幼馴染の代わりだと気づいた私は、大スクープを追う

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幼馴染の代わりだと気づいた私は、大スクープを追う

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松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。 こうなったのも、と...

Chương (1)

第1章

松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。 こうなったのも、とある噂がきっかけだった。「増田家と松尾家の結婚が延期になったのは、元恋人が何者かに拉致されたため、増田社長は自分の結婚式が控えていたにも関わらず、その女性を助けに行ったから」 その噂を確かめるためだけに、篠ははるばる江川市までやって来たのだ。 だが、増田宗介(ますだ そうすけ)といえば、あの増田家の御曹司で、経済誌の表紙を飾り、チャリティーパーティーではスピーチを任されるほどの人物。そんな彼が、本当にこんな場所へ現れるのだろうか? 篠が帰ろうと、グラスをテーブルに置いたその瞬間―― バンッ! けたたましい音を立てて、入り口の扉が激しく弾き開けられたのだ。 第1話 松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。 こうなったのも、とある噂がきっかけだった。「増田家と松尾家の結婚が延期になったのは、元恋人が何者かに拉致されたため、増田社長は自分の結婚式が控えていたにも関わらず、その女性を助けに行ったから」 その噂を確かめるためだけに、篠ははるばる江川市までやって来たのだ。 だが、増田宗介(ますだ そうすけ)といえば、あの増田家の御曹司で、経済誌の表紙を飾り、チャリティーパーティーではスピーチを任されるほどの人物。そんな彼が、本当にこんな場所へ現れるのだろうか? 篠が帰ろうと、グラスをテーブルに置いたその瞬間―― バンッ! けたたましい音を立てて、入り口の扉が激しく弾き開けられたのだ。 そのまま店内になだれ込んできたのは、ひどく殴られた様子の、血まみれの男たちだった。「増田!お前は十何年も前に裏社会からは足を洗ったはずじゃねえのか!それなのに、たかが女ひとりのためにこっちに戻ってくるわけじゃねえだろうな?」 宗介はドアの前に立ち、彼らを冷たく見下ろしながら言った。 「戻りたいわけないだろ?もうあんな血なまぐさい生活からは足を洗って、真っ当に生きてくって決めたからな。 でも、お前たちは菖蒲が俺の女だったと知っていながら手を出した。それは、俺をこっちに引き戻したいってことじゃないのか?」 目の前の宗介は、篠の知っている男とはあまりにも違っていた。クラブは静まり返っているはずなのに、篠の耳鳴りは止まらない。 「あの女は俺たちの決まりを破りやがったうえに、3つも俺たちのシノギを潰しやがった」リーダー格の男は痛みに顔を歪めながら叫ぶ。「増田。あんな女に加担しやがって。女ひとりのためにここまで大事にして、お前の婚約者の耳に入るのが怖くねえのか?」 しかし、宗介は答えることはなく、無表情に手を上げた。すると、彼の後ろに控えていた男たちが前に出てきたと思ったら、すぐに鈍い音が数回響き、騒ぎはあっという間に終わった。 「こいつらを菖蒲のところに連れて行け。あいつに処分させろ」宗介はチンピラから視線を外しながら、そう命じた。 宗介が立ち去ろうと背を向けた瞬間、隅の方に宗介の目線が止まる。 篠は宗介が自分に気づいたのだと思った。 しかしその瞬間、宗介の隣に来た部下が彼に耳打ちする。 「久保さんが目を覚ましました。しかし、ひどく興奮していて、割れたガラスで自傷行為をしようとしています」 宗介はすぐに視線を隅の方から外し、足早に去っていった。 音楽が再び流れ始め、ダンスフロアでは人々が体を揺らし始める。 その場に立ち尽くしていたのは篠だけだった。とっくに消えてしまった宗介の後ろ姿を思い浮かべる。だが、体はすっかり冷え切っていた。 「大丈夫ですか?」クラブテンダーが心配そうに声をかけてきた。 篠は軽く頷く。 すると、クラブテンダーは笑いながら言った。「初めてだと、今のにはびっくりしますよね。でも、宗介さんがあんなに派手にやるのは久しぶりに見ました。あの幼馴染の女の子とはもう完全に縁が切れたんだとばかり思ってましたが。いやいや、やはりたいしたもんですね」 篠の指先がかすかに震える。「幼馴染?」 「ええ」クラブテンダーはグラスを拭きながら言った。「宗介さんと菖蒲さんは、昔から一緒に修羅場をくぐり抜けてきた仲なんですよ。組を分け合っただけじゃなく、宗介さんは菖蒲さんのために裏社会から足まで洗ったんですから」 彼はため息をついた。「まあ、残念なことに、二人ともプライドが高すぎて喧嘩別れしちゃったらしいんです。 どっちも折れなかったって聞きました。そんなことがあってから、宗介さんは一度も戻ってきていなかったんですけど、まさか今回、菖蒲さんが危ないと聞いて、婚約者を放ってまで駆けつけるとはねえ」 篠は胸が締め付けられるようだった。 クラブテンダーはカウンターの下から、少し色褪せた一枚の写真を取り出した。 「ほら、これ。宗介さんが菖蒲さんにプロポーズした時に撮った写真。お似合いでしょう?」 写真の真ん中では、シンプルな黒いTシャツを着た宗介が片膝をついていた。どこかまだやんちゃな少年のような雰囲気がある。そして、久保菖蒲(くぼ あやめ)を見上げるその顔には、満面の笑みが浮かんでいた。 篠が知っている男とは別人だった。自分が知る彼は、シャツのボタンを一番上まできっちりと留め、袖口には皺一つなく、計算しつくされた笑みを浮かべる男なのに。 そして、その女性の顔が…… 篠は目を逸らしたが、グラスを握る手は震えていた。 クラブテンダーも篠の顔と写真を交互に見比べた。「あれ?あなたと菖蒲さん、よく見ると似てますね。でも、雰囲気は全然違うかな。菖蒲さんは近寄りがたい感じだったけど、あなたはいかにも育ちが良さそうに見えます」 その夜、篠はカウンターに座りつづけ、まるで自分自身を痛めつけるかのように、クラブテンダーが語る宗介と菖蒲の昔話に耳を傾けていた。そして、彼が本当に誰かを好きになった時、どんな風になるのかを思い知らされた。 自分に向けられる、あの丁寧で優しいけれど、決して心のこもっていない態度とは全く違うらしい。 空が白み始めた頃、篠は裏通りに出た。スマホが震え、父親である松尾陸(まつお りく)の名前が画面に表示される。 電話に出るなり、怒号が飛んできた。「お前は男一人しっかりと捕まえておくことすらできないんか!あれだけ追いかけて、やっと結婚までこぎつけたというのに、当日にすっぽかされるなんて。俺たち松尾家の面子が丸潰れもいいところだ! さっさと増田さんを連れ戻して結婚式を挙げろ。それができないなら、お前とはもう勘当だ!」 「結婚はしないよ」 陸はまだ何か怒鳴っていたが、篠は構わずに電話を切った。 道を渡ろうとした時、通りの向こうにある朝ごはん屋が目に入った。窓際の席には、宗介と一人の女性が座っている。 その長い髪の女性は、写真で見た菖蒲だった。彼女は小さな口で食事をしている。そして宗介は、魚の骨を取り、身だけを菖蒲のお皿に乗せてあげていた。 そこには、長い年月をかけて育まれた二人だけの世界があった。 篠はふと思い出す。去年、熱を出して本当に辛かった時があった。思わず宗介に電話してしまったのだが、彼から返ってきたのは、「お大事に」という一言だけだった。 第2話 その後も結局、宗介の秘書である鈴木が薬と栄養ドリンクを届けにきただけだった。 あの時はまだ、宗介は仕事第一の人だから、自分が我慢をしなくては……と自分に言い聞かせていた。 飛行機を降りると、篠はそのまま会社へ向かった。「中村さん、宗盛キャピタルが利益操作をした疑いについての原稿、もうまとめてありますので」 「松尾?」中村英樹(なかむら ひでき)はパソコンの画面から顔を上げた。「1週間の有給をとったんじゃなかったのか?まだ2日目だろ……」 「仕事が一番ですから」そう言いながら篠はもう一枚、申請書を英樹の前に差し出す。「E国への研修申請です。本社に交換研修の枠がありますよね?それに応募したいんです」 英樹の視線は申請書から、デスクの縁に置かれた篠の左手へと移った。 薬指には何もなくなっていた。そこにはプラチナの結婚指輪が輝いているはずなのに。 英樹はすべてを察し、責任者欄にサインをした。 「会社としても、君にはぜひ行ってもらいたいと思っていたんだよ。君ほどの才能があれば、外の世界を見て視野を広げることで、もっとジャーナリズムの世界で活躍できるだろうからね」 篠は静かに微笑んで、「ありがとうございます」とだけ言った。 一日中、彼女は山のような資料に没頭した。座りっぱなしで腰や背中が痛くなってきた頃、ようやく顔を上げる。 スマホの画面には、たくさんの通知が溜まっていた。 陸からの不在着信と、怒りに満ちたメッセージの数々。友人たちからの心配の連絡。そして……宗介からのメッセージ。 篠は電源を落とすと、新聞社のビルを出て、隣のよく知る路地へと入っていった。 「鴉鳴ラーメン」の看板が、温かいオレンジ色の光を放っている。 「あら、松尾さん。いらっしゃいませ」女将はテーブルを拭きながら、入ってきた篠に気づいて笑顔で話しかけた。「今日はお一人ですか?増田さんはご一緒じゃないんですね」 「彼はちょっと忙しくて」そう答えながら、篠はいつもの席に座り、いつものを注文する。 店は空いていて、すぐに大きな丼に入ったラーメンが運ばれてきた。立ちのぼる湯気で視界がかすみ、ぼんやりとした意識の中で、向かいに座る宗介の姿が見えた気がした。初めて宗介をこの店に連れてきた日のことを思い出す。 あの時は、篠のアプローチが実を結び、宗介が初めて食事の誘いに応じてくれたのだった。 何か月も前から夜景の綺麗なレストランを予約していた。それなのに、急なニュースの取材で深夜まで張り込んでいて、約束の時間をとっくに過ぎてしまっていた。 もう閉まってしまったレストランを前に、篠は後悔と自己嫌悪でいっぱいになった。スマホを取り出すと、宗介からのメッセージに気づく。【仕事、終わった?場所教えて】 まさか、まだ待っていてくれていたなんて。 だが、すでに夜中で、開いていたのはこのラーメン屋だけだったのだ。そのようなことがあり、二人の初デートは完璧とは言えない形で終わった。 それから、ここが二人の行きつけの場所になった。 その時は、宗介のようなエリートが、安っぽい椅子に座って自分とラーメンを食べてくれるなんて、少しは自分のことを気に入ってくれているのだろうなんて思い、舞い上がっていた。 しかし、今ならわかる。その答えは、この店のスープの味が、江川市の鴉鳴横丁にあるラーメン屋にそっくりだったから。つまり――宗介があの女と食べてきた思い出の味だったのだ。 胃がむかむかしていたが、篠は無理やり2、3口だけ食べた。 その時、店のドアが乱暴に蹴り開けられた。冷たい風と一緒に、見るからに柄の悪い男たちが数人なだれ込んでくる。先頭に立っていた金髪の男が怒鳴り散らした。 「おいババア。ここら一帯で、ショバ代を払ってねえのはこの店だけだぞ!」 何人かいた客たちはその剣幕に驚いて逃げていき、あっという間に店の中には、席を立たない篠だけが残された。 客が全員いなくなったのを見ると、金髪の男は顎でしゃくって、「やっちまえ!」と指示を出す。 テーブルや椅子はひっくり返され、食器が割れる音が響く。店主たちは厨房から無理やり引きずり出され、男たちに取り囲まれてしまった。 「やめなさい」篠は立ち上がると、名刺を取り出す。「私は記者です。これ以上続けるなら、明日の新聞の一面にあなたたちの顔写真が載ることになりますよ」 「へえ、とんだ命知らずがいたもんだな」金髪の男は目を細め、ねっとりとした視線を向けながら、一歩ずつ篠に近づいていく。「なかなかの美人じゃねえか。だがな、おせっかいを焼く前に、自分の身を守る方法でも考えとくんだな」 「近寄らないでください」篠は冷たく言い放った。 「なかなか強気だねえ」金髪の男はニヤニヤしながら、彼女に触ろうと手を伸ばす。 しかし、篠がその手を激しく振り払うとともに、パシッという乾いた音が店内に響き渡ると、一瞬で空気が静まり返った。 顔を背けている金髪の男の頬には、くっきりと赤い手の跡が浮かんでいた。篠が叩いたのだった。 「てめえ、調子に乗りやがって!」男は怒鳴ると、大きく手を振り上げ、篠を殴り返そうとした。 「そこまでだ」 低い男の声がドアの方から聞こえてきた。それと同時に、金髪の男の手が掴まれる。視線を向けると、スーツ姿の男が二人ドアに立っていて、そのうちの一人が男の手首を押さえつけていたのだった。 二人の間を割って入ってきたのは、コートを羽織った一人の男性。宗介だった。 彼は散らかり放題の店内を一瞥し、最後、篠に視線を止めると、一瞬、動きを止めた。 しかし、宗介が来たことによって状況は一瞬で変わり、金髪の男たちは警察に連行されていった。女将は店主に寄り添いながら、宗介と篠に何度も頭を下げた。 宗介は表情を変えずに、「二人を病院へ連れて行ってやれ。念のため検査したほうがいいからな」と部下に指示を出す。 ラーメン屋は再び静けさを取り戻した。深夜の冷たい風が吹き付け、篠は思わず肩をすくめた。 すると、体温がまだ残るコートが、そっと肩にかけられた。宗介が篠の隣に立ち、さっきよりも少しだけ穏やかな声で言う。「送っていくよ」 しかし篠は動かずに、うつむいたまま、床に散らばった食器の破片を見つめていた。 「怒ってるのか?」宗介が静かに尋ねる。「結婚式のことは……本当に、すまなかった」 「怒ってないよ」篠は彼の言葉を遮った。ずっと言えずにいた言葉を、今こそ伝えようとしたその時、氷のように冷たい女の声が割り込んできた。 「宗介、あんなに急いで帰っていったのは、この女に会うためだったの?」 第3話 振り返った篠は、初めて菖蒲と対面した。 宗介が眉をひそめる。「安静にしてろって言っただろ?」 「あなたには関係ないから」菖蒲は口の端を吊り上げた。「わざわざこの女を助けに戻ってきたぐらいなんだから、私のことなんてどうでもいいくせにさ」 宗介は菖蒲に近づき、低い声でなだめる。「そんなこと言うな。お前はまだ怪我が治ってないんだから。部下に家まで送らせるよ」 篠は普段の宗介とは違う、人間らしい一面を垣間見た気がした。ただ何も言わず、静かにその場を立ち去った。 翌朝、篠はウェディングプランナーから電話を受けた。 「松尾さん、お世話になっております。増田さんとの結婚式でご使用予定でした貴重品なのですが、当ホテルの金庫にてお預かりしております。近いうちにお引き取りに来ていただくことは可能でしょうか?」 篠は眉間をもみほぐす。「申し訳ないんですが、郵送してもらうことはできますか?」 しかし、ウェディングプランナーは困っているようだった。「品物が高価なものですので……当ホテルの決まりでは、直接ご本人様にお渡しすることになっておりまして」 篠は数秒黙ってから、答えた。「わかりました。取りに伺います」 担当者は若い女性で、ホテルに着いた篠を見るや否や、すぐににこやかな営業スマイルを浮かべる。 「松尾さん。どうぞこちらへ」 案内されたのは、個室の応接室だった。ベルベットの宝石台の上で、きらびやかに輝いているものがある。 それは一対のダイヤモンドの指輪。これは篠の雰囲気に似合うと思ったからと、宗介がオークションで落札してくれたものだった。そのことを知った時、篠はしばらくの間、こっそりと喜びに浸っていた。 隣にはドレスが二着。裾にはスズランの模様が、細かく刺繍されている。これも宗介が海外から取り寄せたものだった。だが、篠が好きな花はカスミソウで…… 他にも、お揃いのジュエリーやベール……どれもこれも、目を見張るほど高価な品だった。 篠がただ静かにそれらを見つめる横で、担当者が残念そうに話し始める。 「あと、こちらもあるんですが……」担当者はパソコンから動画をUSBメモリに移し、篠に手渡した。「結婚式の最初に流す予定だった、お二人の相性診断クイズ動画です」 篠は一瞬なんのことだかわからなかったが、しばらくしてようやくそのことを思い出した。 あれはまだ、結婚式の準備を始めたばかりの頃。プランナーが面白い企画をやらないかと提案してくれ、二人にそれぞれインタビュー形式で5つの質問をしたのだ。そして、答えは結婚式当日に発表されるというものだった。 「ありがとうございます」篠がそれを受け取ろうとした時、誰かがパソコンにぶつかった拍子に、大きなモニターの電源が入り、動画が再生され始めた。 モニターには宗介の姿。 宗介は温かい雰囲気のインタビュー室に座り、シンプルな白いシャツを着ていた。それは、篠があまり見たことのない、プライベートな彼の姿だった。 画面の外から、プランナーの明るい声が聞こえてくる。「増田さん、準備はよろしいですか?最初の質問です。松尾さんに初めて心を動かされたのは、いつですか?」 画面の中の宗介は少し間を置いた。「この質問は、きっと篠と俺とでは答えが違うと思います。だってその時、彼女は俺に気づいていなかったはずですから」 「とおっしゃいますと?」プランナーがさらに尋ねる。「もう少し詳しくお聞かせいただけますか?もしかしてその時の松尾さんはとてもお綺麗で、一目惚だったとか?」 宗介は軽く笑って、首を横に振った。 「いいえ、あの時の彼女はお世辞にも綺麗とは言えませんでした。むしろボロボロで、髪も乱れて、顔には怪我までしていましたから」 プランナーは不思議そうに尋ねた。「では、どうしてですか?」 「あの時の篠は、複数人に囲まれて脅されていました」宗介が口元の笑みを深くする。「でも彼女は相手を静かに見つめて、笑いながらこう言ったんです。『私は書かれるべきものを書いただけ』って。 こんな状況で、こんなかっこいいこと言える女の子がいるんだって思ったんです」 プランナーは驚いていた。「すごい!松尾さんって、あんなに穏やかそうなのに、そんなことを言えるんですね」 動画はまだ続いていたが、篠の耳にはもう何も入ってこなかった。 耳鳴りがして、代わりに別の声が聞こえてくる。それは、クラブの騒がしい雑音に混じった、クラブテンダーの気だるそうな声。 「宗介さんって、ああ見えても結構甘い言葉を吐くんですよ。この前、みんなで真実ゲームをしていた時のことなんですけど、誰かが宗介さんに、菖蒲さんはあんなに気が強いのに、どこを好きになったのかって聞いたんです。 そしたら宗介さんは、菖蒲さんには他の人にはないかっこよさがあるんだって言ったんです。 昔、菖蒲さんは拉致されたことがあって。その時、犯人たちは宗介さんに恥をかかせたいのか、宗介さんが土下座でもして助けてくれって懇願したら、菖蒲さんを解放するって言ったらしいんです。 でも菖蒲さんは宗介さんに土下座なんかさせずに、『死ぬだけでしょ?それの何が怖いわけ?』って言い切ったんです。 だから、宗介さんは言っていました。絶体絶命の状態なのに、あんなにもさらっと、ああやって言える女の子がいるなんてって」 第4話 二つの声が時を越えて、今この瞬間に重なり、篠の心を締め付ける。 篠は認めざるを得なかった。宗介にとって、自分はただの代わりでしかなく、彼が自分に心を動かされた瞬間でさえも、菖蒲との思い出をそのまま再現したものだったなんて。 胸が息苦しいほど詰まるのに、その気持ちを吐き出す場所はどこにもなかった。 その時、母親の松尾理恵(まつお りえ)から電話がかかってきた。 「篠、今夜は家にご飯食べにこない?そこでお父さんに謝ったらいいんじゃないかな?あの人はカッとなりやすいけど、あなたのことを心配してるからこそなのよ」 いつも自信がなく、誰かに媚びるような理恵の声色に篠は胸が苦しくなった。陸の前では一度だって、自分自身を出したことのない理恵の姿を思い出し、ため息をつく。 「わかった」 父の怒りは無視できても、自分にできる限りの愛情を注いでくれた母を、無視することはできなかった。 篠が手土産を持って実家のドアを開けると、陸の怒鳴り声が聞こえてきた。「誰が帰ってこいと言った?」 理恵は出来立てのおかずをキッチンから運びながら、困ったように笑う。「ちょうどよかった。さあ、手を洗ってごはんにしよう」 その一言で、陸の怒りの矛先は理恵へと向かい、彼は手を振り上げると、理恵が持っていたお皿を叩き落とした。 「全部お前が甘やかしたせいだ!そもそも、お前たち親子を呼び戻すべきじゃなかった。そうすれば、恥をかかされることもなかったんだからな」 服が料理の汁で汚れた理恵は、うつむきながら立ち尽くしている。その姿を見た篠は、怒りで呼吸も荒くなり、一歩前に出て理恵を背後にかばった。 理恵は慌てて篠を引き止め、やめてと懇願するように首を横に振った。 「何してるんだ!言いたいことがあるなら言わせろ!」陸は額に青筋を浮かべて叫ぶ。「こいつのせいでこんな大事になったんだ。それでもまだ何か言えるっていうのか?」 篠は怒りで歪む陸の顔をまっすぐに見つめ返した。「たとえ、私たちが恥をかいたとしても、あなたほどじゃないと思うけど。 長年、妻と娘を放ったらかしにして、愛人と江川市で気ままに暮らしてたくせに。年を取って相手にされなくなって初めて、ずっとあなたを待っていてくれていたお母さんの存在をやっと思い出したんでしょ?それで、哀れみからか何か知らないけど、私たちを呼び戻しただけじゃない! 松尾家の体裁なんて、あなたが私たちを捨てた時、とっくに無くなってるから!」 「この親不孝者が!」陸は怒りに震え、手を振り上げて篠の顔を殴ろうとした。 殴られると分かっていたが、篠は避けようとしなかった。 しかしその瞬間、「お義父さん」と、聞き慣れた声が玄関口から聞こえてきた。 篠は呆気に取られた。 宗介が、いつの間にか玄関に立っていたのだ。涼しげな目元は、いつも通りだったが、その表情は冷たい。だが、篠を自分のそばに引き寄せると、少しだけ顔つきを和らげた。 「結婚式が延期になったのは、俺のせいなんです。ですから今日、篠と一緒に、お二人に謝罪に来ようって話していたんです。でも、お二人への手土産に手こずってしまって、篠には先に来ててもらったんですよ」 宗介は一旦言葉を止めると、散らかった床に視線を走らせた。「お義父さん。今日、俺たちがきては少しまずかったでしょうか?」 二度も「お義父さん」と呼ばれた陸は、満面の笑みを浮かべる。「いやいや、いつ来てくれたって大歓迎だよ。さあ、入ってくれ」 「それならよかったです。これ、ほんの気持ちですが」宗介が鈴木に書類を渡すように促した。 それを開いた陸の目が輝く。それは都心の、しかも一等地の権利書で、陸がずっと前から狙っていたが、資金不足で諦めるしかなかった場所だった。増田家は、やはり資金力の桁が違うらしい。 篠は俯いた。また宗介に助けられてしまった。自分が一番つらい時、いつも彼は現れて、いとも簡単に問題を解決してくれる。 こんな状況にも関わらず、初めて自分が宗介に心動かされた時のことを思い出してしまった。 インタビューで宗介は、二人がときめいた状況は違うと思うと言っていたが、本当は同じなのだ。 あの脅された時、英樹には助けを求めていたが、彼がいつ来てくれるかは分からなかったので、内心ではもう終わったと思っていた。 ナイフが再び顔に押し付けられた、その時だった。誰かが部屋に飛び込んできて、自分を救ってくれたのだ。 そして、また別の誰かに部屋から連れ出してもらう時、篠は助けてくれたその人の背中を見ていたのだった。 突然腰をぐっと引かれ、篠は我に返る。宗介に耳元で、「食事だ」と囁かれた。 この食事会は、宗介が来たことで陸は喜び、理恵も感動していた。 ただ一人、篠だけは砂を噛むような思いでいたのだが…… 食事が終わり、二人が邸宅から出たところで、篠は足を止めた。 後ろを振り返る。街灯の灯りを頼りに、宗介を頭のてっぺんからつま先まで、じっくりと見つめた。 3年間ずっと一緒にいて、一生を共にできると信じていた男。 篠は微かに笑みを浮かべ、一歩後ろに下がった。 「宗介、今日は助かったよ。ありがとう。でも、結婚式の話はなかったことにしよう」 宗介はわけがわからないというように、わずかに眉をひそめた。 第5話 宗盛キャピタルについての記事が出ると、世間はすぐに大騒ぎとなった。 世間の関心が高まる一方、篠のもとには宗盛キャピタルから一通の手紙が届いていた。【記事の詳細について、一度話し合いの場を設けたい】という内容だった。 スタッフに案内され、柔らかい絨毯が敷かれた長い廊下を進む。重厚なドアの前までくると、スタッフは立ち止まった。 部屋の中には一人の女性が立っていた。 その顔を見た瞬間、篠の頭は一瞬で真っ白になる。 菖蒲だったのだ。 「松尾さん、はじめまして」菖蒲は篠に近づいてきて、手を差し出した。「自己紹介させていただきますね。宗盛キャピタルの久保菖蒲です」 篠はなんとか手を伸ばし、その手を握る。 「あなたが……どうしてここに?」 菖蒲は優雅に微笑んだ。「そんなに驚くことですか?宗盛キャピタルの本当のオーナーが宗介だと知っていて、わざと彼に近づいたんでしょう?あんなに彼を追いかけ回して、結婚まで持っていったのも、全部内部情報を探るためだったんじゃないんですか?」 あまりにも侮辱的な言葉に、篠は思わず拳を握りしめた。爪が食い込む痛みで、なんとか理性を保つ。 「そんなこと、考えたこともありません」 「まっ、そんなことはどうでもいいんですけどね」菖蒲は全く気にしていない様子だ。「ただ、あなたがちょっと可哀想になっただけなんです。女のプライドを全部捨てて男を追いかけたのに、結局は結婚式当日にゴミみたいに捨てられるなんて」 菖蒲は唇の端を吊り上げて笑う。「女は、やっぱり自分から追っちゃいけないんですよ?昔、宗介は私に猛アタックしてきました。告白もプロポーズも、全部彼から。だって、『こういうことは男がするものだ。好きな女にそんなことはさせられない』って、彼は言ってましたから」 こういった言葉は、宗介を追いかけると決めてから、色々な人から何度も言われてきた。 もう聞き飽きて、慣れたはずだった。だが、菖蒲本人から言われると、今までにないほどの屈辱と悲しみがこみ上げてくる。それでも篠はすぐに気持ちを立て直し、まっすぐに菖蒲を見つめ返した。 「好きな人を勇気を出して追いかけることが、馬鹿にされるようなことだとは思いません」篠の声はいつも通りだったが、かすかに震えている。「それにあなたこそ、人の恋愛に口出ししてくるなんて、その方がどうかと思いますけど?」 一瞬にして菖蒲の目つきが冷たくなったが、すぐにまた笑みが戻る。 「さすが敏腕記者。肝が据わっていますね」菖蒲は立ち上がると、ゆっくりと部屋の反対側へ歩いていった。「でも、その余裕はいつまで続きますかね?」 菖蒲が壁のスイッチにそっと触れると、壁の一部が音もなく横にスライドした。そこはマジックミラーになっていて、隣の広い部屋の様子がまる見えで、中の声も聞こえてきた。 「さすがは宗介だな。裏社会から足を洗って長いのに、こんな簡単に街の権力者をがらりと変えちまうなんてさ。そんなこと、ここにいる誰も真似できないぞ」少し聞き覚えのある男の声だ。 「それより、聞いたぜ?松尾さん、結婚式で使うはずだったジュエリーとかドレス、全部売り払っちまったんだろ?お前に式をすっぽかされたから、よほど腹が立ったんだろうな。で、結局結婚すんのか?」そう話しているのは、洲際グループの御曹司だった。 少しの沈黙の後、宗介の声が聞こえてきた。 「するさ。しばらくしたらな」 「まだ別れないのかよ?」洲際グループの御曹司は呆れたような声を出す。「宗介、悪いけど言わせてもらうぜ。もうやめとけって。お前は久保さんが好きなんだろ?だったらこの機会に、松尾さんとはきっぱり終わりにしろよ。 お前の親父さんが久保さんを気に入らないで、もう何年経ってると思ってるんだ?お前がもっと強く出れば、親父さんだっていずれは折れてくれるはず。なのに、なんでわざわざ松尾さんを巻き込むんだよ?彼女は真面目に記者をやってるだけで、お前とは住む世界が違うんだから」 篠は、指先まで血の気が引いていくのを感じた。平然とこちらを見ている菖蒲の横顔を見て、この状況が仕組まれたものだと悟る。 「結婚するのに、篠は最高の相手なんだよ」壁の向こうから、宗介の冷静で、感情のこもらない声が聞こえてきた。「家柄もいいし、性格も穏やか。それに自分の立場をわかっているから、増田家の嫁としても完璧だ。そして何より、俺に好意を持ってくれている」 宗介は一息おいてから、続けた。「それに俺は、結婚なんていうもので菖蒲を縛りたくない。彼女には自由に生きてほしいんだ」 その瞬間、篠の頭の中で何かが崩れ落ちていく音がした。 激しい耳鳴りがして、目の前が真っ暗になる。立っているのがやっとだ。 宗介の何気ないその一言で、篠の淡い期待はすべて打ち砕かれたのだった。 もうそれ以上、この場所にいることはできなかった篠は、その場から逃げ出す。 静まり返った長い廊下を駆け抜け、レストランの入口から外へと飛び出した。ようやく足を止めたものの、目の奥は焼けるように痛い。なのに、涙は一滴も流れなかった。 その時、バッグの中でスマホがけたたましく震えた。篠は無意識に電話に出る。すると、英樹の焦った声が耳元で響いた。 「松尾!今どこにいる?さっき宗盛キャピタルが公式声明を出したぞ!君の記事はデータソースが不確かで、悪意のある憶測だって、全面的に否定してきた!法的措置も検討するそうだ!」 第6話 篠はスマホを握りしめた。骨の髄まで凍るような冷気が、彼女の全身を包み込んむ。 宗盛キャピタルの本当のトップは宗介だ。つまり、彼はあの報道が事実だと知っていながら、こんなやり方で自分のすべてを否定したのだ。 だが、悲しみに浸っている時間なんてない。 篠は急いで会社に戻ると、すべてのデータソースを整理し直してバックアップを取った。訂正記事を出す準備だ。自分のせいで会社の評判を落としたり、同僚たちの努力を水の泡にしたりするわけにはいかない。 篠が原稿を持って英樹のところへ向かうと、彼は気まずそうに篠から目をそらした。 英樹は黙って一つの封筒を差し出した。そこには、丁寧な字で「退職届」と書かれている。 「すまない」英樹の声は乾いてかすれていた。「君は俺が育てた。こんな立派な記者に成長してくれたこと、本当に誇りに思っているよ」 篠にとって、英樹はただの上司ではなく、人生の道を示してくれた本当に尊敬している人でもあったのだ。 だから彼女は、ただ一言だけ尋ねずにはいられなかった。「誰かから、圧力をかけられたんですか?」 英樹はただ苦笑いを浮かべるだけ。「松尾、分かってほしい。俺には、守らなければならない人が他にも大勢いるんだ」 篠はすべてを察し、両手で退職届を受け取った。 そして一歩下がり、英樹に向かって深くお辞儀をした。 英樹は目を赤くし、顔をそむけてようやく声を絞り出した。「E国への研修の件だけは、なんとか残しておいたから。会社の名前じゃなくて、個人で行くことになるがな……3日後に出発だ」 「ありがとうございます」 篠は会社のビルを出て、道端の手すりにもたれかかり、黙って遠くを見つめた。 すると、すぐ近くから下品な怒鳴り声が聞こえ、何だか騒ぎが起きていた。 露店で小物を売っていた老人が誰かに突き飛ばされ、商品も地面に散らばっている。 篠は、ほとんど本能的に駆け出した。ポケットに手を伸ばし、「私は記者です」という言葉が喉まで出かかった時―― 名刺を取り出そうと伸ばした手は、宙で固まる。 老人を突き飛ばしていた男が、篠をちらりと睨みつけ、イラついた声で言った。「なんだよ?見てんじゃねえよ!用がないならどっか行け!」 その瞬間、篠はどうしていいか分からなくなった。 結局、篠は何もできなかった。ただ黙って老人と散らかった物を拾うと、大事な書類が置いてあったため、宗介と暮らすマンションへ向かった。 この時間なら、宗介は会社にいるはずだった。 なのにドアを開けると、オープンキッチンで濃いグレーのエプロンをつけた宗介が、魚料理の皿をキッチンカウンターに運んでいるところだった。 カウンターチェアには菖蒲が座っていて、頬杖をつきながら、少し首をかしげて彼を見ている。 「塩、入れすぎ」 「そうか?」宗介は菖蒲の手から一欠片とり、自分も味見する。「そうでもないよ。お前が薄味好きなだけだろ」 「ううん、絶対多いよ。昔はこんなことなかったのに」菖蒲が不満そうな声を漏らす。 「久しぶりだからな、腕が鈍ったんだよ」宗介は彼女をなだめるように言った。 「そんなことないでしょ?」菖蒲は眉を上げ、ドアのそばで固まっている篠に視線を走らせた。「普段、彼女には作ってあげないの?昔は毎日、私のために色々作ってくれたのにさ。相手が変わると、そんなに態度も変わるんだ?」 その言葉に、一瞬で空気が凍りついた。 宗介が最初に我に返り、篠の方を見る。「今日は早いんだな」 「うん、特にやることがなかったから」篠は適当に返事をして、まっすぐ寝室へ向かう。書類を取ったら、すぐに出るつもりだった。 「せっかく帰ってきたんだし、一緒に食べよう」宗介の声が背後から聞こえた。 篠はダイニングテーブルに目をやった。テーブルには、見た目も香りも完璧な手料理が並んでいる。 宗介と付き合って3年になるが、彼がこんなに料理上手だったなんて、今初めて知った。 「いらない」 篠は寝室の引き出しから自分の書類が入ったファイルを見つけ出すと、足早に部屋を出た。 後ろから菖蒲の笑い声と、宗介の低い声が聞こえてくる。何を話しているかは聞き取れなかったし、聞きたくもなかった。 玄関のドアを開けた途端、カバンの中のスマホが震えた。 理恵からの着信だった。 第7話 「篠、ご飯ちゃんと食べてる?増田さんと一緒に、またこっちに帰ってこない?結婚式のこともあるし、そろそろみんなで話し合わないと……」 「お母さん」篠は理恵の言葉をさえぎった。「私、あの人とは結婚しないから」 電話の向こうで、数秒間の沈黙があった。やがて、いつものようにおどおどした理恵の声が聞こえてくる。「増田さんは条件もいいし、あなたにも優しくしてくれる。あんな人、めったにいないんだから、そんなこと言わないの。優しい人なんだから、あとは我慢すれば全てがうまくいくわ」 また「我慢」だ。 理恵はずっと我慢ばかりの人生だった。プライドを捨て、自分を押し殺すことが彼女の運命だと信じ込んでしまうほどに。 篠の胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。 深く息を吸い込んで、尋ねる。「お母さん、私と一緒にここを出て行く気はある?」 「出ていく?」理恵は戸惑った。「お父さんは最近やっと私に優しくしてくれるようになったし、私が出て行くったって、どこに行けるっていうの?篠、早まっちゃだめ。増田さんと結婚すれば、お父さんも喜ぶし、そうすれば、うちは……」 その先の言葉を、篠はもう聞いていなかった。 ぎゅっと目をつぶり、喉の奥にこみ上げてくるものをこらえる。「またかけるね」とだけ言って、電話を切った。 近くの大型モニターでは経済ニュースが流れていて、女性キャスターが、はきはきとした声で原稿を読み上げている。 「江川市出身の久保菖蒲氏が、この度、宗盛キャピタルの新CEOに就任しました。関係者によりますと、彼女の背後には巨大な資本関係が存在するとのことです。 また、宗盛キャピタルの利益操作を報じて問題となっていた松尾記者ですが、本日付けで辞職したことが独自取材で判明しました。宗盛キャピタルが同記者への訴訟を続けるかは、まだ分かっていません。 また、この松尾記者の評判は以前から悪かったようで、記者という立場を利用して圧力をかけたり、気に入らない相手は記事にしてマイナスなイメージを植え付けると公言していたとの情報も入っており……」 モニターには、あの夜のラーメン屋でのインタビュー映像が映し出された。金髪の男が、憤慨した様子で篠を非難している。 立ち止まって見ていた通行人たちも、ひそひそと話し始めた。 「最近の記者って、注目を集めるためなら何でも書くんだな」 「本当。無責任にもほどがあるよね。訴えられればいいのに」 「しかも女なんだって。偉そうじゃない?」 篠はその場に立ち尽くした。モニターに流れるニュースと、周りの人々の声を聞きながら、もう自分が今どんな気持ちなのか、分からなくなった。 記者になってからずっと、一つ一つの記事で言葉を吟味し、データも何度も確認してきた。自分の仕事に、そして自分自身に、恥じるようなことは一度もしていない。 それなのに今、真実が簡単にねじ曲げられ、自分の信念は、「やりたい放題」だと非難されている。 すると突然、何の前触れもなく、大粒の雨がばらばらと降ってきた。 通行人たちは悲鳴をあげて雨宿りの場所を探し、散り散りになっていく。篠だけが、その場に立ち尽くしていた。 雨で、あっという間に視界がぼやけていく。 かすむ視界の向こうの通りの角で、一つの傘に入った親子三人の姿が見えた。父親は娘を肩車していて、楽しそうな笑い声までも聞こえる。 若いカップルは相合傘をして、彼氏が彼女を優しく自分の方へ抱き寄せるのも見えた。 彼らには帰る場所があるのに、自分だけが冷たい雨の中に置き去りにされたようだった。 その後どうやって自分のマンションに帰ってきたのかは、覚えていない。濡れた服も着替えず、ふらつきながらソファまで歩くと、全身の力が抜けたように倒れ込んだ。 意識が遠のく中、体中が凍えるように寒い、とだけ感じた。 熱があるのは分かっているのに、体はぴくりとも動かない。指一本持ち上げる力も残っていなかった。 夢うつつの状態で意識が浮かんでは沈む。すると、ふと魂が体から抜け出て、空からすべてを見下ろしているような感覚になった。 篠は見た。陸に優しい言葉をいくつかかけられただけで、今までの屈辱的な扱いを忘れて満足そうに笑う理恵の姿を。 菖蒲の隣に立ち、会議での注意点を一つ一つ丁寧に教えている宗介の姿を。 煌々と明かりがついた会社では、同僚たちが忙しそうに働いている。自分が辞めたことなんて、まるでなかったことのように…… そしてようやく、浮遊していた意識が自分の体へと戻ってきた。 再び目を開けると、窓の外はすっかり明るくなっていた。 喉がカラカラに乾き痛い。篠はなんとか体を起こすと、手探りでスマホを掴み、日付を確認した。 3日が過ぎていた。 篠は力の入らない体をどうにか支えながらバスルームへ向かう。鏡には、青白くやつれた、見るに堪えないほどみすぼらしい顔が映っていた。 彼女は鏡の中の自分をじっと見つめ、それからシャワーをひねった。 身支度を終えると、篠はリビングに行き、すでに荷造りを終えていたスーツケースを手に取ると、振り返ることもなく家を出たのだった。 空港のロビーに、アナウンスが響く。 篠はセキュリティーチェックを抜け、国際線の搭乗ゲートへと向かった。 大きなガラス窓の向こうで、何機もの飛行機が離着陸を繰り返し、それぞれの空へと飛び立っていく。 搭乗案内のアナウンスが流れ、彼女は立ち上がった。 飛行機が轟音と共に大空へ舞い上がった。窓の外では、太陽の光が雲海を突き抜け、あたり一面を金色に輝かせている。