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冷え切った心は、元には戻らない
結婚記念日。食卓に並べた料理は、冷めては温め直されることを繰り返し、私は麻痺したような指先で、ふと目に飛び込んできた話題の投稿をタッ...
Chương (1)
第1章
結婚記念日。食卓に並べた料理は、冷めては温め直されることを繰り返し、私は麻痺したような指先で、ふと目に飛び込んできた話題の投稿をタップした。
【元カレともう一度復縁するのって、あり得るもの?】
【自分を騙すのはやめなよ。男は演技が上手い生き物だし、どうせ女が心変わりするのを高を括ってるだけ。そんな手に引っかかる人がいるなんてね】
そのトップコメントを見た瞬間、胸の奥がずしりと重く沈んだ。
六年前、私は神田晋哉(かんだ しんや)と、あの女の不倫現場を押さえた。
プライドの高い彼が、あの時初めて泣きながら土下座した。熱があったせいで、彼女を私と見間違えたのだと、苦しい言い訳を口にして。
七年かけて築き上げた信頼という高い壁。その内側に突き立てられた棘を、私は無理やり飲み込んだ。
それ以来、晋哉は女性関係を一切断ち、私を骨の髄まで甘やかした。
私は自分に言い聞かせ続けてきた。ひびの入った関係でも、もしかしたらやり直せるのかもしれない、と。
我に返り、たかがネットの投稿に共感を求めていた自分を、内心で冷笑する。
だが、無意識のまま画面を最下部までスクロールしたとき、このスレの最新の返信が目に留まった。
【不倫相手の奥さんも、あんたたちと同じように「不倫夫が反省する」なんておめでたい夢を見てるわ。彼女は知らないの。この六年間、私が一度も彼女の夫と離れていなかったことも、今、彼の子を身ごもっていることも】
【今日は二人の結婚記念日。見てよ、彼に家に帰りたそうな様子なんて微塵もないでしょ】
指先の震えが止まらない。
添えられた写真には、女の膝に横顔を預けて眠る男の姿があった。顔ははっきりとは見えない。
それでも、私には分かってしまう。
それは、一晩中待ち続けていた私の夫――神田晋哉だった。
第1話
結婚記念日。食卓に並べた料理は、冷めては温め直されることを繰り返し、私・森咲里見(もりさき さとみ)は麻痺したような指先で、ふと目に飛び込んできた話題の投稿をタップした。
【元カレともう一度復縁するのって、あり得るもの?】
【自分を騙すのはやめなよ。男は演技が上手い生き物だし、どうせ女が心変わりするのを高を括ってるだけ。そんな手に引っかかる人がいるなんてね】
そのトップコメントを見た瞬間、胸の奥がずしりと重く沈んだ。
六年前、私は神田晋哉(かんだ しんや)と、あの女の不倫現場を押さえた。
プライドの高い彼が、あの時初めて泣きながら土下座した。熱があったせいで、彼女を私と見間違えたのだと、苦しい言い訳を口にして。
七年かけて築き上げた信頼という高い壁。その内側に突き立てられた棘を、私は無理やり飲み込んだ。
それ以来、晋哉は女性関係を一切断ち、私を骨の髄まで甘やかした。
私は自分に言い聞かせ続けてきた。ひびの入った関係でも、もしかしたらやり直せるのかもしれない、と。
我に返り、たかがネットの投稿に共感を求めていた自分を、内心で冷笑する。
だが、無意識のまま画面を最下部までスクロールしたとき、このスレの最新の返信が目に留まった。
【不倫相手の奥さんも、あんたたちと同じように「不倫夫が反省する」なんておめでたい夢を見てるわ。彼女は知らないの。この六年間、私が一度も彼女の夫と離れていなかったことも、今、彼の子を身ごもっていることも】
【今日は二人の結婚記念日。見てよ、彼に家に帰りたそうな様子なんて微塵もないでしょ】
指先の震えが止まらない。
添えられた写真には、女の膝に横顔を預けて眠る男の姿があった。顔ははっきりとは見えない。
それでも、私には分かってしまう。
それは、一晩中待ち続けていた私の夫――神田晋哉だった。
投稿者が写真を晒したことで、このスレの注目度はさらに上がり続けていた。
その厚顔無恥ぶりに呆れたネットユーザーたちから、罵倒のコメントが相次ぐ。
【結局あんた、他人の家庭に割り込んだ泥棒猫ってわけ?恥を知りなよ】
【本当。よくもまあ堂々と言えたもんだね。最近の不倫女ってここまで図太いの?みんな、拡散して!奥さんが地獄から抜け出せるように祈ってるわ】
しかし、当の投稿者は気にする様子もなく、文面からは傲慢さが溢れ出ていた。
【愛されていないほうが部外者なのよ。あの奥さん、毎日覇気がなくて、まるで味のない白湯みたいな女。私みたいに若くて綺麗じゃないし。私はどんな体位でも応じてあげるしね。彼、私が妊娠してるのを気遣って一回だけで我慢してくれたけど、そうじゃなきゃ今日も腰が抜けて立てないところだったわ】
【あんたたちは手に入らないから僻んでるだけでしょ。こんな極上の男、目の前にしたら私より必死になるはずよ。これから彼がオークションに連れて行ってくれるから、あんたたち田舎者に本物のセレブってものを見せてあげるわ】
ほぼ同時に、スマホにメッセージが届いた。
【ごめん、急な会議が入って帰りが遅くなる。記念日、一緒にお祝いできそうにない】
通話ボタンを押すが、予想どおり、長い呼び出し音のあと留守電へと切り替わる。
仕事中の彼は、いつも捕まらない。家で見せる「理想の夫」の姿とは正反対だ。
私はまるで自傷行為のように、コメントを追い続けた。投稿者は、これ見よがしに自慢を重ねていく。
三十分後、彼女は返信を更新した。
【戦利品たっぷり!あんたたち負け組に「本命の愛」が何かってこと、教えてあげるわ】
最新の写真には、ピースサインを作る女の背後に、高級ジュエリーがテーブルいっぱいに並べられていた。
コメント欄の罵倒はさらに激しさを増したが、その中には羨望の声も混じり始めている。
だが、私にそんな余裕はなかった。
中央に鎮座する「オーシャンブルー」のダイヤモンドネックレスを、ただ凝視していた。
そのネックレスは、早くに亡くなった母が遺してくれた唯一の形見であり、継母によって勝手に売却されたものだった。
去年、ようやく行方を突き止め、晋哉に買い戻してほしいと頼んでいた。
そのとき晋哉は何と言ったか。謎のコレクターが所有していて、いくら積んでも手に入らない――そう言っていたはずだ。
それがまさか、とうに他人の手に渡っていたなんて。
抑えきれず、私は足跡を辿り、投稿者のSNSアカウントを特定した。
それは「大胆不敵」と名乗るサブアカウントのようだった。
アイコンには、誰かに手を引かれて後ろ向きに歩く女の写真が使われている。男の顔は映っていないが、その腕には、はっきりと「Y」の字を描く傷跡が刻まれていた。
第2話
女の満面の笑みを眺めながら、私は自嘲気味に笑った。本当に、なんてお熱いことだろう。
結局、何年も経って判明した不倫相手は、あの時のペットショップの店員だったのだ。
投稿の記録は何十ページにも及び、まるで普通の恋人同士の甘やかな日常を連載しているかのようだった。
私は震える指先で、さらに下へとスクロールした。
【2XX6年2月10日 付き合って2070日目。赤ちゃんができたって伝えたら、彼、バカみたいにはしゃいでた。私がこの日をどれだけ待ってたか、彼は知らない】
【2XX5年11月22日 今日は彼の奥さんの誕生日。でも目が覚めたら、彼が大きな青いバラの花束を抱えて私のベッドの前に座ってた。大好きなジャスミンの香水もプレゼントしてくれて、「これからのいい夫婦の日は全部君と過ごすよ」って。愛してる】
【2XX4年3月12日 ムカつく!一緒に晩ご飯食べる約束だったのに、また奥さんに呼び戻された。でも、来週海外旅行に連れてってくれるって約束したから、まあ許してあげようかな】
……
一つひとつの投稿を読み進めるうちに、まるで全身を濡れた毛布で包み込まれたかのように、冷たい震えが止まらなくなり、呼吸をするだけで胸が痛んだ。
我に返ったとき、頬はすでに涙で濡れており、私は激しく喘いでいた。
ふと視界の端に、食卓の上に置かれた妊娠検査の診断書が映る。次の瞬間、堪えきれずにうなだれ、そのまま激しく嘔吐した。
かつて、吐き気をこらえ、歯を食いしばって飲み込んだはずのあの「棘」。
それが六年後の今日、再び私を深く突き刺すことになるなんて、思いもしなかった。
どれほど時間が経ったのかも分からないまま、私は再び箸を手に取ると、食卓に並んだ料理を茶碗いっぱいに盛り、無理やり口へと詰め込んだ。
けれど、冷めては温め直された料理は、出来立ての味には程遠い。そこに混じった塩辛い涙のせいで、いっそう喉を通りにくくなっていた。
私たちの結婚生活も同じだった。丁寧に縫い合わせたはずの亀裂は、結局この高い壁を支えきれなかったのだ。
そして今、この瞬間に、すべてが音もなく崩れ落ちた。
---
真夜中。
寝室のドアが、そっと開いた。
「里見ちゃん、まだ起きてたのか?」
枕元の灯りがついているのを見て、晋哉の顔にわずかな驚きが走る。
彼がベッドの脇に腰を下ろした瞬間、鼻をつくような、どこかで嗅いだことのあるジャスミンの香りがふわりと漂った。
皮肉なものだ。ずっとボディソープの匂いだと思い込んでいたそれが、春野花穂(はるの かほ)が常に彼のそばにいた証だったのだから。
こみ上げてくる吐き気を無理やり押し殺し、私は無表情のままうつむく。
晋哉は私の異変に気づく様子もなく、額にかかった髪をそっと撫でながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん。どうしても外せない会議があって、結婚七周年の記念日を台無しにしちゃったね」
「これ、遅くなったけどプレゼント。気に入るかな?」
差し出された箱の中――金縁のルビーのジュエリーセットを見つめながら、私はかすかに口角を上げた。
三十分前、花穂が更新した投稿が脳裏によみがえる。
【誰かさんが私の機嫌を取ろうとして、無理やりオークションに連れて行かれて山ほど買い与えられたんだけど……これ、ちょっと老けすぎじゃない?美少女の私にはいらなーい!】
そこに添えられていた動画に映っていたのは、まさにこのルビーのセットだった。晋哉の甘やかすような声までもが、はっきりと記録されている。
「はいはい、美少女のお嬢様。次は気をつけるよ」
その瞬間、心臓の奥に綿を詰め込まれたような、どうしようもない虚無感に襲われた。
「どうしたの、気に入らない?」
反応のない私を不審に思ったのか、晋哉が目の前で手を振る。
私はゆっくりと視線を彼の顔へ戻し、淡々と告げた。
「気に入らないわ」
晋哉は一瞬、言葉を失ったように口を閉ざし、しばらく私を見つめていたが、やがて箱をナイトテーブルに置くと、なだめるような低い声で言った。
「記念日を祝えなかったから怒ってるんだよね。でも数十億円規模のプロジェクトがかかってて、どうしても手が離せなかったんだ。
本当に申し訳ないと思ってる。プレゼントが気に入らないなら、別のものを買い直すから。だからもう怒らないでくれよ。ねえ、里見ちゃん?」
第3話
跪きかねないほど卑屈な態度を見せる晋哉を眺めながら、言いようのない皮肉が胸をかすめた。
晋哉とは、交際六年目で結婚した。彼と花穂の浮気現場に踏み込んだのは、結婚二年目のことだ。
あの日、私は出張から予定より早く帰り、晋哉にサプライズを用意しようとしていた。だが、待っていたのは喜びではなく、底の見えない絶望だった。
ろくに服も身につけていない二人の姿を目の当たりにした瞬間、私は崩れ落ち、その場で離婚を突きつけた。
すると、いつもはあれほどプライドの高い晋哉が、泣きながら私の前に膝をついたのだ。
あの日、ひどい熱にうなされていて、ちょうどモコちゃんを送り届けてくれたペットショップ店員の花穂を、私だと見間違えたのだと弁解した。
七年という歳月を信じてほしい、自分にとっての女はこれまでも里見ちゃん一人だけだと、必死に言い張った。
君なしでは生きていけない、死んでしまうと。
周囲の誰もが、あれは男の一時の気の迷いだ、離婚を騒ぎ立てるほどのことではない、もう一度チャンスを与えてやれと私を諭した。
それでも頑なだった私の決意が砕け散ったのは、離婚届を提出しに役所へ向かおうとした日のことだ。
空から落ちてきた看板が、すべてを一瞬で打ち壊した。
晋哉はなりふり構わず駆け込み、私を突き飛ばして庇い、代わりにその下敷きになった。その場に倒れ伏した彼は血まみれで、腕は危うく使い物にならなくなるところだった。
傷はあまりに深く、完治した後も、左腕の小臂には不自然な「Y」の字の傷跡が残った。
「里見ちゃん、これは神様が僕に与えた罰だ。この傷は、一分一秒たりとも、僕の裏切りを戒め続けてくれる」
それ以来、彼はあらゆる異性との接触を断ち切った。どうしても避けられない場合でも、常にビデオ通話をつなぎ、私と話し続けた。
最初の半年間、私は彼に指一本触れさせなかった。
たまにうっかり身体が触れると、どうしても耐えきれず、浴室へ駆け込み、全身の皮膚が真っ赤になるまで洗い流さずにはいられなかった。
晋哉はそのたびに傷ついたような、申し訳なさそうな眼差しで私を見つめ、より一層慎重に、壊れた信頼を修復しようと努めた。
悪夢にうなされて飛び起きる夜には、何度も目を赤くしながら、低い声で私をなだめ、細やかな気遣いで私を包み込んでくれた。
私は、数えきれないほど自分を洗脳してきた。
もういいじゃないか。完璧な人間なんていない。彼は心から悔い改めているのだから、私も水に流すべきだ、と。
そう自分に言い聞かせ続けるうちに、いつしか私自身、それを信じかけていた。
まさか、たった一つの投稿によって、そのすべての幻想が打ち砕かれることになるとは思いもしなかった。
突如、着信音が沈黙を切り裂いた。
晋哉はスマホに目を落とすと、露骨な焦りを浮かべ、反射的に立ち上がる。
「プロジェクトで急用ができた。先に寝ててくれ。落ち着いたら休暇を取って、ちゃんと埋め合わせするから」
仕事の忙しさ――それは晋哉の常套句だった。もともと仕事人間だった彼を、私は一度も疑ったことがなかった。
だが真実を知った今では、彼がどれほど巧みな役者だったのかを痛感せずにはいられない。
私は「ひびの入った関係でもやり直せる」という甘い夢の中に閉じ込められ、あやうく溺れかけていたのだ。
ドアが閉まったあと、私は大きく息を吸い込んだが、ついに堪えきれず、涙が静かにこぼれ落ちた。
---
荷物を半分ほどまとめ終えた頃、一晩中帰らなかった晋哉が、ようやく戻ってきた。
スーツケースの前にしゃがみ込む私の姿を見て、彼は怪訝そうに口を開いた。
「どうして急に荷造りなんてしてるんだ?」
私は手を止めることなく、静かに答える。
「物が増えすぎたから、少し片付けようと思って」
その言葉に晋哉の疑念はひとまず晴れたようで、彼は歩み寄ってきた。
「僕がやるよ。君は座って休んでいなさい」
だが、私はそのままジッパーを閉めた。
「いいえ。もう大体終わったから」
晋哉は一瞬動きを止めると、私のそばにしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。
「まだ怒ってるのか?」
彼はジュエリーボックスを取り出し、蓋を開けて私の前に差し出した。
「昨日のセットは気に入らなかったみたいだから、新しくこれを買ってきたんだ。どうかな、好き?」
目の前にある精巧なレディースウォッチを見て、私は思わず笑い出しそうになった。
私は昔から腕時計を着けるのが嫌いだ。一方で花穂のSNSには、時計への愛着を隠そうともしない投稿が溢れていた。
私が黙り込んでいると、晋哉の媚びるような表情に、やがてわずかな苛立ちが走った。彼は眉をひそめ、感情を押し殺すように口を開いた。
第4話
「里見ちゃん、この数年、君のためにどれだけの付き合いを断ってきたと思ってるんだ。こんなことで死刑宣告みたいな真似はやめてくれ。
へそを曲げるのもいい加減にしてくれよ。疲れたんだ、少し休ませてくれ……頼む」
私はその場にしゃがみ込み、彼の体から漂い続ける濃厚な香水の匂いを嗅いでいた。
抑え込んでいた吐き気がついに限界を迎え、「うっ」という声とともに、晋哉の服の上に吐き出してしまった。
晋哉の顔色が一瞬で険しくなる。
だが、彼が口を開くより早く、私の視界は暗転し、そのまま意識を失った。
再び目を覚ましたとき、私は病室のベッドの上にいた。
「里見ちゃん、気がついたか?」
目を開けた私を見て、晋哉は安堵したように微笑み、私の手を強く握った。
「医者が、妊娠してるって。もうすぐ二ヶ月だ。僕、パパになるんだよ!」
彼の顔に浮かんだ感動と興奮には、嘘はないように見えた。まるで、この子の誕生をずっと待ち望んでいたかのように。
あの不倫現場を目撃したとき、私はショックのあまり流産した。医者からは体が傷ついており、妊娠は難しいかもしれないと言われていた。
この数年、晋哉は私の体を整えるため、三日に一度は薬膳料理を煮込み、すっかり養生の達人のようになっていた。
親戚も友人も、皆が私を羨ましがった。
だが、彼がそうしているのは罪悪感から逃れるためであり、心の平穏を求めているに過ぎないことを、私だけが知っていた。
手放しで喜ぶ彼の姿を眺めながら、私は昨夜、彼が出て行った直後に更新された花穂の投稿を思い出していた。
【奥さんのところになんて帰したくないから、腹の子が不安定だって嘘ついて呼び出しちゃった。エヘヘ】
私はうつむき、無意識のうちにお腹に手を当てた。だが、胸の内は空っぽで、凍えるように冷たい。
きっと、私と晋哉には縁がないのだ。だからこそ、子どもがやってくるタイミングは、いつも決まって最悪なのだろう。
私は彼の手をそっと振りほどいた。そこに喜びの色は一片もなかった。
それを見た晋哉の顔に、かすかな後ろめたさがよぎる。
「ごめんよ、里見ちゃん。僕が悪かった。仕事にかまけて君を疎かにしてしまって。約束する、今日からはできるだけ毎日早く帰って、君に付き添うよ」
病院から戻ったあの日以来、晋哉は別人のように変わった。仕事が終わると、脇目も振らずまっすぐ家へ帰ってくる。
「里見ちゃん、今は妊娠中なんだから、ちゃんと栄養を摂らないと。ネットで勉強して作ったんだ。飲んでみて。美味しいかな」
そう言いながらスープを茶碗に注ぎ、期待に満ちた目で私に差し出す。
私は黙ってスプーンを取り、一口飲んで静かに頷いた。
晋哉の顔に安堵が広がる。だが、私が素足のまま床に立っていることに気づくと、再び表情を引き締めた。
「どうしてまた靴を履いていないんだ?」
彼は立ち上がって下駄箱から綿のスリッパを取り出し、私の足元に膝をついて丁寧に履かせてくれた。
忙しなく立ち働く晋哉の背中を、私は何も言わずに見つめていた。
彼は本当に、子どもの誕生を心から楽しみにしているようだった。
帰宅するや否や、家中の家具の角に衝突防止のクッションを貼り、床の滑りを恐れて、部屋のあちこちにマットを敷き詰めていった。
ほんの一瞬、このまま再び絆されてしまおうか、とさえ思った。
けれど、現実という名の平手打ちは、いつも不意打ちでやってくる。
夜、窓の外で突然、雷鳴が轟いた。
晋哉は胎教の本を手に、楽しげに私のお腹へ向かって読み聞かせをしていた。
穏やかだったはずの空気は、けたたましく鳴り響く電話の音によって唐突に切り裂かれる。
晋哉は画面を一瞥すると、すぐに音を消した。だが相手は執拗で、着信は何度も繰り返される。
その騒々しさに耐えかね、私はついに淡々と口を開いた。
「出ないの?」
晋哉は一瞬ためらったが、やがて立ち上がり、リビングへ向かった。
しばらくして、彼は慌てた様子で着替えに戻ってくる。その顔には隠しきれない焦りが浮かんでいた。
「里見ちゃん、急用で出かけなきゃいけなくなった。先に寝てていい、待たなくていいから」
私は彼を一瞥し、何も言わずに頷いた。
それから間もなくして、花穂の投稿が目に入った。
【今年で付き合って六年目!今すぐ来なきゃ、お腹の子と一緒に消えてやるって脅したら、案の定飛んできた。部屋に入るなり一回激しくしちゃった。二人の初めてのときを思い出すなあ。彼の家のベッドで、彼と奥さんの結婚写真の下で、一晩中めちゃくちゃにしたっけ。本当に懐かしいわ】
第5話
写真には、箱から取り出された避妊具がぎっしりと並べられていた。
全身が強張り、私は拳をきつく握りしめた。
震える手で通話ボタンを押す。長い呼び出し音の末、ようやく繋がった。
「もしもし、里見ちゃん?」
晋哉の声はわずかに弾んでいる。私は声の震えを必死に押し殺し、口を開こうとした。
だがその瞬間、受話口の向こうから、艶めいた女の喘ぎ声がかすかに漏れ聞こえてきた。
「ねえ……続けてよ、苦しいの……」
耳元で囁くような微かな声だった。それでもスマートフォン越しに、重く、確かに私の心を貫いた。
晋哉が唾を飲み込む音がはっきりと響く。その声は暗く、焦燥に滲んでいた。
「里見ちゃん、こっちのプロジェクトがちょっと厄介なことになってね。今夜は帰れそうにないんだ。いい子だから先に寝てて。明日、君の大好きなメロンパンを買って帰るから」
私は目を閉じ、虚しさを噛み締めながら、ゆっくりと口を開いた。
「晋哉。六年前、あなたと花穂の初めてって……私たちの新居の、あのベッドの上だったの?」
二秒ほどの沈黙。
やがて返ってきた彼の声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。
「その話はもうしないって約束しただろう。六年だぞ?どうしていつまでも蒸し返すんだ。
僕はこれまで一歩ずつ譲歩して、無条件に君をなだめてきた。それでもまだ足りないのか?これ以上どうしろって言うんだ。心臓を取り出して見せれば満足か?
もう勘弁してくれ、疲れてるんだ」
私は小さく笑った。答えは、もう明白だった。
それならば――これ以上、執着する必要もない。
「そうね、あなたの言う通り。お互いに疲れたわ。離婚しましょう」
電話の向こうで、再び二秒の沈黙。
続いて、冷ややかな鼻を鳴らす音が響いた。
「好きにしろ」
耳元に残る、通話が切れたという無機質な静寂。
---
手術室の台に横たわり、冷たい器具が体内へと入り込んできたとき――
ふと、先ほど産婦人科の待合室で見かけた光景が脳裏をよぎる。
わずかに膨らんだ花穂の腹部を、壊れ物でも扱うかのように抱きしめる男。その瞳に宿る微笑みは、腕の中の女こそが自分の世界のすべてであるとでも言うようだった。
私は目を閉じ、かすかに微笑んだ。血管に麻酔が流れ込み、ようやく解放されていくのを感じていた。
一時間後、私は下腹部を押さえながら、ようやく産婦人科の入り口までたどり着いた。
顔を上げた瞬間、こちらへ真っ直ぐ歩いてくる晋哉の姿が目に入る。
「里見、僕を尾行してたのか?いつの間にそんな疑り深い女になったんだ?」
言い返す気力はなかった。下腹部の激しい痛みに耐えきれず、私は無意識にうつむき、身体を丸める。
晋哉はそれを、後ろめたさから目を合わせられないのだと勘違いしたらしい。
彼の目に怒りが宿り、詰め寄ると、私の腕を強引に掴んだ。
「顔を伏せれば分からないとでも思って――」
だが、死人のように蒼白な私の顔を見た瞬間、晋哉は言葉を失った。無意識に問いかける。
「どうしてそんなに顔色が悪いんだ?」
私は残る力を振り絞ってその手を払いのけ、痛みに耐えながら立ち去ろうとした。だが、再び晋哉に行く手を阻まれる。
「里見、僕への当てつけに、自分の体でふざけた真似をするのはやめろ」
もみ合う拍子に、抱えていた精算書が地面に散らばった。
晋哉の視線が一点に釘付けになり、長い沈黙ののち、震える声で口を開く。
「中絶手術……これ、どういう意味だ?」
私は振り返り、静かに彼を見つめ、そっと微笑んだ。
「意味?子どもはいなくなった。そして、私とあなたも――これで終わりっていう意味よ」