Đang tải thông tin quảng bá...
裏切り夫には、身代わりを用意した
クローン人形店を出ると、霧雨が降っていた。 小山恵美(こやま えみ)は帰り際に店員から言われたことを思い出す。 「小山さん、15日もすれば...
Chương (1)
第1章
クローン人形店を出ると、霧雨が降っていた。
小山恵美(こやま えみ)は帰り際に店員から言われたことを思い出す。
「小山さん、15日もすれば中央制御システムによる行動記録が完了し、身代わりの人形が自動で生成されます。
決まりで、身代わりの人形と同じ場所にいることはできません。ですから、この期間に必ずお引越しをお済ませください」
15日か……
第1話
クローン人形店を出ると、霧雨が降っていた。
小山恵美(こやま えみ)は帰り際に店員から言われたことを思い出す。
「小山さん、15日もすれば中央制御システムによる行動記録が完了し、身代わりの人形が自動で生成されます。
決まりで、身代わりの人形と同じ場所にいることはできません。ですから、この期間に必ずお引越しをお済ませください」
15日か……
恵美は、今のところ監視装置としか思えないそれを、そっとカバンにしまいながら考えた。
まあ、15日もあれば、この深津市での生活にけりをつけるには十分な時間だろう。
帰り道、スマホがひっきりなしに鳴っていた。着信もメッセージも、すべて同じ人物から……それは、小山海斗(こやま かいと)からだった。
一緒になってから10年間、結婚してからは7年になる夫。
用件はどれも同じ。結婚7周年目の記念日だから早く帰ってこい、プレゼントがある、というものだった。
恵美は適当に返事をすると、無表情でスマホをカバンに戻した。海斗が言うサプライズになんて、まったく興味が持てなかった。
二人の関係はもう終わりかけているのに、何を今さら期待するというのだろう?
重い足取りで家に帰ると、ドアを開けた途端、海斗に強く抱きしめられた。
「遅かったな。心配で、ちょうど迎えに行こうと思っていたところだったんだよ。
恵美、結婚7周年だな。プレゼントも用意してあるんだ。気に入ってくれると嬉しい」
恵美が返事をするより早く、海斗はまるで手品のように、手のひらから一つのネックレスを取り出した。
それはある国のもので、恵美も知っていた。
このお守りは、お金では買えない。外部には公開されていない、ある試練を乗り越えたものだけが、授けてもらえるという神秘の力が宿ったネックレスだった。
昔、誰かがあれを自分のために手に入れてくれたら、きっと感動して泣いてしまう、と冗談で話したこともあった。
だが……
そんなネックレスが、今になって海斗から送られるなんて。恵美は、ただただ滑稽にしか思えなかった。
しかし、海斗は彼女の気持ちの変化に気づくことなく、愛情に満ちた瞳でそのネックレスを恵美の首にかけた。そして、愛する恵美が一生幸せでいられますようにと、祈るようにつぶやく。
その言葉はとても真剣で、本当に恵美を心から大切に思ってくれているかのようだった。
しかし、恵美の目はごまかせない。鏡越しには、海斗のシャツの襟元に隠された、無数のキスマークが見えてしまっているのだ。
結婚記念日のために、わざわざ大変な思いをしてネックレスを手に入れてくれた一方で、その合間には、別の女とベッドでいちゃついていたなんて。
そう思った瞬間、吐き気がこみ上げてきた。とっくに冷え切っていた心も、完全に灰になる。
恵美は、表情を変えないまま海斗の手をそっと制した。
「いらない。好きじゃないから」
ネックレスも、そして目の前にいる海斗のことも、もう好きではなかった。
その言葉に、海斗は少し驚いて、どうしていいか分からないという顔をした。
海斗は恵美がそんな反応をするとは思ってもみなかったのだ。だが、恵美を責めることはせずに、ただ優しく笑いかけ、ダイニングテーブルへと促す。
「また別のプレゼントを改めて探しておくからな」
その食事は、まったく味がしなかった。
海斗は甲斐甲斐しく恵美のお皿に料理をよそってくれるが、彼のスマホは場違いなほど何度も光っていた。
困ったような顔をした海斗は、何度かためらった末に、とうとう画面を開いた。
すると、彼の喉仏がごくりと不自然に動いた。動揺したのか、手元のお皿までひっくり返してしまったのだ。
「ごめん、恵美。今日は大切な日だからずっと一緒にいたかったんだけど、会社で急用ができちゃったんだ。でも、食事はそのまま続けてて。すぐに戻ってくるから」
恵美は顔を上げて海斗を見つめ、黙ってうなずいた。
車のエンジン音が、まるで焦っているかのように庭から遠ざかっていくのを聞きながら、恵美は自分をあざ笑うかのように、ふっと声を漏らした。
海斗は自分に見えないように、絶妙な角度でメッセージを確認していた。
だが、海斗は気づいていない。彼の眼鏡のレンズが、スマホの画面を反射してしまうということを。
海斗が見ていたのは会社の連絡なんかではない。肌が露わになった女の自撮り写真だった。
恵美は鼻をすすり、海斗に関する記憶を頭から追い出そうとした。
しかし、スマホを開けば、嫌でも彼のニュースが目に飛び込んでくる――
【#小山グループ社長、愛する妻のため、極秘の試練を乗り越え神秘のネックレスを手に入れる】
こんな迷信的なものなんて信じない人だったはずなのに。コメント欄は称賛と羨望の声であふれていた。
【小山社長って、本当に奥さん思いだよね!確か、奥さんが心配するからって、自分の秘書には絶対に女性をつけないって言ってた気がする】
【前に、奥さんが交通事故に遭った時もすごかったらしいよ。小山社長は気が動転しちゃって、何日も寝ずに病室の前で泣きながら奥さんを待ってたんだって。
奥さんがもう子供を産めない体になったって分かっても、文句ひとつ言わずに『お前が生きてさえいてくれれば、それでいい』って。はあ……お金持ちでイケメンで一途なんて、奥さんは前世で国でも救ったのかな?私もこんな恋がしたい……】
恵美は黙ったまま、コメントに引き込まれるように記憶の底へと沈んでいった。
あの時の、海斗の泣きはらした目も、心から心配して怯えていた表情も、全部はっきりと覚えている。
しかし、鮮明に思い出すほど、胸が締め付けられて苦しくなる。
愛に何の意味があるというのだろう?
自分に「世界で一番愛してる」と言ってくれた人でさえ、結局は裏切って、他の女のベッドへ行くのだから……
第2話
その夜、恵美は海斗を待たずに、先にシャワーを浴びて寝てしまった。
次の日の朝、隣のシーツが少し乱れているのに気づいた。スマホにもメッセージが届いている。
【家に書類を忘れちゃったんだ。起きたらでいいから、会社まで持ってきてもらえるかな?】
恵美はそれを読むと、無表情で【わかった】とだけ返信した。身支度を済ませ、言われたものを持って家を出る。
恵美は海斗の会社にあまり顔を出さない。だが、長く勤めている社員はだいたい恵美のことを知っていたから、誰も彼女の出入りを咎めたりはしない。
恵美は書類を抱えて、海斗のオフィスがあるフロアへ向かった。エレベーターを降りると、社員たちが一人の女性を囲んで騒いでいるのが目に入った。
海斗に新しいお気に入りの女がいる、という噂は恵美の耳にも入っていたが、実際にその女に会うのは初めてだった。
今日、ようやくその女を目の前にして、恵美は驚いた。その顔には、見覚えがありすぎる――
なぜなら、目の前にいる女は、20歳の頃の自分にそっくりだったから。
「胡桃さん、彼氏がお金持ちだって自慢してたのに、なんでここで働いてるの?もしかして、嘘だったとか?」
「嘘なわけないでしょ!この服もバッグも全部彼氏が買ってくれたんだから!この時計なんて、4000万円もするんだよ?彼がどれだけ私を大事にしてくれてるかなんて、どうせあなたたちには分からないんだから!」
森田胡桃(もりた くるみ)はカッとなり、唇をとがらせて必死に言い返していた。だが、反対に「どうせ全部偽物でしょ」と笑われる始末だった。
まだ学生気分が抜けない、世間知らずな女の子。恵美は冷静になると、相手の服装をじっくりと観察した。確かに全身ブランド品だった。
これだけ気前よくお金を使って、会社にまで置いておくなんて、海斗はよっぽどこの女のことが好きなんだろう。
恵美は、目の奥がツンとするのを感じた。書類を誰かに預けて帰ろうとした、その時だ。向こうから、また大きな声が聞こえてきた。
自分が嘘つきではないと証明するため、胡桃は皆が見守る中、得意げにネックレスを取り出した。
「見た?これはあの噂の神秘のネックレス。偽物なんかじゃないから。彼氏がわざわざ私のために、国を超えてまで手に入れに行ってくれたの。彼は、私が喜ぶなら、なんだってしてくれるんだから」
彼女の首につけられたネックレスを見た瞬間、恵美は全身の血の気が引くのを感じた。
全く同じ模様に、全く同じ素材。まるで海斗の愛情が、そっくりそのまま2つに分けられて、別々の人間に贈られたみたいだ。
さっきまで疑いの目を向けていた人たちも、これには思わず顔を見合わせた。
「こんな高いプレゼントを気前よくくれるなんて。うちの社長以外で、そんな羽振りのいい人、初めて見たかも」
「社長みたいに、一途で素敵な人が他にもいたなんてね。うらやましいな……ねえ、胡桃さん!彼氏がそんなにすごい人なら、今度私たちにも会わせてよ」
その後の会話は、もう恵美の耳には届かなかった。恵美は一番近くにいた社員に書類を押し付けると、急いで会社を後にした。
あの場所も、そこにいる人間たちも、一秒でもあの会社の空気を吸うことすら耐えられなかった。
第3話
しかし、恵美が会社を出たとたん、海斗が追いかけてきた。
彼は焦った声で、どうして顔も見せずに帰ろうとするんだと聞いてきた。まるで、1日会えなかったのが、すごく寂しかったとでも言うように。
恵美は冷めた目で海斗を見上げる。「別に。忙しそうだったから、邪魔しちゃ悪いと思って」
「仕事なんて、お前より大事なわけないだろ?さっき、午後の会議は全部キャンセルしてきたんだ。今日は一日中、お前と一緒に過ごすって決めたからな。
そうだ。昨日のプレゼント、気に入らなかったんだろ?代わりに新しいアクセサリーを予約しておいたから、今から見に行こうよ」
プレゼントと聞いて、恵美の胸にまた鈍い痛みが走った。あの、全く同じネックレスのことを思い出してしまう。
恵美は気持ちが乗らなかったのだが、断る前に、海斗によって車に乗せられてしまった。
車は慣れた道順で路地に入り、一軒のジュエリーショップの前に停まった。
店員は海斗の顔を見るなり、待ってましたとばかりに金庫からアクセサリー一式を取り出す。
1億8000万円の値札がついたネックレスが、海斗の合図で恵美の首にかけられた。
「小山社長は本当にお目が高いですね!こちらは今年の最新作でして、一点物のデザインなので、誰とも被ることがない、世界でたった一つのものなんです」
海斗はアクセサリーに詳しくなかったが、「世界でたった一つ」という言葉に、ぱっと顔を輝かせた。
「恵美、これにしよう。お前が俺にとって、永遠にかけがえのないたった一人の存在だってことを、みんなに知らしめたいんだ。お前は、最高のものを持たなくっちゃ!」
海斗の突然の告白に、周りの店員たちはうっとりとため息をついた。結婚して何年も経つのに、こんなに熱々だなんて、と羨ましがっている。
恵美は目を伏せ、自分の首にゆっくりとつけられていくネックレスを見つめながら、「うん」とだけ答えた。
「なんでもいい。あなたが決めて」
どうせこんなもの、最後には全部彼に返すんだから。
昔の海斗なら、恵美のちょっとした変化にもすぐに気づいたはずだ。
だが今の彼は、繰り返し光るスマホの画面に気を取られている。
ちらっと見えただけだったが、恵美はそこに表示された名前を見逃さなかった。
胡桃からだ。
「恵美……ごめん。会社から連絡があって。契約のことで急ぎらしいんだ。ちょっと席を外すよ」
海斗は気まずそうな顔をしていたが、スマホの画面は無意識の中で隠されていた。
恵美は何も言わず、海斗の行動を見つめていた。彼がわざとらしく仕事の話を二言三言口にした後、店の隅っこに移動しても、ただ黙って見ていた。
海斗は確かに慎重だった。だが、彼は忘れている。昔は、恵美の前で何かを隠したり、コソコソしたりすることなんて全くなかったということを。
「本当に幸せ者ですねえ。たしか先日も、小山社長は指輪をオーダーメイドされたばかりなのに、また新しいジュエリーなんて。私たち、羨ましくて仕方がないですよ!
アクセサリーはお包みしました。お届け先は、前回と同じご住所でよろしかったでしょうか?」
店員はにこやかに近づいてきた。しかし、恵美が不思議そうな顔をしているのを見て、ハッとした。
「指輪……ですか?」
場の空気が一瞬で凍りついた。別の店員がすぐさま割って入ってきて、笑顔で失言した店員をその場から引き離す。
「たくさんのお客さんがいらっしゃるものですから、うっかり他の方と勘違いしてしまったようです。大変申し訳ありませんでした。こちらにお届け先をご記入いただけますか?」
海斗が浮気をしていることは知っていた。それでも、恵美は伝票にサインをする手の震えを、どうしても抑えることはできなかった。
まさか、あの二人がもう、そんな段階まで進んでいたなんて。
じゃあ、かつて指輪に込めた結婚の誓いは、一体なんだったのだろう?なんだか、笑えてくる。
恵美が黙って伝票を書き終えると、二人の店員は品物の準備を口実に、すぐにカウンターの後ろへと引っ込んでしまった。
話し声は小さかったが、恵美の耳に入るには、十分な大きさだった。
「もう!何余計なこと言ってるのよ!」
「だって、ニュースで見る小山社長はすごく一途な人だったから……まさか、そんなことがあるなんて……」
「はぁ」
もう一人の店員は、そんなゴタゴタは見慣れているとでもいうように、あっさりと言った。
「あんなお金持ちで地位もある男の人が、外に愛人の一人や二人囲ってるなんて、当たり前のことでしょ?あなたももう大人なんだから、そんなおとぎ話みたいなこと、信じるのはやめなよね」
確かにそうだ。もういい大人なのに、どうして、まだお伽話など信じていたのだろう。
第4話
恵美は店の入り口のところで、海斗の電話が終わるのを待っていた。
店員から向けられる哀れみや好奇の視線に、恵美は耐えられず、その場から逃げるようにして外に出てきたのだった。
ドアの外に出てきた恵美に気づくと、海斗は慌てて電話を切った。そして、何事もなかったように恵美の手を握る。
海斗がこの後のデートプランについて恵美に話していると、タイミング悪く、またスマホが鳴り響いた。
「恵美、俺……」
「出たら?仕事は大事でしょ」
許しを得た海斗はすぐに電話に出ると、容赦なく怒鳴った。
「いい加減にしてくれ!今、妻と一緒にいるんだよ。それに、今日は仕事しないって言ったはず……」
しかし、彼の言葉は突然止まった。
海斗が隠そうとしても、恵美の耳には、電話の向こうからの細い泣き声が届いていた。
胡桃が甘えた声で泣きながら、お腹がとても痛いから助けに来てほしい、と海斗に訴えていたのだ。
結末は、考えるまでもないだろう。
案の定、電話を切った海斗は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「恵美、会社の方が……」
「言わなくていいよ。急ぎの用なら行けば?」
海斗は恵美の冷たい口調に、彼女が不機嫌なのだと気づいた。
しかし、さっきの電話での胡桃はあまりにも辛そうに泣いていた。だから、彼女を一人にしておくなんて、とてもできなかった。
終わったら、ちゃんと恵美に謝ろう。海斗はそう決めた。
彼が知る限り、恵美はいつだってすぐに機嫌を直してくれるのだから。
恵美は、海斗の車が走り去るのを見送ると、黙ってタクシーを停めた。
「運転手さん、前の車を追ってください」
二台の車はずっと一定の距離を保っていた。しかし、これが会社へ向かう道ではないことなど、とっくに恵美には分かっていた。
海斗の車は何度か角を曲がり、ある邸宅の前で停まった。海斗がドアを開けるより早く、胡桃が海斗の胸に飛び込んできた。
「やっと来てくれた!会いたかったよ……」
「騒ぐな。お腹が痛いんじゃなかったのか?どう見ても元気そうだけど?俺をだましたんだな?」
海斗は眉をひそめながらも、胡桃の体をあちこち確かめるように触った。
胡桃が無事だと分かると、彼は帰ろうとした。しかし、胡桃は海斗の腰に抱きつき、彼を引き留める。
「せっかく来たのに帰っちゃうの?ねえねえ、どうして私がこんなに急いであなたを呼んだのか……知りたくない?」
胡桃はわざと語尾を伸ばし、妖艶な笑みを浮かべた。二人はまだ玄関先にいるというのに、彼女はバスローブをはだけさせて、中に着ていたセクシーな下着を見せつける。
海斗は息を呑み、胡桃をためらうことなく横抱きにした。
寝室まで待てなかったらしい。彼は玄関のドアを適当に閉めると、すぐに胡桃と深く口づけを交わした。
そして恵美は車の中で、そのすべてを無言のまま見つめていた。
自分はもう何が起きても平気だと思っていた。
それなのに、海斗の不倫を目の当たりにしたら、やはり手の震えが止まらなかった。
周りの音が何も聞こえなくなる。恵美は静かに全てを見届け、玄関のドアが再び固く閉ざされるのを確認してから、運転手に声をかけた。
「運転手さん、行きましょう」
第5話
家に帰ると、恵美はカバンの中から静かに中央制御システムを取り出した。
このシステムは、これから15日間の彼女の言動を記録して、その後のシミュレーションに使うものだった。
しかし、具体的な容姿や好み、それに記憶までを伝えるには、何か一つを犠牲にしなくてはいけない。
恵美は目に涙をためながら、10年近くの思い出がつまったアルバムを見つめた。唇の震えが止まらない。
アルバムの一番新しいページには、彼女の誕生日に撮った二人の写真があった。
その日、恵美は車の後部座席で、使用済みのコンドームの包装を見つけたのだった。
自分を一番愛していると言っていた男が、まさか自分の誕生日ケーキを取りに行く途中で、他の女と束の間の快楽にふけっていたなんて。
しかも、他の女とキスをしたその口で、自分に「愛してる」などと囁くのだ。
本当に……気持ち悪い。
「ご主人様、アルバム状のアイテムをスキャンしました。ただちにデータを生成します」
機械が蛍光色の光を放ちながらスキャンする。恵美は、ロード中のバーが少しずつ満タンになるのを無表情で見つめていた。淡い光が、彼女の冷めた横顔を映し出す。
二人のすべての過去が詰まったアルバムが、いとも簡単に消え去っていく。
最後のデータが生成されたその時、玄関のドアが開く音がした。「恵美、ただいま」
後ろから聞こえてきたのは海斗の声。足取りは軽く、彼自身も気づいていないような楽しげな響きが感じられる。
「遅くなっちゃって、ごめん。急な仕事で残業しなくちゃならなくて。待った?」
会社の残業?本当に会社で残業してたのか、それとも、胡桃の上で「残業」してたのかは知らないが。
海斗の首筋に残るキスマークから目をそらすのに必死だった恵美は、何だか笑えてきた。
「別に。もう遅いから、早く休んだら?」
恵美のそっけない態度に、海斗はかすかな不安を覚える。
海斗は恵美のそばに寄り、肩を抱こうと手を伸ばしたが、恵美にそっと身をかわされた。
「恵美、約束を破ってごめん。お詫びと言っては何だけど、明日お前が一番好きなレストランに行かない?
ちょうど明日、拓也が海外から帰ってくるんだ。一緒に食事会でもしようよ」
「拓也?」
恵美は少し考えて、その名前を思い出した。
しかし海斗は恵美に断る隙を与えず、あの手この手で承諾させると、翌日には彼女を連れて食事会に向かった。
幸い、知っている顔ぶればかりだったから、気まずさはそれほどでもなかった。
談笑の途中、河内拓也(かわうち たくや)が恵美に目を向ける。
「恵美さんは相変わらずお綺麗ですね。それに、二人は本当に仲が良くて、海外のニュースでもよく見かけましたよ。まさに憧れの夫婦です」
「当たり前だろ?俺が恵美を口説くのにどれだけ苦労したか忘れたのか?3年間もアタックして、やっと承諾してもらったんだから、大切にしないわけがないだろ?」
海斗は、機嫌をとるように恵美に微笑みかけた。その甘い視線に、拓也は大げさに声を上げる。
「おいおい、独り身の気持ちを少しは考えてくれよ。ちょっとは控えてくれって」
拓也だけでなく、すべてを知っていながら芝居に付き合うのは、恵美にとってもひどく苦痛だった。
海斗の視線も、彼が口にする愛の言葉も、一秒でも長く聞けば、馬鹿らしくて笑ってしまいそうだった。
恵美はこの雰囲気に耐えきれず、トイレを口実にそそくさとその場を離れた。
海斗は心配そうに彼女の後ろ姿を見送り、その姿がドアの向こうに消えるまで、視線を外さなかった。
恵美が部屋を出ると、拓也はすぐに身を乗り出し、声を潜めて尋ねた。「恵美さんには、バレてないんだよな?」
海斗はドキッとして、無意識にドアに目をやった。誰もいないことを確かめてから、小声で答える。「ああ、彼女は何も知らない」
その言葉に拓也は頷き、からかうような口調で言った。
「お前もやるよな。わざわざ俺を海外から呼び戻して何かと思えば、まさか愛人の妊娠準備を手伝わせるなんてさ。もし恵美さんに知られたらどうなるか、考えたことあるのか?」
海斗は黙り込み、拓也のそばにあったタバコの箱に手を伸ばしかけた。しかし、恵美がタバコの匂いを嫌うことを思い出し、すぐに手を引っ込める。
「考えたさ。だからこそ、恵美に知られるわけにはいかない。お前を呼び戻したのも、そのためだろ?
俺が病院に連れて行けば、必ず噂が広まる。だからお前に頼むしかなかったんだ」
拓也は海斗の表情が硬いことに気づき、ふざけるのをやめて真剣な顔で尋ねた。
「じゃあ、恵美さんに……気持ちはもうないのか?」
「ないわけないだろ?恵美は俺の命よりも大切な女性だ。愛してるよ。誰よりも深く、な。
胡桃は……まあ、事故みたいなもんだ。あいつ、恵美にそっくりなんだよ。最初は別にどうこうするつもりはなかった。でも、一緒にいるうちに、まるで初めて会った頃の、20歳の恵美みたいに思えてきてな。
俺はただ、恵美との子供がどんな顔か見てみたいだけなんだ。だから、胡桃が子供を産んだら、手切れ金を渡して海外に送り出す。そして、その子と恵美と三人で、穏やかに暮らすつもりだよ」
もっともらしいことを言う海斗に、拓也は眉をひそめ、核心を突いた。
「本当にそんなにうまくいくのか?最後に情が移って、手放せなくならなきゃいいけどな」
海斗は黙り込んだ。彼の心は、もうどこか遠くへ飛んでしまっているようだった。
海斗は胡桃のことを思い出していた。若かった頃の恵美と瓜二つのあの顔を思い浮かべると、胸の中がざわつく。
一番愛しているのは間違いなく恵美のはずなのに、どうしても、胡桃の存在に抗えない自分がいた。
海斗は眉間をもみ、深いため息をつく。
「全部うまくやるさ。拓也、お前も知ってるだろうけど、俺は恵美との子供が、どうしても欲しいんだ。でも、彼女はもう産めない体なんだよ」
夜風が廊下を吹き抜ける。恵美の手はドアノブにかかったまま。最後に聞こえたのは、海斗の残念そうなあの言葉だった。
恵美は個室のドアの外に立ち尽くす。いつの間にか目には涙が溢れていた。
第6話
恵美は、ある交通事故が原因で、生涯子供を産めない体になってしまった。それは深津市の誰もが知っていることだった。
そのつらい知らせを聞かされたときのことは、今でも覚えている。辛すぎて、1週間一言も話さなかったし、病室に閉じこもって、あらゆるものに反応を示さなくなった。
そんな恵美のそばにずっといてくれたのが、海斗だった。彼は、固く握りしめられた恵美の指を一本ずつ、優しくほどいて、自分の指と絡ませた。
「恵美、俺を見て。子供なら、養子をもらうことだってできる。方法はいくらでもあるんだ。でも、俺にはお前しかいない。お願いだから、そんな顔をしないでくれ。
約束する。お前が子供を産めなくたって、俺は気にしない。何があっても、俺はずっとお前のそばにいる。だから、もう何も考えずに、俺のそばにいてくれるだけでいいんだよ」
海斗の力強い誓いの言葉は、何年経った今でも、恵美の耳に焼き付いて離れない。
それなのに、そう誓った当の本人が、今では他の女を作り、それだけではなく、裏ではその女と子供まで作ろうとしていたのだ。
恵美は心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けた。ドアを開けて中に入る勇気すら、一瞬で消え失せてしまった。
彼女はそのまま踵を返し、家に着いてから、海斗に、【具合が悪くなった】とだけメッセージを送った。
それから間もなく、玄関のドアが開く音がして、バタバタと駆け込んできた海斗は、恵美を力強く抱きしめた。
「どうした?具合が悪いなら、なんでさっき言ってくれなかったんだよ。さあ、服を着て。病院に連れてってあげるから」
海斗の焦った様子は、とても演技とは思えなかった。しかし、恵美はずっと黙ったまま、何も答えようとしない。
「どうしたんだ、恵美……」
海斗は恵美を見つめながら、胸のざわつきを覚えた。
最近の彼女は、いつもこうだった。何を考えているのか分からないほど静かで、海斗は少し後ろめたい気持ちにさえなった。
海斗はもう一度、自分の行動を振り返った。すべて完璧に処理したはずで、恵美にバレているわけがない。そう確信すると、彼は屈んで恵美と視線を合わせた。
「いい子だから。一緒に病院へ行こう、な?」
海斗の強引な態度に、恵美は逆らうことができず、彼に車へと連れて行かれた。
しかし、体調不良というのは嘘だったので、検査をしても何も異常は見つからなかった。
結局、医師からは点滴を一本処方され、あとはあまり思いつめないようにと言われただけだった。
病室では、人肌に温められた点滴が、管を通って恵美の全身にゆっくりと流れていく。
海斗が点滴のチューブをずっと手で温めていたのだ。そして、恵美の布団を優しくかけ直す。
「ここ数日、あまり喋らないけど、何を考えてるの?家にずっといて、退屈になったとか?仕事が片付いたら、今度どこかへ出かけようか?」
その言葉に、恵美ははっと我に返り、首を横に振った。
「友達のことを思い出していたの。彼女の夫が浮気してるかもしれない、って言ってたから。あの二人、すごく仲が良くて、みんなが羨むような夫婦だったのに。まさか、こんな結末になるなんて、なんだか切ないなって思ってさ」
恵美はそう言って一度言葉を切ると、複雑な表情で海斗を見上げる。
「あなたは……そんなことしないよね?」
点滴のチューブを握っていた手に、無意識に力が入る。海斗は笑顔で恵美の額にキスをした。
「当たり前だろ?俺は永遠にお前だけを愛してるんだから」
第7話
夜も深くなった頃、カーテンの隙間から差し込む月明かりが、二人を静かに照らしていた。
恵美は、ベッドの脇でうたた寝している海斗を一瞥し、それから静かに彼のスマホへと視線を移す。
待ち受けに表示される「新着メッセージがあります」の通知。きっと、胡桃はまだ海斗の返事を待っているのだろう。
恵美は息を深く吸い込むと、手を伸ばして彼のスマホを取った。
海斗は恵美をまったく疑っていなかった。スマホのロックは、彼女の誕生日でずっと変わっていない。
恵美も海斗を信じきっていたから、一緒になってから10年以上、彼のスマホを一度も見たことがなかった。
今日が初めてで、そしてきっと、これが最後になるだろう。
仕事関係の通知が並ぶ中、胡桃のアカウントが、自分と同じように一番上にピン留めされていた。
10件ほどの未読メッセージに、何度か着信履歴も混じっている。最後のメッセージは10分前だった。【海斗さん、今夜はうさぎさん食べちゃう?】
そのすぐ下には、露出の多い服を着て、ウサ耳をつけた胡桃の自撮り写真があった。
恵美は黙ってスクロールして、過去のやり取りも読んでいく。
あからさまな愛の言葉のやり取り、頻繁なデートの約束……その一文字一文字がナイフのように、彼女の心を深くえぐった。
恵美が二人の面会の約束と自分のスケジュールを照らし合わせてみると、これまで海斗が言っていた大事な用事は、すべて胡桃と会うための口実だったことがわかった。
「会社で会議だ」と海斗が言っていた時、二人はホテルで体を重ねていた。
「大事な接待なんだ」と海斗が言っていた時も、胡桃と禁断の果実を貪っていた。
自分が寝た後でさえ、海斗はこっそり家を抜け出し、胡桃の家へ通っていた夜もあった。
そのどれもが、二人の女の間をこの男がうまく立ち回っていた証拠だった。
恵美はずっとスクロールを続けていたが、胡桃が海斗に離婚を促している内容が目に留まり、指をわずかに止めた。
【海斗さん、いつになったら私たちは堂々と一緒になれるの?奥さんと離婚してよ、お願い。私のこと、やめられないくらい好きだって言ってくれたでしょ?】
それに対して、海斗はずいぶん経ってから返信していた。
【それは無理だ。お前と会っているのは恵美に似ているからだ。それに、最初から体だけの関係だって約束したはずだろ?余計なことは考えるな。
俺の妻は恵美で、人生で一番大切な人なんだ。彼女と別れるつもりはないから】
恵美の唇は乾いていた。浮気はしても、海斗の心にはまだ自分がいることを喜ぶべきなのか。
それとも、愛人まで自分とそっくりな顔の女を選ぶ男に呆れるべきなのか……
だが、どちらでもなかった。今、恵美が感じているのはただの吐き気だけだった。
こみ上げてくる吐き気を必死にこらえながら、彼女はスマホをベッドサイドに置いた。
恵美がスマホを置く音で海斗が目を覚ます。彼は目をこすりながら、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、恵美。具合、少しは良くなった?ここ数日疲れててさ、つい寝ちゃったよ。
あ、点滴、もうすぐ終わるな。待ってて、看護師さん呼んでくるから」
海斗は恵美の返事を待たずに、スマホを持って部屋を出ていった。
戻ってきた時、海斗は看護師の後ろから付いてきた。しかし、その目元や口元からは、隠しきれない興奮が漏れている――
彼はメッセージを読んだのだろう。
「恵美、会社から急ぎの用事で呼び出しがあったんだ。今すぐ戻らないといけなくて……
先生にも聞いたけど、お前はもう大丈夫だって。だから、先に家まで送るよ。それでいいかな?」
恵美はもう海斗とやり取りする気力もなく、バッグを持つとさっさと病室を出た。
「私のことはいいから。あなたは会社に直接行ったら?私は一人で帰るよ。
それと、最近よく眠れないの。だから遅くなるようなら、帰ってこなくてもいいよ。物音で起こされたくないから」
恵美の言葉は冷たかった。もし以前の海斗なら、すぐに彼女の異変に気づいたはず。
だが今の海斗は、これから胡桃と過ごす刺激的な時間に心を奪われていたし、すべてがうまくいっているとさえ思っていたので、何も考えずに答えた。
「わかった。じゃあ、今夜は一人で寝てもらうことになるから、寂しくなったら、電話してこいよ」
恵美は心の中で笑った。
電話してこい?あなたたちがどんなに熱い夜を過ごすのか、実況中継でも聞けってこと?
第8話
恵美は海斗とそれ以上話すのはやめて、まっすぐ家に帰った。
中央制御システムは相変わらず淡い光を放っている。今回、恵美は全てのトーク履歴を使って、人形の性格を作り出すことにした。
恵美はソファーに座ったまま、ぼんやりと履歴データが消えていくのを見ていた。その中には、拓也が自信たっぷりに送ってきた言葉もある。
【恵美さん、心配しなくても大丈夫ですよ。もし二人がケンカしても、俺は絶対にあなたの味方ですからね!】
なんて皮肉なんだろう。
突然スマホが鳴った。海斗からだった。
「恵美、明日から江原市に出張になった。急に決まったんだけど、3日くらいかかると思う。それにお前は体調が良くないだろ?無理させたくないから、今回は留守番しててくれないかな?家でゆっくりしてて」
海斗の声はいつものように優しかった。でも恵美にははっきりと聞こえた。電話の向こうから聞こえる、女の甘えた声が。
やっぱり、海斗は胡桃と一緒にいるようだ。
恵美はうつむいた。ラインの履歴が、海斗からの最後の【愛してる】というメッセージで一瞬止まり、そして跡形もなく消えていく。
うなずき、小さな声で、「わかった」とだけ答えた。
翌朝、朝早くに帰ってきた海斗は、急いで荷造りを済ませると早足で、家を出て行った。しかし、皮肉なことにも、出かける前のおはようのキスは忘れていなかった。
ドアが閉まる音を聞きながら、恵美は顔に残った彼の感触を嫌悪感と共に拭い去った。そして、自分の計画を実行に移す準備を始める。
だが、世間は狭いものだ。海斗が胡桃と一緒にいることは分かっていたが、まさか二人に鉢合わせするなんてことは思ってもみなかった。
江原大学の校門の前。水色のワンピースを着た胡桃が、長い髪を風に優しくなびかせていた。その笑顔は、目に刺さるほど明るい。
彼女は海斗の腕にしっかりと絡みついて、大学での出来事を楽しそうに話していた。
一方の海斗は、胡桃を愛おしそうに見つめながら、その話を熱心に聞いている。
恵美は別に二人を尾行していたわけではない。彼女も江原大学の卒業生で、今日は卒業証明書を再発行してもらいに来ていただけだった。人形にそれが必要だったから。
それなのに、運悪く、海斗が胡桃と一緒に大学に来ているところに出くわしてしまったのだ。
恵美は遠くから二人を見ていた。一緒に食事をして、キャンパスを散歩して。そして、桜の木の下では、胡桃がはにかみながら海斗にキスをした。彼は避けもせず、むしろそれに応えていた。
その光景はあまりに絵になっていて、まるで彼ら二人こそが本当の恋人同士みたいだった。
そう思った途端、恵美は思わず乾いた笑いを漏らした。
恋人同士みたい?違う。あの二人は、とっくの昔から恋人同士だったのだ。
恵美は馬鹿馬鹿しくなって、車のエンジンをかけて帰ろうとした。しかし、そのタイミングでスマホが鳴った。
また海斗からだった。
「恵美、ホテルに着いたよ。これから会議なんだ」海斗の声は少し疲れているようだった。「別に用事はないんだけど、さっき江原大学のそばを通ったら、ふとお前を思い出しちゃってさ」
すぐそこでアイスクリームを買っている二人を見ながら、恵美は喉が締め付けられるのを感じた。「そう?」
「ああ。恵美が初めてうちに来てくれた日のことを思い出したんだ。白いワンピースを着て、自己紹介した後に、『先生』って呼んでほしいって言ったよね」
海斗の声は笑いを含んでいたけれど、最後はふっと息を漏らした。
「でも一番残念なのは、俺が4歳年下なこと。だから、恵美の一番輝いてる大学時代を、一緒に過ごせなかった。その頃の恵美と一緒に過ごしてみたかったよ」
恵美はスマホを耳に当てたまま、無表情に目の前の光景を見ていた。胡桃がアイスを海斗の口元に持っていく。彼はそれを当たり前のように一口食べる。その瞬間、何もかもがどうでもよくなった。
どうして、他の女の隣にいながら、電話の向こうの妻に、会いたいなんて言えるのだろうか?
「恵美?聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」恵美は、声を震わせないよう必死だった。「ごめん、ちょっと今忙しいの。またあとでね」
相手の返事も待たずに電話を切ると、恵美は急いで車を走らせて家に戻った。
データの入力を急がなければ。一日でも早く海斗のそばから離れたかった。
第9話
海斗がいない間に、恵美は残りの必要なデータを、一つずつ中央制御システムにアップロードしていった。
海斗が胡桃をジュエリーフェアに連れて行ったとき、恵美は彼にあげたプレゼントをすべて処分した。
海斗が胡桃と一緒に買い物へ出かけたとき、恵美は一番お気に入りだったウェディングドレスをズタズタに引き裂いた。
海斗と胡桃が熱いキスを交わしているとき、恵美は一人で黙々とデータを調整していた。この人形が、もっと自分に似るように。少しでも、自分自身になるように。
もちろん、黙ってすべてを捨てて逃げ出したいと考えたこともあった。だが、恵美は海斗という人間をよく理解していた。
たとえ彼に好きな人ができても、自分に対する執着だけは消えないだろう。何も言わずに消えれば、海斗の独占欲を刺激するだけ。きっと周りの人たちを巻き込んで、とんでもない騒ぎになる。
だから、もう一人の「自分」を作って海斗のそばに置いておくしかないのだ。そうして初めて、本当に自由になれる。
幸い、もうすぐすべてが終わる。最後に顔のデータをアップロードすれば、完全に解放されるのだ。
恵美は久しぶりにぐっすりと眠った。翌朝目を覚ますと、ベッドの隣に誰かが寝た気配が残っていた。どうやら海斗が帰ってきていたらしい。
スマホにも彼からメッセージが届いていた。3日間も会えなかったお詫びに、お昼を一緒に食べようという誘いだった。
恵美は少し考えて、【わかった】と一言だけ返した。
正午、恵美は海斗が勤める会社のビルの前に立っていた。ガラス張りの高層ビルを見上げる。
太陽の光が眩しくて、思わず目を細めた。そして無意識に、何もない首筋に手をやる。そこには、サファイアのペンダントを下げているはずだった。
あれは母親が亡くなる直前にくれた形見で、恵美の安全を守ってくれると言って渡されたものだった。
昨日、荷物を整理していてふと思い出したのだが、まだ二人が愛し合っていた頃、自分はあのお守りを海斗に渡してしまったのだ。
もうここを去るつもりだから、母親の形見をあの男の元に残しておくわけにはいかない。それを取り返すことが、今日、恵美が海斗に会いに来た本当の理由だった。
エレベーターのドアが開く。一歩踏み出した恵美は、すぐそこに立っていた胡桃と鉢合わせた。
すると胡桃は、さっと横を向き、隣にいた同僚とひそひそ話を始めた。
大きな声ではなかったが、恵美の耳に届くには十分だった。
「私が彼女に似てるって言ったのどこの誰?こんなおばさんと全然似てないでしょ?」
「え、すごく似てるよ?瓜二つって言ってもいいくらい。それに社長の奥さんって、まだ30歳だった気がするけど」と、同僚は答えた。
「30歳にもなったらもうおばさんでしょ?」胡桃は猫なで声で言った。「だって、あの服装見てよ。おばさんじゃん。社長ほど素敵な人が、なんでこんな女を選んだんだろうね。
社長にはもっと若くて綺麗で、元気な人がお似合いなのにさ」
胡桃の無遠慮な言葉に、周りの同僚たちは肝を冷やしていた。いますぐにでも彼女の口を塞いでしまいたかった。
「ちょっと黙って!奥さんのことになると、社長は人が変わるってみんな知ってるでしょ?そんなこと言って、社長に怒られても知らないからね」
その言葉を聞くと、胡桃は勝ち誇ったように顎をあげ、挑発するような視線を恵美に向けた。
「ふん。こんなおばさんのために私を叱るわけないでしょ」
「誰がおばさんだって?」
恵美はこんなくだらない陰口、気にしてなんかいなかった。しかし、響き渡った一つの声に、フロアは一瞬で静まり返る。
恵美が振り返ると、廊下の向こうに海斗が立っていたのだ。その顔は、恐ろしいほど険しい。
「仕事がそんなに暇なのか?俺の妻の悪口を言うなんて、いい度胸だな。
恵美は俺の妻だ。彼女に対するいかなる無礼も俺は許さない。お前とて例外じゃないからな」
そう言い放つと、彼は足早に恵美のもとへ駆け寄り、その肩を抱きしめて優しく囁いた。
「気にするな。ただの秘書だ。あんなのと張り合う必要はない」
海斗が、胡桃にここまで厳しい言葉を投げかけたことは、今まで一度もなかったのだろう。
あるいは、こんな大勢の前で自分が、「ただの秘書」だなんて言われるとは、夢にも思ってなかったのかもしれない。
胡桃の顔からさっと血の気が引く。彼女は唇をきつく噛みしめると、泣きながらその場から走り去っていった。
しかし、海斗の心配そうな視線が、廊下の角に消える胡桃を追いかけていたことに、恵美は気づいていた。ゆっくりと自分に戻ってきたその視線を見て、なんだか滑稽に思えてきた。
馬鹿みたい。この男はいったい誰のために、こんな安っぽい芝居を打っているのだろう。
恵美は表情一つ変えずに海斗の腕からすり抜けると、慣れた手つきでデスクの引き出しからアクセサリーケースを取り出す。
「安心して。気にしてないから。
このサファイアのペンダント、返してもらうね。チェーンが古くなったから、新しいものに替えようと思って。
それと、お昼はエステを予約しちゃったから、一緒に食べれないの」
恵美は自分の言いたいことだけを言うと、ハイヒールを鳴らして踵を返した。
しかし、ドアに手をかけようとしたその時、背後から声をかけられた。
「恵美。最近、何かあったのか?」
「ううん、何もないよ。全てが順調」
恵美の笑顔は、いつもと変わらず穏やかだった。心に何の憂いごともないかのように。
しかし海斗は、言いようのない居心地の悪さを感じていた。何か見えない力に、じわじわと圧迫されているような……そんな感覚だった。
なぜだか、彼女がどんどん自分から遠ざかっていくような気がしてならなかった。
だが、海斗は気づいていなかった。恵美が、彼の偽りなど、すべてをとっくに見抜いていたことを。
海斗がうまく隠せていると思い込んでいた秘密は、もうずっと前に彼女に気づかれているのだ……
第10話
その日の夕方、海斗はまた会社の用事を口実に、帰りが少し遅くなると言ってきた。
恵美はいつも通り何も聞かない。ただ、いつもと違うのは、結婚指輪を外したことだった。
指輪が照明の下で冷たい光を放つ。彼女はうつむきながら、ゆっくりとそれを中央制御システムにスキャンさせた。
スキャンの光の中を見つめていると、ふとプロポーズされた日のことを思い出した。あの時、海斗は片膝をつき、愛情のこもった瞳で言ってくれた。
「恵美、愛してる。一生かけてお前を守るよ。絶対に離れたりしないから」
海斗の気持ちを疑ったことはなかった。しかし、人の心なんてあっという間に変わってしまうものなのだ。
結婚指輪がゆっくりと分解されていく間、恵美のスマホの画面が不意に光った――
胡桃からのメッセージだった。
【まだ海斗さんの帰り、待ってるんですか?残念ですけど、私と一緒にいますので】
シャワーを浴びている海斗の後ろ姿の写真が添付されている。
続けて、仲が良さそうにしている二人の写真も何枚か送られてきた。
写真の中の胡桃は、まぶしいほど明るい笑顔。海斗の横顔は相変わらず素敵だけれど、恵美にはまるで知らない人のように見えた。
彼女は無表情のまま画面をスクロールしていったが、最後の写真でふと手が止まった。
それは一枚のエコー写真。胡桃は、妊娠していたのだ。
【私と海斗さんが付き合ってるの、とっくに知ってたんでしょう?ならさっさとその座を明け渡してくれませんか?いつまでもしがみついて、みっともないですね】
【今日、海斗さんはみんなの前で私を怒鳴ったりしてたけど、あれはポーズですから。本当は心配でたまらないみたいです。だから仕事が終わってすぐ、飛んできてくれましたよ】
【あ、それと。いいこと教えてあげますね。私、妊娠したんです。海斗さんとの子ですよ】
【海斗さんはこのことを知った時、すごく喜んでくれました。わざわざ友達に頼んで、私の体を気遣ってくれるようにまで手配してくれたんです。私って幸せ者ですよね。どこかの誰かさんと違って……】
【海斗さんも言っていましたけど、あなたは彼が本当に欲しい幸せを、永遠にあげられないんですよ】
画面の向こうで得意げに笑う胡桃の顔が目に浮かぶ。しかし、恵美は何も返信しなかった。
愛があるから憎しみが生まれる。気持ちがあるから、反応してしまうのだ。
今の彼女にとって、海斗に関わる全てのことは、一刻も早く逃げ出したい災いでしかなかった。
ダイヤモンドの指輪が完全に光となって吸収され、ついに恵美そっくりの人形が完成した。
ほんの一瞬で、恵美と瓜二つの体が部屋の中に現れた。
話し方も仕草も、何もかもがまったく同じ。
恵美は人形の頬にそっと触れた。まるで、過去の自分を見ているようだった。
これからは、この子が本当の「恵美」になる。
家を出る前に、恵美は海斗に最後の電話をかけた。
電話の向こうの彼は、まだ楽しんでいる最中らしく、少し息を切らしながらも、愛情深い夫を必死に演じていた。
「恵美、どうした?一人で寂しくなった?」
「ううん、違うの。ただ、今夜は帰ってくるのかなって思って」
「今夜か……」
海斗は少し考えるそぶりを見せた。しかし、その直後には、電話の向こうからチュッというリップ音が聞こえてきた。
そしてすぐに、また胡桃からメッセージが届く。
【電話一本で彼が帰るとでも思いましたか?言っときますけど、今、彼が夢中なのは私だけなんですから】
【私が妊娠してても、彼は私の体を我慢できないんです。必死になって私を求めてくるんですから。あなたは、こんなにも愛されたことありますか?】
【みっともない真似はやめてください。彼は今夜、絶対に帰りませんから】
最後のメッセージを読み終えるのと同時に、海斗が口を開いた。
「恵美、ごめん。会社で急ぎの案件が入っちゃって、多分帰れないや。埋め合わせは必ずするからさ。明日にでも旅行に行く?」
恵美は、そばに置いてあるスーツケースにちらっと目をやり、首を横に振った。
「いいの、気にしないで。仕事が一番大事だから。頑張ってね」
恵美の物分かりのいい態度に海斗は安心したようで、数日後に彼女が一番好きな海へ連れて行くと上機嫌で約束した。
恵美はその言葉を聞いて鼻で笑う。その頃には、もう二度と自分を見つけることなどできないだろうに。