君と夜通し見るはずだった花火

Đang tải thông tin quảng bá...

君と夜通し見るはずだった花火

GoodNovel Hoàn thành

私の名前は、藤森紗弥(ふじもり さや)。 婚約者の明智修司(あけち しゅうじ)はまた浮気をした。今度の相手もまた私の身代わり・大橋春菜(...

Chương (1)

第1章

私の名前は、藤森紗弥(ふじもり さや)。 婚約者の明智修司(あけち しゅうじ)はまた浮気をした。今度の相手もまた私の身代わり・大橋春菜(おおはし はるな)だった。 私は彼の好みに合わせて、か弱くて清楚な女らしく見えるように着飾り、彼をなんとか引き止めようとした。 けれど修司は、自分の手で私のメイクを落としながら言った。 「いい子だ。でも、こういうのはお前には似合わない」 そのうえ―― 「ほかの女なんて、ただの気まぐれだ。将来、妻になるのはお前だけだ」 そんな約束まで口にした。 修司の許しを得て、春菜は私の代わりに表彰台に立ち、私が受け取るはずだった賞まで手にするようになり、やがて彼の隣で一族の集まりにまで顔を出すようになった。 挙式のリハーサルの最中でさえ、修司のイヤホンから流れていたのは、彼と春菜が二人で作ったプレイリストだった。 眉をひそめたまま動かない私を見て、修司は苛立ったように言った。 「わざわざ取締役会までずらして来てやったのに、まともに集中することもできないのか? そんなに嫌なら、春菜に代わってもらえばいい」 そのときの私は――もう、自分のために言い争うことすらしなかった。 ただ淡々と「……いいよ」と答えた。 その瞬間、スマホが震える。 海外にいる――昔から何かと張り合ってきた七瀬蓮也(ななせ れんや)からだった。 【紗弥。あのときの縁談、どうして俺を選ばなかった?】 第1話 私の名前は、藤森紗弥(ふじもり さや)。 婚約者の明智修司(あけち しゅうじ)はまた浮気をした。今度の相手もまた私の身代わり・大橋春菜(おおはし はるな)だった。 私は彼の好みに合わせて、か弱くて清楚な女らしく見えるように着飾り、なんとか引き止めようとした。 けれど修司は、自分の手で私のメイクを落としながら言った。 「いい子だ。でも、こういうのはお前には似合わない」 そのうえ―― 「ほかの女なんて、ただの気まぐれだ。将来、妻になるのはお前だけだ」 そんな約束まで口にした。 修司の許しを得て、春菜は私の代わりに表彰台に立ち、私が受け取るはずだった賞まで手にするようになり、やがて彼の隣で一族の集まりにまで顔を出すようになった。 挙式のリハーサルの最中でさえ、修司のイヤホンから流れていたのは、彼と春菜が二人で作ったプレイリストだった。 眉をひそめたまま動かない私を見て、修司は苛立ったように言った。 「わざわざ取締役会までずらして来てやったのに、まともに集中することもできないのか? そんなに嫌なら、春菜に代わってもらえばいい」 そのときの私は――もう、自分のために言い争うことすらしなかった。 ただ淡々と「……いいよ」と答えた。 その瞬間、スマホが震える。 海外にいる――昔から何かと張り合ってきた七瀬蓮也(ななせ れんや)からだった。 【紗弥。あのときの縁談、どうして俺を選ばなかった?】 …… 「紗弥、俺の時間は貴重なんだ」 修司は、私が上の空でいることを責めるような目を向けてきた。けれどその視線は、最初から最後まで隣に立つ春菜に向けられたままだった。 春菜は、父が幼い私を守るために用意した身代わりだった。 ずっと影のように私のそばにいて――いざというときは、私の代わりに危険を引き受けるための存在として育てられた。 ……なのに。 急に、何もかもが馬鹿らしくなった。 「じゃあ、その子にやってもらえばいい」 私はベールを外し、そのまま背を向けて立ち去ろうとした。 けれど修司が呼び止めた。 「紗弥。そのドレスを脱いで春菜に渡してやれ」 その冷たい目を見た瞬間、ただ馬鹿らしいと思った。 ここには百人近く人がいるのに、その前で私にドレスを脱げと言うのだ。 「……今、ここで?」 「そうだ」 修司は白紙小切手を叩きつけるように私の前へ差し出した。 「好きな額を書け」 その瞬間、胸の奥に残っていた執着が、すっと消えた。 私が動かないのを見て、修司は鼻で笑う。 「今までずっと俺の金で実家の会社の穴埋めをしてきたんだろ。今さら何を気取ってる?」 何十年も一緒にいたのに――最後に残ったのは、疑いと悪意だけだった。 その一方で春菜は、うつむいたまま何度も手を振る。 「だめです、そんな……私なんかが、こんな素敵なドレスを着るなんて。 お嬢様が、きっとお怒りになります」 その一言で修司は、今季の最新オートクチュールドレスまで迷いなく春菜に差し出した。 「俺がいいと言ったらいいんだ。俺には、お前が紗弥に劣って見えたことなんて一度もない。 あいつが怒りたいなら勝手に怒ってればいい。毎日まるで、俺に何かされたみたいな顔ばっかりしてさ」 その言葉は、修司の握るマイクを通して会場の隅々まで響き渡った。 今日はただのリハーサルのはずなのに、同じ社交界の人間が大勢、見物半分で招かれていた。 誰もが思わず私に視線を向けていた。 かつて夕凪市でいちばん誇り高いと噂された令嬢が――金のために頭を下げるのか、それを見届けたかったのだ。 逆らったところで、父の会社の損失が増えるだけだと分かっている。 借金も、さらに膨らむだけ。 最悪なのは――海外で療養している父の治療費すら払えなくなること。 この前、仕事のもめ事で春菜は、私に飛んできたコーヒーを代わりに浴びた。 それだけで修司は会社の運転資金をすべて引き上げ、私が二か月かけてようやくまとめかけていた契約を白紙にした。 父はそのせいで倒れ、そのまま入院した。 修司は分かっている。 私には最初から、逆らう余地なんてないことを。 私がためらいもなくファスナーに手をかけるのを見て、修司は苛立ったように近くにあったブーケを私に投げつけた。 「もういい! 紗弥、お前がここまで情けない女だとは思わなかった」 薔薇の棘が肌をかすめ、細い傷から血がにじむ。 私はしゃがみ込み、小切手を拾い上げた。 昔、彼を救ったことへの――遅すぎる見返りだと思うことにした。 私たちの関係を、お金で換算するようなことはしたくないから。 これで本当に、私たちはもう何の貸し借りもない。 扉の近くまで来たところで、春菜の少し弾んだ声が背中に届いた。 「修司様、それは……私なんかがつけていいものじゃありません」 第2話 振り向くと――修司が、本来は私一人のために用意されていたはずの指輪を春菜の指にはめているところだった。 「安心しろ。あいつには触らせてない」 ……いつからだったのかは分からない。 気がつけば、私が持っているものは何でも、修司はそっくり同じものを春菜にも用意するようになっていた。 泣いて責めたこともある。 どうしてただの身代わりが、婚約者の私と同じ扱いを受けるのか分からなかった。 けれど―― 返事ひとつないまま過ぎていく日々の中で、必死だった気持ちも少しずつ冷えていった。 結婚指輪でさえ、最初からもう一つ用意されていた。 私はうつむいたまま指輪を外し、ためらいもなく、そのままゴミ箱に放り込んだ。 たったひとつじゃないものなんて――いらない。 …… 鍵のかかったメイクルームの向こうから、春菜の美しさを褒めそやす声がかすかに聞こえてくる。 修司がわざわざパリまで飛んで、私のために手配したはずのヘアメイクチームまで、今では彼女ひとりにかかりきりだった。 私はというと、女子トイレの鏡を借りて、似合いもしないメイクを落とすしかない。 それは彼に気に入られたくて、無理に彼の好みに合わせたメイクだった。 春菜にかなり似せた――そんなメイクだった。 腕についた細い切り傷から、まだじわじわと血がにじんでいた。 病院で手当てをしてもらおうと玄関へ向かうと、執事の金田源治(かねだ げんじ)が駆け寄ってきた。 「奥様。旦那様が病院までお送りするようにと仰せつかっております」 修司は――私が血の止まりにくい体質だということを、まだ覚えていたらしい。 「……大丈夫です。一人で行きます」 そう答えたのは、ただ修司に借りを作りたくなかったからだ。 夕凪市の六月の空は気まぐれで、さっきまでの曇り空が、あっという間に雨へと変わった。 源治はもう一度深く頭を下げて言う。 「奥様。雨もですが、傷が悪化してしまっては大変でございます」 仕方なく車に乗り込んだ、その直後だった。 続いて現れた修司が、冷えきった声で言い放つ。 「降りろ。邪魔なんだよ」 修司が腕の中に抱いていたのは春菜だった。 額には細い切り傷が走っている。 私の姿を見るなり、春菜は慌てて彼の腕から降りると、遠慮するように身を引いて言った。 「私なんかが、お嬢様のお席に座るなんて…… この先に診療所がありますから、私はひとりで行けます」 おずおずとこちらを見上げた春菜の肩は、小刻みに震えていた。 ――私は、何もしていないのに。 修司はやわらかい声で春菜をなだめる。 「春菜、怖がらなくていい。 俺がいる。気にする必要なんてない」 そう言った直後、修司は私に向き直って言い放った。 「お前が式で余計なクリスタル装飾なんか入れたせいで、春菜が怪我したんだ」 さらに私の腕をちらりと見て、吐き捨てるように言う。 「どうしてお前は、そんなに弱いんだ?」 その言葉に、胸の奥が大きく揺れた。 ――昔も、同じことを言われた。 あのとき私は彼を庇って、全身血まみれになった。 血の止まりにくい体質のせいで、いつまでも出血が止まらなかった。 目の前で取り乱しそうになっている修司を見て、私は思わず小さな声で言った。 「私は大丈夫。泣かないで」 それでも、血はなかなか止まらなかった。 私を抱きしめたまま、修司は目の縁を赤くして、信じられないというように呟いた。 「どうしてそんなに弱いんだ……」 あのときの修司は、春菜を今にも締め上げそうなほどの目で睨みつけていた。 身代わりとしての最低限の役目すら果たせなかったことを、許せないという顔をしていた。 同じ言葉なのに―― 今のそれは、私の体の弱さを責めて、邪魔者扱いするための言葉だった。 私は唇をきゅっと結び、込み上げてくる熱を押し戻すようにして、ようやく我に返った。 身をかがめて車から降りると、そのまま雨の中に立ったまま言う。 「これでいい?」 幼いころから私たちを見守ってきた源治が、見かねたように口を挟んだ。 「奥様は幼いころからお体がお弱いので、ご一緒にお送りしてもよろしいかと存じます」 修司は私を見て、低く静かな声で聞いた。 「痛いか?」 けれど次の瞬間には、その声が一変した。 「でも、それもお前のせいだ」 そう言って、一本の傘を地面に放り出した。まるで突き放すみたいに。 私は少しだけ顔を上げた。けれど涙は、音もなく雨に紛れて頬を伝っていく。 涙で滲んだ私の目に気づいたのか、修司の表情がほんの一瞬だけ揺れた。 「……もういい。やっぱり乗れ」 けれどその瞬間、春菜が絶妙なタイミングで痛みを訴え、修司の視線は一瞬でそちらへ向いた。 視線を落とすと、ちょうどメッセージが届いた。 蓮也からだった。 【今から飛行機に乗る】 第3話 文字越しでも、蓮也がかなり興奮しているのが伝わってくる。 【紗弥、待っていて。必ず迎えに行く】 【……うん】 私は地面に落ちた傘を踏み越えて、そのまま振り返らずに立ち去った。 …… ほんの小さな傷だったのに、医者には数日入院して様子を見るようにと言われた。 病室はちょうど前の患者が退院の支度をしているところで、私は廊下の椅子で待つしかなかった。 一日じゅう気を張っていたせいだろう。 椅子に腰を下ろした途端、そのまま眠ってしまった。 目を覚まして最初に目に入ったのは、修司の心配そうな眼差しだった。 一瞬だけ――昔に戻ったのかと思った。 子どものころの修司は、私が眠っていると心配で仕方なかったらしくて、よく鼻先に手をかざして、ちゃんと息をしているか確かめてくれていた。 けれど。 手の包帯に触れた瞬間、脳裏によみがえったのは――修司にブーケを投げつけられたときのことだった。 胸の奥に沈んでいた苦しさと嫌悪が、一気に込み上げてくる。 思わず、吐き気がこみ上げた。 修司の顔がぴくりと強張り、その視線が険しくなる。 「紗弥……俺のことが、そんなに気持ち悪いのか?」 私は答えなかった。 そのまま視線を逸らして、ゆっくりと病室の中へ入っていった。 修司は三人部屋をひと目見て、その狭さに眉をひそめた。 なぜか胸の奥がざわついたようだった。 それを誤魔化すように、彼はその場で特別室を手配した。 けれどその直後、彼はこう言った。 「来週、ダンス協会のパリ交流の枠があるだろ。あれは春菜に回してやれ。 お前は大人しく、新婚旅行の準備でもしていればいい。 あいつはこれまでずっと尽くしてきたんだ。それくらい叶えてやってもいいだろ」 埋め合わせと引き換え。 そんなやり取りで、私たちの関係はかろうじて保たれていた。 特別室の中を見回しながら、私はひどく皮肉な気持ちになった。 それでも振り返って、ただ「分かった」と答えた。 もし修司が――結婚式当日でさえ春菜が私の代わりを務めると知ったら、きっと喜ぶのだろう。 修司は、あまりにあっさり頷いた私に、少し戸惑ったように見えた。 これまでの私は、泣いてでも譲ろうとしなかったのに。 彼は私の顔をまっすぐ見つめて、念を押すようにもう一度訊いた。 「……本当にいいのか?」 「うん」 私は静かに頷いた。 修司はどこか落ち着かない様子で、取り繕うように言った。 「花火、好きだっただろ。今夜、用意させようか?」 「いい。近所迷惑になるから」 返事を待たずに、私は疲れたから休むとだけ告げた。 大きな手のひらがそっと私の額に触れる。 本当に眠ったのを確かめたあと―― 修司はこらえきれないように春菜へ電話をかけた。 「分かったって。今すぐ戻る。誕生日、一緒に祝ってやるから」 そして続ける。 「今夜、夕凪市の花火は全部お前のためだ」 掛け布団を握りしめていた指先から、少しずつ力が抜けていく。 涙だけが、音もなくこぼれ落ちた。 ――一生、花火は私としか見ないって言ったくせに。 誓いにだって、終わりはあるらしい。 もう私のことを愛していないのかと、何度問い詰めただろう。 そのたびに彼は「落ち着け」と言うだけで、まるでおかしいのは私のほうだと言わんばかりだった。 本当は―― たったひと言、返してくれればそれでよかったのに。 それさえ、修司はくれなかった。 でも今は―― もう、これから先もずっと、彼の答えなんていらない。 退院の手続きをしていたその日、修司から一本の電話がかかってきた。 「紗弥……力を貸してくれ」 声が震えていた。 何十年も一緒に過ごしてきた人を見捨てることなんて、私にはできなかった。 けれど―― 彼のもとへ駆けつけた途端、私は強引に車へ押し込まれた。 「紗弥、春菜が父親に連れ去られた。あの男は金を要求してる」 そして、ためらいもなく続ける。 「一度だけでいい。春菜の代わりになってくれないか」 あまりにも勝手すぎて、言葉も出なかった。 「……私に何の関係があるの。今すぐ降ろして」 修司は声を荒げた。 「あいつはこれまでずっと命がけでお前を守ってきたんだぞ!それでも何とも思わないのか? それに春菜の居場所を父親に漏らしたのは、お前だって聞いた。紗弥、お前いつからそんなことをするようになった」 ――人づてに聞いた。 たったそれだけで、彼は私を疑うのだ。 「……本気で、私がやったと思ってるの?」 修司は迷いもなく言った。 「お前以外に誰がいる」 第4話 「ここ数日、なんでいつもこっそり携帯を見てるかと思えば……そういうことか」 私は必死に首を振った。 「それは蓮也が――」 修司は最後まで言わせず、鼻で笑った。 「そんな嘘までつくのか。夕凪市で、お前とあいつが昔から犬猿の仲だって知らない奴はいない」 胸の奥が、すっと冷えていった。 そのあと修司は、私の意思なんてお構いなしに、どうしても春菜を取り戻そうとした。 私の肩を押し出すようにして、春菜の父親に言い放つ。 「捕まえる相手を間違えてる。春菜はこいつだ」 不意に涙がこぼれた。 彼が初めて私に助けを求めたのは――ほかの女を助けるためだった。 向こうに信じてもらえないのが怖いのか、修司は必死に言い募る。 「紗弥は今日、ダンス協会の交流でパリに行く予定だった。招待状だって持ってる。 頼む、紗弥を返してくれ」 あの修司が、人に頭を下げるなんて。 最後の声は、わずかに震えていた。 修司のせいで、私が拉致されたことも一度や二度じゃなかった。 相手のほとんどは金目当てだった。 いちばん危なかったのは―― 深い海に突き落とされ、助け出されたときには、もう息も絶え絶えだったあのときだ。 彼は私の病床のそばに身を乗り出して、子どもみたいに、同じ言葉を何度も繰り返した。 「紗弥……俺は、自分の名声も金も嫌いになりそうだ。全部、俺のせいでお前がこんな目に遭った」 私は首を振った。 「でも、あなたがもっと強くならなきゃ、私を守れないでしょう?」 ――あれから。 修司は以前とは比べものにならないほど強くなった。 今では外出するたびに何人もの護衛を連れて歩いている。 それなのに彼は真っ先にその刃を私へ向けた。 そして今回は、自分の手で私を差し出した。 頬に傷のある男は、しばらく黙り込んだあと口を開いた。 「だったら娘を連れて来い。そうしなきゃ、お前の妻と一緒に死んでやる」 修司の目には焦りが浮かんでいた。 けれど、その焦りは私のためじゃない。 「紗弥……春菜はこれまで何度もお前の代わりになってきただろ。今度くらい、お前が代わってやれないのか」 ――代わり。 その言葉を、私はこれまで何度彼の口から聞かされてきただろう。 春菜は私の代わりに結婚指輪をはめることもできたし、名家の令嬢たちの集まりに出ることもできた。 それどころか、婚約者と親しげに寄り添い、同じベッドに入ることさえ許されていた。 それでも―― 私の代わりに傷つくことだけは、決してしなかった。 春菜は何度でも私の代わりになれたのに、最後に差し出されたのは私だった。 どれだけ抵抗しても、修司は構わず私を前へ押し出した。 私は必死に叫ぶことしかできなかった。 「わ、私は紗弥……春菜じゃない……!」 最後には修司が、自分の手でハンカチを私の口に押し当てた。 それは―― バルセロナに留学したとき、私が彼に贈ったものだった。 彼を想う気持ちを込めて渡したものだったのに。 「紗弥、お前は泳げるだろ。自分でなんとかできるはずだ。 でも春菜は無理なんだ。あいつ、水が怖いんだよ。 命がかかってるんだ。助からないほうを見捨てるわけにはいかない……」 彼は何か言い続けていたけれど、もう私にはほとんど聞こえていなかった。 耳に残っていたのは、波が岩に叩きつけられる音だけだった。 修司は、私ひとりでもこの危険だと知られている断崖から逃げられると本気で思っていたらしい。 春菜の命は危険にさらせなくて、私の命なら差し出せるのだ。 昔の修司は、私だけが特別だと、いちばん愛していると、誰よりも大切だと何度も言っていた。 泣きながら縋って、膝をついてまでやめてほしいと必死に頼んだ。それでも彼の決意は最後まで変わらなかった。 失望と戸惑いが入り混じり、最後には何も感じなくなるほど静かになっていた。 修司は私を少しずつ断崖の縁へ追い詰め、最後には不意に強く突き飛ばし、私はその場に崩れるように膝をついた。 頬に傷のある男は私の腕を乱暴につかむと、そのまま崖際まで引きずっていく。 まるでぼろ布でも扱うみたいに地面に擦りつけながら、容赦なく引きずり回された。 「この役立たずめ。お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ。 お前が生まれたせいで、俺は全部失ったんだよ」 腰も背中も、ごつごつした岩に何度も打ちつけられる。 そのうえ男は石を拾い上げて、わざと私の腕に叩きつけた。 何度も、何度も。 最後に見えたのは、修司がためらいもなく春菜を抱き上げ、そのまま振り返りもせず立ち去っていく背中だった。 第5話 彼らが去っていった、その直後だった。 背後から突き飛ばされ、私は海へ落ちた。 凍りつくような海水が一瞬で全身を呑み込む。 感じたのは、ただ冷たさと――死の間際に駆け巡る走馬灯のような光景だけだった。 そのひとつひとつが、修司が何度も「ずっと俺が守る」と言ってくれたときのものだった。 なのに、「守られる」はずだった私が、どうしてこんな無残な姿に。 骨も残らない最期になるなんて。 …… 修司は春菜を病院へ運び込むと、医師たちに体の隅々まで徹底的に検査するよう命じた。 医師たちは慌てて頷く。 「はい、必ず全力で奥様をお助けします」 その「奥様」という呼び方を聞いた瞬間、修司は思わず違うと言いかけた。 彼にとって「奥様」と呼べる相手は――紗弥ただひとりのはずだった。 救助隊に連絡しようとスマホを取り出した、そのときだった。 目を覚ました春菜が、か細い声で言った。 「修司様……私、もう助からないのでしょうか。 首に……ひどい傷が残ってしまいませんか……?」 いつもは強気で取り乱すことのない彼女が、今はすべてを委ねるように修司にすがっている。 その様子に、修司の支配欲が強く刺激された。 彼はすぐにスマホを置き、春菜の手を握る。 「大丈夫だ。お前に傷なんか残させない。 国内でも指折りの医者を呼んである」 その言葉を聞いて、春菜はようやく安心したように息をついた。 けれど次の瞬間には、紗弥のことを気にするように口にした。 「お嬢様は……ご無事でしょうか。私が家のことをきちんと片づけていなかったせいで、こんな騒ぎを招いてしまって……」 どういうわけか、救助隊には何度電話してもつながらない。 せめて無事だとひと言連絡があってもいいはずなのに。 胸の奥で、不安がじわじわ広がっていく。 泣きながら抵抗し、必死に縋ってきた紗弥の姿が頭から離れない。 あのとき、もっとちゃんと紗弥を安心させてやるべきだったのかもしれない。 修司の額にじわりと冷や汗が浮かぶ。 無意識にハンカチを探そうとして――気づく。 どのポケットにも入っていない。 胸のざわつきは消えず、まるで何か大事なものが、この手からこぼれ落ちていくような気がしていた。 そのとき、不意に春菜が彼の手をつかんだ。 「お嬢様なら、きっと大丈夫です。修司様は世界でも指折りの救助隊を手配なさっているんですよね? きっと今は、少し拗ねていらっしゃるだけです。だからご連絡がないんです」 ――そうだ。 彼は世界でも指折りの救助隊を手配している。 たとえ紗弥がひとりで逃げきれなくても、最後には必ず救助隊が見つけ出してくれるはずだった。 そう思うと、胸の奥に引っかかっていた不安が、ようやく少しずつ和らいでいく。 紗弥も、きっとしばらくは腹を立てるだろうが――それだけのことだ。 だからこそ彼は、式をもっと盛大に、もっと特別なものにしようと考えた。紗弥は、世界にひとつだけのものが好きなのだから。 そう思いながら、彼は春菜のほうへ視線を向けた。 「パリ・ファッションウィークに行きたいって言ってただろ。ちゃんと薬を飲んだら行けるようにする。ボディガードもつけるから」 ちょうどその頃は、彼と紗弥の結婚式と重なる日取りだった。 修司は、春菜がそのことで傷つく顔を見たくなかった。 春菜は表向きはおとなしく頷いた。けれど心の奥では、目の前の男に嫁げることが何よりもうれしかった。 あれほど手の届かない存在だったお嬢様も、結局はあっさり自分に負けたのだと思うと、胸の奥がじんわり満たされていくのを感じた。 …… それなのに三日たっても、修司が紗弥に送ったメッセージはひとつも返ってこなかった。 既読のつかないトーク画面が、妙に胸をざわつかせる。 テレビでは、身元不明の女性の遺体が引き上げられたというニュースが繰り返し流れていた。 しかもその海岸は――あの日、紗弥が連れ去られた場所のすぐ近くだった。 どれほど春菜を手に入れたいと思っていても―― それでも紗弥は、幼いころからずっと未来の妻になると信じて疑わなかった相手だった。 そのとき、ドレスショップから確認の連絡が入った。 「奥様から先ほど、お召しになるドレスの細部を変更したいとのご連絡をいただきました。ただ、こちらはデザイナー渾身のオートクチュールでして、変更にはデザイナー本人の了承が必要となりますので、ご確認のためご連絡いたしました」 紗弥がまだドレスのことを気にかける余裕があるのなら、きっと無事なのだろう。 それに――きっと、そこまで怒っているわけでもないはずだ。 そう思うと、胸の奥に残っていた迷いもようやく薄れていった。 「妻の希望は、できる限り叶えてやってくれ」 だが―― その華やかな式場で彼に向かってゆっくり歩いてきたのは、紗弥ではなく春菜だった。