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結婚式を雪崩で潰した真犯人を庇う夫、さようなら
トップクラスの弁護士である夏川明日香(なつかわ あすか)の結婚式は、雪崩により台無しになった。 明日香の夫、夏川翔太(なつかわ しょうた...
Chương (1)
第1章
トップクラスの弁護士である夏川明日香(なつかわ あすか)の結婚式は、雪崩により台無しになった。
明日香の夫、夏川翔太(なつかわ しょうた)は彼女をかばって重傷を負い、意識不明となった。
この雪崩は事故ではなかった。翔太の母親を死に追いやった仇の娘・新井瞳(あらい ひとみ)が、仕組んだことだった。
真犯人を突き止め、寝る間も惜しんで証拠を集めて裁判にかけ、ようやく明日香は病院へ翔太に会いに行くことができた。
しかし病室の前で彼女が見たのは、すべてを壊した真犯人を激しく抱きしめ、口づけを交わす翔太の姿だった。
彼は咎めるような口調でありながら、その言葉の端々には深く溺れるような想いが満ちていた。
「瞳、お前は本当に残酷な女だ。分かってただろ。お前さえ望めば、俺はすぐにお前と結婚するって……」
翔太はずっと前から、母の仇の娘を愛していたのだ。
自分の真っ直ぐな想いは、2人の関係においてただの当て馬でしかなかった。
これまでの努力が、すべて無意味に終わった瞬間、明日香は騒ぎ立てることなく、即座に離婚届を作成し、翔太のもとを完全に去った。
再会したとき、明日香のそばに立つ別の男の姿を見て、翔太は声を上げて泣き出した。
「明日香、俺は……後悔しているんだ」
第1話
夏川明日香(なつかわ あすか)との結婚式当日、夏川翔太(なつかわ しょうた)は突然、式場を雪山に変更した。
指輪の交換をしたその時、近くの斜面でスノーボードをしていた人物により小規模な雪崩が起きた。
絶体絶命の瞬間、翔太は明日香を突き飛ばし、自らは雪の中に飲み込まれた。
翔太が意識不明の1ヶ月の間、トップクラスの弁護士である明日香は、雪崩の原因を作った新井瞳(あらい ひとみ)を連日訴えていた。
しかし相手は一向に出廷せず、裏で誰かが瞳を守っている様子だった。
休廷の1時間、明日香は怒りを押し殺し、翔太の様子を見に病院へと向かった。
そこで彼女は、全身の血が凍りつくような光景を目にした。
翔太はベッドの上で体を起こし、青白い顔でこう言った。「安心しろ、まだ死なないよ。どうした?俺の最期を見に来たのか?」
それは皮肉だったが、男の瞳の奥に隠しきれない微かな歓喜の色があるのを、明日香ははっきりと見て取った。
瞳という女はデリバリーの袋を手に持ち、肩を震わせて泣いていた。
「翔太、本当にわざとじゃないの。ただ遠くから姿だけでも見たくて……」
瞳は言葉を詰まらせ、言いたい言葉を必死に飲み込んだ。
「ただ……雪景色が綺麗で。スキーに来ていただけなのに、こんなことになるなんて」
明日香は絶句した。この女、私が手強いと見るや、こともあろうに私の夫に泣きついていたのだ。
「責めてないさ。
これまでの数年間、お前が俺を気にかけてくれていた。それで貸し借りはゼロだ」
翔太は目を伏せて言った。
ドアノブにかけた明日香の手が止まった。
次の瞬間。
「翔太、どうしても忘れられないの!今でもあなたを愛してる!」
瞳は狂ったようにすがりつき、涙が滝のように彼の胸に降り注いだ。
「あなただって、まだ私を愛してるんでしょ!」
翔太の背中が、一瞬強張った。
「雪山で結婚式を挙げたのも、私が来るかどうかに賭けてたからでしょ!」
瞳は顔を上げ、涙声で訴えた。
「お願い、もう貸し借りはゼロなんて言わないで。そんな残酷なこと言わないでよ」
瞳はすがるような目で彼を見つめ、その涙は彼の上に一滴、また一滴と落ちた。
「もう、私を突き放さないで……」
翔太は抑えきれずに彼女の唇を塞いだ。病室に、2人の熱いキス音が響いた。
明日香の手は震え、結局そのドアを閉めることはできなかった。
彼女の脳裏に、ずっと昔の光景がよぎった。酒に酔った翔太が、恨みに満ちた目で自分に寄りかかっていた夜のことだった。
彼はこの世で最も憎い相手がいると言っていた。
翔太が17歳の頃、瞳の母親が起こした交通事故で、彼の母は亡くなった。
母が病院にいる間の3ヶ月間、あろうことか瞳の母親が彼の父を誘惑し、後妻として家庭に入り込んだのだ。
母親の交通事故はいとも簡単に示談書にサインされ、残されたのは一握りの遺骨と、絶望に打ちひしがれた翔太だけだった。
かつて翔太は明日香に、彼女たちを憎み、骨の髄まで許さないと言っていた。必ず正義を勝ち取ると。
しかし今、若き日の自分を裏切り、瞳を愛してしまったのは他ならぬ彼だった。
瞳への愛ゆえに、彼は10年の憎しみを捨ててまで瞳と添い遂げる道を選んだのだ。
執着ゆえに、彼は結婚式の場所をわざと雪山にし、かつての愛を揺さぶろうとしたのか。
自分がこの数年、将来のキャリアを捨てて彼の身の回りの世話を焼いてきたことを忘れてしまったのだろうか。
翔太の入院中、たった1人で瞳を罰するために走り回っていた自分の苦労はどうなる。
なぜ瞳が何度も保釈されてしまうのか、今まで理解できなかったが。
……やっと理由が分かった。
全部、翔太の仕業だったのだ。
彼はその愛を、「恨み」という仮面の裏にひた隠しにしていたのだ。
瞳は服を整え、ふと顔を上げた先で、明日香と目が合った。
瞳の目には言いようのない憎しみが浮かんだが、すぐにまた翔太の腕に逃げ込んだ。
翔太の体が強張り、腕の中の女の視線を追って明日香を見つけた。
男の表情には焦りよりも、自分は悪くないという開き直りがあった。
「明日香、瞳はさっき俺に謝ったんだ。お前も大した怪我はないんだから、取り下げろよ」
枕元に置かれたままの示談書を目にし、明日香は思わず吹き出した。
夫の異変に、今まで気づかなかった自分の愚かさが笑えてきた。
彼が昏睡し、血液が底を突きかけていたこの一ヶ月。明日香が吐き気に耐えながら食事を摂り続け、自らの体を削るようにして彼を救おうとしていたことなど、翔太は知る由もなかった。
今までの努力など、「大した怪我はない」の一言で帳消しにされるのだ。
自分は翔太を丸7年も追い続けてきた。
もういい、疲れた。
今回ばかりは、振り向かない男の背中を待ち続けることはしない。
「そうね。あなたの言う通りだわ」
そう言い残し、翔太の瞳に浮かんだ安堵の色には目もくれず、彼女はきびすを返してその場を去り、すぐにパラリーガルに連絡を入れた。
「あの国際訴訟の案件、私が引き受けるわ」
翔太。今後は、あなたのことのために自分のキャリアも人生も後回しにはしない。
第2話
開廷の直前、パラリーガルである田中梨花(たなかりか)から、詳細な追加ファイルが送られてきた。
「先生、調べたところ、翔太さんに関連するいくつかの事件の真犯人は新井さんだと分かりました。まとめましたので、お役に立てるかと思います」
明日香は気持ちを落ち着かせ、手元の書類をぎゅっと握り締めた。
法廷の入り口で、翔太が立ちはだかった。「明日香、もう訴えは取り下げるって話がついていただろう?
瞳には悪気がないんだ。毎日差し入れもして謝ってるし、雪崩だって事故なんだから、こんなに騒ぎ立てる必要はないだろう」
明日香は自嘲気味に笑った。
結局、彼は瞳の差し入れのことしか頭にないのだ。
その一方で自分は、彼のために奔走し、専門家や目撃者を必死に探してきたが、すべて無駄だったのだ。
男は自分の動揺に気づいたのか、トーンを落として言った。
「明日香、瞳も一応は俺たちの家族だ。後で適当な理由をつけて、適当に裁判を終わらせてくれないか……」
「いい加減にして!翔太、もうすぐ開廷だよ」
明日香の声は震えていた。
彼女が感情を露わにするのは、これが初めてだった。
弁護士になってからというもの、自分はずっと完璧に仕事をこなしてきた。それなのに、こんなろくでもない男のために記録を汚すつもりか。
「これより法廷弁論に入ります。原告代理人、夏川明日香弁護士は意見を述べてください」
裁判官の声で、明日香は我に返った。
反対側の被告人席では、瞳が翔太に怯えるような、そして頼るような視線を送っていた。
明日香は深呼吸をして、胸に渦巻く悲しみとやり場のない不満を押し殺し、震える声で告げた。
「雪山での事故による被害に関し、こちらの主張を取り下げます……」
「敗訴」の宣告が法廷に響いた瞬間、翔太が駆け寄り、瞳を抱きしめて優しく慰めた。
「ほらな、何も心配いらないって言っただろう」
瞳は目を赤くし、安心したように男の胸に顔を埋めた。
その直後、明日香が顔を上げ、澄んだ声で放った。
「当方の依頼人である夏川翔太が雪崩によって危害を受けた件については、事実として終結しました。ですが、他にも数件、被告人である新井瞳に関する明確な証拠を発見しました。これより、本法廷での検証を申し立てます」
法廷中が騒然とした。
「夏川社長と明日香弁護士は夫婦で、新井瞳は彼の義理の妹だろう?結局はただの身内のいざこざなのに、ここまで事を荒立てるのか?」
「あの新井って女性、何度も事件を起こしてニュースになってたけど、結局お咎めなしだったんだ。毎回、夏川社長がもみ消していたらしい。今回どうして、身内同士で潰し合っているんだ?」
翔太が勢いよく立ち上がった。「明日香、正気か!」
明日香は淡々と裁判官の方へ歩み寄り、分厚い書類を差し出した。
彼女は、瞳がこれまで逃れ続けてきた罪への裁きを、一つ一つ公の場へと引きずり出した。
「新井さんが成年式の日、ケーキに異物が入っていると知りながらわざと被害者の顔を押し付け、その女性の顔に回復不能な傷を負わせました。
22歳で交通事故を起こし、替え玉を使って隠蔽し、今も賠償が済んでいません」
……
突然、彼女の言葉を遮る者がいた。
「逃げろ!火事だ!」
パチパチと弾けるような音と共に、装飾用の細長い梁が大きく揺れ、パラパラと破片を落とし始めた。
明日香は目を見開いた。
彼女はとっさに梨花を呼び、出口に向かって走らせたが、心の隅では無意識に翔太を探していた。
翔太は瞳を抱き抱えたまま外へと向かっていた。火の粉が頬にかかっても表情一つ変えず、瞳のことしか見ていなかった。
すれ違う瞬間、翔太は勢いよく明日香にぶつかり、彼女を火の中に突き飛ばした。
男は一度も振り返らなかった。
明日香の存在すら気づいていない様子だった。
明日香は足首をひねり、床に倒れ込んだ。そして、濃い煙で声も出なかった。
梨花が慌てて振り返り彼女を引っ張ろうとしたが、それより先に、炎に包まれた梁が真っ直ぐに落下してきた。
背中に激痛が走り、その瞬間、視界が闇に落ちた。
意識が混沌の沼に沈んでいく中、記憶の断片が彼女の脳裏を駆け巡った。
第3話
大学1年生の夏、明日香は授業を抜け出し、継母にいじめられていた翔太を家に連れ帰った。
翔太はサイズの合わない服を着て、痩せこけて人相すら変わっていた。
明日香は、彼が虚ろな目でろくに言葉も発せず、自分から離れるとひどく怯えていたことを覚えていた。
そんな彼を、明日香は何年もの間、献身的に支え続けた。
あるいは明日香が21歳を迎えた誕生日のこと。翔太は1年かけて貯めたお金で、彼女にネックレスを贈った。
「明日香の人生が、光り輝いて、永遠に曇ることがないように」と願いを込めて。
翔太が会社を立ち上げた翌年、彼は収益のすべてを2人の新居と、明日香へのプロポーズのために投じた。
新居の鍵を受け取った日、部屋中がプレゼントで埋め尽くされていたが、翔太自身は高級品など何一つ身につけていなかった。
明日香もまた、惜しみなく彼に真心を注いだ。何年もの間、かつての事件の証拠を集め続け、彼の心の傷を癒そうとした。
仕事に夢中で自分を粗末にしがちな翔太を、彼女は懸命に世話した。
何気ない日常の中で、2人は支え合いながら歩んできたのだ。
なのに、幸せに近づけば近づくほど、どうして明日香の流す涙は増えていったのだろうか?
何度も式場選びを先延ばしにされ、果ては瞳をかばう言い訳ばかり聞かされていたせいか。
炎が激しく燃え上がる中、明日香には何も見えなかった。あの結婚式での、翔太の本心が読めない時と同じだった。
梨花の悲痛な叫び声が聞こえた。けれど、明日香には腕を動かす気力さえ残されていなかった。
彼女は血を吐きながら笑った。何年もの間、唯一無二の真実の愛だと信じ、守り抜いてきた存在だった。
その存在にとって、今の自分は塵以下の存在でしかなかったのだ。
……
意識が戻ったものの、明日香は目を開けることすらできなかった。
朦朧とした中で、梨花が怒りに震える切実な声が廊下に響き渡る。
「翔太さん、頭がおかしいんじゃないですか?先生は今も意識不明で、医師は神経への深刻なダメージが心配だと言ってるんですよ。今更監視カメラの映像がどうとか言ってる場合ですか!?」
翔太の声も必死だが、それは明日香に向けたものではなかった。
「あの映像には、明日香が瞳の違法行為を通報しようとした証拠が残っている。それが漏れたら瞳の人生が終わりなんだ」
梨花は唖然とし、言葉を詰まらせながらも声を張り上げた。
「翔太さん、今寝ているのはあなたの妻ですよ!彼女を突き飛ばした時、彼女の一生が奪われるかもしれないとは考えなかったんですか?!」
梨花は両目を拭うと、自分を落ち着かせるように何度も言葉を吐き出した。
「先生、お願い、死なないで……」
2人の間に沈黙が流れた。それでも翔太は頑なだった。
「最高の医者を呼び寄せて、明日香に最高の治療を受けさせる。俺が毎日看病する……俺の残りの人生をかけて罪を償うよ」
「罪滅ぼしなんて口先だけで言っても無駄です!きれい事なんて誰も聞きたくありません!」
我慢の限界を迎えた梨花は、近くの消毒液を彼に浴びせかけた。
「先生が倒れてからの1週間、看病して事後処理をしてきたのは私です!あなたは怪我をしたあの女の看病ばかりです!人として最低です!」
梨花は目を真っ赤にし、震える手で彼に強烈な平手打ちを食らわせた。
パシッ。
男の顔に、指の跡が鮮明に浮かび上がった。
梨花は知っていた。この数年間、明日香からの援助がなければ、彼女は一生あの貧しい村から抜け出すことはできなかったのだ。
火事の時、明日香に背中を押されていなければ、代わりに倒れていたのは自分だったはずだった。
この何年もの間、翔太と明日香の深い絆を、彼女はずっとそばで見てきた。
しかし同時に、翔太が明日香に与えてきた残酷な傷も、梨花の心に深く刻み込まれていた。
明日香は、このやりとりを聞きながら、まるで心臓を冷たい手に掴まれているような痛みに耐えなければならなかった。
自分の優しさは皆に覚えられていたが、翔太だけは理解してくれなかったのだ。
それどころか、ベッドの横で翔太の謝罪を聞いた時、彼女はてっきり、この数日間彼が自分を看病してくれていたのだと勘違いしていた。
翔太はいかにして自分をだましていたのだろうか。
深い愛を演じすぎて、本気で明日香が必要だと勘違いするほどに。
しかし現実は、彼は常につきっきりで瞳のそばにいたのだ。
翔太は言い返さなかった。
長い沈黙の後、彼は絞り出すように口を開いた。
「わざとじゃないんだ……瞳が自殺を図ったから、放っておけなくて……それに、瞳は俺の子を妊娠しているかもしれないんだ」
「あんた、私が今まで出会った人間の中で、一番最低です!」
梨花はもう議論を諦め、怒りのまま病室に踏み込んだ。
彼女は力強くドアを引いたが、最後には力を抜き、病室にいる明日香を起こさないようにと、静かにドアを閉めて鍵をかけた。
明日香の目尻から無意識に涙が溢れ出し、頬を伝って髪を濡らした。それはひどく冷たく、苦い味がした。究極の二択を迫られた時、翔太は一切の躊躇なく、瞳を選ぶのだ。
たとえ何千回、何万回選んでも、選ばれるのは瞳だけなのだ。
第4話
病室で、明日香は一睡もできず、夢と現実が混ざり合っていった。
何が現実で、何が夢なのか。彼女は必死でそれを切り離そうとした。
あの結婚式での屈辱的な光景、ずっと前のことのはずなのに、今まさに起きているかのように鮮明だった。翔太の瞳の奥にあったよそよそしさでさえ、心臓が握り潰されるほどリアルだった。
逃げ出そうともがいても夢の中に囚われ、期待と絶望を何度も繰り返していた。
今、翔太がベッドの傍らに座っていた。その指先は、明日香の頬の上でふわりと止まったまま、降りることはなかった。
彼が持ってきた、明日香が大好きだったはずのユリの花は、もうしおれかけていた。
ドアをノックする音と共に、女のすすり泣く声が聞こえてきた。
翔太は一瞬、はっとしてそちらに目をやった。
瞳だった。
彼はすぐにはドアを開けようとせず、「明日香、なぜこうなってしまったのか、俺にも分からないんだ」とこぼした。
明日香を愛している。それは間違いのない事実だ。
だが、瞳とどう向き合えばいいのか、彼には決められなかった。
ドアの外で、瞳の泣き声が小さくなっていった。
迷い抜いた末、彼は耐えかねたようにドアを開けた。
瞳は勢いよく彼の懐に飛び込むと、翔太の腰に縋り付いて泣きじゃくった。
「翔太、ここ数日全然会ってくれなかった……また私を捨てるつもりなの?」
翔太は身体をこわばらせた。視線を下に落とすと——
瞳のゆったりとしたトレンチコートの下には、なんとランジェリーしか身につけられていなかったのだ。
瞳は翔太の手を引き、自らの胸元に置くと、潤んだ瞳で訴えた。
「私を捨てないで……私を選んでくれるよね?一生、私のことを大切にするって、言って」
これまで抑えていた理性が、プツリと切れた。
彼は瞳を部屋に引き入れ、ドアが閉まると同時に激しく彼女の唇を奪った。
2人の情熱は激しく燃え上がり、この病室に明日香がいたことすら忘れてしまっていた。
聞こえてくる生々しい音に、明日香は朦朧としていた意識を呼び戻された。
「ねえ翔太……私と明日香さん、どっちが好きなの?」
翔太の動きが止まった。脳裏に明日香の顔がよぎった。
だがそれもほんの一瞬のこと。その僅かな罪悪感は、目の前の欲望にあっという間に飲み込まれた。
これで最後だ。明日香が目を覚ましたら、心を入れ替えて彼女と結婚し、真っ当な生活を送ろう。
そう自分に言い訳しながら、彼は迷いなく瞳のわずかな布地を乱雑に引き裂き、低い声で応えた。
「お前だ」
その軽い一言が、数え切れない細い針となって明日香の心臓を刺し貫いた。
明日香の身体は止まらない震えに見舞われ、心拍モニターがけたたましい音を立てた。
機器のアラーム音と、彼女の夫が他の女と抱き合う吐息が重なり合った。
そんな中、翔太の小さなつぶやきが聞こえた。「ごめん……」
明日香は笑いたくなった。
その「ごめん」は、こんな場所でしか情事ができず、一生日陰の存在でしかいられない瞳に向けられたものなのだろう。
彼女はまた、翔太との過去を思い出した。
彼は自分の好きなものなら何でも覚えていた。自分自身さえ忘れていたような記念日に、もう売っていないはずのチョコを探し出してくれたこともあった。
ただ自分が「食べたい」と一言、こぼしただけだったのに。
「結婚するまではそういうことはしたくない」と言えば、翔太は絶対に無理強いなんてしなかった。
それほど優しかった彼が、よりにもよって今まさに、別の女の体の上で甘い言葉を囁き尽くしているのだ。
「もっと優しくして、翔太。お腹の子がびっくりしちゃうわ」
付き添い用ベッドが軋む音と押し殺した喘ぎ声が、夜の病室に異常なほど耳障りに響いた。
ベッドの上の明日香は、枕を濡らす涙を必死に押し殺していた。
梨花がご機嫌にスマホをかけながら、病室のドアを静かに押した。
「明日香さんがそろそろ目を覚ますかもって、担当医から連絡があったわ……」
言い終わる前に、目の前の恥知らずな2人の姿に言葉を失い、凍りついた。
第5話
瞳は悲鳴を上げ、翔太は慌てた様子で上着を羽織り、彼女を自分の背後に庇った。
「先生はまだあそこで寝たきりなのに!!最低!」
梨花は素早く電気をつけて部屋に踏み込むと、通話を切り、スマホを構えて2人の姿を余すところなく動画に収めた。
翔太は顔をしかめ、スマホを奪い取ろうとした。「やめろ!消せ!さもないと……」
だが遅かった。梨花はすでに動画を保存していた。
「警備員さん!ここで暴れてる人がいます!」
近くにいた警備員がすぐに駆けつけ、翔太と瞳を両脇から抱えてつまみ出した。
「田中さん!明日香には言うな……」
翌日の昼、明日香はようやく目を覚ました。
梨花は彼女のそばに座って水を飲ませながら、この2日間の出来事を話すべきか迷い、心ここにあらずだった。
「梨花さん、離婚協議書を用意して」
「え?」
明日香の掠れた声が突然響いた。
梨花は一瞬言葉を失ったが、振り向くと、明日香の疲れ切った瞳と視線がぶつかった。
先生は、すべて聞いていたのだ……
梨花の目に痛ましい色がよぎったが、それ以上に、明日香がクズ男の本性を見抜き、彼から離れる決心をしたことへの喜びが勝った。
「はい!待っててください!」
そう言って、梨花は慌ただしく病室を飛び出していった。
突然、無作法なノックの音が響いた。
明日香は梨花だと思って笑顔で振り向いたが、翔太の顔を見た瞬間、その笑顔は凍りついた。
翔太は彼女の表情を気にする様子もなく、足音を忍ばせながら、茶碗蒸しの入った保温容器のフタを開けて言った。
「明日香、やっと目を覚ましたんだな!この間、俺がどれほどお前のことを心配したか……」明日香は彼を見つめ、強烈な吐き気を覚えた。
彼女は一言も発することなく、その保温容器を手で冷たく払いのけた。
翔太の機嫌を取るような笑顔が引きつり、彼も腹を立ててスプーンを床に叩きつけた。
「お前、どうしてもそうやって……」
「翔太、私、卵アレルギーなの」
明日香の声は静かだった。
翔太はその場に立ち尽くし、言葉を失った。
空気が凍りつくような静寂の中、突然スマホの着信音が鳴った。
瞳の専用着信音だった。
「ちょっと待っててくれ……明日香……急用だ」
翔太は険しい顔で電話を切ろうとしたが、ビデオ通話の画面に瞳の体が映ったのを見て、無意識に画面を隠しながら足早にベランダへと向かった。
病室に再び静けさが戻った。
明日香は梨花が持ってきてくれた雑炊をゆっくりと口に運びながら、鏡のように反射している窓ガラスへ、静かに視線を落とした。
そこに映っていたのは、翔太が手にするスマホの画面でなまめかしい姿を晒し、哀れを誘うような瞳の表情だった。
「翔太、私もう生きていけない。外に出ればみんなに後ろ指を指されて、もう限界だよ!
お願い、来てくれない?これで最後にするから……来てくれないなら、私、バーに行ってその辺の男と寝る!」
翔太の表情が強張った。無意識に明日香の方を見たが、彼女は驚くほど静かで穏やかだった。
スマホのスピーカーからは瞳の泣き叫ぶ声が響き、続いてガラスが割れる音がした。
翔太は勢いよく外へ向かおうとしたが、数歩踏み出したところで振り返り、ベッドに横たわる明日香と視線を合わせた。
彼の胸は激しく痛み、顔には隠しきれない動揺が表れていた。
「明日香、今回だけだ。本当にこれで最後だ。瞳の状況が危なすぎる。どうしても行かなくちゃならない」
男の焦りと後ろめたさは、見え透いていた。
明日香は泣きもしなければ騒ぎもしなかった。ただ静かに彼を見つめ、一通の書類を差し出した。
「この財産分与の同意書にサインして。そうしたら、どこへでも好きな所へ行っていいわ」
彼女はわざと表紙の「離婚協議書」という文字を白紙で隠し、その書類の間に離婚届もしっかりと忍ばせていた。今の彼なら、内容を細かく確認することなど絶対にないと分かっていたからだ。
翔太はホッと息をついた。今回も以前と同じように、明日香を怒らせた後の埋め合わせのつもりなのだろうと思い込んだ。
財産を要求してくるということは、まだ機嫌を取れる証拠だった。
着信音が何度も何度も鳴り響いた。
翔太は中身を見ようともせず、すぐさまサインをし、ペンを投げ捨てて駆け出していった。
病室のドアが乱暴に閉められ、その衝撃で明日香の目尻から滑り落ちた涙が震えた。
30分後、明日香は左手薬指の指輪を外し、迷うことなく空港へと向かった。
【翔太、もう二度と会うことはないわ】
このメッセージを送信した後も、彼女に未練はなく、ただ解放感だけがあった。
その短い言葉は、彼女のこれまでの想いに対する終止符であり、新たな人生の始まりでもあった。
翔太がそのメッセージを受け取った時、瞳をなだめ終え、窓辺にもたれかかっていた。
胸が締め付けられるような、何かが消え去っていくような感覚に襲われ、えも言われぬ不安を感じた。
彼の指先は、明日香への発信ボタンの上で止まっていた。