汚れ仕事も全部引き受けてきた。 愛されなくてもいいと思っていた。主従の関係でも構わなかった。それでも――信頼だけはあると思っていた。 なのに、私の存在は結局、毒虫で縛っておかなければならない狂犬でしかなかったのか。 「……知りません。解毒剤なんて、持っていません」 優弥の表情がさらに冷えた。 「美琴、俺を恨まないでくれ」 再び鈴を振ろうとした、そのときだった。病室の扉が勢いよく開き、看護師が駆け込む。彼女の手には一枚の紙が握られていた。 「白橋社長……検査結果が出ました。全部誤解なんです!斉藤さんは中毒じゃありません、重度の食物アレルギーです。マンゴーを口にしたことでアナフィラキシーを起こしただけで、今はもう意識も戻っています!」 第3話 その場の空気が、一瞬で変わった。 真相が明らかになり、私は腹を引き裂かれるような痛みに耐えながら、大きく息を吐いた。 ――よかった。 けれど次の瞬間、背後で兄の身体が大きく震え、黒い血が吐き出される。 「兄さん?」 慌てて彼を抱き起こした私は、その異変に気づいて凍りついた。兄の体内にも――毒虫がいるのだ。 私は優弥に振り向く。 「優弥様……もう誤解は解けたはずです。どうして兄にまでこんなことを?」 しかし優弥は、ただ鼻で笑った。 「命は許してあげてもいいが、罰はきちんと受けてもらう。余計な物を持って行かなければ、ひよりがあんな目に遭うこともなかった。 今回は、その罰として、体内の毒虫の一部を刺激しただけだ」 私は言葉を失った。目の前にいる優弥が、まるで知らない人のように見える。 七年前、私は彼のために、一人で敵対一族の屋敷へ乗り込み、彼らを皆殺しにした。その夜から私は「血染めの薔薇」と呼ばれるようになった。 残党は復讐として放課後の兄をさらい、硫酸で両目を焼いた。兄はそのときさえも、優弥を一度も責めなかった。むしろ優弥の肩に手を置いて、「あなたのせいじゃない、自分を責めなくていい」と慰めていた。 なのに今――優弥は、知り合って三ヶ月もないひよりのために、兄を苦しめている。 胸の奥で何かが切れた。 気づけば私は、もう主従関係などを忘れて叫んでいた。 「何も見えない兄が、悪意を持って斉藤さんを傷つけるはずがないでしょう?仮に果物かごにマンゴーが入っていたとしても、兄は見えません。でも、斉藤さんは見えるでしょう?自分が何にアレルギーがあるかくらい分かっていたはずです!」 優弥の表情が一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間、空気がさらに冷えた。 「美琴、最近ずいぶんと言うようになったな。自分の立場を忘れてないか?白橋家の当主はこの俺だ。そして君は、俺が飼っている犬に過ぎない。君に、俺の判断に口出しする資格はないのだ」 それだけ言うと、優弥は振り返ることもなく病室を出ていった。 ――私は、彼が飼っている犬に過ぎない。 その言葉が胸の奥に落ち、私は思わず苦笑いした。 七年前、三発の銃弾を彼の代わりに受け、手術室で意識が途切れかけていたとき、優弥は泣きながら言った。 「美琴、死なないでくれ……頼む……君だけが頼りなんだ。君がいなくなったら、俺にはもう何も残らない。白橋家が立て直せたら――俺と一緒に、白橋家の主人として、一族を支えよう」 私はその言葉を信じていた。 けれど、彼を当主の座へ戻し、白橋家を再び頂点へ押し上げたあと、唯一の頼りだった私は、彼に飼い慣らされている犬に成り下がった。 だが、今の私に悲しんでいる時間はなかった。私はぐったりした兄を抱き上げ、救急室へ走った。 「先生、お願いします!いくらでも払います!兄を助けてください!」 けれど先頭に立っていた医師は苦しそうに目を伏せた。 「上杉さん……お気持ちは分かります。ですが、白橋社長から指示が出ています。あなたのお兄さんの手術を引き受けた者は、A市で働けなくなると。私たちにも家族がいます……申し訳ありません」 頭の中が真っ白になった。 優弥は、ひよりのために兄を見殺しにするつもりなのか。 兄の呼吸がどんどん浅くなる。私は奥歯を強く噛み締め、そっと兄をベッドに寝かせると、そのままひよりの病室へ向かった。 優弥に頼むしかない。 兄は私や白橋家のために、あまりにも多くのものを失った。こんな形で死なせるわけにはいかない。 扉を勢いよく押し開けた、その瞬間――私は立ち止まった。 第4話 病室の中で、かつて異性との接触を極端なまでに嫌っていたはずの優弥が、口に含んだ液剤を、そのまま唇を重ねる形でひよりへ少しずつ飲ませていた。 それはもう、上司が部下を気遣うという範囲を明らかに越えていた。 次の瞬間、優弥が私に気づき、視線が一気に冷えた。 「美琴、何をしに来た。またひよりに何かするつもりか?」 胸の奥が締めつけられる。けれど私はその場で膝をついた。 「優弥様……先ほど、失礼なことを言って申し訳ございませんでした」 床に額が触れる。 「どうか……兄を助けてください」 もう一度、床に額を打ちつける。 「お願いします……」 鈍い音が響く中、優弥は何も言わなかった。 やがて、ベッドに座っているひよりが、わざとらしく小さく息をついた。 「優弥さん、もういいんじゃないですか?私はもう平気ですし、上杉さんだって長い間優弥さんを守ってきた人なんでしょ?これまで尽くしてくれたことに免じて、お兄さんのこと、許してあげましょ?」 その言葉に、優弥は優しくひよりの額を指先で弾いた。 「君は本当に甘いな。人を疑うことを覚えないと損をするぞ」 そう言ってから、懐から鈴を取り出して軽く振ると、冷たい目で私を見た。 「今回だけだ。もしも次があったら……どうなるか君ならわかるはずだ」 それだけ言うと、優弥は果物を洗いに、隣の部屋に入った。その背中が消えた瞬間、ひよりが私に向かって笑う。 「あんた、白橋家で一番鋭い剣なのに、ずいぶんと落ちぶれたものね。お兄さんって、そんなに大事?目が見えなくなっても平気だったって聞いたけど――もし鼓膜まで潰されたら、どうなると思う?」 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。気づけば私は立ち上がり、ひよりの胸元を掴んでいた。 「斉藤さん、兄に指一本でも触れてみなさい。あなたの両手を斬り落とし、兄を狙ったことを一生後悔させてやります」 けれどひよりは、少しも怯えなかった。むしろ楽しそうに笑う。 「あら、脅してるつもり?」 次の瞬間――彼女はベッド脇のマグカップを掴み、中の熱い湯を自分の足へ浴びせた。 「っ……!足が……!」 その声が聞こえた優弥がすぐ戻ってきた。 「ひより!どうした?火傷か?」 ひよりは顔を歪めながらも、なお私を庇うような声を出した。 「優弥さん……私は大丈夫だから、上杉さんのことを怒らないでください。私……ただ上杉さんのお兄さんに謝りたくて会いに行こうとしただけなんです。でも、上杉さんに嫌われてるみたいで……」 優弥の視線が跳ね上がり、怒りが露わになる。 彼の手が上がる。それは、私を打とうとしているのだろう。 けれど――その手は空中で止まり、結局下ろされなかった。 理由は明白だ。 優弥が情けをかけたからではなく、汚れた私に触れたくなかっただけだ。 その代わりに、彼は再び銀色の鈴を取り出した。 「美琴、君には失望したよ」 次の瞬間、毒虫が体内で暴れ出す。 「俺の気が済むまで、外で跪いていろ。従わなければ――君の兄も一緒に跪かせる」 その直後、私はボディーガードたちに腕を掴まれ、病院の花壇の前まで引きずり出された。 冷たい雨が降り続け、全身が濡れていく。やがて額が熱を帯び始めた。 ぼやけた視界の向こうで、病室の中では優弥がひよりの足に丁寧に薬を塗っていた。ときどき顔を見合わせて笑っている二人は、まるで恋人同士のようだ。 意識が遠のいていく。そのまま私は、静かに倒れ込んだ。 …… 目を覚ましたとき、私は兄の病室のベッドに横たわっていた。兄が傍らに座り、冷たい手で私の手を握っている。 「美琴……目が覚めたか」 そう気遣ってくれる兄の顔色はまだ悪く、胸が締めつけられる。 「ごめんなさい、兄さん。心配かけて……私が不甲斐ないせいで……」 兄は首を振った。そして静かに病室の鍵をかけると、枕の下から小さなガラス瓶を取り出し、そっと私の手のひらに押し込んだ。 「私の方こそ、足手まといになって、すまない。 これは、ずっと探していたんだ毒虫の呪術を解除するための薬だ。本当はもっと前に渡すつもりだったけど、まさかこんなことになるなんて…… 私たちはもう縛られる必要はない。一緒に行こう、美琴。白橋家を離れて、遠くへ行こう」 自由。それはすぐ目の前にあった。 けれど――私の脳裏に浮かんだのは、優弥の祖父、白橋康二(しらはし こうじ)の姿だった。 両親を亡くしたあの頃、私たち兄妹を引き取り、居場所をくれたのは彼だった。 十一年前、白橋家が崩れかけたあの日、私は、優弥を一生守ると彼と約束したのだ。その恩も、約束も、無かったことにはできない。 迷いが胸に広がるそのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。部下からの連絡だった。 届いたメッセージには短い一文だけ。 【隊長。康二様が意識を取り戻しました】 第5話 悩んでいる暇がなく、私はすぐに立ち上がり、白橋家の本邸へ向かった。 やがて雨の向こうに、見慣れた大きな屋敷の輪郭が浮かび上がる。 この家に来たばかりの頃、私と兄は歓迎されていたわけではなかった。むしろ使用人の中には、面と向かって私たちを「厄介者」と呼ぶ者さえいた。 ある日、兄のたった一つのおもちゃをある使用人の息子に奪われ、そのまま井戸へ投げ捨てられたことがある。私は抗議したが、息ができなくなるほど胸を蹴られていた。 ――寄る辺のない子供なんて、所詮こんなものだ。 あの頃の私は、本気でそう思っていた。 けれど、そこへ優弥が駆け込んできてくれた。 まだ幼く、綺麗な洋服を身に纏っている彼は、小さな獣みたいな勢いで飛び込んできた。その少年を蹴り倒すと、馬乗りになって、鼻血が飛び散るほど容赦なく殴りつけた。 その後、優弥は私に手を差し伸べ、真っ直ぐな瞳で私を見ながら言った。 「お姉ちゃん、誰かにいじめられたら、ちゃんとやり返すんだよ。君は白橋家の人間。君に手を出すってことは、俺に喧嘩売るのと同じだ」 あの瞬間、胸の奥に沈んでいた劣等感も、不安も、全部吹き飛んだ。 あの子は――私を救ってくれた。 だから私は決めた。彼のために強くなると。格闘も射撃も、戦うために必要なものは全部覚えた。いつか必ず、彼の剣になって、邪魔者をすべて排除できるように。 あの頃の優弥は、異性を嫌ってなどいなかった。変わったのは、九歳のあの事件からだった。 突然の事故で優弥は両親を失い、祖父の康二も衝撃のあまり倒れて昏睡状態に陥った。家は混乱し、敵が一斉に押し寄せた。 その混乱の中、白橋家に恨みを持つ投資家の一人が優弥を誘拐し、売り飛ばそうとしていた。私が駆けつけたとき、優弥はベッドに縛りつけられ、年老いた女性が服を脱ぎながら笑って彼に近づいていた。 私は迷わず刃を振るった。混乱の隙に優弥を連れ出し、どうにか救い出した。 体に傷ひとつなかった彼だったが、心に深い傷が残った。 それ以来、優弥は女性との接触を極端に嫌うようになった。私でさえ例外ではない。 …… 気がつくと、タクシーは本邸の門前に停まっていた。私は料金を払い、すぐに車を降りて康二の書斎へ向かう。 書斎の奥で、康二はゆったりした服装のまま椅子に座っていた。顔色はまだ青白いが、意識ははっきりしているようだ。 「美琴、久しぶりだな……」 そこまで言いかけて、私の額に残った血の跡に気づいた瞬間、康二の目に痛ましさが浮かんだ。 「美琴……今日は、白橋家を離れるつもりで来たんだろう」 私は否定できず、黙ってうなずいた。もう――ここに残る理由はなかった。 康二は長く息を吐く。 「目が覚めてから、最近のことは一通り聞いた。この十一年間、お前たち兄妹は白橋家のために多くを失った。本当にすまなかった」 そう言うと、机の引き出しから一つの封筒を取り出し、私に差し出す。 「お前の気持ちは分かっている。だが優弥のやつは……完全に道を踏み外した。頼む。最後に一度だけでいい、白橋家にもう一度だけ機会をくれないか?優弥に完全に見切りをつけたと思ったときでいい。そのとき、この封筒を開けてくれ」 私は黙って封筒を受け取った。胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻く。 返事をしようとしたその瞬間、書斎の扉が勢いよく開けられた。 「美琴、まさかここまで卑怯になるとはな」 優弥が扉の前に立ち、顔に露骨な軽蔑を浮かべたまま、背後にはひよりが立っている。 「おじいさまが目を覚ました途端、さっそく告げ口か?何を言いに来た?俺に虐待されたとでも?それとも、ひよりにはめられたとでも言うつもりか?」 「やめろ!」 康二が机を叩いた。身体を震わせながら怒鳴る。 しかし優弥は気にも留めない様子で続けた。 「まあいい。今日は別の話をしに来た。おじいさま、俺はひよりと婚約する。ひよりの母親の最後の願いは、彼女が早く結婚して幸せになることだった。それを叶えてあげたい」 康二の唇が震えた。 「お前……」 けれど結局、彼は長く息を吐き、疲れ切った様子で目を閉じた。 「優弥……血圧の薬を取ってきてくれ。私は……斉藤さんと少し話がある」 それは、優弥を外へ出すための言い訳だと、すぐに分かった。 案の定、優弥が部屋を出ると、ひよりは可愛い笑顔を作りながら康二のそばへ歩み寄った。 「おじいさま、そんなに怒らないでください。お身体に――」 「触るな!」 康二が彼女の手を払い、怒鳴りつける。 「その程度の小細工で私の目を欺けると思うな。お前は美琴の足元にも及ばん。私が生きている限り、白橋家に嫁ぐなど絶対に許さない!」 ひよりの笑顔が固まった。目の奥に暗い光が走る。 次の瞬間、ひよりはちらりと私を見て、康二が背を向けた隙に――思いきり彼を突き飛ばした。 「この老いぼれ!そこまで言うなら、いっそ死ねばいいわ!」 康二の身体がよろめき、机の角に後頭部を強く打ちつけ、そのまま崩れ落ちた。 私は反射的に駆け出そうとしたが、そのとき、背後から優弥の叫び声が響いた。 「おじいさま!」 第6話 駆け込んできた優弥は、血だまりの中に倒れている康二の姿を見て、その場で凍りついた。 「早く……早く救急車を!」 屋敷の中が一気に騒然となった。 そんな混乱の中で、優弥は突然、私の襟をつかんだ。 「美琴、これはどういうことだ?」 答えようと口を開いたその瞬間、背後からひよりの震えた声が響く。 「優弥さん、全部……上杉さんがやったんです。さっき、おじいさまが私たちの婚約を認めてくださって……それで上杉さんが怒って、おじいさまを突き飛ばしたんです!」 その言葉に、私の胸の奥が一気に熱くなった。 「斉藤さん、でたらめを言わないでください!」 けれどひよりは怯えたふりをして、優弥の背中に隠れた。 「優弥さん、助けて!今度は私まで殺されちゃう……」 その瞬間、優弥は怒りをあらわにし、机の上にあった湯呑みを掴んでは、私の額に叩きつけた。 「美琴、いい加減にしろ!おじいさまをあんな目に遭わせておいて、今度はひよりまで狙うつもりか!」 鈍い音とともに、熱い茶が血と混ざって額を流れ落ち、視界が赤くにじむ。 私は優弥を、十一年間、命を懸けて守ってきた相手をまっすぐに見つめた。そして、奥歯を噛みしめながら聞く。 「優弥様……この私は、信用できないというのですか?」 優弥は一瞬だけ黙った。けれど次の瞬間、冷たい笑みを浮かべる。 「ああ、信用できないな。最近の君はつくづく卑怯で見苦しい。気に入らない相手なら、誰でも排除するつもりか?今日こそ、白橋家の当主として、君という狂犬の牙を抜いてやるよ」 直後、優弥の命令で黒服のボディーガードたちが一斉に部屋へなだれ込み、私を取り囲んだ。 幼い頃から鍛えられている私は、七、八人くらいなら余裕に勝てる。けれど体内の毒虫の影響がまだ残っていた。身体が思うように動かず、気づけば、床に押さえつけられていた。 優弥は静かに言った。 「美琴。君は白橋家で育ってきた。ならば――白橋家の掟に従って裁くのが筋だろう」 そう言って使用人に命令する。 「鞭を持ってこい」 使用人が持ってきたのは、無数の棘が埋め込まれている、黒い革の鞭だった。本来なら、それは裏切り者にだけ使われる刑具で、一撃で相手を気絶させられるほどの威力を持つ。 それを知りながら、優弥はためらわずに鞭を振り下ろした。 背中に激痛が走り、肉が裂ける感触が伝わる。思わず息が漏れるが、それでも声を出さないよう歯を食いしばった。 「おじいさまを傷つけたのは君だな?」 さらに鞭を振り下ろす。 「答えろ!」 いくら殴られても、私は床に額を押しつけ、汗と血が流れるのをただ見つめているだけだった。 鞭が振り下ろされて十回目になった頃には、背中の感覚はほとんど消えていた。優弥の呼吸も荒くなり、鞭を握る手がわずかに震えている。 そのとき――ほんの一瞬だけ、彼の目の奥に迷いのようなものがよぎった気がした。 ひよりもその変化に気づいたのか、すぐに口を開く。 「優弥さん……もう、このくらいにしましょう?上杉さんも、わざとじゃなかったのかもしれません。私に嫉妬して、つい感情的になっただけだと思うんです。これ以上続けたら……命に関わるかもしれませんし、優弥さんの名誉だって傷ついてしまいますよ」 優弥はしばらく黙り込んでいたが、やがて冷たい声で言った。 「美琴。ひよりに土下座して謝罪しろ。罪を認めるなら、今回は見逃してやる」 私は顔を上げた。血ににじむ視界のまま、まっすぐ優弥を見据える。 「私は無実です。謝罪することはできません」 その一言を聞いた瞬間、優弥の表情が完全に変わった。 「いいだろう。そこまで言うなら――こっちにも考えがある」 彼はスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。 次の瞬間、目の前の大型テレビの電源が入った。 それだけではない。屋敷のテレビにとどまらず、街中の放送網にも接続されたのか、同じ映像が一斉に流れ始める。 画面に映し出されたのは――ほかでもない、私の兄だった。 七年前、路地裏で敵に囲まれたあの日。硫酸を浴びせられて視力を奪われ、さらに尊厳まで踏みにじられた――そのときの記録映像だった。 第7話 映像の中では、あの連中が下卑た笑い声を上げながら、兄をいたぶっていた。目的は一つ。私と優弥の居場所を吐かせること。 あれは、兄の人生を変えてしまうほどの出来事だった。明るくて、自信に満ちていた兄は、あの日を境に、別人のように口数が少なくなった。 「やめて!」 気づけば私は叫んでいた。全身の力で拘束を振りほどき、そのままテレビに飛びかかって拳を叩きつけた。 画面が割れるのを確認すると、周囲のボディーガードが持っていた端末を奪い取っては叩きつけ、一つずつ壊していく。 けれど――それは無駄な足掻きでしかなかった。 優弥は最初からすべてを手配していたのだ。 その映像は同時刻、この屋敷だけではなく、街中の大型ビジョンにも、駅のモニターにも、路地裏の小さなテレビにまで流されていた。 兄の人生でいちばん苦しくて、いちばん尊厳を踏みにじられた瞬間が、街中に晒されている。 優弥が私の前に歩み寄ると、自分のスマートフォンを突きつけた。 映っていたのは、動画のコメント欄だった。 【誰だこのイケメン?随分大胆だな】 【七年前の映像?趣味変わってんな】 【男でもここまで綺麗なのかよ。俺も仲間を呼んで一緒に行くから、場所教えてくれよ】 その言葉の一つ一つが、棘みたいに胸に刺さる。 優弥は満足そうに言った。 「ほら見ろ。俺に逆らうと――こうなるんだ」 その瞬間、心にある何かが完全に切れた。私は優弥を突き飛ばし、そのまま頬を打った。 優弥は数歩よろめき、信じられないものを見るように、私を見つめている。 「冗談だろ、美琴……君、俺に手を上げた?」 私は何も答えなかった。そのまま屋敷を飛び出し、まっすぐ兄が入院している病院近くの公園へ向かった。兄が気持ちを落ち着けたいとき、いつも一人で来る場所だ。 やはり――そこに兄が数人の男に囲まれている。髭面で、ガラの悪そうな連中が、兄の顔をスマートフォン画面と見比べながら笑っていた。 「動画のやつ、やっぱりお前じゃねえか」 「俺たちと来いよ。動画より気持ちよくしてやるからさ」 「兄さんから離れて!」 私は叫ぶと同時に彼らに飛びかかり、何発も拳を叩き込む。 あっという間に全員が地面に転がった。 兄が私の声に気づき、一瞬だけ顔が明るくなる。けれどすぐに拳を握りしめ、苦しそうに言った。 「美琴……ごめんな。また私のせいであなたを巻き込んでしまった。あと三年……いや、それよりも早く、私たちの会社を立ち上げる。白橋家なんて、必ず潰してあげる。 美琴……これからは、兄さんがあなたを守るから」 胸が締めつけられ、私はうなずき、強く兄を抱きしめた。 心の奥は、静かに冷えきっていった。 優弥は、どうしてこんなことができたのか。 九歳のとき、同じ恐怖にさらされた彼なら、あの絶望を誰よりも知っているはずだ。それなのに、ただ私に仕返しするために、私の一番大切な人を傷つけ、その倍以上の絶望を味わわせた。 その瞬間、十一年間守り続けてきたものが、音を立てて崩れた。白橋家への最後の情も、もう何も残っていなかった。 兄を病室まで送り届け、安全を確認してから、私は一人で病院の屋上へ向かった。そして、康二から渡された封筒を開けた。 中身を見た瞬間、私は目を見開いた。 第8話 封筒の中に入っていたのは、二通の書類だけだった。 一通は、当時、白橋家が私たち兄妹を正式に引き取った際の法的書類。そしてもう一通は、康二の署名が記された護衛任務解除届だった。ここに私が署名すれば、その瞬間から私は白橋家と何の関係もなくなる。 今までの私への報酬として、四億円が入った口座と、兄の目を治療してくれる海外の医療機関の紹介状まで用意されていた。 つまり――康二は最初からすべてを読んでいたのだ。 私は迷わずペンを取り、任務解除届の署名欄に自分の名前を書いた。続けて、兄から渡されていた瓶を取り出し、中の薬を一気に飲み干す。 薬が体の奥へ入ってしばらく経つと、長年体内に巣食っていた毒虫が、少しずつ弱っていくのがはっきり分かった。長い間私を縛り続けていたものが、静かに消えていく。 念のため、私はその足で弁護士のもとへ向かい、任務解除届をその日のうちに公証してもらった。 これで終わりだ。もう私は、誰かの剣でもなければ、誰かの犬でもない。私は私として、兄と二人で生きていく。 すべてを終えたあと、私はこれまで暮らしていた小さな家へ戻った。古びた建物だが、優弥と逃げ回っていたあの頃の記憶が、すべて詰まっている場所でもあった。 彼が初めて貯めたお金で買ってくれたネックレス。私が銃弾を受け止めたとき着ていた、穴だらけの血まみれの服。 それらには手をつけなかった。 私はただ、冬物の衣類をいくつかだけ選び、静かにスーツケースへ詰めた。極圏に近い国の冬はずっと寒く、こちらよりずっと早く来るから。 荷造りを終えたそのとき、扉がいきなり開き、優弥が入ってきた。 ここしか行く場所がないとでも思ったのだろう。 私の手元のスーツケースを見て、彼はわずかに眉を寄せた。 「……何をしてる?」 私は淡々と答えた。 「冬のための支度です」 それを聞いて、優弥は少しだけ表情を緩めた。そしてカバンの中から鍵を取り出し、私に差し出す。 「俺が持っている別荘の鍵だ。お詫びに君にプレゼントする」 少しだけ言いにくそうに続ける。 「お兄さん……危ない目に遭ったって聞いた。感情に流されて、俺は少しやりすぎてしまった。動画はもう全部下げさせたから、安心しろ」 一呼吸置いてから、彼は続けた。 「こんな古い家、もう限界だろ。お兄さんと一緒にあっちへ移れ。警備もしっかりしてるから」 けれど、私は鍵を受け取らなかった。優弥は少しだけ気まずそうに、鍵を机の上に置く。 「さっきは言い過ぎたって、俺も反省してる。でもな、おじいさまに手を出した君にも非がある」 その言葉を聞いて、私は胸の奥で苦笑いをした。 一緒に十一年を過ごしただろうと、私は彼の信頼を勝ち取れなかった。けれどもう、説明する気力すらない。康二が目を覚ませば、真実はいずれ明らかになるだろう。 黙ったままの私を見て、優弥は少し戸惑う。やがて、ため息をついて、探るように言う。 「……美琴、ひよりに嫉妬してるのか?誤解するな、俺とあいつは何もない。彼女の母親の願いを叶えるために、結婚してあげるだけだ。すべてが終わったら、すぐ離婚する。その時、俺たちは籍を入れよう」 その言葉を聞いても、私は黙ったままだった。夢見ていた言葉が今、ただ虚しく響いただけだった。 私が何も言わないままでいると、優弥は苛立ったように息を吐いた。 「まあ……よく考えてみてくれ。俺はひよりと婚約式の準備があるから、もう行くよ」 そう言って、部屋を出ていった。 静かになった部屋の中で、私はしばらく立ち尽くしていた。それから、思い出の品々を集めると、焼却炉に入れて、全部燃やした。 過去も、記憶も、全部灰になっていく。 私は振り返ることなく、兄と合流し、海外行きの便に乗った。 これから先、もう二度と白橋家と関わらないと、心に決めた。 …… その頃、病院の手術室から、看護師が興奮した様子で飛び出してきた。 「意識が戻りました!」 声が廊下に響く。 「白橋康二様の手術が成功して、意識が戻りました!すぐに優弥様へ連絡してください!」