10度目の離婚届。捨てられたクズ夫が泣いても無駄

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10度目の離婚届。捨てられたクズ夫が泣いても無駄

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結婚して3年、離婚と復縁を繰り返すこと、すでに9回…… そのどれもが、木村直樹(きむら なおき)が自分の「初恋の人」を助けるために仕組んだ...

Chương (1)

第1章

結婚して3年、離婚届を出すのはすでに9回にものぼる。 そのどれもが、木村直樹(きむら なおき)が自分の「初恋の人」を助けるために仕組んだ、「その場しのぎの偽装離婚」だった。 そして今日で、10回目を迎える。 木村真奈美(きむら まなみ)は役所のベンチで一人、ポツンと座っていた。スマホのアルバムを開き、過去の思い出を一枚一枚指でスクロールしていく―― 3年前の今日、直樹がプロポーズした。 写真の中で微笑む真奈美は、まるで世界で一番幸せな女のようだった。しかし、そんな彼女を見つめる直樹の優しい眼差しは――今思えば、すべて周到にリハーサルされた演技でしかなかったのだ。 第1話 結婚して3年、離婚届を出すのはすでに9回にものぼる。 そのどれもが、木村直樹(きむら なおき)が自分の「初恋の人」を助けるために仕組んだ、「その場しのぎの偽装離婚」だった。 そして今日で、10回目を迎える。 木村真奈美(きむら まなみ)は役所のベンチで一人、ポツンと座っていた。スマホのアルバムを開き、過去の思い出を一枚一枚指でスクロールしていく―― 3年前の今日、直樹がプロポーズした。 写真の中で微笑む真奈美は、まるで世界で一番幸せな女のようだった。しかし、そんな彼女を見つめる直樹の優しい眼差しは――今思えば、すべて周到にリハーサルされた演技でしかなかったのだ。 2年前、白石絢香(しらいし あやか)が帰国した晩。直樹は初めて「偽装離婚」を提案した。 「絢香が、父親から海外へ嫁げと迫られているんだ。たった1ヶ月、俺に時間をくれないか?1ヶ月あれば、必ずこの件を片付けてみせるから」 8ヶ月前、デザインした作品が国際的に認められた授賞式で、真奈美は直樹を探していた。結局、ニュースで彼が海外のファッションショーに絢香を同伴しているのを知った。 記事には、【大切な人とのひととき】という言葉が添えられていた。 3ヶ月前、真奈美が交通事故で病院へ運ばれた際、直樹は彼女の手を握りしめながら9度目の離婚届にサインした。 「絢香がうつ状態でね。付き添って海外へ療養に行かないと」 …… 9枚の写真と9回の偽装離婚。真奈美はその度に心を入れ替え、サインし、直樹もまた「最後にする」と誓ってきた。 スマホが震え、直樹からのメッセージが届いた。 【道が渋滞してる。焦らないで、すぐ着くから】 真奈美は返信しなかった。 絢香のインスタを開くと、ちょうど10分前に投稿されていた。 空港のラウンジで撮影された写真で、絢香は男の肩に寄り添って甘く笑っている。 顔は半分隠れていたが、直樹の着ているシャツの袖口だとすぐ分かった。 あれは去年の誕生日プレゼントで、真奈美自身がデザインした麦の模様のカフスだった。 投稿のキャプションは、【やっと終わった長いフライト。あなたが待っていてくれて幸せ】だ。 なるほど。「渋滞」なんて嘘だったのだ。彼の言う「すぐ着く」とは、空港であの女を出迎えてから、すぐここへ向かう、という意味だったらしい。 「真奈美」 聞き慣れた優しい声と共に、直樹が隣に座り、自然な仕草で真奈美の手を握ってきた。 「顔色が悪いな。昨日はよく眠れなかったのか?」 彼の手は額に触れ、相変わらず温かい。でも、その指先からは、あの香水が香る。絢香の愛用するものだ。 真奈美は思い出した。数日前の深夜2時、直樹が電話に出て慌ただしく出かけた時、彼はこう言った。 「絢香が熱を出したんだ。一人で病院にいて怖いからって」 胃痛でベッドにうずくまっていたことなど、彼は気づきもしなかったのだろう。 「直樹」真奈美はゆっくりと手を引き抜いた。「今回の離婚は、本気よ」 直樹は驚き、そしてふっと笑った。「またそんな怒ったふりをして」 直樹は、これまで何度も真奈美をなだめてきたように、そっと彼女の髪を撫でようと手を伸ばした。「ここ最近冷たくしてたことは分かってる。絢香の件が片付いたら、I国にオーロラを見に行こう。ね?」 オーロラ。 この3年、自分が見たいと願い続け、彼が連れて行くと約束し続けたものだ。 最初は新婚旅行で「来年こそは」といい、2年目は絢香の失恋に飛び去り、3年目は会社の上場が近くて「また今度」といって…… その度、何らかのことを理由に延期されてきた。 真奈美はふと顔を上げ、直樹の襟元へと視線を移した。 そこには、目に刺さるような赤い痕があった。口紅の跡だ。 あの色、間違いなくトムフォードのスカーレットレッド。絢香がインスタで自慢気に晒していた、とっておきのカラーだ。 「いいわ」真奈美は視線を逸らした。「彼女がまだ体調悪いなら、付き添ってあげて」 直樹の笑みが凍りついた。 次の瞬間、彼は仕方なさそうにため息をついた。「真奈美、どうしてもそういう態度をとるのか?」 直樹は小声で、他人に聞かれないように続けた。「絢香の実家が潰れそうなんだ。彼女のお父さんが陣内隼人(じんない はやと)との結婚を強要しているらしい。あの男、過去に3回も結婚しているが、元妻は全員、不審な死を遂げているんだよ」 その真剣な瞳を見て、真奈美は苦笑せざるを得なかった。 「1ヶ月だけの偽装離婚だ。俺が絢香の実家に融資を取り付けたら、すぐにすべてを元通りにするから。 これが本当に、本当の最後だ」 「前にもそう言ったじゃない?」 真奈美はカバンからサイン済みの離婚届を取り出した。「早くサインして。サインすれば、彼女のもとへすぐ行けるでしょ?」 ようやく直樹の顔から余裕が消えた。 離婚届から、真奈美へと視線を移した彼の瞳に、かつてないパニックの色が滲む。 「真奈美、意地を張るのはやめろ……」 彼が手を伸ばして彼女の手を握ろうとしたが、真奈美は冷たくその手を避けた。 「意地なんか張ってないわ」真奈美は立ち上がり、直樹を見つめた。「この3年間、疲れるわよ。白石さんを助けに行けば?私はもう――」 彼女は少し言葉を切り、ふっと自嘲するように笑った。「いつも物分かりが良くて、寛容で、ただひたすらに待ち続ける……そんないい妻を演じるのは、もうやめにするわ。みっともないから」 窓口で離婚届を提出すると、受け取った職員は複雑な表情を浮かべた。 無理もない。この3年間、真奈美たちがこの場で9回も離婚届を出し、その度に東都の『受理保留制度』を利用して9回撤回するのを見守ってきた担当者だからだ。 「いつも通り、東都の条例による『30日間の受理保留』でよろしいですか?この手続き期間中なら、いつでも申請を撤回できますが」 直樹が何か言う前に、真奈美が即答した。 「いいえ、撤回はしません。30日間の保留期間が過ぎたら、私一人で正式な受理手続きに来ます」 静かながらも堂々とした宣言が、ロビーに響き渡った。 「真奈美!」直樹が勢いよく彼女の手首を掴む。 抵抗せず、真奈美は冷静に見返した。「注目されてるよ。明日のヘッドラインを飾るつもり?木村グループの社長が役所で妻と揉め合い、空港で初恋の人が待ちぼうけって」 直樹の指が力なく解けていく。 真奈美が出口へと向かおうとしたその時、下腹部に熱いものが流れるのを感じた。 生理が来てしまったらしい。お決まりの痛みがじわりと広がる。 彼女はよろけ、ドア枠に手を掛けた。 「真奈美!」直樹がすぐに駆け寄る。「大丈夫か?すぐに病院に……」 「放して」と押し返す。「ねえ、今日が何の日か覚えてる?」 直樹は一瞬戸惑う。 「3年前の今日、あなたがプロポーズしてくれた日よ」 真奈美は笑いながら、涙がこぼれ落ちた。「あの日からずっと、毎月この時期になると、あなたが温かいココアを淹れてくれた。 『甘すぎるのは苦手だから』って、あなたはマシュマロの数やミルクの加減までちゃんと覚えてくれていた。 なのに、いつからかしら……私の生理のことさえ、忘れてしまったのは。 あの白いマグカップに淹れてくれるのが、一番手になじんで温かいんだって、私が言ったから……ずっとあのカップを使ってくれていたのに」 彼女の声は、次第に消え入りそうになっていく。「いつから、覚えようともしなくなったの?」 直樹は口を動かしたが、何も言い返せない。 真奈美は涙を拭い、スマホを取り出し、彼の前で通話を繋げた。 「お父さん」声は詰まるが、意思は固い。「F国へ行くわ……うん、もうこっちには帰ってこない。 手続きが終わったらすぐに向かう」 電話を切った瞬間、直樹の顔が真っ青になった。 「行こうって……冗談だろう?」直樹は信じられないという目で問う。 「いいえ、本当よ」 真奈美は直樹の言葉を遮る。「直樹、この3年、私はあなたから分け与えられる僅かな愛を、惨めに待つだけだった。でも、もうやめるわ。 あなたの愛は、私にはあまりに贅沢すぎたわ。もう、いらない」 そう言い捨て、真奈美は役所のドアを押し開いた。 背後から、直樹が電話に出た時のあの極上の優しさを持つ声が聞こえる。 「絢香、ごめん。道が混んでて……すぐ着くよ」 ほらね。 初恋の人に呼ばれれば、私への演技すら維持する気がなくなったのね。 真奈美は道端でタクシーを拾う。 乗り込む直前、彼女は左手の薬指から指輪を外すと、足元の排水溝へと迷わず落とした。 捨てるべきものは、さっさと捨てないとね。 第2話 真奈美は、直樹との家・澄波ヶ丘には戻らなかった。 あの家の空気には、偽りの幸せを演じ続けてきた虚しさが、どこまでもまとわりついている気がして。 タクシーを降りた先は、古びたホテルだった。 帰国してすぐ、彼女が住んでいた場所。 かつての真奈美は希望に満ち溢れ、愛という名の魔法が、人生のすべてを救ってくれると信じて疑わなかった。 結婚してからも、気分転換で泊まりに来ることもあった。 フロントの女性が真奈美に気づいて声をかけてきた。「木村さん、久しぶりですね」 「お久しぶりです」宿帳に記入しながら、真奈美は掠れた声で言った。「ダブルを一室、お願いします」 顔色の悪い真奈美と、彼女の後ろの誰もいない夜道を見比べ、フロントの女性は何も聞かずにルームキーを渡した。 「302号室、南向きで陽当たりがいいですから」 彼女は少し考え、カウンターの下から使い捨てカイロを一つ取り出して差し出した。「寒いから、使ってください」 真奈美は鼻の奥がツンとした。 他人からのささやかな優しさが、直樹の3年間の中途半端な優しさよりも心に染みて、涙が出そうだった。 部屋に入って扉を閉め、その場に崩れ落ちた。 下腹部の痛みが襲いかかり、誰かにぐいぐいと引っ張られるようだ。 震える手で痛み止めを取り出し、水なしで飲み込んだ。 薬の効き目よりも早く、激痛が走り抜ける。 カーペットの上で身を丸めると、視界が真っ暗になった。 朦朧とした意識の中で、3年前の雨の夜を思い出していた。 国際的な賞を受賞し、トロフィーを抱えて直樹を驚かそうと帰宅したあの夜。 リビングで、直樹が絢香の涙を優しく拭っているのを見てしまった。 「直樹、父が私を海外へ嫁がせようとするの……」絢香が泣きじゃくりながら縋り付いている。「嫌よ、あなたと一緒にいたいの」 直樹は彼女を静かに宥めていた。「大丈夫、俺がついている」 玄関の影に立った真奈美は、誰かのラブストーリーに入り込んでしまった邪魔者のように感じた。 結局、絢香は国外へ去った。 直樹はそれから3ヶ月間、抜け殻のようになった。 その間、真奈美は彼に一口でも食べてもらおうと、毎日献立に趣向を凝らし、酒に付き合い、彼が語る絢香との思い出話を幾度となく聞かされた。 彼は言った。「真奈美、お前がいてくれて本当によかった」 あれが、愛の始まりだと信じていたのに。 今ならわかる。それはただ、彼が妥協の末に選んだ「妥協案」に過ぎなかったのだと。 スマホが突然震え出した。 真奈美は目を開け、「直樹」という表示が点滅する画面を、着信音が止むまでじっと眺めていた。 次の瞬間、メッセージが立て続けに届いた。 【真奈美、どこにいるんだ?家に戻ったけど、お前がいない】 【生理の時は無理するなよ。お前の好きなホットココアを淹れておいたから】 【電話に出てくれ、心配してるんだ】 心配? 真奈美は口角を歪め、直樹のインスタを開いた。 案の定、数分前に更新されていた。 空港で撮った写真。彼の傍らで、絢香が幸せそうに微笑んでいる。 投稿には一言。 【再会】 インスタを閉じ、電源を切ろうとした時、もう一通届いた。 絢香からのメッセージ。 キッチンで背を向ける直樹の写真。 エプロンをして、鍋を一生懸命かき混ぜている。 【真奈美さん、直樹は私のためにスープを作ってくれています。10時間も飛行機に乗って頭痛がしないようにって……】 【彼のお世話をしてくれてありがとうございます。これからは、私がちゃんと『引き継ぎ』ますから】 メッセージを見つめていた真奈美は、不意に笑い出した。 そして、ゆっくりと文字を打つ。【どういたしまして。でも白石さん、私のお下がりの使い心地はいかが?】 送信。 電源オフ。 迷いのない一連の動作だった。 その後、シャワーを浴び、バスローブに身を包んでベッドに寝転がってスマホを弄る。 連絡先を長くスクロールして、ある名前に手が止まった。「千佳」 上田千佳(うえだ ちか)は真奈美の大学時代からの親友で、唯一、直樹と結婚した彼女に、「恋しか頭にないのか?」と怒り続けてくれた存在だ。 直樹の「完璧な夫」というイメージを守るため、真奈美はこの3年間、全ての友人を疎遠にしてきた。 けれど、千佳だけは違った。真奈美がどれほど恩知らずな真似をしても、彼女だけは変わらぬ場所で、親友が目を覚ますのをずっと待ち続けてくれていたのだ。 【千佳、私、離婚するよ】 即座に返信がきた。 【場所を送って。今すぐ行く】 文字を目にした瞬間、真奈美は涙が溢れた。 スマホを抱えて隅で丸くなり、迷子のように声を殺して泣いた。 20分後、ドアがノックされた。 扉を開けると同時に、相手は彼女を力強く抱きしめた。 「泣くんじゃないわよ!」千佳の声も震えている。「あんなクズ男のために、あなたが泣く必要なんてないんだから!」 真奈美は胸の中で首を横に振る。涙は止まらなかった。 「よしよし、もういいよ。別れて正解だって。いい男なんて腐るほどいるんだから!次はもっと良い人見つけよう」 冗談混じりの励ましに、真奈美は思わず吹き出し、それから声を震わせて泣き出した。 千佳は彼女を離し、バッグから茶封筒を取り出して手渡した。「離婚祝いを持ってきてやったよ」 真奈美が開いて見て、息を飲んだ。 そこには、F国のトップクラスのデザインスタジオからの就職招待状があった。チーフデザイナーとして。 「前から持っていたんだよ」千佳は言った。「あなたがバカから目を覚ますのを待ってたの。 このスタジオの創始者は私が留学してた頃の恩師なの。あなたの大学時代の作品集を見せて、ずっと会いたがってた。『つまらない男に捕まって、才能を無駄にしてる』って伝えたら、先生、本気で怒っちゃって」 真奈美は招待状を握りしめ、指先が震える。 「でも……3年間もデザインから離れてて。うまくできるか不安で……」 「何言ってるの!」千佳が言い切る。「あなたは真奈美よ? 当時のF国を震撼させた天才少女だよ!この前、真奈美の昔のデッサンを見返したけど、今少し手直しして世に出すだけで、そこらへんの新人デザイナーなんて一捻りよ。 もう二度とバカな真似はしないこと!仕事に打ち込んで。男なんてどうでもいいでしょ!」 そうか。 本当に愚かだった。 愛がすべてだと信じ込み、たった一本の朽ち果てた木のために、目の前に広がる豊かな森を捨ててしまった。 「そうだ」千佳が航空券をテーブルに叩きつけた。「予約もとっといた。5日後、F国行き。行くか行かないかは、自分で決めてね」 真奈美はその航空券を見つめ、黙り込んだ。 行くことは、直樹も、3年間の結婚生活とも完全に別れるということ。 そして、失った自分を取り戻すための出発点になる。 「行く」 その声は迷いがなく、断固としていた。 千佳は笑みを浮かべたものの、その目の縁を赤く染めている。「これが私の知っている真奈美だよ」 その夜、二人の女性はホテルのベッドに身を寄せ、大学時代のように徹夜で語り合った。 千佳が持ってきたワインと、コンビニのおつまみだけで、グラスが何度も空になった。 「知ってる?」真奈美は千佳の肩に寄りかかり、うつろな目で呟いた。「一番悲しいのは、愛されなかったことじゃない。 彼のために、自分を捨てたことなの」 千佳は真奈美を抱き締め、静かに答えた。「今から取り戻せばいい。まだ間に合う」 朝5時、空が白み始めていた。 真奈美は窓辺に立ち、カーテンを引いた。 静まり返った室内で、再びスマホが低く振動した。直樹からのメッセージだ。 【真奈美、ホテルの下にいる。一度会ってほしい。一度だけでいい】 下を見下ろすと、見慣れたあのあの漆黒のファントムが路肩に停まっていた。 車に背を預けてタバコを吹かす直樹。足元には吸い殻が散らばっている。 彼は5階の窓を見上げた。 朝霧の中、二人の目は合った。 真奈美は淡々とカーテンを閉めた。 ベッドに戻り、F国行きの航空券を手に取ると、そっと指先でなぞった。 これからは、自分自身のために生きる。 第3話 翌朝、真奈美をホテルから連れ出した千佳は、そのまま彼女を市街地の高級マンションへと送り届けた。 「友達の部屋なんだけど、彼女が半年の海外研修に行っていてね。今、ちょうど空いてるの」 千佳は鍵を真奈美の手のひらに押し付け、有無を言わさない口調で続けた。「とりあえずここに住んで。F国で新しい家を見つけるのは、あっちに行ってからでいいわ。ここならセキュリティもしっかりしてるし、監視カメラもあるから。あのクズ男が入り込む隙なんて1ミリもないんだから」 真奈美はぐるりと室内を見渡した。 そこはモダンで洗練された吹き抜けの空間だった。開放感のあるリビングには大きな掃き出し窓があり、その向こうには街の喧騒を抱いた川の景色が広がっている。白いレースのカーテン越しに柔らかな陽光が注ぎ込み、ライトグレーのカーペットの上に温かな光の模様を描き出していた。 3年住んだ澄波ヶ丘の家とは、空気さえもが違っていた。 あそこは直樹が好む豪華なフレンチスタイルで、どこを見てもモデルルームのように整ってはいたが、自分の生活の痕跡など微塵もなかったのだ。 一度、書斎に生地を並べるための棚を置かせてほしいと頼んだことがあったが、「全体の調和が崩れる」という理由であっさりと断られた。 今思えば、あの部屋で自分が残せたものなんて、キッチンで自分が選んだ食器と、ベランダに放置されたまま枯れかけている多肉植物くらいだったかもしれない。 「そうそう」千佳はバッグから一枚の招待状を取り出した。「明日の夜、デザイナーたちの交流会があるの。業界の大物たちが集まるし、F国のあのスタジオの責任者も来るらしいわよ」 彼女は招待状を真奈美に差し出し、「顔を売っておくいいチャンスよ。今後のキャリアにも繋がるし、もう挨拶は済ませておいたから」と笑った。 真奈美はその招待状を受け取り、指先で金文字をなぞった。 あれから3年か。 自分がこの業界で将来を嘱望された期待の新星だったことなど、もう忘れるところだった。 大学では国内外の賞を総なめにして、卒業制作はF国の美術館に収蔵され、メディアからは、「東のデザインの星」などともてはやされていた。 そして、直樹に出会った。 恋を選んだ。 気づけば、世間からは、「木村家の妻」という、輪郭の曖昧な影のような存在になっていた。 「わかった」真奈美が顔を上げると、久しぶりにその瞳に光が宿っていた。「必ず行くわ」 千佳が去った後、真奈美は広々とした空っぽの部屋に長く立ち尽くしていた。 スマホがしつこく鳴り続けている。全て直樹からの着信で、不在着信の通知は既に20件にも達していた。 彼女は通知をスワイプして消すと、メールボックスを開いた。 例のスタジオから届いた詳細資料には、創始者自らが筆を執った招待状が添えられていた。そこには、【君をチームに迎えられる日を、心から待ち望んでいる】という温かな直筆のメッセージが綴られていた。 真奈美はそのメールを何度も読み返し、目頭が熱くなるのを感じた。 世界のどこかで、自分の才能を覚えていてくれる人がいる。 自分は決して、何者でもなかったわけじゃない。 翌日の夕方、真奈美は黒いシルクのドレスをまとい、会場へ足を運んだ。 真奈美が入場すると、場内が少しだけ騒めいた。かつての顔なじみたちが彼女の姿に気づき、驚きと好奇の入り混じった視線を一斉に注いでくる。 「真奈美さん?本当にあなたなのね!」 流行の服を着こなした中年の女性が、迎えに来た。「3年ぶりかしら、変わらずお綺麗ね!」 大手ファッション誌の編集長で、大学時代から真奈美を評価していた菊地椿(きくち つばき)だった。 「菊地さん」真奈美は微笑んで抱きしめ返した。「本当にお久しぶりです」 「聞いたわよ、結婚したんだって?」椿は声を潜めた。「相手は……木村社長でしょ?」 真奈美の表情は崩れなかった。「もう、別れることに決めたんです」 椿はきょとんとしたが、すぐさま真奈美の肩を叩いた。「それが正解よ!あんな男、あなたには勿体ないわ。 ねえ、来月ね、雑誌で無形文化財をテーマにした特集を組むの。腕の良いデザイナーを探していたんだけど、もしよかったら詳しく話を聞かせてくれないかしら?」 直球な言葉だったが、真奈美の胸には温かいものが込み上げた。 一番どん底の時に、こうして手を差し伸べてくれる人がいた。 「あの……」 真奈美が話し始めた時、入り口の方で不意にざわつきが起きた。 彼女が反射的に振り返ると、その場に釘付けになった。 直樹が入ってきたのだ。 黒のスーツを纏った彼は人混みの中でも一際目立つ凛々しい顔立ちをしている。 そして、直樹の腕には白いドレスを着た絢香が寄り添っていた。 丁寧に施された薄いメイクに、ゆるく巻いた髪。三日月のように優しく細められた彼女の目は、あくまでも純粋で悪意など皆無に見える。 二人が並んでいる様は、まさにドラマの主役カップルのように見えた。 「へえ」椿は鼻で笑うをこぼした。「わざわざ新しい恋人を連れてこんな場に出てくるなんて、木村社長は随分と派手なのね」 真奈美は視線をそらし、手にしたグラスを傾けた。 冷たいシャンパンが喉を通り過ぎ、胸の中で湧き上がる感情を飲み込んでいく。 驚くことなんてなかったのだ。 直樹がどんな場でも絢香を同伴するのは昔からのことだ。昔なら傷ついたかもしれないが、今となっては滑稽でしかなかった。 「真奈美さん」椿が彼女の腕を小突いた。「挨拶でもしてこない?なめられたままじゃしゃくでしょ」 真奈美が返すより早く、絢香が彼女に気づいた。 絢香の瞳が輝き、直樹を引っぱってこちらへ近づいてくる。 「直樹、見て!真奈美さんよ!」 第4話 直樹が真奈美の姿を捉えた瞬間、その瞳の奥に、目を奪われたような光が一瞬だけ走った。 「真奈美さん、偶然ですね」絢香がにこやかに口を開く。「あなたも交流会に来ましたか?デザインなんてずっとやめていたと思いますが」 含みのある言い方だった。 真奈美はかすかに微笑んだ。「暇でしたから、ちょっと息抜きに、ついでに菊地さんと仕事の話をしました。彼女の雑誌で無形文化財特集のデザイナーをしないかって誘ってくれたんです」 「そうですね」絢香は直樹の腕を強く抱きしめる。「まあ、離婚も決まったことですし、一人で家にいると色々と思い詰めちゃうでしょうから。仕事でもしてたほうがいいですよ」 その言葉に、周りの人たちの視線が一斉に集まった。 直樹の顔色が少し曇る。 「絢香」 「何がおかしいの?」絢香は不思議そうに目をぱちくりさせた。「真奈美さん、気にしないで、私は思ったことをそのまま口に出しちゃうタイプなのです」 真奈美はグラスを揺らし、落ち着いた口調で答えた。 「気にしません。だって、白石さんのように、離婚してすぐ『都合のいい男』を捕まえて、所構わず見せびらかせるわけではありません」 彼女は言葉を切り、付け加えた。「そういえば、白石さんがわざわざ帰国したのは、木村グループに資金援助を頼み込んで実家の危機を救うためだったそうですね。お金にも代えがたいうるわしい絆を見せつけられて、涙が出るほど感動しました」 絢香の笑みが顔に凍りついた。 直樹は眉をいっそう険しくさせた。「真奈美、いい加減にしてくれ」 「私が間違ったことを言ったかしら?」真奈美は彼を見上げて問い返す。「直樹、あなたは今、どんな立場で私をたしなめているの?私の夫?それともこの女の恩人と新しい彼氏?」 直樹は言葉に詰まった。 その場に気まずい空気が流れる。 椿がその場を収めるために口を挟む。「木村社長、最近は文化産業に投資されていますか?弊誌の特集もちょうど企業のスポンサーを探しているのですが、ご興味ありませんか?」 話題はそらされ、直樹はそれに乗った。 しかし彼の視線は、ずっと真奈美の方へと引き寄せられていた。 直樹の上の空な態度に、絢香は苛立ちを隠せない。 交流会が中盤に差し掛かり、真奈美はテラスへ出た。 夜の川風が冷たく頬を撫で、会場の熱気をさっと攫っていった。 彼女は欄干にもたれ、対岸の街明かりを眺めながら、数年前、直樹とここで一緒に夜景を見たことをふと思い出した。 あの時、彼は言った。「真奈美、お前の『帰る場所』を俺が作るよ」と。 真奈美は信じていた。 今思えば、彼の言う「帰る場所」とは、あの澄波ヶ丘の豪邸と、決して自分を心から愛してくれない男のいる場所でしかなかったのだ。 「一人で夜風に当たってるのか?」 背後から低く響く声がした。 真奈美は振り返らなかった。「直樹、白石さんといるべき時間じゃないの?もうすぐ『元妻』になる私を追いかけてどうするの?」 直樹は彼女の隣まで来ると、真奈美の真似をして欄干に寄りかかった。 「今日のお前は綺麗だ」 真奈美はふっと笑い声を漏らした。「それはお褒めの言葉?それとも、あなたから離れた私が、思いのほか『まともな人間』として生きていることへの驚きかしら?」 「真奈美」直樹の声には、どうしようもない切なさが混じっていた。「そんな言い方しかできないのか?」 「なら、どう言えばいいの?」 真奈美は彼へ顔を向けた。その瞳は凪いだ水面のように静まり返っている。「前みたいに、何も気にしてないフリをして、あなたとあの女が仲良く歩く姿に微笑みかけるべきだった?」 直樹はしばらく沈黙した。 「絢香の実家の問題は、すぐに解決する」彼はいきなり弁解を始めた。「事態が落ち着いたら、また一緒になろう」 またか。 またこの、まるで施しを与えるかのような約束。 真奈美は急にひどく疲れた気分になった。 「直樹」彼女は静かに言った。「考えたことはないの?私は最初から、復縁するつもりなんてこれっぽっちもないって」 直樹は息を飲んだ。 「あれは形式だけの別れだと、何度も……」彼は弁解しようとする。 「だけど、私は本気だったわ」真奈美は遮った。「離婚届にサインしたあの日から、振り返るつもりはなかった」 ついに直樹の顔色が変わった。 彼が手をつかもうとしたが、真奈美はそれを避けた。 「真奈美、いい加減にしろ」直樹の声に抑圧された怒りが滲む。「これまで十分にワガママを通してきただろう。 お前のせいで、絢香は散々辛い目に遭ってきたんだぞ。関係を壊したくないと、危うく陣内との婚約まで飲み込もうとしたんだ!」 真奈美は思わず笑ってしまいそうだった。 「つまり、彼女が別の男と結婚しかけたのも、私のせいだって言うの?」 「そんなことは言ってない……」 「じゃあ、どういう意味?」真奈美は一歩踏み出し、彼に詰め寄った。 「直樹、この3年間、私たちの間に問題が起きるたび、あなたはいつだってあの女の肩を持ったわ。事故の時もそう。子供を失った時もそう」 彼女は深く息を吸い込んだ。微かに震える声で、3年間ずっと心の奥底に封じ込めていた問いを、ついに口にした。 「私たちの子がいなくなった日、あなたはどこにいた?あの女の誕生日を祝っていたじゃない! 彼女の『直樹、怖い』という一言で、病院のベッドにいる私を一人残していった!」 直樹に面と向かってこう言ったのは初めてだった。 3年間ずっと、忘れたフリをして、大丈夫なフリをしてきた。 だが、まだ形になる前に消えてしまったあの小さな命が、彼女の心に二度と癒えることのない傷を残していることは、彼女自身が一番よく分かっていた。 直樹の顔から、一瞬にして血の気が引いた。 唇がわななき、言葉が喉に詰まって出てこない。 その瞳には、深い動揺と……茫然とした様子だけがあった。 彼を見つめ、真奈美はふと微笑んだ。その頬に落ちる涙は、とても苦く渋い味だった。 「あなたの秘書が電話をしたわよね?その時、あなたはどう答えたかしら」 真奈美は直樹の冷淡な口調を真似て言い返した。「『今忙しい。目を覚ましたらまた連絡しろ』って。 直樹、知らなかったフリなんてしないで。あなたはただ、『知らないこと』を選んだだけなのよ」 夜風が急に、骨を刺すように冷たくなった。 真奈美は目の前の男を見つめる。6年愛し、3年連れ添い、彼のためにすべてを捨ててきた男が今、ひどく打ち砕かれたような瞳で彼女を見返している。 しかしその眼差しの中に、彼女が求めていた罪悪感は微塵もなかった。 あるのは、図星を突かれた狼狽だけだ。 「そんなはずは……真奈美、俺はただ……」直樹がわななきながら何か言おうとする。 「ただ、何?」真奈美は彼の言葉を遮った。「ただ、私よりあの女の方が大事だった、それだけでしょ?流産して私が1週間も入院していたのに、あなたは一度だって顔を見せなかった。 秘書だけでなく、私自身も電話をしたのに、あなたは忙しいと逃げたわ。メールをしても会議中だと返された」 ついに涙が零れ落ちたが、真奈美はそれでも笑っていた。「直樹、あなたは今さらなかったことにしたいようね」 「そんなんじゃない……」 直樹が否定しようとするけれど、何の弁解の言葉も浮かばない。 なぜなら、すべて事実だからだ。 あの頃、海外にいた絢香が自殺未遂騒ぎを起こし、彼はすべてを放り出して彼女のもとへ飛んだ。 真奈美からの着信をことごとく無視するか、あしらって切っていたことは間違いない。 その中、忘れられない電話があった。弱り切った声で、彼女は言った。「直樹、話したいことがあるの……」 彼はこう言った。「会議中だ。後でかけ直す」 しかし、その「後」が訪れることは、二度となかった。 彼は知る由もなかったのだ。電話の向こう側で、彼女がまさに子どもを失ったばかりだったなどとは。 「悪かった」直樹の声はかすれきっていた。「本当に、申し訳なかった……」 「結構よ」真奈美は静かに言い放った。「直樹、あなたの謝りを受け取る気は、もうとっくにないわ」 彼女は踵を返し、迷うことなくその場を立ち去った。 今回は、直樹が追いかけてくることはなかった。 彼は欄干にもたれたまま、ドアの向こうへ消える真奈美の後ろ姿を見送り、激しい痛みを感じていた。 まるで見えない手で心臓を握りつぶされるような、あまりに現実的で、耐えがたい激痛だった。 第5話 真奈美が会場に戻った時、その顔色は青白かった。 椿が駆け寄り、心配そうに尋ねた。「大丈夫?顔色がすごく悪いけど」 「大丈夫ですよ」真奈美は無理をして笑みを浮かべた。「菊地さん、少し気分が悪いから先に帰ります」 「送っていくわ」 「お気遣いなく。もう車を呼んでありますから」 そう言って真奈美はカバンを掴むと足早に去っていったが、背後から絢香が向ける、意味深な視線には気づかずにいた。 マンションに戻ると、真奈美はソファに崩れ落ちた。力が抜けきってしまったような状態だった。 スマホが震え、直樹からの着信が表示された。 画面で点滅するその名前を、着信音が鳴り止むまでただ冷ややかに見つめていた。やがて、追いすがるように次々とメッセージが届き始めた。 【真奈美、電話に出てくれ。子供のことについて話したいんだ】 【何を言っても無駄だとは分かってる。だけど、何があったのかだけは教えてくれ】 【頼む、出てくれ】 だが、真奈美は通知を無視し、スマホをマナーモードにして放り出したあと、そのままバスルームへ向かった。 しかし熱いシャワーを全身で浴びたが、胸の中の凍てついた感覚は消えなかった。 俯いて、自分の平らな下腹部を見つめた。かつて、そこには自分と直樹の子供が宿っていたのだ。 彼に告げる準備さえできていなかったのに、もう子供はいなかった。 手術台に横たわった時、医師にこう聞かれたことを思い出す。「ご家族の方に連絡しましょうか?」 その時、彼女はこう答えた。「いいえ、自分一人でサインできますから」 最初から分かっていたから。伝えたところで、直樹が来るはずなんてないのだ。 その日、彼は絢香と誕生日を祝っていたのだから。 バスルームから出ると、再びスマホの画面が光っていた。 今度は絢香からのメッセージだ。 【真奈美さん、直樹が酔いつぶれて、ずっとあなたの名前を呼んでいます。迎えに来てあげられませんか?ブルース・バーにいますよ】 添付されていたのは、ボックス席で泥酔している直樹の写真だった。 真奈美はその写真を数秒見つめてから、削除して絢香をブロックした。 そして窓辺に歩み寄り、きらびやかな夜景を眺めていると、かつて聞いたある言葉をふと思い出した。 ――「人生に現れる人の中には、あなたがどれほど騙されやすい人間かを思い知らせるためだけに来る人もいる」と。 今の真奈美にとって、直樹はまさにその人だった。 彼女の3年という青春を騙し取り、愛情への幻想を壊し、母親になれるはずだった未来まで奪っていった。 だがもう、これ以上傷つけられるのはごめんだ。 真奈美はパソコンを開いてメールにログインし、千佳から送られてきた就職の書類に記入し始めた。 深夜2時、ようやく入力し終え、「保存」をクリックした。 水を飲もうと席を立った時、インターホンが鳴った。 真奈美がドアの覗き穴から外を確認すると、直樹がドアのすぐ外にもたれかかっていた。 上着は腕に乱雑に抱えられ、ネクタイはだらしなく解けている。見るも無惨な姿だ。 かなりの酒を飲んだのは間違いなかった。 そして、彼は再びインターホンを押した。 「真奈美、中にいるのは分かってる……」ろれつの回らない声が響く。「ドアを開けてくれ……話がしたいんだ……」 真奈美は動かなかった。 「真奈美、ごめん……」直樹の声は泣き出しそうに震えていた。「悪かった……本当に、知らなかったんだ……あの子のことは……」 声は次第に小さくなり、最後は抑え込まれたような嗚咽に変わった。 いつも毅然として、洗練されていた直樹が、今はドアの外で子供のように泣き崩れている。 真奈美はドアを背に、目を閉じた。 昔の彼女なら、必ず心揺れ、ドアを開けて許してあげただろう。 だが今は、そんな気持ちにはなれなかった。 負った傷が深すぎて、もう「許す」ということ自体ができないのだ。 彼女はテーブルの方へ歩き、電話を手に取る。「もしもし、玄関に酔っぱらいがいて困っています。警備の方を回してもらえませんか?」 通話を終えると、外からは直樹の苦しげな声が響いてきた。 「真奈美……どうして俺にそんな酷いことを…… 間違っていたんだ……心からそう思っている…… もう一度チャンスをくれないか……たった一度だけでいいんだ……」 哀れな懇願がドア越しに聞こえるたび、鈍いナイフで胸を切り裂かれるようだった。 真奈美は耳を塞いだが、声は遮れない。 結婚当初、一度だけ絢香のことについて揉め、怒って実家に帰ろうとした夜のことを思い出す。 あの時も、彼は今と同じようにドアの前にうずくまり、なりふり構わず必死に引き留めたのだ。 「真奈美、俺が馬鹿だった。もう二度とあいつには会わないから、行かないでくれ」 彼女はその言葉を信じた。 それから1ヶ月もしないうちに、彼は絢香のために海外へ飛び、結婚記念日をすっぽかしたのだ。 廊下の方から、慌ただしい足音が近づいてきた。 警備員が上がってきたのだろう。 やがて、外は再び静かになった。 真奈美はソファに座り直したが、結局涙は止めどなく溢れ出た。 直樹のためではない。かつて純粋に愛を信じきっていた自分自身のために泣いたのだ。 そうか、誰かを諦めるというのは、愛が冷めるということじゃない。たとえ今もまだ好きだとしても、離れると自分に強いることだったのだ。 この場所にいれば、心が死んでいくだけなのだから。 彼女は涙を拭うと、立ち上がってパソコンの前に戻り、マウスを動かして「送信」をクリックした。 真奈美はモニターを見つめ、口元にやっと、心の底からの穏やかな笑みを浮かべることができた。 第6話 翌朝早く、千佳は朝食を手に、慌ただしくマンションにやってきた。 「ねえ、どうだった?就職に必要な書類、無事に提出できた?」 彼女はドアをくぐるなり、弾んだ声でまくしたてた。「昨夜、先生から連絡があったわ。あなたに会えるのをすごく楽しみにしてるって!」 「うん、出したよ」 「そうそう」千佳は朝食を頬張りながら、もごもごと言った。「今日、大使館でビザの申請に行くんでしょ?私が付き添うわ」 「大丈夫、一人で平気」真奈美は言った。「それより、今日はクライアントとの打ち合わせがあるんじゃなかったの?」 「キャンセルしたよ」千佳は事もなげに言った。「親友が困ってる時に、仕事なんかしてる場合じゃないでしょ?」 真奈美が彼女を見ると、目頭が熱くなった。 「ちょっと、泣かないでよ!」千佳は慌ててティッシュを差し出す。「いいこと、真奈美。これからは嬉しい時の涙だけ。男のために泣くなんて、もう卒業!」 「そうだね」真奈美は力強くうなずいた。 大使館へ向かう途中、真奈美のもとに直樹からメッセージが入った。 【真奈美、澄波ヶ丘で待ってる。しっかり話したいんだ。お前に言いたいことが山ほどある】 画面を一瞥した彼女は、そのまま通知をスワイプして消した。 数分後、またメッセージが届いた。 【白石グループの融資の件、明後日には実行される。約束は守るよ。その後はあいつと完全に縁を切るから】 【以前約束したオーロラ旅行、来月の分を予約した。一緒に行こう】 続いて、一本の動画が送られてきた。 I国の夜空に揺らめくオーロラ。あまりの美しさに、かえって現実味がないほどだった。 もし少し前の真奈美だったら、感動のあまり泣き崩れていただろう。 でも今、それはただの皮肉にしか思えない。 あんなに願っても叶わなかったオーロラの約束を、自分がいなくなった途端に見に行こうとするなんて。 真奈美は冷ややかに返信を打った。 【オーロラは白石さんと楽しんで、私には関係ないので】 それを見た千佳は、力いっぱい親指を立てた。「最高!これが私の知ってる真奈美だよ!」 …… 大使館の手続きは滞りなく終わった。 ビザ申請センターの外に出ると、日差しが心地よく降り注いでいた。真奈美が見上げる空はどこまでも青く、まるで自由な空気に満ちているようだった。 「そういえば」千佳は腕を組んできた。「家にはまだ荷物が残ってるんでしょ?デザイン画やトロフィーはあなたの『命の次に大事なもの』なんだから、ちゃんと取り戻さなきゃ」 真奈美は足を止めた。 確かに。 大事なデザイン画や、獲得した数々のトロフィーは、今も澄波ヶ丘の書斎に置かれたままだ。 あれらはどんな宝石よりも、彼女にとってかけがえのないものだった。 「私もついて行ってあげよう」と千佳は言った。「ついでにあの男にも一言物申してやるわ、良心が咎めないのって」 「ううん」真奈美は首を振った。「私だけで行く。決着は自分でつけないといけないから」 真奈美の迷いのない眼差しを見て、千佳は頷いた。「わかった。じゃあそこまで車で送る。私はそのあと打ち合わせに行くから」 午後3時、真奈美は予定通り澄波ヶ丘の邸宅に到着した。 家に入るやいなや、彼女は迷わず書斎へと向かった。 中から絢香の大きな声が聞こえてきた。 「こんなゴミ、いつまで取ってるの?邪魔だし、全部捨てて!」 書斎に入ると、絢香が二人の使用人に命じ、本棚の上のデザイン画やトロフィーを乱暴にゴミ袋や段ボールへ突っ込ませ、廃棄処分の準備をさせているところだった。 「何していますか?!」 真奈美は駆け寄った。 絢香は振り返り、彼女を見ても慌てるどころか、面白そうに口角を上げた。「あら、木村夫人じゃありませんか。ああ違った、もうすぐ『元』木村夫人になるんでしたね」 彼女は真奈美の前に歩み寄り、上から下までなめ回すように見つめた。「どうしたんですか?自分から離婚届を出したばかりなのに戻ってくるなんて。直樹にまだ未練でも?」 真奈美は彼女を無視し、使用人のところへ進むと、自分のトロフィーを奪い返した。 「誰に許可をもらって人の物に触ってるの?」真奈美は使用人を睨みつける。 使用人たちはうつむいて沈黙した。 絢香は近づき、わざとらしくトロフィーの埃を払おうとした。「真奈美さん、怒らないで、ここに置いとくと邪魔だと思っただけですから」 彼女の手が触れた瞬間、真奈美は激しく振り払った。 「もうすぐ離婚する身なんだし、こういう物がいつまでも残っていると、みっともないでしょう?」 絢香の笑みが、冷酷な嘲笑へと変わる。「直樹も言ってましたよ。この家はこれから、私と彼の家になるからって。だから、あなたの残したゴミは当然、綺麗に片付けなくちゃいけませんよね?」 真奈美はトロフィーを強く握りしめ、指先が白くなった。「少なくとも私は、誰に恥じることもない『正当な女主人』だったわ。でも、あなたは?ただの哀れな愛人に過ぎないでしょう」 絢香の表情が一瞬サッとこわばったが、すぐにまた薄気味悪い笑みを浮かべた。 真奈美に耳打ちするように近づいてくる。「あの流産した子、名前を『保乃香』にするはずだったでしょう?」 真奈美はハッと息を呑んだ。 それは、彼女と直樹だけの秘密だった。 いつか子どもが生まれたら、その名を付けようと誓い合っていたのだ。 「予想外のことでしたか?実は、私が飼ってる犬が同じ名前ですよ。あの子が死んだ時、直樹が言っていました。いつかあの子は私たちの子供に生まれ変わってくるって……」 その言葉の一つひとつが、毒を塗ったナイフのように、真奈美の心臓を容赦なく切り刻んでいく。 「それにね」絢香はもう一歩踏み込んだ。「あなたが流産した夜、私はわざと直樹に電話をかけて、怖がってるフリをしました。あなたよりも、私が直樹を必要としているってわからせるために…… プロポーズを一度断ったことを後悔しているからこそ、こうやって証明させないと気が済まないんです。彼がいつまでも私を諦めきれないんだってことを!」 「だとしても」真奈美は絢香の瞳を直視し、言い放った。 「彼はあなたと結婚しませんね。あなたは、あまりにも恥知らずですから。本性を隠そうともしない、その卑劣さこそが理由ですよ」 絢香の目が一瞬泳いだ。何かを思いついたかのように、その瞳は殺気立った。 「それなら、最後にもう一回証明してやりますね。直樹はどっちを選ぶのかを!」 そう叫ぶと、絢香は不意打ちで両手を使って真奈美を強く突き飛ばした。 足元に散らばったデザイン画に足を取られ、真奈美は体勢を崩す。 その先には、開け放たれたテラス窓。 窓の外には、プールが広がっていた ドボーン―― 冷え切ったプールの水が、真奈美を飲み込んだ。 第7話 冷たいプールの水が鼻と口に流れ込み、息も絶え絶えになる中で、視界に入ったのは絢香の満足げな笑みだった。真奈美の意識が次第に遠のいていく…… 「真奈美!」 朦朧とした意識の中で、直樹が走り寄ってくる姿が見えた。 「おい、目を覚ませ!真奈美!」 直樹はプールに飛び込んで彼女を抱き上げ、焦った様子で何度も頬を叩いた。 真奈美は水を吐き出し、激しく咳き込んだ。肺が張り裂けそうに痛む。 「大丈夫か、真奈美?変な心配させるなよ!」 直樹は自分のジャケットを脱いで彼女を包み込んだが、その腕はかすかに震えていた。 「彼女が……私を押したの……」真奈美は弱々しく絢香を指さした。 絢香はすぐさま直樹の胸元へ飛び込み、目を真っ赤にして泣き崩れた。「直樹、違うわ!私じゃない!彼女が自分で勝手に落ちたくせに、私を陥れようとしているのよ」 直樹の視線が真奈美と絢香の間を揺れ動き、その表情は次第に険しいものへと変わっていった。 やがて彼は疲れ切ったようなため息をついて言った。「真奈美、お前がつらいのはわかる。でも、自分を傷つけて絢香を罠にはめようなんて、そんな真似……正直、がっかりだよ」 凍りつくような冷たさが全身を駆け巡った。 プールの水よりも、ずっと冷たかった。 直樹の、納得のいかないことばかり言う絢香を憐れむようなその目を見て、真奈美はふっと、乾いた笑い声を漏らした。 掠れた笑い声はすぐに激しい咳に遮られ、喉の奥に焼け付くような痛みが走る。「ねえ……あなたは、そこまでこの女を信じるの?」 「すまない」直樹は苦渋に満ちた表情で、それでも絢香を背に隠すようにして庇った。「絢香をここに連れてきた俺も軽率だった。でも、まさかお前がこんな卑怯な真似をするなんて……」 真奈美はよろけながら体を起こし、力なく笑みを浮かべた。 「直樹、今分かったわ。あなたってただ薄情なだけじゃなくて、見る目もないのね」 直樹は声を荒げた。「真奈美!」 「何よ、何か間違いでも言ったかしら?」真奈美はそばにあった椅子を支えに立ち上がった。一歩踏み出すのも命がけだった。「彼女がそんなに好きなら、お幸せに。私はもう行くわ」 振り返らずに行こうとした彼女を、直樹は呼び止めた。「待て。そんな姿でどこへ行くつもりだ?運転手に送らせる」 「結構よ」真奈美は決して後ろを振り返らなかった。「私の生死なんて、気にしなくていいわ」 邸宅を離れると、真奈美はすぐさま110番にかけた。 「警察ですか。殺人未遂で通報します」 翌日の早朝、再び直樹が姿を現した。 「真奈美!どこまで事を荒立てるつもりだ?警察署なんて、絢香がいるべき場所じゃない。今すぐ告訴を取り下げろ!」 彼は真奈美の腕を強く掴んだ。あまりの力に痛みが走った。 真奈美は渾身の力でその手を振り払った。「証拠はもう警察にあるわ。私を信じないなら、法律に審判を下してもらう!」 「真奈美、証拠の捏造は犯罪だぞ!」直樹が声を荒らげて威嚇する。 「好きにすれば!」真奈美は一切引き下がらなかった。 彼女の固い決意を見た直樹は、声を潜めて最後の切り札を切り出した。 「上田のこと、どうなっても知らないんだな?彼女のデザインスタジオ、木村グループの契約が切れたら、どれくらい保つか自分で考えてみろ」 真奈美の体は強張った。氷のような視線を彼に浴びせる。 直樹の力を思えば、千佳をこの都市で無一文にすることなど、彼には容易いことだった。 長い沈黙の末、真奈美はついに折れた。「告訴は取り下げるわ」 …… 警察署から出てきた直樹は、冷酷な目で真奈美を見下ろし、命令するような口調で言い放った。「絢香に謝れ」 真奈美は拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。 千佳を守るために、彼女は頭を下げざるを得なかった。「ごめんなさい」 絢香はすぐさま歩み寄り、わざとらしいほどの寛大さで手を取った。 「大丈夫ですよ、真奈美さん。そんなつもりじゃなかったのですね。次は気をつけて、本当に怖かったんですから」 直樹は愛しそうに絢香を抱き、背を向けて去っていった。 夕方、直樹から電話がかかってきた。 「白石グループの融資が正式に決まった。今夜9時、指定のレストランに来てくれ。絢香にもすべてをはっきりさせて、これからはもう彼女と一切関わらないと伝えるつもりだ」 真奈美は行きたくなかったが、絢香の敗北に歪む顔を想像して、行くことに決めた。 レストランに着いた時、絢香はまだ来ていなかった。 直樹は牛肉スープを取り分けて彼女の前に差し出した。その声音はすがるようだった。 「すべて終わった。今までひどいことをして、すまなかった」 目の前の料理を眺めながら、真奈美はどうしても問い詰めたい衝動に駆られた。 「直樹、あなたは本当に私のことを愛していたことがあるの?」 スプーンを持った直樹の動きが止まる。答えは沈黙だった。 「実はね、私、牛肉って苦手なの」真奈美は自嘲ぎみに笑ったが、目元は涙で潤んだ。「昔、家で何度も牛肉スープを作ったのは、あなたが好物だと言ったからなの」 直樹の表情にようやく焦りの色が浮かび、彼は慌てて視線を逸らした。「すまない。次は……次からは絶対に間違えない」 「次は?」真奈美が微笑むと、涙が零れ落ちた。「でもあなたは、白石の好みなら全部完璧に覚えているでしょ? 香辛料は苦手で、コーヒーには砂糖二杯。彼女が何気なく口にしただけのブランドさえ覚えていて、いつもプレゼントしていたものね。 愛の在処を知るには、相手が何に時間と心を使っているか見ればいいって本当だわ。 あなたは最初から、私に少しも心を向けてなんていなかったのよ」 言い終わると、真奈美は立ち上がりその場を後にした。 絢香が今日ここに現れる可能性は低いと、彼女には分かっていた。 あの女が、自ら不利な立場に立つような真似をするはずがないのだ。 だが店を出て間もなく、角の暗がりから大柄な黒ずくめの男たちが飛び出し、真奈美を強引に車へ押し込もうとした。 首筋に走る衝撃と激痛の中、視界が闇に覆われ、彼女の意識は完全に途絶えた。 第8話 目を覚ました真奈美は、自分が絢香と一緒に崖の上に吊るされていることに気づいた。 足元には岩礁が見える。落ちれば命はない。 「陣内、彼女たちを下ろせ!女を拉致するなんて恥ずかしくないのか!」 聞き慣れた男の声が崖の上から響いた。その声には怒りが激しく混じっている。 真奈美が力を振り絞って顔を上げると、崖の端にスーツ姿の直樹が立っていた。いつもは冷静な彼が眉を寄せ、対面に立つ男を鋭く睨みつけている。 その男は隼人。東都でも有名な、残忍な男だった。 絢香の父親の白石聡(しらいし さとし)が彼女の結婚相手として決めたのは、他ならぬこの男だ。 隼人は冷ややかに笑った。「木村社長、そう言われても困るな。 白石グループも白石家のこの女も、本来は俺のものだ。そっちが横から割り込んできたんだろう。これは道理に合わないってことじゃないのか?」 彼が言葉を放つたびに、真奈美を吊るすロープが食い込んだ。手首に走る激痛に、真奈美は思わず息を呑んだ。 隼人は続けた。「木村社長、どっちも選ぶなんて都合が良すぎるだろ。 こうしよう。白石グループについては争わない。だが、女については、片方は俺が引き取る」 「陣内、調子に乗るなよ」直樹が歯を食いしばった。 しかし隼人は動じず、スマホを取り出してカウントダウンを始めた。 「待つのは嫌いなんだ。選ぶのは10秒間だけだ。10、9、8……」 真奈美の心は、絶望の淵に突き落とされた。 彼の迷う目つきに、真奈美はすべてを悟った。 直樹の目に涙が浮かんでいた。彼は宙に吊られた真奈美を見つめ、震える唇で絞り出すように言った。 「絢……絢香を助けてくれ!」 直樹の声と共に、彼の頬を大粒の涙が伝い落ちた。 すぐに絢香のロープが緩められ、彼女は泣きながら直樹の胸へと駆け寄った。 それとほとんど同時だった。真奈美のロープが切り落とされた。 凧の糸が切れたように、彼女は下の暗い海へまっすぐ落ちていった。 耳元で風が鋭い悲鳴のように響く。 真奈美は絶望のうちに目を閉じ、訪れるはずの死の衝撃を待った―― だが、想像していたはずの激痛はなかった。 気づくと真奈美は、太いロープで編まれた粗い網の上に横たわっていた。体中が痛くて呼吸すら苦しい。 腕を支えに上体を起こし、彼女はようやく理解した。ここは岩礁の陰に仕掛けられた網だった。暗闇の中で誰も気づくはずがなかったのだ。 生きて……いるのか。 その事実に、意識がはっきりとしてくる。 必死に網の上を這い回ると、隅の方で何かが光るのを見つけた。 手を伸ばすと、それは折れたカッターの刃だった。 その時、近くで足音が聞こえた。真奈美はすぐに身を潜め、網の影で呼吸を殺した。 「俺の網も、案外役に立つもんだな」 隼人の声が嘲笑と共に聞こえた。「あんな高さから落ちて生きているとは、お前もしぶとい奴だ」 真奈美は何も答えず、カッターの刃を握りしめた。 隼人がしゃがみ込み、彼女の姿を欲望の滲んだ目で舐めるように見下ろした。 「こんなに綺麗な女を直樹が捨てるなんて。本当にもったいない」 そう言うと、隼人は真奈美に向かって覆いかぶさってきた。 真奈美は吐き気を必死に抑え、動かずに待った。 隼人が彼女に触れる直前、鋭い刃を突き出した。その冷たい感触が隼人の喉に当てられる。 「動かないで。逃がしてくれなければ、一緒に死ぬ」 刃が皮膚に食い込み、隼人が苦痛に顔をしかめた。 真奈美の決死の覚悟を見て、隼人は数秒睨み合った後、吐き捨てるように言った。 「いいだろう。放してやる」 真奈美は警戒を緩めなかった。隼人の部下たちが下ろした縄梯子を伝って崖を上り、安全を確信してすぐに街の方へ走り出した。 どれくらい走ったか分からないが、ようやくタクシーを拾うことができた。 マンションに戻って荷物をまとめていた時には、既に日は明けていた。 彼女はそのまま空港へ向かった。移動中に千佳に電話をかけ、心なしか弾む声で告げた。 「もう行くわ。離婚届はすでに提出してあるから、30日の保留期間が過ぎた後の最後の手続きは、あなたに任せるわね……それじゃあ、次はF国で会いましょう」 空港には多くの人が行き交っていた。小さなスーツケースを引き、保安検査へ向かう途中、不意に直樹の背中が目に飛び込んできた。 薄いグレーのシャツを纏った彼は、人混みの中でも一際目立っていた。 直樹は、いつもそうだ。どこにいても主役のようだった。 彼は何かを感じたのか、不意に振り返った。 真奈美は素早くサングラスをかけ、人混みの中へと姿を消した。 その時、スマホが鳴り、直樹からメッセージが届いた。 【真奈美、救助隊から報告を受けたよ。お前が生還したと知って、本当に安心した】 【絢香は気が弱いから、あの時は彼女を選ぶしかなかったんだ。しっかり休んでおいてくれ。明日会いに行く。役所に行って離婚届を撤回し、やり直そう】 その画面を見つめ、真奈美の心は凍りつくように冷めていた。 彼女はSIMカードを抜き取り、スマホを初期化して、二度と振り返らず搭乗した。 飛行機は静かに滑走路を走り、空高く飛び立った。 耳の奥でかすかな音が鳴り響く。真奈美は目を閉じ、小さく笑みを浮かべた。 昨日のことは、昨日に置き去ろう。 今日からは、新しい人生が始まるのだ。 直樹、もう二度と会うことはないわ。