妻の挑発で過去を捨てた俺は、もう契約夫には戻らない

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妻の挑発で過去を捨てた俺は、もう契約夫には戻らない

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俺は九条安葉(くじょう あんは)と結婚して八年になる。 その間、安葉は次から次へと数え切れないほどの男を家に連れ込んできた。 そして今...

Chương (1)

第1章

俺は九条安葉(くじょう あんは)と結婚して八年になる。 その間、安葉は次から次へと数え切れないほどの男を家に連れ込んできた。 そして今回、目の前にいるのは百人目の若い男だ。 その男は挑発するように俺を見下ろし、それから安葉に尋ねた。 「九条社長、こいつが家にいるっていう役立たずのヒモ夫?」 安葉は椅子の背に深くもたれかかったまま、気だるげにそうだと答えた。 若い男は俺の目の前まで歩み寄ると、俺の頬を軽く叩いてせせら笑った。 「今夜は耳を澄ましてよく聞いとけよ。本当の『使える男』ってのがどんなものか教えてやるから」 その夜、俺はゲストルームで一晩中、二人のあられもない声を聞かされる羽目になった。 翌朝になると、安葉はいつものように俺へ朝食を作るよう命じてきた。 俺は、それをきっぱりと断った。 安葉は忘れているのかもしれない。俺たちの関係が、ただの契約結婚にすぎないということを。 そして今日が、その契約が満了する三日前だということを。 第1話 俺は九条安葉(くじょう あんは)と結婚して八年になる。 その間、安葉は次から次へと数え切れないほどの男を家に連れ込んできた。 そして今回、目の前にいるのは百人目の若い男だ。 その男は挑発するように俺を見下ろし、それから安葉に尋ねた。 「九条社長、こいつが家にいるっていう役立たずのヒモ夫?」 安葉は椅子の背に深くもたれかかったまま、気だるげにそうだと答えた。 若い男は俺の目の前まで歩み寄ると、俺の頬を軽く叩いてせせら笑った。 「今夜は耳を澄ましてよく聞いとけよ。本当の『使える男』ってのがどんなものか教えてやるから」 その夜、俺はゲストルームで一晩中、二人のあられもない声を聞かされる羽目になった。 翌朝になると、安葉はいつものように俺へ朝食を作るよう命じてきた。 俺は、それをきっぱりと断った。 安葉は忘れているのかもしれない。俺たちの関係が、ただの契約結婚にすぎないということを。 そして今日が、その契約が満了する三日前だということを。 …… 安葉は、俺、佐伯時真(さえき ときまさ)の断りの言葉を聞いた瞬間、少しだけ目を見開いた。 この八年で、俺が彼女の要求を拒んだのは初めてのことだった。 安葉は俺を上から下まで値踏みするように眺め回し、不審そうに眉をひそめた。 「昨夜のことでおかしくなったの?それとも頭でも変になったわけ?」 俺は何も言い返さず、ただ静かに安葉を見つめた。 しばらくすると、その無言の視線に安葉のほうが居心地悪くなったらしい。あからさまに苛立ちを顔に浮かべた。 「やらないなら、別にいいわ。でも、そんなふうにじっと見られるの、本当に鬱陶しいんだけど」 シッシッとハエでも追いはらうように手を振り、安葉は執事に朝食の準備を命じた。 そのとき、昨日この屋敷に連れ込まれた若い男が、嫌らしい笑みを浮かべて俺のほうへ歩いてきた。 「昨日の夜、どうだった?よく聞こえた?ちょっと刺激が強すぎたかな」 若い男――早瀬景斗(はやせ けいと)がさらに言葉を続けようとしたところで、安葉が彼の腕をつかみ、強引に引き戻した。 「余計なこと言わないの。先に顔を洗ってきなさい。もう朝食にするわよ」 景斗は俺に向かって挑発するように片眉を上げた。その目には、隠しきれない優越感がにじみ出ていた。 食卓では、安葉と景斗が甘ったるい雰囲気を漂わせながら朝食をとっていた。 俺は顔も上げず、これから先をどう生きていくか、ただそればかりを考えていた。 どれほど時間が経っただろうか。突然、腕を軽く叩かれた。 顔を上げると、すぐ横に安葉が立っていた。表情は険しく、機嫌の悪さを隠そうともしていない。 「何か用か?」 俺が淡々と尋ねると、安葉は探るような目で俺を見下ろした。 「さっきから何考えてるのよ。ずいぶん自分の世界に入り込んでたみたいだけど」 俺は少し間を置き、正直に答えた。 「これから先、何をして生きていくか考えていた」 それを聞いた安葉は鼻で笑い、呆れたように舌打ちをした。 「あんたに何ができるっていうのよ。掃除と料理以外に、取り柄なんてある?」 その刺々しい言葉を聞いても、俺の心はまったく波立たなかった。 人を見下すような物言いを、安葉はいつもあまりに自然に口にする。そのことには、とうの昔に慣れてしまっていたのだ。 契約結婚をしてから八年。俺は安葉の世話をするために、自分の人生のほとんどを捧げてきた。 毎日、彼女の顔色ばかりをうかがう日々の中で、かつて夢を抱いていた自分がどんな人間だったのか、それさえも思い出せなくなっていた。 八年前、俺の母さんが重い病に倒れ、莫大な治療費が必要になった。 八方塞がりでどうにもならなくなっていたその時、安葉が現れた。 ――一億円を渡す。その代わり、彼女と契約結婚をして、九条家の人間をごまかすための隠れ蓑になってほしい。 それが安葉の出した条件だった。 俺は母さんの命を救うため、その条件を受け入れた。 それからの八年、俺は安葉が次から次へと違う男を家に連れ込むのを、ただ黙って見てきた。 一度だけ、ひどく酒に酔った安葉が、真剣な目で俺を見つめて言ったことがある。 「あたしたちは住む世界が違うの。だから、あたしに勝手な期待はしないでよね」 俺はずっと、安葉は他人を愛することを知らない人間なのだと思っていた。 だが去年、安葉には病気で亡くした初恋の相手がいたという事実を知った。 そして昨日、安葉が家に連れ込んだ早瀬景斗という男は、その初恋の相手にどこか面影が重なっていた。 だから今朝、安葉が景斗といちゃつきながら朝食を食べていても、俺の心は凪いだままだった。 むしろ、いつこの家を出ていくのが最適なタイミングだろうかと、冷静に考えている自分がいた。 俺が黙り込んでいると、安葉が苛立った声で俺の名前を呼んだ。 その鋭い声で、俺はようやく現実に引き戻された。 「……外で仕事を探そうと思う」 第2話 安葉は鼻で笑った。 「あんたみたいな人間は、清掃員でもやってるのがお似合いよ。景斗みたいな出たばかりの若い子にも負けてるくせに」 俺が何か言い返そうとしたとき、景斗が寝室から出てきた。 「安葉、これは僕に似合ってる?」 景斗が身につけていたのは、安葉が毎年、亡くなった初恋の相手のために用意しては大切に保管していた服だった。 以前、俺が掃除の最中にその服に少し触れてしまっただけで、安葉に激怒され、平手打ちを食らったことがあった。 けれど今の安葉は、その服を着た景斗をじっと見つめ、明らかに満足そうな表情を浮かべていた。 「ええ、すごく似合ってるわ。中の服は好きに着回してちょうだい」 景斗はこれ見よがしにひと通りポーズを決めると、わざとらしく俺に話を振ってきた。 「時真さん、どうだった?似合ってると思う?」 俺は淡々と頷いた。 「ああ、似合ってる」 予想外の反応だったのか、景斗は一瞬、きょとんとした顔を見せた。 彼が次の言葉を探す前に、俺はきびすを返し、そのまま自室へ戻った。 あと三日もすれば、この家を出られる。そろそろ荷物をまとめ始める頃合いだった。 …… ベッドに横になってから、そう時間も経たないうちに安葉から電話がかかってきた。 「景斗が学校に戻るから、車で送って」 俺は思わず眉をひそめた。 「専属の運転手ならいるだろ」 立て続けに要求を断られたせいか、安葉の声には明らかな苛立ちが混じり始めた。 「今は、あんたにちょっとした用事を頼むのすら、そんなに面倒なことになったわけ?」 これ以上こじらせるのも馬鹿らしくなり、俺は短く答えた。「わかった」 すると安葉は、自分の思い通りになったことに満足したように言った。 「最初からそうやって素直に言うことを聞いていればいいのよ」 着替えて部屋を出ると、安葉が景斗を連れて庭で待っていた。 「さっさと車を出しなさい。景斗、今日は試験があるんだから、遅刻したらどうするのよ」 景斗はにやにやしながら俺を見た。 「時真さん、ありがとう。よろしくね」 別れ際、景斗と安葉は庭でそのまま熱く唇を重ね合わせた。 景斗は車の助手席に乗り込むと、挑発するように俺を見た。 「ごめんね、見せつけちゃって。安葉、結構情熱的なんだよね。時真さんにもあんな感じ?」 俺が黙ったままでいると、景斗は鼻で笑い、得意げに続けた。 「まあ、安葉みたいな女性が、時真さんなんか好きになるわけないか。 年は食ってるし、つまらない男って感じだしね」 俺がずっと相手にしなかったせいで、ひとりで煽っていても張り合いがなくなったのか、景斗はすぐに押し黙った。 学校が近づいてきたころ、突然、対向車線から小型車が制御を失って突っ込んできた。 俺はとっさにハンドルを切り、進路を逸らした。 かなり早く反応したつもりだったが、それでも完全に避けきることはできず、凄まじい衝撃とともに激しく衝突した。 車が完全に停止したあと、俺の脚に鋭い激痛が走った。 それと同時に、隣から景斗のうめき声も聞こえた。 痛みを堪えて横を見ると、景斗は腕にかすり傷があるだけだった。 見えないところに別の怪我があるのかもしれないと、そのときは思った。 ほどなくして救急隊が現場に到着し、俺たちは大破した車の中から助け出された。 俺は左脚を骨折していた。 景斗は本当に、腕に少し擦り傷ができているだけだった。 医師が景斗の簡単な手当てを終えたころ、慌てた様子の安葉が病院に駆けつけてきた。 安葉は足早に景斗のそばへ駆け寄り、どこか痛むところはないかと必死に声をかけている。 景斗は甘えるように、手が痛いと大げさに訴えた。 すると安葉はすぐさま運転手に指示を出し、景斗を総合病院へ連れて行き、全身の精密検査を受けさせようとした。 その間、安葉は二度、俺のストレッチャーのそばを通り過ぎた。 だがその視線が、骨折して横たわる俺に向けられることは、ただの一度もなかった。 俺は声もなく、自嘲するように口元をゆるめた。 骨の砕けた脚の痛みより、胸の奥の冷たい痛みのほうが、はるかに強かったのかもしれない。 病室へ運ばれたあと、廊下から看護師たちのひそひそ話が耳に入ってきた。 「あの社長さん、年下の彼氏にすごく過保護だね。手にちょっとかすり傷ができただけなのに、わざわざ別の病院で精密検査まで受けさせるなんて」 「あそこまで優しくて、しかもお金持ちなんでしょ。ああいう人と結婚できたら、きっと一生幸せだろうね」 第3話 俺は心の中でそっと否定した。安葉と結婚したところで、幸せなんてあるわけがない、と。 医師に手術室へ運ばれる直前、安葉が景斗の手を引いて近づいてきた。 「大丈夫なの?」 安葉は眉をわずかに寄せて俺を見下ろした。 「運転するときくらい、ちゃんと前を見てなさいよ。今回は景斗に大した怪我がなくてよかったものの」 隣で景斗が、わざとしおらしい声を出した。 「僕が時真さんに送ってって頼んだから、こんなことになっちゃったんだよね。ごめんね」 安葉はすぐさま景斗を抱き寄せ、甘やかすように声をやわらげた。 「景斗のせいじゃないわ。あなただって怪我して痛い思いをしたんでしょ。ほら、あとで美味しい夜食でも食べに行きましょう」 そこへ医師がやって来て、手術の準備が整ったと告げた。 安葉は、俺が手術を受けると聞いて少し驚いたように目を向けた。 だが次の瞬間には、景斗の甘えた声に意識を引かれ、そっちへ向き直っていた。 手術は順調に終わった。 麻酔から覚めたあと、看護師に「ご家族へ連絡しますか」と聞かれたとき、俺は数秒の間言葉を失った。 それから、俺は静かに口を開いた。 「……連絡はいりません。俺には家族がいないので」 入院しているあいだ、俺は自分で介護士を雇って身の回りの世話をしてもらった。 その間、安葉は毎日のように景斗を連れてあちこちへ遊びに行っていたらしい。 景斗は行く先々で撮った写真を、毎日欠かさず俺のスマホに送りつけてきた。 海辺の砂浜、ダイビングスポット、海中の絶景を見渡せるラウンジ。 どこへ行っても、二人は写真の中で熱っぽく唇を重ねていた。 けれど、それを見ても俺の心は少しも揺れなかった。 最近の俺は、親友の三谷佳隼(みたに よしと)と一緒に、バイオ研究ラボを立ち上げる準備に忙殺されていた。 この八年間、俺は安葉の世話の合間を縫って、ずっと佳隼の製品開発を手伝ってきたのだ。 以前から「一緒にラボをやろう」と誘われていたが、俺は断り続けていた。 友人たちの多くは、たった一つの契約のために八年を費やしたなんてもったいないと言った。 それでも後悔はなかった。 あのころの俺にとって、母さんの命より大事なものなんてなかったからだ。 だが今はもう、安葉との契約期間も終わった。俺は自由の身になれるのだ。 退院の日になると、珍しく安葉から電話がかかってきた。 「いつ戻ってくるのよ。家の中が散らかってて最悪なんだけど。まだ退院してないわけ?」 俺は小さく鼻で笑い、皮肉っぽく返した。 「家の使用人たちは、全員仕事を引き払ったのか?」 安葉は苛立った声で言い返してきた。 「あんたも知ってるでしょ。あたし、自分の物を他人に触られるのが大嫌いなのよ。会社の書類だって、あんたが整理してくれないと困るの」 時間を確認し、「今は無理だ」と突き放そうとしたところで、病室の入り口から看護師に声をかけられた。会計を済ませて退院の手続きをしてほしいとのことだった。 その声を聞き取ったらしい安葉は、ちょうどいいとばかりに「さっさと帰ってきなさいよね」と急かしてきた。 俺は適当に聞き流して電話を切り、支払いを終えると、病院の前に迎えに来ていた佳隼の車に乗り込んだ。 助手席に座った俺を見て、佳隼が口を開く。 「ほう。すげえ清々しい顔してんな。ようやく自由になれたって顔だ」 俺は口元にうっすら笑みを浮かべ、シートに深く背中を預けた。 「ああ、全部終わった。あとは離婚の手続きを済ませて、あの家を出るだけだ」 佳隼はハンドルを握りながら、俺以上に嬉しそうに笑った。 「よしきた。じゃあさっそくラボの契約書にサインして、そのあと美味いもんでも食いに行こうぜ」 俺は頷いた。 カフェで佳隼と契約の細かい条件を詰めている最中、安葉からまた電話がかかってきた。 俺は着信画面を一度見ただけで、スマホを裏返して机に置いた。 そして、何事もなかったように佳隼へ話の続きを促す。 佳隼はそれを見て、ひゅっと口笛を吹いた。 「ほんとに未練すっからかんなんだな」 俺がかつて安葉に本気の感情を向けていたことを知っているのは、佳隼だけだった。 けれど、そんな感情は、安葉に何度も無残に踏みにじられるうちに、とっくの昔に削り取られていた。 俺は伏せられたスマホをぼんやりと見つめ、淡々と口にした。 「住む世界が違った。ただそれだけだ」 佳隼も納得したように深く頷いた。 契約を済ませたあと、俺たちは昔からよく通っていた鍋屋へ向かった。 最初のひと口。赤く煮えたぎった辛い牛肉が舌に触れた瞬間、なぜか目の奥が熱くなった。 佳隼は笑った。 「なんだよお前。そんなに感動するほど美味かったか?」 俺は少し笑い返しただけで、何も答えなかった。 安葉と一緒に暮らすようになってから、彼女が嫌がるこういう匂いの強い食べ物には、ただの一度も手をつけていなかったからだ。 第4話 安葉は、服に匂いがつくような食べ物をひどく嫌っていた。そんなものを口にしたら自分の品位が疑われる、と本気で思っていた。 それだけじゃない。 人前で笑うことも禁じられていた。 この八年間、俺はまるで感情を持たない道具のように生きてきた。 けれど今は、間もなく手に入る自由の気配を感じて、自然と目の奥が熱くなっていた。 食事を終えて家に戻ったころには、もう夜の十時を回っていた。 玄関の扉を開けると、リビングのソファに安葉が不機嫌そうな顔で座っていた。 今日、彼女から十回以上も着信があったが、俺は一度も出ていない。 「どこ行ってたのよ」 俺は靴を脱ぎ、手を洗ってから淡々と答えた。 「友達と飯を食っていた」 安葉は俺のそばまで歩み寄ってきた。 そして、服に染み付いた匂いに気づいたのか、顔つきをさらに険しくした。 「匂いの強いものは食べるなって言ったでしょ。ひどい匂いわね」 俺は自嘲気味に笑い、わざと不思議そうな顔を作って聞き返した。 「景斗が食べたときは、何も言わなかったじゃないか」 その瞬間、安葉の目に浮かんだ嫌悪の色がさらに濃くなった。 「あんたが景斗と同じなわけないでしょ。それに、景斗は九条家の人間じゃないんだから」 俺は何も言い返さなかった。 今はまだ、だろう。 だが、もうすぐ彼も「九条家の人間」になる。 景斗が安葉にとってどれほど特別な存在であるかなんて、火を見るより明らかだった。 …… 佳隼はラボの契約を結んだ翌日には、準備のために国外へ飛んでいた。 俺は弁護士に連絡を取り、離婚協議書を作成してもらった。 「財産分与は一切求めない」という文言を静かに見つめ、その下に自分の名前をサインした。 そのとき、スマホに景斗から動画が送られてきた。 映っていたのは、豪奢に飾りつけられたホテルのバンケットルームだった。 ステージの立て看板には、【ようこそ 九条安葉と早瀬景斗の婚約式へ】と書かれている。 動画の奥では、安葉がホテルの責任者と婚約式当日の段取りを打ち合わせしていた。 その横で、画面越しの景斗が勝ち誇ったように言った。 「俺が安葉に婚約したいって甘えただけで、世間の目なんか気にせず、こんな立派な式を用意してくれたんだ。 式は二日後だから。時真さんもぜひ来てよね」 奇しくも二日後は、俺の三十歳の誕生日だった。そして、飛行機に乗ってこの国を離れる日でもある。 俺は動画を閉じ、景斗の連絡先もその場でブロックした。 顔を上げ、ほんの数平米しかない狭い自室を見回した。 この豪邸で八年も暮らしたが、自分のために買った物はただの一つもなかった。 ここへ来たあの日と同じように、俺の全財産はスーツケース一つに収まってしまった。 荷物をまとめ終え、スーツケースを部屋の隅に寄せたところで、不意に安葉が扉を開けて入ってきた。 「スープを作って」 あまりにも当然のように命じるその口調を聞いて、これが本当に最後なのだと実感した。 だから、俺は断らなかった。 出来上がったスープを食卓に運ぶと、安葉は少し訝しげに俺を見た。 「あんた、最近なんでそんなに無口なのよ」 以前の俺なら、毎日違った話題を見つけては安葉に話しかけていた。 彼女がろくに相手をしてくれなくても、必死に言葉を紡いでいたのだ。 俺は適当な言い訳でごまかした。 「ここ数日、喉の調子が悪くて。あまり話したくないんだ」 安葉はうんざりしたように舌打ちをすると、保温容器に詰めたスープを手に提げて家を出ていった。 それきり、安葉は景斗との婚約式の日まで、一度もこの家に帰ってこなかった。 俺は、八年前の結婚契約書とサイン済みの離婚協議書を並べてリビングのテーブルに置いた。 それからスーツケースを引き、八年間囚われていたこの家を最後に一度だけ見渡し、二度と振り返ることなく空港へと向かった。 搭乗ゲートをくぐる直前、不意に安葉から着信があった。 俺はためらうことなく通話拒否のボタンを押した。 そのままスマホのSIMカードを抜き取り、近くのゴミ箱へ投げ捨てた。 今日から俺は、誰のためでもない、自分自身の未来へ向かって歩き出す。