妻の座を降りた日

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妻の座を降りた日

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私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。 夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き...

Chương (1)

第1章

私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。 夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き去りにし、インターンの秘書・三上実里(みかみ みのり)を咄嗟に抱き寄せた。 いつもは冷えきっているその顔に、見たこともないほどの優しさが浮かんでいる。 「実里……危険が迫ったあの瞬間、ようやく気づいた。俺にとっていちばん大切なのは、お前だった」 呆然としているうちに、実里を気づかって駆け寄ってきた息子の氷室悠真(ひむろ ゆうま)に突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。 「どいてよ!氷室夫人になるのは、実里さんなんだから!」 少し離れた場所で寄り添う三人の姿を見ている。 今度こそ、本当にもう疲れた。 氷室夫人なんて、誰がなりたければなればいい。 第1話 私――氷室夏弥(ひむろ なつみ)の誕生日パーティーの最中、シャンデリアが音を立てて砕け散った。 夫の氷室和哉(ひむろ かずや)は私を置き去りにし、インターンの秘書・三上実里(みかみ みのり)を咄嗟に抱き寄せた。 いつもは冷えきっているその顔に、見たこともないほどの優しさが浮かんでいる。 「実里……危険が迫ったあの瞬間、ようやく気づいた。俺にとっていちばん大切なのは、お前だった」 呆然としているうちに、実里を気づかって駆け寄ってきた息子の氷室悠真(ひむろ ゆうま)に突き飛ばされ、私は床に倒れ込んだ。 「どいてよ!氷室夫人になるのは、実里さんなんだから!」 少し離れた場所で寄り添う三人の姿を見ている。 今度こそ、本当にもう疲れた。 氷室夫人なんて、誰がなりたければなればいい。 和哉が悠真の言葉に続こうと口を開きかけた、そのとき。 私は大股で歩み寄り、彼の胸元に付いていたマイクを乱暴に引きはがした。 耳をつんざくようなノイズが一瞬で会場中に響き渡った。その不快さは、さっき和哉が実里に向けて口にしたあの告白と同じくらい、吐き気がした。 ひそひそと囁き合う招待客たちの声が、あちこちから絶えず耳に入ってくる。 氷室グループの株主たちは、「社長の顔に泥を塗るなんて、正気じゃないのか」と私を責めるような声を上げた。 その一方で、「和哉さんたちもどうかしてる。この大事な場で愛人をかばうなんて正気じゃない」と囁き合う者もいた。 周囲のざわめきを浴びて、和哉の表情はみるみるうちに暗く沈んでいった。 彼はすぐに使用人たちへ指示を飛ばし、招待客たちを会場から退がらせた。 だが――実里だけは、その場に残された。 真紅のドレスをまとった実里は、気丈で誇らしげな表情で和哉の隣に立っていた。 その姿は、和哉が今でも忘れられずにいる、亡くなった初恋の人――藤森澪(ふじもり みお)によく似ていた。 悠真は、まるで私が逆上して手でも上げるとでも思っているかのように、大げさなくらい実里の前に立って彼女をかばった。 こうして並んでいると、あの三人のほうがよほど家族らしく見えた。 和哉は実里をなだめながら、苛立ちを隠そうともせず私を問い詰めた。 「マイクを付けたままだったのを忘れていただけだろう。それくらいのことで、どうしてそんなに騒ぐんだ?それとも……実里のことが気に入らないのか。 彼女は鈴蘭邸に住まわせる。お前の目に触れないように配慮する。 安心しろ。おばあ様にも約束している。氷室夫人の座はこれからもずっとお前のものだ」 黙ったままの私を見て、悠真は頬をふくらませ、憎々しげに言い放った。 「もういい加減にしてよ!あんたみたいな孤児が、最初から僕のママになんてふさわしくないんだ。僕は実里さんにママになってほしい! あっち行けよ!僕の新しいママに手を出したら、絶対に許さないからな!」 目の前の夫と息子は、まるで私を敵でも見るかのような目を向けていた。 何か言いかけて口を開いたものの、結局そのまま閉じた。 実里はほんの一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに華やかな笑みを浮かべてこちらを見た。 「奥さん。私と社長は本気で愛し合っているんです。世間がどう言おうと、そんなことは気にしていません。 私のことで、そんなにお怒りになる必要はありませんよ。社長のような方なら、もっとふさわしい方がいて当然ですから」 もう、何もかもが面倒だった。これ以上、三人と言葉を交わす気にもなれない。 私は手首から氷室家に代々伝わるブレスレットを外し、和哉に差し出した。 「これ、返すわ」 和哉は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不機嫌そうな顔でそれを受け取ると、無造作に実里の手首にはめた。 「やるよ」 それからこちらを振り向き、皮肉っぽく口元をゆがめる。 「さすが氷室家が小さい頃から育ててきた花嫁候補だな。ずいぶん物分かりがいいじゃないか。 何百年も受け継がれてきた家宝なのに、あっさり手放すんだな」 私の顔色が少しも変わらないのを見て、和哉はふいに冷たく笑った。 「そこまで物分かりがいいなら、今日はどうして俺に恥をかかせた? それとも、わざと俺を笑いものにしたかったのか? マナーでも習い直したらどうだ。自分の立場を、少しはわきまえるようになるだろ」 いつまでたっても私が何も言わないので、和哉は実里の手を取ると、そのまま背を向けた。 そのまま歩き出しかけたところで、和哉は指にはめていた指輪を外し、こちらへ無造作に放り投げた。 「氷室家のブレスレットがいらないっていうなら、お前がくれた指輪もいらない」 指輪は床の上で何度かくるくると回り、やがて部屋の隅へ転がっていき、そのまま見えなくなった。 第2話 かつて私がこの指輪を買って和哉に贈ったとき、彼は眠るときでさえ外そうとしないほど大切にしていた。 それなのに今は、あまりにもあっさりと手放した。 和哉は実里の手を引いたまま行ってしまった。 悠真も、私が引き止めるとでも思ったのか、慌てたようにそのあとを追っていった。 そばに立っていた年配の執事が、深いため息をついた。 「奥様、どうしてわざわざ旦那様のお気に障るようなことをなさるのですか? 旦那様が昔のことを忘れられないのは、奥様だってご存じでしょう」 私はかすかに笑うと、床に落ちていた指輪を拾い上げてゴミ箱に放り込み、そのまま何も言わなかった。 部屋に戻ると、身につけていた華やかなドレスを脱ぎ、自分の白いシャツに着替えて、クローゼットにある私の服を片っ端からスーツケースに詰め込んだ。 普通の夫婦なら離婚となれば、財産のことや、頭を冷やす時間のことまで考えるのだろう。 けれど、私と和哉をつなぎとめているものなんて、悠真という子どもひとりだけだった。 あの頃、この地方中の話題になった氷室家の盛大な結婚式で、当人同士が婚姻届すら出していなかったなんて、誰が想像しただろう。 五年たった今でも、あの日の和哉の言葉は、はっきりと頭の奥に残っている。 「俺の心も、戸籍の上の妻って立場も、ずっと澪のものだ。 結婚式の日になれば、お前は後悔することになる」 そう言い放った和哉の顔には、残酷な笑みが浮かんでいた。 あれはただのその場の勢いで言った言葉だと思っていた。 けれど和哉は、澪の遺影を手にしたまま、本当に式場に現れた。 口元に嘲るような笑みを浮かべたまま、彼は私を見下ろした。 「夏弥。俺と結婚したいなら、澪の遺影の前で誓え。 俺と結ばれるためなら、何だってできるって言ってたよな? お前は二番目でいろ。これから先も、俺の妻は澪だけだ」 あの世で一人ぼっちの澪を不安にさせるわけにはいかない――だからこうするしかないんだと、彼は言った。 胸が引き裂かれそうだった。 それでも私は脇目も振らず、この結婚にすがりつき、彼のために悠真を産んだ。 じゃあ、私はどうすればよかったのだろう。 相手は和哉だった。 十五年ものあいだ私のそばにいて、空気みたいに当たり前で、それでもなくてはならない存在だった。 あんなふうに満たされた時間が、たしかに私たちにもあった。だからいつかもう一度、彼も私のことを見てくれると信じていた。 けれど結局、私は朽ちかけたこの古い屋敷ごと、和哉にあっさり置き去りにされた。 もう、和哉なんていらない。 悠真という息子も、もういらない。 スーツケースを引いて屋敷を出たとき、氷室家の本邸はしんと静まり返っていた。 まるで、和哉の祖母・氷室八千代(ひむろ やちよ)に引き取られて初めてこの家に来た、あの夜のようだった。 十五歳の和哉は本から顔を上げ、きらきらした目で私を見つめていた。 耳まで真っ赤にして、はにかみながら彼はこう聞いた。 「絵を描くのが好きなんだって?よかったら、一緒に見ない?」 けれど今度は、もう誰も私を送り迎えしてくれなかった。 私は長い旅の末に草原へ戻り、牧畜を営む人の家を借りて、ひとりで傷を癒やすことにした。 故郷を離れていた時間が、長すぎたのかもしれない。 いつの間にか、この土地の言葉の話し方まで忘れてしまっていて、聞き取れないことさえあった。 幸い、隣に住んでいたのもよそから来た人だった。あの日、水を買いに出た私は道に迷ってしまい、彼に道を教えてもらった。 翌日、昨日のお礼に、私はいくつかお菓子を焼いた。 「夏弥さん、どうしてこんなに本格的なお菓子が作れるんですか?」 風間駿平(かざま しゅんぺい)はいくつも続けて頬張って、秋に木の実を集めるリスみたいだった。 思わず私は吹き出してしまった。 話してみて初めて、彼がここへドキュメンタリーを撮りに来ているカメラマンだということを知った。 駿平は学生に見えるくらい若々しくて、まっすぐな若さが全身からにじんでいた。 実のところ、私だってまだ二十五歳だ。 けれど、この数年ずっと和哉と悠真のためだけに生きてきたせいで、自分がずいぶん年を取ってしまったような気がしていた。 気持ちを紛らわせるように、私は草原で摘んできた花を庭のあちこちに飾った。 その花のあいだに、小さなイーゼルをひとつ置いた。 第3話 質素ではあったけれど、自分だけの小さな居場所がある。それだけで、私はもう十分に満たされていた。 氷室家には、かつて私だけの温室があった。 まだ幼かったころ、私と和哉が並んで本を読んだり、休んだりしていた場所だ。 けれど澪と出会ってから、彼は私たちが植えた花を一本残らず自分の手で引き抜いた。 代わりに、自分の好きなスケートボードを並べた。 そしてその真ん中には、真っ赤に改造されたフェラーリが据えられていた。 かつて和哉が澪とともにトロフィーを手にしたときの愛車で、誰ひとり触れることすら許されなかった。 澪がレース事故で亡くなった翌年、八千代が使用人に命じて、それらをすべて処分させた。 それを知った和哉は、八千代のコレクションをめちゃくちゃに壊した。 さらに、八千代と夫の氷室雄一郎(ひむろ ゆういちろう)の思い出の品を踏みつけたまま、ふてぶてしく煙草に火をつけて言った。 「今度また俺と澪のものに手を出してみろ。この屋敷に火をつけてやる。誰一人ただじゃ済まないぞ!」 あの日から、その温室は氷室家の誰も近づけない場所になった。 和哉に特別に許された悠真を除いて、誰も入ることはできなかった。 午後、私は駿平と約束して、星空のタイムラプスを撮るため山へ向かった。そこからは歩いて登るしかなかった。 少しでも荷物を持とうとした私に、駿平は機材をさっと背中に隠して笑った。 「これは渡しませんよ。女の子に重い物を持たせるなんて、そんなことできません」 その一言に、私はふいに遠い記憶へ引き戻された。 和哉と一緒にいたころ、彼はいつも大股で先を歩き、私はその後ろから荷物を持ってついていき、水まで手渡していた。 悠真も物心がつくころには、それを当たり前のように真似するようになった。 和哉には嬉しそうに悩みごとを打ち明けるくせに、歩き疲れると私を呼びつけて抱っこをせがんだ。 出かけるたび、和哉と悠真は汗ひとつかかず、何事もない顔をして歩いていた。 その一方で私は、荷物をいくつも抱えたまま、スマホを肩に挟んで会社の仕事まで片づけていた。 ときどき和哉はそんな私を見て、鼻で笑った。 「そんな荷物でいつまで手間取ってるんだよ。夏弥、お前ほんと役に立たないな。 澪だったら、お前なんかよりずっとうまくやる。 なんでおばあ様がお前なんか俺に押しつけたんだよ。お前なんか選ぶくらいなら、誰でもよかった」 あのころ浴びせられた冷たい言葉がふいに胸によみがえり、目の奥がじんと熱くなった。 私は何度もまばたきをして、そのまま話題を変えた。 ……たぶん、気づかれてしまったのだろう。 撮影機材を設置し終えると、駿平はふいに振り返って私を見た。 「夏弥さん、星、見てください。つらい夜でも、うれしい夜でも、星はずっとそこにあるでしょう。見てると、少し楽になりますよ。 いつかきっと、この星空の下で生まれ変われますよ」 私は顔を上げ、果てしなく広がる天の川を見つめながら、駿平の言った「生まれ変われます」という言葉が胸の奥に何度もよみがえった。 氷室家を出て、和哉と悠真から離れたことは、この十五年の中で私が下したいちばん正しい選択だった。 それなのに――我ながら滑稽だった。 こんなにも広い草原にいるのに、自分から小さな庭に閉じこもり、外の世界から目を背けていた。 このまま、ここで朽ちていくのだろうか。 そう思った瞬間、不意にスマホが鳴った。 聞こえてきたのは、悠真の責めるような声だった。 「いつ帰ってくるんだよ。お前がいないと、僕の宿題見る人いないし、家の中もなんか変なんだよ。 お前の作ったごはん、食べたい。 こんなの母親のすることじゃないだろ。早く戻ってきて、僕の面倒見てよ!」 当然のように言い放つその口ぶりを聞いた瞬間、胸の奥に残っていた迷いがすっと消えた。 まだ二十五歳だ。このままここで立ち止まっているわけにはいかない。 私は静かに言った。 「もう三上を母親に選んだでしょう。 私はもう戻らない」