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夫に殺された私に新しい人生が待っていたなんて
5歳の息子・今井真司(いまい しんじ)がまた泣きわめいた。真冬だというのに、プールに落ちたおもちゃを拾ってきてほしいと。しかし、今井美希...
Chương (1)
第1章
5歳の息子・今井真司(いまい しんじ)がまた泣きわめいた。真冬だというのに、プールに落ちたおもちゃを拾ってきてほしいと。しかし、今井美希(いまい みき)はその要求をはっきりと断った。
「真司。わざとママを病気にさせようとしなくていいのよ。安心して。これからはもう真司とパパ、そして黒崎さんの邪魔は絶対にしないから」
真司はまだ幼いながらも、父親である今井翔太(いまい しょうた)の端正な顔立ちを完璧に受け継いだ。彼は眉をひそめて問い返した。
「ほんと?だってママは、すぐやきもちを焼いて怒るんでしょ?いつもみんなを嫌な気持ちにさせるんだもん。陽菜さんと違ってね。僕とパパは、陽菜さんに会うと、すっごく嬉しい気持ちになるんだ」
父も子も、黒崎陽菜(くろさき ひな)のことが大好きなのだ。
第1話
5歳の息子・今井真司(いまい しんじ)がまた泣きわめいた。真冬だというのに、プールに落ちたおもちゃを拾ってきてほしいと。しかし、今井美希(いまい みき)はその要求をはっきりと断った。
「真司。わざとママを病気にさせようとしなくていいのよ。安心して。これからはもう真司とパパ、そして黒崎さんの邪魔は絶対にしないから」
真司はまだ幼いながらも、父親である今井翔太(いまい しょうた)の端正な顔立ちを完璧に受け継いだ。彼は眉をひそめて問い返した。
「ほんと?だってママは、すぐやきもちを焼いて怒るんでしょ?いつもみんなを嫌な気持ちにさせるんだもん。陽菜さんと違ってね。僕とパパは、陽菜さんに会うと、すっごく嬉しい気持ちになるんだ」
父も子も、黒崎陽菜(くろさき ひな)のことが大好きなのだ。
そのせいか真司は、これまでにも同じようなことを何度も繰り返してきた。
一度目は、わざと宿題をびりびりに破った。そして美希に徹夜でそれをテープで復元させた。翌日、疲れきった美希が、一緒に天文台の流星群観察へ行けなくなるように。
二度目は、わざと新しいサッカーボールを犬小屋に蹴り入れて、美希に取りに行かせた。美希が3日間飢えさせていた犬に指を噛まれて、一緒に手工体験へ行けなくなるように。
三度目は、わざと道路の真ん中で立ち止まった。トラックが迫る中、美希は考えるよりも先に真司を突き飛ばし、自ら身代わりになった。その結果、足の骨を骨折し、幼稚園の親子遠足に参加できなくなった。
……
そしてつい最近、真司がお守りをなくしたらしく、美希に雪山まで探しに戻るよう泣きわめいた。彼女がなんとかそれを見つけ出した時には、下山用の車はすでに出発してしまっていた。氷点下20度の雪山に一人で取り残された美希は、低体温症に陥り、集中治療室で生死の境をさまよった。
夜になって、夫の翔太が帰ってきた。
すらりとした長身に、黒いスーツとロングコート。腕のあたりがぐっしょりと濡れていても、気品あふれる美しい容姿は少しも損なわれていなかった。
翔太が乗っている高級車には、大きくて立派な傘が備え付けられているはずなのに、彼のコートには雪がかかっていた。
理由は明らかだった。陽菜を車から降ろす際に、傘を彼女の方へ大きく傾けただけでなく、腕を伸ばしてその体をすっぽり覆うように、大切そうに抱きかかえていたからだ。
まるで、自分の宝物を守るように。
陽菜がわざわざ送りつけてきた、彼女と翔太が一緒に映った写真を見れば、翔太が陽菜を見る目に、抑えきれない愛情が溢れていることは、美希にもはっきりと分かった。
もし、翔太が自分の夫でさえなければ、本当にお似合いの二人だった。
翔太はうつむいてコートを脱ぎながら、リビングのテーブルにぽんと薬を置いて部屋の奥へ話しかけた。
「お前のために薬を買ってきた。熱があるんだろ。明日の真司の誕生日パーティーは部屋で休んでろ。もう陽菜には話を通してあるから、彼女がお前の代わりをしてくれる……」
翔太がそこまで言った時、リビングの電気がぱっとついた。
目の前には、普段と何も変わらない様子の美希が立っていた。翔太はとっさに眉をひそめる。「お前……風邪じゃなかったのか?」
美希はうなずいた。翔太の目に一瞬浮かんだ苛立ちと動揺を、見逃さなかった。「てっきり、お前は……だが、もう陽菜に頼んでしまったし、招待状もすでに印刷してある……」
招待状は3日も前に刷り上がっていた。手違いで早く届いてしまい、使用人が開封しているところも見てしまった。その表紙には、翔太と真司、そして陽菜の3人が並んだ写真が使われていた。
使用人ですら、思わずこんな感想を漏らすほどだった。
「旦那様が黒崎様を見る目、すごく情熱的ですね。ぴったり寄り添っているし、これじゃまるで本当の夫婦みたいです。寝室に飾ってあるウェディングフォトとは大違いですよ。まるで他人を見るような表情だし、旦那様なんて奥様のドレスに指一本触れようとしてなかったじゃないですか?」
その言葉を、美希はすぐ後ろで聞いていた。
彼女に気づいた使用人は、その場でクビにされるかもしれないと、心臓が止まるほど驚いてしまった。
しかし美希は、ただ静かな口調で、招待状をしまっておくように言っただけだった。
そして今も、美希はあの時と同じように落ち着いた様子で、静かに翔太の言葉に静かに応じた。「じゃあ、パーティーのことは黒崎さんに任せるわ。ちょうどよかったの。明日は私も、出掛ける用事があるから」
美希が部屋に戻ろうと背を向けた瞬間、翔太にぐいっと腕を掴まれた。
「出掛ける用事?」
翔太は、美希の冷静な、何も気にも留めていないかのような表情を見ているうちに、訳もなく怒りがこみ上げてきた。「真司の誕生日より大事な用事があるっていうのか?」
「私の代わりに黒崎さんが出席と決めたのは、あなたじゃない?」
美希は、つい可笑しくなった。「それに、こう言ったのもあなたよ。お前は独立した一人の人間なんだから、自分のやるべきことを見つけろって。一日中俺と真司の周りをうっとうしくついてくるのは、迷惑でしかないって」
「それは、そういう意味じゃなくて……」
珍しく翔太が動揺を見せたけれど、美希は彼の腕を振り払った。「疲れたの。もう休ませて」
翔太は自分の手のひらを見つめながら、しばらくその場に立ち尽くした。
以前の美希は、確かにうっとうしい女だった。
どこへ行くにもついてくるし、どんな些細なことでもいちいち教えてくる。彼女の電話に出ないと、その後何十回もかけてくる。特に陽菜のことが少しでも絡むと、周りの目を気にせずに騒ぎ出す……
それなのに今日は、陽菜が自分の代わりに息子の誕生日パーティーに出席すると聞いても、何の反応も見せなかった。
あの雪山での一件以来、美希は、まるで人が変わってしまったかのようだった。日に日に痩せていって、体も弱くなってしまったように見えた。
何かが、ひどく不安にさせた。
翔太は思わず美希の後を追った。そして、まるで仕方なく譲歩してあげるとでもいうように、真面目な顔で口を開いた。「パーティーの話はもう決まっているから、変更はできない。だが、お前がどうしても行きたいと言うなら、後ろの方に席を用意してやる」
「別にいいのよ」
美希の返事はそっけなかった。「明日は本当にやることがあるから」
「お前に何の用事があるって言うんだ?」
翔太はついに冷たい表情になった。「雪山の時のことで、まだ怒ってるんだろ?あの時は陽菜がひどい高山病で、急いで下山しなければならなかった。
その後、お前から連絡がなかったのを見て、誰かの車に乗せてもらって帰ったんだと思ったから、迎えに行かなかったと何度も言ったはずだ。いつまでそんなことで、俺を困らせるつもりだ?
小林家はとっくに破産したんだ。お前はもう、あの頃のお嬢様じゃない。もう誰もお前の機嫌を取る必要はないんだぞ!」
そう口にした瞬間、翔太は自分でもさすがに言い過ぎたと感じた。
「いや、そういうことを言いたかったんじゃ……」
実に珍しいことだった。
あの今井グループの社長が、一晩で、同じ女性に二度も自分の言動を反省しようとしているのだ。
しかし、彼の言葉の続きはスマホの着信音に遮られた。
電話の向こうから、陽菜のすすり泣きが聞こえてくる。
どうせ、体調が悪いとか、廊下から変な物音がするとか、そんなところだろう。
翔太はひどく焦った様子で、コートを掴んで外へ飛び出した。
寝室の扉を隔てても、翔太の優しい声色が聞こえてくる。「大丈夫、今すぐ行くから。怖くないよ」
玄関の扉が閉まるのと同時に、美希のスマホが鳴った。
相手は、先日から連絡を取り合っている研究所からだった。
「今井さん、この度は実験のために脳神経細胞をご提供いただき、誠にありがとうございます。手術の準備はすべて整っておりますので、いつでもお越しください」
美希が返事をしようとした瞬間、腹部に激しい痛みが走った。
必死に棚から薬を取り出すと、大量の錠剤を口に放り込んだ。それでようやく、少しだけ落ち着くことができた。
しばらく呼吸を整えた後、静かに口を開いた。「もう、膵臓がんの末期です。どうせ死ぬなら、最後に医学の発展に貢献したい、そう思えば、この人生も無駄ではなかったことになるでしょうから」
第2話
美希は、これまで多くの人に、「役立たずの寄生虫だ」と罵られてきた。
夫である翔太も、その一人だった。
かつて、今井家は経営危機に陥り、多額の借金を抱えた。ちょうどその時、恋人だった陽菜は翔太を見捨てて海外へ渡ってしまったのだ。その隙を見て、美希は実家である小林家の財力と権力を使い、半ば強引に翔太と結婚したのだ。
結婚したその日、翔太はそんな美希を指さし、「家の権力を振りかざして人を脅すことしか能がない女」と罵った。
美希は今でもはっきり覚えている。翔太は彼女の手を振り払い、冷たい目で見下しながらこう言い放った。「調子に乗るなよ。小林家が落ちぶれたら、お前は誰かに寄生して生きていくしかなくなるんだろ?」と。
まさか、その言葉が現実になるなんて。
3年後、小林家は倒産した。
美希の人生は、一夜にしてどん底へ突き落とされた。
実家を救うために必死で策を練ったけれど、何もかもなくなってしまった美希には、コンドームに穴を開けるという卑劣な手段しか思いつかなかった。
そして、思惑通りに身ごもった子供を盾に取り、翔太に小林グループへの支援を約束させた。
このことを両親に報告しようとした、その矢先だった。美希の目の前で、世界で一番彼女を愛してくれた二人は、ビルの屋上から身を投げた。
足首に飛び散った生温い血の感触は、美希を絶望させるには十分すぎた。
その後、美希は重度のうつ病を患った。
しかし、薬を飲むことはできなかった。
お腹には、まだ赤ちゃんがいるからだ。
今の美希には、この子が無事に産まれることを祈るしかなかった。
この子がいなければ、翔太はきっと自分を捨ててしまう。
それからの十月十日、美希は薬を飲まずに、必死に耐え抜いた。そして、翔太のために息子の真司を産んだ。
しかし、彼女は思ってもみなかった。命がけで産んだ我が子が、言葉を覚えて彼女に向かって放った第一声が「ママは寄生虫」だなんて。
そしてちょうどその頃に、陽菜が海外から帰国した。
翔太は、もはや美希のことがどうでもよくなってしまった。
ついに真司という存在が、彼女の全てとなってしまった。
だから、美希は真司のわがままは何でも聞いてあげて、必死に愛情を注いだ。この子が、この世界で彼女を愛す最後の一人になってくれることを、密かに期待していた。
しかし、月日が流れ、彼女を待っていたのは、雪山での遭難だった。24時間、翔太と真司と連絡が取れないまま待ち続け、寒さで倒れる直前に通りかかった親切な人に病院へ運んでもらった。
なんとか一命を取り留めた後、医者から自分が末期がんだと知らされても、涙は一滴も出なかった。ただ、病院直系の研究所からの臨床実験への参加依頼を、静かに受け入れた。
夫も、息子も、愛しているのは陽菜だけだと。ようやく、その事実に気づいてしまったからだ。
だから、いっそ自分の方から二人を捨てることにした。
美希はスマホを握る手を、少しだけ緩めた。
思い出すだけで胸が苦しくなる記憶も、死を前にすると、不思議とそれほど辛くないように感じられた。
だから、研究員に「こんなに重要なことを、ご家族に伝えなくて本当に大丈夫なんですか?」と聞かれた時も、美希はきっぱりと断った。
「もう、家族と呼べるような人はいませんから」
美希は研究所に行くまでの間、黙々と身の回りを片付け始めた。
末期がんの体にとって、昔の持ち物のほとんどは、もう必要のないものだった。
例えば、何日も徹夜して翔太のために編んだマフラー。心を込めて書いたたくさんのラブレター。それから、翔太と真司のために、長い階段を必死にのぼって手に入れたお守り……
美希はそれらを一つひとつ丁寧に仕分け、ゴミ箱に捨てたり、慈善団体に寄付したりした。
そして、寝室には壁にかけられたウェディングフォトだけが残った。
美希が苦労しながら一人でその大きな額を壁から外そうとしているのを見て、使用人たちがひそひそと話し始めた。「奥様、また何かが不満なのかしら?」
「きっと、また旦那様と喧嘩したんでしょう。だからわざとウェディングフォトを壊して、気を引こうとしているんですね」
「また壊すのですか?どうせ後から、泣きながら誰かに頼んで直してもらうくせに。旦那様は自分のことが好きだから、何でも許してくれると勘違いしているのでしょうね」
勘違い、ね。
翔太は美希のことが好きじゃないなんて、誰もが知っている。ましてや、甘やかしてくれるわけがない。
前に喧嘩した時も、自分はウェディングフォトを床に叩きつけた。すると翔太は、写真スタジオに連絡して写真のデータを完全に消去させた。
結局は、美希が写真スタジオの店長の前で泣きながら土下座して、ようやく修復してもらったのだ。そしてその時、「データはもうありませんから、これが最後です。次にまた壊れたら、もう元には戻せませんよ」と、はっきり言われた。
まるで宝物を手にしたように、そのウェディングフォトを大切に抱えて家に帰った。
毎日ベッドの上で眺めて、埃が少しついただけで騒ぎ立てた。
なのに今、自らそれを壁から取り外し、額を叩き壊して、中の写真を取り出した。そして、何の未練もなく、炎の灯る暖炉の中へと投げいれた。
使用人たちが悲鳴を上げた。「奥様!それを燃やしてしまったら、もう二度と元には戻りませんよ!」
「何が二度と元に戻らないんだ?」
ドアのそばに、眉をひそめた翔太が、すっと立っていた。
第3話
翔太の後ろには、楽しそうに誕生日を過ごした真司と、その真司に手を引かれた陽菜が立っていた。
3人はおそろいのデザインの服を着ていて、まるで本当の家族みたいだった。
翔太が暖炉の方に目を向けようとしたその時、陽菜が一歩前に出てきて、美希ににっこりと笑いかけた。「真司くんがね、今日はお誕生日だから、私にここに一晩泊まってほしいんだって。美希さんも、構わないでしょ?」
美希が断るだろうと思い、翔太は先に口を開いた。彼はイライラした様子美希の言葉を遮ろうとした。「たった一晩だろ。お前は……」
「別に構わないよ」
美希の表情は落ち着いていて、口元には穏やかな笑みさえ浮かべていた。
それを見て、翔太は一瞬言葉を失った。
何かがおかしい。
美希が、こんなにあっさりと陽菜の要求を受け入れるなんてありえない。
いつもの美希なら、大騒ぎするはずだ。それから泣きながら「黒崎さんを家に入れないで。耐えられないわ」と懇願するはずだ。
だが、戸惑っている翔太の隣で、真司が嬉しそうに陽菜に抱き着いた。「やった!陽菜さんと一緒に寝るの大好き!パパも一緒に、今夜は、家族3人で同じベッドで寝ようよ!」
陽菜はすぐに恥ずかしそうに真司の口をふさいだ。
「ごめんなさいね美希さん。真司くんはまだ小さいから、思ったことをそのまま口に出しちゃうの。一晩だけだから、どうか彼を責めないであげてね」
言葉の所々に、あからさまな挑発が感じられた。
翔太は無意識に美希に目を向けた。美希が泣きわめき始める時にどう対応するか、心の中で準備していた。彼女にかける言葉も頭の中で何度か繰り返した。陽菜はただ真司を可愛がっているだけだから考えすぎるな、と。
しかし、美希の表情はやはり穏やかだった。「みんなが楽しそうで、何よりだわ」
そう言うと、踵を返して他の部屋に戻っていった。
陽菜は、体のラインがはっきりとわかる薄手のネグリジェに着替え、翔太と二人で真司を真ん中に挟み、川の字になってベッドに寝そべった。
陽菜が真司にこっそりとウィンクで合図を送ると、真司はすぐにベッドの端のほうへ移動した。「僕、端っこで寝たい。パパ、陽菜さんとくっついて寝なよ!」
そう言うと、小さな手で陽菜を真ん中に押しやった。
陽菜は驚いたふりをして、そのまま翔太の腕の中に納まった。
薄いネグリジェの肩ひもがするりと肩から滑り落ちた。陽菜の豊かな胸が、翔太の胸板にぴったりと押し付けられる。真っ赤な唇が、そっと彼の首筋に触れた。
「翔太、お腹が痛いの。さすってくれない?」
そう言って、陽菜は翔太の手を取り、自分の下腹部へと導いた。そこは、どう考えても腹部ではなかった。
翔太の喉仏がごくりと動いた。彼が指を動かそうとしたその時、扉の外に誰かがいることに気づいた。マグカップを手にして部屋へ戻ろうとした、美希だった。
翔太は、やましいことはないと示すために、わざとドアを開け放しにしているのだ。
翔太から美希の姿が見えたように、美希からも、翔太と陽菜の様子が、丸見えだったはずだ。
「これは誤解だ!」
翔太は慌てて美希の前に立ちはだかった。しかし美希は、静かな目で彼を見つめ返した。「ええ、わかってるわ」
美希は自分の言葉の頷いたのに、翔太は、下心がその場で暴かれたような、恥ずかしさと怒りを感じた。
「美希、いい加減にしろ。いつまで拗ねてるつもりだ?」
その時、陽菜が震えながら出てきて、目を真っ赤にして言った。「美希さん、怒るなら私にだけ怒って。翔太を困らせるのはやめてあげて。そうだ――」
陽菜は突然、美希の手首を掴んだ。「どうしても許せないなら、私を殴って!それであなたの気が済むなら、私は構わないから」
そう言って、陽菜は掴んだ美希の手を、自分の頬に叩きつけようとした。
いつのまに部屋から出てきた真司が、美希に向かって叫んだ。「悪いママ!どうしていつも人が傷つくようなことをするの?もうママなんていらない!あっちへ行け!」
美希はちょうど階段のそばに立っていた。真司に力いっぱい突き飛ばされた彼女は、バランスを崩した時、とっさに陽菜の手を掴んだ。
「翔太、助けて!」
陽菜が甲高い悲鳴をあげた。
このまま二人が一緒に階段に落ちるのを見て、翔太は一歩踏み出し、手を伸ばした。しかし彼は、すぐそばにいた美希を無視して、迷わず陽菜の手を掴んだ。
美希は階段を踏み外し、一階まで一気に転がり落ちた。
目の前が真っ赤に染まった。全身の骨が悲鳴を上げるな激痛に襲われ、すぐに意識が遠のいた。
目が覚めると、翔太がベッドのそばで付き添っていた。目の下には濃い隈ができて、一晩中眠っていないようだった。
「具合はどうだ?」
いつもは冷静なその声が、少し震えていた。「どうして急に体がそんなに弱くなったんだ?お前、どこか悪いのか?」
第4話
美希は何も言わなかった。でも、布団の下では、ぎゅっと拳を握りしめていた。
翔太は黙ったままの美希を見て、一方的に責め始めた。「お前は毎日、余計なことを考えすぎたせいで体調まで崩したんだ。もう医師に全身の検査を頼んだからな。結果が出たら、その不安定な情緒もちゃんと直せ」
翔太にいきなり怒られても、美希は何も言わなかった。
翔太の表情が、少しこわばった。
いつからだろう?美希が、自分と口をきかなくなったのは。
胸の奥の不安が、少しずつ広がっていった。
美希に問い質そうとしたその時、翔太のスマホが鳴り出した。
電話の相手は、陽菜だった。
「翔太、私、熱が出ちゃったみたい……」
その短い言葉だけで、翔太の顔色が一瞬で暗くなった。「家にいるのか?すぐ迎えに行くから!」
そう言うと、上着のジャケットを手に取り、立ち上がって出て行こうとした。
しかし、終わりかけの点滴と美希の青白い顔が目に入り、少しためらった。「陽菜が……」
「行ってあげて」
美希は落ち着いた顔で、かろうじて身を起こし、ナースコールを押した。「私には医者と看護師さんをいつでも呼べるの。あなたを必要としてるのは黒崎さんのほうでしょ」
以前のように、一瞬でも翔太の傍から離れたくないと、毎日彼に甘える美希とは別まるで人のようだった。
翔太が陽菜のところへ行くと聞いて、嫉妬で騒ぐこともなかった。
まるで、何一つ気にしていないかのようだった。
翔太が用意していた説教の内容が、そんな彼女の前で、使い道を失ってしまった。
美希は自分に文句を言わなかったのは確かだが、それでも彼は弁解するように口を開いた。彼女に説明した。「陽菜は一人で国内にいて、身内もいないんだ。放っておけないだろ」と。
それは事実で、陽菜には頼れる身内がいない。
じゃあ、私にはいるというのか?
しかし、やはり美希は何も言わなかった。ただ静かに頷いて、「わかってる。早く行ってあげて」と言っただけだった。
翔太が何か言いかけた時、陽菜からメッセージが届いた。
翔太は美希の顔をじっと見つめると、「すぐ戻るから」とだけ言い残して、早足で病室を出て行った。
しばらくして、看護師が病室に入ってきた。
看護師は美希の点滴を交換しながら、ため息をついた。「前にご主人にもお伝えしたんですけどね。体調がとんとん悪化してるって、ただでさえ持病のほうが大変なのに、誰かが24時間付き添ってないと……ご主人はいつ戻られますか?」
「もう戻ってきませんよ」
美希は静かに言った。「それに、あの人は夫じゃありませんから……私、一人で頑張ってみます」
陽菜に呼び出された翔太が、美希のために戻ってくるなんて、今まで一度もなかった。
しかし、今回だけは、美希の予想は外れた。
翔太はすぐに戻ってきた。それも、激動している様子で、病室のドアを蹴り開けてきたのだ。
「美希、お前がこんな女だったとはな!陽菜に毒を盛るなんて、なんてひどい女だ!」
「何を言ってるの?」
美希には、何のことだかさっぱりわからなかった。
「昨日の夜、陽菜はうちで水を一杯飲んだだけだ。それが今朝になって中毒症状が出た!そのコップに毒を仕込んだのは、お前以外に他に誰がいるのだ?」
「私じゃない!」
美希は癌の痛みに耐えた直後で、体には全く力が入らなかった。それでも歯を食いしばって言い返す。「家のリビングと廊下には防犯カメラがあるでしょ!私がやったかどうか、確認すればすぐにわかることじゃない?」
怒りで充血した美希の瞳に見つめられ、翔太は一瞬ためらった。「本当なのか?」
美希が言い返そうとしたその時、小さな影が部屋に駆け込んできて、彼女に向かって叫んだ。「ママは嘘つきだ!僕、見たんだ!ママが陽菜さんのコップに、粉のお薬を入れるところ!」
甲高い子供の声が、美希の鼓膜を突き刺した。
「真司、何を言ってるの?」
美希にははっきりと見えた。真司の瞳に一瞬、動揺が走り、おびえたように翔太の後ろへ隠れるのを。
美希が問い詰めようとした瞬間、翔太に腕を掴まれ、ベッドから無理やり引きずり下ろされた。
腕につながっていた点滴の管が外れ、床に落ちた。鮮血が飛び散り、真っ白なシーツを一瞬で赤に染めた。
「まだ俺を騙す気か?どうりで今日はやけにおとなしいと思ったんだ。後ろめたいことがあったからだな!たいしたもんだよ、お前は!」
翔太は怒りで声を震わせた。「のうのうと病院で寝てないで、今すぐ家に戻れ!陽菜が目を覚ますまで、地下室で反省していろ!」
「パパ!」
突然、真司が翔太の服の裾を掴んだ。その表情には、後悔からくる怯えのような色が浮かんでいた。「ママは……」
翔太は真司の意図を完全に履き違えた。「陽菜さんがあんなに辛い思いをしてるんだ。やった本人への罰が、これだけじゃ足りないって言いたいんだろ?」
美希は真司をただじっと見つめた。この5年間、宝物のように大切に育ててきた我が子を。しかし真司は、美希と視線を合わせようとせず、くぐもった、それでいて迷いのない声で答えた。「うん」
そのたった一言で、美希の心は完全に冷めてしまった。
命をかけて産んだ我が子が、いつの日か、鋭い刃となって自分の心を容赦なく突き刺すことになるなんて。
第5話
美希は、無理やり自宅に連れ戻され、地下室に閉じ込められた。
翔太の命令を受けたボディーガードによって、硬いコンクリートの床に跪かされた。
鉄の棘がついた鞭が、容赦なく美希の背中に叩きつけられる。あっという間に、彼女の背中は血まみれになった。
しかし、痛いと叫ぶことすらできなかった。美希の口はガムテープで固く塞がれていたからだ。
ボディーガードはニヤリと笑いながら美希の髪を掴んだ。「旦那様のご命令で、奥様が痛いって言うまでやめちゃいけないんです。でも、いつまでも黙っているから、こっちがやめたくてもやめられないんですよ」
そして、バケツ一杯の氷水が美希に浴びせられた。
焼けるような激痛が全身に走る。まるで、生きたまま皮を剥がされるような痛みだった。
美希の体は突然、激しく痙攣し始めた。塞がれている口から吐き出せない血が、目や鼻、耳から溢れ出してくる。
意識が遠のいていく中、誰かがこちらに駆け寄ってきているのが、ぼんやりと見えた。
次に目を開けると、彼女の手を強く握りしめた翔太が隣にいた。「やっと目が覚めたか!」
そして、責めるように言った。「ボディーガードから聞いたんだろ?痛いと叫べば、やめてくれるって。なのにどうしてそんなに意地を張るんだ?」
美希は、陸に打ち上げられた魚のように弱りきっていた。呼吸さえうまくできていないのに、それでも力を振り絞って、翔太から手を引き抜いた。
翔太の手が、行き場をなくして宙に浮いた。
今までの美希なら、ほんの少し怪我しただけでも、大騒ぎして甘えてきたはずなのに。
それが今では、こんなにも冷たく、わざと距離を置いているような態度を取るなんて。
翔太は、胸の奥から再びこみ上げる得体の知れない不安に駆られ、何か確かなものを手に入れたいと必死だった。
「明後日の会社の創立記念パーティー、俺と一緒に出席するんだぞ」
美希は、ああいう公の場で妻として翔太の隣に立つことが大好きだった。
わざわざ美希のために席を用意したんだ。美希が喜ばないはずがない。
翔太がそう思った時、真司が怒った様子で部屋に飛び込んできた。「ママは病気なのに、なんでパーティーに行かせるの?陽菜さんが代わりに行くって話じゃなかったの?」
その言葉で、美希は、なぜ真司があんな嘘をついたのか、自然と理解できた。
美希は静かに目を伏せて、なにも惜しまなくなったような口調で言った。「いいの。もう行きたくないから」
翔太は呆気にとられた。
その瞬間、彼の瞳には、困惑と、戸惑いと、そして何かを失うことへの恐れが入り混じっていた。
「ダメだ、絶対に行ってもらう!」
その一言で、美希の出席が決まった。
この頃、美希の体は、もう限界に近かった。
メイクを担当したスタッフがファンデーションを何重にも重ねてくれたけれど、顔色の悪さを隠しきれなかった。
しかし自分の隣を歩く翔太は、そんなことにまったく気づいていなかった。
彼の意識は、すべて少し離れたところにいる陽菜に注がれていたのだ。
陽菜が他の男と楽しそうに話したり、グラスを掲げたりするのを見て、翔太の表情はみるみる険しくなっていった。
特に、ある男が馴れ馴れしく陽菜の肩に手を回した時、翔太は嫉妬で我を忘れ、美希と繋いだ手を強く握りしめた。
「っ!」
美希は思わず声を漏らした。青白い手の甲には、翔太の指の跡が赤くついていた。
そこで翔太は初めて我に返った。「あ、すまん。大丈夫か?」
それでも、彼の視線は一瞬も陽菜から離れることはなかった。
「行ってあげなよ」
翔太は目を見開いた。また、あの胸のざわつきが、居心地の悪い感覚が襲ってくる。
しかし、陽菜の隣にいる男の態度がどんどんエスカレートしていくのを見て、翔太はついに我慢できなくなり、陽菜をかばうように彼女の前に立ち阻んだ。
「触るな!」
男はかなり酔っているらしく、目の前の相手があの今井グループの社長だと気づかないで、呂律の回らない口で喚きたてた。「関係ねぇだろ!それより、自分の奥さんでもちゃんと見てろよ!」
言いながら、男は再び陽菜の腕を掴もうと手を伸ばす。
怒りに火が付いた翔太は、男の顔面を容赦なく殴った。「陽菜は俺の女だ!どいつもこいつも、気安く触るんじゃねぇ!」
第6話
会場は一気にざわついた。「今井社長が奥さんを大事にしていないのは知ってたけど、もう公の場で隠す気すらないのね」
「ええ。奥さん、あんなに顔面蒼白なのに、今井社長は見向きもしない。なのに黒崎さんを庇って、あんなに必死になるなんてね」
「あらあら。今井夫人の座も、もうすぐ別の人に代わるんじゃないかしら」
以前なら胸が張り裂けそうになったはずの言葉も、今の美希にはどうでもいいように感じた。
この面白く茶番から身を引こうとした美希の前に、陽菜が立ち塞がった。
「翔太はもう、みんなの前で私のことを認めてくれたのよ。それなのに、まだ今井夫人っていう立場にしがみついてるなんて、恥を知らないのね」
「だったら、翔太に私と離婚させればいいじゃない?」
美希は冷たく言い放った。「それができないなら、私の前でピエロみたいに騒ぐのはやめてくれる?」
翔太への想いはもう冷めきっていた。それでも、陽菜にここまで馬鹿にされて黙っているわけにはいかなかった。
「よく言うね!」
美希に舐めた態度を取られて、陽菜は完全に逆上した。
すぐ後ろにある深いプールに目をやると、目つきに悪意がにじんだ。
「そんなに物分かりが悪いなら、翔太が本当に好きなのが誰なのか、思い知らせてあげる!」
無理やり美希の腕を掴んだ陽菜は、勢いのまま後ろへ倒れ込んだ。
大きな水しぶきが上がり、二人はほぼ同時にプールに落ちた。
「助けて!翔太、助けて!」
騒ぎを聞きつけてきた翔太の姿を見ると、陽菜はすぐに助けを呼んだ。
翔太は上着も脱がずに飛び込み、陽菜を腕の中に抱きしめた。その時になってようやく、少し離れた場所にいる美希の姿が目に入った。肌から血色が失われているのに、彼女は少しも助けを求めようとはしなかった。
「美希……待ってろ。先に陽菜を助けたら、すぐに助けに行くから!」
翔太はそう言うと、美希から目を逸らしたいかのように、必死で陽菜を抱きかかえてプールから離れようとした。
翔太が陽菜をプールから抱き上げると、陽菜は彼の服を掴んで離さなかった。
翔太は腕の中の陽菜をなだめるのに手いっぱいで、美希に構う余裕なんてなかった。
その様子を見ていた美希は、ふと笑った。そして、全身の力が抜け、ゆっくりと水底に沈んでいった。
朦朧とする意識の中、誰かに手を掴まれた。
しかしすぐに、ストレッチャーに乗せられ、慌ただしくどこかへ運ばれていった。
その瞬間、美希は一瞬だけ意識を取り戻し、目の前にいる人物が翔太だとわかった。「どこへ連れて行くの?」
翔太は手首に伝わる氷のような冷たさに、心臓が思わず跳ねた。
美希の体が、なぜこんなにも冷たいんだ?
しかし、医師に急かされ、翔太はそれ以上考えることができなかった。
「以前お前が陽菜に盛った毒の件と、今回彼女をプールに突き落とした件で、彼女の腎臓は深刻なダメージを受けた。検査の結果、お前の臓器が陽菜と完全に一致すると分かったんだ」
翔太は、苦々しげに言葉を続けた。「これは元々全部お前の責任だぞ。腎臓を陽菜に提供するなら、今までのことは全て許してやる」
今までのことを許してやる、ね。
その言葉を聞いた瞬間、美希は口から真っ赤な血を吐いた。
だが翔太は彼女から目をそらすだけだった。「腎臓は提供してもらう。安心しろ。最高の医者を呼んだんだ、死なせたりはしない」
そう言うと、翔太は心配そうな様子で手術室に入る美希を見送った。
扉が閉まるその瞬間、美希は腕時計についていた一つの小さなボタンを押した。
これは美希が研究所と交わした、大事な約束だった。
このボタンが押されれば、研究員が美希の居場所を自動に特定できるようになる。そして、美希がサインした同意書を持って、脳神経細胞を回収しにくる手はずになっていた。
手術室の青白い光が、美希の顔を照らした。
麻酔は効いていたけれど、体が切り裂かれていく感覚だけは、はっきりとあった。
「腎臓を摘出しました。
心拍……まずい、心拍数が急激に低下しています!
「循環器内科、手術室へ急行を!」
「もう……手遅れです」
やがてピーという甲高い音が手術室に響き渡り、誰かがが息をのんだ。「死亡を確認しました……」