幼馴染を選んだ夫の結末

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幼馴染を選んだ夫の結末

GoodNovel Hoàn thành

千利と口をきかない状態になってから一か月。 彼は音楽フェスティバルのVIPリストバンドを二本差し出し、結婚記念日に一緒にフェスを見に行こう...

Chương (1)

第1章

千利と口をきかない状態になってから一か月。 彼は音楽フェスティバルのVIPリストバンドを二本差し出し、結婚記念日に一緒にフェスを見に行こうと私を誘った。 あの日、私は念入りに身支度を整えた。 けれど、入場ゲートでチケットを確認する段になっても、彼は現れなかった。 仕方なく一人で入ろうとリストバンドを取り出そうとしたとき、バッグの中からそれが消えていることに気づいた。 ちょうどそのとき、千利の幼なじみである凪希がSNSを更新した。 写真には、真面目な顔でピンクの綿あめを掲げる千利の姿が写っている。 いつもの冷徹なエリート然とした雰囲気とはまるで別人だった。 添えられた文は―― 「ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝」 バッグの空っぽの仕切りを見つめながら、私はすべてを悟った。 もし以前の私だったら、千利と激しく言い争い、理由を問い詰めていたはずだ。 けれど今は、ただ肩の力が抜けるような感覚しかなかった。 5年。 積み重なった失望があまりにも多すぎて、もう疲れてしまった。 第1話 矢田部千利(やたべ せんり)に18回電話をかけたが、彼は一度も出なかった。 VIP入口の外では人々が熱狂し、歓声が次々と湧き上がっているのに、私の耳に届くのは冷たい機械音声だけだった。 本当は、もう薄々わかっていた。 千利は、また私を裏切ったのだ。 それでも、どうしても答えが欲しくて、私は何度も何度も電話をかけ続けた。 聞き慣れた呼び出し音が繰り返されるたび、心が少しずつ沈んでいく。 フェスはちょうど最高潮を迎えているらしく、会場内からは耳をつんざくような歓声が響いてきた。 重低音がフェンス越しにも伝わり、地面が震えているのがわかる。 その熱気はチケットを持たない外の観客たちにも伝染し、皆がペンライトを振りながら叫んでいた。 その中で、私だけがスマホを握りしめたまま、場違いに立ち尽くしていた。 画面に表示された27件の不在着信を見て、ふと、彼が来るかどうかなんて、もうどうでもいい気がしてきた。 一か月の冷戦が終わるかもしれないという、あのわずかな期待は、この27回の電話で完全にすり減ってしまった。 たとえ今千利が駆けつけてきたとしても、もうやり直そうという気持ちは残っていない。 深く息を吸い、気持ちを整えると、私は一人で入場しようとバッグを開いた。 千利に気分を台無しにされたとはいえ、この音楽フェスティバルは、私が十年以上も好きで追い続けてきたバンドのトリのステージだ。 子どもの頃からずっと来たいと思っていた場所。 せっかく手に入れたVIPリストバンドだ、一人でも絶対に入る。 そう思って仕切りを開いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。 ――何もない。 数日前、大事にしまっておいたはずの二本のリストバンドが、消えていた。 どこかに入れ替えたのかと必死に記憶を辿っていると、スマホが通知音を鳴らした。 開いてみると、小熊凪希(おぐま なぎ)がSNSを更新した。 そこには、ピンクの綿あめを手に、どこかぎこちない表情で立つ千利の姿。 普段の冷静沈着で全てを掌握するエリート像とは、まるで噛み合っていない。 添えられた文は―― 【ついにドミ・ドラ様に会えました~!いつでもお願いを聞いてくれるあの人に感謝】 どうしても繋がらなかった電話と、消えたリストバンド。 そのすべてが、一瞬で繋がった。 千利の昔なじみのグループチャットでは、共通の友人がそのスクリーンショットを共有していた。 【え、千利本当にフェス行ってるのか?】と朋輝。 【完全に凪希に惚れ惚れだな】と知里が続く。 【今週末は奥さんと予定あるって言ってなかったっけ......?】と別の誰か。 彼らは口々に、千利にとって凪希がどれだけ特別か、二人がどれだけ仲がいいかを語っていた。 ――誰一人として、私のことには触れない。 結婚して5年になる、本当の妻であるこの私のことを。 朋輝が「パーティーに誘ったのに忙しいっていう理由で断られたよ」と書いているのを見て、私は一瞬ぼんやりした。 数日前、千利がバルコニーで電話していたとき、「行けない」「週末は用事がある」といった言葉がリビングにかすかに聞こえてきたのを思い出す。 あのときの私は、少し浮かれていた。 今日の約束を、彼はちゃんと大事にしてくれているのだと。 これまで音楽フェスティバルなんて興味がないと言っていた彼が、わざわざ友人の誘いを断ってまで、私に付き合ってくれるのだと。 だから私は、この日の夜のレストランも早々に予約していた。 フェスのあと、こちらから少し折れて、この一か月のケンカに終止符を打とうと思っていた。 ――確かに、千利はこの約束を大事にしていた。 ただし、相手は私ではなく、凪希だった。 しかも彼女を中に入れるために、私に渡したはずのリストバンドまで、こっそり持ち去っていたのだ。 思わず、自分がひどく滑稽に思えた。 VIP入口の外で、彼を待ちながら焦っていたあの時間。 その頃にはもう、彼は凪希と一緒に中へ入っていたのだ。 私に残されたのは、空っぽのバッグと、決して繋がらない電話だけ。 もしかして最初から、私と一緒に見るつもりなんてなかったのではないか。 ただ形だけ取り繕って、適当にあしらっていただけではないか。 ――そんな考えが、頭をよぎる。 彼が珍しく歩み寄ってきたのだと、私は勝手に期待していたのに。 考えているうちに、頬がかすかにむずがゆくなった。 手で拭うと、手のひらがしっとりと濡れていた。 そのとき、隣でフェス配信を見ていた二人の女の子が、突然歓声を上げた。 「やば、甘すぎるでしょ。やっぱり理想の彼氏ってよその旦那だよね」 「真顔で綿あめ持って彼女の推し活に付き合うとか、そのギャップ最高すぎ!」 思わずそちらを見ると、画面の中で凪希が恥じらうように千利の胸に顔を埋めていた。 千利は彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、二人はまるで恋人同士のように密着している。 その瞬間、胸の奥で何かがはっきりと砕ける音がした。 破片が心臓を内側から切り裂いていく。 ――5年間の間違いも、もう終わりにすべきだ。 第2話 千利が帰宅したのは、すでに深夜だった。 私はとっくに身支度を整えて、ベッドに横になっていた。 以前の私は、彼に「家の温もり」を感じてほしくて、帰りが遅い日はいつも灯りを一つ残し、狭いソファに体を丸めて彼の帰りを待っていた。 たとえ彼に冷たく言われても、やめようとは思わなかった。 あれはただの照れ隠しで、本当は優しい人なんだと、勝手に思い込んでいた。 ――でも、今思えば、あれは本音だったのかもしれない。 そして今夜、風呂上がりに広いベッドでゆったりと横になってみると、千利の言っていたことは間違っていないと、妙に納得してしまった。 2メートルもあるベッドを使わずに、わざわざソファに縮こまるなんて、確かに自分から苦労を背負い込んでいただけだ。 ――もう二度と、あんな馬鹿なことはしない。 背後から温かい体がぴたりと寄り添ってくる。 同時に、甘ったるい香水の匂いが鼻先をかすめた。 その香りには覚えがある。 凪希がいつも使っている香水だ。 かつては千利の腕に包まれるのが好きだった。 嵐の中でようやく港に辿り着いた船のように、心から安心できた。 なのに今、頭に浮かぶのは――凪希が彼の胸に顔を埋めていたあの姿。 込み上げてくるのは、安らぎではなく、嫌悪感だった。 私は思わず彼の手を振り払い、枕を抱えてゲストルームへ向かう。 こんな反応は予想していなかったのだろう。 以前なら、彼が横になるだけで、私はすぐにその腕の中へ潜り込んでいたのだから。 「楓花(ふうか)、お前、どこへ行くんだよ。俺、一日中働いてやっと帰ってきたのに」 ――一日中働いて、ね。 その空虚な言い訳に、思わず笑いがこみ上げる。 凪希と一晩中遊んで、さぞお疲れなのだろう。 私は静かに彼を見つめた。 「今日が何の日か、覚えてる?」 千利は眉をひそめ、露骨に苛立った顔をする。 「何の日だよ。付き合って何日記念とか、何回目のデート記念とか?お前ら女って、そういうどうでもいい日をやたら大事にするよな。本当に理解できないよ」 もうこの5年の関係に終止符を打つと決めている。 それでも、その言葉は胸の奥を鋭く刺した。 結婚一周年のときのことを思い出す。 私は家でキャンドルディナーを用意し、彼の好きなレストランの料理を一生懸命作って、テーブルや花まで自分で飾りつけた。 ドアを開けた彼が喜ぶ顔を想像していた。 けれど、実際に返ってきたのは、容赦ない叱責だった。 仕事で疲れているのに、こんなことに付き合う余裕はないと、言われた。 あのときの私は本当にわからなかった。 本来なら、仕事で疲れて帰ってきても、好きな人の顔を見れば元気になれるものじゃないのか、と。 どうして千利にとって、私は「癒し」ではなく「負担」になってしまうのか。 あの日、私は何も言わず、静かに片付けをしてゲストルームへ移った。 それでも翌日、彼から花を渡され、軽く謝られただけで、簡単に許してしまった自分がいる。 仕事で疲れていて言葉が荒くなっただけだと。 自分は感情を表に出すのが苦手なタイプで、こういう形式的なことは好きじゃないのだと。 二人で一緒にいられれば、それでいいのだと。 ――あのときの私は、それを信じた。 今思えば、本当に愚かだった。 音楽フェスなんて興味がないと言っていた男が、凪希とはフェスに行き、ピンクの綿あめまで持っている。 ――ほら見ろ。 感情を表に出すのを避けているんじゃない。 ただ私を避けていただけだ。 「今日は、私たちの結婚五周年の記念日よ。三日前、あなたはフェスのVIPリストバンドを二本渡して、今日一緒に行こうって言った。そして今日、私は入口で2時間待って、27回電話した。それでも千利は来なかった」 千利の表情が一瞬で固まる。 「仕事が忙しくて忘れてただけだ。次はちゃんと約束を守るよ」 そう言いながら、いつものように私の腰に手を回そうとする。 これが彼の「仲直り」のやり方だ。 以前なら、そのまま流されていたかもしれない。 けれど今回は、一歩後ろに下がってその手を避け、真っ直ぐに彼の目を見た。 「本当は一人で行こうと思ってた。でも、リストバンドもカバンから消えたの」 彼の目に、一瞬だけ動揺が走る。 私が一人で行くはずがないと高を括っていたのだろう。 リストバンドがなくなったことに気づくとは思っていなかった。 それでも表情はすぐに開き直ったものに戻る。 「どこかに落としたんじゃないのか?それか、置き場所を勘違いしてるとか。 どうせ今回は一緒に行けなかったんだし、一人で行っても楽しくないだろ。次はチケット買って一緒に行けばいいじゃないか」 次から次へと重ねられる嘘に、心がゆっくりと沈んでいく。 嘘を隠すには、さらに嘘を重ねるしかない。 ここで問い詰めれば、彼はきっと、まだ言い逃れを続けるのだろう。 ――でも、もうどうでもいい。 私はSNSのトレンド画面を開き、一番上に上がっている動画を彼の目の前に差し出した。 「そう。で、本当は仕事で忙しかった?それとも小熊さんと過ごすので忙しかったの? そもそもリストバンド、私がなくしたんじゃないわよね。家に『泥棒』がいたんじゃないの?」 第3話 証拠が目の前に突きつけられ、千利はもう言い逃れできなかった。 嘘が暴かれたことで後ろめたさを覚えたのか、態度は少しだけ和らいだ。 「ごめんって。本当はお前と行くつもりだった。でもあの日、凪希もフェスに行きたいって言い出して、リストバンドが取れなかったって。 知ってるだろ、凪希と俺は幼馴染なんだ。だから断れなかった。次はちゃんとお前と行くから、それでいいだろ?」 そう言いながら、彼は私の手を取って、軽く撫でる。 ――これでも、彼なりにはかなり譲歩しているつもりなのだろう。 けれど、私にはただただ不快でしかなかった。 私はその手を振り払い、そのままゲストルームへ向かう。 背後から、苛立った声が飛んできた。 「楓花!いい加減にしろよ、その性格じゃ誰もついていけないぞ!」 カチッ、と音を立てて、彼は主寝室のドアに鍵をかけた。 以前の私なら、その音を一番恐れていた。 どんなに腹が立っていても、結局はドアの前で頭を下げ、入れてくれるよう頼んでいたはずだ。 でも今夜は違う。 私はただ静かにゲストルームのベッドに横になり、弁護士の友人・宮下紫音(みやした しおん)から送られてきた離婚協議書を眺めながら、そのまま朝まで眠りについた。 翌朝、けたたましいドアの閉まる音で目が覚めた。 ゆっくりとゲストルームから出ると、千利はすでに出勤した後だった。 もう彼のために朝食を用意する必要もない私は、自分のために香ばしいアボカドトーストを作り、大きなオートミルクラテを淹れた。 千利は朝はコーヒーに卵だけ。 アボカドトーストなんて「おしゃれぶった食べ物だ」と言って嫌っていた。 彼に合わせて、私はずっとそれを我慢してきた。 久しぶりに食べるそれは、思っていた以上に美味しくて、胸の奥がじんわり満たされた。 食事を終えると、書斎で離婚協議書を印刷し、バッグに入れて、千利の会社へ向かった。 会社に着くと、受付に「アポイントがないとお通しできません」と止められる。 結婚して5年、私は一度も会社で彼との関係を公にされたことがない。 彼もまた、私を会社に来させようとはしなかった。 たまに家に書類を忘れたときも、取りに来るのは彼のアシスタントである小林だけだった。 ――だから、社内で私を知っている人は誰もいない。 仕方なく、私は千利に電話をかけた。 繋がった瞬間、彼は鼻で笑った。 「なんだ、やっと謝りに来たのか?」 私は一瞬黙り込み、それから短く言った。 「会社の下にいるけど。会える?」 千利はそのまま電話を切り、位置情報と部屋番号を送ってきた。 ドアを開けた瞬間、私は足を止めた。 中には千利だけでなく、凪希と、あの幼なじみの仲間たちが揃っていた。 その中の一人、菊池朋輝(きくち ともき)が私を見るなり、露骨に顔をしかめる。 「なんで来るんだよ。どうせ見張りだろ?空気読めよ、ほんと」 隣にいた山根知里(やまね ちさと)が肘で彼を小突き、少しは控えろと合図する。 千利と凪希は同じ、東地区で育った。 だから彼らの友人たちは、当然のように二人が結ばれるものだと思っていた。 彼らにとっては、もし凪希が高校卒業後に海外へ行かなければ、千利の妻の座が私に回ってくることなどなかった――そんな認識なのだ。 だからこそ、彼らの私への態度は、いつもどこか冷たかった。 結婚したばかりの頃、私は彼らに気に入られようと必死だった。 この輪に溶け込みたかった。 でも、私が口を開くたびに、場の空気が微妙に冷えていくのを感じた。 やがて私は、自分から関わろうとするのをやめ、集まりではただ静かに酒を飲むだけになった。 そして凪希が海外から戻ってきてから、状況はさらに居心地の悪いものになった。 そのときようやく気づいた。 ――彼らの目には、私は最初からずっと「よそ者」だったのだと。 そのことで、長い間苦しんだ。 どうしてなのか理解できなかった。 私は千利と普通に恋愛して、普通に結婚したはずなのに、なぜ自分がよそ者のように見られるのか。 千利に相談しようとしたこともある。 けれど、その頃の彼の心は、帰国した凪希に向いていて、私の話をまともに聞く余裕などなかった。 ――でも、もういい。 どう思われようと、関係ない。 もうすぐ私は、千利と離婚するのだから。 第4話 凪希の目に一瞬、得意げな光がよぎった。 手にしたクラフトカクテルを揺らしながら、にこやかに私の方へ歩み寄ってくる。 「すみません......フェスのリストバンド、本当は楓花さんのだったって千利から聞いたの。 『チケット取れなかった』って、何気なく彼に言っただけなのに、あなたに渡すはずだったのをそのまま私にくれて......ご迷惑をかけて、本当にごめんなさい」 口では謝っているけれど、その言葉の端々からは、千利がどれだけ自分を大事にしているかを誇示する意図が透けて見える。 ――こんな駆け引きに付き合う気はない。 私はただ、千利にサインをさせたいだけだ。 「悪いけど、他人の家庭を壊そうとする人と話す気はないわ」 その一言で、凪希の目がみるみる赤くなった。 「え......どうしてそんなことを言うの?」 私が入ってきてからずっと不機嫌そうだった千利が、すぐに立ち上がり、凪希を背後に庇う。 「楓花、いい加減にしろよ。凪希は謝ってるのに、なんだその態度は」 千利の後ろで、凪希は彼の袖をつかみ、いかにも傷ついたような表情を浮かべる。 「千利......楓花さん、私たちのこと誤解してるんじゃない?」 千利は「やっぱりな」とでも言いたげな顔で私を見た。 「なんだ、まだ嫉妬してるのか?お前、ほんと一日中そういうことばっか気にしてるよな。 その酒、凪希の分も含めて飲めよ。そうしたら昨日と今日のことは水に流してやる」 二人の掛け合いを見ていると、思わず笑いがこみ上げてくる。 たった一言で、ここまで都合よく話を膨らませられるなんて。 脚本家にでもなればいいのに。 私は冷たく千利を見据えた。 「断る」 その瞬間、彼の表情が険しくなる。 グラスをつかみ、そのままこちらへ歩み寄ってきた。 「お前......何もったいぶってんだよ」 そう言いながら、無理やり私の口に押し付けようとする。 私は顔を逸らしてそれを避け、そのままグラスを奪い取ると、床に叩きつけた。 「触らないで!」 ガシャン、と鋭い音が響き、グラスは粉々に砕け散る。 飛び散った破片が千利の手の甲をかすめ、細い傷を作った。 一瞬で、部屋が静まり返る。 千利は自分の手の傷を見下ろし、呆れたように笑った。 「最近、俺がお前に甘すぎたみたいだな。いいか、今日中に凪希と俺に謝らなかったら......離婚だ!」 私はバッグから、あの茶色の封筒を取り出し、中に入っている離婚協議書をテーブルに叩きつけた。 「望むところよ」 第5話 最初に反応したのは知里だった。 場を取りなすように一歩前に出る。 「もういいだろ、千利。今日は飲みに来たんだから、これ以上ややこしくするなよ」 凪希も近づいて千利の袖を引いたが、その目の奥には、はっきりとした得意げな光が宿っていた。 「千利、やっぱり喧嘩はよくないよ」 千利はテーブルの封筒に目をやり、冷笑を浮かべる。 「どう見ても楓花のせいだろ。大した度胸だな、離婚で俺を脅すなんて」 彼は離婚協議書を手に取り、ぱらぱらとめくると、バン、と音を立ててテーブルに投げ戻し、冷ややかな視線を私に向けた。 「もうサインまでしてあるのか。俺が折れるまで、そうやって追い詰めるつもりか?」 私は静かに彼を見返した。 「私は本気よ」 千利の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。 「本気で俺と離婚できると思ってるのか?最初にしつこくまとわりついてきたのは、お前の方だろ」 ――千利と出会ったのは大学だった。 彼は学内でも有名な存在だった。 名門大学を出て、さらに海外でMBAを取得し、家は百年続く資産運用会社を営んでいる。 一方の私は、普通の中流家庭の出身。 父は高校の歴史教師、母は小学校の音楽教師。 奨学金を頼りに公立大学へ進学した。 あるときの学内コンペで、偶然にも彼と同じチームになった。 リーダーは当然のように千利。 私はただ、その横で黙々と作業する目立たない存在だった。 けれど、彼が課題を分析し、計画を立てていく姿を何度も見ているうちに、気づけば心を奪われていた。 それから私は、彼を追いかけ始めた。 キャンパスで偶然を装って何度も顔を合わせ、少しでも印象に残ろうとした。 どれだけ冷たくあしらわれても、やめようとは思わなかった。 大学四年間、彼に想いを寄せる女子は少なくなかった。 けれど、あの人を寄せつけない態度に、皆途中で諦めていった。 ――最後まで残ったのは、私だけだった。 友達の松本望(まつもと のぞみ)は、よく冗談めかして言っていた。 「その根気があれば何だってできるのに、どうして一人の男にそこまで執着するの?」 あの頃の私は、無邪気に思っていた。 何でもできるなら、千利だってきっと振り向かせられる、と。 たぶん、運が良かったのだと思う。 卒業前、いつものように「偶然」を装って彼と出会った。 もう期待はしていなかった。 ただ、忘れられないように存在を残したかっただけ。 けれど、立ち去ろうとしたとき、千利が私を呼び止めた。 「付き合おうか?」 そう言われたとき、頭が真っ白になった。 私が彼を好きだということも、彼はすべて分かっていたのだ。 22歳の私にとって、それはまるで奇跡のような出来事だった。 彼に手を引かれたときでさえ、どこか現実味がなかった。 本当に彼と付き合っているなんて、信じられなかった。 校内を並んで歩き、周囲の人たちが信じられないという目で私たちを見るのを感じて、ようやく実感が湧いた。 ――私は、千利の恋人になったのだと。 けれど付き合い始めても、関係は大きくは変わらなかった。 彼は相変わらず淡々としていて、ただ一緒に過ごす時間が少し増え、多少のスキンシップがあるだけ。 優しい気遣いや、細やかな思いやり――そういったものは、ほとんどなかった。 それでも私は、それが彼の性格なのだと思い込み、いつか変わってくれると信じていた。 だが、結婚後に凪希が帰国して、ようやく気づいた。 ――彼にも、優しくて思いやりのある一面はあるのだと。 凪希が風邪をひけば、彼は自ら車を出して病院へ連れて行き、 「疲れた」と一言言えば、すぐに彼女のマンションの下に現れ、食事を差し入れる。 そんなこと、付き合って2年、結婚して5年――私に対してしてくれた回数は、片手で数えられるほどしかなかった。 そして今回のフェスの一件で、私はようやく目が覚めた。 ――千利は、私を愛していない。 この関係は、終わらせるべきだ。 そのとき、誰かが小さく呟いた。 「どうせもうサインしてあるんだし、拗ねてるだけでも、千利がサインすれば終わりだろ」 その一言で、現実に引き戻される。 私は千利に向かって、口元だけで笑みを作った。 目はまったく笑っていない。 「その通りよ。あなたがサインすれば、すべて丸く収まる」 一拍置いて、私は彼の後ろにいる連中を見渡した。 凪希、朋輝、知里―― そして、これまで一度もまともに私を見ようとしなかったお金持ちの友人たち。 「サインしたら、私のアシスタントに渡して」 わざと間を置き、視線を再び千利に戻す。 「そっちの両親に無理やり結ばされた婚前契約、まだ有効なんでしょう?財産なんて一円も要らないから、分割で引き延ばそうなんて考えないで」 その瞬間、千利の表情に初めて亀裂が走った。 私はそれ以上、彼を見なかった。 重い木の扉を押し開け、部屋を出る。 甘ったるい香水の匂いも、ひそひそとした嘲笑も、そして私を5年間も地面に押しつけていたあの男も――すべてを背後に閉じ込めた。 街の夜風が、初秋の冷たさを帯びて頬を打つ。 ――5年ぶりに、こんなにも息がしやすいと感じた。