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未来への列車~花びら舞い落ちる頃に
結婚3周年の記念日。結城凛(ゆうき りん)は、夫の鞄の中から一枚の妊娠検査の診断書を見つけた。相手は、夫婦で経済的支援をしていた苦学生だ...
Chương (1)
第1章
結婚3周年の記念日。結城凛(ゆうき りん)は、夫の鞄の中から一枚の妊娠検査の診断書を見つけた。相手は、夫婦で経済的支援をしていた苦学生だった。
彼女は怒りに任せて特急列車の切符を買い、家を飛び出した。だが、列車を降りると、電光掲示板の時間は5年後を示していた。
両親の電話は繋がらない。パニックに陥った凛が頼れるのは、夫しかいなかった。
夫の桐生蒼介(きりゅう そうすけ)を見つけた瞬間、涙が溢れ出した。
「あなた、これってどういうこと?私、ただ特急に乗っただけなのに……」
しかし、凛の言葉が終わる前に、背後から女の声が聞こえた。
「あなた、誰か来たの?」
第1話
結婚3周年の記念日。結城凛(ゆうき りん)は、夫の鞄の中から一枚の妊娠検査の診断書を見つけた。相手は、夫婦で経済的支援をしていた苦学生だった。
彼女は怒りに任せて特急列車の切符を買い、家を飛び出した。だが、列車を降りると、電光掲示板の時間は5年後を示していた。
両親の電話は繋がらない。パニックの中、凛はタクシーに乗り込み、夫と暮らすマイホームへと向かった。
だが、タクシーを降りた凛は呆然とした。自分がパラレルワールドに迷い込んだのではないかと疑うほどだった。
桐生蒼介(きりゅう そうすけ)と一緒にデザインした小さな庭には、凛の大好きなスズランの代わりに真っ赤なバラが咲き誇っていた。玄関前に置いてあった猫用の小屋も消えており、すべてが見知らぬ景色に変わっていたのだ。
凛は気を取り直し、インターホンを鳴らした。
1秒、2秒……
ドアが開き、蒼介の端正な顔が目に飛び込んできた瞬間、凛の目からついに涙がこぼれ落ちた。
「あなた、どういうことなの。私、ただ特急に乗っただけなのに、どうして何もかも変わっちゃったの……」
凛は蒼介の胸に飛び込み、声を上げて泣き崩れた。
どれくらい泣いただろうか。声が枯れ果て、ようやく凛は泣き止んだ。
「君は、ただ特急に乗っただけで5年後に来たと言うのか?」
蒼介は微かに眉をひそめた。
凛は頷いた。その頬にはまだ涙の跡が残っていた。
蒼介は首を横に振った。
「凛、出会った頃から君がわがままで世間知らずなのは分かっていたが、今はもうまともな嘘をつく気すらないのか。5年前の結婚記念日、僕は君にサプライズを用意していた。だが、家に帰って見つけたのは、僕が君を怒らせたから離婚するという置き手紙だけだった。
それなのに今さら、すべては予期せぬ事故だったとでも言うのか?」
凛は彼の腕から突き放され、呆然とした。
「信じてくれないの?それに……」
置き手紙なんて残していないし、離婚したいなんて思ったこともない。
凛はただ、蒼介にちゃんと説明してほしかっただけなのだ。
「どうやって信じろと言うんだ?演技が上手いと褒めるべきか、それとも冷酷すぎると言うべきか。君がわがままを言って僕を愛さなくなったのは百歩譲っていいとして、まさか自分の両親の葬儀にすら顔を出さないとは思わなかったよ」
蒼介の目は冷ややかだった。
葬儀?お父さんとお母さんが死んだ?
その言葉にショックを受け、凛は顔面を蒼白にしてよろめいた。
しばらくして、凛は蒼介を見上げた。
「じゃあ、あなたはどうなの。結婚して3年、私が失踪した後、あなたは何をしたの?」
蒼介は顔を背け、もう凛を見ることはなかった。
その時、子供の無邪気な声が凛の耳に届いた。
「パパ、ママが帰ってきたの?」
凛の体は一瞬でこわばり、全身の血液が凍りついたかのように感じた。
ゆっくりと視線を下げると、そこには人形のように可愛らしい女の子がいた。その子の顔立ちは、かつて支援していたあの学生にどこか似ていた。
「蒼介、誰か来たの?」
背後から甘い声が聞こえ、凛の頭の中は真っ白になった。
凛が呆然と見つめる中、その女は凛の横を通り過ぎ、蒼介の隣に寄り添った。
そして、女の子がその女を甘えた声で「ママ」と呼ぶのを目の当たりにした。
蒼介は片手で女の子を抱き上げ、もう片方の手で女の手を握った。
「見ての通りだ。こちらは僕の妻、浅野栞(あさの しおり)。そして娘の小春(こはる)だ」
浅野栞。それは、あの日支援していた学生の名前だった。
5年が経っても、栞は若々しく活力に満ちた姿のままだった。
「凛さん、お帰りなさい」
栞の顔には僅かに不安の色が浮かんでいたが、蒼介がすぐに優しくなだめた。
もう彼からの説明なんて必要ない。凛は朦朧とした頭でそう思った。
あの妊娠の診断書は、誤解でも何かの間違いでもなかったのだ。
凛はまつ毛を震わせながら口を開いた。
「あなたの妻?蒼介、じゃあ私は何なの?」
「元妻だ。君が意地を張って両親の葬儀にすら現れなかった時、僕たちはすでに離婚している」
彼の言葉が、凛の最後のかすかな希望を完全に打ち砕いた。
凛は力なく笑い、よろよろと振り返り、覚束ない足取りで外へ向かおうとした。
しかし振り返った瞬間、彼に呼び止められた。
「君が今どういう状況なのかは知らないが、かつての情けだ。とりあえずここに滞在すればいい。後のことはまた考えよう」
こうして、凛はゲストルームへと案内された。かつての彼女の寝室は、小春のプレイルームに改装されていた。
凛は唇を強く噛み締め、声を出さずに泣いた。
なぜ?なぜ運命はこんなにも私を弄ぶの?
どれくらい泣いた後か、ポケットから白い紙の端が覗いているのに気づいた。取り出して見てみると、それは帰りの特急券だった。
帰りの日付は、7日後。
第2話
特急券を握る凛の手は、震えが止まらなかった。
7日。あと7日だけ耐えれば、元に戻れる。両親がまだ生きていたあの頃に戻れるのだ。
彼女はベッドに潜り込み、すぐに目を閉じ、7日後の帰路を静かに待ち望んだ。
翌朝早く、小春がドアをノックした。
「綺麗なお姉ちゃん、起きて。ご飯だよ」とても礼儀正しい子だった。
かつて凛が思い描いていた蒼介との子供も、こんな風だったはずだ。
可愛らしくて、物分かりが良くて、見知らぬ凛に対してさえ、素直に「綺麗なお姉ちゃん」と呼んでくれる。
残念ながら、それは彼女の子供ではなかった。
凛は珍しく微笑んだ。
「ありがとう、小春ちゃん」
そう言うと、小春は彼女をダイニングテーブルへと案内した。
昨日はよく見ていなかったが、今日になってようやく気づいた。かつて自分たちのささやかなマイホームだったこの家は、すっかり様変わりしていた。
以前の重厚なマホガニー材のダイニングテーブルは洋風のものに変わり、玄関に飾られている風鈴は一目で栞の好むデザインだと分かった。蒼介の手首にさえ、淡いピンク色のヘアゴムが2本結ばれていた。
凛が小春の手を引いているのを見て、蒼介は眉をひそめ、立ち上がって小春を抱き寄せた。
「大人しくしていろ。無闇に小春に近づくな」
彼は凛が小春に危害を加えるのではないかと警戒していた。
「もう、蒼介ったら何してるの。私たちの小春はこんなに可愛いんだから、凛さんだって小春のことが好きなはずよ。どうして凛さんをそんなに警戒するの?」
栞は彼の手から子供を受け取り、笑いながら蒼介の背中を叩いた。
蒼介の表情が和らぎ、3人は一緒にダイニングテーブルに戻った。
栞は凛に座るよう促し、すっかり女主人の顔つきだった。
「凛さん、この朝食、口に合うといいんだけど。5年も経ってるから、好みが変わってないか心配だわ」
その上品な笑顔の中に、凛は微かな悪意を読み取った。
その言葉を聞いて、蒼介は視線を上げて凛を一瞥した。その瞳には軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
彼に対する期待はとうに消え失せていたが、それでも凛の胸の奥は冷え切っていった。
彼は信じてくれない。やはり自分が結婚生活を裏切り、理不尽に振る舞ったのだと思い込んでいるのだ。
食事を味気なく終え、栞は小春をプレイルームへ連れて行った。
小春が凛の横を通り過ぎる時、ふと立ち止まった。
「お姉ちゃん、どうしてお姉ちゃんの指輪、ママのと同じなの?」
彼女は凛の指輪を指差し、無邪気な声で尋ねた。
「お姉ちゃんのも、パパがくれたの?」
凛は息を呑み、無意識のうちに栞の手元へと視線を移した。
ブルーダイヤモンドのシンプルなリング。確かに同じように見える。
だが、見る人が見れば一目で分かる。栞の指輪のダイヤの方が、凛のものよりもずっと品質が上だった。
凛は口角をわずかに引きつらせた。説明の言葉が喉まで出かかったが、それを蒼介が遮った。
「小春、似ているだけだよ。ママが持っているのは、パパの唯一無二の愛だからね」彼は栞の手を引き寄せ、愛おしそうに撫でた。
凛は静かに彼らを見つめた。こんなセリフ、蒼介は以前自分にも言っていた。
ただ、彼が愛の言葉を囁くのはいつも夜の静寂の中だけであり、こんな風に人前で堂々と口にすることは一度もなかった。
この瞬間、凛はふと悟った。たとえ自分が偶然5年後にタイムスリップしていなかったとしても、自分たちの結末は変わらなかったのではないかと。
凛は突然ひどい吐き気を覚え、胃から込み上げてくるものを抑えきれず、慌ててトイレに駆け込んだ。強烈な吐き気で両目は真っ赤に充血した。
栞はその場に立ち尽くし、その瞳には一瞬、何かの感情が閃いた。
第3話
トイレの中で、凛は自分の襟をきつく握りしめた。まさか、つわりがこんなにも突然やってくるとは思ってもみなかった。
しばらく休んだ後、両手で水をすくい、自分の顔にかけた。彼女の顔には苦々しい笑みが浮かんでいた。
本来なら、結婚3周年の記念日に蒼介へ贈るはずだったプレゼントは、自分が妊娠したという報告だった。
残念ながら、彼女がその知らせを彼に伝えるよりも先に、栞の妊娠の診断書を見つけてしまったのだ。
凛はうつむき、手元のブルーダイヤモンドを見つめた。かつてはまばゆい光を放っていた輝きも、今ではすっかり色褪せて見えた。
彼女は深く息を吸い込み、指輪を外した。薬指には、指輪の跡だけが残った。
凛がドアを開けると、正面から歩いてくる栞と鉢合わせた。
栞は相変わらず微笑みを浮かべており、学生時代の気弱さはすっかり消え去っていた。
「凛さん、蒼介が運転手にご両親のお墓まで案内させろって言うの」
栞は凛の顔色が微かに変わるのを満足げに見つめた。
「でも、5年も帰ってこなかったのに、1人でお墓参りに行くのはあまりにも残酷だと思って。だから蒼介に、私が一緒に行きたいってお願いしたの」
リビングを通り過ぎる時、蒼介は立ち上がり、ハンドバッグを栞に渡した。その表情は穏やかだった。
「気をつけてな。何かあったらすぐに連絡するんだぞ」
そう言いながら、彼は警告するように凛を一瞥した。そして、彼女の指輪が外された指先に視線が向いた時、その目が微かに動いた。
栞は恥ずかしそうに微笑み、申し訳なさそうに凛を見た。
「ごめんなさいね。蒼介は私を守ろうとする気持ちが強すぎて。別に凛さんを敵視してるわけじゃないのよ」
凛が2人のイチャつく姿をしばらく見せつけられた後、ようやく栞は彼女を連れて家を出た。
車に乗り込むと、運転席との間のパーティションが上がった。
「凛さん、そういえば、5年前にあなたが去ってくれたことに感謝しなきゃ。そうでなければ、蒼介も自分が愛しているのが私だと気づかなかったはずだから」
栞はバッグを下ろし、にこやかに微笑んだ。
凛は口角を引きつらせただけで、何も答えなかった。
栞は気を悪くする様子もなく、勝手に喋り続けた。
「もしかしたら、蒼介があなたによりを戻すと思ってるかもしれないけど。でも知ってる?蒼介はあなたが失踪して半年も経たないうちに、それを理由に離婚手続きを済ませたの。そして半月後には、私に盛大な結婚式を挙げてくれた。
その半年後に小春が産まれて、出産祝いの席には呼べる限りの客を招いたのよ」
彼女は髪を耳にかけ、甘い笑みを浮かべた。
「みんな言ってたわ。小春の祝いの席は、凛さんの結婚式よりも豪華だったって」
……
栞は自分と蒼介の幸せな生活についてペラペラと喋り続けた。なるほど、彼が本気で人を愛する時はこんな風になるのか。
彼女の口から聞くまでもなく、この時代に来てからの2日間で、凛はすでに十分に思い知らされていた。
その後、道中は無言だった。
墓地に着くと、栞は空気を読んで凛を1人にし、その目には微かな憐れみの色が浮かんでいた。
最初、凛はその視線の意味が分からなかったが、両親の墓を見た瞬間に理解した。
両親は生前、非常に世間体を重んじる立派な人たちだった。それなのに、死後は綺麗に手入れされた墓すらなかったのだ。
2つの小さな墓石。それが彼らの永遠の眠る場所であり、その上には厚く埃が積もっていた。
凛の目から涙がとめどなく溢れ出し、彼女は激しく膝から崩れ落ちた。鈍い音が響いた。
「お父さん、お母さん、私のせい……」
凛は声を上げて泣きながら、自分の袖で墓石の埃を払った。
「あと数日だけ、ここで我慢してね。6日経てば、すべて元通りになるから……」
生前、両親は蒼介を本当の息子のように可愛がっていたのに、まさか彼が死後の最低限の尊厳すら残してくれないとは、凛は思いもしなかった。
帰りの道中、栞は黙っていたままだ。
2人は前後に続いて家に入った。
凛は真っ直ぐ自分の部屋に戻ったが、再び吐き気が襲ってきた。
目をきつく閉じたが、涙は情けなくも流れ落ちた。
突然ドアがノックされ、続いて小春が彼女の前に現れた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
小春の顔には心配の色が浮かんでいた。
凛は少し情けなく思い、無理に笑顔を作った。
「お姉ちゃんは大丈夫よ。小春ちゃん、どうしたの?」
「小春、お手伝いに来たの!ママがね、お姉ちゃんのお腹の中にも、ママと同じように、赤ちゃんがいるって言ってたの。小春、赤ちゃん大好きだから、お姉ちゃんに栄養食を持ってきたの!」
小春は無邪気な笑顔を浮かべた。
栞のお腹には、また別の子供がいる。
凛は思わず息を呑んだが、それは予想の範囲内でもあった。
何しろ、彼はあんなにも彼女を愛しているように見えるし、小春ももう4歳になるのだから、2人目を作るのは当然のことだ。
「赤ちゃんとは?」
子供用の小さな靴を手に持った蒼介が、突然ドアの前に現れた。その漆黒の瞳には暗い感情が渦巻いていた。
「凛、君は妊娠しているのか?」
第4話
凛が口を開く前に、蒼介は表情を引き締め、小春を家政婦の元へ遊びに行かせた。
小春が去った後、彼はゲストルームに入り、手を伸ばして凛の手首を掴んだ。
「よくも他のろくでなしの男の種を身ごもって、僕のところに現れたな!」
彼の目は怒りに満ちていた。
「凛、僕がまだ10代や20代の頃のように、君の言うことを何でも鵜呑みにすると思っているのか?子供ができたからって、タイムスリップしたなんて嘘をついてすべてを帳消しにし、僕に『面倒事』を押し付けようとしているんだろう!」
彼は限りない悪意を持って彼女を推測したが、なぜか凛には、彼の瞳の奥に微かな痛みの色が垣間見えた。
だが、もうどうでもいいことだ。小春を見たあの瞬間から、彼女と蒼介の間には何の関わりもなくなっていたのだから。
「子供はあなたの子よ。もしあなたがどうしても自分をろくでなしだと言い張るなら、それでも構わないわ」
凛は彼の手を振り払い、その顔から弱々しい表情は完全に消え去っていた。
「僕の子だと?」
蒼介は怒りのあまり笑い出した。
「君は狂っているのか。教えてくれよ、どうやって5年間も会っていない女を妊娠させたっていうんだ?」
信じてくれないのに、教えたところで何の意味があるの?
凛は彼の目を見つめ、自嘲気味に笑った。
凛が言葉を発する前に、蒼介は再び無表情に戻った。
「君が妊娠しているというなら、数日中に君の行き先を見つけてやる。栞も今身重だから、2人は離れた方がいい」
そう言うと、蒼介は二度と彼女を見ることなく、振り返って部屋を出て行った。
行き先を見つける?凛はその言葉をじっくりと反芻したが、もう目から涙がこぼれることはなかった。
お腹がシクシクと痛む。彼女は目を閉じ、彼の言葉を考えるのをやめた。今の彼女の使命は、自分自身の体を大切にし、元の時間へ戻るその瞬間を待つことだけだ。
一夜明けた。
凛が目を覚ますと、まだ少し下腹部痛のような感覚があった。胸騒ぎがしたため、病院へ行くことにした。
この子供は彼女がずっと待ち望んでいた小さな命だ。たとえ蒼介がいなくても、この子だけは絶対に守りたかった。
父親がいなくても子供を育てるケースはいくらでもある。凛は笑って、自分にそう言い聞かせた。
凛が部屋を出ると、ちょうどブリーフケースを持った蒼介も出かけようとしているところだった。
毎日カバンを持ち、朝早く出かけて夜遅く帰ってくる。それこそが、凛の記憶にある普通の彼の姿だった。
この2日間、蒼介はずっと家にいて栞と小春と一緒に過ごしていたが、それは逆に凛にとって見知らぬ人のように感じられた。
「どこへ行く?」
蒼介が口を開いた。
「病院よ」
凛は正直に答えた。別に隠すようなことではない。
蒼介はすべて分かっているかのように笑い、彼女のお腹に視線を走らせた。
「よほどその男を愛しているようだな。そのろくでなしの種をそれほどまでに大切にするとは」
彼は口を開けば「ろくでなしの種」と呼ぶ。それを聞いて、彼女はただ笑い飛ばしたかった。
「その点は間違っているわ。私はこの子をとても大切にしているけれど、もう彼のことは愛していないし、私のお腹にいるのはろくでなしの種なんかじゃない」
凛は皮肉っぽく声を上げて笑った。あの妊娠の診断書を見た時から今に至るまでのすべての理不尽さと怒りが、この瞬間に一気に爆発した。
「ろくでなしの種と言うなら、時期から考えても、あなたと栞の間に生まれた子こそがろくでなしの種なんじゃないの!」
5年前のあの診断書は、小春の年齢と完全に一致している。
彼女の胸に底知れぬ悲憤が込み上げ、彼を必死に睨みつけた。
「言ったはずよ、この子はあなたの子だって!
結婚3周年の記念日に、私はあなたにこの知らせを伝えたかったの。でもあなたは?夜遅くまで帰ってこない上に、コートのポケットには妊娠の診断書が隠してあった。
私が去って半年もしないうちに、すぐに別の女と再婚するなんて。あなたがずっと前から栞と関係を持っていたことくらい、分かっているわよ……」
パァンという乾いた音が響き、凛の顔は打たれた衝撃で横を向いた。
蒼介の顔は冷酷そのもので、彼女がこれまで見たこともないほど冷たい目をしていた。
「これ以上、僕の妻を侮辱するなら、容赦はしないぞ」
2人の言い争いは栞を驚かせた。彼女は慌てて駆けつけ、2人を見るなり、すぐに心配そうな表情を作った。
「蒼介、どうして人を殴ったりするの?」
彼女は手を伸ばして凛を抱き寄せた。
「凛さんは小さい頃から甘やかされて育ったんだから、たとえ彼女が悪くても、手をあげちゃダメよ」
凛はその言葉に反発した。私が悪いってどういうこと?
夫婦で息の合った様子を見せつけられ、凛はこの上ない吐き気を感じた。
一人は支援を受ける立場でありながらパトロンのベッドに潜り込み、もう一人は妻がいながら別の女の誘いにまんまと乗る。
凛は嫌悪感を露わにして身をかわしたが、栞がそれを理由にそのまま地面に倒れ込むとは思わなかった。
「痛い……赤ちゃん、蒼介、私たちの赤ちゃんが……」
栞はお腹をきつく押さえ、痛みに叫び声を上げた。
「凛さんを責めないで、彼女はただ怒りすぎただけで……」
「栞!」
蒼介の顔は一瞬で血の気を失った。
「怖がらないでいい、すぐに病院へ連れて行く。大丈夫だ」
彼は栞を抱き上げ、凛の横を通り過ぎる時、その瞳には凍てつくような冷徹な光が宿っていた。
「この落とし前は、後でたっぷりとつけさせてもらうからな!」
私は何もしてない……
その言葉を口にする前に、蒼介の姿はすでに遠ざかっていた。
凛は頬を押さえていた手を力なく下ろし、外に出ようとしたが、ボディーガードに引き止められた。
第5話
「どういう意味よ?」
凛は眉をひそめた。
「申し訳ありません、結城様。ボスの指示です。奥様にお怪我をさせた代償として、結城様も身重であることを考慮し、瑞光神社(ずいこうじんじゃ)へ奥様のために祈願に行けとのことです」
ボディーガードは事務的に告げた。
凛が動じないのを見て、彼はさらに続けた。
「ボスはこうも仰っています。もし結城様が拒否されるなら、ご両親の安らかな眠りと引き換えにしても構わない、と」
凛は雷に打たれたような衝撃を受けた。蒼介がまさか、両親の墓を使って自分を脅迫するなんて。
両親の慈愛に満ちた顔が脳裏に浮かび、凛は目を見開いた。自分が両親を死なせてしまったのだ。これ以上自分のせいで、あの世にいる両親の平穏を乱すわけにはいかない。
「行くわ」
凛は歯を食いしばって言葉を絞り出した。
瑞光神社は南雲市(なぐもし)で最もご霊験あらたかな神社であり、それゆえに山へ登って祈願するハードルは非常に高かった。
99段の石段を、祈願者は一段登るごとに土下座をして進み、さらに火鉢を跨ぎ越え、神社の管理人にくじを引いてもらい、お守りを授からなければならない。
もし一度で当たりが引けなければ、この手順をもう一度繰り返す必要があるのだ。
凛はボディーガードに押さえつけられるようにして山の麓まで連行され、2人が彼女の左右に立ち塞がった。
照りつける太陽を見上げ、凛はゆっくりと一段目の石段に歩み寄り、ためらうことなく膝をついた。
一段目。彼女の脳裏に、少年時代の蒼介からの告白がフラッシュバックした。
十二段目。彼女の額はすでに赤く腫れ上がり、脳内の愛に満ちた蒼介の顔は、嫌悪に満ちた表情へと変わっていた。
三十五段目。膝から血が滲み出し、ろくでなしの種という言葉が何度も耳に響いた。
……
九十九段目。お腹に断続的な刺すような痛みが走った。
凛はよろめきながら立ち上がり、他の参拝客たちの驚きの視線を無視した。
祈願に来る者は少なくないが、ボディーガードに監視されながら祈願をする者など、誰も見たことがなかった。
凛の顔は蒼白で、後れ毛が汗とともに顔にべったりと張り付いていた。彼女のこれまでの人生で、こんなにも無様な姿を見せたことはなかった。
目の前が真っ暗になり、太いご神木に手をかけて、どうにか倒れるのを防いだ。
耳鳴りが響く中、少し休もうとした凛だったが、付き添うボディーガードに容赦なく急かされた。
仕方なく、彼女は無理やり体を支えながら火鉢へと歩を進めた。
火鉢の炎は激しく燃え盛り、熱波で空気が歪んで見えた。
凛は顔の涙を拭い、慎重に火鉢を跨ごうとしたが、それでも炎がふくらはぎを舐めた。
ふくらはぎに焼けるような激痛が走り、彼女はバランスを崩して危うく火鉢の中に倒れ込みそうになった。
火傷をしたふくらはぎには水ぶくれができ、少し動かすだけでも声が出ないほど痛んだ。
「時間を無駄にしないでください。暗くなる前にお守りを持ってこいとボスが仰っています」
ボディーガードは凛を乱暴に引っ張り起こし、冷酷に言い放った。
凛は悲惨な笑みを浮かべ、ボディーガードの手を振り払い、足を引きずりながら管理人の元へ向かった。
幸いにも、神様は彼女を見放していなかった。彼女が引いたのは、まさにお守りの当たりくじだった。
凛はお守りを固く握りしめ、痛々しい笑みを浮かべた後、目の前が真っ暗になり気を失った。
再び目を覚ますと、強烈な消毒液の匂いが鼻を突き、彼女はむせ返った。
だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。彼女は慌てて傍らにいる医師の方を向き、焦って尋ねた。
「先生、私の子供は無事ですか」
医師は厳しい表情で答えた。
「切迫流産を防ぐ薬を打ち、今は一時的に状態が安定しています。ですが、お腹の赤ちゃんが非常に不安定な状態で、これ以上無茶をすれば、次も同じように助かるとは限りません」
子供は無事だ。無事ならそれでいい。凛は深く安堵の息をついた。
スマートフォンを開くと、すでに翌日になっていることに気づいた。
凛は慌ててポケットに手を突っ込んだが、そこには何もなかった。
第6話
凛はハッと我に返った。彼女の特急券はどこへ行ったのか?
彼女は勢いよく点滴の針を引き抜き、両足の腫れも気にせず病室の外へ向かって猛ダッシュした。
だが、こちらに向かって歩いてきた蒼介に真っ直ぐぶつかってしまった。
「慌てて何をしている?」
彼は凛を咄嗟に支え、彼女の額の傷を見て一瞬だけ痛ましそうな色を浮かべたが、すぐにまた冷酷な表情に取って代わった。
「また何の芝居のつもりだ?君は栞を流産させかけたんだぞ。ただお守りを取りに行かせただけなのに、わざとそんな無様な姿になって僕の同情を引こうとしているのか?」
凛がしっかりと立ったのを見ると、蒼介は冷淡に両手を引っ込めた。
彼に触れられた瞬間、薬を塗ったばかりの凛の両足と額に突然激痛が走った。
彼女は後ろへ下がった。
「芝居?桐生社長は随分と物忘れが激しいのね。まさか忘れたわけじゃないでしょう、あなたがボディーガードに脅させて私を瑞光……」
「蒼介、少しお腹が空いちゃった。例の店の肉まんが食べたい。買ってきてくれない?」
ドアの外から聞こえた栞の声が彼女の言葉を遮った。
蒼介は眉をひそめ、今の言葉がどういう意味か凛に問いただそうとしたが、栞の度重なる甘え声には勝てず、凛に警告の目を向けるだけで慌ただしくその場を立ち去った。
蒼介が立ち去ると、栞の顔から笑みが消え失せた。先ほどの蒼介の痛ましそうな視線を、彼女ははっきりと見ていたのだ。
「凛さん、もし小春が突然いなくなったら、蒼介はあなたの仕業だと思うかしら?」
栞は突然彼女ににじり寄り、その顔には身の毛もよだつような笑みが浮かんでいた。
「狂ってる!」
凛は驚愕して彼女を見つめた。
「そうよ、狂ってるわ!すでに蒼介から離れたのに、どうしてまた戻ってきたのよ!」
栞は無表情で背後から一枚の特急券を取り出した。
「これ、あなたのでしょう?」
凛は勢いよく目を見開いた。
「何をするつもり!」
栞は笑みを浮かべ、その特急券をひらひらと揺らした。
「この切符、あなたにとってすごく大事みたいね?こうしましょう。あなた、蒼介に言ってちょうだい。この5年間、他の男と駆け落ちしたから家に帰らなかったって。そして、蒼介のところに来たのはただお金のためだって。今は新しいパトロンを見つけたから、すぐに去るってね」
凛は栞が理解不能だとしか思えなかった。
「やっていないことをどうして私が認めなきゃいけないの、しかもそんなことを!
それに、あなたも切符を見たのだから、私が去るってことは分かってるはずでしょう。もうあなたたちの邪魔はしないのに、どうしていつまでも私を追い詰めるの?」
凛にはどうしても腑に落ちない。
栞はすでに蒼介を完全に手中に収めて、小春以外にもお腹の中には彼ら愛の結晶がいるというのに、どうして自分のような元妻にいちいち盾突くのだろうか。
それを聞いた栞の顔色はいっそう暗く沈んだ。
「去る?誰がそんなこと信じると思うの。5年前にあなたはもう去ったはずなのに、どうして私たちが順調に行き始めた時にまた割り込んできて、蒼介を……」
「蒼介を」って、どういう意味?凛は彼女が何を言っているのか、さらに分からなくなった。
栞の言葉は唐突に途切れた。まるで何かの痛いところを突かれたかのように手に力を込めると、あの薄っぺらい切符に突如として亀裂が走った。
凛は突然目を大きく見開き、彼女が特急券を完全に引き裂こうとした瞬間、飛びかかって栞の手首を掴んだ。
「切符を返して!」
「離して!痛いじゃない!」
栞は悲鳴を上げて抵抗したが、廊下の突き当たりにある人影を垣間見た瞬間、突然背中から倒れ込み、わざと肘を壁にぶつけて鈍い音を立てた。
蒼介がテイクアウトの袋を提げて入ってきた時、ちょうど栞が地面に座り込み、凛がまだ手を伸ばした姿勢のままでいるのを目撃した。
「栞!」
彼は凛を突き飛ばし、栞を胸に抱き寄せた。
「大丈夫か?」
栞は彼の胸に寄りかかり、涙目で訴えた。
「蒼介、凛さんが突然私のものを奪い取ろうとして……私、ただこの切符を見たかっただけなのに……」
「何の切符だ?」
蒼介は何かの核心を突いたかのように、勢いよく振り返って凛を見た。
第7話
凛はその言葉に胸を焼かれるような衝撃を受け、切符を固く握りしめて蒼介の探るような視線を避けた。
「何でもないわ。あなたの聞き間違いよ」
「何の切符だと聞いているんだ?」
蒼介はさらに追及した。彼は凛の誤魔化しを信じていなかった。
「蒼介、手がすごく痛い……」
栞はタイミングよくすすり泣き始め、赤く腫れた肘を彼の目の前に掲げた。
「凛さんが急に飛びかかってきて……」
蒼介の注意はすぐにそちらへと引きつけられた。
彼は慎重に栞の肘を支え、ここ数日の彼女の数々の災難を思い出し、視線を凛に向けて冷ややかな声で言った。
「ちゃんと説明してもらうぞ」
「私はただ、自分のものを取り返したかっただけよ」
凛は背筋を伸ばして立ち、その眼差しは静まり返っていた。
栞はさらに激しく泣き崩れた。
「蒼介、私が卑劣なのは分かってるわ。私が付け込んだのよ。あなたたちが本来の夫婦なんだって分かってるから、私たち、もう離婚しましょう……」
その言葉は、蒼介の頭から冷水を浴びせるようなものだった。彼は、凛がこの5年間音信不通だった後で突然現れ、度々栞を傷つけておきながら、恥ずかしげもなく自分のものを取り返すと言い放ったことを思い出した。
「もういい」
彼は声を上げて遮り、栞をなだめると、振り返って凛を見た。
「凛、ここに君のものなど何一つない。君を家に住まわせているのは、ただ今の君に行く当てがないからだ。もしこれ以上、分不相応な企みで栞を傷つけるつもりなら、容赦はしないぞ……」
彼の言葉が終わらないうちに、栞は突然彼の腕を引っ張り、優しい声で言った。
「蒼介、やめて。凛さんはきっと一時的な衝動に駆られただけよ。私は大丈夫だから、彼女を帰してあげて。私、もう休みたいわ」
蒼介は栞の蒼白な顔を見て、心が少し揺らいだ。
彼は冷ややかに凛を一瞥した。
「栞が庇ってくれたことに免じて、今回は見逃してやる。ボディーガードに君を家まで送らせるから。二度とこんなことは起こすなよ」
凛は傍らに立ち、まるで部外者のように彼らが結託して芝居を打つ様を見つめていた。ただの簡単な言葉が、ここまで曲解されるとは思ってもみなかった。
彼女はそれ以上反論せず、ただその切符をきつく握りしめ、無言のまま邸宅へと戻った。
戻った後、疲労困憊した身体のせいで、彼女はすぐに深い眠りに落ちた。
駅の構内で、改札終了を知らせるアナウンスが突然鳴り響いた。凛は切符を手に持ったまま、帰りの列車が遠ざかっていくのをただ黙って見ているしかなかった。
彼女は必死に走ったが、どうしても追いつけなかった。
目の前がかすみ、栞が突然目の前に現れた。その手にはナイフが握られており、彼女のお腹に向かって容赦なく突き刺してきた。
「やめて!」
凛は驚いて跳ね起き、冷や汗がパジャマをぐっしょりと濡らしていた。
彼女は枕の下から切符を取り出し、月明かりを頼りにその上の日付を再び確認した。
亀裂はちょうど発車時刻の文字を貫いており、まるで悪い予兆のようだった。
凛は、この残りの4日間に何か別の異変が起こるかどうかをもう賭けたくはなかった。ただ今すぐここから離れたかった。
彼女は切符をポケットにしまい、スマートフォンを手に取って部屋を出ようとした。
彼女の手がドアノブに触れた瞬間、リビングの明かりが突然パッと点いた。
蒼介が玄関に立っており、彼女の襟首を掴んで、地面から体が浮き上がりそうになるほどの強い力で引き寄せた。
「小春はどこだ?」
凛は、彼がこれほどまでに取り乱している姿を見たことがなかった。
「家政婦は午後、君一人しか家にいなかったと言っている。栞は午後、君を庇うべきではなかった。まさか君が小春を拉致するなんてな」
凛は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「小春ちゃんがいなくなったって、どういうこと?」
たとえ小春が蒼介の不倫の証拠であったとしても、凛はこの無実の子供を憎んではいなかった。
「いい役者ぶりだな!」
蒼介は彼女を激しく壁に叩きつけた。「言え、小春をどこに隠した?」
「私じゃない……」
凛は苦しげに息をしながら答えた。
蒼介はもう彼女の弁明を聞こうとはせず、背後にいるボディーガードに命令を下した。
「こいつを地下の監禁室へぶち込め。僕の許可なしに、絶対に外へ出すな」
凛は全身を震わせた。彼女が閉所恐怖症であることを、彼は知っているはずなのに。
「やめて!」
凛はボディーガードに引きずられながらも、必死に抵抗して振り返り蒼介を見た。
しかし、彼はすでに背を向けて立ち去っており、その後ろ姿には少しの迷いもなかった。
監禁室の重い扉が目の前で激しく閉ざされ、最後の一筋の光すらも飲み込まれた。
凛は部屋の隅にうずくまり、呼吸は次第に荒くなっていった。
彼女が見た夢は、どうやら現実のものとなってしまったようだ。
1日目の夜、下腹部に激痛が走った。
温かい液体が股の間を伝い落ちるのを感じ、凛が手を伸ばすと、ベタつく感触があった。果てしない闇の中で、彼女は血の匂いを嗅ぎ取った。
それは、自分の子供だった。
2日目、あるいは3日目だったかもしれない。暗闇のせいで、彼女は時間の感覚を失っていた。
誰も食べ物を運んできてはくれず、凛は自分の手首を噛み破って血を吸うことしかできなかった。
4日目、凛は自分が本当に元の世界へ戻れなくなったのだと思った。
精神が崩壊しそうになり、自ら命を絶とうとしたその時、監禁室の扉がわずかに開いた。
凛の目の前が明るくなり、彼女はもがきながら起き上がり、よろめきながら扉へ向かって突進した。
今度は、誰も彼女を遮る者はいなかった。
特急列車の駅構内で、彼女が乗る列車の改札開始を知らせるアナウンスが響いていた。
凛は血に染まった切符を固く握りしめ、一歩ずつ改札口へと歩みを進めた。