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妻を男と間違えた夫。正体を明かして離婚する
コスプレイヤーである清水明里(しみず あかり)は、松田穂花(まつだ ほのか)から、ある男性キャラクターのコスプレ依頼を受けていた。撮影の...
Chương (1)
第1章
コスプレイヤーである清水明里(しみず あかり)は、松田穂花(まつだ ほのか)から、ある男性キャラクターのコスプレ依頼を受けていた。撮影のため、レストランで穂花の肩に腕を回してポーズを取っていたのだが、突然、頭からワインをかけられたのだった。
「その汚い手をどけろ!」
明里は言い返そうと思い顔を上げた。しかし、そこにあった怒りに満ちた鋭い眼光を見た瞬間、言葉を詰まらせる。
そこには、半年前から冷戦状態にある夫、清水正人(しみず まさと)の姿があったのだ。
そして今日は、二人の結婚5周年記念日。
半年もの間、明里はずっと正人から歩み寄ってくれるのを待っていたのに。
目の前にいる怒りで我を忘れている正人を見て、明里は思った。もしかして、冷戦状態に嫌気がさしたから、こんな荒療治で自分の気を引こうとしているのか?
明里は軽く鼻で笑うと、胸元に忍ばせてあるボイスチェンジャーを使用し、低い男性の声で揶揄うように言った。
「今日ここにわざわざ来たのは、ちゃんと話したかったから?」
しかし、明里が言い終える前に、正人は穂花を抱き寄せると、ナイフのように鋭い視線を明里に向けた。
「お前のことは半年前から知っているんだからな!お前みたいにアニメの格好で女に取り入るようなやつが、こんな純粋な穂花に近づくなんて。そんなこと俺が許さない」
どうやら、正人は目の前の相手が自分の妻だとは気づいていないらしい。
この男はただ、明里のことを「大切な人」に付きまとう、何処の馬の骨とも分からない男だと勘違いしてるのだ。
第1話
コスプレイヤーである清水明里(しみず あかり)は、松田穂花(まつだ ほのか)から、ある男性キャラクターのコスプレ依頼を受けていた。撮影のため、レストランで穂花の肩に腕を回してポーズを取っていたのだが、突然、頭からワインをかけられたのだった。
「その汚い手をどけろ!」
明里は言い返そうと思い顔を上げた。しかし、そこにあった怒りに満ちた鋭い眼光を見た瞬間、言葉を詰まらせる。
そこには、半年前から冷戦状態にある夫、清水正人(しみず まさと)の姿があったのだ。
だが今日は、二人の結婚5周年記念日だった。明里は半年もの間、ずっと正人のほうから歩み寄ってくれるのを待っていたのに。
目の前にいる怒りで我を忘れている正人を見て、明里の胸は少しざわついた。
もしかして、冷戦状態に嫌気がさしたから、こんな荒療治で自分の気を引こうとしているのか?
そう思った途端、明里は腹が立つどころか、何だか笑えてきた。ボイスチェンジャーを通して低くなった声には、少しの余裕さえ滲む。
「今日ここにわざわざ来たのは、ちゃんと話したかったから?」
しかし、明里が言い終える前に、正人は穂花を抱き寄せると、ナイフのように鋭い視線を明里に向けた。
「お前のことは半年前から知っているんだからな!ただ仕事で穂花と一緒にいると思っていたが、今のを見るに、お前は越えてはならない一線を越えてしまったようだ。
お前みたいにアニメの格好で女に取り入るようなやつが、こんな純粋な穂花に近づくなんて。そんなこと俺が許さない」
「半年」、「純粋」、「許さない」……
一つひとつの言葉が、ナイフのように鋭く明里の胸に突き刺さる。
口元の笑みは凍りつき、胸の奥から押し寄せる鈍い痛みに、呼吸すらできなくなった。
なるほど……
どうやら、正人は目の前の相手が自分の妻だとは気づいていないらしい。
しかも、穂花を困らせるストーカーだとでも思っているようだ。
……
明里は昔ながらな考えの二宮家で、9人の兄たちに囲まれて育ったためか、意地でもへこたれない、負けず嫌いな性格だった。
正人との結婚は、もともと親が決めたものだった。
だから結婚式の日、明里はウェディングドレスを着たまま逃げ出した。しかし、それも失敗に終わり、汚れたスカートで途方に暮れていた時、正人が助けに来てくれたのだった。
彼は自分のコートを脱いで明里に羽織らせてくれたどころか、膝をついて、歩き疲れた明里の足を心配そうに手当てまでしたのだった。
「こんな遠くまで来て、疲れただろ?まだ夕飯も食べていないんじゃないのか?」
その瞬間、固く閉ざされていたはずの明里の心が粉々に打ち砕かれた。
自分を待っていたのは罰だったはずなのに、与えられたのは予想外の温もりで……
それからというもの、明里は正人から離れることなど考えられなくなったのだった。
情熱的な明里と冷静な正人の結婚生活。
明里がどんなに感情的になろうと、どんなに無茶を言おうとも、正人は穏やかに受け止めてくれる。
しかし、その凪のような平穏さが、かえって正人が自分を愛していないかのように思わせた。
半年前、正人の書斎を整理していた時、明里は自分が最も気に入っているアニメキャラクターのアクリルスタンドが、彼の机に置かれていることに気づいた。
その時は、正人から自分へのプレゼントだと思い、喜びで胸が一杯になった。
しかし、正人が自分に向けたのは、初めての激昂だった。
「書斎はプライベートな空間だから、入るなと言ったよな?返せ」
明里が悲しもうとも、正人からのフォローは一切なかった。
これをきっかけに二人は冷戦状態となったのだった。
そして今、穂花が胸ポケットに入れているものこそが、まさにそのアクリススタンドだった。
この半年の間、明里はどういう流れからか、穂花とはコスプレ仲間になっていたのだ。
「かっちゃんにそんな言い方しないで!」
穂花は正人の腕の中から抜け出し、はっきりと言った。「正人さん、あなたは確かに貧しかった私を、経済的に支えてくれた。でも、私はもう大人なの。私には私の生活があるから」
そして、少し恥ずかしそうに頬を赤らめると、付け加えた。「それに、正人さんには奥さんがいるんでしょ?そんな人に、口出しなんかされたくない」
手のひらに爪を食い込ませながら、明里は正人の言葉をじっと待っていた。
「あいつとはただ婚姻関係にあるだけ」と、正人は低い声で呟き、愛おしげな目を穂花に向けた。「俺はお前の成長をずっと見てきた。お前は特別なんだよ」
その瞬間、5年という歳月が否定された気がした。
耐えきれなかった明里は思わず皮肉を漏らす。「清水社長……一人じゃ満足できないんだ?」
「黙れ!」
正人は明里の襟を掴み、拳を振り上げた。その瞳には、怒りと焦燥が渦巻いている。
結局、正人は拳を明里の横の壁に叩きつけた。
その衝撃で、拳の皮が一瞬にして剥けた。
「穂花に近づくな」正人は明里を睨みつけ、言い放つ。「次関わってみろ。容赦しないからな」
穂花が目を真っ赤にして、心配そうに正人の手を包み込んだ。
「正人さん、昔言ってたよね?今の奥さんとは、ただの政略結婚にしかすぎなくて、ビジネスの道具でしかないって。愛してないんだったら、今すぐ離婚してよ!」
明里の耳は轟音に包まれ、その場に立っているのもやっとだった。
それは、結婚式から逃げ出した本当の理由だった――あの日、自分がどれほど傷ついたか、正人は知っていたのだろうか?
それどころか、まさかそんな風に自分のことを言っていたなんて。
正人が目を閉じ、仕方なさそうに吐き捨てる。「離婚以外だったら、何でも叶えてやる。でも、離婚だけはだめだ」
冷戦状態中、明里から離婚を申し出た時も、正人に同じ言葉で冷たく断られた。
あの頃はまだ……そこには愛があるからだと思っていた。
でも自分は実のところ、夫婦の体裁を守るための道具で、愛人の当て馬として利用されていたに過ぎなかった。
なぜそんなことができたのだろう?
強く握られた拳の中で、爪が食い込み血が滲むのを明里は感じた。
その時、穂花が明里の腕に自分の腕を絡めて、正人に向かってこう言い放った。
「正人さんが離婚しないっていうなら、私はこの人と結婚するから!」
第2話
野次馬がどんどん増えていき、スマホのカメラがすぐ目の前にまで向けられた。
正人は穂花にまで変な噂が立ってはいけないと思い、「二度と近づくな」と捨て台詞を吐くと、早々に立ち去った。
思い通りの反応が得られなかった穂花は、レストランのテーブルに突っ伏して一晩中泣き続けた。
「かっちゃん。私だって、欲張ってるわけじゃないの」
穂花は真っ赤に腫らした目で、声を詰まらせる。「正人さんにはすべてを捧げたのに……私と名前のある関係には、絶対になってくれない。
私に彼氏がいることはみんな知ってる。でも、それが誰なのかは公にできないし、私はずっとこそこそしてなきゃならないの……
だからもう、追い詰めて離婚させるしかないって思って……」
コーヒーカップを持っていた明里の手が、わずかに止まった。
皮肉なものだ。
あんなにも穏やかで堅実そうに見える正人が、こんなにも純粋な女の子に手を出し、しかもそれを当然のことだと言い切らせるくらいにまで甘やかしているとは。
穂花は泣き疲れたのか、少し落ち着くと急に静かな声でつぶやいた。
「実はね、正人さん……ときどき、すごく幼稚なの」
明里は眉をひそめる。
自分の知る正人は、常に冷静で一切隙のない人間だ。
「幼稚」なんて言葉、正人とはかけ離れている。
「やたらと束縛してくるんだもん」穂花は指を折りながら、愚痴のようでいて、それは誇らしげに語った。「他の男と話すなとか、会うたびに私のラインをチェックするとか。それに、知らない男のアカウントは全部勝手に消しちゃうんだから。
18歳まで一度もスカートだって履かせてもらえなかったんだよ!やっと18歳になって、スカートが履けると思っても、正人さんが選んだ長いスカートだけ。それが品があるとかなんか言っちゃって」
穂花は薬指の指輪を揺らして続ける。「大学の時なんて、これを私につけさせたの。みんなに、この女はもう男がいるんだって知らしめるみたいにね。
さっきレストランで、ワインをぶちまけたり壁を蹴ったりしてたけど……乱暴に見えて、あれ実はわざとなんだから。ただ私に心配してほしくて、ああやって気を引いてるだけ。本当、幼稚だよね」
砂糖を3つも入れたはずなのに、明里はコーヒーがとても苦く感じ、喉から心まで鉛のように重く沈んでいく気がした。
穂花の口から語られる正人は、生き生きとしていて、情熱的で、執着心にあふれている。自分が知らない彼の姿に、明里は激しい嫉妬を覚えた。
思い返せば、5年間の結婚生活の中で、正人に服装のことで口を挟まれたことなど一度も無い。
短いスカートでパーティーへ行く時もただ「気をつけて」の一言だけ。明里が徹夜で仕事をしている時だって、彼は静かに明かりを残すだけで、気遣ってくれるようなことは一度もなかった。
以前はそれを敬意からくる優しさだと思っていたが、こうして穂花の話を聞けば聞くほど、単なる他人行儀な態度にすぎなかったとわかる。
胸の奥が粘りつくように重くなり、苦しさに襲われた。
明里は自分の世界に浸りきる穂花を見つめ問いかける。だが、それは穂花に問いかけているのではなく、自分自身への問いかけで……
「世間に隠してしか付き合えないうえに、未来すら見せてくれない男を、なんでそこまで愛せるの?」
「別に、未来を見せてくれないわけじゃない!」感情を昂らせた穂花が、バンとテーブルを叩く。「全部正人さんの奥さんのせいなの!
噂だと、二宮家の娘だけど大切にされていなくて、しかも男の子として育てられて、見た目も品も最悪だって聞くし……きっと、あの女が図々しくしがみついて離れないんだよ!正人さんが本当に愛してるのは私なのに」
穂花は自信満々に語った。「前のことだけど、あの女が手術するって時、私はわざと車道に飛び込んで轢かれたフリをしたの。
そうしたら正人さん、知らせを聞いたらすぐ駆けつけてくれたんだよ。あの女の命のことなんてまるで眼中にないみたいに」
明里の指先に、関節が白くなるほどの力が入る。
それは、自分の盲腸の手術の日のことだろう。あの時、正人は手術同意書にサインをするや否や、会社からの急用だと言って出かけていった。
あの晩、自分は傷口が化膿し、集中治療室に入って、生死の境をさまよったというのに。
正人が戻ったのは翌日の正午だった。目を充血させた彼が、会社のトラブルを解決するのに一晩中かかってしまった、でも心配しなくていい、と優しく自分に言った。
だが、会社のトラブルというのは、自分ではない別の女に寄り添うことだったらしい。
「あとはあの時」穂花が言葉を続ける。「正人さんの手作り料理が食べたくて電話したのに繋がらなくてね。だから、怒ってわざと手首を切ったような嘘の写真と、GPSの位置情報を送りつけたの。
そうしたらどうなったと思う?たった10分で駆けつけてくれて、私を抱きしめながら泣いてくれたの……私がどんなに怒っても、叩いても、彼はじっと耐えてくれた」
明里の心臓は、見えない手に強く握りつぶされるような激痛を感じた。
あの日のことだけは一生忘れられない。
その日、明里の世話係だった山下恵(やました めぐみ)が亡くなった。
二宮家で、恵だけが明里に心から接してくれた。明里が怪我をすれば薬を塗ってくれ、熱が出れば夜通し付き添って額のタオルを換えてくれたのだ。
明里は恵の亡骸の前で意識を失うまで泣きじゃくり、正人に自分の弱さの全てを見せていた。
正人はそんな明里の手を握りしめ、「大丈夫だ。これからは俺がいるから」と約束してくれた。
それなのに、彼はその晩、何も言わずにいなくなった。
自分は孤独の中、たった一人ですべての手続きを整えた。明け方戻ってきた正人は、傷だらけの体で「仕事相手に襲われた」と言った。
あの時の自分は、馬鹿みたいに彼を心配し、そんな彼の苦労を労った。
初めから、全ては自分を蚊帳の外に置いた滑稽な茶番劇に過ぎなかったのに。
自分の気持ち、痛み、依拠、すべては彼らの恋愛ゲームの中の哀れな背景でしかない。
明里は大きく息を吸い、あふれ出る怒りと屈辱を胸の奥に封じ込める。
二宮家で生きてきた明里は、ある一つのことを学んだ。それは……やられたらやり返す。それも、10倍にして。
二人が味わわせてくれたこの痛み、何倍にもして返してやらなくては気が済まない。
明里は悟られないようにスマホの録音アプリを確認すると、静かな笑みを穂花へ向けた。
「離婚させたいって言ってるけど、具体的にはどうするつもり?」
正人が離れないと言うのなら、こっちから捨ててやる。
二人の恋愛ゲームの踏み台になるなど、まっぴらごめんだ。
穂花が少し頬を赤らめ、声を潜めた。
「あ、あのさ、かっちゃん。お願いがあるんだけど……私をお嫁さんにもらうふりをしてくれない?」
明里はわざとらしく驚いた演技をする。
「正人さんは誰よりもヤキモチ焼きだから」穂花が必死に説明する。「私が本当に他の人と一緒になる決意をしたって知れば、きっと焦って、すぐに離婚を切り出さざるを得なくなるはず!」
穂花は明里の手を取り、懇願するように言った。
「お願い。こんな相談をできるのは、かっちゃんを本当の友達だと思ってるから。私の気持ち、分かってくれるでしょ?お願い、助けて?」
明里はその、嘘くさい真摯さに彩られた目を見て、心の中では冷たく笑った。
この女は、あざとい。
明里はそっと手を重ね、きっぱりと言い放った。
「いいよ。その話、乗ってあげる」
もちろん協力する。
この美しい化けの皮を、自らの手で丁寧に剥ぎ取ってやるために。
この化け物の正体を暴き、正人が懸命に守り抜こうとしているものの正体が何なのか、しっかり見せつけてやる。
第3話
明里がドアを開けると、食卓には明里の好物ばかりが並べられていた。
ソファではブランケットをかけた正人が眠り込んでいる。明里の気配に気づいたのか、正人は起きると、皿を持ってキッチンへ向かった。
「おかえり。料理は冷めてしまったから、温めてくるよ」
まるで、半年間の冷戦状態などなく、レストランで起きた裏切りも「政略結婚」の話もなかったことのようだった。
正人が忙しそうに動く背中を見つめながら、明里は指先をかすかに震わせた。
彼女はもうコスプレ姿を脱ぎ、元の自分の姿に戻っていた。正人は、何かを探るような深い目で、明里を見つめている。
温め直された料理が並ぶ。正人は明里の皿に煮込みハンバーグを一つ置いた。
「少し痩せたな」
たった一言。だが、それだけで、明里が必死に保っていた冷静さが針に刺されたように崩れていく。
前回の冷戦状態の時も、こうしたさりげない優しさで、正人は自分の反抗心を削いできた。
しかし今回は違う。まだ脳裏には、レストランで正人が穂花を庇っていた姿や、「政略結婚」だと言い放ったあの冷たい声が焼きついている。
明里は背筋を伸ばし、平静を装って言った。
「私たち合わないみたいだから、やっぱり離婚しよう」
ドンッ!
カトラリーが大理石のテーブルに激しく打ち付けられる音が響く。
正人の顔からは笑みが消え、その瞳に一瞬だけ狼狽の色が走った。しかし、正人は即座に取り繕う。
「ネットの記事を見たのか?穂花には、ただ経済的な支援をしてるだけに過ぎないし、あの子は世間知らずだろ?だから、騙されないか心配で、レストランまで様子を見に行っただけなんだよ。なのに、マスコミが勝手に話を面白おかしくしてさ。
俺たちの間には何もない。勘違いしないでくれ」
そう言いながら、正人はもう一つハンバーグを明里の皿に乗せた。「これ、お前が一番好きなやつだろ?昔は怒ってても、これを食べればすぐに機嫌を直してくれたじゃないか」
「明らかに浮気してるよね?」
明里は激高して皿を床に叩きつけた。「あれだけべたべたしておいて、私の前ではただ経済的な支援をしてるだけってよく言えたね?正人、どうしてこんなことができるの!?」
明里はてっきり、正人が言い返してくるか、あるいは怒り狂うかと思っていた。
しかし正人はただ拳を握りしめ、低い声で言っただけだった。「冷静になってから、また話そう。でも、離婚の話は二度とするな」
いつだってこうだ。
こっちが感情をぶつけても、何の反応も返ってこない。
何の感情も浮かべない正人の表情を見つめ、明里はひどく滑稽に感じた。
裏切ったのは正人なのに、この男は被害者ぶり、まるでおかしくなったのは明里だと言わんばかりだ。
その時、スマホが鳴った。
穂花からのラインだった。【かっちゃん、明日西区で展示会があるみたいなんだけど、行かない?】
明里は画面を見つめた後、ベランダでタバコを吸っている正人に目をやり、あえて柔らかい口調で話しかけた。
「明日、時間ある?浜江公園にでも行かない?」
ベランダの小さな光は小さく、正人の表情は見えない。聞こえてきたのは、小さく答える声だけ。
「ああ」
……
翌日。明里は中性的な服装にマスクという姿で、穂花と展示会へ向かった。
穂花は終始はしゃぎながら明里に画のことについて熱く語り、何度も横目で明里の様子を伺っていた。しかし、明里がずっとぼんやりしていたので、穂花は明里の腕を、揶揄うように肘で小突く。
「なんでそんな緊張してるの?もしかして、コスプレしていないから恥ずかしいとか?
でも、マスクしてるじゃん。大丈夫だよ、目元だけでもすごくイケメンだから!私は大好き!」
しかし、明里はやはり心ここにあらずという状態で、視線は入り口ばかりに向いていた。
朝から3時間も待っているが、正人からの連絡は一つもなく、代わりに穂花のこんな意味深な発言だけが耳に入ってくる。
「さっき正人さんから、どこにいるかって聞かれた。
私のこと、すごく心配してくれてるみたい」
展示会が終わりに近づいてきた頃、ようやく見慣れた姿が表れた。
正人が怒りで顔を歪めながら、こちらに向かってくる。
「お前ら二人で何してるんだ!」
正人は穂花を背中に引き寄せ、鋭い眼光で明里を睨みつけた。「言ったはずだよな?穂花に二度と近づくなって」
「ん?」
明里はわざとらしく穂花の手を取り、ボイスチェンジャー越しに嘲笑う。
「奥さんもいる清水社長が、こんなふうに暴力で片づけようとするんだ?それとも、また誰かに撮られるのが怖いのかな?」
「お、お前!」
正人の額に青筋が走り、目は怒りで血走っている。拳を固く握りしめているが、それ以上は何もできないようだ。
彼が感情を露わにする姿を見て、明里の胸に冷たい風が通り抜けた。
これまで、こうやって剥き出しの感情を向けられたことなど一度も無かった。
すると穂花が明里にすがりつき、わざとらしく袖をまくり上げた。そして、腕についた赤い跡を正人に見せつける。
「正人さん、もう会わないことにしよう。
正人さんの奥さんが私を訪ねてきたの。今度正人さんに連絡したら、次は足を折るって……
私はただ平穏に生きたいだけなの。命を狙われる生活なんて嫌」
堂々と嘘を吐き出す穂花の様子に、明里は心の中で笑うしかなかった。
しかし、顔を青ざめさせた正人が穂花の手を取る。「まさか穂花にこんなことをするなんて……穂花、大丈夫だよ。俺が必ず何とかするから」
そう言うと正人は踵を返し、足早に去っていった――おそらく「穂花に怪我をさせた奥さん」を探しに言ったのだろう。
正人が去った後も、穂花は明里の手を離さず、甘えてきた。
「ねえ、大丈夫って聞いてくれないの?イケメンはみんな気がつかえるのにさ」
「大丈夫?」
明里が小さく聞いた声からは、何の感情も読み取れない。
さらに、それが自分への問いかけなのか、穂花へ言ったものなのかは、明里にもわからなかった。
しかし、穂花は顔を赤らめて笑う。「かっちゃんが心配してくれたから、もう大丈夫」
……
ギャラリーを後にし、駐車場まで歩いてきた明里は、数人の黒服の男たちに取り囲まれた。
彼らは無言で明里の四肢を拘束し、一人がマスクを力任せに剥ぎ取り、凍るような声で命じた。
「一緒に来てください」
第4話
風を切る音と共に竹刀が振り下ろされる。背中の肌が焼けるように熱い。
「あんなに良い家柄の男と結婚させてやったのに、ろくに夫婦生活も続けられないとはな!そのくせ、旦那の愛人に手をあげたっだと?余計なことばっかりしやがって」
冷たい叱責の声が二宮家の邸宅に響き渡る。
使用人2人によって床にねじ伏せられた明里は、脂汗と血を流しながら、膝の痛みに耐えていた。弱みを見せまいと、奥歯を食いしばる。
正人が復讐しようとも、彼は彼自身の手を汚すような真似は決してしないことに、もっと早く気づくべきだった。
二宮家が清水家との利害関係を最優先すること、そして明里がこの家でどれほど肩身の狭い思いをしているかを、正人は知り尽くしていた。そして、明里の父・二宮豪(にのみや ごう)に一言囁くだけで、彼が明里を死ぬほど追い込めるということも……
「最初、この事業には見向きもしなかったじゃない?」
明里は顔を上げ、不満と怒りを露わにする。「ここ数年、私が死に物狂いで立て直してあげたから、今や二宮家の収入の大半を支えることができてるんだよ?
清水家との利害関係のために、私をただの交換条件として正人の妻にしただけでしょ?それなのに仲良く結婚生活を続けろだって?
お兄さんたちは好き勝手生きてるのに、男って理由だけでお父さんは可愛がってる。でも、女の私には、一度だってまともに向き合ってくれたことがないよね?」
明里は一語一句かみしめながら言った。「死んでも、お父さんの言いなりになんかならない!」
「まだ口答えするのか!」
豪の顔色は怒りで真っ赤になった。竹刀が雨のように降り注ぎ、竹刀が真っ二つに折れたところで、豪はようやく手を止めた。
「お前の旦那が浮気したからって何だ?」豪は明里の髪を掴み上げる。「お前が清水家の嫁でいる限り、俺ら二宮家にとっては都合がいいんだよ。
なのに離婚だと?二宮家の大事な資金源を断つつもりか!」
豪の躾の中に、親の愛情があったことなど一度も無い。
明里はただ利害関係をつなぎ止めるだけの紐、いつでも捨て駒にできる「モノ」に過ぎないのだ。
明里は口の中に溜まった血を吐き出し、意思の硬い瞳で豪を睨み返す。「離婚は絶対にするから」
「生意気な口をきくな!」豪は怒りで体を震わせながら壁際のゴルフクラブを掴んだ。「今日お前を殺してでも、清水家の墓に入れてやる!」
鋭い音を立ててゴルフクラブが振り下ろされようとした瞬間――
明里はかっと目を見開き、最後の手札を晒した。
「私が名義人になっているすべての事業を二宮家に返すから。代わりに離婚を認めることと、親子の縁を切る誓約書を書いて」
自由を求め、明里は全てを差し出す。
豪の動きが止まった。
彼は明里の条件を素早く計算する――この娘が持っている事業に注目が集まってるのは確かだ。それに、「清水夫人」の名より価値があるし、何より損がないはずだ。
「いいだろう」
豪はゴルフクラブを放り投げた。「すぐに手配してやる。だが、お前はもう嫁いだ身、つまりはよその家の娘だ。だから、二宮家の金は一銭たりともやらない。すべてお前の兄たちに残していけ」
豪はそう言い残し、そのまま振り返らずに去っていった。明里の様子を振り返ることも、傷を心配することもなかった。
部屋は再び静まり返った。
傷は骨にまで届いているようで、呼吸するたびに肌が裂けるように痛む。かつては、恵がこっそりやってきて、手慣れた様子で薬を塗ると、「大丈夫ですよ。すぐ良くなりますからね」と慰めてくれたのに。
今、隣には誰もいない。ただ、終わりのない痛みと寒さだけが残っている。
意識が朦朧としてくると、隣に恵が座り、薬を塗りながら耳元で何かを囁いている幻覚を見た。
「こんなことになるって知っていれば……あなたの父親なんか探さなかった……」
明里には言葉の意味がわからなかったが、久々の温もりに包まれるのを感じ、微かだが笑みを浮かべた。「あなたがいてくれて、本当によかった……」
その瞬間、強烈な光が差し込んできた。
はっと明里が目を覚ますと、そこは清水家の寝室のベッドの上で、横には正人がいた。
「動くな。今、薬を塗ったところだから」
自分の目に涙が浮かんでいることに気づき、明里は顔をそらして、正人の手も払いのけた。
「触らないで」と、氷のように冷たく言い放つ。「偽善者」
正人の手は宙に止まったままになり、その瞳には複雑な感情がよぎった。
今回、自分に責任があるのは認める。ただ明里を「教育」し、わがままを捨てさせ、これ以上穂花に関わらせないようにさせたかっただけなのに、まさか豪がこれほど過激なことをするとは……
「そんな感情的になるな」正人は何とか明里に分かってもらおうと試みたが、その口調にはまだ教説じみたものが含まれていた。「お前のお父さんもだって、理由なくお前に手を挙げたわけじゃないだろう。こんなことが起こったら、誰だって……」
「私が悪いっていうの?全て私が招いたこと?」
明里は傷の痛みを我慢しながら上体を起こし、正人を睨みつける。
「だから私が殴られたのは、当たり前って?でも、あなたの大切な愛人さんはいつだって罪のない純粋な女の子。だから、ちょっとでも傷付いたら、大事……そういうことなんだね?」
正人の眉間のしわがさらに深くなった。
今まで苦労して育ってきた穂花は、とても純粋でかわいそうな子。一方の明里は気が強くわがままだという先入観が、正人の中では強く根付いていたのだった。
しかし、傷だらけで涙を浮かべる明里を見て、ようやく語気を少しだけ和らげ、お茶を濁すように答えた。
「そう思いたいなら、そう思えばいい」
正人は否定しなかった。
それが逆に、明里の心に胸焼けするような怒りを溜め込ませる。
……
心が晴れないからなのか、傷の治りが遅く、明里は毎日寝たきりで過ごしていた。
1週間後、退院を間近に控えていた時、豪からメッセージが届いた。
【正人に記入させた離婚届は準備できたから、お前は資産の譲渡準備を始めろ。30日以内に終わらせるんだぞ】
メッセージを見た瞬間、明里は久々に心から喜ぶことができた。瞳にもようやく光が宿る。
ちょうどドアを開けて入ってきた正人はその笑顔を見て、雑誌の中の宝石が気にいったのだと思い、機嫌を取ろうと話しかけた。
「それが気に入ったのか?気に入ったのなら、買ってあげるぞ」
帰宅中も、正人は最近の宝石相場について、まるで浮気も冷戦も傷跡も、何もなかったかのように熱心に話していた。
しかし、明里はずっと黙ったまま。
もう心の中では、次の一手を既に決めていたから。
……
翌日、明里は特注のスーツに着替えた。それは、いつも通り御曹司の青年風の装いだった。
幼い頃から二宮家で男として育てられてきたせいか、このような服装に明里は慣れきっていて、少しも違和感は無かった。
昨晩、正人から送られた宝石箱を手に持ち、明里は真っ直ぐ穂花のもとへと向かった。
中身を見た瞬間、穂花の目は瞬時に輝いたが、口では一度辞退する。
「こんな高そうなの……受け取れないよ」
明里は微笑み、箱を差し出した。「偽装結婚だとしても、結納品くらいは必要だろ?
本当か偽りかなんてのはどうでもいいくらいに、穂花と一緒に過ごした日々は今までで一番楽しい時間だったからさ」
明里は絶妙な優しさを演出する。「受け取ってくれないかな?」
「かっちゃん……本当に素敵」
穂花はもう我慢できなくなり、宝石箱をで受け取った。
第5話
穂花は「偽装結婚」だと口では言いながらも、それからの2週間は、結婚準備の喜びですっかり舞い上がっていた。
明里の目の前で、迷いなく正人からの着信を切ったことだって何度もあった。
「実らない関係なんて、とっくに終わらせるべきだった」
タピオカのカップを握りしめた穂花は、無理やりふっきれたようでいて、まだ寂しいような声を出す。「正人さんはもあなたも、どっちも素敵。
でも、私と同じ感性を持っていて、私だけを見てくれるあなたに出会って初めてわかったことがあるの。隠さないでいい恋が、どれだけ心強いものなのかって」
そんな穂花のあざとい演技を目の当たりにして、明里は気分が悪くなった。返事をするのも面倒になり、会計をするために席を立つ。
店の入り口に着くと、耳障りな笑い声が聞こえてきた。
「あれぇ、清純派で有名な松田さんじゃない?
下着でも買いに来たの?こんな高級なブランド、あんたに買えるわけないのに?どうせ、パパ活かなんかなんでしょ?」
穂花の顔が瞬時に真っ赤になった。唇を噛みしめ、精一杯反論している。「彼氏に買ってもらったの!パパ活なんかじゃないから!」
「彼氏?」
リーダー格の女が眉をひそめ、冷ややかな目で穂花を見下ろす。「入学してからずっと彼氏がいるって言ってたけど、いつも隠してばっかで写真すら見せてくれないじゃん。もしかして世間には言えないような、薄汚い年上のおっさんとかじゃないの?まじ、笑えるんだけど」
数人に取り囲まれている穂花を、周りの通行人もジロジロと見ていた。
パニックになった穂花がスマホを取り出し、明里に連絡しようとした瞬間、正人が通りかかった。
穂花はわらにもすがる思いで正人に駆け寄り、彼の腕を強く掴む。
「この人が私の……」
「穂花!」
正人は眉をひそめ、怒りを滲ませた。
穂花は目を潤ませて正人を見つめる。「突き放さないで……クラスのみんなが、私はパパ活してるって笑うの……」
正人はその女子大生たちの馬鹿にするような顔を見回すと、穂花の手を取って毅然と言い放った。
「俺は穂花を経済的に支援している者だ。
穂花が何を買おうと、それは本人の自由だろう?それに、根も葉もない噂話をするのは、君たちの育ちの悪さをさらしているようなものだぞ」
「何言ってるの、このおじさん。支援者って言ったって、結局はパパ活と同じじゃん。そんな言い方を変えたって、私たちにはバレバレだよ?」
相手は怯むことなく続ける。「それにさあ、おじさん。その歳なんだから、奥さんいるんじゃないの?支援って言葉使ってるから、不倫にならないとでも思ってる?うちの大学の有名な美人さんが、まさか他人の家庭を壊す泥棒猫だったなんて、びっくりだよ」
遠慮のない嘲笑に、穂花は今にも顔から火が出そうだった。
彼女は怒りと情けなさで正人の手を振り払う。
「私がこんなふうに笑いものにされて嬉しい?満足した?
あなたが早く離婚してくれないから、私がこんなこと言われるんだよ?」
なだめようとした正人の指が穂花の肩に触れた瞬間、穂花はそれをはたき落とした。正人は困惑の表情を浮かべる。
「他人の言葉なんて気にするな。俺たちは、そんな後ろ指を指される関係じゃないんだから」
……
明里は、柱の影からすべてを見ていた。
明里は大きく深呼吸すると、マスクをつけた。平然を装って、近づいて行き、驚いた声を出す。
「穂花?僕が会計して帰ってくる間に何があったの?しかも、なんで泣いて……」
明里が現れた瞬間、我慢の限界に達した穂花は、正人を突き飛ばして明里の胸に飛び込んで泣き出した。
「かっちゃん、やっと来てくれた。みんな、私がパパ活してるって言うの。それに、不倫だって……」
明里は、万が一体に触れられた時にも、中身が女だと気づかれないよう、特殊な肉体補助スーツを着込んでいた。
冷静に穂花を胸元から引きはがすと、女子大生たちに向かって冷酷な眼差しを向ける。
「穂花は僕の彼女だ。今後、穂花に対して出鱈目を言うのは、やめてくれるかな?
でも、僕のとやり合いたいっていうのなら、それでも構わない。泣いて謝ることになるのが誰なのか、教えてあげるからさ」
その場が一瞬にして静まり返った。
女子大生たちは嫉妬と憎しみの表情で顔を見合わせていたが、誰も逆らえなかったため、そのまま逃げ出した。
正人はその場に立ち尽くし、唖然としていた。
今の話し方……どこかで聞いたことがあるような気がする。
しかし、考える間もなく、穂花が知らない男と立ち去ろうとするのを見て、正人は反射的に追いかけた。
「待て!」
明里は挑発した。「清水社長。僕からこの子を奪う気?」
「穂花に関わるなと言ったはずだ」
マスク越しに、明里はこれまで蓄積してきた恨みと憤りをぶつける。
「確かに言われたよ。でも、僕には関係ない。用がないなら、立ち去ってくれるかな?」
それでも動こうとしない正人に対して、明里はさらに一言追い打ちをかけた。
「なんでまだ行かないの?じゃあ聞くけど、清水社長は一体、何の立場で、僕に穂花と関わるなって言ってるの?
恋愛警察?それとも……他人の仲を壊す泥棒?」
緊張感が張り詰め、一触即発の状態となる。
言い返せなかった正人は、声を荒げた。「いい加減にしろ!」
しかし、明里は鼻で笑い、皮肉たっぷりに言い放つ。
「僕と穂花は愛し合っているんだ。なにも、いい加減なことなんてないよ?
もっとも、人それぞれの価値観は違うけどね。だから、清水社長がそう思うんだったら、こっちとしてはどうすることもできないよ」
これは、以前正人が明里の不満を適当にあしらう時に使っていた言葉だった。
今は、明里がそれをそのまま正人に返す。
胸をずっと塞いでいた鬱屈した思いが、ようやく少しだけ晴れていく気がした。
第6話
買い物から戻った明里の気分は、珍しく晴れやかだった。
鼻歌まじりに花に水をやっていると、正人が渋い顔をしていた時のことを思い出し、つい口元が綻ぶ。
「人を馬鹿にすることが、そんなに楽しいか?」
突然、背後から冷ややかな声が響いた。正人が大股で歩み寄ってきて、明里の手からじょうろを乱暴に奪い取った。
取っ手が手に当たった拍子で皮がむけ、ひりひりと痛む。
正人の目には激しい怒りが渦巻き、声には隠そうともしない非難の色が滲んでいた。
「わざわざ俺を店に呼んだのも、穂花が馬鹿にされる様子を見たかったからだろ?明里、こんな幼稚なことはもうやめろ。もう穂花を追い詰めないでやってくれ」
明里は血が滲む傷口を押さえ、一言ずつ丁寧に言った。
「彼女が囲まれてたから、あなたに教えてあげたの。あの女子大生達は、私が呼んだわけじゃないから」
それは本当だった。
自分自身を傷つけるような真似ではあるが、わざわざ正人にメッセージを送ったのは、正人が本当に穂花のためなら全てを捨てられるのか、もう一度確かめたかったからなのだ。
かつて自分が集中治療室に入った時、あるいは恵が亡くなった時のように。
残念なことに、答えは相変わらず残酷だった。
「そんな偶然があるはずないだろ?」正人は聞く耳を持たず、声を荒らげた。「大学は、今じゃ穂花の話で持ちきりらしい。プライドの高い穂花がそんな屈辱に耐えられるわけがない。もし穂花が、良からぬことを考えたら……」
正人は明里に一歩詰め寄り、威圧的に見下ろす。「お前には何でもあるだろ?
二宮家の資産、清水夫人という肩書き、誰もが羨む資産……なんで、全てを持ってるお前が、わざわざ何もない穂花と争う必要があるんだ?」
明里は正人を見つめ、ひどく滑稽な気持ちになった。
確かに、傍から見れば自分は全てを持っているように見えるだろう。誰もが羨む家柄に生まれ、兄弟は多く、光り輝く結婚と順風満帆なキャリア。
だが、明里だけが知っていた。
親にとって、自分は都合のいい道具でしかなく、兄弟からは目の敵にされ、結婚は形だけ。キャリアだって、不眠不休で働いて、数え切れないほどの困難を乗り越えて自らの手で掴み取ったものに過ぎない。
本当は、何も持っていないのだ。
無意識に指先を満開の赤い薔薇に伸ばす。刺が指を突きさし、小さな赤い血の雫が落ちた。
その何気ない動作が、正人の逆鱗に触れたらしい。
彼の瞳の奥で理性が弾け飛び、感情を露わにした。
「まだ間違いを認めないのか!」
正人は手にしていたじょうろを、思いっきり地面に叩きつけた。
それからは、まるで何かに憑りつかれたように庭を荒らし、薔薇を蹴り倒しては、二人で力を合わせて作った木製の花棚を石で打ち砕いた。
ここにある花や木々は、結婚後に二人で植えたものだったのに。
かつて、正人は優しく明里の肩を抱き、芽吹いたばかりの蕾を見て言っていた。「人を愛するって言うのは、花を愛でるのと同じようなものだ。だから、ここが満開になる時には、お前の生活も幸せで溢れているだろう」
花棚の下でプロポーズされた時も、正人は真剣な顔で言った。「子供に愛について聞かれたら、この絡まり合うつるを指差して、『離れないことが愛なんだよ』って教えるつもりだ」
一緒に2株の薔薇を植えた時だって、明里の手を握りながら誓ってくれた。「一生一緒だ。この花のように、ずっと並んで歩んでいこう」
その甘い囁きは、まだ耳に残っている。
しかし、目の前の男は、自らの手ですべてを壊していた。
つるは引きちぎられ、花びらが舞い散り、花壇は倒壊し、砂ぼこりがまっている。
あんなに生き生きとして愛で満ちていた庭が、一瞬で荒野と化した。
明里は呆然と立ち尽くし、目の前の惨状を見つめた。
そして、自分にしか聞こえない声で、そっと呟く。
「壊してくれよかったかもしれない……出て行く時の未練がなくなったから」
……
この一件を境に、二人はかつてないほどの、冷戦状態に陥った。
正人は家に帰ってこなくなった。
夜、明里は眠れぬ時間を過ごしながら、隣の枕に視線を向けた。頭には、穂花と正人が過ごす光景ばかりが浮かぶ。
穂花に世話を焼き、不安がっていないか気遣い、子供のような独占欲を振りまいているのだろうか?
かつて自分が一度も受けたことのない愛は、惜しみなく他人に与えられている。
子供の頃、父は兄たちばかり飴をやり、自分には包み紙のゴミだけを与えたように。
そして、今では正人こそが、最後の飴を奪う存在となった。
憎しみが胸の奥で渦巻き、息苦しくなってくる。
明里は書斎に向かい、ウェディングフォトを取り外した。写真の二人は完璧に笑っているけれど、そこには何の感情も浮かんでいない。
クローゼットの奥から引っ張り出したウェディングドレスは埃を被っている。結婚式から逃げ出し、狼狽していた時に着ていたもの。
婚姻届を提出した日に、二人で書き記した未来への希望は、引き出しの中にしまわれていて、どれももう叶うことはないのだろう。
あれほど大事にしていた思い出。しかし、今では滑稽でしかならない。
明里はそれらをすべて抱え庭に出ると、火をつけた。
ウェディングフォトも、ウェディングドレスも、書類も全て燃え、真っ黒な灰となって舞い上がる。この悲惨な結婚生活のように。
その時、インターホンが鳴った。
穂花の探るような声がする。「正人さん、いる?」
第7話
インターホンが鳴り止む気配はない。
最後に正人と二人で撮った写真を投げ入れ、全てが灰となった。
明里は深呼吸をして感情を抑え込む。ふらつきながらも玄関まで向かうと、勢いよくドアを開けた。
突然のことに穂花は驚き、目に焦りを滲ませたが、すぐさま勝ち誇った笑みを浮かべた。
さらに、明里のやつれた姿と真っ赤に充血した目をじろりと見つめ、口元を歪める。
「もしかして……明里さんですか?」
「何の用?」
明里の苛立ちなど無視して、穂花は一歩近づき、明里の顔を覗き込みながらトドメを刺すように言った。
「正人さんの下着を取りに来たんです。最近雨ばかりで洗濯物がなかなか乾かないじゃないですか。だから、足りなくなっちゃって」
明里の心臓がきゅっと締め付けられる。
ここ数日、正人は穂花のところにいたらしい。
では、あの半年の冷戦の時はどうだったのだろう?今のように穂花の家に入り浸り、彼女の身の回りの世話を焼いていたのだろうか?
ドアに添えていた手には力が入り、白く長い爪の跡が刻まれる。
こみ上げる怒りを抑えきれず、明里は絞り出すように言った。
「消えて」
しかし、穂花は怯むどころか前に出てきて、わざと襟元を広げると、首筋に刻まれた生々しいキスマークを明里に見せつけた。
「哀れですね……旦那さんの体も心も、とっくに私のものなんて。そんな紙切れだけの夫婦の関係を続けていて、何の意味があるんですか?
正人さんが愛しているのは私なんです。あなたとまだ離婚しないのは、単に清水家の体面を保つためでしょう?」
「黙れって言ってるでしょ!」
我慢の限界を超えた明里は、勢いよく手を伸ばし、穂花の首を力任せに絞め上げた。
この声も、この顔も……何もかも吐き気がする。
「うっ……」
不意を突かれた穂花は顔を真っ赤にしながらも、必死に明里の手首を叩いて抵抗する。
二人が揉み合っていると、先ほど燃やしたものが、庭の乾いた草に燃え移っていた――
火は一気に燃え広がり、リビングのカーペットを焼き、辺り一面が黒煙に包まれる。
正人も駆けつけてきた。
家に入るなり、明里が穂花の首を絞めているのを見て激昂し、全力で明里を突き飛ばした。
明里は後頭部をドア枠に打ちつけ、激痛に襲われた。
明里の手足からは感覚が消えていく。ぼやける視界の先で、正人は必死に穂花を抱き寄せ、取り乱しながら何かを叫んでいた。
「穂花、大丈夫か?無事でいてくれ!」
正人の胸の中で荒い息をつく穂花は、震える指先で明里を指し、涙ながらに訴えた。
「正人さん……あの人に殺される……」
正人の鋭い眼差しが、床に伏す明里に向けられた。
その瞳には、嫌悪と凍りつくような冷たさしかない。
その間にも炎は勢いを増し、黒煙が辺り一帯を包み込む。家具が音を立てて崩れ落ち、ドアも炎の壁に阻まれていた。
正人は穂花を抱え上げ、迷うことなく明里に背を向けた。
全身が炎に包まれ、意識が遠のく中、明里は正人の背中を見つめていた。何度もこうやって、この男には見捨てられた……
「正人……」
明里は微かな声で助けを求める。
「熱いよ……助けて……」
……
その後、明里は一命を取り留めたが、右手には深い傷跡が残ってしまった。
医師が言うには、生活に支障はないものの、神経と筋肉に重い障害が残ってしまったため、繊細な動きはもう二度とできないとのことだった。
つまり、もう画筆を握ることも、愛していたアニメのキャラクターを描くこともできないというわけだ。
この人生は、失うことの連続だ。
親からの愛、守られるべき平穏な暮らし、そして心の拠り所まで……全てを奪われた。
「最悪の事態は避けられて良かった。日常生活に困らないだけ不幸中の幸いだったと、先生も言っていたしな」
病室の傍らに座った正人が、明里の手の甲を優しく撫でながら言った。「海外に行けば最新の治療だって受けられるし、ゆっくり治していけばいいさ」
明里が目を覚ましてから、正人は付きっ切りで看病していた。
食事も着替えも薬の交換も、全てが献身的で自然だった。
しかし、明里が求めているのはこういうことではない。
白い天井を見つめたまま、明里は静かに切り出す。「穂花さんは、どこにいるの?」
「3階のVIP病室だよ」と、正人は即答した。
「無傷なのにVIP病棟なの?」
明里は皮肉を込めて正人を睨みつける。「いつも口を開けば、私のためって言っているのに、穂花さんはVIP病棟で、私は普通の病室なんだね。どうせ、海外治療のことだって、適当に言ってるだけなんでしょ?
ねえ、正人。どうして、私にはこんな扱いしかしてくれないの?」
涙が溢れて止まらなかった。
火事を経験して、正人はどちらが守るべき存在なのか気づいてくれたと思っていたのに。
結局、正人が選んだのはやはり自分ではなかった。
「聞いてくれ。穂花は――」話の途中で、正人のスマホが鳴った。
着信には「穂花」という文字。
スマホを握り締めた正人の目には躊躇いと、僅かながら明里への後ろめたさが浮かぶ。
その迷いを見た明里は、喉まで出かけた引き留める言葉を刺々しい拒絶へと変えた。
「出てって!もう二度と顔なんか見たくない!」
一瞬たじろいだ正人だったが、結局何も言わずに立ち去り、ドアを静かに閉めた。
ドアが閉まった途端、再びノックもなく人が入ってきた。
正人が戻ってきたのかと思い、明里は吐き捨てた。「好きな人のところに行くんじゃなかったの?あなたの憐れみなんて、いらないんだから」
「正人さんが戻ってきたって思ったんですか?」
穂花は優雅な足取りでベッドへ近づくと、冷ややかな視線を明里に向けた。「笑っちゃいますよね。私が電話一本かけるだけで、あの人は靴が脱げる勢いで私の病室に走ってきましたよ?」
穂花は体を明里に近づけ、低い声でトドメを刺す。
「愛されないって本当に可哀想。私ならさっさと離婚して身を引きますけどね。だって、自分をこれ以上憐れにはしたくないですから」
布団の下で握りしめられたスマホは、先ほどから録音機能がオンなっている。
明里は穂花に背を向け言った。
「離婚の話はもうした。でも、向こうが離婚に同意しないの。だから、ここで自慢げに喋る暇があったら、彼を説得でもしたらどう?」
「何ですって!」
痛いところを突かれた穂花は逆上し、勢いよく明里の腕に掴みかかった。
しかし、明里を動かせないと分かると、穂花は明里の手の甲に繋がれていた点滴の管を、無惨にも引っ張った。
「あなたみたい女が、いつまでも正人さんを縛り付けて!」
針先が皮肉を刺す激痛に顔が歪む。
明里は穂花の手を押さえたが、理性を失った穂花は点滴の針先を、直接明里の皮肉に深く突き刺そうとした――
「いい加減にしろ!」
駆けつけた正人が、間に入って力任せに穂花を引きはがす。
第8話
明里は呼吸を整えたが、手の甲の点滴の跡は真っ赤に腫れ上がり、管には血が逆流していて見ていられないほどだった。
「正人さん!」
穂花は一瞬で表情を切り替え、目を真っ赤に腫らして正人の胸に飛び込むと、泣きじゃくった。「明里さんに、正人さんと別れろって脅迫されたの……
私は話をしにきただけなのに、明里さんは無理やり自分の手を傷つけて……しかも、私にまで薬を打とうとしてきたの……もし正人さんが来てくれていなかったら、どうなっていたか分からなかったよ……」
明里を見る正人の瞳から、温もりがすっと消えた。
「お前、もう少しで穂花を殺すところだったんだぞ。お前の手の怪我に免じて何も言わなかったけど、全っく懲りないやつだな」
低い声で正人が告げる。「今すぐ、穂花に謝れ」
明里は鼻の奥がツンとしたが、負けじと反論した。「先に手を出してきたのはこの女だから!なのに、私の話も聞かないで私ばかり責めるなんて……正人、どうかしてるよ」
「明里!」正人の声が鋭く響いた。「その点滴にはセフェム系の薬が入っている。穂花はアレルギーがあるんだから、お前を傷つけるために、命まで賭けるわけがないだろう?悪いのは、どう考えてもお前だ」
正人はいつだって穂花の味方。
いつだって、あの同情を誘う潤んだ瞳ばかりを信じる。
そのとき、病室の照明が不意に消えた。
病室が暗闇に包まれる。
明里は窓から漏れるかすかな月明かりを頼りにベッドを降り、穂花のほうへと足を進めた。
人の気配を感じた正人は、明里がようやく謝る気になったのだと思い、厳しい表情を緩めて優しく言った。
「間違いを認めたなら、直せばいい。これからお前たちは……」
パチン!パチン!
暗闇に二度、高く鋭い平手打ちの音が響いた。
同時に、穂花の叫び声が、静寂を引き裂く。
明里は混乱に紛れて病室を飛び出した。後ろから泣き叫ぶ声と罵声が聞こえてくる。
自分は神様すら気づかない野草のようなもの。小さなころから踏みつけられ、裏切りの中で生き抜いてきた。
誰の同情も施しもいらない。
あと3日。
離婚届が受理されれば、すべてから解き放たれる。
そうなれば、正人と穂花が愛し合おうが憎み合おうが、自分には何の関係もないことだ。
……
あっという間に、穂花と「かっちゃん」の約束した結婚式の日が訪れた。
控室で、穂花は支度をしながらスマホを食い入るように見つめていた。
30分前、穂花は正人に最後通牒を送ったばかりだった。
【離婚しないなら、私は今日、かっちゃんと結婚するから。場所ももう送ってある。来るか来ないかはあなたが決めて】
「場所だって送ったんだから……たどり着けないはずがない。私が誰かと結婚するなんて、正人さんが許すはずもないし……」穂花は、鏡の中の自分に向かって言った。
答えは、もうとっくに分かっている。
しかし、穂花は深く深呼吸し、鏡に向かって微笑んで見せた。
「まあ、いいや。正人さんが私と名前のある関係になってくれないのなら、私も執着しない。
だって、私にはかっちゃんがいるもん。優しくて気が支えて、私だけを見てくれる……全然正人さんに引けなんか取ってない」
メイクが終わると、穂花は我慢できず明里の方へ振り返り、ドレスの裾を翻した。
「ねえ、似合ってる?」
明里は壁際にいた。全身黒の特注スーツをまとい、黒いレザーの手袋で火傷をした右手を隠している。
明里はうわの空で穂花をひと目見ると、「似合ってる」とだけ答えた。
「メイクさんが、ダイヤのついたドレスと、かっちゃんが贈ってくれた宝石のおかげでより一層輝いてるって……やっぱりかっちゃんのセンスはいいね」
試されているのが分かる。嫌悪感を抑えつつ、明里は黙り込んだ。
穂花はそんな冷淡さにも気づかず、すり寄ってくる。
「写真は見てたけど、もう夫婦になるんだから……マスク取ってくれない?顔が全部見たいの」
そう言って穂花は背伸びをし、明里の頬にキスをしようとする。
明里は身をかわし、メッセージの返信に忙しいふりをして誤魔化した。
「またあとで。式が始まったら外すよ」
穂花は少し気まずそうにしたが、スマホを見つめる明里を見て、恥ずかしがっているだけだと思い込み特に何も考えなかった。
すると明里のレザーの手袋に目を留め、嬉しそうに言った。
「その手袋……私たちが大好きなあの公爵の真似?スーツに手袋だなんて、本当にそっくり!」
穂花は、さらに興奮した。「きっと長い時間をかけて準備してくれたんだね?かっちゃん、私……」
「それでは、新郎新婦のご入場です!」
司会者の声に穂花の言葉は遮られた。
穂花は言葉を飲み込み、誓いの言葉の時に伝えればいいと考えた。
新婦側の招待客のほとんどは大学の先生と友人。そして、新郎側の親族は全員、明里が雇ったエキストラたちだった。しかし、誰もが喜びに満ちた笑顔を浮かべている。
先に明里がバージンロードを歩き、牧師の前まで行く。
牧師の前まで来たのでマスクを外したが、照明を利用し、顔が半分だけしか見えないようにする。
逆光で、穂花からは顔がはっきりとは見えない。
音楽が静かに流れ出す。
ドレスを持ち上げた穂花が扉から現れた。幸せそうな微笑みを浮かべ、瞳には涙を溜めている。
バージンロードの先で待つ、背の高い姿を見つめ、穂花は想い人へと一歩一歩近づいていった。
歩みを進めるにつれ、逆光の中にいたその顔が徐々に鮮明になっていく。
新郎の姿をはっきりと見たその瞬間――
穂花の笑顔は凍りついた。
愛する「かっちゃん」の目は、氷のように冷たく彼女を見下ろしていたのだ。
……
時を同じくして、清水グループの社長室には、秘書の伊藤祐介(いとう ゆうすけ)が慌てて飛び込んできていた。「先ほど、会社に社長と奥様の離婚届受理書が届きました!
でも、社長は全くこのようなことをおっしゃっておりませんでしたので、すぐ報告したほうがいいかと思い……役所にも確認したところ、まだ窓口は空いてるから、相談は受け付けられるとおっしゃっておりました」
正人は椅子に深く沈み、ピクピクと目元を痙攣させながら指を固く組み合わせる。
最初から予想すべきだった。
一度決めたことは手段を選ばず、何が何でも成し遂げる明里の頑固さ。
役所の窓口が閉まるまであと15分。
ここから穂花の結婚式のホテルまでも車でちょうど15分だ。
行けるのはどちらか一方だけ。
正人は車の鍵を掴むと、社長室を飛び出した。
「社長!今日役所に行かなかったら、もう手続きしてもらえなくなるかもしれませんよ!」
祐介の叫び声が耳に残る。
正人はアクセルを深く踏み込んだ。
もっと早く。
もっともっと早く。
車は矢のように駆け抜けた。
そして交差点で勢いよくハンドルを切り、迷わず――
役所へと車を走らせた。