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入籍の日、婚約者は別の女の夫になった
荷見寧音(はすみねね)には、金になるものを見抜く慧眼があると言われている。 彼女の手にかかれば、紙くず同然の株も一夜にして天井知らずに...
Chương (1)
第1章
荷見寧音(はすみねね)には、金になるものを見抜く慧眼があると言われている。
彼女の手にかかれば、紙くず同然の株も一夜にして天井知らずに跳ね上がる。そんな彼女に言い寄る御曹司は引きも切らなかったが、彼女はあえて、何も持たない澤村辰生(さわむらたつお)を選んだ。
十年の月日が流れ、かつて何も持たなかった青年は今や数千億円の資産を握り、倒産寸前だった澤村グループを多国籍財閥へと成長させた。
誰もが寧音の先見の明を称賛し、近々辰生と結婚する彼女を羨んでいた。
だが、寧音が胸を躍らせて市役所へ向かったその日、日が暮れるまで待っても辰生は現れなかった。代わりに目に飛び込んできたのは、彼のアシスタントである春日陽葵(かすがひまり)がインスタに投稿した挑発的な一枚だった。
【親にお見合いを押しつけられそうになってた私を、社長が窮地から救ってくれて、そのまま入籍までしてくれました〜これからは上司としてだけじゃなく、旦那としてもよろしくお願いしま〜す!】
陽葵と辰生が、記入済みの婚姻届を手にして微笑むツーショット写真。それがひどく目に刺さった。
その瞬間、誰もが寧音が嫉妬で狂うのを面白半分に待ち構えていた。
しかし、寧音は慌てることなく「いいね」を押し、コメントを残した。
【入籍おめでとう。結婚式はいつにするつもり?二人のために、たっぷり20万円のご祝儀を包ませてもらうわ】
次の瞬間、ずっと音信不通だった辰生から突然電話がかかってきた。その声は酷く冷え切っていた。
「俺が陽葵と入籍したのは事情があってのことだ。彼女の親が突然電話してきて、仕事を辞めて見合いしろと無理を言ってきたんだよ。
陽葵みたいな優秀な人材を失いたくなかったから、親を黙らせるために入籍してやっただけだ。本当の結婚じゃないってのに、なんでお前はそういちいち心が狭いんだ?
一分だけ待ってやる。今すぐあのコメントを消して、陽葵に謝れ。親の問題さえ片付けば、すぐにあいつとは離婚して、お前と入籍し直してやるから」
とうに心変わりしている辰生の言葉に、寧音はただせせら笑いを浮かべた。
「その必要はないわ。別れましょう」
第1話
荷見寧音(はすみ ねね)には、金になるものを見抜く慧眼があると言われている。
彼女の手にかかれば、紙くず同然の株も一夜にして天井知らずに跳ね上がる。そんな彼女に言い寄る御曹司は引きも切らなかったが、彼女はあえて、何も持たない澤村辰生(さわむら たつお)を選んだ。
十年の月日が流れ、かつて何も持たなかった青年は今や数千億円の資産を握り、倒産寸前だった澤村グループを多国籍財閥へと成長させた。
誰もが寧音の先見の明を称賛し、近々辰生と結婚する彼女を羨んでいた。
だが、寧音が胸を躍らせて市役所へ向かったその日、日が暮れるまで待っても辰生は現れなかった。
代わりに目に飛び込んできたのは、彼のアシスタントである春日陽葵(かすが ひまり)がインスタに投稿した挑発的な一枚だった。
【親にお見合いを押しつけられそうになってた私を、社長が窮地から救ってくれて、そのまま入籍までしてくれました〜これからは上司としてだけじゃなく、旦那としてもよろしくお願いしま〜す!】
陽葵と辰生が、記入済みの婚姻届を手にして微笑むツーショット写真。それがひどく目に刺さった。
その瞬間、誰もが寧音が嫉妬で狂うのを面白半分に待ち構えていた。
しかし、寧音は慌てることなく「いいね」を押し、コメントを残した。
【入籍おめでとう。結婚式はいつにするつもり?二人のために、たっぷり20万円のご祝儀を包ませてもらうわ】
次の瞬間、ずっと音信不通だった辰生から突然電話がかかってきた。その声は酷く冷え切っていた。
「俺が陽葵と入籍したのは事情があってのことだ。彼女の親が突然電話してきて、仕事を辞めて見合いしろと無理を言ってきたんだよ。
俺は陽葵みたいな優秀な人材を失いたくなかったから、親を黙らせるために入籍してやっただけだ。本当の結婚じゃないってのに、なんでお前はそういちいち心が狭いんだ?
一分だけ待ってやる。今すぐあのコメントを消して、陽葵に謝れ。親の問題さえ片付けば、すぐにあいつとは離婚して、お前と入籍し直してやるから」
とうに心変わりしている辰生の言葉に、寧音はただせせら笑いを浮かべた。
「その必要はないわ。別れましょう」
そう告げると、電話の向こうの辰生は一瞬言葉を失い、再び口を開いた時には明らかな怒気を孕んでいた。
「寧音、何度説明させれば気が済むんだ?陽葵とは形だけの入籍だと言っただろ。親からの催促をかわすための、ただの手続きだ。お前はそこまで根に持たなきゃいけないのか?
それに、後でお前と入籍すると約束したじゃないか。これ以上俺にどうしろって言うんだ?
拗ねるにも限度がある。別れるなんて言葉、軽々しく口にするもんじゃないぞ!」
寧音は何も言い返さず、携帯を握りしめたまま、がらんとした市役所の待合ロビーを見つめて自嘲気味に笑った。
この十年間、辰生と結婚することはずっと彼女の夢だった。眠りの中ですら、見るのは彼との幸せな結婚生活ばかりだった。
そのために、寧音はとっくに引き出物や招待状を準備し、ウェディングフォトを撮るスタジオ、二人の衣装、さらには結婚式を挙げる式場まで下見を済ませていた。
辰生さえ頷けば、彼女はいつでも結婚できる状態だった。
しかし、寧音が結婚の話を進めようとするたび、辰生は会社を言い訳にした。今は会社の成長にとって重要な時期だから、経営が安定するまで待ってくれ、と。
彼のために会社を支えようと、彼女は泥をかぶる仕事もきつい仕事も進んで引き受け、寝食を忘れて働き続けた。
だが、会社が軌道に乗った後も、辰生はまだ心の準備ができていないと言い、寧音にさらに待つよう求めた。
寧音はそうやって、十年間も待ち続けたのだ。
ほんの昨日のことだった。彼女が会社のために海外企業との買収案件を勝ち取ったと知った日、これまで結婚を先延ばしにし続けていた辰生がついに入籍を承諾し、それを彼女への「ご褒美」だと言い放った。
寧音は有頂天になった。長年の苦労がついに報われたのだと思い、興奮して一睡もできなかった。丸一日休みを取り、早起きして市役所へ向かい、彼を待った。
だが、日が暮れるまで待っても辰生は現れず、代わりに陽葵がインスタに投稿した、辰生との婚姻届を見せびらかす挑発的な写真を目にしたのだ。
寧音を避けるため、二人はわざわざ隣の県まで出向いて届けを出していた。
写真に写る真新しい婚姻届が、寧音の目を容赦なく刺し貫いた。
辰生は心の準備ができていなかったわけではない。ただ、自分と結婚したくなかっただけなのだ。
寧音は深く息を吸い込んだ。これまでのように理不尽を飲み込むことはせず、冷ややかな声で言い返した。
「そうね、ただの手続きよ。市役所に入ってから届けが済むまで、十分もかからない。でも、そんな簡単な手続きすら、十年も一緒にいた私とはしてくれなかった。なのに、陽葵とはあっさり入籍したのね。
それに、今回入籍しようと言い出したのはあなたよ。それで丸一日すっぽかしておいて、私が怒らないとでも?」
電話の向こうの辰生は、寧音がこれほど強硬な態度に出るとは予想していなかったのか、途端に言葉を詰まらせた。
だがすぐに、さらに高圧的な口調で捲し立てた。
「寧音、いい加減に理不尽なこと言うのはやめろ。今回は事情があると言っただろ?俺は陽葵が親に見合いを押しつけられて苦しむのを、黙って見ていられなかったんだよ。
陽葵を育てるのに会社がどれだけ金をかけたと思ってる。俺は会社のために優秀な人材を引き留めただけだ。それのどこが悪いんだ?」
大真面目に嘘をつく辰生の言葉を聞き、寧音は呆れるしかなかった。
会社には他にも親から結婚を急かされている社員が大勢いるのに、なぜ辰生は彼らのためには動かず、陽葵だけに心を痛めるのか。
そもそも、陽葵のどこが優秀な人材だというのか。仕事の能力はほぼゼロで、ExcelやWordの基本操作すらできず、成績は常に最下位。入社して半年、契約の一つも取れていない。
他の社員であれば、成績ゼロはおろか、少しでも利益を逃したり余計な口を挟んだりしただけで、辰生に頭ごなしに怒鳴りつけられ、とうの昔にクビになっているはずだ。
しかし相手が陽葵となると、辰生は言い訳ばかりする。陽葵は他の社員に花を持たせるために、わざと手を抜いているだけだ。会社が本当のピンチに陥れば、必ず救世主になってくれる、と。
だが寧音は知っている。辰生が毎回寧音のプロジェクトを横取りして陽葵の実績に回してやらなければ、陽葵の実力ではとっくに解雇されていたことを。
おそらく辰生自身も気づいていないのだろう。陽葵への特別扱いは、とうの昔に日常の隅々にまで染み込んでいる。それは本人すら自覚していないほどの溺愛であり、無意識の偏愛だった。
寧音は急にどっと疲れを感じ、静かに呟いた。
「あなたは間違っていないわ。私が間違っていたのよ」
その言葉を聞き、辰生の眉間の皺がようやく少し緩み、声にわずかな得意げな色が混じった。
「分かったなら、さっさとあのコメントを消して、陽葵に謝れ。お前がそんな態度じゃ、会社の連中が陽葵をどう見るか……」
しかし彼の言葉が終わる前に、寧音が遮った。
「勘違いしないで、私の最大の過ちは、もっと早くあなたと別れなかったことよ」
「寧音、本当に話が通じないな!どうしてもそうやって意地を張るつもりか?覚えてろよ!」
辰生は怒りに任せて電話を切った。
しばらくすると、寧音の携帯にSNSや共有アプリの連携解除の通知が次々と届き始めた。それだけでなく、寧音とのペアアイコンまで変更されていた。
寧音にとっては、もはや見慣れた光景だった。
辰生は怒るたびにいつもこうする。すべての連絡手段を絶って威圧し、頭を下げるよう仕向けるのだ。
しかし今回ばかりは、彼女も本当に疲れ果てていた。過去のように機嫌を取る気すら起きなかった。
寧音が画面を消そうとした時、陽葵が突然業務用のグループチャットで彼女をメンションした。
【寧音さん、私と辰生さんが入籍したのは事情があるんです。彼はただ親切心で、親の催促をかわすのを手伝ってくれただけなんですよ。今どき、辰生さんみたいに人情味のある社長って珍しいですから、誤解しないでくださいね!
そこまで気にされるって分かっていたら、私も軽はずみにインスタに上げたりしませんでした。全部私のせいです、今すぐ謝りますから……】
辰生がすぐにその下で返信した。
【陽葵は何も悪くない。謝る必要なんてない。本当に謝るべきなのは、陰で当てつけがましいことをして、悪意で人を疑うような奴の方だ!】
たちまち、グループチャットにいる社員たちも辰生の言外の意味を察し、次々と陽葵に加勢し始めた。
【その通りですよ。陽葵さんが悪いんじゃなくて、荷見さんの心が狭いんです!若くて綺麗で社長に目をかけられてるあなたに嫉妬して、悪意のある噂を流してるだけですよ!】
【社長はこんなに優しいのに、恋人のはずの荷見さんは冷たくて、思いやりのかけらもない。社長にすっぽかされて当然ですよ!社長、よくやりました。あの人の鼻っ柱、少しへし折ってやった方がいいんです】
これらの悪意に満ちた返信を見ても、寧音の表情は微動だにしなかった。
陽葵が入社し、辰生が露骨にかばい始めてからというもの、風見鶏の同僚たちは辰生と陽葵に媚び、陰で寧音の悪口を叩くようになっていた。彼女はとうの昔に慣れきって麻痺しており、この程度の中傷で傷つくことはもうなかった。
寧音はこれ以上見る気になれず、携帯の画面を消した。
市役所の職員が、同情に満ちた顔で声をかけてきた。
「この方、受付終了になりますが……お連れ様はいらっしゃらないのでしょうか?また明日にされますか?」
寧音は首を横に振り、伏し目がちに答えた。
「あの人はもう別の人と届けを出したので、来ません。明日も、もう来ることはありません」
言葉を終え、寧音は婚姻届を見下ろした。ひどく皮肉な気分だった。
誰よりも早く来たはずなのに、一番最後まで残ることになった。
寧音は婚姻届を細かく引き裂き、ゴミ箱へと放り投げた。
来ることのない人を待つ結婚式など、もう待たない。応えてもらえない想いなど、もう要らなかった。
婚姻届を捨てた後、寧音は大股で市役所の正面玄関へと向かった。
しかし正面玄関に着いた途端、先ほど彼女をブロックしたはずの辰生から突然電話がかかってきた。
第2話
寧音は電話を切ろうとしたが、長年の癖でつい応答ボタンを押してしまった。
繋がった瞬間、電話の向こうから辰生の傲慢な声が響いた。
「寧音、自分の非を認めるか?
今ならまだ、俺に許してもらうチャンスを与えてやろう。陽葵は入籍の手続きで一日中あちこち走り回って、すっかり冷え切ってしまった。しっかり休ませてやらないとな。だから、今夜こいつが行くはずだった接待には、お前が代わりに行け。
ちゃんとやれば、さっきの態度は水に流してやる……」
まるで使用人に命じるような辰生の物言いを聞いて、寧音は思わず冷笑を漏らした。
辰生は忘れているようだ。彼女も市役所で朝から晩まで彼を待ち続け、一日中冷たい風に晒されていたことを。
かつての彼は違った。彼女が冷風に吹かれて少しくしゃみをしただけで、心底心配そうな顔で彼の上着を羽織らせてくれた。家に帰れば生姜湯を作り、風邪薬を飲ませて、何よりも体を大切に扱ってくれていた。
しかし今の辰生は、彼女を顎で使い、まるで便利な道具のように扱う。こちらがどう感じるかなど、もはや眼中にないらしい。
それだけではない。辰生は、彼女が重度のアルコールアレルギーで酒が一切飲めないことすら忘れているようだった。
辰生の起業を支えていた最初の数年間は、頭を下げて接待を重ね、顧客に愛想を振りまいて契約を取らなければならない時期だった。
しかし当時の辰生は体を気遣い、彼女には絶対に酒を飲ませないようにしてくれた。どうしても避けられない時は自ら盾となってかばい、代わりにグラスを空けてくれた。
彼自身が泥酔して帰宅し、トイレで吐き戻している時でさえ、こちらの心配をしてくれていた。「俺のことは気にするな。お前の体に障るから早く寝ろ」と。
あれほど彼女だけを見つめ、彼女だけを想ってくれていた男が、すっかり変わってしまった。
我に返った寧音は、これ以上崩れかけた関係にしがみつくのをやめ、冷ややかに言い放った。
「辰生、私、アルコールアレルギーなのよ。行けるわけないじゃない。
それに、それは陽葵の接待であって、私が代わる義理はないわ」
寧音がきっぱり断るとは思っていなかったのだろう。電話の向こうの辰生は一瞬絶句し、次の瞬間には声を荒げた。
「俺がわざわざ許してやろうって言ってるのに、どこまで意地を張れば気が済むんだ!俺が給料を払って雇ってやってるんだぞ。二十四時間、俺の指示に従うのは当たり前だろうが!」
寧音はふっと冷たく微笑んだ。
「なら、辞めさせてもらうわ」
辰生の返事を待たずに電話を切ると、そのまま長らく連絡を取っていなかった相手に発信した。
「陣内(じんない)社長、以前のお話、お受けします」
相手は海外に本社を置くデザイン会社で、業界では世界的にも名の通った大手だった。
寧音と陣内社長との出会いは、一年前の共同プロジェクトがきっかけだった。
契約を結ぶ際、彼女は偶然にも陣内社長の会社が発表予定だった新製品に、デザイン性を優先するあまり構造的な欠陥が生じていることに気づいた。そのまま世に出せば故障が相次ぎ、ブランドに深刻なダメージを招く恐れがあった。
彼女の報告を受けた陣内社長は直ちに調査を命じ、発表前に生産ラインを修正した。結果、数十億円規模の損失を未然に防ぐことができた。
それ以来、陣内社長は寧音にとって、海外における数少ない味方となった。
寧音が辰生の会社で正当に評価されていないと知った陣内社長は、何度も夜行便で海を越えて会いに来てくれた。デザインディレクターのポストと数十億円相当のストックオプションを約束し、自社への移籍を熱心に勧めてくれていたのだ。
しかし辰生には幼い頃のトラウマからか、海外に出ることを極度に嫌う傾向があった。彼が国内に残ることを望んだから、寧音も何度となくその誘いを断り、輝かしいキャリアを捨てて彼と共にこの国に留まる道を選んだ。
あの頃は、真心には真心が返ってくると信じていた。けれど現実は、彼女を完膚なきまでに打ちのめした。
今になって思えば、辰生のために青春を捧げ、体を壊すまで働き、十年の苦楽を共にしてきたのに、妻という正式な立場すら与えてもらえなかった。
本当に、割に合わない。
これからは、自分のために生きよう。
やがて電話の向こうから陣内社長の弾んだ声が聞こえ、寧音の意識は現実に引き戻された。
「本当かい、寧音くん!?
こちらはいつでも大歓迎だよ。でも確か、結婚して国内に落ち着くと言っていなかったかな?どうして急に気が変わったんだい?」
寧音は苦笑いを浮かべた。
「いえ……別れただけです」
電話の向こうで陣内社長は少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかな声で言った。
「寧音くん、詳しい事情は分からないが、君の人柄は僕がよく知っている。
君を手放すなんて、あの人にとって大きな損失だよ」
通話の最中だったが、不意に寧音の携帯が震え、四百万円の着金通知が表示された。
「寧音くん、これは支度金だ。まずはこれで身の回りを整えてくれ。海外でいつでも待っているからね」
寧音は穏やかに微笑み、今後の仕事について軽く言葉を交わしてから電話を切った。
送金の受け取り操作をしようとしたその時、ふと辰生がインスタを更新したのが目に入った。
第3話
写真の中の辰生は、陽葵と一緒に新しくオープンした話題のステーキハウスにいた。テーブルにはステーキやパスタなど、洋食がずらりと並んでいる。
添えられた文章にはこう書かれていた。
【初めて会った日のときめき、今も変わらない】
写真の中で、陽葵にステーキを「あーん」されながら嬉しそうに頬張る辰生の顔を見て、寧音は思わず皮肉な笑みを浮かべた。
辰生は以前、最も嫌いな食べ物は洋食だと言っていた。
幼い頃、父親が外国の女にうつつを抜かし、彼が三歳の時に母親ごと捨てた。それが彼の心に深い傷を残したのだという。
彼は洋食を口にすることを嫌悪するだけでなく、海外のあらゆるものを拒絶していた。ビジネスにおいても国内の顧客としか取引をせず、見逃した海外からの大型案件は数十億円規模にものぼる。
初めてのデートの時、寧音はそんな事情など全く知らず、特別な日だからと一ヶ月分の給料をはたいて、都心で一番高級なフレンチレストランに彼を連れて行った。
しかし、一口数千円もするステーキがテーブルに運ばれてきた途端、辰生は顔色を変えてテーブルをひっくり返し、熱々のステーキを彼女の顔めがけて投げつけた。そして一言も発することなく、背を向けて店を出て行ったのだ。
彼女だけがその場に取り残され、店中の客から好奇の目と嘲笑を浴びた。
家に帰った後も、辰生は彼女を完全に無視し、一週間も口を利かない状態が続いた。最終的に彼女がリビングで半日も土下座をし、さらに彼に三百万円を渡して機嫌を取り、ようやくその一件は水に流されたのだ。
それなのに今、何年冷凍されていたか分からないような安物の成型肉ステーキを陽葵に食べさせてもらって、辰生は少しも嫌がる素振りを見せず、満面の笑みで幸せそうに味わっている。
愛というものは本当に万能薬らしい。過去の心の傷すら、こんなにも簡単に治してしまうのだから。
我に返った寧音は、辰生の投稿のコメント欄で、社員たちが狂ったように「末長くお幸せに」と連投しているのを目にした。
普段、陽葵が匂わせのような投稿をした時は、皆心の中では気づいていても、辰生が明確な態度を示さないため、厄介事を避けて見て見ぬふりをしていた。
しかし今回、辰生がこのような投稿をしたことは、事実上の結婚宣言に等しい。社員たちは次々と祝福のコメントを書き込み、彼への忠誠を競い合っていた。
そして、普段は厳格で堅物として知られる辰生も、今回ばかりは威厳をかなぐり捨て、一つ一つのコメントに口元を隠して笑う絵文字で返信していた。
寧音はふと可笑しくなった。
彼がこんなことをするのは、わざと自分を怒らせて、過去のように泣きつき、許しを乞わせるためだと分かっていた。
だが今回、彼女はただ黙ってアプリを閉じた。
お腹がぐうぐうと鳴り、寧音は自分が朝から一日中何も食べていなかったことにようやく気がついた。
彼女はすぐに親友にメッセージを送った。
【今から焼き鳥でも食べに行かない?】
親友からは即座に返信が来た。
【行く!】
……
焼き鳥の屋台にて。
親友は串焼きを頬張りながら、ふと何かを思い出したように腕時計をちらりと見て、おずおずと寧音に尋ねた。
「そういえば、あんたの彼氏って束縛キツくて、夜十時までに絶対帰ってこいってうるさかったじゃん。
もうすぐ十時を回るけど、帰らなくて平気なの?」
寧音はそこでようやく思い出した。付き合い始めてからというもの、辰生はいつも「俺は安心できない性分だから」と言い、自分が浮気するのが怖いと厳しいルールを押し付けてきたのだ。
夜十時までに帰宅しなければならないだけでなく、彼からのメッセージには即座に返信し、電話はどんな状況でもコール三回以内に出なければならなかった。
彼が抜き打ちでビデオ通話をかけてきた時、たとえ彼女が重要な顧客と商談中であっても、通話に出なかったり切ろうものなら、彼はその夜に家を空け、自分を徹底的に無視してやり過ごした。
辰生の生い立ちによる心の傷を考え、彼女はずっと黙ってそれに耐え続けてきた。
しかし、辰生自身は自分に極端に甘く、一日中メッセージを無視したり、朝帰りすることもしばしばだった。
ある時、彼女が彼の身を案じて一度ビデオ通話をかけただけで、電話の向こうの彼は激昂し、「お前は支配欲が強すぎる」「俺のプライバシーを尊重しろ」と何十通ものメッセージを送りつけ、一ヶ月間も彼女を無視し続けた。
辰生は自分の浮気が完璧に隠し通せていると思い込んでいた。
しかし彼女は、陽葵がわざと送りつけてくるツーショット写真から、彼の「プライバシー」が、陽葵と過ごすためのただの口実に過ぎないことをとうの昔に見抜いていた。
厳しい門限を守り、そのせいで何度も友人の誘いを断り、交友関係はどんどん狭まり、最後には自分の人生のすべてが辰生を中心に回るだけになっていた。まるで滑稽なピエロだ。
今思えば、自分がしてきたことは本当に馬鹿らしかった。
寧音は思わず、手元の焼き鳥を力強く噛みちぎった。
「心配しないで。あの人はもう私に干渉できないから。別れたの」
その言葉を聞いて、親友は一瞬呆然としたが、すぐに寧音の背中をばんばんと叩き、心から嬉しそうに言った。
「寧音、もっと早く別れるべきだったのよ!澤村のクズっぷり、あんたの優しさには全然釣り合ってなかったんだから!
よし、この話はおしまい!今日は私のおごりだから、思いっきり食べなきゃ帰さないわよ!」
寧音は笑って頷き、店主に焼き鳥の盛り合わせをさらに二皿追加注文し、親友と夜明けまで飲み明かしてから帰宅した。
ドアを開けた瞬間、クッションが顔めがけて飛んできた。
続いて、辰生の冷え切った声が暗いリビングに響いた。
「今、何時だと思ってる。よくもまあ帰ってこれたもんだな」
第4話
寧音は意外だった。辰生が家にいるとは思わなかったのだ。
いつもなら、陽葵と出かける時は「顧客との接待だ」と嘘をついて外泊し、翌日の午後まで帰ってこないのが常だったからだ。
呆然としている隙に、避けることもできず、クッションが顔面を直撃した。眼鏡のノーズパッドが強く食い込み、鼻から二筋の血が流れた。
辰生は一瞬ハッとし、目に罪悪感がよぎった。ティッシュを取り、彼女の血を拭おうと腰を浮かせる。
だが結局、彼は動きを止め、再びソファに座り直すと、冷たい声で問い詰めた。
「なんでこんな遅くに帰ってきた。門限はとっくに過ぎてるだろ。どこをほっつき歩いてたんだ」
だが寧音は答えず、黙って引き出しから消毒液と綿棒を取り出し、傷の手当てを始めた。
自分を完全に無視する寧音に、辰生は途端に苛立ち、矢継ぎ早に責め立てた。
「寧音、俺が聞いてるんだ。耳が聞こえなくなったか?
それとも、俺に隠れて後ろめたいことでもしてるから、言えないってか?」
寧音は冷笑し、彼の視線を正面から受け止めて問い返した。
「あなたこそ、どうして急に帰ってきたの?陽葵のお守りはもういいの?」
辰生は一瞬、表情を強張らせた。まさか寧音が自分の小細工を直接暴き、正面から問い詰めてくるとは思っていなかったのだろう。
すぐに眉をひそめ、強がって言い返した。
「何を馬鹿なこと言ってるんだ。今日は接待なんてなかったし、陽葵の手伝いが終わったから帰ってきただけだろ。
お前が勝手に疑ってる今までの外泊も、ただの出張と接待だ。勝手に妄想を膨らませるな。
お前が落ち込んでるだろうと思って、わざわざ帰ってきてやったんだぞ。今日すっぽかしたのは悪かった。だが、だからってメッセージを無視していい理由にはならないだろ。こんな時間までふらふら出歩きやがって、何かあったかと思って警察に通報するところだったんだ!
それなのにお前は帰ってくるなり嫌味ばかりだ。せっかくお前が腹を空かせてるだろうと思って、お前の好きな店のスープをわざわざ持ち帰ってきてやったってのに」
寧音はローテーブルの上で、とっくに冷めきったスープを一瞥し、込み上げる吐き気を覚えた。
もう何年になるだろう。彼は気づいていないのだ。毎回、陽葵のことで寧音に理不尽な妥協を迫る前、彼は決まってこの店のスープを買ってきて機嫌を取ろうとしていたことに。
そのせいで今では、この匂いを嗅ぐだけで、生理的に胃がひっくり返りそうになる。
「いらない。もう食べてきたから」
その言葉を聞いても、辰生は寧音の声に滲む冷たさに気づかなかった。彼女の機嫌が直ったと勘違いし、調子に乗ってこう切り出した。
「そういえば、さっき陽葵から連絡があってな。彼女の親がしつこくて、婚礼衣装を着た写真を見せないと納得しないらしい。だから明日、あいつと撮影しに行かなきゃならないんだ。
お前、そういうの詳しかったよな?仕上がりが早いスタジオ、センスのいいウェンディングドレスショップ、それぞれいくつか見繕ってくれないか?」
辰生の目は幸せな憧れに満ちてキラキラと輝いていた。それを見て、寧音の吐き気はさらに増した。
自分がこれまで結婚式の情報を熱心に集めていたのは、すべて「自分と辰生の」結婚式のためだったと、彼だって分かっているはずだ。
それなのに今、彼が陽葵のウェディングフォトのアドバイスを求めてきている。
寧音は即座に拒絶した。
「自分たちで調べて。私には何も言えることはないわ」
第5話
いつもなら機嫌取りに効果てきめんだったはずのスープが全く役に立たなかったのを見て、辰生は一瞬呆然とし、やがて完全に逆ギレした。
「寧音、俺は陽葵と芝居をしてるだけだと言ってるだろ!なんでそこまでムキになるんだ!」
寧音は冷ややかに言い放った。
「芝居なのか、それとも本気で情が湧いているのか、あなたが一番よく分かってるはずよ」
何しろ、先ほどウェディングフォトの話をした時の辰生の目は、隠しきれないほど輝いていた。彼が本気になっていることなど、誰の目にも明らかだ。
寧音に図星を突かれ、辰生も頭に血を上らせた。
寧音にここまではっきりとやり込められたのは、彼にとっても初めてのことだった。
「お前……お前ってやつは、本当に話にならないな!」
寧音はこれ以上口論する気にもなれず、背を向けて寝室へ向かおうとした。
しかし辰生はこちらより先に寝室へ割り込み、寧音の枕を乱暴に廊下へと放り投げた。
「俺と同じベッドで寝るな!今夜は一人で書斎にでも行って、自分の過ちをしっかり反省しろ!」
そう言い捨てると、彼は力任せに寝室のドアを閉め、わざわざ内側から二重に鍵をかけた。まるで泥棒でも警戒するかのような厳重さだった。
寧音には分かっていた。彼はこうやって自分を物理的に締め出すことで、こちらが折れて頭を下げるのを待っているのだ。
だが辰生は知らない。それが寧音にとって、まさに望むところだということを。
最初から彼と同じベッドで寝るつもりなど毛頭なかったし、早く荷物をまとめてこの家を出て行きたかったのだから。
どうせあの寝室には、三、四年着古してとうの昔に型崩れしたワンピースが数着あるだけで、持ち出す価値のある物など何一つなかった。
寧音は静かに首を振り、リビングの隅に置いてあったスーツケースを引いて書斎へと向かった。
部屋に入ってすぐ目に飛び込んできたのは、交際七周年の記念に自分が辰生に贈ったプレゼントだった。
それは何十個もの糸玉を使い、説明書通りに釘の間に数十万回も糸を掛け、一ヶ月間も徹夜を繰り返してようやく完成させた、手作りのストリングアートだった。
描かれているのは、二人が初めて遊園地へデートに行った時のツーショット写真だ。
寧音は今でも覚えている。あの日、辰生は一緒に写真を撮ることを頑なに拒んだ。
幼少期に親の愛情を得られなかった辰生は異常なほど現実主義で、遊園地なんてものは子供騙しの金集めの場所だと見下していた。こんな場所に来ること自体が恥ずかしい、自分と一緒に写真に収まるなんて絶対に嫌だ、と。
最終的に、彼女が陽葵の向こう三ヶ月分の仕事のノルマをすべて肩代わりすると約束したことで、辰生は渋々ながら一緒に一枚の写真を撮ることに同意したのだった。
それが二人にとって初めての遊園地デートであり、同時に最後の遊園地デートとなった。
だからこそ、寧音はその貴重な写真をストリングアートとして編み上げ、あの時の美しい瞬間を永遠に残したいと願ったのだ。
普段から、一日も欠かすことなく釘の緩みや糸の張りを確かめ、特注のガラスフレームを用意して、四隅に乾燥剤を敷き詰めるほど、作品を長持ちさせることに心血を注いできた。
それはまるで、彼女が普段から辰生との関係を、壊れ物を扱うかのように必死に維持しようとしていた姿そのものだった。
しかし今になって、ようやく理解した。自分を愛していない男に対して、どれだけ細心の注意を払って愛情を注いでも、それはすべて無意味な徒労に過ぎないのだということを。
寧音は我に返ってかぶりを振り、壁からそのアートを外すと、机の上のハサミを手に取った。
刃先がわずかに糸に触れた瞬間、表面に張り巡らされていた無数の糸が、耐えきれなくなったかのように次々と弾け飛んだ。
外見はあんなにも完璧で美しかったのに、少し触れただけであっけなく崩壊してしまった。
それはまるで、名ばかりで何も残らなかった、自分と辰生の愛情のようだった。
寧音は自嘲気味に笑い、切れて丸まった糸の塊をそのままゴミ箱へと捨てた。
机の上の資料を荷物にまとめている時、留め具の緩んでいたファイルがふいに滑り落ちた。
次の瞬間、中から何百通もの手書きの手紙が床一面に散らばった。
それらを一瞥しただけで、寧音は思わずその場に立ち尽くした。
第6話
それはすべて、自分がかつて辰生に宛てて書いたラブレターだった。
もう五年も前のことだ。
当時、季節の変わり目でインフルエンザが猛威を振るっていた。辰生もそれに罹り、41度という異常な高熱を出して、病院に担ぎ込まれ緊急治療を受けた。
半日経っても熱が一向に下がらず、意識が朦朧とする中で、辰生は自分が死ぬのだと思い込んだらしい。こちらの手を離すまいと必死に握り締めながら、「お前のラブレターをまだ聞き足りない」と泣き言を漏らしたのだ。
ずっと読み聞かせてくれ、と。そうすれば、もし自分が死んでも、寧音のラブレターを胸に刻む。そうすれば、あの世でも寂しくないから、と。
辰生の意識を繋ぎ止め、治療をスムーズに進めるため、寧音は涙を堪えながら頷き、紙とペンを手に取った。そして二人で過ごした日々の思い出を、一つ一つ書き記しては読み聞かせたのだ。
辰生の熱がようやく下がった頃には、ボールペンを十本も使い果たしていた。ペンを握り続けた人差し指は擦り切れて血が滲み、何百枚もの便箋には自分の涙だけでなく、所々に血の跡まで付いていた。
完全に意識を取り戻した辰生は、長時間ペンを握り続けたせいで痙攣し、こわばってしまった寧音の右手を見て、目を真っ赤にして泣き崩れた。そして強く抱きしめ、一生大切にすると、共に白髪になるまで添い遂げると、二度と傷つけないと、涙ながらに誓ったのだ。
しかし今、彼には陽葵がいる。
その陽葵のために、彼は寧音を何度も何度も傷つけている。
結局、彼はあの時の約束を何一つ守れなかったのだ。
我に返った寧音は深く息を吸い込み、散らばったラブレターを拾い集めることはせず、すべてまとめてゴミ箱へと放り込んだ。
辰生がくれた約束はとっくに期限切れだ。こんなものを残しておいても、自分で自分の傷口を抉るだけで何の意味もない。
やがて資料をすべてまとめ終え、ほとんど空っぽになった書斎と、半分も埋まっていないスーツケースを見渡した時、寧音は思わず吹き出してしまった。
普段から辰生は、会社の経営が苦しくて資金繰りが厳しいと愚痴をこぼし、給料は全部貯金しろ、将来の結婚資金に備えろと要求していた。
結婚式を挙げるだけじゃない。結納金、指輪、新居の購入に内装まで……
とにかく金がかかるんだ、と。
自分は彼の絵空事を本気で信じ込み、日々の生活を極限まで切り詰めていた。
目玉焼きが焼けそうな猛暑日も、ダウンジャケットを二枚重ねても震えが止まらない大雪の日も、変わらず送料込み五百円の窮屈なパンプスを履き続けていた。
食事にしても、何百という「クーポン共有グループ」に張り付いて、たった数十円の割引のために血眼でクーポンを奪い合い、結局口にするのは一番安いのり弁ばかり。
そうやって血の滲むような思いで節約したお金は、すべて辰生に預けていたのだ。
ところが彼は、その金で欲しいものを買い漁り、数十万円もする最新のゲーム機を手に入れ、数百万円の高級腕時計を身につけ、SNSの中で誰よりも華やかな成功者を演じていた。
寧音は思わず自嘲の笑みを漏らした。
これまでは、辰生がちらつかせる「結婚」という餌に目が眩んでいた。自分を愛してもいない男のために、若く貴重な時間を捧げ、ボロボロになるまで自分を擦り減らしていたなんて、本当に馬鹿げている。
同じ時間と金があったなら、自分自身に投資して、もっと優れた人間になれたはずだ。
そう思い至ると、寧音は首を振り、もう取り返しのつかない過去について考えるのをやめた。
スーツケースを引いて書斎を出ようとした時、背後で金属がぶつかる鈍い音が響いた。
振り返ると、スーツケースの角が書斎の隅に置かれた金庫にぶつかっていた。
この金庫は、辰生にとって何よりも大切な宝物だった。
以前、巨大台風が上陸して家の窓ガラスが割れた時ですら、辰生は自分の命も顧みず、真っ先にこの金庫だけを安全な場所へ運び出したほどだ。
中に一体何が入っているのか、誰も知らなかった。
寧音もかつて好奇心に駆られ、四桁の暗証番号を何度も試したことがある。
付き合い始めた日、自分の誕生日、辰生の誕生日、彼の母親の誕生日、果ては両親が離婚した日まで。思いつく限りの数字を片っ端から入力した。
しかし、一度たりともロックが解除されることはなかった。
ある時、どうしても諦めきれず、プロの鍵師を呼んで開けてもらおうとした。
ところが、その鍵師は金庫を一目見ただけで道具を片付け、踵を返そうとした。いくら追加料金を積むと言っても、相手は頑なに首を横に振るばかりだった。
最終的にしつこく食い下がると、鍵師はうんざりした顔で教えてくれた。この化粧箱ほどの地味な金庫、実はとんでもない代物なのだと。
錠前には海外製のナノレベル最新防犯技術が使われており、ボディ自体も航空宇宙産業レベルの特殊合金製で、物理的な破壊は絶対に不可能だという。
明らかに、この金庫には莫大な金がかかっている。辰生はこれを守ることに、異常なまでの執念を燃やしていたのだ。
力ずくでも無理だと知り、寧音はそれ以来、中身を知ることを諦めていた。
辰生と付き合ったこの十年間、この金庫にどんな秘密が隠されているのか、ついに知ることはできなかった。
だが、もうすぐこの家を出ていく。これは自分の中に残った最後の執着かもしれないし、あるいは、ある仮説を確かめたかっただけかもしれない。
寧音は半信半疑のまま、辰生が元カノと別れた日付を入力した。
期待などしていなかった。
何しろ辰生は、その「元カノ」の存在を自分の前で一度たりとも口にしたことがなかったのだ。
彼の悪友が酔った勢いでうっかり漏らさなければ、辰生に過去の恋愛があったことすら知らないままだっただろう。
しかし――「ピッ」という電子音と共に、金庫の重いロックが解除された。
寧音は思わず息を呑んだ。
辰生の元カノとは、一体何者なのか。命と引き換えにしてでも守り抜きたいと、彼をそこまで執着させるとは……
だが次の瞬間、金庫の扉を開けた寧音は、驚愕に大きく目を見開いた。
第7話
金庫の中には、真空パックで丁寧に保存された小さな品々が、隙間なくぎっしりと詰め込まれていた。おもちゃ、しおり、ただの棒付きキャンディまである。
寧音が戸惑いながらそれらを手に取ると、真空パックの裏側に、その品物の由来を几帳面に記したメモが貼り付けられているのが見えた。
【2016年5月7日。陽葵が授業中に初めて俺に食べ物をくれた。イチゴ味の棒付きキャンディ。すごく嬉しい。今日の俺の気分もイチゴ味だ】
【2016年6月7日。今日は俺の誕生日。陽葵がねこじゃらしで草の指輪を編んでくれて、将来は俺の妻になってくれると言った!俺は絶対に成功して、あいつに世界で一番高い指輪を買ってやる!】
【2017年1月1日。昨夜は大晦日だった。陽葵が年越しのチョコレートをくれた。ああああ、めっちゃ食べたい!でもこれは陽葵の愛だから、ちゃんと大事に取っておかなきゃ!】
……
ほんの数枚のメモを見ただけで、寧音はもう、それ以上読み進める気力が完全に失せていた。
どうりで、毎回辰生が夜更けにこっそり書斎にこもり、中から微かな笑い声が聞こえてくるわけだ。徹夜した翌日でさえ、彼は生き生きとしており、目尻には幸せそうな笑みが浮かんでいた。
そうか。これらはすべて、彼が大切に保存し続けてきた、陽葵との思い出の品だったのだ。
寧音は思わず皮肉な笑みを漏らした。
自分はずっと勘違いしていた。辰生は自分との関係に飽きて、魔が差して陽葵というアシスタントに手を出したのだとばかり思っていた。
まさか、陽葵こそが、彼が絶対に口にしようとしなかった「謎の元カノ」だったとは。
彼は陽葵に対して気まぐれを起こしたわけではない。最初から、一日たりとも陽葵を忘れたことなどなかったのだ。
だとしたら、自分と辰生のこの十年間は、一体何だったというのか。
だが今となっては、その問いへの答えなど、何の意味も持たなかった。
自分と辰生の縁は、ここで完全に途切れたのだ。
そう思い至ると、寧音は静かに首を振った。スーツケースを引き、一度も振り返ることなくその家を後にして、空港近くのホテルへと移った。
……
翌日、寧音は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
ベッドから起き上がると、携帯から会社の人事システムにアクセスし、辰生宛てに退職届を提出した。そのまま洗面所へ向かおうとした、その時だった。
携帯から、退職届が「承認」されたという通知音が響いた。
普段、自分が辰生に業務連絡のメッセージを送っても、返信が来るまで最低でも三、四時間はかかる。だから今回も、退職の手続きを進めるために、後でわざわざ電話をかけて催促しなければならないだろうと覚悟していたのだ。
それがまさか、提出から数秒で承認されるとは。
どうして急に仕事が早くなったのだろうと首をかしげていると、そのタイミングで陽葵から一通のメッセージが届いた。
写真が添付されていた。礼服姿の陽葵と辰生が仲睦まじく寄り添っている。そしてメッセージには、あからさまな挑発が添えられていた。
【あなたが辰生さんと十年一緒にいたからって、それが何だっていうんですか?結局、彼と入籍して婚礼写真を撮るのは、私なんですよ?】
寧音は思わず冷笑を漏らした。
どうりで辰生が秒で承認したわけだ。彼は陽葵とウェディングドレスを選ぶのに夢中で、こちらのために一秒たりとも時間を割く気がなかったのだ。
いつもそうだ。辰生は陽葵と会っている時、他のすべてを後回しにする。そのせいで、自分はこれまで何百回となく約束をすっぽかされてきた。
以前の私なら、彼に無視されるたびに胸を痛め、自分が何か悪いことをして彼を怒らせたのではないかと自分を責めていた。
しかし今の自分は、彼がこちらを無視してくれたことに、むしろ感謝すら覚えていた。
もし彼が暇を持て余していたなら、これほどスムーズに退職手続きが進むことなど絶対にあり得なかったからだ。
何しろ、今の澤村グループがここまで成長できたのは、最古参である自分の力によるところが大きい。
顧客が毎回高く評価してくれるのは、自分の独創的なデザインと企画力だった。
この十年間、会社が受注した案件の少なくとも七割は、最終的に自分のデザインやプランを直接採用するか、それをベースにしたものだった。
もし普段通りなら、辰生はこちらの骨の髄までしゃぶり尽くし、最後の利用価値を搾り取るまで、絶対に辞めることなど許さなかったはずだ。
我に返った寧音は、ただ静かに微笑み、陽葵の挑発を無視した。
その後、残りの引き継ぎを済ませるために会社へ向かい、退職の最終手続きを終えて自分のオフィスを出た。
しかしドアを開けた途端、周囲の同僚たちが遠慮なく陰口を叩く声が耳に飛び込んできた。
第8話
「ウケる。社長の彼女だからって威張ってたのに、結局追い出されたってわけ」
「駆け引きのつもりで退職届を出したら、そのまま承認されて自爆。ざまあないわね」
中には、わざと手を滑らせたふりをしてマグカップの水をこちらに浴びせかけ、惨めな姿を物笑いの種にしようとする者までいた。
しかし、これまでのように黙って耐えることはしなかった。
身をかわして水を避けると、近くのデスクにあったマグカップを掴み、そのまま相手の頭から盛大にぶちまけた。
「私が辞めるのは、高待遇で引き抜かれたからよ。あなたたちみたいに、転職先すら見つからない人間とは違うの」
そう言い放つと、顔面蒼白になった同僚たちを振り返ることもなく、その場を後にした。
会社を出た後、すぐに陣内社長と親友に退職の報告をし、その日の夜の便を予約した。
すぐに親友から、旅立つ前に壮行会を開こうというメッセージが届いた。
断る理由はなかった。
レストランへ向かう途中、二人は偶然フォトスタジオの前を通りかかった。すると親友が突然足を止め、ショーウィンドウの奥を指差して声を上げた。
「寧音、あれって澤村と春日じゃない?」
目を向けると、思わず息を呑んだ。
かつて自分がどれほど焦がれた純白のウェディングドレス。それが今、陽葵の身を包んでいた。
陽葵はいつもそうだ。自分のものを、いとも簡単に奪い取っていく。
自分のプロジェクト、自分の婚姻届、そして長年温め続けた結婚への夢までも――すべて陽葵に横取りされた。
親友は怒り心頭に発し、今にもスタジオに乗り込んで文句を言ってやろうと腕まくりをした。
しかし、辰生は静かにそれを制した。
「やめて。出発前に、美味しいご飯を食べたいだけなの。あんな連中のために時間を無駄にすることないわ。
それに、私と澤村はもう終わったの。彼が何をしようと、もう関係ないから」
そう言って背を向けようとした時、ふと外を見た辰生と目が合った。
後ろめたさからだろう。辰生は咄嗟に狼狽え、陽葵の肩に回していた手を慌てて離した。
「寧音、なんでお前がここにいるんだ?」
それを聞いた陽葵は、挑発するような流し目をこちらに向け、含み笑いを浮かべながら言った。
「辰生さん、きっと寧音さんは人事部で私たちの予定を聞き出して、わざわざついてきたんですよ」
その言葉に煽られ、辰生もたちまち怒りを燃え上がらせた。
「俺たちを尾行したのか?寧音、十年も一緒にいて、俺をこれっぽっちも信用してなかったってことか!」
寧音は呆れ笑いを浮かべ、冷たく言い返した。
「あなたこそどうなの。私を信じたことが一度でもあった?陽葵が何か吹き込めば、すぐ鵜呑みにして私を疑うくせに」
陽葵は途端に目を潤ませ、か弱い声で言った。
「寧音さん、誤解しないでください。私と辰生さんが写真を撮るのは、両親を安心させるためだけなんです。そこまで気にされるなら、もう撮りません。
あとで婚姻届受理証明書も破り捨てます。私が実家に帰ってお見合いすればいいだけですから……」
陽葵がわざとらしく立ち去ろうとするのを、辰生は慌てて引き止めた。そしてこちらを鋭く睨みつけ、怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、寧音!今はお前がくだらない嫉妬をしてる場合じゃないだろ!陽葵を追い詰めて、どうするつもりだ!
言っただろ、陽葵の両親の件が片付いたら、すぐにお前と入籍するって。たった数日も待てないのか!
だいたい今は就業時間中だぞ。これは無断欠勤だ、規定通り給料から差し引いてやる!
今すぐ会社に戻るなら、今回のことは不問にしてやってもいい」
寧音は冷ややかに見返した。
「戻らないと言ったら?」
「まだ逆らうつもりか。ならクビだ、覚悟しろ!」
辰生はこちらを睨みつけ、露骨に脅しをかけた。
彼は思い込んでいるのだ。寧音が長年心血を注いできた会社を手放せるはずがない、ましてや何年も愛し合った自分から離れられるはずがない、と。
しかし、これまで何度となく受けてきた脅し文句を聞いても、怒るどころか、思わず吹き出してしまった。
「その手間は要らないわ。だってついさっき、私はもう退職したの」
次の瞬間、携帯を取り出し、辰生本人がたった今承認したばかりの退職通知を、彼の目の前に突きつけた。