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七年目の雪、音もなく降り積もる
遠距離恋愛を始めて七年目。私は恋人の岩月柊人(いわつき しゅうと)に内緒で仕事を辞め、千キロ以上の道のりを越えてK市へと向かった。 た...
Chương (1)
第1章
遠距離恋愛を始めて七年目。私は恋人の岩月柊人(いわつき しゅうと)に内緒で仕事を辞め、千キロ以上の道のりを越えてK市へと向かった。
ただ彼にサプライズを仕掛けて、結婚するためだけに。
受付で柊人を訪ねると伝えると、スタッフはどこか含みのある視線を向けてきた。
「岩月社長は現在、会議中です。少々お待ちください」
私は密かに驚いた。柊人から出世したなんて話、一度も聞いていなかったから。
先週のビデオ通話でも、彼は仕事が忙しくて、昇進がいつになるかわからないと溢していた。
背を向けた瞬間、受付のスタッフたちがひそひそと話す声が聞こえてきた。
「あれは社長が外で囲ってる女じゃない?」
「へえ、いい度胸ね。会社まで乗り込んでくるなんて」
「社長は既婚者なのに、奥様にバレたらただじゃ済まないわよね?」
人違いだと振り返って言い返そうとした。柊人は独身で、私は七年付き合っている本物の恋人なのだと。
しかし言葉を発する前に、回転ドアが開き、シャネルのスーツに身を包んだ女性が入ってきた。
スタッフたちはすぐに口を閉ざし、非常に丁寧に「奥様」と彼女を呼んだ。
女性は電話中で、とろけるような甘い声を上げている。
「ねえ、一階に着いたよ。早く迎えに来て。今日は絶対に妊婦健診に付き合ってもらうからね!」
電話の向こうから、聞き覚えのある低い声が愛おしそうに響いてきた。
「わかった、お姫様。会議はもうすぐ終わるから、先に応接室で座って待ってて」
七年間聞き続けてきた、耳に馴染んだその声。
それは間違いなく、私の恋人、柊人のものだ。
第1話
遠距離恋愛を始めて七年目。私は恋人の岩月柊人(いわつき しゅうと)に内緒で仕事を辞め、千キロ以上の道のりを越えてK市へと向かった。
ただ彼にサプライズを仕掛けて、結婚するためだけに。
受付で柊人を訪ねると伝えると、スタッフはどこか含みのある視線を向けてきた。
「岩月社長は現在、会議中です。少々お待ちください」
私は密かに驚いた。柊人から出世したなんて話、一度も聞いていなかったから。
先週のビデオ通話でも、彼は仕事が忙しくて、昇進がいつになるかわからないと溢していた。
背を向けた瞬間、受付のスタッフたちがひそひそと話す声が聞こえてきた。
「あれは社長が外で囲ってる女じゃない?」
「へえ、いい度胸ね。会社まで乗り込んでくるなんて」
「社長は既婚者なのに、奥様にバレたらただじゃ済まないわよね?」
人違いだと振り返って言い返そうとした。柊人は独身で、私は七年付き合っている本物の恋人なのだと。
しかし言葉を発する前に、回転ドアが開き、シャネルのスーツに身を包んだ女性が入ってきた。
スタッフたちはすぐに口を閉ざし、非常に丁寧に「奥様」と彼女を呼んだ。
女性は電話中で、とろけるような甘い声を上げている。
「ねえ、一階に着いたよ。早く迎えに来て。今日は絶対に妊婦健診に付き合ってもらうからね!」
電話の向こうから、聞き覚えのある低い声が愛おしそうに響いてきた。
「わかった、お姫様。会議はもうすぐ終わるから、先に応接室で座って待ってて」
七年間聞き続けてきた、耳に馴染んだその声。
それは間違いなく、私の恋人、柊人のものだ。
パサッと、手に持っていたカバンが地面に落ちた。
しゃがんでカバンを拾おうとしたとき、足元に一冊の母子手帳が舞い落ち、自然と開いた。
妊娠12週。胎児の父親の欄には、柊人の名前が記されていた。
このところ、柊人はいつも忙しいと言い、電話に出るのは週に一度だけだった。
ようやくビデオ通話に応じたとき、彼の首筋に、はっきりとキスマークを見つけたことがあった。
「蚊に刺されたんだ」柊人はすぐに言い訳した。「七瀬、こんなに長く遠距離をやってきて、俺のそばに他の誰かがいたことがあったか?」
私はその言葉を信じた。それどころか、疑ってごめんなさいと彼に謝ったのだ。
それなのに今、彼は誰かの夫になっていた。
そればかりか、子供まで授かっている。
女性は私の手から母子手帳を受け取ると、微笑みながらお礼を言った。
私が立ち尽くしたままでいると、彼女が尋ねてきた。「あなたも柊人に用事があるのですか?」
私は頷いた。
「じゃあ、一緒に上に行きましょう。主人の会議はいつも長いですから」
「主人」という言葉が、何の前触れもなく私の心臓を突き刺し、鮮血が溢れ出したような感覚を覚えた。
応接室で、その女性は自己紹介をした。彼女の名前は岩月えみり(いわつき えみり)。K市の名家、西原家が大切に育てた箱入り娘だ。
「主人は口下手だけど優しい人です。いつも忙しいって言いながらも、妊婦健診には必ず付き添ってくれます」
彼女は愛おしそうにお腹を撫で、不満げな口ぶりとは裏腹に、瞳には幸せそうな笑みを浮かべている。
「最近は残業ばかりで、子供のためにミルク代を稼がなきゃって言います。この会社はまるごと岩月家のものなのに、そんな嘘までついて私を喜ばせようとするんですから」
私はカバンを握りしめ、込み上げる怒りを必死に抑えた。
柊人は、自分がただの平社員で、会社ではのけ者にされていて出世も難しいと私に嘘をついていた。
遠距離恋愛の七年間、彼は二人の距離が遠すぎることを理由に、入籍をずっと先延ばしにしてきた。
だから私は、昨年末に最後のプロジェクトを終えてすぐに仕事を辞め、彼と籍を入れるために、はるばるK市までやってきたのだ。
廊下から足音が聞こえてきた。
スーツ姿の男たちが応接室の前を通り過ぎると、次々とえみりに挨拶をしていった。「奥様、また社長をお迎えですか?」
柊人が応接室に入ると、隣にいる社員がすぐに冷やかした。
「社長、また奥様の抜き打ちチェックですよ!」
えみりは柊人の胸に飛び込んだ。
「あなた、待ちくたびれて腰が痛くなっちゃったわ」
柊人はごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、顔を上げたところで私と目が合い、その笑顔が一瞬で凍りついた。
ほんの一秒。彼はすぐに冷静さを取り戻し、冷淡に言い放った。「どうしてここに来たんだ?」
えみりが私の方を振り返った。「ねえ、こちらの方は?」
社員たちは目配せを交わしながら、柊人を助けるように微笑みつつ説明した。
「決まってるじゃないですか、社長のご友人です」
「奥様、ご安心ください。社長の奥様思いは、社内でも有名ですから」
柊人は一歩踏み出し、私とえみりの間に立ちはだかるようにして、よそよそしく説明した。「大学の同級生だ」
彼は隣にいる秘書の川口翔(かわぐち かける)に顔を向けて言った。「この方を外までお送りして。みんなの仕事の邪魔にならないように」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
けれど、彼の視線はすべてえみりに注がれている。
翔に促されて部屋を出る際、柊人はえみりの手を握り、彼女の鼻を軽くつついた。
「行こうか、お姫様。妊婦健診に付き合う」
えみりは背伸びをして彼にキスをし、甘えるように囁いた。「あなた、大好き」
私の横を通り過ぎる際、えみりがちらりと私を振り返った。「あなた、同級生をあんな風に放っておいていいの?」
柊人は一度も振り返らなかった。
「大して親しくもない同級生だ。君より大切なものなんてない」
涙がこらえきれずに溢れ出した。通り過ぎる社員たちは、私の無様な姿を嘲笑うような目で見ている。
十年の付き合い、七年の遠距離。千キロ以上の道のりを越えて駆けつけた末に、手に入れたのは「大して親しくもない同級生」という言葉だけだ。
スマホの中には、三日前に柊人から送られてきたメッセージがまだ残っている。
【七瀬、もう少しだけ時間が欲しい。仕事が落ち着いたら結婚しよう】
その言葉を信じて、私は仕事を辞め、千キロ以上の距離を厭わずに彼のもとへ来た。
それなのに、すべてが真っ赤な嘘だったなんて。
第2話
スマホが震え、柊人からメッセージが届いた。
【とりあえず俺の秘書と一緒に帰れ。説明は後でする】
そのシンプルな内容に胸が締め付けられ、最後には問い詰めずにはいられなかった。
【どうして私を騙したの?】
柊人からの返信は冷淡だ。
【いいから帰れ。大人しくしろ。会社の入口で恥をさらすな】
以前、私がK市に行きたいと言うたびに、彼が何やかやと理由をつけて断っていたのは、私の存在が彼に恥をかかせることを恐れていたからだったのだ。
顔を上げると、周囲の社員たちがスマホで私を撮りながら、ひそひそと囁き合っているのが分かった。
「愛人のくせに乗り込んでくるなんて、恥知らずめ」
「若いくせに他にやることないのかしら。わざわざ人の男を奪わなくても」
私は慌てて顔を覆い、声を詰まらせながら釈明した。「私は何も知らなかった……彼に騙されてた……」
返ってきたのは、嘲るような失笑だけだ。
翔は私のスーツケースを車に積み込むと、乱暴に近い手つきで私を車内へ押し込んだ。
30分後、車は一軒の屋敷の前で止まった。
柊人はこんな豪邸に住んでいながら、私には狭い賃貸暮らしだと嘘をついていた。
私は彼がK市で苦労しているのではないかと心配し、毎月、自分の給料の半分を彼に送金していたというのに。
翔は私を屋敷に押し込み、カチャリとドアの外から鍵をかけた。
「ここで社長の帰りを待っていてください」
空気中には、微かな香水の香りが漂っている。数ヶ月前、柊人がY市に来たときに、彼から漂ってきたあの香りだ。
振り返った瞬間、私はその場で硬直した。
リビングの壁に、大きなウェディングフォトが飾られている。
黒いタキシード姿の柊人が、純白のドレスを纏ったえみりを抱きかかえている。右下に記された日付が、私の瞳を鋭く突き刺した。
二人がウェディングフォトを撮ったその日は、ちょうど私の誕生日だった。
仕事が忙しくてどうしても手が離せないと言われ、初めて彼に誕生日を祝ってもらえなかったあの日。
私は狂気じみて寝室に飛び込んだ。
壁一面に、柊人とえみりのツーショット写真が飾られている。
クローゼットを開けると、柊人のシャツの隣に、女物の艶やかなレースのネグリジェが掛けられている。
化粧台には、高級ブランドの化粧品が所狭しと並んでいる。
最後に残っていた淡い期待は、枕元にある使いかけのゴムの箱を見つけた瞬間、粉々に砕け散った。
結局、柊人の言う「忙しさ」とは、別の女と家庭を築くための忙しさだったのだ。
私は冷たい床に崩れ落ち、頭を抱えて声を上げて泣いた。
私は貧しい家の出身で、両親は農家だ。必死に勉強を重ね、ようやく都会の大学に入った。
講義のない時間はすべてアルバイトに費やし、そこで柊人と出会った。
私は離島から出てきた苦学生で、彼は家族に決められた道に反発して家を飛び出してきたという、訳ありの御曹司だった。
実家の助けが得られない私たちは、自力で生きていくしかなかった。
数ヶ月後、私たちは付き合い始めた。周囲からは「貧乏カップル」なんてからかわれていたけれど。
確かに、あの頃の私たちは本当に貧しかった。
それでも誕生日のたびに、柊人はお金を工面して、私が欲しがっていたプレゼントを買ってくれた。
一日二食に切り詰めてまで、私のためにブランド物の口紅を買ってくれるような人だった。
「他の女の子が持ってるものを、君だけが持ってないなんて嫌だ」と彼は言った。
自分がどんなに辛くても、彼女である私にだけは惨めな思いをさせまいとしてくれた。
大学を卒業し、私はY市に残り、柊人はK市へ行った。
私はY市で月額二万円の格安アパートを借りた。
柊人は毎週の土日、Y市まで会いに来てくれた。
暗がりの中で身を寄せ合い、古びたベッドのきしむ音を聞きながら。
柊人は私の目尻の涙を拭い、掠れた声で誓ってくれた。「七瀬、仕事が落ち着いたら結婚しよう」
結婚資金を貯めるために、私はがむしゃらに働いた。深夜二時までの残業も厭わず、ついには体が悲鳴を上げて会社で倒れてしまった。
私が病気だと知ると、柊人はその日のうちに休暇を取り、Y市の病院まで駆けつけてくれた。
彼は私の無茶を本気で叱りつけ、次の瞬間には私の手を握りしめ、瞳を真っ赤に潤ませていた。
柊人は会社に休暇を申請し、Y市に残って私の看病をしてくれた。上司からは電話越しに酷い言葉を浴びせられていたけれど。
あんなに腰を低くして誰かに謝る彼の姿を、私は初めて見た。苦しげな笑みを浮かべながら。
「仕事に戻って、私のことはいいから」と諭しても、彼は真剣な眼差しでこう言った。
「秋永七瀬(あきなが ななせ)、俺にとって君より大切なことなんて、この世に何一つないんだ」
あの瞬間、私は柊人の愛を微塵も疑わなかった。
彼への確かな信頼があったからこそ、私はこの七年という歳月を耐え抜くことができたのだ。
第3話
柊人が家に帰ってくると、目を真っ赤に腫らして泣いている私の姿が見えた。
彼は私を力いっぱい抱きしめ、その瞳にはいたわりの色が浮かんでいる。
「七瀬、ごめん。
あの時、親父が病気で亡くなって、俺はK市に戻って家を継ぐしかなかったんだ。君は出身が貧しすぎて、おふくろが結婚を許すはずがなかった」
私はこれ以上聞いていられず、泣きながら彼を突き放した。
「だから、他の人と結婚したの?柊人、この七年間の遠距離恋愛は何だったの?」
柊人は見下ろすように私を見つめ、その瞳はいつもの冷静さを取り戻した。
「七瀬、俺は岩月家の一人息子だ。果たさなきゃいけない責任がある。えみりとは家柄も釣り合ってるし、政略結婚は両家にとって最適な選択だった。
えみりも言ってた。君が大人しくしてるなら、見て見ぬふりをして、俺のそばにいてもいいって」
私は顔を上げて彼を見つめると、涙が頬を伝って落ちた。
柊人は身を屈め、指先で私の目尻の涙を拭った。
「七瀬、これだけ長く一緒にいたんだ。無下にはしない。K市に残りたいなら、俺の秘書として会社に入れるよう手配する」
私は彼の頬をひっぱたいた。呆然とする彼を後にして、スーツケースを引きながら足早に屋敷を飛び出した。
タクシーで去る途中、柊人から音声メッセージが届いた。
「七瀬、わがままを言うな。岩月グループには入りたくても入れない人間が山ほどいる。三日間やるから、よく考えろ」
続けて、彼から200万円の送金があった。
これまでは秘密を守るために、一度の送金額が二万円を超えなかったのに。今や、ためらうことなく200万円を送金した。
私は返信せず、お金をすべて突き返した。
アパートを借りて落ち着いた後、再びスマホを開いた。
ネット上で炎上している。
誰かが、岩月グループのビルの前で私がうろたえている動画をネットにアップしたのだ。
動画の中の私は、視線を泳がせてひどく無様な姿だ。
トレンドには、#岩月柊人が不倫・#泥棒猫が大胆にも会社に乗り込んできた、という言葉が並んでいる。
私が本物の恋人なのに、いつの間にか、世間から軽蔑される不倫女に仕立て上げられた。
私は意を決して、柊人とのこれまでの歩みと、チャット履歴をネットに投稿した。
その内容をよく見ると、私と柊人の交際が、彼とえみりの結婚よりもずっと前から始まっていたことは明らかだ。
世論は一変し、ネット上はクズ男への罵倒で溢れ返った。
柊人から何度も電話がかかってきたが、すべて拒否した。
数分後、えみりがSNSに結婚指輪の写真を投稿し、夫婦仲が円満だと投稿した。そして、私が売名のために自作自演をしていると非難したのだ。
岩月グループの広報チームも動き出し、私が投稿したチャット履歴は捏造だと断定し、名誉毀損で訴えると警告書を突きつけてきた。
ゴシップサイトなどはこぞってデマを流し、私を本妻に牙を剥く愛人だと罵った。
コメント欄は完全に荒れ果てた。
【不倫女の反撃失敗、おまけに弁護士から警告とか(笑)】
【やっぱり本当の妻は格が違うわ。一言でこの図々しい女を黙らせちゃうんだもん!】
【人の家庭を壊しておいて、売名までしようとするなんて、虫唾が走るわ!】
……
私のDMには罵詈雑言が溢れ、死ねという呪いの言葉まで届いた。
30分後、私の投稿は消され、アカウントは凍結された。
大物の勢力の前で、自分がいかに滑稽な存在かを初めて思い知らされた。
スマホの着信音が何度も鳴り響く。出ないでいると、相手はしつこくかけ続けてきた。
仕方なく、通話ボタンを押した。
かけてきたのは柊人ではなく、えみりだ。
「秋永さん」彼女の声には、嘲りの色が混じっている。「少し、話をしようか」
第4話
翌朝早く、えみりに呼び出されてカフェで会うことになった。
再会した彼女の瞳には、驚きの色が微塵もない。
「秋永さん。昨日会社で会ったとき、一目であなただと分かったわ」
私は言葉を失った。
彼女は淡々と説明を続けた。「柊人と結婚する前から、あなたの存在は知ってたの。この界隈の男には、みんな愛人がいるもの。柊人はまだマシな方よ、相手はあなた一人だけだったんだから」
私はすぐに言い返した。「私は愛人なんかじゃない!」
「あなたが何者かなんて、どうでもいいことよ」
えみりは冷ややかに笑みを浮かべ、そっとお腹に手を添えた。
「私はもう身籠ってるの。岩月家の跡継ぎができたんだもの、本来ならあなたなんて構うつもりはなかった。でも、あんな風に炎上させた以上、放っておくわけにはいかないわ」
彼女は私に秘密保持契約書と、金額が空欄の小切手を差し出した。
「この契約書にサインして、謝罪動画を撮ること。二日以内にK市から出て行ってちょうだい。金額は好きなだけ書けばいいわ」
私はそれらを突き返し、席を立とうとした。しかし、えみりの言葉に足を止められた。
「秋永さん、あなたはもうこの街では生きていけないわよ。気が変わったら、いつでも連絡して」
えみりの言葉通りだ。
午前中、履歴書を手に何社も回ったが、担当者たちは私の名前を見ると一様に首を振った。
断り文句は決まっている。「素行に問題がある方は、会社のイメージを損ないますので」
中には隠しきれずに私を嘲笑う者もいる。「不倫をやってた人間が、今さら仕事探し?またパトロンでも見つければいいじゃない」
面接を受けている私の姿がネットに晒され、柊人のアカウントまで送信する者も現れた。
直後に、柊人から電話がかかってきた。
「七瀬、いつまで恥をさらせば気が済むんだ?用意してやった仕事を拒んで、外で笑いものになるなんて……いい加減にしろ、分かったか?」
「柊人、あなたも私のことを不倫女だと思ってるの?」
K市の冷たい風が、刃物のように肌を刺し、痛みを感じさせた。
柊人は言葉を失い、長い沈黙が続いた。
「七瀬、俺は……」
彼の言い訳を聞くつもりはなく、私は電話を切った。
数分後、再びスマホが震えた。今度は、母の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「七瀬!あんたなんて娘を産んだ覚えはないわ!七年も愛人をしてたなんて!
お父さん、あんたのせいで心臓の発作を起こしたのよ!手術に1000万円もかかるっていうのに、うちにそんなお金、どこにあるの……」
パサッと、頭に雪の塊が強く当たった。
二人の子供が私を指差し、大声で叫んだ。「泥棒猫だ!泥棒猫を退治しろ!」
次々と雪の塊が投げつけられた。彼らは大笑いしながら走り去り、振り返ってあっかんべーをして見せた。
私は雪の上に膝をつき、涙がスマホの画面を濡らした。
震える手で、あの番号に電話をかけた。
受話器の向こうから、女の含み笑いが聞こえてきた。「あら、ずいぶん決断が早かったわね」
私は枯れた声で絞り出した。「……あなたの言う通りにするわ」
第5話
えみりは私をテレビ局に呼び出し、謝罪の生配信を行うよう仕向けた。秘密保持契約書にサインした後、私は十数台のカメラの前で、感情を抑えつつ原稿を読み上げた。
「皆さま、秋永七瀬と申します。この度は、世間をお騒がせした件につきまして、岩月柊人様、岩月えみり様に心より深くお詫び申し上げます……
チャット履歴はすべて、注目を集めるために私が捏造したものです……柊人様とは、ただの同級生に過ぎません」
配信の視聴者数は跳ね上がり、コメント欄は私を罵る言葉で埋め尽くされた。この街から出て行けという言葉が溢れている。
世論という目に見えない矢が、私の心を無数に貫き、気がついたときには心がボロボロになっていた。
配信が終わると、えみりは札束をいくつか取り出し、無造作に床へ投げ捨てた。
「手が滑っちゃった。悪いけど、自分で拾ってちょうだい」
一万円札が雪のようにひらひらと舞い落ちた。
「いい加減にして!」
詰め寄ろうとした瞬間、私はボディガードに取り押さえられた。
膝を蹴られ、痛みで床に這いつくばった。もがくうちに、頭を床に強く押し付けられた。
大勢の人が見守る中、えみりに無理やり土下座をさせられたのだ。
周囲に笑い声が響き渡り、再びカメラが私に向けられた。耳障りな笑い声が胸に突き刺さる。
えみりは私の髪を掴み、あざ笑った。
「秋永さん、お金を受け取ってさっさとこの街を去りなさい。二度と私に逆らおうなんて考えないことよ」
彼女は背を向け、柊人に電話をかけた。甘えるような声で話した。
「あなた、一件落着よ。早く褒めて!」
柊人の声は、相変わらず優しさに満ちている。
「お疲れ様、えみり」
私は床に這いつくばったまま、一枚一枚、地面に散らばった札を拾い集めた。これは、父の命を繋ぐためのお金だから。
人影がまばらになった頃、目の前に一足の黒い革靴が現れた。
「七瀬、そんなにお金に困ってるのか?床に這いつくばってまで拾うなんて」
柊人は私の手首を掴み、そのまま階下まで強引に引きずっていった。
そして、私にカードを投げつけた。
「お金が必要なら俺に言え。自分を安売りするような真似はするな」
柊人は自ら車を運転し、家まで送ってくれた。私の従順な態度に満足したのか、彼の声は少し柔らかくなった。
「七瀬、リバービューのマンションを買っておいた。明日には引っ越しなさい。
ほとぼりが冷めたら、会社に入れてやる。もう二度と離れ離れになることはない」
私は何も答えず、黙って手元の札束を数えている。
車を降りる際、柊人が突然私を抱き寄せ、額にキスをした。そして、哀れみを帯びた目で私を見つめた。
「七瀬、この七年間、辛い思いをさせたな。約束する、これからは君の望むものは何でも与えてやる。
今日のえみりの振る舞いは少し行き過ぎてたけれど、彼女は少し気性が荒いんだ。そこは我慢してくれ」
二時間後、私はスーツケースを引いて空港に着いた。
スマホに【岩月夫婦、チャリティー晩餐会に出席。理想の名門夫婦と称賛される】という見出しのニュースが流れてきた。
それに対し、私は相変わらずネット上で叩かれ続ける不倫女のままだ。
搭乗直前に、柊人から新しいマンションの住所が送られてきた。
私は迷わず返信した。【柊人、別れよう】
それだけ送った後、私はすぐに彼をブロックした。
余計な問い詰めも、取り乱した非難もいらない。ただ、この七年にわたる偽りの物語に幕を下ろしただけだ。
飛行機が離陸する時、私は窓の外に広がる街の灯りを見つめている。
あの輝く夜の街には、私の帰る場所なんて、もう存在しないのだ。