遠ざかる星、届かぬ風

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遠ざかる星、届かぬ風

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【策を尽くしたところで、運命の気まぐれには敵わない】 婚約者・寒河江風馬(さがえ ふうま)の浮気を確認したとき、ちょうどスマホの画面に...

Chương (1)

第1章

【策を尽くしたところで、運命の気まぐれには敵わない】 婚約者・寒河江風馬(さがえ ふうま)の浮気を確認したとき、ちょうどスマホの画面にそのようなスレッドが流れてきた。 私は静かにその画面をタップし、裏切り話が並ぶコメント欄を開いた。冷え切った指先で、数行のコメントを綴った。 【どれほど皮肉な話かって? 同僚が旅先で何気なく撮った写真が、インスタに流れてきたの。そこに映る何千何万という人々の中で、彼と私の親友が寄り添っている。 挙式を三日後に控えた今、私は飛行機の深夜便で、現場を押さえに来ている】 第1話 【策を尽くしたところで、運命の気まぐれには敵わない】 婚約者・寒河江風馬(さがえ ふうま)の浮気を確認したとき、ちょうどスマホの画面にそのようなスレッドが流れてきた。 私は静かにその画面をタップし、裏切り話が並ぶコメント欄を開いた。冷え切った指先で、数行のコメントを綴った。 【どれほど皮肉な話かって? 同僚が旅先で何気なく撮った写真が、インスタに流れてきたの。そこに映る何千何万という人々の中で、彼と私の親友が寄り添っている。 挙式を三日後に控えた今、私は飛行機の深夜便で、現場を押さえに来ている】 書き込みを終え、スマホの画面を閉じた。待ち受け画面に表示されているのは、私と風馬のウェディングフォトだ。 ホテルの白々とした壁にもたれかかり、私は疲れ果てて目を閉じた。 部屋の中から聞こえていた狂おしく激しい喘ぎが完全に止むのを待ってから、表情の読み取れない顔で、婚約指輪のはまった指を使ってドアをノックした。 「誰だ?」 風馬は上半身裸のままドアを開けた。 私はその体を押しのけるようにして、中へ入った。 ベッドの上にいる武林唯(たけばやし ゆい)は呆然と固まり、どう振る舞えばよいのか分からずにいる。 「星奈……」 「星奈、これは全部、俺が無理やりさせたことなんだ!文句があるなら俺に言え!唯を傷つけるのはやめてくれ!」 風馬は身を挺して唯を抱きしめた。彼女の顔立ちは整っており、紛れもなく美人だ。 二人はまるで世界の終わりを前にして、互いの存在を体に刻み込もうとする悲劇の恋人たちのようだ。 私は薄暗がりの中に立ち尽くし、生臭い匂いを嗅ぎながら、虚ろな表情でその光景を見つめている。 怒鳴ることも、泣き叫ぶこともしなかった。ただ、この瞬間を心に深く刻み込んだ。 自分に言い聞かせた。振り返ってはいけない、許してはいけない、と。 スマホのメールボックスにずっと眠っていた、ヨーロッパ赴任の打診を開いた。 ちょうど今日は回答の締め切り当日。私は震える指で【受け入れます】と返事を送った。 今日という日を境に、私にとって最も大切だった愛情も友情も、すべて幻となった。 …… 想像していたような修羅場はなかった。 部屋はただ、これ以上ない静寂に包まれている。 私は薬指の指輪を外し、そっと机の上に置いた。 言葉は短くはっきりしているが、そこには何の感情も込められていない。 「指輪は返すわ。今までにもらったお金も返す。 式を中止にするか、二人でそのまま挙げるかは、好きにして」 言い終えて背を向けたとき、背後から問い詰める声の代わりに、重苦しい音が響いた。 唯はベッドから這い出し、おぼつかない足取りで追いかけてきて、私の足元で泣き崩れた。 「星奈、ごめんなさい。本当にごめんなさい…… 私が恥知らずだったの。私が風馬にアプローチしたの。でも、彼が本当に愛してるのは、いつだって星奈だけなの。 私を罵ってもいいし、殴ってもいいから、そんなふうに思いを押し殺さないでよ」 風馬も急いで床に散らばった服を拾い上げ、唯の肩にかけると、彼女に寄り添うように私の足元で膝をついた。 だが、その喉から漏れたのは罪悪感ではなく、隠しきれない唯への慈しみだ。 「違うんだ、星奈。全部俺が悪いんだ。 唯はいつだって、お前のことを一番に考えてた。俺が無理やり彼女を繋ぎ止めたんだ。 恨むなら俺を恨め。全部、俺にぶつけてくれればいい」 足が鉛のように重い。 私は虚ろな瞳で振り返り、かつて心から愛した二人を見下ろした。 覚えている。人生で初めての誕生日ケーキは、不器用な唯が一生懸命作ってくれたものだった。 私は絵を描くのが好きだったけれど才能はなくて、それでも彼女だけが、私の落書きを大切にして壁に貼ってくれていた。 彼女には宝物箱があり、そこには私が捨てようとしたものばかりが詰まっていた。飴の包み紙、映画の半券、悩み事を書き連ねたメモ用紙。 彼女がそうしてくれたのは、私が彼女の親友だったから。 風馬はどうだろう。 初めての生理のとき、彼は顔を赤らめながらコンビニに走り、棚にあるすべての種類のナプキンを買ってきた。 胃が弱い私のために、彼はいつもカバンにちょっとしたお菓子を忍ばせてくれた。彼のスマホのメモ帳には、私の嫌いな食べ物や好みがすべて記されていた。 就職活動に失敗し、酔った勢いで「私はダメな人間だ」と泣いていたとき、彼は何も言わず、一晩中起きて私の履歴書を一行ずつ添削してくれた。 彼がそうしてくれたのは、私が彼にとって唯一無二の存在だったから。 かつての私は、自分が世界一幸せな女の子だと信じていた。 けれど今、最も愛した二人が私の前で膝をついている。 ――私は誰を責めればいい? 私は……一体、誰を憎めばいいの? 第2話 部屋の中は、凍りつくような重苦しい泣き声で満ちている。 風馬は冷たい床に膝をついている唯のために、そっと自分の指を彼女の膝の下に差し入れた。床と肌が擦れる微かな音が、今の私には何よりも耳障りに響いた。 私は無理に口元を上げ、乾いた笑みを浮かべながら、唯の手を取って立たせた。 「いいのよ。二人のことは責めたりしないわ」 唯は信じられないという様子で顔を上げ、その瞳には喜びと拭いきれない戸惑いが入り混じっている。 「本……本当なの?」 「本当よ」 「じゃあ、予定通り結婚式を挙げてくれる?約束するわ。星奈が幸せになれるなら、私、誰にも見つからない場所へ行く。二人の前から完全に消えるから」 唯はわらにもすがる思いで必死に言い募り、私の背中を押して風馬の腕の中へ戻そうとした。 けれど、かつては私が少し眉をひそめただけで、一晩中眠れないほど心配してくれた風馬は、呆然と彼女を見つめている。 プロポーズのときのように、私を強く抱きしめて、必ず幸せにすると誓うこともなかった。 ただ、力なく私の腕に手を添え、寂しげに視線を落とした。 「そうだ、星奈。俺が最も愛してるのはお前だ。十年間の絆に免じて、もう一度だけチャンスをくれないか?」 キスの跡が残る唯の背中が強張り、その顔に一瞬、暗い影が差した。 二人の間に流れる葛藤を見て、私は心の奥底で深いため息をついた。 大切な人たちに裏切られたのだ。これくらいのささやかな報いを与えても、罰は当たらないだろう。 だから私は、何でもないような明るい笑顔を作り、わざと茶化すように声を張り上げた。 「もう、言ったじゃない。怒ってないって。 二人とも素敵だし、付き合いも長いんだから、たまに理性を失うことくらいあるわよ。 さっきのはちょっと驚かせてみただけ。これから先、二度と同じ過ちを犯さないようにね!」 私は軽口を叩きながら、自分から背を向けた。 机の上の指輪を手に取り、再び薬指にはめた。 ダイヤモンドが誇らしげに輝きを放ったその瞬間、涙が頬を伝って音もなく零れ落ちた。 この婚約指輪も、風馬と唯が一緒に選んでくれたものだ。 予算は20万円だったのに、二人が「星奈にはもっと良いものを」と競い合ったせいで、結局100万円にまで跳ね上がった。 「お金なんて関係ないわ!私の親友には最高に美しい指輪がふさわしいのよ!」 「金の問題じゃない!俺は妻に一番良いものを贈りたいんだ!」 あの頃の私は、二人の賑やかなやり取りを聞きながら、頬杖をついて幸せそうに微笑んでいるだけだった。 あの負けず嫌いな言い合いが、いつの間にか別の感情に変わっていたなんて、思いもしなかった。 捨てた指輪は拾い上げることができても、人の心は、もう二度と元には戻らない。 …… 帰りの飛行機では、私は以前と同じように二人の間に座った。 けれど、彼らが競うように私の肩に寄りかかってくることはもうない。 二人は沈黙したまま窓の外や通路を見つめ、時折私の言葉に返事をする際も、決して互いの目を合わせようとはしなかった。 空港に着いた後、風馬が家まで送ってくれることになった。 車内でも、私たちは示し合わせたかのようにあの出来事には触れず、三日後の結婚式の打ち合わせを続けた。 けれど、彼の返事はわずかに遅れ、思考がどこか遠くを彷徨っているのが手に取るように分かった。 私は気づかないふりをして書類をめくり続けている。そのとき、唯専用に設定された着信音が、静寂を切り裂くように鳴り響いた。 「もしもし?高辻星奈(たかつじ ほしな)さんのお電話でしょうか?こちらで倒れている方がいまして、緊急連絡先があなたになっていたので……」 言葉が終わる前に、受話器の向こうから唯の弱々しく、それでいて無理に虚勢を張るような声が聞こえてきた。 「星奈……私、大丈夫だから……早くおうちに帰って…… 明日……明日は一緒にウェディングドレスを選びに行こうね。星奈は、世界で一番美しい花嫁になるんだから……」 電話が切れた。 ツーツーという無機質な音が、車内の隅々にまで重くのしかかっている。 風馬は体を硬直させ、その会話に耳を傾けていた。一言も発さなかったが、膝の上に置かれた指は焦燥を隠しきれず、カタカタと震え続けている。 崩れ去った心の片隅で、終わりのない塵が静かに降り積もっていくような感覚。 私は胸を締めつける窒息しそうな痛みを堪え、精一杯の笑顔を作って、下手な嘘をついた。 「風馬、悪いけどここで降りて。急に思い出したんだけど、同僚から今夜の飲み会に誘われちゃって」 風馬の暗い瞳が一瞬だけ輝いた。けれど、彼はなおも探るように問いかけてきた。 「送っていこうか」 「いいってば。子供じゃないんだから。あなたは帰ってゆっくり休んで。明日、元気いっぱいでウェディングドレス選びに付き合ってくれないと困るでしょ?」 私はそう言うと、運転手に車を止めさせ、風馬の側のドアを開けて、急かすように彼を外へ押し出した。 風馬は眉をひそめて立ち尽くし、一瞬だけためらう素振りを見せたが、結局、唯に会いたいという欲望がわずかな不安に打ち勝った。 「じゃあ、夜は早く帰るんだ。お酒は控えめにして、夜道にも気をつけて。終わったらすぐに連絡しろ。迎えに行くから」 「分かってるって」 私はあけすけに手を振り、迷うことなくドアを閉めた。 バックミラーに映る風馬の姿は、次第に小さくなっていった。最初は早歩きだった彼は、やがて我慢できなくなったかのように、激しく走り出した。 その姿が見えなくなった瞬間、私は張り詰めていた虚勢をかなぐり捨て、声を上げて泣き崩れた。 風馬が走っていった方向は、私たちの家とは真逆だ。 幸せへと続くはずだった道は、裏切りによって、あまりにも無惨に断ち切られてしまった。 第3話 行き先など、どこにもない。 私は赤く腫れた目で車を降りた。 気がつくと、幼い頃に過ごした古いマンションへと足が向いている。 湿り気を帯びた古びた木の階段を踏みしめ、ドアを開けようとしたその瞬間、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「唯、どうして俺を突き放すんだ?俺が好きなのはお前だって知ってるだろう!」 「あれはただの間違いよ!星奈が幸せになれるなら、私は何だって構わない!」 「そうか?本当にどうでもいいと思ってるなら、どうして隠れてここへ戻ってきたんだ!」 言い争う声が、ぴたりと止んだ。 私は涙を溜めたまま、ドアの隙間から中の様子を覗き見した。 そこには、壁に貼られたピンク色のハート型の飾りや、台所のあちこちに置かれたペアのマグカップと食器、そしてテーブルの上に美しい生け花がある。 すべてが、ここに住む恋人同士のラブラブな同棲生活を物語っている。 もし、これらすべてを用意したのが私でなかったら、どんなに良かっただろう。 あのハート型の飾りは、亡き母が私に切り方を教えてくれたもの。あの食器とマグカップは、母が二年にわたる抗がん剤治療に耐えながら、私のために作ってくれたもの。生け花は、母が亡くなる直前、自分の目で確かめながら少しずつ手作業で生けてくれたものだ。 「風馬くん、唯ちゃん…… これからの星奈を……どうか頼む……」 病床で、母は最後の力を振り絞り、お守りと共に私たち三人の手を固く握りしめた。 風馬と唯は涙を流しながらそれに応え、母の願いを裏切らないと誓った。 それなのに今、私が最も愛した男と、最も信頼した親友が、母の遺影の前で愛し合った。 枕元に掛けられていたあのお守りも、激しい睦み合いの最中に引きちぎられたのか、床に落ちてしまった。 「お前は星奈の幸せだけを願うと言ったが、じゃあ俺はどうなるんだ? あいつにサプライズを用意するとき、俺が考えてたのはあいつの喜ぶ顔じゃなかった。ようやくお前に会えるっていう期待だけだった。 あいつが入院したときも心配はしたが、それ以上にお前と二人きりで出かけられることを楽しみにしてた。 あいつに付き添ってお前の演奏会に行ったとき、俺は平然を装いながら、半日を丸ごと潰してお前のための花を選んでたんだ。 間違いだなんて言われても構わないが、俺の心の中では、お前だけが本当の妻だ」 風馬は声を詰まらせ、苦しげに瞳を赤く染めている。 唯の瞳には、そんな彼の姿がありありと映し出されている。彼女はもう耐えきれなくなったように、激しく彼の胸に飛び込んだ。 「どうすればいいの……私たち、一体どうすればいいの……」 視界はすでに涙でかき消されている。 私は口を強く押さえ、まるで自分が悪いことでもしたかのように、その場から逃げ出した。 耳元を吹き抜ける風がすべてをかき消そうとしても、私だけが知っている。心の奥底にある痛みが、どれほど強く、はっきりしているかを。 走り続け、走り続け、ついには感情に引きずられるように、空っぽの胃が激しく痛み出した。 「すみません……ラーメンを一杯ください」 額に冷や汗を滲ませながら、私は一軒の店に滑り込んだ。 店主が器を運んできたとき、驚いたように声を上げた。 「おや、星奈ちゃんじゃないか!今日はあの二人の世話焼きさんは一緒じゃないのかい?」 力なく顔を上げると、それは見覚えのある顔だ。 店主は私の異変に気づく様子もなく、にこやかに割り箸を差し出してくれた。 「前の店にいた頃を思い出すぞ。毎週三人で味噌ラーメンを食べに来ては、あの子たちが競い合ってお前の器に肉を分けてやってたっけな。 一人はお前が背が伸びないのを心配して、もう一人は太らないのを心配して。いやあ、すっかり大きくなったな」 新しい客が来ると、店主は忙しそうにそちらへ向かった。 私は器に顔を埋め、涙と共に、一口また一口と麺を口に運んだ。 立ち上る湯気の中に、私をいつも気にかけてくれていた、あの頃の二人の姿が見えるような気がした。 「もう、ゆっくり食べなさいよ!火傷したらどうするの?」 唯が呆れたように私を見て、器を取り上げ、根気よくふうふうと麺を冷ましてくれた。 「ただでさえ胃が弱いのに、涙をスパイスにするなんて。誰に泣かされたんだ?言ってみろ。今すぐ俺がぶっ飛ばしてやるから!」 風馬は心配そうに私の涙を拭い、自分まで泣き出しそうな顔で私を見つめた。 私は呆然とその光景を見つめている。この瞬間のまま、永遠に時が止まってくれればいいのに。 けれど現実の冷たい風が吹くと、湯気は消え、人影も消え失せた。 私は箸を置き、しばらくその場に座り込んでいる。すると、会社の人事部からメールが届いた。 【ヨーロッパ赴任の辞令が出ました。二日後に出発しますので、早急に荷物をまとめてください】 私は【承知しました】と返答した。 そして、ラーメンの代金を支払った。 店主に声をかけることはしなかった。過ぎ去った日々を、これ以上かき乱したくないから。 一人、分かれ道に立って古いマンションの方を振り返り、私は悲しげに口元を上げた。 第4話 家に戻ると、部屋の中はしんと静まり返り、真っ暗だ。 私はその暗闇の中に立ち、風馬にメッセージを送った。 【同僚の家で一緒に映画を観ることになったの。遅くなるから、今日は帰らないわ】 すぐに返信が届いた。 【分かった。でも夜更かしはしすぎるな。胃が弱いんだから、明日の朝はちゃんと朝食を食べるんだぞ】 以前のように根掘り葉掘り事情を聞き出すような追及はなかった。 彼が今夜戻ってこないことを察し、私はスーツケースを取り出して荷造りを始めた。 リビングで一晩中座り込んだまま夜を明かし、そのままタクシーでウェディングドレスショップへ向かった。 「星奈、来たわね」 「朝ごはんは食べたか?パンを買っておいた」 店に入るとすぐに、風馬と唯が出迎えてくれた。その様子を見ている店員が、羨ましそうに呟いた。 「幸せな花嫁さんですね。旦那様とご友人は、ずっと前からお待ちになっていましたよ」 その言葉を聞いて、唯の顔がさっと青ざめた。 風馬は彼女の異変に気づき、私にパンを差し出そうとした手をすぐに引っ込めた。 私のまつ毛が微かに震えた。けれど何も言わず、いつものように唯の腕に絡みついて甘えてみせた。 「昨日の夜、冷たいミルクティーを飲んだら、胃がすごく痛くなっちゃって。ねえ、代わりにドレスを試着してくれない?」 「え?」 「お願い!」 私が厚かましく唯に寄りかかっておねだりすると、風馬は私の首根っこを掴んで引き離し、常備している胃薬を苦々しい表情で私の口に押し込んできた。 「酒を飲むなと言えば、今度は冷たいものか。体を壊すつもりか?」 私はへらへらと笑いながらも唯にすがりつき、彼女はついに折れて「わかったよ」と言った。 試着室のカーテンが開いた瞬間、その場の空気が凍りついた。 ウェディングドレスを纏った唯は、まるで精巧に作られた人形のように、言葉を失うほど美しい。 風馬は立ち尽くし、食い入るように彼女を見つめている。 その時、不意にガシャンと大きな音がした。脇にあるドレスのラックがバランスを崩し、何着もの衣装が崩れ落ちてきた。 風馬の瞳が大きく見開かれた。彼は思わず駆け寄り、唯をその胸に強く抱きしめた。 それと同時に、倒れかけてきたラックを横に押しのけた。 けれど、そのすぐそばにいる私のことなど、微塵も目に入っていないようだ。 思わず彼の名前を呼びそうになった。 けれど、彼は視線の端にすら私を入れず、その全神経を唯にだけ注いでいる。 次の瞬間、鈍い衝撃が走り、私の腕にハンガーの角が直撃した。じわりと熱い血が滲み出し、服を染めている。 私はそれを見つめながら、心が冷たくなっていくのを感じている。 きっと、風馬の心の中で、私が最優先されることなんて一度もなかったのだ。 唯を落ち着かせた後、ようやく風馬は振り返り、腕を押さえて立ち尽くしている私に気づいた。彼は瞬時に顔色を変え、唯と一緒に足早に駆け寄ってきた。 「どうした?どこを怪我したんだ?」 彼の声は強張っている。私の腕に触れようとしたが、私は無意識にそれを避けた。 こみ上げる悲しみを押し殺し、作り笑いを浮かべて静かに言った。 「大丈夫、かすり傷よ。時間がもったいないから、試着を続けよう。唯が待ってるわ」 そう言って顔を上げた。 「唯、そのドレス、本当に似合ってるよ!」 風馬の視線は瞬時に唯へと引き寄せられた。 「いかがなさいますか?」 店員が笑顔で声をかけた。 「綺麗だ……」 風馬は唇を微かに震わせ、呆然と呟いた。けれどすぐに我に返った。店員が聞いていたのは彼ではなかったからだ。 「最高に綺麗だよ!」 私は唯に向かって全力で拍手を送った。瞳には笑みが浮かび、その中に涙が滲んでいる。 それに気づかない唯は、顔を赤らめてカーテンを閉めた。 その後も彼女は何着か試着を続けた。時間はそれなりにかかったが、風馬はずっと試着室の方を見つめている。 まるで、心から愛する花嫁の登場を、今か今かと待ちわびる本物の新郎のように。 私は黙ってその背中を見つめながら、スマホを取り出し、結婚式のスタッフたちに次々とメッセージを送った。 「何してるんだ?」 いつの間にか、風馬が隣に来ている。 私は顔を上げずに答えた。 「明日の式の流れを確認してるのよ」 「もう済んだことだろう?」 「いいのよ、念には念を入れないと」 一文字ずつ丁寧に打ち込む私を、風馬は複雑な表情でしばらく見つめている。 やがて彼は、迷いながらも手を伸ばし、私の頭を優しく撫でた。 けれど、彼の心はやはりここにはない。だから、式の進行表に記されている花嫁の名前が、すべて「武林唯」に書き換えられていることに、彼は最後まで気づかなかった。 「明日は遅れずに迎えに来てね!」 式場となるホテルの部屋に入る前、私は唯の腕を掴みながら、風馬に向かって力いっぱい手を振った。満面の笑みを浮かべて。 彼は小さく頷いたが、その視線の先にいるのは私ではない。 一分後、私はエレベーターの天井の鏡越しに、唯のスマホに風馬からのメッセージが届いたのを見た。 【言っただろう。お前だけが、俺のたった一人の妻だ。だから、式の前に俺の財産をすべてお前に譲渡する。明日は、俺とお前の結婚式だと思ってくれ。そしてこの金は……夢の中でお前にプロポーズした証だ】 私は深く息を吐き、手のひらを強く握りしめた。口元を上げたまま、心から楽しんでいるふりを続けた。 けれど、翌朝メイク担当がドアを叩いたとき、私がすでにその場を去っているなんて、誰も想像しなかっただろう。 スマホに保存された三人の写真を見つめながら、私は静かに呟いた。 「結婚おめでとう」 それから、その思い出をすべて消去した。 こうして、無邪気で幸せだった「高辻星奈」は消えた。 ――私とあなたたちは、もう二度と交わることのない、遠く離れた世界で生きていく。