祖母の最期の願いを裏切った婚約者

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祖母の最期の願いを裏切った婚約者

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祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。 私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあ...

Chương (1)

第1章

祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。 私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあまり、泣き声すら出せなかった。その場にいた家族たちの視線が、私の後ろに立っていた黒崎蓮(くろさき れん)へと一斉に向けた。 蓮はため息をつくと、そっと私の頬の涙を拭うい、そのまま私の手を引いて病室の外へ出た。 けれど、ドアを閉めた途端、彼の表情は一気に冷たくなった。 「俺たち、もう七年も付き合ってるだろ。分かってるはずだ。俺は誰かに強いられるのが一番嫌いなんだ。 結婚は俺たち二人の問題だ。ほかの誰かの考えに左右されるべきじゃない」 彼は宥めるように、私の髪を優しく撫でた。 「結婚の話は会社が上場して状況が落ち着いてからにしよう。 今夜も会議があるんだ。とりあえずお前の家族にはうまく対応しておいてくれ。仕事が終わったら、何かプレゼントを持って帰るから」 私が言い返す間もなく、彼はそのまま女性の秘書と一緒に立ち去ってしまった。 エレベーターの扉が閉まる直前、秘書が背伸びをして彼のネクタイを整えるのが見えた。それはまるでいつものことであるかのように、あまりにも自然な仕草だった。 そして彼も、それを避ける様子さえなかった。 私は涙を拭いて病室に戻ると、笑顔を作って祖母の手を握った。 「おばあちゃん、安心して。私、三日後に結婚するよ。 結婚式の日には、絶対に見ててくださいね」 第1話 祖母は病床に横たわり、しゃがれた声で「ただ一つの願いは、遥が結婚する姿を見ることだ」と告げた。 私・菅田遥(すだ はるか)は悲しみのあまり、泣き声すら出せなかった。その場にいた家族たちの視線が、私の後ろに立っていた黒崎蓮(くろさき れん)へと一斉に向けた。 蓮はため息をつくと、そっと私の頬の涙を拭うい、そのまま私の手を引いて病室の外へ出た。 けれど、ドアを閉めた途端、彼の表情は一気に冷たくなった。 「俺たち、もう七年も付き合ってるだろ。分かってるはずだ。俺は誰かに強いられるのが一番嫌いなんだ。 結婚は俺たち二人の問題だ。ほかの誰かの考えに左右されるべきじゃない」 彼は宥めるように、私の髪を優しく撫でた。 「結婚の話は会社が上場して状況が落ち着いてからにしよう。 今夜も会議があるんだ。とりあえずお前の家族にはうまく対応しておいてくれ。仕事が終わったら、何かプレゼントを持って帰るから」 私が言い返す間もなく、彼はそのまま女性の秘書と一緒に立ち去ってしまった。 エレベーターの扉が閉まる直前、秘書が背伸びをして彼のネクタイを整えるのが見えた。それはまるでいつものことであるかのように、あまりにも自然な仕草だった。 そして彼も、それを避ける様子さえなかった。 私は涙を拭いて病室に戻ると、笑顔を作って祖母の手を握った。 「おばあちゃん、安心して。私、三日後に結婚するよ。 結婚式の日には、絶対に見ててくださいね」 私の言葉を聞いて、病室にいた親戚たちは皆、ほっとしたように息をついた。 祖母は目尻を赤くしながら、「そうかい、よかった」と何度も繰り返した。 両親を車で家まで送り届けた後、母に書斎へと呼び出された。 「ずっと迷っていたんだけど、やっぱりあなたに話しておこうと思うの」 母は言いづらそうに言葉を切り、痛ましそうに私を見つめていた。 「先月のあなたの誕生日のことよ。蓮さんはお祝を届けに来てくれたけれど、ほんの数分で帰ってしまったでしょう? その三十分後くらいにね、私の友人が南町のペットクリニックで彼を見かけたの。部屋着姿の女性に付き添って、犬の診察に来ていたそうよ。その女性が、神崎香月(かんざき かづき)という秘書の方だったみたいで……」 母は友人とのトークルームを開いて、一枚の写真を見せてくれた。 そこには、包帯を巻いた子犬を抱えた香月が、何かを楽しげに話している姿が写っていた。 蓮は彼女の隣で少し俯き、真剣な表情で彼女の話に耳を傾けている。その眼差しには、隠しきれない包容と甘やかな愛しさが満ちていた。 二人の仕草そのものは決して親密すぎるものではない。けれど、まるで見えない糸で固く結ばれているかのように、人混みの中でもひときわお似合いに見えた。 写真の中の蓮を見つめながら、私は少し意識が遠のくような感覚に襲われた。 かつて、彼はあんなふうに真っ直ぐで、熱を帯びた眼差しで私を見ていた。私の喜びも怒りも哀しみも、そのたびに彼の感情を揺らしていた。 それなのに今は違う。私が悲しみのあまり涙を流していても、彼はただ、感情的になるな、これ以上面倒をかけるなと言うだけだった。 「あなたたち、もうこんなに長く付き合っているのよ。本当に蓮さんは結婚する気があるなら、とっくに自分から言い出していたはずでしょう。 今日みたいに無理やり結婚を急かしたところで、あなたが幸せになれるとは思えないわ。お母さんは心配なの。だから、いっそ……」 母の言葉を遮るように、私は淡々と告げた。 「お母さん、私は結婚したいの。でも、もう蓮と結婚するつもりはない」 実家から戻った頃には、もう夜もかなり更けていた。 玄関のドアを開けると、意外なことに蓮がまだ起きていた。彼は部屋着のままソファに座り、パソコンで米国株のチャートを見ていた。 私の帰宅に気づくと、彼はパソコンを閉じ、眼鏡を外して詰問するような視線を向けてきた。 「今日は随分と遅かったじゃないか」 何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。あなたのほうが、私より遅く帰ることなんていくらでもあるじゃない――そう言いたかった。 けれど、今さら彼と言い争うことに何の意味もない気がして、私はただ適当にこう返した。 「別に……お母さんと少し長く話してただけ」 蓮は視線を落とすと、テーブルにあったジュエリーボックスから、きらきらと輝くネックレスを取り出し、こちらへと歩み寄ってきた。 第2話 「今日、お前の家族といる時のあの雰囲気、マジできつかったよ。対応してくれてありがとう、助かったよ。 信じてほしい、お前と結婚するのは本気だ。ただ、今はまだその時じゃない。お前には最高の、誰よりも盛大な結婚式を挙げてほしいと思っているから……」 蓮はそう言いながら、いつものように私を抱き寄せ、ネックレスをつけようとした。 付き合い始めてからというもの、彼は私に後ろめたいことをした時、いつも埋め合わせのようにプレゼントをくれた。 だが前は、たとえ当時の彼には不釣り合いなほど高価な贈り物であっても、ちゃんと申し訳なさを滲ませ、心から謝りながらどうにか私を喜ばせようとしてくれていた。 しかし今の彼は、顔に何の感情も浮かべず、目の奥にもすべてを掌握しているような冷静さしかなく、優しさの欠片すら見えない。 そんな彼の姿が、酷く見知らぬ他人のように思えた。 私は顔をそむけ、彼の手を、そしてその抱擁を拒んだ。 「こんなこと、もうしなくていい。 私たち、終わりにしよう」 蓮の顔色が、みるみるうちに険しくなった。 「どういう意味だ?お前はそんなに感情的になる人じゃないだろう。 すぐに結婚できないと言ったから、へそを曲げているのか?それとも、家族と口裏を合わせて俺を脅しているのか?」 彼の瞳に宿る怒りを見つめながら、私の心は驚くほど静まり返っていた。 「脅してなんていないわ。本当に、もうあなたとは一緒にいられないの」 彼の表情はさらに険しくなる。 「俺たちは七年も付き合ってきたんだ。お前がどれだけ俺を大切に思っているか、俺が一番よく知っている。 駆け引きのつもりか?そんな手に乗るほど、俺は甘くないぞ」 彼は、私がただ拗ねているだけで、しかも祖母の病気を利用して自分に譲歩を迫り、今すぐプロポーズさせようとしているのだと思い込んでいた。 そんな彼の顔を見ていると、ただおかしくてたまらなかった。 こんな人と何年も付き合ってきて、今さらになってようやく、この人がどれほど薄情で自分勝手な人間なのかを思い知った自分が、滑稽だった。 「駆け引きなんかじゃないわ。あなたが、あまりにも自分本位すぎるだけよ。 あなたはいつだって自分のこと、自分の会社、自分の体裁のことしか考えていない。 私や私の家族がどう感じているかなんて、一度だって考えたことがないでしょう」 急所を突かれたのか、彼の顔はいよいよ不快げに歪み、声の調子も一段と強くなった。 「俺が必死に働いて、会社を上場させようとしているのは、将来お前にもっといい暮らしをさせるためだろう? 結婚を先延ばしにしているのも、式をもっと完璧なものにするためだろ。 少しは分別を持ってくれないか?いつも俺にやりたくないことを無理にさせようとするな」 分別、か。 その言葉が私の胸に鋭く刺さった。 私はまだ分別が足りないというのだろうか。 付き合い始めて間もない頃、彼に「気が強すぎる」「とげとげしい」と何度か指摘されたことがある。だから私は自分の「とげ」を引っ込めて、何度も何度も自分を押し殺してきた。 この数年、私は結婚したい気持ちを抱えながらも、彼の並べるもっともらしい言い訳に耳を貸し、自分と家族を説得しては延期を繰り返してきた。 今だって、彼と香月の関係に見て見ぬふりをしてきたのも、まだ彼を愛していると信じ込んでいるからだ。 今まで、私は何度も何度も、どうにかして「彼はまだ私を愛している」と自分を納得させようとしてきた。 こんな自分は、他人がどう思うか以前に、私自身が大嫌いだった。 「あなたが信じようと信じまいと、私はもう限界なの。 あなたを待つのも、あなたを中心に振り回されるのも、もうまっぴら。ましてや、あなたと香月の曖昧な関係を見せられ続けるのは……もう耐えられないわ」 香月の名が出た瞬間、彼の目つきが変わった。そして、怒鳴るように言葉を叩きつけた。 「何度も説明したはずだ。彼女とはただの上司と部下の関係だ。これ以上わがままを言うのはやめろ。 結婚の話も口にするな。会社が上場し、基盤が固まるまでは無理だ。 お前がどんなに騒ごうと、俺の決心は変わらないからな!」 そう言い捨てると、彼は手にしていたネックレスをソファに放り投げ、そのまま背を向けて立ち去った。 第3話 ドアがバタンと乱暴に閉められた。玄関に飾ってあった結婚写真が落ち、粉々に砕け散った。 このマンションは、私たちが付き合って三年目に買ったものだった。内装は私が一から手をかけて整えた場所で、その隅々にまで、かつて私が結婚に抱いていた期待が詰まっていた。 けれど今のここには、失望しか残っていない。あの頃のぬくもりは、もうどこにもなかった。 私はクローゼットを開け、自分の服を取り出して、一枚ずつ丁寧にたたみ、あらかじめ用意しておいたスーツケースに詰めていった。 書斎ではマイナンバーカードだけを持ち出し、それ以外の物には一切手をつけなかった。 荷造りを終えると、私は当日配送のサービスを使って、スーツケースを先に借りておいたマンションへ送った。 新居に落ち着いてから、私はソファに座ったままぼんやりしていた。すると、スマホがふいに震えた。 画面を開くと、香月が投稿を上げていた。 【生理でお腹が痛すぎる……でも、痛み止めを買ってくれる人がいて、本当に幸せだわ】 添えられていたのは、キッチンで撮られた一枚の写真だった。 写真に写っていた男は体格がよく、きっちりとしたスーツ姿の上にエプロンまでつけて、カメラに背を向けたままコンロの前に立っていた。 顔は見えなくても、その仕草だけで彼が今どれほどリラックスしてくつろいでいるかが伝わってくる。私に向ける冷たい態度とは、まるで別人のようだった。 以前の私なら、香月の挑発に取り乱し、感情を爆発させて、蓮に説明を求めていただろう。 けれど今の私は、ただ指先を伸ばして、その投稿に何気なく「いいね」を押しただけだった。それから蓮と香月のSNSアカウントを両方ともブロックした。 ほどなくしてドアがノックされ、一通の封筒が届いた。 中には、赤い台紙に箔押しが施された招待状が入っていた。 それと同時に、スマホに浅倉悠真(あさくら ゆうま)からのメッセージが届いた。 彼は親戚の紹介で知り合った投資家で、落ち着いた物腰の人だ。三日前、私が結婚を決めたその夜に、彼と「契約結婚」を一緒に進める話をまとめていた。 【招待状は届いた?君が選んだデザインだけど、見本を見て気に入ってもらえると嬉しいんだが】 私は少し目を見張った。まさか彼がここまで手際よく、しかも細やかに進めてくれているなんて思ってもみなかった。こんなふうに地に足のついた安心感を、蓮は一度も私にくれたことがなかった。 我に返った私は、【ありがとう、気に入ったわ】と悠真に返信した。 そしてもう一度、招待状に記された挙式の日取りへ目を落とす。あと三日――私にとっては、それで十分だった。 翌朝早く、私は会社へ向かった。手元に残っているプロジェクトを、きちんと最後まで片づけておきたかったからだ。 けれど執務エリアに足を踏み入れた途端、少し離れた場所からひそひそとした声が聞こえてきた。 「昨日、神崎さんの投稿見た?社長がわざわざ痛み止めを買ってあげたらしいよ」 「社内中その話で持ちきりなのに、社長は何も否定してないしね。ってことは、認めたってことじゃない?」 「正直、神崎さんって社長とすごくお似合いだと思うわ」 私は思わず立ち止まった。かつて蓮は、社内で交際を公にすれば仕事に支障が出ると言い張り、ずっと私たちの関係を周囲に隠してきた。それなのに、相手が香月だと隠そうともしないのか。 同僚たちは私に気づくと、ぴたりと噂話をやめ、そろって気まずそうな表情を浮かべた。 香月がまだ入社していなかった頃は、彼女たちもこの会社が私と蓮で大学卒業後に一緒に立ち上げたものだと知っていた。だから当然のように、私と蓮こそが一番お似合いなのだと思っていたのだ。 私は彼女たちの気まずそうな様子を見て、その場を和ませるように言った。 「そうね、あの二人は確かにお似合いだと思うよ」 言い終えた瞬間、背後から怒鳴り声が響いた。 「遥はどこだ!」 蓮は苦虫を噛み潰したような顔で大股に歩み寄り、周囲の同僚たちを鋭くひと睨みした。 その場にいた全員がすぐに目を伏せ、誰ひとり声を上げられなくなった。 「こっちへ来い」 彼はそれだけ言うと、さっさとオフィスへ入っていった。私も後について中へ入る。 ドアを閉めると、蓮は振り返り、しばらく無言のまま私を見つめてから、ようやく口を開いた。 「昨日、香月の投稿に『いいね』したのはどういうつもりだ?それに、俺をブロックしたのはどういう意味だ?」 私はドアのそばにもたれたまま、ただ淡々とした表情で彼を見返した。 第4話 「それはもちろん、心からの祝福よ。ブロックしたのは、もう私たちは別れたんだから、連絡先を残しておく必要もないと思っただけ」 蓮の怒りは、さらに増した。 「祝福だと?お前があの投稿に『いいね』を押したせいで、香月は一晩中落ち込んでたんだぞ。ずっと俺に謝ってたよ。お前に誤解を与えてしまって、本当に申し訳ないってな」 あまりにも馬鹿げていて、私は思わず笑ってしまった。 「本当に申し訳ないと思ってるなら、謝る相手は私でしょう。 でも、もう私はあなたとは何の関係もない。だから、あなたと香月の間に何があろうと、もう私には関係ないの。 彼女がどんな気分でいようと、それを気にかける義理もないわ」 蓮は私をきつく睨みつけ、怒りで歯を食いしばった。 「いいだろう。少しは意地があるみたいだな。いつまでそうやって強がっていられるか、見ものだ」 そう言うと、彼は手を上げて、出ていけとでも言うように私を追い払った。 デスクに戻ってまだ十分も経たないうちに、社内グループチャットに最新の人事異動の通知が流れた。 私のプロジェクトディレクターの職は解かれ、その後任に香月が就くという内容だった。このプロジェクトは、私が半年かけて進めてきたもので、間もなく実行に移せるという段階まで漕ぎ着けていた。 なのに私はバックオフィスへ異動となり、重要でもない雑務を任されることになっていた。 通知の文面を見つめながら、胸が勝手にきゅっと痛んだ。 もともと私は退職届を出すつもりでいた。ただその前に、このプロジェクトだけはきちんと形にしてから去りたかったのだ。これまでのキャリアの全て、私の心血のほとんどを、このプロジェクトに注ぎ込んできた。 たとえ感情は冷めても、共に会社を立ち上げた情義くらいは残っている――私はそう思っていた。けれど今になってみれば、それもただの独りよがりだったらしい。 まあ、それならそれでいい。むしろ蓮ときっぱり縁を切るには、ちょうどよかった。 私はパソコンを開き、退職届を書き終えたところで、悠真の秘書からメッセージを受け取った。 【菅田様、お世話になっております。浅倉よりお伝えするよう申し付かっております。ウェディングドレスがご寸法に合わせて仕立て上がりましたので、お仕事が終わりましたら、店内にてご試着いただけます。 何かございましたら、いつでもご連絡くださいませ】 退勤後、私は会社を出て、指定されたドレスショップへと向かった。 「菅田遥様でいらっしゃいますか?浅倉様のご指示で、ドレスとフィッティングルームはすでにご用意しております」と店員が笑顔で迎えてくれた。 新しく仕立てられたウェディングドレスは、生地の質もよく、デザインもシンプルで、私を凛として上品に見せてくれた。 全身鏡の前に立ち、ドレス姿の自分を見つめていると、胸の奥からさまざまな思いが込み上げてきた。 蓮はかつて言っていた。会社が安定したら、この街で一番上等なウェディングドレスを私のために仕立てて、誰もが羨むような結婚式を挙げよう、と。 私はその言葉を信じた。だから一年、また一年と待ち続けた。胸を躍らせながら待ち、やがて心が冷え切るその時まで。 鼻の奥がつんとして、涙がこぼれた。 蓮のために泣いたんじゃない。ただ、七年ものあいだ真心を無駄に捧げてきた自分が、あまりにも哀れだった。 その時、店の外から店員が出迎える声が聞こえてきた。 「黒崎様、いらっしゃいませ」 私は息を呑み、ゆっくりと振り返った。 蓮は店の入り口に立ち、驚きに満ちた顔で私を見ていた。 私が泣いたばかりらしいことに気づいたのだろう。彼の目には、ほんのわずかに痛ましげな色が浮かんだ。そして私の前まで歩み寄ると、こう言った。 「そのドレス、すごく似合ってる。気に入ったなら、俺が買ってやろう」 彼は少し言葉を切ってから、さらに続けた。 「このところ、確かにお前をないがしろにしてたかもしれない。でも、それはお前があまりに聞き分けがなくて、俺にしたくないことばかり迫るからだ。 ちゃんと大人しくしてくれれば、会社が上場して落ち着いたら、必ずお前と結婚する」 どうやら彼は、私が彼との結婚を諦めきれず、一人でウェディングドレスを試着しに来たのだと思っているらしかった。 私が口を開いて否定しようとしたその時、背後から香月の甘えるような声が聞こえてきた。 「蓮くん、私、ドレス決めたよ。あなたのスーツはもう選べた?」 香月は純白のウェディングドレスを身にまとい、蓮のそばまで来ると、親しげに彼の腕へ自分の腕を絡めた。 蓮の表情がさっと強張った。慌てて彼女を振りほどこうとしながらも、あまり露骨に拒むこともできず、焦ったように私へ弁解し始めた。 第5話 「誤解するな。香月がどうしてもウェディングドレスを着てみたいって言うんだが、ほかに頼める男友達がいないらしくて、仕方なく付き添ってあげただけなんだ。 分かるだろ、女ってさ。誰かがドレスを着てる動画でも見たら、つい自分も試してみたくなるものなんだよ」 かつて私が、どうしても一度でいいから一緒にウェディングドレスを見に行ってほしいと何度も頼み込んだ時、彼は私がネットの情報に洗脳されているだけだと言った。ウェディングドレスなんて、しょせんはただの服にすぎない。そんなことで大げさに騒ぐ必要はない、と。 それなのに今は、香月のためなら時間を割いて、一緒にドレス選びにまで付き合っている。 私はもう彼とこれ以上話す気にもなれず、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。 すると香月が足早に追ってきて、私の手首をつかんだ。 「遥さん、社長の言うことは本当なんです。もしまだ怒ってるなら、私を殴っても構いませんから!」 私が状況を飲み込むより早く、彼女は体をぐらりと傾け、そのまま床へ倒れ込んだ。そしてすぐに甲高い悲鳴を上げる。 「きゃっ!」 彼女はわざとらしく足首を押さえ、顔を青ざめさせ、今にも泣き出しそうなほど苦しげな表情を浮かべた。 「蓮くん、足をくじいたみたい……すごく痛いの……」 それを見た蓮は、すぐに私を突き飛ばし、そのまま香月のもとへ駆け寄って彼女を支えた。そして振り返るなり、怒りに満ちた目で私を睨みつけていた。 「なんてひどいことをするんだ!」 彼は一切ためらうことなく、香月を抱き上げ、そのまま店の外へと急いで出ていった。 私は慌ただしく去っていく彼の背中を見つめながら、ただ可笑しくてたまらなかった。 香月がこんなふうに私を陥れたのは、これが初めてじゃない。かつての私は、蓮は彼女に騙されているだけだと思っていた。けれど今になってようやく分かった。彼は騙されていたわけじゃない。ただ、最初から彼女をひいきしていただけなのだ。 彼は一度だって私を大事に思っていなかった。だからこそ、いつも事情も確かめずに、香月の肩ばかり持ってきたのだ。 仮住まいのマンションに戻ると、スマホにはひっきりなしにメッセージが届いていた。全部、蓮の仕事用アカウントからだった。 【今すぐ病院に来て香月に謝れ。でなければ、俺たちの結婚式は無期限延期だ。 たとえ今回、本当にお前の祖母が危篤だとしても、俺はもう二度と情けをかけないからな!】 次から次へと届くメッセージには、彼の身勝手さと傲慢さがこれでもかというほど滲んでいた。 それどころか、その文面の端々からは、祖母を呪うような悪意すら透けて見える。怒りで全身が震え、気分が悪くなるほどだった私は、その仕事用アカウントも迷わずブロックした。 続けて私は会社の人事システムを開き、正式に退職届を提出した。 送信完了の表示が出たその瞬間、胸の中に溜まっていたすべての陰鬱な気持ちが、ようやくきれいさっぱり消え去った気がした。 …… その一方で、蓮が険しい顔でメッセージを打ち終えると、香月が殊勝な様子で口を開いた。 「蓮くん、遥さんはやっぱり私のことで怒ってるのかな? 私が不注意だったせいなのに……」 「お前のせいじゃない。あいつが勝手に騒いでるだけだ。安心しろ、俺がちゃんとけじめをつけさせるから」 蓮はそう言って、断言するように香月をなだめていた。 これまでだって、彼が結婚延期を持ち出して脅しさえすれば、遥はいつも自分から頭を下げてきた。だから今回もきっと同じだと、彼はそう信じていた。 ところが翌朝早く、人事部から一本の電話が入った。 「社長、菅田さんから退職届が提出されました。ご本人の意思は非常に固く、こちらでは引き留められそうにありません」 それを聞いた蓮は、たちまち怒りに燃え上がり、車を飛ばして遥と住んできたマンションへと向かった。 だがドアを開けた瞬間、彼は息を呑むことになった。部屋の中からは、遥の物が何一つ残らず消えていたのだ。 慌ててスマホを取り出して確認すると、自分の仕事用アカウントまで、遥にブロックされていることが分かった。 蓮の胸に、得体の知れない焦りが芽生えた。 そしてその不安は、テーブルの上に置かれていた鮮やかな赤い招待状を目にした瞬間、頂点に達した。 新婦の欄には、確かに遥の名前が記されていた。だが新郎の欄に書かれていたのは、彼の名前ではなかった。 蓮の顔から一瞬で血の気が引いた。招待状は彼の手から滑り落ち、そのまま床へと落ちた。