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身代わりは卒業。甘やかした彼を捨て叔父の妻へ
「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」 電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚い...
Chương (1)
第1章
「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」
電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚いたようだった。「どうしたの、急に?この間まで、智也じゃなきゃ絶対に嫌って言ってたのに」
鈴木彩花(すずき あやか)は数日前に自分が言ったことを思い出し、自分がどれだけ馬鹿だったかと、後悔する。
「目が覚めたの。それだけ」
「わかった。その人、ちょうど来月の頭に帰ってくるらしいから、また連絡するよ」
電話を切った彩花は、すぐにスマホに予定を書きこんだ。
来月の頭まで、約2週間。
夢を見るのは、もうおしまい。しっかり、現実を見なくては。
第1話
「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」
電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚いたようだった。「どうしたの、急に?この間まで、智也じゃなきゃ絶対に嫌って言ってたのに」
鈴木彩花(すずき あやか)は数日前に自分が言ったことを思い出し、自分がどれだけ馬鹿だったかと、後悔する。
「目が覚めたの。それだけ」
「わかった。その人、ちょうど来月の頭に帰ってくるらしいから、また連絡するよ」
電話を切った彩花は、すぐにスマホに予定を書きこんだ。
来月の頭まで、約2週間。
夢を見るのは、もうおしまい。しっかり、現実を見なくては。
ちょうどその時、寝室のドアが開いた。
いつものように優しい笑みを浮かべた宮崎智也(みやざき ともや)が、手に持っていたケーキ屋の箱を彩花に差し出す。「3時間も並んで買ってきたんだよ。食べてみて」
彩花は受け取って、箱を開けた。
やはり、ショートケーキだった。
彩花はケーキをそっと脇に置く。「ごめん。今は、ケーキって気分じゃないの」
智也は彩花の隣に腰を下ろし、優しくその肩を抱きしめた。「どうしたの、彩花?誰かに何か言われた?俺が懲らしめてやるから、言ってみ?」
彩花は力なく笑った。
智也と付き合ってもう3年になる。これまで、ショートケーキは好きではないと、何度も伝えてきたはずなのに。
彩花が好きなのは、チョコレートケーキ。
だが、智也が買ってくるのはいつもショートケーキだった。
最初は、単純にチョコレートケーキが売り切れてしまっただけだと思ってた。
1週間前のあの夜までは……
智也がシャワーを浴びている間に彼のスマホが鳴り、画面にはツイッターの通知が表示されていた。
「あやか」というアカウントが、新しいツイートを投稿したという通知だった。
【いろんなスイーツを食べてきたけど、やっぱり一番は桜通りにあるお店のショートケーキ!】
智也はこのアカウントの通知が来るように、わざわざ設定している。
それに、そのアカウント名を見たとき、彩花は何だか変な感じがした。
なぜなら、「あやか」という自分と同じ名前だったから。
彩花は気になって、自分のスマホでもその「あやか」というアカウントを検索してみた。彼女の投稿を遡って見ていたら、いつの間にか3年分もスクロールしていた。
「あやか」はどうやら明るい女の子で、世界中を旅しているようだった。容姿もすごく綺麗で、とてもおしゃれなのだ。
投稿を見る限り、今は海外にいるようだったが、もうすぐ帰国してくるらしい。
彼女の本名が、鈴木綾香(すずき あやか)ということも分かった。
彩花と綾香。漢字は違うが、読み方は全く同じ「あやか」。
その偶然に、彩花の胸はざわついた。
そしてその後、智也のツイッターのサブ垢も偶然見つけてしまった。そのアカウント名は「ショートケーキ」。
いい大人の男が、女子みたいなアカウント名を使うとは……それ以前に、そもそも智也らしくなかった。
だが、すぐにその理由に気づくことになる。
綾香の投稿にはっきりと「一番好きなのは、ショートケーキ」と、書かれていたのだ。
智也が恥じらいも捨て、あんならしくない名前をつけていたのは、せめてネットの片隅でだけでも、綾香にとっての「一番好きなもの」でありたかったから。
その時になって、彩花は全てを悟った。3年前、一度会っただけのはずの智也が、なぜあんなに熱心にアプローチしてきたのか。
なぜこの3年間、あんなに優しく、甘い声で「あやか」と呼んでくれたのか。
そして、なぜショートケーキしか買ってこなかったのか。自分が何度も「好きではない」と言っても、聞き入れてくれなかった理由も……
智也が呼んでいた「あやか」は、自分ではなかったのだ。
彩花の気持ちに全く気づいていない智也は、いつものように優しい口調で言った。「もしかして、生理でイライラしてるの?甘いものでも食べたら気分転換になるよ。ここのショートケーキは本当に美味しいんだから。一口食べない?」
彩花の胸は、まるで大きな石が詰まったように苦しくなった。「言ったよね?私、ショートケーキが好きじゃないの!」
智也は一瞬きょとんとして、彩花が急に声を荒げたことに驚いているようだった。
その時、不意に智也の電話が鳴った。
智也が電話に出る。すると、彼の表情が、驚きから、みるみるうちに喜びに変わっていった。「わかった。すぐ行く」
電話を切る智也の手は、かすかに震えていた。
よほど慌てていたのか、彼はドアのそばにあった植木鉢にぶつかりながら、部屋を飛び出していった。
走り去る車のテールランプを見送りながら、彩花は導かれるように「あやか」のツイッターを開く。
そこには一枚の写真が投稿されていた。空港の到着ロビーの写真。
添えられた文章は、【やっと着いた!ショートケーキ、会いたかったよ!】というものだった。
なるほど、今日は綾香が帰国してくる日だったのか。
彩花は静かにスマホの画面を消すと、そっと息を吐き出した。
自分という「身代わり」の出番は、もう終わりみたいだ。
第2話
彩花は一晩かけて、荷物を全部整理した。
自分の服や本、それにこの数年で少しずつ買い足してきた小物や絵も全て片付けた。
この家はいつか自分のものにもなるのだと、信じていた。だから、すごく心を込めて部屋を飾ってきたのに。
今は、その物たちも、主である自分と同じように、ここから消えるべきなのだ。
その夜は、一晩中雨が降っていた。
智也が帰ってきたのは、次の日の朝だった。白いシャツ一枚だけで、ずぶ濡れになっている。
彩花の顔を見るなり、彼はやましいことでもあるのか、気まずそうに目をそらし、ぎこちなく笑った。「こんなに早く起きるなんて、どうしたんだ?もっと寝てればいいのに」
彩花は答える。「早起きは気持ちいいから」
特に何も気づいていないようで、智也は頷いただけだった。「それもそうだな。俺は、先にシャワー浴びてくるから」
「智也」
「ん?どうした?」
「昨日の夜……」
「ああ、クライアントから急に仕事を頼まれて。催促もすごかったから、残業だったんだよ。一晩中かかりっきりで、ご飯食べる時間もなくってさ。本当、疲れたよ……」
人は嘘をついているとき、急に口数が増えるものだ。
相手に信じてもらえないのが怖いから、必死で細かいことを話して、本当らしく見せようとするらしい。
智也が、まさにそうだった。
彼は普段、口数が多い方ではない。いつも簡潔に話すし、彩花をなだめるときでさえ、こんなに長く話したりはしない。
だから、彩花は言った。「聞きたかったのは、上着のことなんだけど。昨日の夜、家を出たときは上着を着てたでしょ?だから、上着はどうしたのかなって思って。会社にでも忘れてきた?」
智也は明らかにホッとした様子で、笑みを浮かべると、ため息をついた。「ああ、会社に置いてきた。大丈夫、寒くないから」
「そう。じゃあ、シャワー浴びてきたら」
智也は近づいてきて、優しく彩花の髪を撫でた。「彩花、そんなに俺のことを心配してくれたのか?」
彩花は少し頭を動かして、彼の手を避けた。
そして素早く智也のそばを離れ、背を向けて窓際に立つ。「早くシャワー浴びてきて。濡れた服をずっと着てたら、風邪ひいちゃうよ」
智也の手は空中で止まった。少し呆気に取られていたが、自分自身の濡れたシャツを見て彼は笑った。「俺が濡れてるから嫌だったんだな。それもそうか、お前まで濡らしちゃ悪いし」
それからすぐに、バスルームの方からシャワーの音が聞こえてきた。
これまで彩花は智也のスマホを見たことがなかったし、智也も何かを隠すようなそぶりを見せたことはなかった。
だからスマホはいつも、無造作に置かれている。
ブーッ――
スマホが震えた。
通知が来たのだ。
綾香からだった。【ショートケーキ、もう家に着いた?】
【上着、ありがとう。すっごく暖かかったよ】
驚いたかって?
実を言うと、彩花はそれほど驚いていなかった。
昨日、智也が慌てた様子で家を飛び出していったときから、心の中ではもう予想がついていたのだ。
だが、予想だけと、実際に目の当たりにすることとでは、まったく意味が違う。
彩花は自分のスマホで、「あやか」というアカウントを検索した。
30分ほど前に、新しい投稿が更新されている。
それは動画だった。
綾香は雨の中を、まるで小さな妖精のように楽しそうに駆け回っていた。
綾香が立ち止まると、後ろから誰かが大きな上着で彼女を優しく包み込む。
その男は、彩花が一度も聞いたことのないような甘い声で言った。「あんまりはしゃぎすぎるなよ。風邪ひくぞ」
すると、綾香が男に答える。「あなたがいるから、何も怖くないもん」
男は優しく笑い、甘やかすように囁いた。「そうだな。俺がずっとそばにいるよ」
この動画には、こんな文章も添えられていた。【遠回りしたけど、あなたはずっとここで待っててくれたんだね】
智也が髪を拭きながら、バスルームから出てきた。「俺のスマホ、鳴った?」
彩花は智也のスマホを持ち上げ、ゆらゆらさせながら答える。「一回震えたよ」
すると、智也が飛びつくように駆け寄ってきて、彩花が持っていたスマホをひったくった。
ものすごい力だった。
メッセージを返し終えてから、智也は自分の取り乱した態度にやっと気づいたようだった。
そして気まずそうに言い訳を始める。「クライアントから催促がきてて、ちょっと焦っちゃった……ごめん、痛かった?」
「大丈夫」彩花は彼の言葉を遮った。「じゃあ、早く仕事したら?私、ちょっと出かけてくるから」
智也は追いかけてきて、彩花の腕をつかんだ。「彩花、怒ってるのか?」
「怒ってないよ」
彩花は、怒ることさえできなかった。
なぜなら、自分には怒る資格すらないように感じていたから。
すると、智也がリビングの隅に積まれたいくつかの大きなゴミ袋に気づいた。「昨日、大掃除でもしたのか?すごい量のゴミだけど」
彩花は、「うん」とだけ答える。
智也は笑った。「そっか。じゃあ、置いといていいよ。後で俺が捨てておくから」
「智也。バスルームからなくなってる物、気づかなかった?」
「……うーん、特になかったと思うけど」智也は聞いた。「ボディソープがなくなった?俺が買ってくるよ」
彩花は、ただ静かに頷いただけだった。
バスルームにあるタオル、歯ブラシ、スリッパはすべてお揃いのものだった。
いつも、二つ仲良く並んで置かれていたのに。
智也が青で、彩花がピンク。
一目見ればすぐに分かるはずなのにな。
昨日の夜、彩花は自分のものをすべて片付けた。だから、バスルームには智也の一式しか残っていないはずだった。
だが、彼は気づかなかった。
心には別のことがあるからか。それとも、もとから気にも留めていなかったのか……
彩花はもう、それを確かめる気力もなかった。
第3話
週末、智也の同窓会があった。
本当は一緒に来たくなかった彩花だったが、智也が何年も想い続けている女が気になってしまい、結局着いてきたのだった。
二人が着いたとき、カラオケボックスの中はもうすごく盛り上がっていた。
智也の親友、柴田翔(しばた しょう)が彼の首に腕を回す。「智也!遅いぞ!綾香が帰ってきたんだろ?お前の長年の片思いもやっと報われるってもんだな……」
智也は少し慌てて、絡んでくる翔の手を振り払った。「変なこと言うなよ」
「変なことって何だよ?お前が綾香のこと好きだったのは、クラスの奴らみんなが知ってることだろ?」
そう話していた翔の視界の隅に、智也の後ろにずっと立っていた彩花の姿が入った。
翔は笑みを浮かべ聞いた。「こちらは……」
智也は少し気まずそうに紹介する。「俺の彼女だ」
翔は呆気に取られた。「彼女?お前、彼女できたのか?なんで俺が知らないんだよ?いや待てよ。お前ずっと綾香のこと待ってたんじゃなかったのか?なんで急に彼女なんて……」
智也の顔色が少し暗くなる。
ちょうどそのとき、人混みの中から、ひときわ目を引くきれいな女性が歩いてきた。「誰に彼女ができたって?」
翔は慌てて言った。「綾香、ちょうどいいところに来た!智也が彼女できたって言うんだけどさ、俺どうも信じられないんだよな」
智也が何年も心に秘めていたその人が、ついに目の前に現れた。
彩花は今までツイッターでしか彼女の写真を見たことがなかったが、これでようやく、本人に会うことができた。
本当にきれいで、ハッとするような、強烈な印象を与える美人だった。
これなら、智也が何年も彼女を忘れられないのも無理はない。
綾香は彩花をじろじろと見つめた。その目には、疑いと、それ以上の敵意がこもっている。「智也。この人が、本当にあなたの彼女なの?」
智也は口を開きかけたが、言葉を詰まらせたのか、ゴクリと喉を鳴らした。「この人は……」
彩花はひきつった笑みを浮かべて言った。「私は、忘れ物を探しに来ただけなんです。さっきまでこの部屋にいたんですけど、忘れちゃったみたいで……」
智也が驚いたように彩花を見た。
彩花は、智也が見ていることに気づいていたが、視線を返さなかった。
ただうつむいて、自分のつま先を見つめる。
翔が彩花に聞いた。「何を探してるんですか?」
彩花はとっさに答える。「……ピアスです」
すると、翔が言った。「俺たちが来る前に、店員さんが掃除してましたけど、ピアスなんてあったかなあ?店員さんに聞いてみたらどうですか?」
彩花は頷いた。「はい、そうしてみます。お騒がせしました」
そう言うとくるりと背を向け、彩花は早足で部屋を出て行った。
背後から、翔が笑いながら智也をからかう声が聞こえてきた。「智也。綾香にやきもち焼かせようとして、あの子を利用したんだろ?忘れ物探しに来ただけなのに、かわいそうじゃないか」
彼はそう言うと、今度は綾香に向かって言った。「綾香。こいつをここまで追い詰めて。もういい加減、智也と付き合ってやれよ」
綾香の声からはさっきまでの警戒心が消え、また軽やかな調子に戻っていた。「私と智也は親友なの。だから、そういうのはやめてよね」
親友?
彩花は思わず足を止め、振り返った。
視線の先では、智也が腑抜けた顔で綾香を見つめていたのだが、綾香の口から「親友」という言葉が出た瞬間、智也の瞳からはさっと光が消えたのだった。
智也は力なく笑うと、綾香に合わせた。「そうだよ。勘違いするな。俺と綾香は、ただの友達なんだから」
第4話
智也が帰ってくると、彩花はテレビを見ていた。
テレビでは夜のニュースが流れている。
智也は気まずそうに笑って言った。「急にニュースなんか見て、どうしたの?前まではニュースなんて見なかったのに」
彩花が答える。「嘘ばっかり聞かされるのにうんざりしたから、たまには本当のことでも見ようかなって思ってね」
智也は一瞬意味がわかっていないようだったが、すぐに彩花の言葉の裏に気づくと、ため息をついて言った。「彩花、誤解だから。俺と綾香はただの友達なんだよ。それに、翔が言うことなんていつも適当だから、真に受けないでね」
「そうなんだ」
「うん。そうだから」
「智也、ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
彩花は振り向き、智也の目をじっと見つめて言った。「この世に、男女の友情って本当にあると思う?」
智也はきょとんとした。
しかし、その表情は、すぐに寂しげなものに変わった。
「あると思うよ」
きっと、綾香のことを思ったのだろう。
智也の気持ちなんて、周りはみんな知っている。
もう何年も、智也は綾香を待ち続けている。
それでも、綾香にとっての彼は、「親友」のままなのだ。
綾香は、智也からの好意を当たり前のように受け取りながら、彼の気持ちにははっきりと応えようとしない。
綾香の智也への気持ちが友情だとしても、じゃあ智也の綾香への気持ちはどうなのだろう?
ピコン――
また智也のスマホが鳴った。
画面にさっと目を通した彼は、わずかに表情を変えると、すぐに車のキーを掴んで家を出ようとした。
「彩花、俺は……」
「またクライアントからの連絡でしょ?」彩花は言った。「早く行った方がいいんじゃない?待たせたら失礼でしょ?」
智也は何かを言いかけては、ためらっているようだった。
しかし、今度は電話が直接かかってきた。
小鳥がさえずるような綾香の明るい声がする。「智也、メッセージ見た?早く来てよ!」
「うん、見たよ。すぐ行くから」
出ていく間際、智也は言った。「彩花、余計なことは考えずに早く寝なよ。明日、お前の大好きなショートケーキを買って帰ってくるからさ!」
彩花が返事をする前に、智也の姿はもう消えていた。
がらんとした家の中、彩花は目の縁を赤くしながら、ぽつりと呟く。「でも……私、ショートケーキは好きじゃないのよね」
昔からずっと好きなのは、チョコレートケーキなのに。
それに彩花は悲しくも、智也が自分の名前と呼ぶときに、本当に「彩花」と呼んでいるのかすら、もう分からなくなっていた。
彼は自分を呼んでいるのか?それとも、自分を通して、別の女の名前を呼んでいるのだろうか。
時々、彩花は自分は被虐的嗜好があるのかもしれないと思うことがあった。
どうせ傷つくだけだと分かっているのに、それでも「あやか」のツイッターを開いてしまうのだ。
アップされていたのは、とあるメーカーの生理用品だった。
夜用、さらさら、羽つき。
【私がいつも使ってるのを覚えててくれるのなんて、あなたしかいないね】
彩花はスマホの画面を消すと、そっと目を閉じた。
暗闇の中、湿った小さな舌が彼女の手をぺろりと舐めた。
彩花は小さく笑って、なっちゃんを抱き上げる。
なっちゃんは、智也と一緒に飼い始めた犬だった。もともと捨てられていて、可哀想に思った彩花が拾ってきたのだ。
なっちゃんは人の気持ちが分かる子で、今は彩花の腕の中で静かに体を丸めている。
その温かくて柔らかい体に、彩花の心は少しだけ慰められた。
なっちゃんの小さな頭を優しく撫でながら、彼女はそっと問いかけた。「もしパパとママが別れることになったら、パパとここに残る?それともママと一緒に行く?」
なっちゃんには、二人がなぜ別れなければならないのかなんて分からない。
だが、彩花が悲しんでいることだけは、ちゃんと理解していた。
彩花を元気づけようと、一生懸命にしっぽを振る。
彩花は胸が締め付けられ、なっちゃんを強く抱きしめた。
他には何もいらない。でも、なっちゃんだけは、絶対に手放したくない。
そのとき、彩花のスマホが鳴った。
ツイッターからの通知だ。
【あやか:あなたが誰か分かっていますよ。人の生活を盗み見て、楽しいですか?】
彩花は返事をせず、スマホを伏せてテーブルに置いた。
だが、綾香は彩花を逃すつもりはないらしく、追撃のメッセージを送ってきた。
【あやか:コソコソするなんて卑怯じゃないですか?一度、直接会いましょうよ】
【あやか:智也と私の関係が、気になるんでしょ?だったら直接会いに来てくださいよ。私が全部教えてあげますから】
第5話
彩花がカフェに着くと、綾香が先に来ていた。
綾香は完璧にメイクを決めていて、いかにも高そうなバッグをそばに置き、背筋をぴんと伸ばして座っている。
彩花を見るなり、隠しきれない優越感をにじませた。そして、あからさまに嫌そうな顔をする。「このカフェ、ペット禁止なんですけど」
彩花は、なっちゃんを抱いてきていた。
最近、色々と忙しくしていたせいで、なっちゃんが少し分離不安気味になってしまっていたのだ。だから、ひとりで留守番させるのが可哀想で一緒に連れてきたのだった。
彩花は言った。「じゃあ、外に出ます」
「たかが犬じゃないですか。それも汚い雑種犬を、宝物みたいに抱っこしちゃって……」
「この子は、私の宝物ですから」
綾香は鼻で笑った。「あなたのセンス、ほんと最悪ですね」
「智也も、この子のこと、すごく可愛がってくれてますから」
「あら、そうですか?私と別れてから、智也のセンスも地に落ちたみたいですね。ペットの趣味だけじゃなくて、女を選ぶ趣味まで最悪になるなんて」
綾香は心底軽蔑した目つきで、彩花を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
しかし、彩花は淡々と言い返す。「こんなくだらない話をするために、私を呼び出したんですか?」
綾香は笑った。「あなたが私にそんな口をきく資格なんてないと思いますけど?わかってますよね?あなたが智也と付き合えてるのは、私のおかげだってこと。私たちの名前の読み方が、たまたま一緒だったから、あなたは智也の彼女になれたんですよ?」
「それが何ですか?」
「知ってますか?あなたと付き合う前にも、智也には何人か彼女がいました。でも、みんな私とどこか似てたんです。それに――私が『気に入らない』って言えば、智也はすぐにその女達と別れました。少しも迷わずに、ね?」
彩花は思わず言い返した。「智也の気持ちを知っているくせに、あなたはどうしてそうやって彼の心をもて遊ぶんですか?」
「私にもてあそばれたい彼と、もてあそびたい私。需要が一致してるんです。あなたには関係ないでしょう?」
「好きにしてください。私は用事があるので、これで失礼します」
彩花はなっちゃんを抱きかかえて立ち上がり、くるりと背を向けた。
「ねえ」と綾香が呼び止める。「もしあなたが私に頼むなら、智也にあなたと別れないように言ってあげてもいいんですよ?」
彩花は眉をひそめ、彼女を振り返った。「一体、何がしたいんですか?」
「別に何も。ただ、楽しんでるだけです。だって、男を手玉に取るのって、最高に気分良くないですか?」
彩花は黙り込んだ。
「智也、あなたの生理周期知ってますか?いつも使ってるナプキンのメーカーは?私は3年も前に智也のそばを離れたのに、彼は今でも私の好み、全部覚えてますよ。
智也は私の言うことなら何でも聞きます。だから、あなたが私にお願いすれば、このまま私の身代わりとして、彼のそばにいさせてあげてもいいんですよ……」
「結構です」彩花は言った。「私にもプライドがありますから。あなたたちの恋愛ごっこを盛り上げる道具になるつもりはありません」
なっちゃんも、飼い主の怒りを感じ取ったのか、綾香に向かって激しく吠えたてた。
綾香はびくっとして、悪態をついた。「何よ!この汚い雑種犬!今に智也に殺してもらうからね!」
彩花はカッとなった。「何ですって?!」
すると、綾香が得意げに笑った。「私の一言で、智也はその犬を殺しますよ。信じられませんか?」
言うが早いか、綾香は彩花の目の前で、智也に電話をかけはじめた。
ワンコールで、電話は繋がる。
「綾香?」
「智也。私、犬に噛まれたの!今すぐ、毒薬を持ってきて!殺してやるんだから!」
「噛まれた?大丈夫か?すぐ行くから待ってろ!病院で狂犬病の注射も打ってもらおうな」
「もう、焦っちゃって。ほんとに噛まれたわけじゃないの。ただ、ずっと私に向かって吠えてくるから、怖くなっちゃって」
「わかった。場所を送って。今から薬を持っていくから」
綾香はさらに勝ち誇った顔になり、彩花を見下しながら電話口で言った。「ねぇ、智也。もし、あなたの飼い犬が私を噛んだら、犬と私のどっちを選ぶ?」
智也は、少しもためらわずに答えた。「犬はただの犬だ。お前が一番大事に決まってるだろ」
その言葉を聞いて、彩花は思わずなっちゃんをきつく抱きしめ、身構える。
電話を切った綾香は、腕を組んで彩花を見た。「智也はもうすぐ着くみたいです。少しだけ、待ってあげましょうか?」
そう言いながら、綾香はわざとなっちゃんをからかうように手を伸ばした。
彩花は慌てて一歩下がる。もし、なっちゃんが本当に綾香に噛みついてしまったら、智也はなっちゃんを殺してしまうだろう。
今すぐ、なっちゃんを連れてこの場を離れなければならない。
しかし、綾香に腕を掴まれた。「待ってなさいよ。楽しいのはこれからじゃないですか」
「離してください!」
彩花はその手を振り払ったが、綾香はしつこく、今度はなっちゃんのしっぽを直接掴んだ。
なっちゃんが、キャン、と悲鳴をあげる。
彩花は、なっちゃんのしっぽを掴む綾香の手を、とっさに振り払った。「離してください!」
軽く押しただけだったのに、綾香はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。「きゃあ、助けて――」
「綾香――」
背後から、智也の悲痛な叫び声が聞こえた。
その瞬間、全てを理解した。
軽く押しただけで綾香が倒れたのは、智也がちょうど駆けつけたからだったのだ。
第6話
綾香が道端の方へ倒れた。
そこへ、自転車がちょうど通りかかり、綾香にぶつかってしまう。
綾香の目にはみるみる涙が溜まっていった。「智也、何でもっと早く来てくれなかったの……」
智也は駆け寄ってきて、地面に膝をついた。「遅くなって、ごめん。どこ怪我した?」
「足がすごく痛い」
すると、智也はすぐさま、綾香を横抱きにした。「病院で診てもらおう」
「でも、彩花さんがまだここに……」
そう言いながら、綾香は弱々しい様子で、なっちゃんを抱いて道端に立っている彩花をちらりと見た。
彩花は、そんな目の前の男女を冷ややかに見つめる。
泣きじゃくる女と、心配する男。
なんて感動的なお芝居なのか。
自転車に乗っていた人まで、綾香に言う始末だ。「彼氏さんに、とっても大事にされているんですね」
あまりに呆れると、人は笑ってしまうものらしい。
本当の彼女である自分のことなんか、智也は一度も見ようとしない。通行人まで、あの二人がカップルだと思っている。
智也は目を真っ赤にし、怒り狂ったライオンのように彩花を睨みつけた。「不満があるなら全部俺に言えよ。綾香を傷つけたりなんかして!しかも、ここは車道のすぐそばだぞ?自転車だったからよかったものの、もし車だったらどうするつもりだったんだ?責任取れるのか?」
彩花は何と言ったらいいのか分からなかった。
それに、これはそもそも彩花が説明すべきことではない。
一方、智也の腕の中にいる綾香は、わざとらしくか細い声で彼を止めた。「私は大丈夫だから。そんなに大ごとにしないで。彩花さんもわざとじゃないはずだから」
「でも、こいつがお前を車道に突き飛ばすのを、俺はこの目で見たんだ!綾香、お前は人が良すぎる……」
「ふふ。昔から私がこうなの、智也だって知ってるでしょ?」
智也の目に浮かぶ愛情は、もはや隠しきれていない。「これまで、お前が外国で一人、どれだけ大変な思いをしてきたか……」
この茶番劇に、彩花はもう口を挟む気も、見ている気も失せていた。
「そんなに心配なら、病院に連れて行ってちゃんと検査してもらえば?治療費も慰謝料も、私が払うから。じゃあ、私はこれで」
「待て」と智也は言った。「謝れ」
彩花は信じられない思いで振り返り、智也の鋭い目を見つめ返す。
「なんて?」
「綾香に謝れって言ったんだ。今すぐ、謝れ」
彩花は言葉を失った。「智也、ここはカフェの目の前だよ?まずは監視カメラでも確認して、何があったかちゃんと見てから言ってくれる?本当に謝るべきなのは、どっちか知らないくせに」
「お前が綾香を突き飛ばしたんだろ?」
彩花は絶句した。
「とにかく、お前が綾香を怪我させたんだから、謝れ」
彩花は背筋を伸ばす。「謝るのは私じゃない。それでも謝らせたいっていうなら、警察でも何でも呼べばいいから」
そう言い残し、彩花はなっちゃんを抱いてタクシーを拾い、その場を去った。
タクシーに乗っていると、運転手が尋ねてきた。「お客さん、泣いているようですが……大丈夫ですか?」
彩花は顔の涙を拭って言う。「泣いてませんから」
「泣いてるじゃないですか。彼氏とケンカでも?」
彩花は顔をそむけ、窓の外を見つめた。
智也とケンカをしたわけではない。
ただ、智也が自分に謝れと言ったあの瞬間に、二人の関係が完全に終わってしまったのだ。
家に帰ると、彩花は急いで下着をいくつかカバンに詰め、なっちゃんを抱いて家を出た。ここは、かつて彼女が安らげる場所だと信じていた家だったのに。
姉の奈津美から電話がかかってきた。「彩花、飛行機のチケットは取った?いつこっちくる?」
「8日」
「そっか、じゃあもうすぐだね。チケット取れたら教えて。空港まで迎えに行くから」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。一人で帰れるから」
「もう、私だけじゃないの。お見合い相手の男の子が、あなたを迎えに行きたいんだって。そうだ、こっちで暮らすのに必要なものがあったら、早めに教えてね。私が準備しておくからさ」
彩花は腕の中のなっちゃんを見つめて言った。「私は何もいらないんだけど、なっちゃんのベッドとドッグフードだけお願いできる?」
「あの智也と一緒に飼ってたわんちゃん?」
「うん」彩花は言った。「なっちゃんも一緒に連れて帰るから」
「どうして?智也はもう飼わないって?」
「ううん、そういうわけじゃないの」
今回は、彩花となっちゃんが、智也を捨てるのだ。
第7話
翌朝早く、彩花はなっちゃんを連れて、最後のワクチンを打ちに行った。
ワクチン接種証明書を受け取ると、獣医がこう言った。「なっちゃんのワクチンはこれで全部終わりです。これからは他のわんちゃんと普通に遊べますよ」
彩花は尋ねた。「なっちゃんくらいの年齢は、長距離の飛行機に乗っても大丈夫ですか?」
「貨物室に?」
「はい」
「なっちゃんはまだ小さいですし、それに野良だった過去もあるので、少し分離不安の傾向があります。だから、飼い主さんと長時間離れるのは、なるべく避けた方がいいかもしれませんね」
彩花は少し困った顔をした。「もうすぐ他の街に行くので、どうしても一緒に連れて行きたいんです」
獣医は少し考えてから言った。「それなら、直行便はやめて、乗り継ぎを挟んでみてはどうでしょうか。乗り継ぎの時間に、なっちゃんを安心させてあげられるかもしれませんので」
彩花はうなずいた。
動物病院を出たあと、彩花は獣医のアドバイス通りに航空券を手配した。
深津までは4時間のフライト。だから、2回に分けて飛ぶことにした。
深津に着くまでに結構な時間がかかってしまうけれど、なっちゃんのためなら平気だ。
奈津美に電話すると、事情を話した彩花を応援してくれた。「気をつけて来てね。急がなくていいから。あなたもなっちゃんも、無理しないように」
「うん、分かってるよ、お姉ちゃ……」
突然、強い吐き気が喉までこみ上げてきた。
彩花は思わずその場にうずくまり、激しく嘔吐した。
電話はまだ繋がったままで、奈津美が心配そうに叫ぶ声が聞こえる。「彩花?大丈夫?」
しばらくして少し落ち着いた彩花は、なんとか答えた。「大丈夫。たぶん、何か変なものでも食べたんだと思う」
奈津美は少し黙ってから言った。「彩花、一度病院で診てもらったほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。薬を飲めば治るから」
「ねえ、もしかして……妊娠してるんじゃ……」
その言葉は、まるで頭を殴られたような衝撃で、彩花はしばらく何も考えられなかった。
彼女はなっちゃんを一旦動物病院に預け、その足で病院へ向かった。
検査結果に書かれた【妊娠8週目、心拍確認】という文字を見ても、彩花はほとんど現実感がなかった。
産婦人科の医師が言う。「おめでとうございます。赤ちゃん、楽しみですね」
しかし、ずっと黙っている彩花を見て、医師は察した。「もしかして、産まないという選択肢もお考えですか?そうであれば……」
しかし、産婦人科は混んでいたので、医師は彩花に長い時間は取れなかった。「まずは赤ちゃんの父親と相談してみてください。決まったらまた来てくだされば、いいですから。では、次の方どうぞ」
彩花はうなずくしかなかった。
産婦人科の外にあるベンチに座り、スマホを握りしめる。
智也に、この電話をかけるべきかどうか、分からなかった。
その時、まるでどこかで見ていたかのように、智也から電話がかかってきた。
「なんで家にいないの?」
かなりぶっきらぼうな口調だった。
もう、智也は名前すら呼んでくれない。
それはそうだろう。彼の愛する綾香が帰ってきたんだから。もう、自分みたいな身代わりは必要ないのだ。
「なっちゃんと一緒に出かけてるの。どうかした?」
「今すぐ病院に来い」
「どうして?」
「綾香が足首を擦りむいたんだ。あいつは痛みに弱い。お前が来て謝れば、それで終わりにしてやるから」
痛みに弱い?
自分だって、痛いのは嫌だ。
「智也、今は行けない」
「犬の散歩がそんなに大事?そんなの駄目だ。今日中に絶対に来いよ」
「行けないって言ってるでしょ!」彩花は叫んだ。「智也。もし私が今、同じ病院にいるとしたら、それでもあなたは私を引きずってでも彼女のベッドの前で謝らせるつもり?」
「お前が病院なんかに何の用があるんだよ?」
「子供をおろしに来たの」
「何言ってんだよ」智也は鼻で笑った。「謝りたくないからって、そんな嘘ついて。彩花、自分でくだらないと思わないのか?」
彩花は何も言わなかった。
「30分やる。病院で待ってるからな」
ツーツーツー――
電話は、一方的に切られた。
彩花は暗くなった画面を見つめ、ふっと自嘲の笑みを漏らした。
今さら、あの人に何を期待していたというのだろう?
彼女は再び産婦人科の診察室へ向かった。そして、落ち着いた、でも固い決意を込めた声で医師に言った。「すみません、この子をおろしてください」