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名前のない結婚式招待状
結婚式の前夜、招待状に印刷されていたのは、婚約者の桐生蒼介(きりゅう そうすけ)と、彼の女性アシスタントの名前だった。 アシスタントの...
Chương (1)
第1章
結婚式の前夜、招待状に印刷されていたのは、婚約者の桐生蒼介(きりゅう そうすけ)と、彼の女性アシスタントの名前だった。
アシスタントの桜井美波(さくらい みなみ)を問い詰めると、彼女は泣きながら、誤って新婦の名前を自分の名前にしてしまったのだと言い訳をした。
その後、蒼介から電話がかかってきた。
「浅野紬(あさの つむぎ)、たかが名前を間違えたくらいで、そんなに大騒ぎすることか?」
彼は私を心が狭く、嫉妬深く、一人の女性社員さえも許容できない人間だと激しく罵った。
5分後、美波はインスタを更新した。そこには、あの招待状と、彼女と蒼介が親しげに寄り添う写真がアップロードされていた。
キャプションには【社長が、どんな大きなミスをしても俺がカバーするから心配するなって言ってくれた】とある。
以前の私なら、女性社員からこんな挑発を受ければ、絶対に蒼介に迫って解雇させていたはずだ。
しかし今回、私は本当にどうでもよくなっていた。
第1話
結婚式の前夜、招待状に印刷されていたのは、婚約者の桐生蒼介(きりゅう そうすけ)と、彼の女性アシスタントの名前だった。
アシスタントの桜井美波(さくらい みなみ)を問い詰めると、彼女は泣きながら、誤って新婦の名前を自分の名前にしてしまったのだと言い訳をした。
その後、蒼介から電話がかかってきた。
「浅野紬(あさの つむぎ)、たかが名前を間違えたくらいで、そんなに大騒ぎすることか?」
彼は私を心が狭く、嫉妬深く、一人の女性社員さえも許容できない人間だと激しく罵った。
5分後、美波はインスタを更新した。そこには、あの招待状と、彼女と蒼介が親しげに寄り添う写真がアップロードされていた。
キャプションには【社長が、どんな大きなミスをしても俺がカバーするから心配するなって言ってくれた】とある。
以前の私なら、女性社員からこんな挑発を受ければ、絶対に蒼介に迫って解雇させていたはずだ。
しかし今回、私は本当にどうでもよくなっていた。
……
美波の名前が印刷された招待状をすべてゴミ箱に捨て、行きつけの美容室へ向かった。
美容師はハサミを持ったままなかなか手を動かそうとせず、本当にショートヘアにしていいのかと何度も聞き返してきた。
腰まで届くこの長い髪は、4年がかりで伸ばしたものだ。蒼介がかつて「髪が腰まで伸びたら結婚しよう」と言ったからである。
今、髪は腰まで伸び、彼も確かに約束通り私と結婚しようとしている。
だけど、もうこの髪はいらない。
蒼介のことも、もういらない。
うなずこうとした瞬間、スマートフォンが鳴った。蒼介からのビデオ通話だ。
応答すると、すぐに彼の声が響いた。
「どこにいるんだ?」
私が黙っていると、彼は画面越しに美容師がハサミを持っているのを目ざとく見つけ、不機嫌そうに眉をひそめた。
「髪、切るつもりか?」
私がうなずくと、蒼介は何か滑稽なことでも見つけたかのように、ふっと声を上げて笑った。
「お前のショートヘアなんて似合わないって。せっかく伸ばしたのに、なんでまたそんな馬鹿なことをするんだよ」
数年前、私がショートヘアだった頃、彼はいつも私を女らしさがないとからかっていた。
その度に私は彼と口論になり、女らしさは髪の長さだけで決まるものではないと証明しようと躍起になっていた。
しかし今の私は、一言も反論しなかった。
ただ静かにうなずき、後ろに立つ美容師に告げた。
「切ってください」
美容師がハサミを動かし始めたのを見て、蒼介は私が本気だと悟り、口元の笑みを消した。
「紬、美波が招待状の名前を間違えたくらいで、当てつけに髪を切るのか?どうかしちゃったんじゃないか?」
私が何も答えないのを見て、蒼介は自分の言い方がきつすぎたことに気がついたようだ。
声のトーンを落とし、感情を抑えて優しくなだめるように言った。
「紬、その髪は結婚式のために何年もかけて伸ばしてきたんだろう。来月は俺たちの結婚式じゃないか。切るのはやめてくれ、な?」
私は返事をしなかった。すると、蒼介が再び口を開いた。
「迎えに行くよ。新しくできた、美味しいレストランを予約したんだ」
蒼介はいつもこうだ。私に腹を立てた後は、必ず新しくできたレストランへ連れて行く。
ここ数年、それが私たちの間の暗黙のルールのようになっていた。
ほどなくして、彼は美容室の外に姿を現した。私がまだ長い髪のままであるのを見て、満足げに口角を上げた。
彼の車に乗り込んだ途端、鼻をつくようなキツい香水の匂いに思わずくしゃみが出た。
私は匂いに敏感で香水は一切使わないし、蒼介の車にも普段は芳香剤すら置いていない。
その香りは独特で、どこか相手を支配しようとするような、生々しい色気を孕んでいた。
「今日、誰が助手席に乗ったの?」
蒼介の口角が、あからさまに下がった。
第2話
「美波の車が故障したから、ついでに少し送っていっただけだ」
私は鼻をこすった。
「そう。彼女の香水、ずいぶん香るのね」
道中は無言だった。レストランの前に車が停まっても、蒼介は降りようとしない。
彼は私の方に顔を向け、眉をひそめた。
「今回、なんで彼女を責めないんだ?お前は美波のことが嫌いなはずだろう?」
私は少し眉を上げた。いつもの私なら、美波に文句を言って泣かせ、蒼介に彼女をクビにするよう迫っていたはずだ。
だけど今回は、そんなことをする気になれないし、そうする必要もない。
「入ってご飯にしましょう。食べ終わったら早く帰って休みたいわ。今日は疲れたの」
私は一人で車を降りてレストランに入り、蒼介も後からついてきた。
席に着くと、蒼介は再び機嫌を直し、サプライズがあるからと意味深なことを言って席を立った。
彼の背中を見送っていると、ふと、その姿がとても子供っぽく思えた。
蒼介が離れた途端、テーブルに置かれた彼のスマートフォンが鳴った。
美波からの着信だ。
二度かかってきても、蒼介は戻ってこない。
三度目の着信音が鳴り響き、私が電話に出た。
電話に出た瞬間、美波が泣き叫ぶ声が聞こえた。
「蒼介さん、早く助けに来てください!地下室に閉じ込められちゃって!」
生花で飾られたケーキを両手で抱えて戻ってきた蒼介は、ちょうどその場面を目撃し、顔に浮かべていた喜びの表情を瞬時に凍りつかせた。
彼は足早に近づき、ケーキを私の目の前に乱暴に置いた。美しかった花のデコレーションは一瞬で崩れ、クリームのついた薔薇の花が一輪、床に転がり落ちた。
蒼介は電話を奪い取るように手にし、画面を一瞥すると、さらに怒りを露わにした。
「紬、誰が勝手に電話に出ていいと言った?忘れるな、俺たちはまだ結婚していない。お前はまだ俺の妻じゃないんだぞ!」
通話を終えた蒼介は、険しい表情を浮かべていた。
「美波にトラブルがあったみたいだ。俺は行かなきゃならない。すぐ戻るから、ここで待っててくれ」
そう言い残し、彼は足早に立ち去った。
私は目の前の形が崩れたケーキを見つめ、思わず自嘲気味に口角を上げた。
美波のこんなにも稚拙な手口を、彼は見抜けないのだろうか。
地下室に閉じ込められたなら、警察や消防に助けを求めないのはなぜか。
緊急の救助を待つ人間が、自分の雇い主に何度も電話をかけ続けるなんて、本当に滑稽な話だ。
レストランの閉店時間が近づいても、蒼介は戻ってこなかった。
幸い、事前に予約していた料理を先に出すようスタッフに頼んでおいたおかげで、空腹のまま待ち続けることだけは避けられた。
席を立とうとしたその時、蒼介が慌てた様子で戻ってきた。
彼はテーブルの上の食べ残しを見ると、不満げな声で尋ねた。
「紬、なんで俺を待たずに一人で食べてるんだよ?」
付き合って10年、私が蒼介を待たずに食事をしたのはこれが初めてだった。
以前は彼が来なければ注文すらしなかったし、同棲を始めてからも、食事を作って彼がテーブルに着くのを待ってから箸を取るのが私の習慣だった。
私は微塵も申し訳ないと思わない口調で、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさいね。美波さんのところへ行ったらもう戻ってこないと思って、先に食べちゃったわ」
蒼介の顔色はさらに曇り、手に持っていたものをバンッと激しくテーブルに叩きつけた。
「新しくデザインし直した招待状のサンプルを取りに行ってたんだよ!」
視線を落とすと、確かに招待状の表紙が新しいものに変わっていた。
蒼介はじっと私を見つめている。その瞳には期待と得意げな色が浮かび、私が招待状を開くのを待ち構えていた。
きっと彼がきちんと確認したのだろう。今度こそ、新婦の名前は私になっているはずだ。
第3話
だが、私にはもうそれを開く興味すら湧かなかった。
「開けて確認しないのか?」
蒼介は信じられないというように尋ねた。
私は冷めた表情で首を横に振った。
ちょうど夕食を終えた頃、美波がまたインスタを更新したのを見たのだ。
写真は新しくなったこの招待状で、名前は意図的にモザイクがかけられていた。わずかに「桐」の字だけが見え、その後ろはぼやけた文字が続いている。
キャプションにはこう書かれていた。
【新しいデザイン、私はすごく好き。あなたも好き?】
私は蒼介に早く店を出るよう促した。すでに閉店時間を過ぎており、客は私たち二人しか残っていなかった。
しかし彼は動こうとせず、そこに立ち尽くし、招待状を手に取って私の前に差し出した。
彼は私がそれを開き、機嫌を直すのを待っているのだ。私は見たくなかったので、手を上げてそれを遮った。
蒼介は私が受け取るものだと勘違いして手を離し、招待状はケーキの上に落ちて汚れてしまった。
彼は数秒間呆然とした後、恥ずかしさと怒りから拳をケーキに叩きつけた。
「紬、あんな些細なことでいつまで騒ぐつもりだ?俺から折れてやったのに、これ以上どうしろっていうんだ!」
「早く帰って休みたいだけよ」
私の冷静な口調が、蒼介をさらに苛立たせた。
「招待状を見たら帰れるんだ、なんで見ようとしない!数あるデザインの中から、わざわざお前のために選んだんだぞ。なんで一目も見ようとしないんだ!」
「紬、俺がお前に甘すぎるから、そんなに我が儘になったんじゃないのか?周りはみんな、今の俺にはお前はもう不釣り合いだって言うんだ。それでも俺は、周囲の反対を押し切ってまでお前と結婚しようとしてるのに、まだ何が不満なんだよ!」
私はうつむいて苦笑した。またその言葉か。
揉め事が起きるたびに、彼はこの理由を持ち出して私に妥協を迫る。彼も彼の周囲の人間も、彼が私と結婚してやるのだから、私は深く感謝し、彼のことを第一にするのだ。
しかし今回ばかりは、もう妥協するつもりはなかった。
「結婚したくないなら、もういいわ」
そう言い放ち、彼を一瞥することもせず席を立ってまっすぐ店を出た。
以前の彼なら、私をそのまま帰らせて、悪友たちと飲み明かし、朝まで帰ってこなかっただろう。
そして私が平身低頭して謝り倒すまで、家に戻ろうとはしなかった。
しかし今回は、足を踏み出す瞬間、腕を掴まれた。
蒼介は追いかけてきただけでなく、私を引き止め、一緒に帰ろうと言ったのだ。
私は彼のその整った顔を見つめ返した。
「家に帰るって私は言っていないけど?」
蒼介はすぐに眉をひそめ、私の腕を振り払った。
「早く帰って休みたいって言っただろう?こんな時間だ、家に帰らなくてどこへ行くって言うんだよ」
矢継ぎ早に問い詰められ、呆れて声を出して笑ってしまった。
確かに、この街に私の行く当てなどない。
付き合って10年、私はずっと蒼介のためだけに生きてきたのだから。
私はため息をつき、スマートフォンを取り出した。
「ミステリーツアーを予約したの。今夜の便で発つわ」
レストランを出ると、呼んだタクシーがちょうど目の前に到着した。
荷物は何一つ持たず、私は一人旅を始めた。
これが、この10年間で初めてのことだった。
目的地に到着してスマートフォンを開くと、何十件ものメッセージが届いていた。
蒼介からのものはたった一件だけで、そこには「これで満足か?」とだけ短く書かれていた。
残りの何十件はすべて美波からの謝罪メッセージだった。最後の一件は音声メッセージで、彼女は泣き声で懇願していた。
「紬さん、私が本当に悪かったです。社長が、もし紬さんが許してくれなかったら私をクビにするって!私、この仕事を失うと困るんです、私の家の事情もご存知ですよね。紬さん、私がクビになって、母がお金が払えなくて病院を追い出され、弟が学費が払えなくて退学になるのを、本当に見殺しにするつもりですか?」
第4話
いつも暮らしている街とはまったく違う空の色を見上げ、私は思い切ってスマートフォンの電源を切り、すべての煩わしさを遮断した。
以前はどんなに激しく衝突しても、私から連絡を絶ったことは一度もなかった。
蒼介が電話に出なかったり、メッセージを無視することはあっても、私は彼の電話には即座に出たし、メッセージにもすぐに返信していた。
私が彼のメッセージに返信しなかったのは、これが初めてだった。彼が怒ることは分かりきっていたが、それでも私は電源を切った。
旅先で一週間過ごした。
蒼介から離れてみて初めて、外の風がこんなにも人に自由を感じさせることに気がついた。
新しい場所を訪れるたびにインスタを更新したが、蒼介は毎回「いいね」を押すだけで、コメントを残すことはなかった。
そして一週間後、私は旅行を終えた。
空港に着くと、迎えに来ている蒼介の姿があった。手には大きな花束を抱えており、人混みの中でもひときわ目を引いた。
帰り道も無言だった。家に着くと、部屋の様子が一変し、結婚式に向けて非常に華やかに飾り付けられていた。
リビングのローテーブルには結婚式の招待状が並べられていたが、今回は精巧な印刷ではなく、手描きのものであった。
蒼介には絵の心得があり、学生時代の作品は賞を取ったこともある。彼は功績を誇るかのように私を見つめ、私が褒めるのを待っていた。
私は彼の視線に気づかないふりをして寝室に入り、自分の私物を一箇所にまとめた。後で適切なタイミングを見つけて、はっきりと別れを告げるつもりだった。
ベッドに横になって休もうとした矢先、玄関の電子錠が開く音が聞こえ、続いて甲高い声が響き渡った。
「蒼介さん、アイマスクを忘れちゃいました」
そう言いながら、美波は軽快な足取りで私の寝室に入ってきて、ベッドボードの方へ一直線に向かってきた。
視線がぶつかると、彼女はそそくさと目を逸らした。
そして寝室のドアの前に立っていたのは、バスタオルを腰に巻き、濡れた髪から水滴を滴らせている蒼介だった。
結局、蒼介は美波を先に帰らせ、彼女はアイマスクを持ち帰る余裕すらなかった。
彼は私の前に立ち、何度も口を開きかけては躊躇し、ようやくしどろもどろに言い訳を始めた。
「ここ数日、新居の飾り付けで忙しかったから、便宜上、玄関の暗証番号を彼女に教えていたんだ。俺はこの数日帰ってなかったから、彼女がここに寝泊まりしていたなんて知らなかった。でも、彼女は本当に手伝ってくれていただけなんだ。俺たちの間には何もない。誤解しないでくれ、お願い!」
私は静かに彼を見つめた。
「誤解なんてしてないわ。気にしすぎよ」
「本当か?」
蒼介は信じられない様子で、何度も念を押すように尋ねた。
私が本当に信じていると確信すると、ようやく安堵の息を漏らした。
この機会に話を切り出そうとしたその時、インターホンが鳴った。
蒼介は私を引っ張り起こしてリビングに連れて行き、大きなサプライズがあるから目を閉じるように言った。
私は彼の強引さに逆らえず目を閉じた。そこでようやく、彼はドアを開けに行った。
次々と人が入ってくる気配と、何かを置く物音が聞こえた。
蒼介が私の隣に立ち、目を開けるように言った時、私はようやく彼の言う「大きなサプライズ」の意味を理解した。
目の前には十数セットものジュエリーが並べられており、一目で高価なものだと分かった。
見覚えのある人影を見つけ、そのジュエリーの価値をさらに確信した。
「紬ちゃん、こいつさ、二人の結婚式のためにものすごく気合が入っててさ。俺に店の目玉商品を全部持ってこさせたんだよ。さあ、好きなのを選んでよ」
そう話しかけてきたのは、蒼介の幼馴染であり、ジュエリーショップを経営している橘博正(たちばな ひろまさ)だった。
まさか蒼介が今回、こんな大掛かりなことをするとは思っていなかった。数日前に知っていたら、こんなことは不要だと絶対に伝えていただろう。
第5話
蒼介は私がさほど興味を示さない様子を見て、少し意外そうな顔をした。
彼は私の手を引いて前に進み、一つずつ試着させてくれた。
四つ目のジュエリーを身につけた時、蒼介の目が輝いた。
「これ、似合うな!紬の雰囲気にぴったりだ!」
傍らから、博正の軽い笑い声が聞こえてきた。
「お前、本当にルビーのネックレスが好きだな。この前、美波ちゃんがルビーを試着した時も、そんな風に惚れ惚れした顔をしてたぞ!」
その言葉が終わるや否や、その場の空気が気まずく凍りついた。
私は首元のネックレスを外し、慎重にトレイに戻した。
「蒼介、話があるわ、ちょっと来て」
私は背を向けて寝室に戻った。
蒼介は私の後を追いかけ、焦った様子で弁解した。
「紬、聞いてくれ。この間は、美波がジュエリーを欲しがって、どこかいい店を紹介してくれって言うから、博正の店を教えただけなんだ。たまたま彼女が行った日に俺も店に行って、鉢合わせしただけなんだよ」
私はうなずき、そんな弁解は不要だと示した。
私がそう示せば示すほど、彼は焦って説明を続けようとする。
私はふと、1ヶ月前の出来事を思い出した。彼の誕生日プレゼントを選ぶために高級デパートへ出かけた時のことだ。
偶然にも、蒼介と美波も同じデパートに来ていた。
美波は自らネクタイを選び、蒼介の首に締めてあげていた。
予期せぬ私の登場に、二人の楽しげな表情は一瞬でこわばった。
私は歩み寄ってそのネクタイを奪い取り、美波に投げつけて言った。ネクタイを選ぶなんてことは恋人がやれば十分で、アシスタントの出る幕ではないと。
その時の蒼介の冷酷で危険な表情を、私は今でもはっきりと覚えている。
「紬、俺は一社の社長なんだぞ。何事も彼女であるお前の許可が必要なわけじゃないだろう?」
あの時、蒼介はひどく激怒し、私が説明しようとしても何日も口をきいてくれなかった。
折しも、母の容態が急変した時期と重なっていた。地元の病院では治療できず、大きな病院へ転院することになったのだが、有名な専門医の予約は全く取れなかった。
私は仕方なく蒼介に助けを求めた。
しかし彼は電話に出ず、メッセージにも返信しなかった。
結局、私は母を連れて大きな病院へ直接行くしかなかった。最後には、母の深刻な状態を見かねた病院の職員の助言で、恥を忍んで医師に直接懇願し、無理やり診察してもらうことができた。
しかし、最適な治療のタイミングを逃してしまったことは否めず、母はその年の暮れに永遠に私の元を去ってしまった。
息を引き取る間際でさえ、母は蒼介を責めないようにと私に言い残した。
そこまで思い出し、私は我に返った。
私が黙り込んでいると、蒼介の方がしびれを切らした。
「俺がこんなに機嫌を取ってやってるのに、これ以上どうしろって言うんだ!客が来てるんだぞ、こんな態度をとって何になる!少しは俺の立場も考えろよ!」
最後には苛立ちに任せて寝室のドアを蹴りつけ、怒りに顔を歪めて怒鳴り声を上げた。
「本当に面倒な女だな!結婚したくないなら、もうしなくていい!」
以前から、蒼介は事あるごとに別れを口にして私を脅し、婚約してからは「結婚しない」と言って脅すようになった。
私に非がなくても、彼はいつもその手を使って私に妥協と謝罪を迫ってきた。
しかし今回ばかりは、私も本当にこの結婚をする気が失せていた。
私は冷ややかな視線で彼を見つめ返した。
「そうね。それじゃあ、やめにしましょう」