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裏切りの代償〜風に消えた愛と、流れる雲〜
誰よりも私・九条莉乃(くじょう りの)を愛してくれているはずの夫、九条柊吾(くじょう しゅうご)。妊娠を告げれば、きっと涙を流して喜んで...
Chương (1)
第1章
誰よりも私・九条莉乃(くじょう りの)を愛してくれているはずの夫、九条柊吾(くじょう しゅうご)。妊娠を告げれば、きっと涙を流して喜んでくれる――そう信じて疑わなかった。
なのに彼は、どこか申し訳なさそうな顔でこう言った。
「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」
身を切られるような思いだったけれど、私は彼の言葉を信じて、お腹の小さな命を諦めた。
それから3年後。
私は偶然、柊吾が見知らぬ女と手を繋ぎ、幼稚園の門から出てきた小さな女の子を迎えに行く姿を目撃してしまう。
彼は満面の笑みでその子を抱き上げると、甘い声で囁いた。
「結(ゆい)、今日は三歳の誕生日だね。パパから、グループの唯一の後継者の座をプレゼントしようか」
仲睦まじく歩き去る「家族三人」の後ろ姿を見つめながら、私は全身の血が凍りつくのを感じた。
――父親になる覚悟がなかったわけじゃない。
彼はただ、私との子供が欲しくなかっただけなのだ。
第1話
誰よりも私・九条莉乃(くじょう りの)を愛してくれているはずの夫、九条柊吾(くじょう しゅうご)。妊娠を告げれば、きっと涙を流して喜んでくれる――そう信じて疑わなかった。
なのに彼は、どこか申し訳なさそうな顔でこう言った。
「ごめん、莉乃。俺、まだ父親になる覚悟ができてないんだ。子供はもう少し先延ばしにしないか?」
身を切られるような思いだったけれど、私は彼の言葉を信じて、お腹の小さな命を諦めた。
それから3年後。
私は偶然、柊吾が見知らぬ女と手を繋ぎ、幼稚園の門から出てきた小さな女の子を迎えに行く姿を目撃してしまう。
彼は満面の笑みでその子を抱き上げると、甘い声で囁いた。
「結(ゆい)、今日は三歳の誕生日だね。パパから、グループの唯一の後継者の座をプレゼントしようか」
仲睦まじく歩き去る「家族三人」の後ろ姿を見つめながら、私は全身の血が凍りつくのを感じた。
――父親になる覚悟がなかったわけじゃない。
彼はただ、私との子供が欲しくなかっただけなのだ。
……
夜、夫の柊吾が帰宅した。
私の泣き腫らした目を見るなり、彼はスリッパに履き替えるのも忘れて大股で歩み寄り、私をきつく抱きしめた。その声には、痛いほどの思いやりが滲んでいた。
「どうした?誰か莉乃に嫌なことでも言ったのか?教えてくれ、俺がそいつを許さないから」
ようやく落ち着きかけていた私の心は、その甘い言葉のせいで再び激しく波立ち、堪えきれなくなった涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
九条グループの社長である柊吾が、筋金入りの愛妻家であることは業界でも有名な話だ。
私と結婚してすぐ、彼は自分の秘書やアシスタントを全員男性に入れ替えた。夜の接待があれば必ずビデオ通話で報告してくるし、長年の友人が彼に女性をあてがおうとした時など、一切の躊躇なく縁を切ったほどだ。
彼がどれほど私を愛しているか、誰の目にも明らかだった。
とめどなく涙を流す私を見て、柊吾は苦しげに眉をひそめ、そっと指先で私の涙を拭った。
「莉乃、一体どうしたんだい?お願いだから話して。君がそんな風に泣き続けていたら、俺まで胸が張り裂けそうだよ」
心底心配そうに覗き込んでくる彼の瞳を見つめ返しながら、私は喉まで出かかった問い詰めの言葉をぐっと飲み込んだ。
そして、小さく首を横に振ると、ゆっくりと口を開いた。
「……ううん、何でもないの。今日、すごく悲しい映画を観たら、つい涙が止まらなくなっちゃって」
柊吾はあからさまに安堵の息を吐き、愛おしそうに私の鼻先を軽くつついた。
「もう、本当に心臓が止まるかと思ったよ。
まだ夕飯、食べてないだろ?今日は俺が腕を振るってやるよ。どう?」
私は小さく頷き、されるがまま彼に抱き上げられてダイニングの椅子に座った。
手慣れた様子でエプロンを身に着け、フライパンに油をひいて料理を始める彼の後ろ姿を見つめる。けれど、私の脳裏には今日の午後の光景が何度もフラッシュバックしていた。
あの小さな女の子を抱き上げ、満面の笑みで語りかける夫の姿。
『結、今日は三歳の誕生日だね。パパから、グループの唯一の後継者の座をプレゼントしようか』
三歳。
もし、あの子を諦めていなければ、私たちの子供も今年で三歳になっていたはずだった。
胸の奥にじわじわと苦いものがこみ上げてきた、まさにその時。キッチンからスマートフォンの着信音が鳴り響いた。
電話に出た柊吾の口調は、私には向けたこともないような冷たく厳しいものだった。
「仕事の後は連絡するなと言ったはずだ」
キッチンのガラス戸を隔てていても、電話の向こうからすがるような女の声がはっきりと聞こえてきた。
「ごめんなさい……莉乃さんと一緒にいる時に邪魔しちゃいけないって分かってるんだけど。でも、結がパパと一緒じゃなきゃケーキのろうそくを消さないって泣き止まなくて。どうしようもなくて、電話してしまったの。
莉乃さんが一番大切だってことは分かってる。でも、あなたはこの子の誕生日を一度も一緒にお祝いしてくれたことがないじゃない。お願いだから、今日だけは……」
そこまで聞こえたところで、柊吾は通話を切り、コンロの火を止めてキッチンから出てきた。
彼はひどく申し訳なさそうな顔を作って言った。
「ごめんね、莉乃。会社で急なトラブルがあって、どうしても俺が行かなきゃならなくなったんだ」
全身の血の気が引き、喉の奥が塞がったように息が詰まる。長い沈黙の後、私はようやく一言だけ絞り出した。
「……どうしても、行かなきゃダメなの?」
「ああ」
彼はジャケットを手に取り、急かすように慌ただしく靴を履く。それでも家を出る直前、いかにも私を気遣うような言葉を残すことは忘れなかった。
「何か軽くお腹に入れておいて。すぐ戻ってくるから、そしたらまたご飯を作るよ」
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はダイニングチェアの上で膝を抱えて丸くなった。無意識のうちに、またハラハラと涙がこぼれ落ちる。
第2話
どれくらい時間が経っただろうか。スマートフォンが震え、柊吾からのメッセージを知らせた。
【莉乃、会社のトラブルが長引きそうで、今夜は帰れそうにない。俺のことは待たなくていいからね】
【君の好きなお店で夕飯をデリバリーしておいたから、ちゃんと食べて、今日はもう早めに休んで】
画面の文字を呆然と何度も読み返すが、ただただ息が苦しかった。
柊吾は私を一人置き去りにして、あの女と子供のもとへ行ったのだ。
あんなにも私を溺愛してくれていたはずの彼が、裏では心変わりをして、別の家庭を築いていたなんて。
心臓を刃物でえぐられるような痛みに耐えながら、私は震える指でスマートフォンを操作し、母に電話をかけた。
「お母さん……D国支社に行く話、引き受けるわ」
母は昔から、結婚を機に私が家庭に入ることに反対していて、D国支社の経営を任せたいと何度も打診してきていた。
けれど、当時の私は柊吾が囁く愛の嘘にすっかり溺れきっていた。彼との甘い生活が一生続くと信じて疑わず、少しでも離ればなれになることなど考えられなくて、母の提案を一秒の迷いもなく断ってしまったのだ。
それがまさか、結婚からたった三年で、すべての幸せが泡と消えるなんて。
――それならもういい。柊吾、私にはもうあなたは必要ない。
結局、柊吾はその夜、帰ってこなかった。
私は抜け殻のように座ったまま夜明けを迎え、そのままビザの手続きへと向かった。
ビザが下りるまでには五日かかる。手続きを終えた後、D国の気候を思い出し、赴任に向けて服でも買っておこうと近くのショッピングモールに立ち寄った。
ところが、モールに足を踏み入れた私の目に飛び込んできたのは、あまりにも見慣れた姿だった。
柊吾が腰をかがめ、優しい手つきで小さな女の子に靴を試着させている。そして、彼の傍らに寄り添うように立っている女は、まさしく昨日の午後、幼稚園の前で見かけたあの女だった。
視線がぶつかった瞬間、柊吾の瞳に明らかな動揺が走った。子供の足に添えていた手が、宙で不自然に止まる。
だが、それもわずか数秒のことだった。彼はすぐにいつもの穏やかな表情を取り戻すと、私の方へ歩み寄ってきた。
「莉乃、奇遇だね。買い物かい?」
彼はさりげなく女との間に距離を置くと、紹介するかのように彼女を指した。
「こちらは、秘書の逢坂澪(おうさか みお)さん。クライアントへの手土産を選ぶのを手伝ってもらっていたんだ」
私は思わず、乾いた笑いを漏らした。
「……いつから、あなたの周りに女性の秘書が戻ってきたのかしら」
柊吾の顔が、一瞬で強張る。すると、隣にいた澪が絶妙なタイミングで微笑み、私に手を差し出してきた。
「はじめまして、莉乃さん。社長からは、いつもお噂を伺っております。
私は最近入社したばかりなのですが……シングルマザーで苦労している私を、社長が不憫に思って秘書に抜擢してくださったんです。高いお給料をいただけるようになって、本当に感謝してもしきれません。精一杯働いて、社長にご恩返しをしたいと思っているんです」
差し出された手を取る気にはなれなかった。それ以上に、私の目は、彼女の薬指で輝くものに釘付けになっていた。
私と、まったく同じデザインのダイヤの指輪。
結婚したとき、柊吾は「唯一無二の愛には、世界に一つだけの指輪を」と言って、有名なデザイナーに特注してくれたはずだった。
皮肉なものだ。唯一無二だと信じていた愛も指輪も、結局は誰にでも使い回す手口に過ぎなかったのだ。
吐き気を覚えて目を逸らし、その場を立ち去ろうとした、その時だった。
足元にいた女の子が柊吾の足にしがみつき、愛らしい声で「パパ!」と呼んだ。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
澪がすかさず口を開いた。
「……結、ダメよ。いつも言ってるでしょ? 誰にでもパパなんて言っちゃ。今は『おじさん』でしょう?」
彼女は「おじさん」という言葉に、隠しきれないほどの棘を込めて言い直させた。
結と呼ばれた女の子は、不満そうに私を上目遣いで見ると、しぶしぶ口を尖らせた。
「……おじさん」
そして、甘えるように彼の袖を引く。
「あのね、あそこの親子競技の景品、イチゴのくまさんが欲しいの。お願い、おじさんとママと一緒に三人で出たいな」
ちょうどそのとき、私と柊吾の顔見知りである奥様方が数人、通りかかった。
結の声を聞きつけた彼女たちは、くすくすと上品に声を忍ばせて笑った。
「あら、あの子可哀想に。柊吾さんが奥様を一途に愛してらっしゃるのは有名な話ですもの。よその母子と一緒に親子競技に出るなんて、あるはずがないわよね」
囁き声のような独り言だったが、それは鋭い刺のように、その場の空気をぴりつかせた。
澪は結の手を引き、ひどく申し訳なさそうな顔で私を見た。
「ごめんなさい、莉乃さん。結、幼稚園の行事でもずっとパパがいなくて、お友達にからかわれてきたんです。だから、ついあんな図々しいお願いを……どうか、お気になさらないでください」
第3話
その言葉を聞いて、私は思わず柊吾に目を向けた。案の定、彼の瞳には隠しきれない罪悪感が滲んでいる。
「莉乃、子供のささやかな願いなんだ。少し付き合ってくるだけだから。……変に深読みしないでくれよ」
柊吾は言い訳を並べるようにそう告げると、慣れた手つきで結を抱き上げた。
「よし、イチゴのくまさん、獲りに行こうか」
隣を歩く澪が、去り際、私にだけ分かるような含みのある視線を送ってきた。
遠ざかっていく三人の後ろ姿は、どこからどう見ても睦まじい「幸せな家族」そのものだった。
それまで傍観していた奥様たちは、決まり悪そうに薄笑いを浮かべて立ち去っていく。
去り際に向けられた彼女たちの視線は、それまでの羨望から、あからさまな同情と嘲笑へと変わっていた。
この瞬間、柊吾の「狂おしいほどの愛妻家」という看板は、この街で一番の笑い草になったのだ。
私は奥歯を噛み締め、震える腕で自分を抱きしめた。心臓をずたずたに引き裂かれたような激痛が、体の隅々にまで突き刺さっていた。
帰り道、車内の重苦しい沈黙に耐えかねたのか、柊吾が顔色を窺うようにして口を開いた。
「逢坂さんのことだけど……彼女、シングルマザーで一人で子供を育てているから苦労も多いんだ。雇い主として、少しでも力になってあげたくてね。秘書なら手当も厚いし、あの子を養っていくのにも都合がいいだろう」
必死に慈悲深い上司を演じる夫は、私をなだめるように続けた。
「莉乃が嫌だと言うなら、すぐにでも彼女を別の部署へ異動させるよ。いいかな?」
私は返事をする代わりに、窓の外を流れていく夜景を見つめた。不意に、心の奥に刺さっていた問いが口をついて出る。
「ねえ柊吾、結婚式の時に交わした誓い、覚えてる?」
「……誓い?」
「嘘をついたら、誰にも看取られず孤独に一生を終えるって……あの誓いよ」
柊吾の顔に一瞬だけ動揺が走ったが、彼はすぐに柔らかな笑みを浮かべると、私の手を優しく包み込んだ。
「もちろん覚えているよ。安心して。莉乃、俺はあの誓いを今も守り続けている。嘘なんて、つくはずがないだろう」
その深々とした慈しみのこもった声が、今はただ、ひどく虚しく響いた。私は無言でその手を振りほどき、そっと目を閉じる。
「……疲れたわ」
もう、いい。あなたの白々しいお芝居に付き合うのは、もう限界なの。
家に戻った私は、すぐさま馴染みの弁護士にメッセージを送った。
【桐原先生、離婚届の作成をお願いします】
翌朝、仕事の早い桐原弁護士から、作成済みの書類がメールで届いた。
私はそれをプリントアウトし、署名するために下階へ降りようとした。けれど、階段の途中で私の足は凍りついた。
リビングでは、澪が大きなスーツケースを広げ、膝をついて柊吾の着替えを丁寧に畳んでいた。その甲斐甲斐しい姿は、まるでこの家の女主人のようだ。
その傍らでは、柊吾が床に座り込んで結に絵本を読んで聞かせていた。結は何がそんなに楽しいのか、キャッキャと声を上げて笑い、当たり前のように柊吾の胸に飛び込んでいく。
あまりにも温かく、あまりにも残酷な家族の風景。
それを見つめる私は、自分の家であるはずのこの場所で、救いようのないほど場違いな余計者に思えた。
「起きたのかい?」
真っ先に私に気づいたのは、柊吾だった。彼は相好を崩すと、二、三歩階段を上がって私を迎えに来た。
「今日は君の好きなフレンチトーストを焼いたんだ。冷めないうちに食べてよ」
私の手にある書類に目を留めた彼が、それが何か問いかけようとした、その時だった。リビングで澪が短い悲鳴を上げた。
柊吾は私を放り出し、弾かれたように階段を駆け下りる。その声には、隠しきれない動揺が混じっていた。
「どうした、何があったんだ!」
澪は白いシャツを両手で掲げ、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「ごめんなさい、社長……このシャツ、少し皺が気になったのでアイロンをかけてあげようと思ったんですけど……焦がしてしまって」
「なんだ、そんなことか。驚かせないでよ。シャツなんていいんだ、君に怪我がないなら、それで」
柊吾は安堵したように息をつくと、無残に焦げたシャツを奪い取り、ためらいもなくゴミ箱へ放り捨てた。
私はその場に立ち尽くし、こみ上げる涙を必死にこらえた。
あのシャツは、私たちが籍を入れた記念の日に、彼が着ていたものだ。
「一生の宝物にするよ」
そう言って大切にしまっていたはずの思い出が、結婚三年にして、別の女の手によってゴミ屑に変えられた。
波立つ心を無理やり鎮め、私は階段を下りた。そして、これ見よがしに居座る二人を指差して、柊吾を問い詰める。
「……どうして、彼女たちがここにいるの?」
答えたのは、柊吾ではなく澪だった。
「莉乃さん、お騒がせしてしまって申し訳ありません。実は今朝、急に社長の出張が決まりまして。荷造りをお手伝いしなきゃと急いで駆けつけたんですが、あいにく娘を預ける先が見つからなくて……」
彼女は殊勝な表情で肩を落とした。
「莉乃さんのように、家事も育児も誰かに任せられる身分なら良かったんですけど。私は何でも一人でやらなきゃいけないもので。……どうか、ご理解いただけませんか?」
第4話
柊吾の目が、哀れみと慈しみを湛えて澪に向けられる。
その視線の意味を痛いほど知っている私は、胸を無数の針で刺されたような感覚に陥った。
これ以上、この空間に耐えられず、私は逃げるように庭のテラスへと向かった。
ブランコに腰を下ろし、冷え切った空気を吸い込む。背後からほどなくして足音が近づいてきた。
「莉乃さん。もう、気づいているんでしょう?結が柊吾さんの子だってこと」
隣に立った澪の顔から、先ほどまでの卑屈な笑みは消えていた。
そこにあるのは、勝者の余裕に満ちた、残酷なまでの勝ち誇った顔だった。
振り返ると、柊吾は大きな窓のそばで電話に集中しており、こちらには視線すら向けていなかった。
だからこそ、澪はこれほどまでに不敵な態度で私を挑発できるのだ。
私は彼女の言葉を無視し、手にしていた離婚届を静かに差し出した。
「私より、あなたの方が彼にサインさせるいい方法を知っているでしょう?」
澪は一瞬、耳を疑ったように目を丸くした。
「……離婚するつもり?」
「ええ。不誠実なパートナーなんて、私の人生には必要ないわ」
短く答えると、澪は呆然と立ち尽くしたが、やがて口元に冷酷な笑みを浮かべた。
「へえ、自分から身を引くんだ。でも、ごめんなさい。万が一ってこともあるから、私のやり方でトドメを刺させてもらうわね」
彼女が何を言っているのか理解する間もなかった。
直後、背後で凄まじい水音が響き渡った。
さっきまでリビングで遊んでいたはずの結が、庭の深いプールに落ち、必死に手足をバタつかせていた。
「助けて! 誰か、私の結を助けて!」
澪の悲鳴が響き渡る。
リビングにいた柊吾は、呼応するようにスマホを投げ出し、迷うことなくプールへと飛び込んだ。
数分後、水を飲んでぐったりとした結を抱き上げ、彼は岸へと這い上がった。
澪が泣き叫びながら結を抱きしめる。
激しく咳き込んでいた結は、震える指先で私を指さし、泣きじゃくりながら声を上げた。
「……あの人が、結を突き落としたの!」
柊吾が弾かれたように振り返る。その瞳は、これまでに見たことがないほどの激しい怒りに燃えていた。
「莉乃、君がこれほど残酷な人間だったなんて。たった三歳の子に、なんてことを……!」
「違うわ、私はやってない!」
慌てて首を振ったが、彼は聞く耳を持たなかった。
「あの子はまだ三歳だぞ、嘘なんてつくはずがないだろう!」
柊吾は私の腕を乱暴に掴むと、吐き捨てるように言った。
「これまでの俺が、君を甘やかしすぎたんだ。だからこんなに見境のない、嘘つきな女になった。……少しは頭を冷やして反省しろ」
「待って、どこへ……」
「地下の納戸だ。そこで自分の犯したことをよく考えろ」
耳を疑った。
私がひどい閉所恐怖症であることを、彼は知っている。暗くて狭い場所に閉じ込められることが、私にとってどれほどの恐怖か、分かっているはずなのに。
嘘をついているのは私じゃない、あなたの方よ――
心の底からせり上がってくる冷気に、全身が震えだす。私は絶望に、ただ一筋の涙をこぼした。
柊吾はそれを見ようともせず、冷徹にボディガードたちに命じて、私を暗闇の奥へと引きずらせた。
窓一つない暗い納戸に閉じ込められて、三日が過ぎた。
その間、水も食べ物も一切与えられなかった。底知れぬ恐怖が蔦のように体に絡みつき、締め上げられるような苦しさに、呼吸をすることさえままならない。
四日目の朝、突然扉が開かれ、暴力的なまでの光が差し込んだ。
眩暈に襲われながら、霞む視線の先に、焦燥に駆られた柊吾の顔を認めた。
彼は私を抱き上げると、申し訳なさそうに声を震わせた。
「ごめん、莉乃……出張が立て込んでいて、君を出すように指示するのを、うっかり忘れていたんだ」
あまりの言い草に、笑い飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
以前の彼は、出張中であっても暇さえあれば私に電話をかけてきたというのに。それが今や、私が暗闇で飢えと恐怖に震えていることすら、記憶の片隅から消し去っていたのだ。
目頭が熱い。けれど、涙を流す体力すら、今の私には残っていなかった。
柊吾は狼狽しながら、私を抱えて車を走らせた。
彼の胸に顔を埋めると、かつて愛したシダーウッドの香りが鼻をくすぐる。けれど、私の心はすでに、一切の感情をなくした死の街のように静まり返っていた。
そのまま意識は遠のき、私は深い闇へと落ちていった。
次に目を覚ましたとき、鼻をつく消毒液の匂いが、ここが病院であることを告げていた。
ベッドの脇では、柊吾が私の手を握ったまま、深い隈を作ってうなだれていた。
私が目を開けたことに気づくと、彼は縋るように私の手を握りしめた。
「莉乃、本当に……本当にすまない。俺が悪かった。あんな場所に三日も閉じ込めておくなんて……君が許してくれるなら、どんな報いでも受ける。だから、どうか……」
赤く腫れた彼の目を見つめても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
第5話
あの暗闇の中で凍りついた孤独や絶望は、後付けの「すまない」の一言で溶かせるほど、安っぽいものではない。
私の冷淡な視線に、柊吾はあからさまに動揺した。
それからの半日間、彼は一歩もそばを離れようとはしなかった。水を飲ませ、甲斐甲斐しく手を拭き、媚びるような視線を私に送り続ける。
だが午後、そんな歪な静寂を破るように、彼のスマートフォンが鳴った。
通話ボタンを押すと、静かな病室に、澪の悲鳴のような泣き声が響き渡った。
「柊吾さん!結が……結が車に撥ねられたの!運転していたのは……莉乃さんの専属のボディーガードよ!」
柊吾が私を射貫くように見つめた。その瞳にあったはずの柔らかな光は、一瞬にして刺すような憤怒へと塗り替えられた。
通話を終えるなり、彼は私の手首を乱暴に掴み上げた。みしりと骨が軋むほどの力に、私は思わず息を呑む。
「莉乃、結はまだたったの三歳なんだぞ。どうして、どうしてこれほどまでにあの子を執拗に傷つけるんだ!」
突き飛ばすようにその手を振りほどき、私はただ、絶望の淵から彼を見つめ返した。
「……あなたの目には、私がそんな人間に見えているの?」
柊吾は何かを言いかけ、しかし再び鳴り響いた着信音にそれを飲み込んだ。
電話を切った彼の顔は、先ほどよりもさらに険しくなっていた。彼は私の腕を掴み、無理やり廊下へと引きずり出す。
「……結はRhマイナスという、ごく稀な血液型なんだ。病院の在庫が足りない。お前も同じ血液型だったはずだ。来い、すぐに輸血する」
その口ぶりに、選択の余地などなかった。数日前まで死に物狂いで飢えと恐怖に耐えていた病人に、彼は微塵の思いやりも見せなかった。今の私にとって、彼は夫でも愛する人でもない。ただ私を「便利な血液パック」としか見ていない、血の通わない怪物だった。
なりふり構わず連れて行かれたのは、無機質な採血室だった。
刺された針から、鮮紅色の血がチューブを伝って不気味な音を立てて流れ出していく。ただでさえ衰弱しきっていた体から、じわじわと生命力が吸い取られていくのが分かった。意識は遠のき、目の前の景色が粉雪でも舞ったかのように、白く霞んでいく。
柊吾の瞳に、一瞬だけ躊躇いがよぎった。だが、彼はすぐに冷え切った声で言い放った。
「……これは、お前が犯した過ちの代償だ。忘れるな、二度目はないぞ。次があれば、採血くらいでは到底済まさない」
私は力なく笑った。反論する気力すら、もう残っていなかった。
「ええ……分かっているわ。二度目なんて、もうないから」
そうよ。もう二度と、こんなことは起きない。
約束の五日は過ぎた。ビザは無事に発給されている。
間もなく私は、この男の前から永遠に姿を消す。二度と、その顔を見ることもない。
採血を終えて立ち上がろうとした時、あまりの立ちくらみに膝が折れそうになった。柊吾が咄嗟に手を差し伸べてきたが、私はそれを反射的に拒絕した。
彼は不満そうに顔を歪めたが、やがて呆れたようにため息をついた。
「……莉乃、恨むのは勝手だが、俺だって君のためを思って言っているんだぞ。あとは一人で病室に戻れるだろう。俺は手術室へ行く。逢坂さんは部下だし、今回は君のボディーガードが起こした不祥事なんだ。俺が責任を持って付き添うのが筋だからな」
そう言い残すと、彼は一度も振り返ることなく、愛する母子が待つ場所へと急ぎ足で去っていった。
手術室へと急ぐ柊吾の背中を、私はただ、乾いた瞳で見送った。
立ち去ろうとした私の前に、どこから現れたのか、澪が立ちはだかった。彼女は無機質な封筒を差し出し、「お望みのものよ」と短く告げた。
中を確認すると、そこには見慣れた、けれどどこかなぐり書きのような柊吾の署名が入った離婚届があった。
「……ありがとう」
それだけ言い残して、私は歩き出した。病室には戻らず、そのままタクシーを拾ってビザの申請センターへと向かった。
無事にビザを受け取り、静まり返った自宅へ戻る。出国のために手際よく荷物をまとめている最中、ふと、柊吾の書斎で開いたままになっていたパソコンの画面が目に入った。
映し出されていたのは、グループの資産継承に関する公正証書の案だった。
『次期後継者の実母』という欄には、はっきりと「逢坂澪」の名が刻まれている。
私はそれを、まるで他人の家の出来事であるかのように淡々と眺め、静かに視線を逸らした。
パッキングを終え、リビングのテーブルの一番目立つ場所に、私の署名を書き入れた離婚届を置いた。
かつて自分が「我が家」と呼んでいた場所を最後に見渡し、私は躊躇うことなくスーツケースを引いて外に出た。
機体がふわりと浮き上がり、窓の外の街並みが模型のように小さくなっていく。
私を命がけで愛すると誓った夫も、彼にすべてを捧げたかつての私の恋心も、すべては流れる雲の彼方へと置き去りにした。
これからはもう、交わることのない平行線。さようなら、柊吾。