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月はかつて、君を想う
会社の海外重要プロジェクトを勝ち取ったその日、社長である夫・橘慎也(たちばな しんや)は私に盛大な結婚式をプレゼントすると言う。 私は...
Chương (1)
第1章
会社の海外重要プロジェクトを勝ち取ったその日、社長である夫・橘慎也(たちばな しんや)は私に盛大な結婚式をプレゼントすると言う。
私は嬉しさのあまり涙があふれる。恋愛五年、極秘結婚三年を経て、ようやく私の存在を公にしてくれるのだと思う。
その夜のうちに飛行機で帰国するが、目に飛び込んできたのは、豪華な式場で彼が女性秘書に甘くプロポーズし、成功している光景。
夜空を埋め尽くす花火の下で、二人は指輪を交換し、幸せそうに抱き合っている。
長旅のまま立ち尽くす私を見て、行き交う招待客たちの目には面白がる色が浮かぶ。
誰もが私が騒ぎ出すと思っている中、私は冷ややかに笑い、先に拍手する。
「お似合いの二人ね。入籍はいつにするの?お祝いを用意しなきゃ」
私の口調に棘を感じ取ったのか、須藤遥香(すどう はるか)は一瞬で目を真っ赤にして涙ぐむ。
慎也は彼女を庇うように背後へ引き寄せ、低い声で私を叱る。
「遥香はろくでもない伯父に、知的障害のある男との結婚を強要されている。俺たちは何年も支援して、やっとここまで育てたんだ。本当に田舎に戻してそんな相手に嫁がせるつもりか?
それにこれはただの式だ。本当に結婚するわけじゃない。お前とはもう入籍しているんだ、これでも不安なのか?」
騒ぎになるのを恐れているのか、彼は私の手首を掴み、声をやわらげる。
「安心しろ。半年後には破局を発表する。その時に俺たちの関係も公にする。いいだろ?」
これまで何年も待ってきた。けれど今回は、もう待つ気になれない。
彼の手を振り払い、背を向ける。「結構よ」
第1話
会社の海外重要プロジェクトを勝ち取ったその日、社長である夫・橘慎也(たちばな しんや)は私に盛大な結婚式をプレゼントすると言う。
私は嬉しさのあまり涙があふれる。恋愛五年、極秘結婚三年を経て、ようやく私の存在を公にしてくれるのだと思う。
その夜のうちに飛行機で帰国するが、目に飛び込んできたのは、豪華な式場で彼が女性秘書に甘くプロポーズし、成功している光景。
夜空を埋め尽くす花火の下で、二人は指輪を交換し、幸せそうに抱き合っている。
長旅のまま立ち尽くす私を見て、行き交う招待客たちの目には面白がる色が浮かぶ。
誰もが私が騒ぎ出すと思っている中、私は冷ややかに笑い、先に拍手する。
「お似合いの二人ね。入籍はいつにするの?お祝いを用意しなきゃ」
私の口調に棘を感じ取ったのか、須藤遥香(すどう はるか)は一瞬で目を真っ赤にして涙ぐむ。
慎也は彼女を庇うように背後へ引き寄せ、低い声で私を叱る。
「遥香はろくでもない伯父に、知的障害のある男との結婚を強要されている。俺たちは何年も支援して、やっとここまで育てたんだ。本当に田舎に戻してそんな相手に嫁がせるつもりか?
それにこれはただの式だ。本当に結婚するわけじゃない。お前とはもう入籍しているんだ、これでも不安なのか?」
騒ぎになるのを恐れているのか、彼は私の手首を掴み、声をやわらげる。
「安心しろ。半年後には破局を発表する。その時に俺たちの関係も公にする。いいだろ?」
これまで何年も待ってきた。けれど今回は、もう待つ気になれない。
彼の手を振り払い、背を向ける。「結構よ」
いつもと違って従わない私を見て、慎也の表情が一瞬曇った。
大股で追いつき、私の前に立ちはだかり、苛立ちを隠さず言う。
「瀬戸(せと)、こんな大勢の前で俺と遥香の顔を潰すつもりか?
それに遥香は長年お前を姉として尊敬してただろ。それくらいの思いやりも持てないのか?
忘れるな。あの時、彼女が可哀想だから積極的に助けてやれと言ったのはお前だろう。俺がその通りにしたら、今度はその態度か?」
冷たい視線に問い詰める色が混じる中、彼は再び私の手を強く掴む。
「瀬戸、俺たちは夫婦だ。これくらいの信頼もないのか?」
責任転嫁にもほどがあるその言葉に、私の目の奥がじわりと熱くなる。
「よくも信頼なんて言えるわね」
鼻の奥がつんとしながら、かつて夢中になったその深い瞳を見据え、必死に怒りを抑える。
「慎也、あなたを信じすぎたからこそ、今ここに立ってる私はこんなにも滑稽なのよ」
八年。
八か月でも八週間でもない。
この八年間、慎也は私の世界の中心そのもの。
彼の言葉は何でも信じ、疑うことすらしない。
大学院時代、交際を公にすると面倒な人間関係が増えるから、卒業後に発表したいと言われた。
卒業すると会社を立ち上げ、今度は上に立つ者として社内恋愛は控えるべきだと言い出した。
私はそれをそのまま信じる。毎晩、まるで後ろめたいことでもしているかのように、社員が全員帰った後にこっそり彼の車に乗り込む。翌朝は夜明け前に起きてバスで出社する。
社内の誰にも関係が知られないよう、ひたすら気を張り続ける。
息が詰まるような五年目、会社に初めての大型案件をもたらした時、慎也は私にプロポーズした。
当時の私たちは郊外の古い安アパートに住んでいた。
その夜、彼は珍しくミルクレープを買ってきた。
揺れるろうそくの光の中、小さなダイヤの指輪を差し出して求婚した。
言葉は誠実で、あと二年待てば会社も軌道に乗る、その時には関係を公表し、盛大な結婚式を挙げると約束した。
私は胸がいっぱいになり、涙を流しながら彼に抱きつき、そのプロポーズを受け入れる。
入籍後、私はまるで疲れを知らない働きづめの存在になる。
一日でも早く公表できるように、昼夜問わず働き続け、会社を彼の言う軌道に乗せようとする。
結婚してからの三年間、プロジェクトのために数えきれないほど酒を飲み、十数回も病院に運ばれる。
目を覚ますたび、彼は目を赤くしてベッドのそばにいて、私の手を握り、次こそは発表すると約束する。
その「次」を信じ続け、私は三年も引き延ばされる。
そして一日前。会社に海外で億単位のプロジェクトをもたらした時、彼はついに口を開き、忘れられない盛大な結婚式を挙げ、公にすると言う。
私は連日の疲れも顧みず、胸を躍らせて帰国する。
ようやく彼と並んでスポットライトを浴びられると思ったその瞬間、目の前にあったのは、私がずっと望み、そのために努力し続けてきた結婚式が、慎也と遥香のプロポーズの場に変わっている現実だった。
第2話
ステージの上では、二人が上質なスーツとドレスに身を包んでいる。
フラッシュと優雅なピアノの旋律に包まれ、その姿はまるでドラマの主役カップルのようにお似合いだ。
それに引き換え、私は長旅の疲れがにじみ出て、顔には倦みが残る。
壇下に立てば、まるで幸せな式をぶち壊しに来た悪役のように見える。
その場での押し問答が、さらに招待客たちの視線を集める。
やがて、ひそひそ声が耳に入ってくる。
「瀬戸汐里(せと しおり)ってどういうつもり?普段から実績がいいのをいいことに、社長に距離近すぎるのもどうかと思ってたけど、ついにプロポーズの場まで来るなんて……」
「ほんとよ。須藤さんが優しすぎるんだよね、あんなに長く張り付かれても我慢してるなんて」
「どうせまた辞めるとか言って社長に何か迫ってるんでしょ……」
嘲り混じりの言葉が、曲の合間に私の耳へ流れ込む。
社員たちが裏でこんなふうに私を見ていたなんて、初めて知る。
思えば当然かもしれない。遥香は入社以来ずっと慎也の秘書。
私はプロジェクトのため全国を飛び回り、会社に戻るのはせいぜい数日。
普段の彼の生活も私が管理しているが、私が不在の間は心配で、身の回りのことを遥香に任せてきた。
だからこそ、二人が付き合っていると思われているのだろう。
けれど胸がえぐられるのは、以前社員の一人が私と慎也の関係を疑った時のこと。
彼は激怒し、その社員を降格処分にし、給与停止まで行い、全社に通達して厳しく叱責した。再び同じことがあれば解雇だとまで言い渡した。
今耳にする噂からは、皆がすでに二人を恋人同士と見なしているのが分かる。
オフィスに常にいる慎也が、それに気づかないはずがない。
目を閉じると、先ほど遥香に指輪をはめた時の、あの幸せそうな笑顔が浮かぶ。
その瞬間、すべてが腑に落ちる。
彼は社員たちの誤解を知っている。むしろ、それを楽しんでいる。
そしてあの笑顔と、遥香を守ろうとする必死さは、私が一度も向けられたことのないもの。
入籍した日でさえ、彼は私の隣で無表情のまま、喜びの色など欠片も見せなかった。
ぼんやりしている私を見て、慎也は腕を引き、不機嫌そうに言う。
「……遥香に経営を学ばせたのは、会社で役に立ってもらうためだろ。連れ戻されたら、これまでの投資が無駄になる。
汐里、俺だって損失を抑えたいだけだ。落ち着いて考えろ、感情的になるな」
結婚して数年、彼が私を「汐里」と呼ぶことはほとんどない。
夫婦の営みにも、名字で呼ばれるだけ。
それが今日は、遥香のためにその呼び方を口にする。
取り繕ったような顔を見て、私が思わず笑ってしまう。
「何がおかしい?」
はっきり答えない私に、彼は眉を寄せ、警戒するような目を向ける。
その一瞬で、私はむしろ完全に冷静になる。
軽く息を吐き、これまで一生言うことはないと思っていた言葉を口にする。
「慎也、離婚しましょう」
言葉が落ちた瞬間、ピアノの音もぴたりと止まる。
「どういうつもりだ!こんなことで拗ねてるのか?」
静まり返った空間に、彼の怒声が響く。
私は言い争う気もなく、手を振りほどいてそのまま歩き出す。
彼はすぐ追いかけてくるが、口を開く前に、背後から震える声が彼の名を呼ぶ。
足を止め、ステージに一人残された遥香を見る。しばらく迷った末、私の背中を一度見やり、結局彼女の方へ向かっていく。
足音が遠ざかるにつれ、最後の期待も完全に消える。
私は自嘲気味に笑い、その場を後にしてタクシーを拾う。
家に戻っても休まず、わずかな荷物をまとめ始める。
長年一緒にいながら、私の持ち物は仕事用のスーツが数着と腕時計二本、簡単な化粧品だけ。
二人の関係を証明するものも、婚姻届受理証明書と、告白が成功した日に無理やり撮った写真しかない。
八年という時間が、二十四インチのスーツケース三つに収まる。
ソファに腰を下ろし、弁護士に連絡しようとした時、クッションの下に冷たい感触を覚える。
見れば、それはシャネルの口紅。
考える間もなく、慎也から電話がかかってくる。
反射的に出ると、彼は淡々と告げる。
「遥香が風に当たって少し体調を崩した。今から病院に連れていく。成林建設の中村社長との森ホテルでの打ち合わせは、お前が代わりに行け。
瀬戸、その案件を取ってくれたら、離婚の話はなかったことにしてやる」
恩を着せるような口調に、胸の冷えが増す。
以前はまだ形だけでも気遣う素振りがあった。
今は遥香の体調ばかり気にして、私はフランスから帰ったばかりで何日も休んでいないことなど、まるで頭にない。
しかも成林建設の中村社長は、業界でも有名な酒好きで女好き。
かつて何度も遥香に好意を示し、一晩付き合えば契約するとほのめかしていた。
それを知った私は激しく怒り、慎也に彼女を守るよう強く言った。
彼は眉をひそめて言い放つ。「これまで会社は遥香の支援に多額の費用を投じてきた。彼女も会社の一員である以上、会社のために力を尽くし、これまでの育成に報いるのが当然だろう。
成林建設プロジェクトは利益が大きい。これさえ手に入れれば、会社は向こう一年安泰だ。瀬戸、あまり正義の味方を気取って、感情的になるな」
私は激怒して言い争い、大きな口論になる。
それ以来、彼はこの話題を出さなくなる。私はてっきり諦めたのだと思っていた。
だが実際には諦めていないどころか、今度は私を差し出そうとしている。
私は思わず冷笑が漏れる。「自分の妻を餌にするなんて、本当にやることが徹底してるわね」
反発を感じ取ったのか、彼は説得を続ける。
「考えすぎだ。もう話はほとんどまとまってる。今日は契約するだけだ。
それに遥香は契約に弱い。お前は得意だろう。だから任せる」
さらに念押しするように言う。
「うまくいけば手柄は半分お前にやる。副社長に昇進させてもいい」
創業から今まで七年、会社の価値は億単位になっても、私はまだちっぽけなプロジェクトリーダー。
副社長という餌も、これが初めてではない。
だが今回は、断らない。
「分かった。時間通りに行く」
安堵した彼は、機嫌よく私を褒める。
私は軽く鼻で笑い、通話を切ると、口紅をゴミ箱へ放り込む。
ウェットティッシュで手を拭き、連絡先の中から名前のない番号を見つけて発信する。
「宇佐美社長、御社は副社長を探していると聞きました。フランス・マルセイユと成林建設の新規案件、私の実績として十分でしょうか」
誰かの空約束を待つより、自分で掴む方が早い。
彼が情を捨てるなら、私も遠慮なく自分を優先するだけ。
第3話
私の言葉が落ちた直後、宇佐美陸斗(うさみ りくと)の気だるい声がスマホ越しに響く。
「今日は西から太陽が昇ったのか?瀬戸さんという衛星が、ついに軌道離脱?」
相変わらず軽口ばかり。私は遠慮せず、単刀直入に言う。
「足りるかどうかだけ答えて。足りないなら他に当たる」
「十分どころか、こっちが条件を上乗せしたいくらいだ」
軽薄な調子は聞き流し、私は腕時計に目を落とす。
「じゃあ三十分後、森ホテルのロビーで」
私の誘いに、珍しく彼は少し慌てる。
「瀬戸、今のは冗談だぞ。仕事だけじゃなくて、俺まで巻き込む気か?」
私はこめかみを押さえながら答える。「あなたに興味はない。ただ中村社長と会うのに同行してほしいだけ」
「分かった。ホテルじゃなくて、今から迎えに行く」
目の前の三つのスーツケースを見つめ、私は住所を送る。
十分ほどで、陸斗が玄関先に現れる。
三つのスーツケースを運び出す私を見ても、彼は何も聞かない。私も何も言わない。
車に乗ると、彼は成林建設の予算資料の束を差し出してくる。
私は静かにページをめくり、道中は一言も交わさない。
ホテルに着くと、慎也から送られてきた情報を頼りに、最上階のスイートへ向かう。
ドアをノックし名乗ると、中村社長が不機嫌そうに扉を開け、私を睨む。
「橘は須藤を寄こすって言ってたはずだ。なんでお前なんだ?」
慎也が嘘をついていることは分かっていた。
それでも、その嘘が目の前で暴かれると、胸に鋭い痛みが走る。
手のひらに爪を食い込ませ、無理やり営業用の笑みを作り、隣の陸斗を引き寄せる。
「須藤は今夜来られません。このまま時間を無駄にするより、プロジェクトの話をしませんか」
陸斗を見て、中村社長は眉をひそめるが、何も言わず私たちを部屋へ通す。
そして再び外に出た時、陸斗の手には正式に押印された契約書がある。
その頃、慎也のもとにも、中村社長から協力打ち切りのメッセージが届く。
今後一切取引しないと書かれたその一文に、彼は怒りで顔を歪める。
手に入りかけた案件を逃しただけでなく、すべてを台無しにされたのだから無理もない。
傍らの遥香は、目を赤くしながら口を開く。
「慎也さん、ごめんなさい。私が体調を崩して行けなかったせいで、汐里さんが意地になって契約を壊してしまって……」
そう言いながら咳き込み、布団を跳ねのけて起き上がる。
「今から汐里さんの代わりに、ホテルに行って謝ってきます……」
その健気な姿勢に、慎也はさらに胸を打たれ、同時に心配する。
彼は遥香を引き止め、優しく言い聞かせる。
「お前のせいじゃない。問題は瀬戸の仕事のやり方だ。とにかく今は休め。俺が体にいいスープを作る」
彼女をベッドに戻し、スマホを持ってキッチンへ向かう。
コンロの前に立ち、彼は立て続けに何度も私へ電話をかけるが、私はすべて拒否する。
苛立った彼はLineでメッセージを送ってくる。
【これ以上無視するなら離婚する】
その一文を見て、思わず笑った。
ちょうど望んでいた言葉を、自分から差し出してきた。
返信しようとした瞬間、今度はビデオ通話がかかってくる。
出るつもりはなかったが、隣の陸斗が勝手に通話を繋げてしまう。
画面が開いた途端、慎也は怒りをぶつけてくる。
「なぜ契約を潰したのか、それで何の得があるのか。会社にはお前の取り分もあるだろう」
かつて彼が星和グループを立ち上げた時、私は一人でいくつもの役割を担う。
営業として外を回り、戻れば経理、法務、時には清掃までこなす。
あの頃、会社が軌道に乗れば株式を渡す、同等の権限を与えると彼は言っていた。
だが七年経った今、株主は増えても、そこに私の名前はない。
年明けには、私の実績の半分を遥香に割り当て、彼女に5パーセントの株を与えた。
理由は、彼女も接待に関わったこと、そして下から這い上がる成功例としてふさわしいから。
さらに支援してきた相手だから、利益は内に回すべきだと。
その時の私は、会社のためだと納得した。
だが一か月も経たず、彼は遥香に自分と同じ権限を与えた。
私の決裁ですら、彼女の承認がなければ通らない。
そこまで思い出し、私は思わず笑う。「そうなの?あなたが言うまで、自分がただの社員だと思っていたわ」
「つまり嫌がらせか」
歯を食いしばるように、彼は声を荒げる。
「遥香を助けたからか?その腹いせに、会社の将来を台無しにするのか?
瀬戸、お前は分かっていると思っていた。だが完全に見誤っていた」
一拍置き、吐き捨てるように言う。「本当に失望した」
かつての私は、この言葉を何より恐れていた。
だから彼に合わせ、何度も自分を変え、気に入られようと必死だった。
だが今日、遥香に向けるあの自然な愛情を見た瞬間、すべてが終わる。
もうこの滑稽で惨めな関係を守る必要はない。
私は淡く笑う。「そこまで失望させたなら、いっそ解雇して。これ以上損害を出す前にね」
予想外だったのか、彼は数秒黙り込む。次の瞬間、怒りに任せて手にしていたスプーンをシンクへ投げつける。
陶器が割れる音が響く。
その時になって初めて、彼がキッチンに立ち、可愛らしいエプロンをつけて料理を作っていることに気づく。
同時に、スマホの画面に通知が一つ表示される。
何気なく開くと、遥香がInstagramに投稿し、私をタグ付けしている。
第4話
投稿の本文はこうだ。
【ちょっと咳が出るだけなのに、社長様が仕事を全部キャンセルして付き添ってくれて、しかも自らキッチンに立ってスープまで作ってくれたの。もう大好き、一生ついていく!これからも社長様の手料理が食べられますように】
添えられているのは自撮りと、慎也が袖をまくって野菜を洗っている写真。
その写真を見つめた瞬間、胸の奥から苦いものがこみ上げる。
慎也が料理をするなんて、私は一度も知らなかった。
卒業後に同棲を始めた時、彼は料理も家事もできないから全部任せると言い切る。
私はそれを当然のように受け入れ、彼の世話を焼けることを誇りに思っていた。
今思えば、ただの馬鹿だ。長年騙され続けて、それでも幸せだと思い込んでいた。
「こんな大失敗をしておいて、そのまま逃げる気か。瀬戸、俺は認めない」
慎也の怒声が車内に響き、私の思考が断ち切られる。
我に返り、画面を見つめながら、これまでにない口調で言い返す。
「今あなたが気にするべきなのは、須藤のために作ってるそのスープじゃないの」
苛立ちのまま通話を切り、そのままLineもブロックする。
あまりにも迷いのない動きに、陸斗は呆れたように口を開く。
「本気で離婚する気か?」
私と慎也の関係を知る人は少ないが、陸斗はその一人。
大学の同級生で、私が慎也に夢中だった頃も見てきた。
だから会うたびに、私は慎也の周りを回る衛星だとからかわれていた。
その問いに、私は目を伏せたまま答えない。
それが答えだと受け取ったのか、彼はどこか機嫌が良さそうに車を走らせ、軽快な音楽を流す。
「行く当てはないだろ。うちのホテルでしばらく過ごすか?」
私は不動産を持っていない。あのマンションを出ると決めた時から、当面はホテル暮らしのつもりだった。
だから小さくうなずく。「お願いする」
陸斗は上質なスイートを用意し、さらにキッチンにも食事の準備を指示する。
部屋まで送り届け、ドアの前で言う。
「料金は俺で支払う。気にせずゆっくり休め。何かあれば連絡しろ」
そう言ってポケットに手を入れたまま立ち去る。
その夜、私はスマホの電源を切り、久しぶりに深く眠る。
翌朝、まだ目を開ける前から、ドアを叩く音が激しく響く。
起きて扉を開けると、慎也と遥香が立っている。
言葉を発する前に、彼は勢いよく部屋へ入り込み、誰を隠しているのかと怒鳴りつける。
私は意味が分からず問い返す。「誰のこと?」
彼の顔は今にも崩れそうなほど険しい。
とぼけていると思ったのか、慎也は冷笑を浮かべ、スマホの画面を突きつける。そこには、私と陸斗が一緒にホテルへ出入りする動画。
次の瞬間、スマホがそのまま額に叩きつけられる。
鈍い痛みとともに血が流れ、視界が赤く染まる。
ふらつく中で、彼の鋭い声が突き刺さる。
「まだ言い逃れするのか。俺は一晩中お前を心配していたのに、お前は高級ホテルで他の男と遊んでいたんだな」
言い終えると同時に、後ろの遥香がすかさず口を挟む。
「汐里さん、誰かと会うにしても、せめて連絡はすべきです。慎也さん、昨夜ずっとあなたのことを心配して眠れなかったんですよ」
彼女が近づくにつれ、男女の香水が混ざった匂いが漂う。
慎也が昨日と同じ服を着ているのも目に入る。どれだけ鈍くても分かる。昨夜、二人はずっと一緒にいた。
それなのに今は、まるで本当に私を心配していたかのように振る舞っている。
本当に心配なら、なぜ昨夜のうちに来なかったのか。
私は冷ややかに遥香を見る。「どうして一晩中眠れなかったって分かるの?」
不意の問いに、彼女は一瞬固まる。すぐに涙ぐみながら口を開く。
「汐里さん、私はただ…」
「何を言いたいんだ。遥香はお前を気遣ってるだけだろ」
言い終わる前に、慎也が彼女を庇う。
二人から漂う匂いに、吐き気が込み上げる。
思わずその場でえずく。
それを見た遥香の表情が一変する。呆然と私を見つめる。
「汐里さん、もしかして赤ちゃんがいるんですか」
その言葉に、慎也は即座に言い放つ。「その子は産むな」
第5話
まだ説明する間もなく、慎也は焦った様子で私の肩をつかむ。
「マルセイユのプロジェクトはそれほど重要なんだ。現場でしっかり監督してくれ!
それに会社は今まさに成長期だし、俺と遥香も発表したばかりで、子どもなんて考える時期じゃない!」
存在しないはずの子どもの一人で、彼の薄っぺらで冷酷な本性がここまで露わになるなんて思いもしなかった。
かつて彼は、月明かりの下で私を抱き寄せ、三人家族の未来がどれほど幸せか語り合っていたことを、もう忘れているらしい。
あの約束はつい最近のことのように、今も耳の奥で響いている。
胸が刺されるように痛み、涙が止まらないのに、慎也は私が同情を引こうとしているとしか思わない。
「そんな芝居はやめろ。こっちは時間がないんだ。今日は遥香とウェディングフォトの撮影がある。さっさと準備しろ、今から病院に連れて行く」
苛立ちは隠しようもなく、彼は私を乱暴に押しのける。額からまだ血がにじんでいることなど、まるで気にも留めない。
「汐里さん、誤解しないでください。撮影は家族を納得させるためだけで、外には絶対に出しませんから」
遥香は弁解めいた言葉を口にするが、その目の奥に浮かぶ優越感は、明らかに私への挑発だ。
私がずっと求めてきたものが、彼女にとっては手を伸ばせば届くものだと言わんばかりに。
確かに私は何度も夢見ている。美しいウェディングドレスをまとい、慎也の隣に立つ自分を。
仕事がうまくいかない日々の中で、もう無理だと思うたびに、私は通販サイトを開いてドレスを検索し、カートに入れては自分を奮い立たせる。いつかそれを着て、彼と神聖な結婚の舞台へと歩み出す日が来ると信じて。
入籍した後、たとえ公表しなくても、彼の実家で結婚式くらいは開いてくれると思っていた。
でも現実は違った。
彼は何度も言い訳を重ね、私の結婚式の話を避け、先延ばしにし続けた。
後になってようやく知った。入籍したことすら、彼は家族に伝えていないことを。
あのとき、彼の母親からの電話をたまたま取っていなければ、どれだけ騙され続けていたかわからない。
あれが、私が初めて慎也に怒りをぶつけた時だった。
けれど彼は、私の感情を受け止める気などまったくなかった。ただソファに座り、冷たい目で私の取り乱しを眺めるだけ。
最後には、その冷えきった視線の中で私は崩れ落ち、床にへたり込み、声も出ないほど泣き崩れた。
彼はうんざりした様子で上着を手に取り、そのまま出て行った。
私は一人、ベランダで朝まで座り続けても、彼の帰りを待つことはできなかった。
あの時の私は、まだ何も気づいていなかった。
むしろ後になって、自分の方が悪かったのではないかと反省し、卑屈に謝って関係修復を願った。
そんな私を見て、彼は皮肉っぽく笑い、スマホの画面を見せた。
「瀬戸、本気で自分の非を認めたなら、この寺の石段を、全部ひざまずいて登って、お守りを取ってこい」
許してほしくて、私は迷いもなく、豪雨の中で石段をひざまずいて登った。
頂上に着く頃には、膝は血と肉でぐちゃぐちゃだった。
住職は言った。こんなふうにすべての石段をひざまずいて登り切った人は、ここ数年で初めてだと。
誰のためにお守りを願うのかと問われ、私は迷わず答えた。「大切な人のためだ」
住職は心を打たれ、もう一つお守りをくれ、私たちの幸せを祈ってくれた。
私は二つのお守りを大事に抱えて帰った。慎也は一瞬、言葉を失った。
軽い気持ちで言ったことを、私が本当にやり遂げたなんて信じられない様子だった。
だが全身ずぶ濡れで汚れた私を見ると、露骨に顔をしかめて後ずさった。
また機嫌を損ねるのが怖くて、私は家に入らず、そのままホテルへ向かい、体をきれいにしてから病院で膝の手当てを受けた。
医者は事情を聞いて、呆れたように首を振った。
「お嬢ちゃん、自分を大事にしないとだめだよ。男のために足を潰しかけるなんて、本当に価値があるのかい」
あの時の私は、それでも価値があると思っていた。
でも今は、心の底から後悔している。
脚は不自由にならなかったが、後遺症が残る。
雨の日になると、膝が痛くてかゆくてたまらない。
まるで無数の蟻が骨の隙間を食い荒らすように。
そんな夜、痛みに耐えきれず汗だくで眠れない私の隣で、慎也はぐっすり眠っている。
今になって思えば、私は彼のためにどれだけの苦しみを背負ってきたのか。
それでもようやく目が覚めた今なら、やり直せる。
胸の奥に浮かんだ悲しみは怒りへと変わる。私は乱暴に顔の血を拭い、冷たい声で言い放つ。
「急いでるんでしょ。だったらさっさと消えて」
私が怒ると、慎也は表情を少し緩める。
「ちゃんと処理しておけよ。俺と遥香は先に行く」
二人は前後して出て行き、足取りはやけに軽い。
私はドアを閉め、顔の血を洗おうとしたその時、足元に何かが当たる。
視線を落とすと、それはさっき慎也が投げつけたスマホだ。
拾い上げた瞬間、画面が自動で点灯する。
そこに映し出されたのは、遥香の整った顔だ。
第6話
その瞬間、心臓をぎゅっと握り潰されたような痛みが走る。
付き合い始めた頃、私は一度、壁紙を自分の写真にしてほしいと慎也に頼んだことがある。けれど彼は即座に断る。
理由は、指導教員が厳格で、恋人の写真を壁紙にすることを禁止しているから、気が散るのを恐れているというものだった。
当時は少し不思議に思いながらも、私は彼の考えを尊重し、それ以上は求めなかった。
卒業すれば、ようやく普通のカップルのように、お互いの写真を壁紙にして、手をつないで街を歩き、仲のいい写真を撮れる。そう思っていたのに、今度は社内恋愛禁止を理由に、またしても私の願いは封じられる。
そして今、壁紙に映る遥香の花のような笑顔を見て、私はようやく思い知る。人は本気で好きになった相手のためなら、どんなルールでも簡単に破るものだということを。
彼は遥香のためなら、自分で決めた制約さえも平然と踏み越え、生き生きとした姿を見せる。
それなのに、私の前ではどうだろう。私の行動が彼の「許せないライン」から遥かに遠くても、彼は時折、無言の圧力で私を抑え込む。
これが、愛しているかどうかの違いなのだろう。
思い出に沈みかけたところで、スマホの振動が現実へと引き戻す。
通知を見た瞬間、私はすぐベッドへ駆け寄り、自分のスマホを取り出して退職申請を送る。
この二年で私はいくつもの大型案件をまとめ上げ、星和グループを絶好調に押し上げてきた。マルセイユのプロジェクトが動き出せば、慎也が新興の有力者になるのも時間の問題だ。
でも、そのために尽くす気はもうない。
申請を送った後、私は彼のスマホをロック解除して、自分の申請を承認しようとする。
だが、パスコードが違うと表示される。
入力ミスかと思い、もう一度試すが、やはり違う。
変更されている。
残り三回と表示される中、私は静かに二秒考え、遥香の誕生日を入力する。
ロックが解除される。
私は思わず冷笑が漏れ、すぐに業務アプリを開き、承認待ちの一覧を確認する。
いくらスクロールしても、自分の退職申請が見つからない。
不審に思い、更新しようとしたその時、通知がポップアップする。
【須藤遥香があなたの退職申請を承認しました】
同時に、LINEにも彼女からメッセージが届く。
【汐里さん、気分が落ちていると思うので、しばらくお休みを取ってください。落ち着いたら、また再入社の手続きをしてあげます】
「落ち着いたら」だなんて。
即座に承認した時点で、この日をずっと待っていたのは明らかだ。
私は返信せず、慎也のスマホを元に戻し、ホテルのフロントに電話して遺失物として回収に来てもらう。
フロントは私が陸斗と知り合いだと知っている上、額の傷にも気づき、こっそり彼に連絡を入れる。
額の傷は小さいが、やや深い。
私はタクシーで病院へ向かい、縫合を受ける。医師は麻酔は勧めないが痛みは強いと言い、我慢してほしいと告げる。
鋭い針が肉に刺さる感覚も、この数日で味わった痛みに比べればどうということもない。
無表情のまま三針を縫い終え、立ち上がった瞬間、遠くから息を切らして走ってくる陸斗の姿が目に入る。
額の縫合跡を見るなり、彼は怒りと焦りを露わにする。
「何かあったら連絡しろって言っただろ。橘に呼ばれたのに、どうして俺に言わないんだ」
私は乱れた前髪を軽く整え、話題を逸らす。
「あなたのお姉さん、有名な離婚弁護士なんでしょう。紹介してもらえる?」
陸斗は一息ついて言う。「橘と離婚するだけだろ。そこまでトップクラスの弁護士が必要か」
私は小さく鼻で笑い、訂正する。「誰がただの離婚だって言ったの?
私は離婚するだけじゃない。星和グループも私のものにする」
彼がかつての約束を守る気がないなら、こちらも遠慮する必要はない。
星和グループの八割の案件は私が取ってきたものだ。ここまで尽くして、何もかも手放す理由なんてない。
「善は急げだ。今から連れて行く」
陸斗の方が、むしろ私よりも気が急いている。
けれど、早く離婚の手続きを進めて、この男から離れるのは確かに悪くない。
その日の昼、彼に連れられて事務所へ行き、彼の姉である宇佐美乃愛(うさみ のあ)と会う。
私は慎也の所業と、自分の要求を一つ残らず説明する。
話を聞き終えた乃愛は、安心しろという視線を向ける。
「それほど難しい案件ではありません。必要な書類をそろえてください。今日中に離婚協議書を用意します」
私は感謝してうなずき、会計をしようと立ち上がりかけたその時、また遥香からLINEが届く。
何を言ってくるのかと軽く開くと、目に飛び込んできたのは二人のウェディングフォトだった。
写真の中で、慎也は片膝をつき、遥香の手を大切そうに包み込む。
その表情は春風のように柔らかく、あの冷たい目が嘘のように優しさに満ちている。
露骨な挑発のその写真を、隣の姉弟も目にする。
乃愛は証拠として保存しておくべきだと言う。財産分与で有利になるからだ。
だが隣の陸斗は、歯を食いしばり、私以上に怒りを露わにしている。
「姉さん、あのクズ二人、絶対に丸裸にしてやれ。そうでもしないと汐里の気が済まない」
突然の一言に、乃愛は少し驚いた様子を見せる。
彼女が私にちらりと視線を送り、笑って言う。「依頼人でもないのに注文は受けないわ」
陸斗は黙り込み、私を見つめる。その目は、まるで何かを求めているようだ。
私は視線を外し、乃愛に軽くうなずく。「可能なら、二人とも一文無しにしたいです」
本当は、それだけでは足りない。遥香が大学四年間で受けた援助金も、全部返してもらいたい。
けれど今は、まず離婚が最優先だ。遥香については……
彼女が愛しているのが慎也という人間なのか、それとも彼の金と地位なのか、すぐにわかる。
それ以上は話さず、陸斗は私をホテルまで送る。
荷物を探しているうちに、婚姻届受理証明書を持ってきていないことに気づく。
下に降りてタクシーを呼ぶと、彼はまだ帰っていない。
事情を話すと、そのまま車に乗せられる。
家に戻ると、私はまっすぐ書斎へ向かう。
証明書を受け取った時、私はそれを大切に箱へしまい、鍵までかけて保管していた。
その時、慎也は笑って言う。ただの証明書だけなのに、何がそんなに大事なんだと。
だが今、引き出しを開けると、証明書はいつの間にか箱から取り出され、隅に無造作に放り込まれている。
私は自分の分だけ取り、箱を持ってその場を離れる。
階下に降りたところで、急いでいた配達員とぶつかり、箱を落としてしまう。
中身が床に散らばる。
拾い集めようとして、ふと気づく。箱に入った、もう一枚の証明書。
慎也の証明書は、さっき引き出しにあったはずなのに。
胸の奥から、嫌な予感が一気に広がる。
震える指で、それが違うものであってほしいと祈りながら開く。
現実は容赦ない。
そこに記されていたのは、慎也と遥香の名前。
証明書を開くと、中に挟まれていた二人の結婚写真が目に入った。写真の中で、二人は眩しいほどに笑っている。まるで私の愚かさを嘲笑うかのように。
その時、見知らぬ番号から電話がかかってくる。
反射的に出ると、受話口の向こうから怒声が叩きつけられる。
「瀬戸、お前はそこまで性格が歪んでいるのか?遥香を中傷する記事をばらまいたのはお前だろう。彼女を死ぬまで追い詰める気か!」