燃え尽きた恋の果てに

Đang tải thông tin quảng bá...

燃え尽きた恋の果てに

GoodNovel Hoàn thành

「お義母さん。 三年の約束の期限が、もうすぐ終わるわ。 私、もう出ていく」 朝倉梨央(あさくら りお)は床に膝をつき、血の流れる手首を伏...

Chương (1)

第1章

「お義母さん。 三年の約束の期限が、もうすぐ終わるわ。 私、もう出ていく」 朝倉梨央(あさくら りお)は床に膝をつき、血の流れる手首を伏し目がちに見つめながら、苦さと寂しさの滲む声で言った。 電話の向こうの義母は、たちまち慌てた。 「梨央、理玖(りく)はあなたを愛していないわけじゃないの。 ただ、自分の気持ちに気づいていないだけよ。 もう一度、あの子に機会をあげて。 もう少し待ってあげられない?」 梨央は苦笑いを浮かべた。 「お義母さん。 私はこの三年、理玖の妻でありながら、ずっと彼に憎まれてきたわ。 もう、本当に疲れたの」 彼女は一瞬言葉をつぐまず、どうにか平静な口調で続けた。 「彼が愛している人も、もうすぐ帰国する。 私も、もう身を引くべきなのよ」 第1話 「お義母さん。三年の約束の期限が、もうすぐ終わるわ。 私、もう出ていく」 梨央は床に膝をつき、血の流れる手首を伏し目がちに見つめながら、苦さと寂しさの滲む声で言った。 電話の向こうの義母は、たちまち慌てた。 「梨央、理玖はあなたを愛していないわけじゃないの。 ただ、自分の気持ちに気づいていないだけよ。 もう一度、あの子に機会をあげて。 もう少し待ってあげられない?」 梨央は苦笑いを浮かべた。 「お義母さん。私はこの三年、理玖の妻でありながら、ずっと彼に憎まれてきたわ。 もう、本当に疲れたの」 彼女は一瞬言葉をつぐまず、どうにか平静な口調で続けた。 「彼が愛している人も、もうすぐ帰国する。 私も、もう身を引くべきなのよ」 義母の引き留める言葉は、その一言で力を失い、途切れた。 梨央が六歳のとき、両親は離婚し、それぞれ別の家庭を築いた。 けれど、どちらも梨央を重荷にしか思わず、引き取ろうとはしなかった。 そんな彼女を篠原家が引き取り、育ててくれたのが、心優しい義母の篠原志保子(しのはら しほこ)だった。 そして梨央は、同じ家で育った篠原理玖(しのはら りく)を好きになった。 三年前、理玖の誕生日。 彼は恋人だった水原悠月(みずはら ゆづき)にプロポーズするつもりでいた。 だがその日、理玖は何者かに薬を盛られ、梨央と同じ部屋に閉じ込められてしまう。 そこで二人は、過ちを犯したのだ。 その場を目撃した悠月は深く傷つき、翌日には国外へ去った。 そして志保子に迫られるまま、理玖は梨央と結婚した。 けれどその日から、彼は彼女を激しく憎むようになった。 梨央は立ち上がって部屋を出た。 隣の部屋の前を通りかかったとき、思わず足が止まった。 ドアの隙間から、女の甘ったるい声がかすかに漏れてきた。 「理玖、会いたい。まだ迎えに来てくれないの? 理玖、これ、私が選んだおそろいのアイコンなの。早く変えて。 やだ、これがいいの。子どもっぽいなんて言わないで。 私のこと、愛してる?どれくらい? 私が理玖を想ってる以上に、私をもっと愛してほしいの…… 理玖……理玖……」 その艶めいた声に混じるように、男の荒い息遣いが聞こえた。 押し殺し、懸命に耐えるような熱を帯びた声で、彼は何度も女の名を呼んでいた。 「……悠月」 こういう場面を見てしまったのは、これが初めてではない。 それでも胸には、錐で抉られるような痛みが走り、目には涙が滲んだ。 男の声に滲む、ほかの女への想い。 それは蔓のように伸びて、少しずつ、彼女の中に残っていた愛を締め殺していく。 両親に見捨てられたことから、長く安心感を得られずにいた梨央は、人肌をとても恋しく思っていた。 しかもそれを和らげられるのは、理玖だけだった。 けれど彼は、あの日のことを梨央の企みだと思い込み、彼女に対してだけひどい潔癖症をこじらせるようになった。 結婚して三年。 彼は梨央を嫌い、憎み、無視し続けた。 結婚したその夜でさえ、そのまま飛行機に乗って海外へ渡り、悠月に会いに行ったほどだった。 この家でいちばん多い日用品は、消毒液だ。 うっかり梨央が使った物に触れてしまっただけでも、彼はすぐに消毒した。 元恋人の声を聞いて欲を紛らわせても、妻である彼女に指一本触れようとはしない。 そして梨央は、発作が起きるたびに、自分の肌を何度も傷つけるしかなかった。 痛みで意識をつなぎとめ、胸の奥で募る彼への渇望を、必死に抑え込むために。 本当は、理玖が悪いわけではない。 ただ、彼は彼女を愛していない――それだけなのだ。 梨央はドアの隙間越しに、欲情に沈んだ理玖の横顔を見つめ、かすかに呟いた。 「あと七日で、あなたは自由になれるわ」 自分が去ること。 それが、彼に贈る誕生日プレゼントだ。 今度こそ、きっと彼は喜ぶのだろう。 梨央は一睡もできないまま朝を迎え、翌朝、パスポートを手にして階下へ降りた。 担当の精神科医からは、生活環境を変えることが、この病気の回復には有効だと勧められていた。 彼女はもう行き先を決めている。 ラセア島に移り住むつもりだった。 玄関まで来たところで、ちょうど理玖も外出しようとしていた。 第2話 彼は黒のスーツに身を包み、襟元をわずかに開けたまま、ゆっくりと袖を直していた。 端整な顔立ちは、相変わらず冷たく近寄りがたい。 ふと視界の端に彼女の姿が入ると、切れ長の目をわずかに上げ、その鋭い眼差しが、血の気が失った彼女の顔の上で一瞬止まった。 二人が玄関先まで来て距離が近づくと、理玖は彼女の身体から、かすかに血と薬の匂いがするのに気づいた。 彼の表情がわずかに変わる。 「怪我でもしたのか?」 梨央の手首の傷は、すでに手当てをして薬も塗ってあり、そのうえ長袖まで着て隠していた。 そう聞かれて、彼女はとっさに手を背中に隠した。 「してないわよ」 理玖はそれ以上その匂いを感じ取れず、気のせいだったのだろうと思った。 よほど機嫌がよかったのか、その日は珍しく自分から口を開いた。 「どこへ行くんだ。送るよ」 梨央が断る間もなく、彼は早足で先に歩き出していた。 梨央は黙ってそのあとについていき、車に乗り込んでから小さな声で言った。 「出入国在留管理局まで」 彼女はバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、隠しきれない期待を胸に彼を見つめた。 けれど理玖は何も聞かず、ただ目を伏せて行き先を入力しただけだった。 梨央の瞳に浮かんだ期待は、行き場を失った。 ほっとした気持ちと、失望と、どちらが大きいのか自分でもわからなかった。 彼は彼女がどこへ行こうと、少しも気にかけていないのだ。 車は管理局へ向かって走り出した。 梨央は顔を横に向け、彼を見つめる。 骨格の整ったその横顔は、息をのむほど端正だった。 彼女はためらいがちに口を開いた。 「理玖。実は三年前、私たち……」 そのとき、彼のスマホが突然鳴った。 彼は画面をひと目見るなり、すぐに電話に出た。 声は驚くほどやさしい。 「もう着いたのか?待ってて。すぐ行く」 梨央は表示された画面を見た。 悠月からの着信だとわかっていた。 理玖が口を開くより先に、彼女は空気を読んで自分から言った。 「用事があるなら先に行って。 私は自分でタクシーを呼んで、管理局に行くから」 理玖は彼女をひと目見て、やがて路肩にゆっくり車を寄せた。 梨央がドアノブに手をかけたとき、彼がふいに尋ねる。 「さっき、何を言いかけたんだ?」 梨央は首を横に振った。 「ううん、何でもない。先に行って」 彼女はいつものように消毒用のウェットティッシュを取り出し、自分が座っていた場所を、隅々まで丁寧に拭いた。 その手元を見た理玖の目が、ふいに暗さを帯びる。 彼女が車を降り、ようやく立ち止まったかと思うと、車は待ちきれないように走り去っていった。 巻き起こった風がスカートの裾を揺らす。 梨央はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく車を見送った。 さっき彼に伝えようとしていたのは、実は三年前、自分たちはまだ正式に婚姻届を出していないということだった。 あの日、二人は婚姻届を出すために役所へ行った。 けれどそのあと理玖は一本の電話を受け、慌ただしく立ち去ってしまった。 梨央もそのまま家へ戻り、結局、二人は正式に入籍していないままだった。 それなのに彼はこの三年間、一度としてそれを確かめようともしなかったのだ。 そして、悠月が帰国した。 三年もの間、ずれたままだったものを、もう元に戻すときなのだ。 彼の誕生日まで待ってから、このサプライズを伝えよう。 梨央は一人で管理局へ向かい、書類を提出した。 そこを出たあとは、友人と待ち合わせていたレストランへ向かった。 彼女が海外へ行くと知るなり、友人はその場で目を真っ赤にした。 しばらくしてから、喉を詰まらせるように言う。 「海外へ行くのもいいと思う。 これからは思いきり自由に生きて、やり直せばいいよ。 彼があなたを愛してくれなくても、もっといい人がきっと現れるから」 友人は別れを惜しんで、かなり酒を飲んだ。 最後にはすっかり酔ってしまい、彼氏に迎えに来てもらって帰っていった。 梨央も少し気持ちが沈んでいた。 トイレを済ませて店を出ようとしたとき、ある個室の前を通りかかり、ふいに理玖の名前が耳に入った。 思わず足が止まる。 個室の扉は半開きになっていて、椅子にもたれかかるように座っている理玖の姿が、はっきり見えた。 片手を椅子の背にもたせ、どこか気だるげな姿勢のまま、隣にいる悠月を見下ろす眼差しは、やさしく、甘やかだった。 個室の中では、誰かがしみじみと言っていた。 「理玖と悠月って、やっぱりお似合いだよな。 あの頃はあんなに愛し合ってたんだから、てっきり二人の結婚式に呼ばれるものだと思ってたよ。 ほんと残念だ」 「そんな話、今さら持ち出してどうするの? 元をただせば朝倉っていう、あの計算高い女のせいでしょ。 薬まで使って理玖のベッドに入り込んで、無理やり二人を引き裂いたんだから」 さっきまで賑やかだった個室の空気が、ぴたりと凍りついた。 理玖の表情も、いくぶん冷たくなった。 悠月が笑みを浮かべ、先に場を取りなした。 「もういいの、いいのよ。 そんな昔のこと、今さら掘り返さないで。 今日は私の帰国祝いなんだから、みんなそんな嫌な話はやめましょう?」 それでも誰かが、こらえきれずに理玖へ問いかけた。 「理玖、お前だって朝倉のことなんか好きじゃないんだろ。 三年も振り回されたんだから、もう十分じゃないか。 さっさと別れろよ」 「この数年ずっと悠月の帰りを待ってて、時間さえできれば海外まで会いに行ってたんだって?」 「やっと戻ってきたんだし、今度こそやり直すつもりなんだろ?」 梨央は、答えなどわかっているはずなのに、それでも思わず息を潜め、理玖の返事を待った。 第3話 理玖は、梨央の視線に気づいたように、不意に顔を上げてこちらを見た。 二人の視線がぶつかる。 彼は目を細めた。 梨央は胸がざわつき、もう見ていられず、慌てて背を向けてその場を離れた。 本当は、聞く必要もない言葉だった。 答えなんて、最初から決まっていたのだから。 店を飛び出して、外に出たところで、いつの間にか雨がしとしと降り始めていることに気づいた。 振り返れば、理玖たちと鉢合わせしかねない。 ほんの数秒ためらった末、彼女はそのまま雨の中へ飛び込んだ。 あっという間に全身がずぶ濡れになる。 降りしきる雨を見上げながら、理玖が悠月へ向けていたあの優しい眼差しを思い出し、胸が痛んで身体の芯まで震えた。 篠原家に引き取られたばかりのころ、梨央はまだ六歳だった。 幼かったけれど、もう十分すぎるほど物わかりがよく、人の家に身を寄せて生きるしかないこともわかっていた。 志保子にからかわれれば、彼女もつられてぎこちなく笑った。 明るく元気でいてほしいと望まれれば、人前では懸命にそう振る舞った。 そうしなければ、恥をかかせてしまう気がしたからだ。 転んでも泣けなかった。 つらい思いをしても、わがままひとつ言えなかった。 いつか志保子にも見捨てられるのが、怖かったから。 そんな彼女の気持ちに、最初に気づいてくれたのが理玖だった。 彼はそっと彼女の手を取ってくれた。 「梨央、怖がらなくていい。今日から俺がお前の家族だから。 俺がいる。絶対に、お前をひとりにはしない」 「なんでこんなところで一人で泣いてるんだ? うちの梨央をいじめたのは誰だ。 言ってみろ、俺が仕返ししてやる」 「ちゃんと手をつないでいろ。 俺は絶対に、お前を置いていかない」 彼を愛していると気づいたときには、もう彼には悠月がいた。 彼たち二人の関係を壊したくなくて、梨央は必死に距離を取ろうとした。 けれど理玖は彼女の様子がおかしいことに気づき、あの手この手で機嫌を取ろうとした。 そのたびに、彼が気を遣って自分をなだめようとする姿を見るのがつらくて、梨央はとうとう、想いを口にしてしまった。 あのとき理玖が見せた、驚きに満ちた表情を、彼女は今でも忘れられない。 翌日の彼の誕生日。 梨央はこっそり誕生日パーティーへ向かった。 本当は贈り物だけ置いて帰るつもりだったのに、なぜか彼の部屋に閉じ込められ、成り行きで彼と一夜をともにすることになってしまった。 どれだけ違うと訴えても、薬を盛ったのは自分じゃないと説明しても、彼はまったく信じてくれなかった。 梨央は雨の中で立ち止まり、雨に打たれた自分の両手を見つめた。 「嘘つき……絶対に置いていかないって、言ったのに……」 ふらつくように家へ戻ると、間もなく玄関の扉が再び開いた。 姿を現した理玖の手には、大きなピンク色のスーツケース。 その隣には、悠月がぴたりと寄り添って立っていた。 彼女は理玖の腕に、自分の腕を絡めている。 ふだんなら潔癖な彼が、それを嫌がる様子はまったくなかった。 梨央の姿を見つけると、悠月はにこやかに声をかけてきた。 「梨央、久しぶり。 帰国したばかりで、しばらく落ち着ける場所がなくて。 理玖が、ここに少し泊まればいいって言ってくれたの。 迷惑じゃないかな?」 梨央の顔色が少し白くなった。 それでも首を振った。 「……ううん」 人も荷物も、もうここまで来ている。 いまさら断れるはずがなかった。 悠月は笑みを浮かべたまま言う。 「安心して、ほんの数日だけだから。 部屋が見つかったら、すぐ出ていくわ」 梨央が何か言うより先に、隣の理玖が口を開いた。 「部屋ならいくらでもある。 好きなだけいればいい」 その言葉に、悠月の笑みはいっそう明るくなった。 彼女は室内を見回し、ソファに置かれたピンク色の亀のぬいぐるみを見つけると、すぐに目を輝かせて駆け寄り、抱き上げた。 「あっ、これ、前に私があげたピンクのカメさんでしょ? まだ取ってあったんだ。 これも、私があげた読書用のライト。 この鉢植え、私すごく好きだったの。 三年も経ってるのに、まだ枯れてないのね?」 悠月が部屋のあちこちを見て回り、思い出の品をひとつ見つけるたびに、梨央の胸はそのぶんだけ深く痛んだ。 理玖は自ら悠月のスーツケースを持ち、家の中でいちばん日当たりのいいゲストルームの前まで運んだ。 それを見た悠月は、弾んだ声を漏らし、感極まったように目を潤ませた。 「わあ……この部屋、三年前に私が出ていったときのままね」 部屋は少しも変わっていなかった。 まるで、本来ここにいたはずの人を、ずっと待ち続けていたみたいに。 それは理玖も同じだった。 三年間ずっと、彼が本当に迎えたかった花嫁を待ち続けていたのだ。 梨央の心は、ぼろぼろに裂けた布切れのように引き裂かれ、痛みで息すらうまくできなかった。 第4話 結婚後、志保子の勧めで、梨央は理玖の住むこの邸宅に移り住んだ。 けれど、彼が梨央の部屋に足を踏み入れたことは、一度もない。 彼女が買ったものには見向きもせず、使うなどもちろんありえなかった。 食器ですら、彼のものと一緒に置くことは許されなかった。 同じ家で三年を過ごしても、梨央はずっと、目に見えない境界線のこちら側に閉じ込められたままだ。 彼の心に踏み込むことなど、ついに一度もできなかった。 その一方で、悠月は三年前にこの家を去ったあとも、変わらず彼の心のいちばん大切な場所にいた。 梨央は無意識のうちに手首の傷を触っていた。 指先が血で滲んでいることに気づいて、ようやく我に返り、逃げるように自分の部屋へ戻る。 ドアに鍵をかけると、そのまま扉にもたれ、力なく床に座り込んで、スマホを開いた。 待ち受けは、三年前に理玖と一緒に撮った写真のままだった。 あの頃は、まだ嫌われていなかった。 肩を並べて写真に収まった彼の目には、たしかにやわらかな笑みが浮かんでいた。 梨央は震える手を伸ばし、画面の中の理玖の顔にそっと指先当てた。 十六で恋を知り、二十六になった今まで。 この十年で、彼女は恋の甘さも苦さも、ひととおり味わい尽くしてきた。 ぽたり、と涙が画面に落ちる。 梨央は声を震わせながら、かすかにつぶやいた。 「理玖……もう、あなたを好きでいるのはやめるわ」 震える指で待ち受けを変え、スマホの中に大切に残していた彼の写真も、ひとつ残らず削除していく。 長く胸の奥に抱え込んできた想いを、無理やり引き剥がすようにして、少しずつ捨てていった。 昼間に雨に打たれたうえに、気持ちも張りつめていたせいで、その夜、梨央は熱を出した。 意識はぼんやりとかすみ、布団にくるまったまま、無意識に「理玖」と呼んでいた。 熱と脱水症状で喉はからからに渇き、身体にも力が入らない。 それでもどうにか起き上がり、解熱剤を飲もうと階下へ向かった。 部屋を出たところで、隣で悠月が使っている部屋から明かりが漏れているのが見えた。 悠月は理玖の首に腕を巻きつけ、しなやかな身体を彼の胸に預けていた。 甘くやわらかな声が、夜気に溶ける。 「理玖、この三年、毎日あなたのことを考えてたわ。 三年前のことがあなたのせいじゃないって、ちゃんとわかってる。 あのとき意地を張って出ていかなければ、私たち、こんなふうに三年も遠回りしなくて済んだよね。 家の中、何もかも、私が出ていったときのまま。 ……つまり、あなたも私の帰りを待っていてくれたってこと? 理玖、もう二度と離れないから。 私たち、もう一度やり直さない?」 理玖は黙ったまま、答えなかった。 けれど、胸にもたれかかる悠月を振りほどこうともしない。 悠月は彼を見上げると、不意に背伸びをして、唇を重ねようとした。 梨央はもう見ていられず、弾かれたように顔を背け、その場を離れた。 解熱剤を雑に飲み下し、ぬるま湯を半分以上飲むと、手すりを頼りに階段を上って部屋へ戻ろうとする。 そのとき、途中で理玖の姿が現れた。 「何をしている」 声はひややかだった。 梨央はうつむいたまま立ち止まる。 痩せた身体はいっそう弱々しく見えた。 彼の視線を避けながら、小さく答える。 「喉が渇いて……水を飲みに」 理玖は、かすかに掠れたその声と、頬に差した不自然な赤みに気づいた。 無意識に一歩近づき、彼女の額に触れようと手を伸ばす。 けれど梨央は、弾かれたように半歩身を引き、その手を避けた。 理玖の目つきが、一瞬で沈んだ。 梨央はかすれた声で呟いた。 「……だめ。 手、洗わなきゃいけなくなるから」 理玖は手を下ろし、黙ったまま指先を強く握りしめた。 梨央は低い声で言った。 「もう、二人の邪魔はしないわ」 そう言い残し、足早に部屋へ戻っていく。 その背中を、理玖がずっと見つめていたことに、彼女は気づかなかった。 熱が下がるまで、丸二日かかった。 身体はひどくだるく、階下へ降りる力さえ出ない。 閉ざした扉一枚隔てた向こうからは、階下で悠月と理玖が話したり笑い合ったりする声が、かすかに聞こえてきた。 もともと人気のなかった家に、ようやく温もりが戻ったようだった。 そこに、梨央がいるかいないかなど、誰も気にしない。 彼女は二日続けて部屋を一歩も出なかった。 食事は使用人に頼み、部屋の前まで運んでもらっていた。 熱が下がると、梨央はクローゼットから大きなスーツケースを引き出し、自分の荷物をまとめ始めた。 海外に持っていくものは多くない。 支度はあっという間に終わった。 最後に、クローゼットの奥にしまってあった収納箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。 中に入っていたのは、昔、理玖にもらったプレゼント。 こっそり書いたまま、一度も渡せなかった手紙。 それから―― 彼の下着やシャツまで、ひそかにしまってあった。 この数年、人肌が恋しくても理玖に触れてもらえない梨央は、自分を傷つける以外に、彼の私物を盗むように持ち出して、気持ちを落ち着かせるしかなかった。 もちろん、そんなことを彼に知られるわけにはいかなかった。 異常だと思われるのが怖かったからだ。 梨央は深く息を吸い込むと、その箱の中身を全部抱え、階下へ降りていった。 だが下まで来て初めて、その日、理玖が会社へ行っていないことに気づく。 彼はソファに腰かけ、悠月と並んで映画を見ていた。 足音に気づき、悠月が振り返る。 その視線が、梨央の腕に抱えた箱へと止まった。 第5話 「梨央、それ……?」 梨央は腕の中の箱を抱きしめたまま答えた。 「もう要らないものよ。 捨ててくるわ」 悠月はにこにこと笑った。 「どうせ捨てるなら、ちょうど私の部屋に収納箱がひとつ欲しかったの。 中身はこっちで捨てるから、その箱、もらってもいい?」 そう言って手を伸ばしてきた。 梨央は慌ててその手を避けた。 緊張のせいで、声が少し固くなる。 「結構よ」 差し出した手が宙に浮き、空気が気まずく張りつめた。 理玖は箱に目をやり、そのまま冷えた視線を向ける。 「それ、もう古いだろ。 あとで新しいのをいくつか持ってこさせるよ」 それでようやく悠月もまた笑みを浮かべ、今度は明るい声で梨央を声をかけた。 「梨央、明日、友達を何人か呼んで家で食事するの。 あなたも一緒に、食べましょう?」 その口ぶりは自然で、まるでこの家の主人のようだった。 梨央は唇を噛み、どう断ろうか迷った。 すると理玖が口を開いた。 「悠月は帰国したばかりだ。 お前も手伝ってやれ」 「……わかったわ」 三年前のことは、たとえ自分の仕業ではなかったとしても、結果として悠月を傷つけたのは事実だ。 あまりに冷たく突き放すことはできなかった。 梨央は結局うなずき、うつむいたまま箱を抱えて外へ出ると、ゴミ捨て場へ向かった。 その背中に注がれていた悠月の含みのある視線には、まるで気づかなかった。 気づけば翌日になっていた。 悠月が招いた友人は多く、二十人を優に超えていた。 梨央は朝早くから起きて手伝いに回ったが、悠月はこの家の主人のような顔で、彼女や使用人たちに次々と指図した。 使用人たちは何度か口を開きかけたものの、理玖が何も言わずに許しているのを見て、梨央も黙っている以上、最後にはため息をついて引き下がるしかなかった。 宴が始まってから、梨央も付き合いで二杯ほど口をつけた。 だがほどなくして、身体に妙な違和感が走る。 理玖は悠月とその友人たちに囲まれ、談笑しながら接待に追われていた。 梨央の胸に、ふいに嫌な予感がよぎる。 彼女は足早に部屋へ向かった。 けれど、身体の異変はみるみるはっきりしていった。 下腹の奥に、理由のわからない熱がこみ上げてくる。 全身から力が抜け、脚まで頼りなくなる。 頬は赤く染まり、こめかみには細かな汗が浮かび始めた。 梨央は急いで浴室へ駆け込み、冷水で顔を洗った。 だが、まるで効き目がない。 全身が熱を帯びていた。 彼女は身につけていた服を脱ぎ捨てるように床へ落とし、そのままベッドに身を横たえた。 そのとき、指先にふいに覚えのある感触が当たった。 手に取ってみると、それは理玖のシャツだった。 梨央は呆然とつぶやいた。 「もう……捨てたはずなのに……」 身体の奥から湧き上がる渇きが、容赦なく彼女を揺さぶる。 梨央は首をのけぞらせ、抗えないまま、頭の中に理玖の顔を思い浮かべていた。 一瞬で、三年前、理玖と一夜をともにしたあの夜へ引き戻される。 男の力強い手が腰をつかみ、何度も深く身体を重ねた。 肌の触れ合い以上に、彼女の魂を震わせたのは、その密やかな熱だった。 意識はとろけるように曖昧で、幻を見ているみたいだった。 梨央は理玖の名をかすかに呼びながら、無意識にそのシャツを抱きしめる。 まるで、抱いているのが彼自身であるかのように。 そのとき、突然ドアがノックされた。 続いて聞こえてきたのは、理玖の冷たい声だった。 「梨央。 俺を呼んだのか?」 梨央は愕然として目を見開く。 自分の耳がおかしくなったのかと思った。 理玖はもう一度ドアを叩き、しばらく待ったあと、ためらいもなくノブを回した。 梨央は恐怖に駆られ、叫ぶ。 「入らないで……!」 だが、理玖はすでにドアを開けていた。 数メートル離れた場所からでも、彼女の無様な姿ははっきり目に入った。 理玖の瞳が激しく揺れる。 「お前……」 その背後から、突然悠月の声がした。 「梨央、部屋にいるの? さっき顔色が悪かったから、具合でも悪いのかと思って」 言い終えるより早く、悠月は理玖の後ろからひょいと顔をのぞかせる。 「梨央!」 その後ろには何人もの人影が続いていた。 悠月の驚いた声を聞きつけて、次々と中へなだれ込んでくる。 そしてそのとき、梨央は何も身につけないままベッドに横たわり、胸に抱いていたのは理玖の黒いシャツだけだった。 部屋に入ってきた者たちは、一斉に彼女と目を合わせた。 そこにいたのは、見るも無残で、みっともない姿の梨央だった。 悠月が悲鳴を上げる。 「いやっ……! 何してるの?」 その背後の者たちも、驚きのあまり梨央を指さしながら囁き合う。 「うそ……そういうことしてたの? 気持ち悪い……」 「みんな下で集まってるのに、部屋にこもってこんなことしてるなんて。 そんなに欲求不満なの?」 「今日の集まりは悠月が開いたものなのに、こんなふうに自分の立場を見せつけるつもりだったの?」 「わざと理玖を部屋に呼び戻したの? また前と同じことをするつもりだったんじゃない?」 あちこちから向けられる視線と声が、容赦なく梨央に突き刺さる。 そのうえ階下からも、どたどたと激しい足音が響いてきた。 さらに人が駆け上がってくるのだとわかった。 「やめて……いや……」 誰にも見せたくなかった、自分のいちばん醜い部分が、無理やり暴かれていく。 その瞬間、まるで再び三年前へ引きずり戻されるようだった。 もう一度、あの地獄に突き落とされるみたいに。 梨央の顔から血の気が引き、身体は激しく震え始める。 彼女は何も考えられないまま逃げ出し、まっすぐ窓のほうへ駆けた。 そして、そのまま窓の外へ身を投げた。 理玖の顔色が変わる。 「梨央!」 第6話 梨央は地面に叩きつけられ、右脚に刺すような激痛が走った。 目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失う。 次に目を覚ましたときには、もう病室の中だった。 ベッドの脇には理玖が座っていた。 彼は彼女を見下ろしながら、冷えた声に複雑な色を滲ませる。 「梨央、お前はそんなに欲求不満だったのか?」 梨央の顔から、みるみる血の気が引いていった。 理玖の目つきはさらに冷たくなる。 「それとも、ああいうことをしてでも悠月の宴会をぶち壊したかったのか? あんな汚いやり方で、自分の立場を誇示したかったのか?」 彼の瞳に浮かぶ冷たさと嫌悪を見ているうちに、どんな言い訳も口にする気力を失っていく。 「違う……私は……」 けれど理玖は、三年前と同じように、やはり彼女の言葉を信じなかった。 ただ低く言う。 「梨央、お前はどうして、こんなふうになったんだ」 梨央は虚ろな目で彼を見た。 「私が、どんなふうになったっていうの? 腹の底で何を考えてるかわからない女? 手段を選ばない女? 恥も外聞もない女?」 理玖の目には失望が浮かび、そのまま立ち上がった。 「悠月はお前に刺激されて、うつがぶり返した。 泣いて、そのまま気を失った。 だが、目を覚まして最初に、お前のことを心配してた。 あとでちゃんと、本人に謝れ」 遠ざかっていくその背中を見つめながら、梨央は苦しそうに目を閉じた。 薬の効き目が切れるにつれ、意識も少しずつはっきりしてくる。 そしてようやく、自分が誰かに薬を盛られたのだと気づいた。 恥をかかせるために。 理玖に、もっと嫌われるよう仕向けるために。 梨央の脳裏に、悠月の顔がよぎる。 三年前、自分と理玖があの夜を迎えてしまったときも、誰もが梨央を責めた。 計算高い女だと。 悠月を裏切ったのだと。 潔白を証明したくて、梨央は必死に黒幕を探した。 たったひとつだけ辿り着いた手がかりが、悠月だった。 けれどあのときの彼女は、どこかで何かが食い違っているのだと思っただけで、まさか本当に彼女だとは考えもしなかった。 だって理玖はあれほど彼女を愛していて、妻に迎えるつもりでいたのだから。 しかも悠月は、あの出来事のあと深く傷つき、被害者として国外へ去っていった。 自分の恋人を、ほかの女と同じベッドに送り込むような真似をする人間が、どこにいるというのだろう。 梨央はしばらく黙って考え込んだあと、スマホを手に取り、ある番号へ電話をかけた。 「調べてほしいの。 悠月がこの数年、海外でどうしていたのか」 梨央が傷めたのは右足だった。 幸い、捻挫ですんでいて骨は折れていない。 翌日には退院の手続きを済ませ、一人で足を引きずりながら階下へ降りた。 ロビーまで来たところで、理玖が悠月を抱えたまま、慌ただしく中へ駆け込んでくるのが見えた。 悠月はぐったりと彼の腕の中に身を預け、顔には涙の跡が残っている。 だらりと垂れた手首には、細い赤い線が一本走っていて、ひどく目を引いた。 梨央の姿を見つけると、理玖は悠月を下ろし、そのまま早足で彼女の前まで詰め寄ってきた。 彼の手には、何枚もの便箋が握られている。 次の瞬間、それを彼女の顔へ容赦なく叩きつけた。 便箋はばさりと降りかかり、そのままひらひらと床一面に散っていく。 そこに書かれているものを、梨央は見なくてもわかっていた。 どれも、自分がかつて理玖に宛てて書き、一度も渡せないままだった恋文だ。 いつもは冷静で感情を表に出さない理玖が、珍しく怒りを露わにしている。 「梨央、この前言ったばかりだろ。 悠月はお前のせいでうつがぶり返したんだ。 それなのに、こんなものを家中に貼って、またわざと刺激したのか! 俺はもうお前と結婚して、お前の望みを叶えたはずだ。 悠月はほんの数日ここに身を寄せてるだけなのに、それでも追い詰めて死なせたいのか? 三年前はお前のせいで国外へ追いやられて、今度はお前のせいで手首を切った。 お前はいったい、何がしたいんだ!」 梨央は足元に散らばった恋文を見つめ、ゆっくりとかがみ込んで拾い上げた。 たしかに、全部ゴミ箱へ捨てたはずだった。 なのに今、あの隠していた私物と同じように、また目の前に現れている。 梨央は理玖の背後に立つ悠月へ目を向けた。 その瞳の奥にある、わずかな得意げな色と嘲りを、彼女は見逃さなかった。 もう十分だった。 何が起きているのか、わからないはずがない。 悠月は、皮膚が破れることすらない細い傷ひとつで、理玖をここまで取り乱させ、病院まで飛んで来させた。 一方で、自分の左手には無数の傷痕が残っているのに、彼は一度だって気づかなかった。 理玖は、うつむいたままの梨央を見て、被害者ぶっているようにしか思えず、胸の苛立ちを抑えきれなくなっていく。 「何とか言え。 ちゃんと説明しろ!」 梨央は顔を上げ、力の抜けた声で答えた。 「私は、やってない……」 また同じ言葉を繰り返す。 どうせ今回も、信じてもらえないとわかっていた。 けれどその言葉が口をついた次の瞬間、梨央の目は大きく見開かれた。 理玖と悠月の背後、少し離れた場所にいた一人の男が、突然バッグの中から果物ナイフを取り出したのだ。 それまで平凡でおどおどして見えた顔から、怯えは一瞬で消え去り、代わりに凶暴で歪んだ表情がむき出しになる。 男はナイフを振りかざし、周囲の人間へ無差別に切りつけ始めた。 病院にいた医師や患者たちが一斉に悲鳴を上げ、場はたちまち大混乱に陥る。 しかもその男は、理玖たちのすぐそばにいた。 なのに理玖は背を向けていて、まるで気づいていない。 梨央は顔色を変え、反射的に駆け出した。 「危ない!」 第7話 理玖と悠月は、その声に振り向いた。 悠月はたちまち顔色を失い、悲鳴を上げる。 「いやっ!」 「悠月!」 梨央が理玖の前に駆け込んだ、その瞬間だった。 彼は反射的に、悠月を自分の背後へと引き寄せた。 だが、取り乱した悠月は、理玖をかばおうとして最前列に立った梨央を、思わず突き飛ばしてしまった。 もともと右足を傷めていた梨央は、とても踏ん張れなかった。 身体は大きくよろめき、そのまま狂気に駆られた男の足元へ倒れ込む。 梨央は目を見開き、信じられない思いで悠月を見た。 だが次の瞬間、男は果物ナイフを握りしめ、ためらいなく彼女の背中へ突き立てた。 鈍い音とともに、刃が深く沈む。 まるで身体を真っ二つに裂かれたような痛みに、梨央は悲鳴を上げた。 それでも男はナイフを引き抜き、さらにもう一度振り下ろそうとする。 そのとき、理玖が飛び出した。 鋭い蹴りが男を吹き飛ばし、手からナイフが離れる。 男は床に叩きつけられた瞬間、すぐさま数人がかりで取り押さえられた。 梨央は痛みに全身を震わせ、意識ももう朦朧としていた。 それでも、視界の端に映った。 理玖が慌てた様子で彼女のそばに膝をつき、背中の傷口を強く押さえていた。 その目には、焦りと心配が滲み、声まで震えていた。 「梨央……大丈夫だ。 怖がるな。 何ともない、絶対に何ともないから……」 ああ、もう自分は死ぬのだろう。 だからこんな幻まで見えるのだ。 理玖が自分をあれほど憎んでいるのに、心配するはずがない。 まして、彼が自分のために涙を流すなんて。 彼女の血が、彼の掌いっぱいに広がっていく。 意識を失う直前、梨央の頭に浮かんだのは、ただひとつだけだった。 ――また、汚してしまったと嫌がられるんだろうな。 まさか病院を出る前に、もう一度自分が救命室へ運ばれることになるなんて、梨央は思ってもみなかった。 再び目を覚ましたとき、彼女はまた、さっきまでいたあの病室に戻っていた。 耳元が騒がしい。 ゆっくり目を開けると、ちょうど悠月が傍らで泣いているところだった。 「ごめんなさい……本当に、わざとじゃなかったの。 あのときは怖くて、何が何だかわからなくて…… まさか梨央がこんな大怪我をするなんて思ってなかった。 こんなことになるなら、いっそ怪我をしたのが私だったらよかったのに……」 悠月は理玖の顔色を窺いながら、おそるおそる口を開く。 「……あなたも、私を責めるの?」 理玖はうつむいたまま何も答えなかった。 その表情はどこか冷えている。 すると悠月は、ますます声を詰まらせて泣き出した。 「そうよね。 私はずっと、彼女が手段を選ばずにあなたを奪って、三年も独り占めしてきたことを恨んでた。 でも、傷つけたいなんて思ったこと、一度もない…… 信じてもらえないなら、もう死んだほうがましよ!」 そう言い残すと、彼女は勢いよく立ち上がり、そのまま病室を飛び出そうとした。 理玖の顔色が変わり、とっさに腕を伸ばして引き留める。 悠月は必死にもがき、彼は逃がさないよう強く抱きしめるしかなかった。 そして小さく息をつき、ようやく口にした。 「もういい。 お前が無事なら、それでいい」 言葉は、ときに刃よりも深く人を傷つける。 梨央はそれを、何度も思い知らされてきた。 そのひと言は、刺された傷よりもなお深く、彼女の胸を引き裂いた。 理玖はきっと心の底では、傷を負ったのが梨央でよかった、悠月ではなくてよかったと思っているのだろう。 悠月の抵抗がぴたりと止まる。 彼女は顔を上げ、理玖を見つめた。 「理玖……あのとき、真っ先に私を背中にかばってくれたよね。 やっぱりあなたの中で、いちばん大事なのは私ってこと?」 理玖が答えるより先に、ベッド脇に置かれていた梨央のスマホが、不意に小さく鳴った。 その音で、理玖と悠月はようやく彼女のほうを見た。 そして初めて、梨央が目を覚ましていることに気づく。 理玖は足早にベッドへ近づいた。 「梨央、目が覚めたのか? 具合はどうだ?」 梨央は静かに彼を見つめ、掠れた声で言った。 「少し疲れたわ。 ……出ていってもらえる?」 理玖は、その顔をしばらく黙って見つめていた。 だが横にいた悠月が、そこでまた泣き出した。 「ごめんなさい」とひと言だけ残し、そのまま慌ただしく病室を飛び出していく。 理玖はその背中を見送り、それからベッド脇に腰を下ろした。 「犯人は、妻の病気が手遅れになって助からなかったことで、世の中に恨みを向けたらしい。 幸い、刺された場所は内臓には達していなかったし、処置も早かった。 数日もすれば退院できる」 しばらく言葉を選ぶように黙ったあと、彼は低く続けた。 「あのときは混乱していた。 悠月も怖くて、思わずお前を突き飛ばしたんだ。 お前だって、これまで何度も悠月を苦しめてきただろう。 ……今回のことは、これでチャラにしろ」 第8話 梨央は、病床に横たわったまま、静かに彼を見つめていた。 彼の短い言葉のひとつひとつが、梨央の心と身体をずたずたに傷つけていく。 その痛みは、無数の矢となって全身に突き刺さるようで、身体の隅々までが悲鳴を上げた。 そして同時に、その痛みは彼を少しずつ、自分の世界から引き剥がしていく。 ふいに思い出したのは、十五歳のころのことだった。 盗みを働いたと濡れ衣を着せられ、突き飛ばされて足まで挫き、ひとり隠れて泣いていたあの日。 それを知った理玖は真っ先に駆けつけ、彼女の手を引いて相手のもとへ戻ると、相手が頭から血を流すほど容赦なく殴り倒した。 あのとき彼は梨央を抱きしめ、揺るぎない声で言った。 「誰かにいじめられたら、すぐ俺に言え。 俺が守ってやる」 梨央が不思議そうに尋ねたことがある。 「私が本当に盗ったとは思わないの?」 そのときも彼は、ためらいなく言い切った。 「思うわけないだろ。 たとえお前が本当に盗ってたとしても、他人にとやかく言われる筋合いはない。 誰にも、お前に指一本触れさせない」 そうして少年だった彼は、月明かりの下、彼女を背負って家まで連れて帰った。 あの頃、まっすぐに自分だけを守ると言ってくれた少年と、今、冷えきった声でチャラにしろと言い放つ男の姿が、目の前で重なって見えた。 あんなに優しかった彼と、どうして自分はこんなところまで来てしまったのだろう。 もしかしたら、自分が間違っていたのかもしれない。 欲張りすぎたのだ。 彼を完全に自分のものにしたいと願ったからこそ、永遠に失うことになったのかもしれない。 最初から、家族という場所にとどまっているべきだったのだ。 そうすれば、お互いを自由にしてあげられたのに。 梨央は理玖を見つめたまま、チャラにするかどうかには答えず、嗚咽をこらえるように言った。 「理玖……最後に一度だけでいいから……抱きしめてくれない? ……すごく痛いの」 たった一度でよかった。 幼いころみたいに、温かく抱きしめてもらって、それで終われるなら、それでよかった。 理玖の表情が、わずかに揺らぐ。 青白く弱々しい梨央の顔を見つめるその目に、一瞬だけ痛みをにじませて、彼は立ち上がった。 そしてそっと手を伸ばし、彼女を抱き起こそうとする。 だが、指先が首筋に触れ、身体をわずかに支えた、そのときだった。 病室の外から、悠月の悲鳴が響いた。 理玖は反射的に梨央から手を離し、そのまま病室の外へ駆け出していく。 梨央はベッドの上に戻るように倒れ込み、傷口が引きつり、顔が白くなるほど痛んだ。 思わず手を伸ばし、彼を引き留めようとしたけれど、指先をかすめたのは、離れていく服の裾だけだった。 ――最後のぬくもりさえ、叶わない願いなのだ。 梨央は苦く笑い、脇に置かれていたスマホを手に取った。 そこに届いていたメッセージを見た瞬間、彼女の顔に、ふっと力の抜けたような安堵の色が浮かんだ。 届いていたのは、三通。 一通目はメールだった。 開いてみると、そこには悠月が海外でしてきたことが、細かく記されていた。 複数の男とだらしない関係を重ねていたことまで、すべて。 さらに添付されていたのは音声データだった。 海外で酒に酔った悠月が、誰かとの会話の中で自ら口にしたものだ。 「理玖、私が留学するのを認めなくて、結婚で縛ろうとしてきたのよ。 そんなの、受け入れるわけないじゃない。 海外には行きたい。 でも、あんな都合のいい男を手放すのも惜しかった。 だから薬を盛って、別の女と関係を持たせたの。 そうすれば、向こうから手を放すしかないでしょ。 男ってさ、後ろめたさを持ったら、こっちの言うこと何でも聞くようになるのよ。 あの人は私に悪いと思ってるから、あとで私が戻りたくなったら、ちょっと手を伸ばすだけでまた私のものになるんだから」 二通目はカレンダーの通知だった。 明日は、理玖の誕生日。 三通目は、出入国在留管理局からの通知だった。 申請はすでに通っていて、いつでも出国できる。 梨央はその日の便を取った。 痛みに耐えながら服を着替え、そのまま退院の手続きを済ませて家へ戻る。 そしてスーツケースを押して、飛行機に乗り込んだ。 機内モードに切り替える前、彼女は受け取ったそのメールを、午前零時に届くよう設定して理玖へ転送した。 【理玖、お誕生日おめでとう。 どうか幸せに】 これで、自分の潔白は彼に示せる。 そして彼には、自由を返せる。 梨央はようやく、手放すことを覚えたのだった。