籠の鳥は、あの海を越えられない

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籠の鳥は、あの海を越えられない

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瀬崎湊人(せざき みなと)と結婚してからの五年間、私――瀬崎結月(せざき ゆづき)は自分の誕生日を祝ったことがない。 なぜなら私の誕生日...

Chương (1)

第1章

瀬崎湊人(せざき みなと)と結婚してからの五年間、私――瀬崎結月(せざき ゆづき)は自分の誕生日を祝ったことがない。 なぜなら私の誕生日は、彼の幼馴染である雨宮莉愛(あめみや りあ)の母親の命日だから。毎年この日になると、湊人は必ず彼女に付き添って墓参りへと向かう。 それどころか、湊人は私が誕生日を祝うことを許さず、笑顔を見せることすら禁じていた。 「少しは莉愛の気持ちを察してやってくれ。母親の命日で、あいつは今とても傷つきやすい状態なんだ。落ち着いたら、その時にお祝いしよう」 友人たちが気遣わしげに「お祝いしようか?」と聞いてくれるたび、私は無理に笑って「また今度にしよう」とやり過ごすしかなかった。 来年こそは、今度こそは――そんな彼の口約束が果たされることは、一度もなかった。 そして迎えた今年も、湊人は喪服に身を包み、慰霊式へ向かう準備をしていた。 その矢先、私の家族がわざわざ注文してくれたバースデーケーキを目にするなり、彼はそれを床へ無惨に叩きつけたのだ。 「ケーキなんていつでも食えるだろうが。なんでわざわざ今日なんだよ、そんなに食いたいのか?」 ぐちゃぐちゃに散らばったケーキを残して、家を出ていく湊人。 私は何かに突き動かされるように、ふらふらと彼の後を追った。 辿り着いた墓地で目にしたのは、自らを「莉愛の夫」であり「亡き義母の娘婿」だと周囲に名乗る、私の夫の姿。 非の打ち所のない献身的な男を演じる彼を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れ、どっと深い疲労感が押し寄せた。 私は静かに歩み寄り、左手の薬指から結婚指輪を外した。 「湊人。私たち、もう離婚しましょう」 第1話 瀬崎湊人(せざき みなと)と結婚してからの五年間、私――瀬崎結月(せざき ゆづき)は自分の誕生日を祝ったことがない。 なぜなら私の誕生日は、彼の幼馴染である雨宮莉愛(あめみや りあ)の母親の命日だから。毎年この日になると、湊人は必ず彼女に付き添って墓参りへと向かう。 それどころか、湊人は私が誕生日を祝うことを許さず、笑顔を見せることすら禁じていた。 「少しは莉愛の気持ちを察してやってくれ。母親の命日で、あいつは今とても傷つきやすい状態なんだ。落ち着いたら、その時にお祝いしよう」 友人たちが気遣わしげに「お祝いしようか?」と聞いてくれるたび、私は無理に笑って「また今度にしよう」とやり過ごすしかなかった。 来年こそは、今度こそは――そんな彼の口約束が果たされることは、一度もなかった。 そして迎えた今年も、湊人は喪服に身を包み、慰霊式へ向かう準備をしていた。 その矢先、私の家族がわざわざ注文してくれたバースデーケーキを目にするなり、彼はそれを床へ無惨に叩きつけたのだ。 「ケーキなんていつでも食えるだろうが。なんでわざわざ今日なんだよ、そんなに食いたいのか?」 ぐちゃぐちゃに散らばったケーキを残して、家を出ていく湊人。 私は何かに突き動かされるように、ふらふらと彼の後を追った。 辿り着いた墓地で目にしたのは、自らを「莉愛の夫」であり「亡き義母の娘婿」だと周囲に名乗る、私の夫の姿。 非の打ち所のない献身的な男を演じる彼を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れ、どっと深い疲労感が押し寄せた。 私は静かに歩み寄り、左手の薬指から結婚指輪を外した。 「湊人。私たち、もう離婚しましょう」 彼は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにその瞳に苛立ちの色を浮かべた。 「たかが誕生日くらいで、わざわざ墓地まで来て喚く気か?ここは遊び場じゃないんだぞ!」 「だから、離婚しましょうと言っているの」 私は一言一句、噛み含めるように繰り返した。 私の目が本気だと気づいたのか、湊人の顔からすっと表情が消え去った。 周囲の参列者たちは、息を殺したまま身動き一つとれないでいる。 次の瞬間、湊人は莉愛を庇うように自分の背後へ隠すと、私の手から結婚指輪を乱暴に叩き落とした。 チャリン、と冷たい音が足元で響く。彼はすべて合点がいったとばかりに鼻で笑った。 「わざわざ指輪を見せつけて、妻の座でもアピールしに来たのか? 俺があいつの夫だと名乗ったのは、亡くなった理恵おばさんを安心させるための方便だろうが。そんなことにまで嫉妬して、頭がおかしくなったのか?」 『死者の弔いが最優先だ』――それが彼の絶対的なルールだった。 毎年、私の誕生日が来るたび、大好きなヒマワリの代わりに、数え切れないほどの白菊が飾られる。 バースデーケーキの代わりに、祭壇に供えるための果物が並べられる。 「おめでとう」の一言もなければ、ささやかな笑顔すら向けられない。 実家の母からお祝いの電話がかかってくる時でさえ、私はコソコソとトイレに隠れ、声を潜めて出なければならなかった。 まるで、自分が生まれた日を祝うことが、見下げ果てた悪行であるかのように。 けれど彼は、一度だって思い至りもしないのだ。私には、彼の幼馴染の母親の喪に服す義務など、これっぽっちもないということに。 乾いた唇を開いたが、もう何も言葉は出てこなかった。あまりの理不尽さに、声すら失っていた。 私が押し黙ったのを「非を認めた」と都合よく勘違いしたらしい。湊人はふっと声のトーンを和らげると、一輪の菊の花をこちらへ差し出してきた。 「自分が間違ってたって分かればそれでいい。誕生日は、また時間が空いた時にでも埋め合わせしてやるから。ほら、せっかく来たんだ、お前も手を合わせていけ。理恵おばさんには生前、お前もよくしてもらっただろ?」 私たちの周りの人間なら誰でも知っていることだ。莉愛の母親・理恵が、私を湊人のそばから引き離そうと、ずっと私のことを目の敵にして憎んでいたことくらい。 そして湊人自身が、誰よりもよく知っているはずなのだ。理恵が「あなたのためを思って」という親切な仮面を被り、毒を盛った手料理を口にさせて、私のお腹の子供を殺したという事実を。 あれは、まだ形にもなっていない双子の命だった。 私はふっと冷たい笑みをこぼし、差し出された菊の花を無造作に地面へと払い落とした。 周囲の参列者たちから、ヒッと息を呑む音が漏れる。 地面に散らばった花を見つめる湊人の瞳から、ついに理性の色が完全に消え失せた。 「結月、いい加減にしろ!」 彼が苛立ち任せに足を振り上げた瞬間、蹴り飛ばされた香炉から赤々と燃える線香の束が飛び出し、私の脚に直撃した。 ジューッという嫌な音と共に皮膚が焼け焦げ、瞬く間に無惨な水ぶくれが浮かび上がる。 「っ……!」 あまりの激痛に私はくの字にうずくまり、額からは玉のような冷や汗が吹き出した。 湊人は一瞬だけ息を呑んだようだったが、その瞳に宿る私への嫌悪感は少しも揺らいでいなかった。 「莉愛は会社に入ったばかりで、まだ何も分からない状態だ。お前が教育係をやれ。もし断るなら、お前が会社から出ていけ」 彼の冷酷な視線が、私が何よりも大切にしてきた社員証へと向けられる。それは明白な脅迫だった。 私はギュッと唇を噛み締め、何でもないことのように装って答えた。 「ええ、いいわよ」 私のあっさりとした返事に、湊人の目に微かな驚きが走る。だがすぐに莉愛から呼ばれ、彼は再び慰霊の場へと戻っていった。 寄り添うように並ぶ二人の親密な後ろ姿を見つめる。……ああ、もうこれ以上、何を期待しろと言うのだろう。 私は一人で墓地を後にし、ずっとかけていなかった懐かしい番号へと電話をかけた。 「……離婚協議書を一つ、用意してちょうだい」 第2話 予想通り、湊人はその夜、家に帰ってこなかった。 普段はSNSにプライベートなことなど絶対に投稿しない彼が、莉愛の母親を悼む長文のメッセージを三つも立て続けにタイムラインへ投稿していた。 そのコメント欄には、莉愛からのこれ見よがしな返信がぶら下がっている。 【湊人くん、一晩中そばにいて話を聞いてくれてありがとう。ママも、天国できっとすごく安心してるよ】 私は一人、自分で買った小さなケーキにロウソクを立て、静かに願い事を呟いた。 この家で暮らした五年間で、これが最初で、そして最後の誕生日祝いだ。 翌朝、私は一階から聞こえてくるガチャガチャという騒がしい音で目を覚ました。 階段を下りてリビングに向かうと、そこには目を疑うような惨状が広がっていた。 ダイニングテーブルには食べかけの大きなケーキが放置され、あちこちにベトベトの生クリームがこびりついている。床には華やかなバルーンや飾り付けのガーランドが散乱していた。 無惨に崩れたケーキのプレートに『莉愛、お誕生日おめでとう』と書かれているのを見て、私はすべてを悟った。 ――そうか、今日は彼女の誕生日だったんだ。 思えばこの五年間、彼女の誕生日だけでなく、二人が出会った記念日、仲直りした記念日、喧嘩した記念日に至るまで…… 湊人はいつだって自分の仕事を放り出してでも、彼女のために手の込んだパーティーを用意し続けてきたのだ。 書斎から出てきた湊人は、呆然と立ち尽くす私と視線がぶつかっても、申し訳なさそうな素振りさえ見せなかった。 「昨日、お前が墓地で騒ぎを起こしたせいで莉愛が酷く落ち込んでね。埋め合わせに、家で誕生日を祝ってやったんだ」 私が黙ったままなのを見て、彼は急に言い方を変えた。 「……もし嫌なら、次からは俺も……」 「別に、気にしてないわ」 遮るような私の拒絶に、湊人の目に驚きが走る。だが、それもすぐに冷ややかな落ち着きを取り戻した。 「強がらなくていい。あいつが家でパーティーをするのを、お前はあんなに嫌がっていただろう」 かつての莉愛は、何かと理由をつけては家に入り込み、あろうことか私たちの寝室で眠ることさえあった。 そのたびに私は正気を失うほど激昂し、なりふり構わず彼女を追い出したものだ。 けれど、今はもう違う。 彼の心すらどうでもよくなった私にとって、莉愛がこの家に上がり込もうが、もはや何の痛みも感じなかった。 その時、スマートフォンの通知音が鳴り響き、社内チャットがにわかに騒がしくなった。 【莉愛さん、すごすぎます!入社したばかりでこんなに完成度の高い企画書を出せるなんて!】 【さすが瀬崎社長の幼馴染ですね。ずっと近くにいたから、自然とセンスが磨かれたのかな?】 【クライアントからも絶賛されてるみたいですよ! 莉愛さん、お祝いに奢ってください!】 …… 送られてきた「企画書」を開いた瞬間、私は息が止まるような衝撃を受けた。 一文字一文字の文言から、散りばめられた細かなアイデアに至るまで、すべて私が心血を注いで書き上げたものだった。 私の手元を覗き込んだ湊人は、事もなきと言い放った。 「莉愛は入社したてでプレッシャーも大きいんだ。お前の企画をあいつの名前で出しておいたから、お前はまた新しいのを考えればいい」 私は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見据えた。 この企画を完成させるために、どれほどの夜を会社で明かしただろうか。 家に戻ってからも、クライアントの細かな要望に応えるために何度も修正を重ね、目は充血し、体はボロボロだった。 そのすべてを、彼は一番近くで見ていたはずなのに。 あまりの虚脱感に、心の一部が音を立てて崩れ落ちていく。 「それともう一つ」 湊人の低い声が、私を現実に引き戻した。 「莉愛が、お前の家の墓地を気に入ってね。占い師に言わせれば、あそこの風水は莉愛の母親に最適らしいんだ。昨日の無礼の詫びとして、あそこを彼女に譲ってやってくれ」 私は耳を疑い、目の前の男を凝視した。 「正気なの?あそこには父が眠っているのよ。その隣は、将来母が入るために残してある場所なの!」 それは父が亡くなる間際、母を自分の隣に葬ってくれと何度も私に託した遺言だった。 生前、父は母と一緒にいくつもの霊園を回り、ようやく二人で納得して決めた、終の棲家なのだ。 湊人の顔が、一瞬にして不機嫌そうに歪んだ。 「たかが墓地だろう?昨日お前が莉愛を泣かせたんだ。それくらいの譲歩、しても罰は当たらないだろう」 この瞬間に確信した。この男には、何を言っても通じない。 「絶対に嫌。それだけは譲れない」 奥歯を噛み締め、震える声で拒絶した。 湊人は私の反応を予見していたかのように、数枚の請求書をリビングのテーブルに放り出した。 「お前の母親が今も生きていられるのは、俺が出している医療費のおかげだということを忘れるな。母親の命と墓地、どっちが大切か天秤にかけるまでもないだろう?」 頭の中で、何かが爆発したような衝撃が走った。 病床で日ごとに痩せ細っていく母の姿が脳裏をよぎり、胸を強く締め付けられる。 反論の言葉は喉の奥でつかえ、私はそれを無理やり飲み込んだ。 「……好きにすればいいわ。明日、父の遺骨は別の場所へ移すから」 合意を取り付けると、湊人の表情は一転して柔和なものになった。 そこでようやく、彼は階段の脇に置いてあったスーツケースに目を留めた。 「朝から何だ、その荷物は。どこかへ行くのか?」 説明する気力も失せていた私は、適当な嘘を吐いた。 「部署の出張が入ったの」 背を向けて階段を上る私を、湊人は眉をひそめながら、じっと見送っていた。 第3話 翌日、湊人は莉愛を連れ、待っていられないと言わんばかりに墓地へとやってきた。改葬の手続きを進めるためだ。 私が現場に到着すると、野次馬たちの視線が一斉に突き刺さった。 「自分の誕生日を祝わせてもらえないだけじゃなくて、死んだ父親まで安らかに眠らせてもらえないなんて。あんなに惨めな奥様、この界隈じゃ他にいないわね」 「莉愛さんと湊人さんは会社でもすごくお熱いらしいわよ。彼は彼女の願いなら何でも叶えちゃうんだから。お似合いなのはどう見たってあっちよね」 「この様子じゃ、奥様の座が入れ替わるのも時間の問題ね……」 …… ひそひそと交わされる心ない囁きを、私は冷めた心地で聞き流していた。 私は思わず両手を強く握り締め、父の墓石が掘り起こされていくのを、ただ無力に見つめるしかなかった。 隣に立つ莉愛は、勝者のような優越感を滲ませた目で私を見下ろすと、親しげに私の手を取ってきた。 「結月さん、ごめんなさいね。私、何気なく言っただけだったのに、湊人くんが本気にしちゃって。……怒ってないですよね?」 彼女は表向きは天使のような笑顔を作りながら、私の手の甲に鋭い爪をぐっと食い込ませてきた。 「っ……!」 私は痛みに顔をしかめてその手を振り払い、作業員たちの動きに食い入るように目を向けた。万が一のことがあってはならないと、心臓が早鐘を打つ。 そして、冷たい土の中から父の骨壺が姿を現した瞬間、これまで必死に押し殺してきた屈辱と悲哀が、一気に胸の奥から込み上げてきた。 私は居ても立っても居られず、骨壺を受け取ろうと駆け寄った。 だが不意に、莉愛が「私も手伝います!」と前に飛び出してきたのだ。 彼女の指先が骨壺に触れた直後、その手はあっさりと不自然に離された。 「あっ……!ご、ごめんなさい結月さん、私、わざとじゃないんです、ただ手伝おうと……」 ガシャンッ――! ひび割れるような嫌な音と共に、骨壺は無惨にも地面に叩きつけられた。そして、あろうことか父の遺骨が、無情にも泥土と混ざり合って散らばってしまったのだ。 「ああ……っ!」 全身の血が逆流するような怒りと絶望で、激しく震えが止まらない。視界が真っ赤に染まった。 理性を失った私が気付いた時には、既に右手を高く振り上げ、彼女の頬めがけて平手打ちを放とうとしていた。 しかし次の瞬間、パーンッという乾いた音が響いたのは、私の頬だった。 湊人が反射的に莉愛を庇い、あろうことか私に力任せのビンタを食らわせたのだ。 「神聖な墓地で手を上げるなんて、お前は正気か!!」 彼が獣のような怒声で私を怒鳴りつける。 口の中に広がる鉄の味を感じながら、私ははらわたが煮えくり返るような激しい怒りに、もう限界を迎えそうだった。 すると突然、莉愛が怯え切った様子で湊人の足元に崩れ落ちた。 「湊人くん……私、本当にわざとじゃないの……っ。それに……ずっと黙ってたんだけど……私が母のお墓をここに移したかったのはね、結月さんが人を使って、母のお墓にペンキをかけたり、汚物を撒き散らしたりしたから……もう、どうしても耐えられなくて……っ」 そのたった一言で、湊人が私を見る眼差しは、冷たく決定的な失望の色に染まりきった。 「結月……お前がそこまで卑劣な真似をする女だったとはな!」 私は足元の力が抜けそうになるのを必死で壁に寄りかかってこらえ、掠れた低い声で呻いた。 「……そんなに彼女が可愛くて、私が憎いなら……さっさと離婚しなさいよ」 私は震える手で、前もって用意しておいた離婚協議書を取り出し、彼に突きつけた。 表題に書かれた文字を見た瞬間、湊人は明らかに虚を突かれた表情を見せた。だが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。 「……いいだろう、結月!そこまで言うなら望み通りにしてやる!」 彼は吐き捨てるように言い放つ。 「離婚でも何でもくれてやる!だがな、三日もすればお前は俺のところに這いつくばって、復縁してくれと泣きついてくるはずだ。……せいぜい覚えておけ!」 湊人はそう吐き捨てると、乱暴な手つきで離婚協議書にサインを書き殴った。そして、怯えたふりをして涙ぐむ莉愛の肩を抱き、足早にこの場から去っていった。 私は力なく地面にへたり込み、泥にまみれた父の遺骨を震える両手でそっと掬い集めた。魂が抜け落ちたように、ただ底なしの虚無感だけが体を支配していた。 参列者たちの蔑むような視線を浴びながら、ふらつく足で立ち上がり帰ろうとしたその時。不意に私のスマートフォンがけたたましく鳴った。 病院からだった。 「結月さん、お母様の容態が急変しました!至急、手術の同意と費用――数百万円が必要なのですが、ご登録いただいている口座が凍結されていて……!」 第4話 私は耳を疑った。湊人はこれまで、母の医療費の口座には常に十分な額を振り込んでくれていたはずだ。それが凍結されるなどあり得ない。 震える指で会社の経理担当に電話をかけると、電話口の相手は歯切れ悪く口ごもった。 「あの、結月様……実は社長からの指示で、結月様名義のカード類はすべて莉愛さんが管理することになりまして。結月様が反省されれば、元に戻すとのことですが……」 スマートフォンが、力のない指先からすり抜けて地面に落ちた。 事情を問い詰める暇すらない。私は一目散に会社へと走り、莉愛のデスクへと駆け込んだ。恐怖と焦燥で、全身がガタガタと粟立って震えていた。 「私のカードを返して!母の命がかかっているの!!」 叫び声を聞きつけたのか、湊人が社長室から飛び出してくると、私を乱暴に突き飛ばした。 「莉愛が怯えているだろうが!」 床に倒れ込んだ私は、掠れきった声で必死に訴えた。 「母さんが……危篤なのよ。今すぐお金が必要で……!」 「結月、いい加減にしろ!!」 湊人の怒声がフロアに響き渡った。 「金を引き出すために、母親の命までダシにして嘘をつく気か?病院で手厚い看護を受けているのに、急に危篤になるわけがないだろう!」 彼は冷笑を浮かべ、すべてを見透かしたような顔で言い放った。 「俺が気付いていないとでも思ったか?どうせ金を引き出して、また誰かを雇って莉愛に嫌がらせをするつもりだろう。これ以上、お前の好き勝手にはさせないからな!」 視線が交差した瞬間、私は底知れぬ絶望の淵に突き落とされた。 かつて、私のために何でもしてくれたあの深い愛情に満ちた男と、涙と鼻水にまみれて懇願する私をゴミのように見下ろす目の前の男が、どうしても同じ人物だとは思えなかった。 湊人は冷酷に警備員を呼びつけ、私を会社から引きずり出させた。 冷たいアスファルトの上に放り出された私は、すがるような思いで知人たちに借金の電話をかけまくった。そしてようやく、湊人の底知れぬ残酷さを思い知ることになる。 「結月ちゃん、ごめんね。うちも今ちょっと余裕がなくて。他を当たってみてくれる?」 「あー……マイホームの頭金で手一杯なんだよ、悪いな」 「……結月さん、はっきり言いますよ。湊人さんから『あいつには絶対に金を貸すな』って、界隈の全員に釘を刺されてるんです。これ以上電話してきても無駄ですよ」 …… 私はスマートフォンを握りしめ、心臓が千切れるほどの痛みに耐えていた。 病院へ駆けつけると、病床の母はすでに血の気を失い、青白く横たわっていた。私は震える手で、手首にはめていた金のブレスレットを外した。 「お願いです、母を助けてください!この純金のブレスレットを換金すれば、手術費の足しにはなるはずですから……!」 しかし、すがりつくように見出した一縷の望みは、医師の残酷な一言によってあっけなく打ち砕かれた。 「結月さん……これはどう見ても、鉄に金メッキを施しただけの安物です。どなたに貰ったのかは存じませんが、騙されていますよ」 手から滑り落ちたブレスレットが床に当たって立てた、カチャリという軽く安っぽい音が、私の心に重く、冷たく突き刺さった。 それは去年の誕生日に、私が何度もねだって、ようやく湊人からプレゼントされたものだった。私はそれを宝物のように大切に身につけ、これさえあれば、彼の心の中で少しは莉愛に勝てるのではないかと、本気で信じていたのだ。愚かにも。 剥がれかけた金メッキの上に、ポツリと涙が落ちる。 それはまるで、私のこの五年間という無価値な愛を嘲笑っているかのようだった。 そして――母が静かに息を引き取った、その直後のことだった。 私のスマートフォンに、湊人から1千万円の送金通知が届いたのは。 【さっきは言い過ぎた。お前が衝動的になって莉愛を傷つけるんじゃないかと思って、ついカッとなっただけだ】 【金が必要なら、次からは素直に言え。埋め合わせに、家でお前のための誕生日パーティーを準備してあるから】 私は何も返信しなかった。 ただ、手元にあったロウソクに火を灯すと、静かに、そして躊躇いなく病室のシーツへとその炎を移していった。 湊人。あなたのその薄っぺらい、メッキのような偽りの愛なんかに、もう微塵もすがる気はないわ―― 場面は変わり、飾り付けられた自宅のリビング。 誕生日パーティーの準備を整えた湊人は、一向に返信の来ないトーク画面を苛立たしげに睨みつけ、傍らに控えるアシスタントに命じた。 「あいつ、今まで何をしてるんだ?探しに行け」 ピコン、とアシスタントのスマートフォンが鳴る。画面を見たアシスタントの顔色が、一瞬にして青ざめた。 「しゃ、社長!ネットに上がっているこの動画を見てください!結月様のお母様の病室が……火事になっているようです!」