私を捨てた夫は、すべてを失って後悔する

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私を捨てた夫は、すべてを失って後悔する

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「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りい...

Chương (1)

第1章

「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」 エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。 ピンク? そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。 半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。 「……本当に、ピンクなんですか?」 喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。 「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」 電話を切ったあと、私は夫に確認しようと立ち上がった。 けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。 見覚えのあるロゴ。 それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。 なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。 リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。 何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間―― 全身の血の気が一気に引いた。 B75。 私はこの十年間ずっと、C70だというのに。 第1話 「奥様、この前ご覧になっていたピンクのバーキンが入荷いたしました。ご主人様からご指定いただいていたお色ですので、いつでもお受け取りいただけますよ」 エルメスの担当者から弾んだ声でそう告げられた瞬間、私・山本詩音(やまもと しおん)はソファに座ったまま、手にしていたリモコンを思わず強く握りしめた。 ピンク? そんなはずはない。私が欲しいと何度も口にしていたのは、ショーウィンドウの中でひときわ目を引いていた、あの鮮やかなオレンジレッドだった。 半月ものあいだ、何度も彼に話していたのに。 「……本当に、ピンクなんですか?」 喉がかすかに詰まりながら問い返すと、担当者は不思議そうでもなく、はっきりと言った。 「はい。ご主人様が、いちばん柔らかな桜色のピンクをご希望だと、念を押されていました」 電話を切ったあと、私は夫の江口辰也(えぐち たつや)に確認しようと立ち上がった。 けれどその拍子に、書斎の机の下に置かれたままの未開封の荷物につまずく。 見覚えのあるロゴ。 それは、彼がこれまで何度も私に贈ってくれた高級ランジェリーブランドの箱だった。 なぜか胸騒ぎがして、私はその箱を拾い上げる。 リボンをほどき、包みを開くと、中から現れたのは黒いレースのブラジャー。タグはまだついたままだった。 何気なく、サイズ表記に目を落とした瞬間―― 全身の血の気が一気に引いた。 B75。 私はこの十年間ずっと、C70だというのに。 私は吐き気をこらえながら、その黒いレースのブラを放り投げた。 そしてすぐに、彼へビデオ通話をかける。通話はあっさりつながった。 画面に映った彼の頬は、わずかに赤い。 「どうしたんだい、詩音。急にビデオ通話なんて。珍しいじゃないか。今まであんなに頼んでも、なかなかかけてくれなかったのに」 私は何も答えず、右手で彼の社長室のリアルタイム監視映像を開いた。 十年も一緒にいた相手だから、辰也は、私の様子がおかしいことにすぐ気づいたらしい。 「詩音、どうした?今日のドラマ、つまらなかったのか?それとも、ここ数日帰りが遅いから怒ってるのか?」 私は時計に目をやる。 一時半。監視映像の中では、机の上に置かれた料理がまだほとんど手つかずのままだった。 口いっぱいに食べ物を頬張っているところを見ると、相当お腹が空いていたのだろう。 それでも彼は、すぐに箸を置いた。 「どうしたんだい。そんなに怒らないでくれ。今朝は会議が六回立て続けで、本当に息つく暇もなかったんだよ」 やさしくなだめるような声。 「信じられないなら、監視カメラを見てみなよ。どれだけ大変だったか、すぐわかるだろ?」 ――そう。 この監視カメラは、もともと彼自身が取りつけたものだった。 あのとき彼は私を抱き寄せて、こう言ったのだ。 「詩音、君はいつでも好きなときに、俺のオフィスの監視映像を見ていい。 俺のいる界隈に、まともな夫婦なんてほとんどいないことくらい、俺だってわかってる。それでも俺は、ありったけの誠意で、君に少しずつでも信じてもらいたいんだ。詩音、俺はあいつらとは違うよ」 スマホも、パソコンも、銀行口座も。暗証番号が必要なものは、すべて私の誕生日にしていた。 泣き寝入りなんて、私の性分じゃない。 私はようやく口を開いた。 「辰也。どうして私のバッグ、色が違っていたの?」 辰也は眉をひそめた。 数秒の戸惑いのあと、ふっと合点がいったような顔になる。 「ああ、この前のバーキンのこと?ピンクは姉ちゃんが欲しいって言ってたから、ついでに頼んだんだよ。君のオレンジは一緒に届いてなかった?それなら担当が伝え漏らしたんだな。ちょっと電話して確認するよ」 そう言うなり、彼は少し苛立った様子で内線電話に手を伸ばしかけた。 今までだってずっとそうだった。私のこととなると、彼はいつも誰よりも気にかけて、すぐに動いてくれた。 私はその手を止めるように言った。 「もういいわ」 彼はなおも私を安心させようとしたのか、スマホのカメラを切り替え、姉とのやり取りの画面を見せてきた。 【辰也、詩音ちゃんのバッグ頼むついでに、私の分もピンクでお願いしてくれない?】 でも―― 本当に、そんな都合よく話が揃うものだろうか。 証拠は完璧。人も、物も。 頭の中がひどく散らかって、私は急に、あのレースの下着のことを問い詰める気力をなくしてしまった。 彼は忙しすぎて、サイズを間違えただけかもしれない。そう、自分に言い聞かせる。 けれど、通話を切った次の瞬間。監視映像に映ったあるものに、私は息をすることすら忘れた。 辰也の背後にある床まで届くガラス窓。そこに、女の顔がぼんやりと映り込んでいた。 そして次の瞬間、その女はゆっくりと、彼のデスクの下から這い出てきたのだ。 唇の端を指でぬぐい、満ち足りた猫のように、男の膝に頬をすり寄せる。あまりにも親密な仕草だった。 ――そういうことだったのだ。 さっき、辰也の頬が赤かったのは、私からの電話がうれしかったからでも、食事で火照っていたからでもなかった。 デスクの下で、ひとりの女が彼にそういうことをしていたからだ。 第2話 仲間うちで何かとからかわれ、妻にぞっこんの男として知られていた辰也が―― 本当に、浮気していた。 私はソファに座り込んだまま、しばらく動けなかった。言いようのない鈍い痛みが、じわじわと全身を満たしていく。 スマホの待ち受けに映る、彼とのツーショットを指先でなぞる。 どれほどそうしていたのか、自分でもわからない。気づけば外では雨が降り始めていた。ぽつ、ぽつ、と静かな音を立てながら。 そして私の視界にも、いつの間にか涙で潤んでいた。 やがて私は意を決して、個人アシスタントに電話をかけた。 「小林さん、調べて。辰也の近くに最近どんな女がいるのか」 考えられる相手はいくらでもあった。 新しく雇われた若い秘書かもしれない。江口家に取り入ろうとする、どこかの令嬢かもしれない。 あるいは、同じ業界の女かもしれない。 けれど――どれも違った。 相沢美海(あいざわ みう)。二十五歳、デリバリー配達員。 若いのに、六百万円もの借金を背負っている。 博打好きの父親、病気の母親、そして何かと物入りな学生の弟。壊れかけた家庭を、ひとりで背負わされていた。 顔立ちは整ってはいる。 けれど、風に吹かれ日差しにさらされた肌はこんがりと焼け、華やかな美人というには程遠かった。 「江口はいったい、この子のどこに惹かれたっていうの?」 親友の高橋真奈(たかはし まな)は資料を机に叩きつけるように置いて、怒りを隠さなかった。 彼女は知っている。辰也が私のために、誰もが羨むような盛大な結婚式を挙げてくれたことを。 周囲では離婚や浮気が珍しくもない中、辰也が私を最優先にし続け、愛妻家として有名になっていたことも。 だからこそ、この裏切りがどれほど私を傷つけるか、誰よりよくわかっていた。 私はもう一刻も待てなかった。真奈に付き添ってもらい、江口グループ本社の下へ向かう。 辰也の車が停まる区画の近くで、息を潜めて待つ。 ほどなくして、辰也が姿を現した。 けれど、思いがけず彼はラフな私服姿だった。それだけで、いつもより何歳も若く見える。 結婚してからというもの、彼は外に出るときはほとんど必ずスーツだった。辰也という男は、江口家そのものの顔でもあるからだ。 新婚旅行のときでさえ、彼は笑って私をなだめていた。 「詩音、少しだけ我慢して。江口家は海外でも事業をしているんだ。いつだって、すぐ動けるようにしておかないと」 そんな彼が、今日はただ会社から駐車場へ降りてくるだけなのに、わざわざ着替えていた。 柔らかな表情を浮かべた辰也は、隣の女に何かを囁きかけていた。 しかも、まだ車の窓すら閉まっていないのに―― 美海は向かい合うように、ためらいもなく辰也の膝にまたがった。 唇を重ね、指を絡め、人目など気にも留めずに触れ合う。 遠目に見ているだけなのに、その光景は目を焼くほど生々しかった。 私は感情を押し殺し、無表情のままスマホのカメラを起動する。 「どういうつもりよ……!もともとはあなたの山本家の支援がなかったら――」 真奈は怒りのあまり、今にも車を飛び出しそうだった。 「江口グループなんて、とっくに潰れてたはずなのに!」 私は咄嗟に彼女の腕をつかみ、首を振る。 「まだよ。今じゃない」 長いキスがようやく終わり、ふたりとも目を潤ませ、息を乱し、まだ足りないと言いたげだった。 美海が、辰也の喉元を指先でなぞる。 「ねえ、昨日の夜、あのおばさんには触ってないでしょうね?」 甘えるような音なのに、言葉は棘だらけだった。 「一週間、あの女には手を出さないって約束、守れた?」 欲を煽られたのか、辰也の声はひどく掠れていた。 「もちろんだよ。君のためなら、それくらい守るに決まってる」 そして彼は、低く笑って続けた。 「だって、ご褒美は君の初めてなんだろ。それを思えば、我慢くらいどうってことない。念のため、面倒が起きないように睡眠薬も少し使ったけどな」 その言葉に、私は一瞬で血の気が引いた。 目の前の男が、十年間私を愛してくれたあの辰也と、どうしても重ならない。 けれど、思い返せば細部のひとつひとつが、この残酷な真実をまっすぐ指し示していた。 ちょうど一週間前。彼は私のお腹にそっと手を当てて、やさしく言ったのだ。 「詩音、そろそろ子どもが欲しいな。今週から少し体を整えて、しばらくは無理しないようにしよう」 その日から毎晩、彼は自分の手で栄養のあるスープを作り、ひとさじずつ、私に飲ませてくれていたが、全部、外で囲っているこの女のためだったのだ。 そこまでできるなんて。 私はぎゅっと拳を握りしめた。目の奥が焼けるように痛い。 車の中では、美海がすっかり上機嫌になっていた。男に甘やかされ、満たされきった顔で笑っている。 「辰也、あなたは本当に私の王子さまね。私、あなたのこと、大好き……本当に、大好き」 すると辰也は、ためらいもなく答えた。 「俺も愛してる。君だけをな」 ――じゃあ、私は何だったの? たった数メートル先の車内で交わされるその言葉を、私は別の車の中から聞いていた。 サングラスの下で、こらえていた涙がついに頬を伝う。ぽたり、と落ちて止まらない。 胸の奥を、刃物で深く刺されて、何度も抉られているようだった。 第3話 スマホを取り出し、私は辰也に電話をかけた。 「辰也、今どこにいるの?」 これまで何度もそうだったように、彼はすぐに電話に出た。 結婚して間もない頃、私は一度、江口家と敵対する相手に攫われたことがある。助け出されたときにはすでに意識も朦朧としていて、その夜のうちに集中治療室へ運ばれた。 彼はベッドのそばに膝をつき、私の首に残った傷跡におそるおそる触れた。大柄な男が小さく身を縮めるようにして、自分を責め、何度も自分の頬を打っていた。 あとになってからも彼は何度も悔やんだ。会議中で私からの電話に気づかず、最後の助けを求める声を聞き逃したことを。 「詩音、ごめん。俺が悪かった。これから先、何をしていようと、君からの電話には必ず出る。絶対に。だから安心してほしい。 もし俺が君を大事にしなくなったら、そのときは何もかも失って追い出されても文句は言わない。江口グループだって全部、君に渡す」 あの日の言葉どおり、それから十年、彼は本当にその約束を守り続けた。 けれど今は違う。 その男は、唇の端を濡らし、口紅の跡を顔じゅうに残し、シャツの胸元をはだけさせたまま、私の電話に出ていた。 「もしもし、どうした?」 私はひとことずつ、確かめるように問いかける。 「いつ帰ってくるの?今日は早く帰るって言っていたでしょう」 その瞬間、助手席の美海があからさまに不機嫌そうな顔をした。 そして次の瞬間、彼女は辰也のズボンに手をかけ、そのまま顔を伏せた。 全身が震える。胸の奥が痺れるように痛くて、苦しくて、張り裂けそうだった。 怒りなのか、悔しさなのか。もう自分でもわからない。 「っ……」 辰也が堪えきれず、低く息を漏らす。 けれどすぐに咳払いをしてごまかした。 「どうしたんだ、詩音。もうすぐ帰るよ」 美海は大胆だった。 次の瞬間には身を起こし、そのまま辰也の唇を塞いでいた。辰也は彼女の肩を押さえて引き離そうとする。 けれど美海は離れない。むしろ食らいつくように、激しく彼に口づけた。 私の声は、もうはっきりと震えていた。 「辰也……今夜は早く帰るって、約束したよね。帰ってきてくれなかったら……私、許さないから」 私だって、この十年、彼を愛してきた。 あの頃は周囲の反対だってあったのに、それでも彼を選んだ。私が捧げてきた愛も、偽りのないものだった。 認めたくなかった。このまま、十年寄り添ってきた人を、誰かに奪われるなんて。 往生際が悪いと思われてもよかった。裏切られた数えきれないほどの女性たちと同様に、私は最後の最後まで縋っていた。 「聞いてる?辰也。帰ってこなかったら、私は絶対に許さないから」 けれど―― どうやら私の十年は、あの女の安っぽい駆け引きに、あまりにも簡単に負けてしまったらしい。 美海は唇を離した。その代わり、今度は胸元のボタンをゆっくりと外し始める。 受話器の向こうで、辰也の荒い息遣いが聞こえた。 「……何だって、詩音?許さないって……何のこと? ごめん、詩音。さっき商品部から連絡があって、明日出す新作に少し問題が見つかったんだ。今夜はたぶん会社に泊まることになる。先に寝てていいよ。 スープはちゃんと飲むんだよ。あとでお手伝いさんにも伝えておくから」 胸の中が、音もなく崩れていく。 最後に残っていたほんのわずかな期待まで、その言葉で完全に砕け散った。 結婚して十年。辰也が私との約束を破ったのは、これが初めてだった。 数メートル先の車の中では、男女が抱き合い、笑い合っている。 その一方で私は、怒りも憎しみも押し殺して、ただ耐えていた。 「行こう」 私は前を向いたまま言った。 「……あの人たちには、ちゃんと代償を払ってもらうわ」 アクセルを踏み込み、私はその場をあとにした。 翌日。 辰也本人が帰ってくるより先に届いたのは、真奈からのメッセージだった。 【詩音、江口が店でピンクのバッグを受け取ってた。あのお姉さんの分って話、たぶん口実だよ。絶対、浮気相手に渡すつもり】 辰也が帰宅したのは昼を過ぎてからだった。 ひどく疲れた顔をしている。目の下にはくっきりと隈ができていた。 それなのに、その目だけは妙に冴えて見えた。 昨夜がどれほど激しかったか。そんなこと、ひと目でわかってしまうほどに。 「詩音、ただいま。午後に会議が終わったら、夜はどこか美味しいものでも食べに行こう」 自分の体に染みついた安っぽい女物の香水を嗅ぎ取られたくなかったのだろう。彼は私に軽く口づけるふりだけして、そそくさと部屋へ入り、シャワーを浴びに行った。 私はその隙を逃さなかった。 辰也のスマホを手に取り、自分の誕生日を入力する。 ――違う。開かない。 嫌な予感がしながらも、今度は結婚記念日を入れてみた。すると、あっさりロックが外れた。 胸がざわつく。 五分ほど見て回ったが、美海らしきアカウントは見当たらない。 けれどそのとき、友だちリストの中に、同じ「姉ちゃん」という名前がふたつ並んでいるのが目に入った。 頭の奥で、何かが弾けた。震える指で、それぞれのアカウントを開く。 そして、ようやく確信する。 そのうちのひとつが――美海だったのだ。 第4話 その瞬間だった。長い年月をかけて積み上げてきた信頼が、ドミノ倒しのように、音もなく崩れていく。 トーク画面には何も残っていない。 けれど辰也のアルバムの「お気に入り」の中には、ふたりのやり取りがしっかり保存されていた。 【ピンクのバッグ、すごく可愛い!ありがとう、辰也。私にも、ついに自分だけのお姫さまバッグができたよ~ちゅっ】 それに対する辰也の返事は、短い。 【俺にとって、君が唯一のお姫さまだからな】 たった一言。それでもわざわざ残しておくほど、大事にしていたのだ。 さらに女のタイムラインを開く。 投稿は少ない。たった三件だけだった。 一件目は半年前。膝を擦りむいた写真と一緒に、弱々しい文面が添えられている。 【最悪……今日は高級車にぶつかっちゃった。でも相手の車の持ち主がすごく優しいイケメンで、一万円だけで許してくれた】 動画の端には、男の節だった指が映り込んでいた。 その腕に巻かれているのは、私が誕生日に贈った七千六百万円のパテック・フィリップ。 二件目は二か月前。女と男が指を絡め合う写真。 そして、キスをしているシルエット。 【雲の上の大企業家だって、愛の前ではひざまずくんだね。シンデレラみたいな物語が、まさか本当に私の身に起こるなんて。今この瞬間、私は世界でいちばん幸せなお姫さま!】 三件目は、先週。高層階のレストランで、ドレスアップした女が微笑んでいる。 もう一枚には、男が彼女の前に膝をつき、指輪をはめている姿が写っていた。 顔は映っていない。それなのに、幸せが滲み出ている。 【お姫さまみたいなお誕生日でした。王子さまがピンクダイヤの指輪でプロポーズしてくれたの~えへへ】 その投稿日を見た瞬間、息が止まりそうになった。 ――まさに結婚記念日だった。 そういうことだったのだ。 辰也が新しく変えたパスコードは、私たちの記念日なんかじゃない。美海の誕生日だったのだ。偶然にも同じ日だった。 私は必要な情報をすべて保存し、スマホを閉じようとした。 ちょうどそのときだった。美海が、新しい投稿を上げた。 満面の笑みでカメラに向かうその背後には、江口グループ本社が映っている。 【うれしい。私、いよいよ本物のお姫さまになる準備を始めます。今日は待ちに待った入社初日!】 私は深く息を吸い込み、画面を閉じた。 「どうした、詩音?なんだか変な顔してるけど」 ちょうどそのとき、シャワーを終えた辰也が浴室から出てきた。 私は顔を上げて、彼を見る。 「辰也、今日、会社に連れて行ってくれない?」 彼は一瞬だけ目を見開き、わずかに表情をこわばらせた。 「今日はちょっと忙しいんだ。また今度にしよう」 ――当然よね。こんな日に、妻にそばにいられては困るだろうから。 私は微笑んで、何でもないように頷いた。 「そう。わかったわ」 彼が着替えを済ませて出ていったあと、私はすぐに真奈へ電話をかける。 「真奈。準備はいい?」 時間を見計らい、私は午後の休憩時間に合わせて江口グループの最上階へ向かった。 社長室前の執務スペースは、どこか空気が張りつめていた。秘書やアシスタントたちはみな手を動かしているふりをしながら、ちらちらと社長室のほうを気にしている。 辰也は、目の前の女をやわらかな眼差しで見つめていた。 美海は、新しいアイボリーのスーツに身を包み、髪もきれいに整えられている。薄くメイクまでして、仕事ができる女らしく見せようとしているけれど、どこかぎこちない野暮ったさは、やはり隠しきれていなかった。 うつむきがちに頬を染め、褒めてもらうのを待っている子うさぎのような顔。 そんな彼女に向かって、辰也が口を開く。 「今日から君は俺の専属秘書だ。まずは佐藤について、仕事の流れを覚えてくれ。そんなに緊張しなくていい。わからないことがあったら、いつでも俺に聞けばいいから」 「はいっ。ありがとうございます、社長。頑張ります……!」 美海の声は甘くやわらかい。 しかも、上司に向けるにはあまりにも露骨な熱のこもった視線が、辰也にべったり貼りついている。 周囲には、各部門の責任者まで揃っていた。 これが秘書の入社手続きだなんて、とても信じられない。 まるで本物のお姫さまを皆の前で引き立て、玉座へ引き上げるような雰囲気だ。 私は細いヒールを鳴らしながら、ゆっくりと歩み寄った。 コツ、コツ、と床を打つ音がやけに響く。その瞬間、空気が凍りついた。 そこにいた全員の視線が、一斉に私へ突き刺さる。 辰也の顔から笑みが消える。 美海の顔もまた、みるみるうちに青ざめていった。 私は凍りついた顔ぶれをぐるりと見渡し、唇の端だけで冷たく笑う。 「へえ。今の江口グループって、こんな人まで秘書に採るようになったのね」