転んだ部下と入籍?呆れたので婚約破棄するよ

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転んだ部下と入籍?呆れたので婚約破棄するよ

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インターンの青木葵(あおき あおい)が会社の祝賀パーティーで大勢の前で転んだ。ただそれだけの理由で、社長で私の恋人である中山涼太(なか...

Chương (1)

第1章

インターンの青木葵(あおき あおい)が会社の祝賀パーティーで大勢の前で転んだ。ただそれだけの理由で、社長で私の恋人である中山涼太(なかやま りょうた)はその日のうちに彼女との入籍を公表した。 私、長谷川若葉(はせがわ わかば)が怒りに任せて涼太を問い詰めると、彼は呆れたようにこう言い放った。 「葵は世間体が気になる性格なんだ。みんなの前で恥をかいたままじゃ立ち直れないだろう?社長として部下のメンタルをケアするのも仕事だし、会社の利益のためでもあるんだよ。 それに、ただ入籍しただけだろ。形式上のことなのに、なんでそんなに目くじらを立てるんだ?」 涼太のあまりに不機嫌そうな言い方に、私は初めて何も言い返せなかった。 次の瞬間、スマホに葵からメッセージが届いた。二人で結婚指輪を見せびらかしている写真に、こんな言葉が添えられていた。 【あなたが1年かけて特注した指輪ですって?別に大したことないですね。涼太さんが明後日、F国へ私のために指輪を作りに連れて行ってくれるんです。このガラクタよりずっと素敵でしょう】 私は拳をきつく握りしめた。私が涼太のために心を込めて用意した指輪を、よりにもよって葵に渡すなんて。 涼太は黙り込んだ私を見て、こう慰めた。 「ほら、ただの紙切れ一枚だろ?1ヶ月でも経てば役所で手続きして離婚するから。そうしたらすぐにお前と入籍して、盛大な式を挙げよう」 涼太がもう99回目となる約束を口にするのを聞いて、私は思わず鼻で笑った。 「もういいわ。別れよう」 第1話 インターンの青木葵(あおき あおい)が会社の祝賀パーティーで大勢の前で転んだ。ただそれだけの理由で、社長で私の恋人である中山涼太(なかやま りょうた)はその日のうちに彼女との入籍を公表した。 私、長谷川若葉(はせがわ わかば)は納得がいかず、涼太に問いただした。すると彼は気怠げに言った。 「葵は少し傷つきやすいんだ。大勢の前で恥をかいて、本人もきっとショックを受けているはずだろう。社員のメンタルヘルスをケアするのも雇い主としての責任だ。会社にとっても必要な配慮なんだよ。 それに、ただ入籍するだけじゃないか?形式上のことなのに、なんでそんなに目くじらを立てるんだ?」 涼太のあまりに不機嫌そうな言い方に、私は初めて何も言い返せなかった。 次の瞬間、葵からメッセージが届いた。指輪をした二人の手元写真とともに、こう書き添えてある。 【あなたが1年かけて特注した指輪ですって?別に大したことないですね。涼太さんが明後日、F国へ私のために指輪を作りに連れて行ってくれるんです。このガラクタよりずっと素敵でしょう】 私は拳をきつく握りしめた。私が涼太のために心を込めて用意した指輪を、よりにもよって葵に渡すなんて。 涼太は私の無言を見て、こう宥めてきた。 「いいだろ?たかが書類上の関係さ。1ヶ月後には、役所に離婚届を出してやるよ。それからお前と正式に入籍して、盛大な結婚式を挙げて夢を叶えてやる」 涼太がもう99回目となる約束を口にするのを聞いて、私は思わず鼻で笑った。 「いいわ。もう別れよう」 私がそう言うと、受話器の向こうが一旦しんとなり、すぐに涼太が怒鳴る声が響いた。 「若葉、頭でも狂ったのか!よくも別れ話なんて切り出せるな! さっき全部説明しただろう?すべて会社のためにやっているんだ。どうしてそれも理解できない? どうしてそんな細かいことを気にするんだ?たかだか入籍しただけじゃないか?形式上のことに過ぎないと言っただろ、何をそこまで大げさに考えているんだ! こうするしかなかったんだ。葵はプライドが高いんだ。そのままにすれば会社にいられないだろう。何より俺が採用した人間だ。俺のこと考えたことあるか?」 涼太の言葉のあまりのおかしさに、私は爪が手のひらに食い込むほど手を握りしめた。 あの日、周りの反対を押し切ってまで葵を特別採用したのは彼自身なのに、今になって身勝手な理由で私を責めるのか? いつも都合よく自分を正当化し、聞き飽きた言い訳を繰り返して、今回も私がただで許すとでも思っているのか? あいにく、もうその嘘には飽き飽きしていた。 私は冷やかに言い返した。 「涼太、今回は葵さんが転んだだけで入籍したのね。 次は彼女が怪我でもしたら、二人で子供を作る気?」 涼太は言葉を詰まらせ、すぐに冷たく返した。 「これは緊急のPR戦略だ。会社の対外的な体裁を守るための行動に過ぎない。言っただろう?1ヶ月後には別れると。約束は必ず守る。 もう別れ話なんて聞きたくない。今回の件はなかったことにしてやるけど、次は許さないからな」 私が言い返そうとした瞬間、電話の向こうから葵の声が割り込んできた。 「どうして若葉さんは、涼太さんのために少しも我慢できないんでしょうね。1ヶ月だけの形式婚だし、私だって気にしてないのに、なぜ若葉さんはわかってくれないの? 涼太さんの苦労をあんな風に台無しにするなんて……若葉さんが会社でそう言ってるなら、他の社員たちは私を裏でどう噂していることか……恥ずかしくて会社にいられないよ。死んだ方がマシ! 出社して変な目で見られるくらいなら、涼太さんのお情けなんて要らないから!」 言葉が終わるのと同時に、受話器の向こうから激しく泣く声が聞こえてきた。 すると、不意に涼太が言った。 「若葉、葵を泣かせてしまったじゃないか?今すぐ謝りなさい!」 あまりにバカバカしい。何もしていないのに、なぜ私が謝らないといけないのか? 涼太の中に、果たして本当に私の居場所があるのだろうか? 私の無言をよそに、涼太はさらに繰り返した。 「すぐに葵に謝れ!そうしないと、副社長の座から降りてもらうぞ!」 続いて、彼は甘い声で葵をなだめ、F国で世界にひとつだけの指輪を贈ると約束しているのが聞こえた。 私が何かを言う前に、スマホのバッテリーが切れて画面が真っ暗になった。 切れた画面を見て、私は虚しく笑った。 恋愛して7年になるのに、彼があんな風に優しく私をなだめてくれたことなんていちどもなかったし、ましてやプレゼントで慰めてくれることもなかった。 スマホを充電して起動すると、私が役職を降ろされたという通知が届いた。 直後、涼太からのメッセージが届いた。 【代わりにお詫びしておいた。降職は警告だ。もし今後、葵に対して不満な態度を見せるなら、すぐに会社を辞めてもらうからな!】 私の代わりに謝罪しただと? 私を降格させて葵を昇格させるのが最初から目的だったんだろう。 予想通り、すぐに葵が新しい副社長に就任したという報告を目にした。 私は呆れて小さく笑い、チャット欄を閉じて辞表を打ち始めた。 そもそも涼太がいなければ、私はとっくにこの会社を辞めていた。 今こそ去るべき時だ。 辞表を保存した瞬間、涼太からデジタルの結婚式招待状が送られてきた。 馴染みのあるデザインは、元々私と彼の結婚式のために準備していたものだ。 【誤解しないでほしい。これもただのセレモニーなんだ。すでに入籍しているし、結婚式を挙げないわけにもいかないだろう】 【安心しろ。いつか必ず、お前ともっと盛大な式を挙げるから】 涼太からの言い訳じみたメッセージに、私は既読だけをつけて画面を閉じた。 結局、ここ数日の私の苦労も期待も、ただの「セレモニー」で、花嫁も簡単に入れ替えられるのか。 実に面白い。 私は辞表を握りしめて会社へ向かう途中、涼太の愛車と全く同じナンバーの車を見た。ただ、車カバーが見たことのないものに変わっている。 ブレーキを強く踏み込み、タイヤが音を立てて停まった。 降りた時にふと思い出した。このカバーは葵のものとペアになっている。 これが彼の言う「派手なものは好きじゃない」ってこと? 自嘲気味に笑い、ふと顔を上げた瞬間、涼太がひざまずいて葵の靴紐を結んでいるところが目に入った。 ちょうど涼太が顔を上げて、私と視線がぶつかった。 彼は気まずそうに立ち上がり、葵も私に気づくと、煽るように唇を歪ませた。 涼太は少し後ろめたいようで、慌てて弁解した。 「葵の服だと不便だから、少し手伝っただけだ。気にするなよ」 私は返事もせず、持っていた辞表を差し出した。 葵はそれを見て、嫌な笑みを浮かべて涼太に言った。 「涼太さん、明日の結婚式でブライズメイドがちょうど足りないから、若葉さんにお願いしてもいいかな? そうすれば、この式を大切にしている姿勢も示せるし、若葉さんの社員への気遣いもアピールできる絶好の機会だと思わない? でも、若葉さんは納得してくれるのかね……」 それを聞いて、涼太は私の意見も聞かずに勝手に決めた。 「納得しない理由などない。若葉のための配慮なんだよ。 これで決まりだ。明日はブライズメイドを務めろ」 涼太はそう言って私を見つめ、手に持っていた封筒を軽く振った。 「明日お前が来なかったら、簡単にはやめさせないぞ」 私は拳をゆるめ、辞表をちらつかせる涼太を睨み返し、仕方なく頷いた。 涼太は葵の方に向けて微笑み、そのまま試着室の方へ向かった。 私は去ろうとしたが、葵に腕を掴まれた。 彼女は得意げな表情で私にカメラを押し付けた。 「若葉さん。引き受けてくれたんだし、ついでにウェディングフォトも撮ってくれますよね。 そう言えば、式の受付用の写真、まだ撮ってませんでした。こんな細かいところで人にあれこれ言われたら、会社に戻る顔がないでしょ? 若葉さんは社員思いだから、断りませんよね?」 私が反論しようとしたところで、着替え終えた涼太が出てきた。 「若葉、たかが撮影だろ、何を迷ってるんだ?葵が同僚たちに噂されるのを見過ごすのか?」 私は感情を殺し、カメラを構えた。レンズ越しに二人が深く寄り添い、涼太が葵を愛おしげに見つめている。 昔の私なら、きっとここでわめき散らして涼太に問いただしていたはずだ。 けれど今、心は湖のように静まり返っていた。 適当に数枚撮ったところで私はカメラを葵の胸元に突き返し、二人に背を向けてその場を去った。 その時、スマホがポケットで激しく鳴り響いた。 「若葉さん、私のプロジェクトでちょっと困ったことがあってね。手が空いてたら手伝ってくれない?美味しいもの奢るからね」 第2話 聞き慣れた声に、自然と頬が緩んだ。渡辺志穂(わたなべ しほ)は私の指導教員であり、良き友達でもある。 志穂はかつて、私を研究者として有望な人材だと評価してくれ、大学で勤務することまで勧めてくれた。 涼太と出会わなければ、今も志穂のもとで研究三昧の日々を送っていただろう。 なのに、涼太のために全くの畑違いだったこの分野に飛び込み、何年も努力を重ねてきた結果がこれだ。結局、何ひとつ形にならなかった。 「じゃあ、2日後に伺いますね。覚悟しておいてくださいよ、しっかり奢ってもらいますから」 人生、捨てたもんじゃない。まだこうして手を差し伸べてくれる人がいる。 志穂との短い電話を切り、一息ついた。 それから、会社とは逆方向へ歩き出した。まずはパスポートを再発行しなくては。 手続きを終える頃には、すっかり日が暮れていた。 そんな時、突然涼太から電話がかかってきた。 「プロジェクトに不備が出た。今すぐ会社へ戻って対応してくれ。俺は今、どうしても手が離せないんだ」 私が言い返す間もなく、受話器の向こうから葵の甘えた声が聞こえた。 「涼太さん、映画のチケット取れたんだよ。これ、すごく苦労して並んだんだから。無駄にするなんて酷いよね?」 次の瞬間、通話はブチッと切れた。冷たい電子音が耳に残った。 スマホを握りしめた。「手が離せない」って、こういうことか。 忙しいはずだ。二人で映画を楽しむくらいには。 暗くなった画面を見つめた。言うまでもなく、また葵が面倒なミスをして、涼太が私にその後始末を押し付けてきただけだ。 葵の尻拭いをするのは、今日が初めてじゃない。 過去にも葵が起こしたトラブルを、涼太は全部私のせいにすることで、彼女を庇ってきた。 功績は葵のもの、失敗の責任と減給はすべて私。 そのせいで、社内での私の評判はボロボロだ。 オフィスに入ると、デスクに置かれた一杯のアイスアメリカーノが目に入った。隣には、そっとメモが添えられていた。 【お疲れ。頑張ってくれたご褒美だよ】 紛れもなく涼太の字だ。 私はそのメモを細かく破いてゴミ箱に捨てると、そのコーヒーも給湯室のシンクに全部流して捨てた。 真夜中のコーヒーなんて、見てるだけで気分が悪くなる。 もう辞職するんだから、他人の都合に振り回される必要なんてない。 オフィスから出ると、部屋の明かりを消して、その場を後にした。 朝、目を覚ますと涼太からの不在着信が何件も並んでいた。 軽く身なりを整え、新しい辞表を印刷すると、私はそのまま結婚式の会場へと急いだ。 会場に到着すると、目に入ってくるのは高級車ばかりだった。 これほどの大層な準備をするなんて、涼太にとって葵は本当にかけがえのない存在なのだろう。 振り向いた途端、誰かにケーキを顔いっぱいに押し付けられた。 目を閉じ、周りからいくつもの嘲笑が響いてきた。 「あれ、自称社長の本命彼女さんじゃない?ひどい姿だね。みんな、せめて小銭くらい恵んでやりなよ。人助けだと思ってさ」 「あいつ、今日が何の日かもわからないのか。よく顔出せたよね。もしかして、結婚式をぶち壊すつもりなんじゃない?」 「買いかぶりすぎでしょ。あの色褪せた服でなんかするつもり?そんなの、言ったら一年は笑いものだよ」 話が終わると同時に、周囲からは更なる嘲笑が湧き上がった。 ケーキを拭い取って目を開けると、そこにいたのは会社でも有名な風見鶏の連中だった。 風向き次第で、あっさり立場を変える人たちだ。 葵が入社してから涼太が彼女を可愛がっていることを知るや、あいつらはすぐに手のひらを返して私への嫌がらせに加担するようになった。 またこうやって私を困らせて、葵にいい顔をしたいのだろう。 迷わず、一人ずつにビンタを食らわせた。 「これで目が覚めた?」 その光景を、葵と涼太がちょうど目の前で見ていた。 葵はすぐに瞳を潤ませて駆け寄る。 「涼太さん、みんな私のお祝いに駆けつけてくれただけなのに、なんで若葉さんに叩かれなきゃいけないの?顔が立たないじゃない? これからどんな顔をして働けばいいの?私はただ、これ以上の嫌がらせに耐えられそうになくて…… もう会社に行きたくない。辞めさせて。どんなに貧乏な生活を送ることになっても、こんな思いをするよりはずっとマシだわ」 それを聞いて、涼太は優しく葵を抱き寄せる。 「言っただろ。俺がいる限り、誰にもお前を傷つけさせない」 直後、涼太が手を上げると、ボディーガードたちが私を押さえつけ、地面に這わせた。 失望とともに顔を上げると、壇上に立つ涼太の表情は氷のように冷ややかだった。 「こいつは威張るのが好きなようだからな。だったら、やり返せばいいだろう」 あの日、「俺がついているから誰も傷つけさせない」と言って、毎日夜道を歩いて送ってくれた、あの優しい少年はもうどこにもいなかった。 いや、涼太は変わってなどいないのかもしれない、愛する人が変わっただけだ。私が彼の新しい恋を脅かす存在になったということだ。 群がっていた連中は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、少しずつ近づいてくる。 私は懸命に抵抗したけれど、圧倒的な力で押さえつけられていた。 どれくらい殴られ続けていただろう。一方的な暴力がようやく収まった。 腫れ上がった私の顔を見下ろしながら、葵の眼差しに一瞬だけ冷たい色が光った。 「ねえ涼太さん、もし若葉さんがパンパンに腫れた顔で式に出たら、来賓が引いてしまわないかな。会社の面目にも関わるし。 噂のネタにされたら、理屈なんて通用しなくなりそうじゃない?」 その言葉を受けて、涼太は一旦黙ると、私をここから追い出すよう指図した。 体中の激痛に耐えながら、ぐしゃぐしゃになった辞表を涼太に差し出した。 「約束を忘れていないでしょうね」 その時、背後から司会者が急かす声が聞こえた。 第3話 葵も隣で急かしてくる。 涼太は辞表を手に取ると、雑に床に投げ捨てた。 「前にも言っただろ。ただの形式的なものだって。わざわざ大げさに騒ぐなんて、呆れるよ」 そう言い放つと、彼は葵の手を取って背を向けた。 しわくちゃの辞表を拾った瞬間、周囲で巨大なクラッカーが鳴り響き、涼太と葵の結婚を祝う歓声が響き渡った。 私は冷ややかな笑みを浮かべ、そのまま車を走らせた。 辞職の手続きを済ませて家に戻ると、顔中傷だらけで泥まみれの私を見た家政婦の藤本莉子(ふじもと りこ)が、息を呑んで家庭医を呼ぼうと慌てた。 私は首を振った。「大丈夫、自分で手当てするから」 ちょうど宅配便が届き、莉子は嬉しそうに箱を運んできて、私の前で開封した。 「若葉様、見てください。すごく高いオーダーメイドの服ですよ。1ヶ月前から予約しないと買えないような高級品です! 最近は涼太様も葵様に気が向いているみたいですが、ただの魔が差しただけです。本当に思っているのは、きっと7年も一緒にいる若葉様に決まっていますよ! ほら、涼太様はちゃんと若葉様を見ていらっしゃいますよ。内緒でプレゼントも用意して、驚かせようとしたのですね」 なんだこれ?飴と鞭というやつ? 私は心の中で苦笑いしたが、喜ぶ莉子のまえでは黙っておくことにした。 幼い頃から涼太を知る莉子は、私たちの微妙な距離感を察して、関係を緩和させようとしていたのだろう。 私は手当が先だと思い、服には目もやらなかった。 私の傷の処置に手間取っているのを見て、莉子が消毒液を塗りながらなだめるように言った。 「涼太様は昔から落ち着かない性格で、目新しいものが大好きで、怒った時も自分のことばかり考えてしまいますから。 でも私は涼太様の成長を見てきたからわかるんです。気は短くても、大事な人が誰なのかは心の中で分かっているはずですよ。 意地悪をされても、どうかまともに取り合わないでください。涼太様もひとしきり気が済めば、自分の過ちに気付くはずです」 涼太はどういう性格か?7年の付き合いで嫌というほど分かっていた。 「目新しいものが好きなだけ」も、「気が済めば自分の過ちに気付く」も、半分くらいは信じている。 涼太が葵のために何度も私に濡れ衣を着せ、そのたびに後で機嫌をとってきた。だがそれは、彼が婚約者の私を差し置いて葵と結婚式を挙げる理由になるわけがない。 自分の計画を思い出し、私は多くは語らず、「涼太の性格は、私も分かっているつもりです」と濁した。 莉子は嬉しそうに続ける。「そうでしょう?涼太様は本当に若葉様を愛しているんですよ。当初、お二人の結婚に奥様が猛反対した際、涼太様は1週間も一切食事を口にせず抵抗したのです。 奥様に『死ぬなら相続権を放棄させる』と脅されても、涼太様は一歩も引かなかったのですから。 もう、見ている方も痛々しくて……最後は奥様が折れたのですよ」 私は言葉を失った。涼太からはそんなこと一言も聞いていなかった。 彼は「母さんが結婚にはまだ早いとか言ってるけれど俺が説得する」とだけ言っていたのに。 そんな過酷なまでに反抗したなんて、一言も私に教えてくれなかった。 胸の奥でいろんな思いが混ざり合う。今の傷は偽りではないけれど、昔の真剣な愛情も本物だったのだと痛感した。 いっそ最初から、ただの遊びだったらよかったのに。 当時のひたむきな愛がなかったら、こんなドロ沼の中で葛藤せずに済んだのに。 一度は深く愛したからこそ、今は私を愛していないという現実も、7年という時間への未練も、簡単には切り捨てられないのだ。 莉子が手当を終え、再び尋ねた。「その服、少しご覧になりませんか?涼太様のセンスを覗かせてもらいましょうよ」 しつこい催促に煩わしさを覚えつつも、私は箱を開け、ドレスを自分の体に当ててみた。 少なくとも私のサイズより二つは小さい。 状況を理解した莉子が呆然とつぶやいた。「どうしてサイズが……」 私は精一杯の笑みを作り、「間違えたわけじゃないわ。ぴったりだよ」と答えた。 私の服のサイズは常にL、Sサイズは葵のものだから。 これは私を喜ばせるためのものじゃない。葵のためのプレゼントだ。 結局、私の思い上がりだった。 莉子は一瞬呆然としたあと、気まずそうに顔を真っ赤にした。 私は静かに服を片付けると、疲れた声で言った。「誤って人のプレゼントを開けてしまった。藤本さん、後で涼太に謝っておいてくれない?」 次の瞬間、涼太がドアを開けて入ってきた。 愛する人と結ばれ上機嫌な彼は、私を見るなり柔らかな表情を浮かべた。 だが、開封されたドレスに視線が落ちた途端、その顔色は瞬時に曇りきった。 第4話 私は仕方なく苦笑した。「ごめんなさい、私宛だと思ってた」 莉子は感謝の眼差しで私を見た。涼太は眉をひそめて言い放った。「これは葵のために用意したプレゼントなんだ!」 涼太は私の手首を掴み、書斎へ強引に引きずっていく。その冷たい指先が肌に触れ、私は反射的に身を震わせた。 莉子は慌てて後を追ったが、涼太は機嫌が悪く、彼女を完全に無視した。 書斎に入ると、涼太は手近にあった文鎮をつかみ取り、「今回こそ覚えとけ!」と声を荒らげた。 私の手をデスクの上に押し付けたその時、莉子が巻いたばかりの包帯が目に入り、涼太は動きを止めた。 涼太が動かないのを見ると、莉子が慌てて口を挟んだ。「若葉様の手首、やっと治りかけたところなんですよ!」 涼太はそこでようやく私の古傷を思い出し、決まり悪そうに文鎮を置いた。 気まずい沈黙の中、莉子がその場を繕おうと声をかけた。「涼太様、さっさと塗り薬を塗ってあげてください。そんなにひどいお顔で……」 私の顔を覗き込んだ涼太の目に、ほんのりと申し訳なさそうな光が宿った。 涼太は私を座らせ、莉子に薬箱を持ってこさせたが、私は彼の手をそっと避けた。 「いいわ。上に行って少し休んでくるから」 涼太の手が空中で止まる。私の突然の拒絶に、彼は驚きを隠せない様子だった。 突如、言い知れぬ不安に襲われる涼太。何かもっと大切なものを、今失おうとしている気がしたのだ。 涼太が気づいた時には、すでに私の姿は書斎になかった。 現実に引き戻された涼太は、リビングまで追ってきた。「おい若葉!いつまでそんな態度をとるんだ?」 私は黙り込んだ。莉子は薬箱を抱えたまま、怯えたように立っている。 その沈黙を切り裂くように、涼太の祖母・中山和子(なかやま かずこ)からの電話が鳴り響いた。 「若葉かい?今日は涼太と二人で、うちの食事会に来るのを忘れないでね。久しぶりに友人たちにも紹介したいし、これから先が長いんだから、色んな人と知り合っておいて損はないわよ」 困った。中山家の中で唯一、優しく接してくれる和子を拒絶することはできない。 初めて中山家に連れて行かれた日のことを思い出す。中山家の方から、どれほど冷たい視線を浴びたことか。 当時、涼太が母親の中山夏美(なかやま なつみ)とどれほど対立していたのかは知らなかった。ただ涼太を困らせたくなくて、すべて呑み込んで耐えてきた。彼には何も言えないままに。 結局、その苦境から救ってくれたのは、いつだって和子の一言だった。 けれど、飛行機のチケットは既に手配済みだ。ここで涼太と食事会に行けば、この地から離れる好機を逃してしまう。 断る言葉を探していると、不意に現れた涼太が消毒薬を手に持ち、私の代わりに応答した。 「おばあちゃん、若葉は今風邪を引いていて、医者からも静養するようにと言われてるから、残念ながら行けないんです。 嘘をつくわけがないよ。無理をさせたくないんだ。有給休暇だって取らせたし、どれだけ深刻か分かるでしょう? ああ、大丈夫だから。良くなったら必ず、また一緒に顔を出しますから」 電話を切ると、涼太は無理やり私をソファに座らせ、数枚の書類を差し出してきた。 「見てくれ、これならどうだ?」 封を切ると、かつて私が切望していた案件ばかりが並んでいる。 不思議がる私を見て、涼太は笑った。「これは今日のお詫びさ。やむを得ない事情だったんだ。分かってくれるだろう?」 私は答えなかった。以前の私なら、実績を作って中山家に認められるためならと、迷わず飛びついただろう。 だが今は違う。涼太と一緒にいるつもりはなく、この会社に固執する理由もない。これはただの紙くずだ。 それなのに涼太はまだ、利害関係があれば私の心をつなぎ止められると信じているらしい。 強圧と甘い餌。涼太、本当に底知れぬ策士になったものだ。 涼太は続ける。 「今はそんな状態で帰るわけにもいかないだろう?葵を連れて行くことにするよ。お前は家で休んでいろ。人事部には3日分の休暇を申し伝えておいた」 言いながら綿棒で顔に触れようとする手を、私は反射的に避けた。 涼太は虚しく手を下ろし、眉間にしわを寄せた。 「今日の騒ぎだって、お前が自分で招いたことだろう?先に手を出さなきゃ、俺が力ずくで押さえつける必要だってなかったはずだ。なのに何を拗ねてるんだ?」 私が黙り込むと、涼太はカバンから小さなヘアピンを取り出し、愛おしそうな顔で私の髪にそっと留めた。 「すべては会社と、俺たちの未来のためだ。すでに離婚届も準備済みだ。手続きが終われば、お前と本当に一緒になれる。もう少しだけ待ってくれ。心はずっとお前と一緒だから」 髪留めが髪の毛に引っかかり、小さく痛みが走った。 付き合っていた頃は、涼太はいつもこんな調子で私を慰めていたものだ。可愛いヘアピンを付けられるたびに、幼い仕草だと思って笑い、大事に保管した。 以前なら無限にときめかせてくれたその行動が、今ではただ虚しくて、滑稽にみえた。 涼太はその場を立ち上がり、車の鍵を手に外へ出た。 窓越しに見る、赤いスポーツカーが瞬く間に遠ざかっていく。 葵が住んでいる場所に向かっているのだ。 あの新築のマンションの部屋一つで、私の50年分の給料が消えてなくなるような場所だ。 私は髪の留めを外すとテーブルに投げ捨てた。心に渦巻いていた最後の情念が、今ここで音もなく消えていった。 涼太は、私に内緒で葵のためにマンションを買っていたのだと、今の今まで思い込んでいた。 第5話 しかし涼太と葵が結婚を発表したその日、葵はしたともストーリーズで、マンションの権利書を晒しこう綴った。【ありがとう。結婚前にマンションなんて最高】 だがそれは24時間もたたないうちに消されてしまった。涼太はまるで何もなかったように装い、もし周りが気づいていたとしても、隠すつもりの涼太が私に真実を話すはずもなかった。 莉子もきっと知っていたはずだが、私には一言も漏らさなかった。 これが、私がここを離れようと思う最後の引き金になった。 私はこの関係にどうしようもなく苦しんでいる自分に気づいた。涼太の方を少し多く好きでいることや、過ごしてきた7年という月日の重みのせいだけではなかったのだ。 私たちの間には、決定的な力の差が存在していた。 涼太には強大な家柄、恵まれた経済力や社会的な立場がある。愛情が最高潮にある時は見えなかったそんな差が、極端に際立っていた。 だが今は? 愛の魔法が消えれば、親密な関係であっても力の格差という現実からは逃れられない。 私がどんなに大声を上げたり、別れると言ったりして不満をぶつけたとしても、涼太は全てを水面下に押し隠すことができるのだ。 莉子にしてみれば、涼太ほどの身分の人が私に惹かれ、駆け落ちまで考えたのだから、それだけで私にとっては十分な果報だと思っているに違いない。 でも、そんな「果報」なんて私にはいらなかった。 二人の仲が良くても悪くても、涼太の立場が上である限り、私を傷つける権利も彼の手中にあることに変わりはないのだ。 どうやら涼太は、この力を都合よく使う術に長けていたらしい。 葵の尻拭いのために残業を命じられ、辞表を出してもやめさせないと言って脅され、隠し持っていたマンションのことまでも…… 私は皮肉な笑みを浮かべ、すぐさま使用人たちに休暇を与えると、上の階に行って荷造りを始めた。 クローゼットを開けると、かつて溢れかえっていたはずの高価な服はなく、ハンガーだけが残っており、ゴミの中から拾い上げたような臭い服が数枚置かれているだけだった。 それを見て、涼太が葵を連れてここで泊まった夜のことを思い出した。 「着替えがない」と言い出した葵のため、クローゼットの全てを持ち出させたのだ。私の下着まで根こそぎ持っていきやがった。 喧嘩するつもりはなくても、流石に問い詰めたくなる。 「どんなに冷えているのか知らないけど、私の下着まで全部持っていくなんてどうかしてるわ!そんなものを溜め込んで何にするつもり?」 私が反論しようとした途端、葵が突然壁に突進しようとして泣き始めた。 「どうしていつもそんなに威圧をかけるんですか?涼太さんに雨宿りをさせてもらっただけです……服を借りただけで若葉さんが怒るなら、いますぐ脱ぎ捨てますよ。私、風邪気味だけど大丈夫ですから」 そう言いながら、葵は大袈裟な咳をして、まるで肺がこぼれ落ちそうなくらいに弱った姿を演じ始めた。 あまりに拙い演技だというのに、涼太の表情には同情と心配の色が滲んでいた。 彼はそこまでして葵を信じ切っていたのだ。 次の瞬間、弁解の余地もなく、涼太は私に往復ビンタを食わせ、葵を背中で庇った。 「ただの着替えだろう?なぜそこまで騒ぐんだ? こんなに激しい雨の中で葵を外に追い出して凍死させたいのか?お前は随分と強欲で利己的になったな!」 私は首をかしげると口角から熱い血が滴った。それを親指で拭った。 その姿を見て涼太の眼差しに一瞬だけ後ろめたさが宿ったが、すぐに表情が硬直した。 街の明かりを反射する夜の雨と、私の額の汗が鏡に映った。 思わず鼻で笑った。 この地域の梅雨は熱くて蒸し暑い。それなのに涼太はエアコンを全開にし、暖炉に火を入れるように命じていた。 寒いどころか、室内はまるでサウナ室になったようだ。 私が何も言い返せずにいると、葵はさらに被害者面を決め込んだ。 「もう行くわ。若葉さんが私をそんなに嫌がるなら……こんな扱いを受けるのはもう耐えられないもの!」 口ではそう言いつつ、足は少しも動かさず、むしろ涼太へぴったりと身を寄せた。 葵が出ていこうとする演技に涼太は青ざめ、慌てて彼女の手を掴んで止めた。 「こんな遅い時間にどこへ行くんだ?外は危険だぞ。俺の言う通りにして、今夜はここにいなさい。 俺がいるから、誰にもおまえの文句は言わせない」 そう言うと涼太は冷たい視線で私を一瞥し、葵を連れて2階へと消えた。 翌日クローゼットを開けると、中にはゴミのような汚れ物で溢れていた。 後ろから葵の冷淡な声がした。 「潔癖症ですって?治るように特効薬を持ってきてあげましたよ」 私は吐き気を感じ、「頭おかしいんじゃないの?」と一言だけ告げた。 すると次の瞬間、葵は自らの頬を激しく叩き、床に崩れ落ちた。 私は驚いて振り返ると、涼太が既に後ろに立っていた。 葵の頬の鮮烈な赤みを見て、涼太の怒りが頂点に達したのが分かった。 言い訳すら許されず、屈強なボディガードたちが私を床にねじ伏せた。 声を上げようとしたが、口が塞がれて何も言えなかった。 「若葉、言ったはずだ。葵に触れるなと」 涼太が指示を出すと、ボディーガードが私の手首を容赦なく踏みつけた。 痛みで涙があふれ、必死に抵抗したが、口をふさがれているため声が何ひとつ出ない。 何が起きたか理解する前に、もう一方の足も無情に私を踏みつけた。 1回、2回と、骨が折れる鈍い音が響くまで、地獄の痛みが続いた。 涼太は、ボディーガードが私の腕を完膚なきまでに踏み折る光景を、ただ冷たく見つめていた。 そんな残虐な場面を見せまいと、甲斐甲斐しく葵の目を隠した。 激痛と冷汗にまみれ、私の視界は涙で完全にぼやけていた。 7月の空気は不快なほど湿気を含み、手首から滴り落ちる血すら冷たく感じた。まるで底のない井戸に沈み込んだようだった。 朦朧とした視界の向こうで、涼太が冷酷な表情で私を見下ろしていた。 「俺の言ったこと、次からは忘れるな」 続けて、使用人を呼んで、いやな臭いがついた服を無理やり私に着させた。 第6話 涼太は鼻を覆って言った。 「これは葵が一生懸命お前のために見繕ってきたんだ。その気持ちを無下にするんじゃないぞ」 口に詰められた布は取り出されたが、痛みでもう声も出ず、虚ろな目で天井を見つめるしかなかった。 葵は得意げに言った。 「涼太さん、見て。この方法は本当に効果抜群ね、若葉さんもちゃんと大人しくなったわ」 涼太はそれに頷き、使用人から氷嚢を受け取ると、そのまま葵を連れて階下へ降りて行った。 私はかつて踏み折られた自分の手を見下ろした。たとえ治っても、その時の痛みは心の奥底にずっと残ったままだ。 私は手をぎゅっと握りしめ、わずかな荷物を見つめた。これが7年間の全てなんて、信じられなかった。 でも、ここを出られるなら、それでいい。 荷物を玄関に置くと、倉庫からアルコールを持ち出し、カーテンと木製の家具に均一に染み込ませた。 手書きのラブレター99通も良い可燃物だ。カーテンのそばに積み上げた。 かつての思い出の品々も、全て並べていく。 情熱に満ちた宝物も、今やただの燃焼材に過ぎない。 別に元彼への復讐がしたいわけじゃない。ただ、手首を無理やり踏み折られたあのことで、慎重にならざるを得なかった。 これみよがしに別れを切り出したら、無事に出ていける自信がない。 これ以上事をややこしくしたくないから、時間稼ぎのために少し目くらましをすることにした。 リビングの壁から、涼太とのツーショット写真を外し、炎が彼の顔を飲み込んでいくのを見届けた。 私は手を離し、炎が写真の中の私の顔も飲み込んでいくのを見届けた。 涼太、もう二度と会わないからね。 それから私はドアを閉め、スーツケースを引いて空港へと向かった。 …… そのとき、涼太の方では得意げに葵を家族に紹介していた。 彼が散々褒めちぎったおかげで、葵の評判は上々だった。 和子は、若葉の名前を口に出した。 「若葉はどうしたの?」 しかし、夏美に遮られた。 「その名前を出さないでくださいよ。会社に億単位の損失を出させて、本当に足を引っ張るだけの役立たずですから。 身内の食事会にも顔を出さないなんて、礼儀知らずにも程があるでしょう!」 涼太はこれを聞くと、珍しく若葉の弁解をした。「若葉は風邪が治りきっていなくて。おばあちゃんにうつすといけないと思って来させなかったんだ」 和子は頷いた。「あの子は仕事に打ち込みすぎなのよ。休むように言ってやりなさい」 夏美は不満そうに黙り込んだ。和子がわざわざ若葉を気遣って、仕事ぶりまで褒めたのは、庇っているというサインだと理解したからだ。 和子と対立するのは避けたかったが、若葉のことが気に食わないことには変わりない。より一層、葵に対して愛想を振りまいた。 「葵さん、ゆっくりしていって。成績優秀で会社の柱だと聞いたわよ?毎日大変でしょ?ここを自分の家だと思って、気を遣わなくていいからね」 「自分の家だと思って」と言われて、葵は心の中で小躍りした。 夏美がここまで言うのは、十中八九、若葉に対して不満を抱いている証拠だ。 中山家の嫁の座が、自分のものになる日もそう遠くはないと感じた。 和子の笑顔は崩れない。「葵さんはあくまでお客さんなので、心地よく過ごしてもらわなくちゃね。使用人に一番広いゲストルームを掃除させて、おもてなしの心で迎えさせなさい」 「客」という一言で、内と外の境界線をはっきりさせた。 夏美は気まずそうな表情になった。あの気弱でどんくさい若葉が、どうして和子にあんなに好かれるのか見当もつかない。 しかも涼太はかつて、あんな冴えない女のために、良家の令嬢をたくさん断ってきたというのに。 それだけじゃない。若葉にすっかり洗脳されて、中山家に入りたくて絶食までする始末だった。 相続権を捨てさせると脅しても、涼太は一向に気に留めなかった。 若葉があれほど涼太を夢中にさせているなんて、この先、中山家も彼女の言いなりにならないか不安だ。 若葉は最近仕事も低迷しているらしい。どうせ涼太が自分を放っておけないと高を括って、暇な家庭主婦にでもなるつもりだろう? 若葉が誠実で信頼できる女性だという和子の言葉を、危うく信じかけた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。 おっとりしたふりをして腹に一物あるような女には、絶対に中山家の嫁の座なんて譲れない。 和子の態度が緩まないのを見て、涼太はホッとした。自分も少し遊びすぎたと自覚していた。 確かに葵のことは少し魅力的だった。でもそれは激情と新鮮さであって、長年苦楽を共にしてきたのは若葉だった。危機に陥っても互いに手を差し伸べ、夜中に二人だけの秘密を打ち明けてきた相手も、若葉だった。 自分と若葉にはあまりにも濃い思い出がありすぎる。他の誰かに入れ替えられるなんて考えていなかった。 もし葵がこれほどにまで家族に気に入られてしまったのなら、事態は面倒なことになる。 涼太は葵の手を握りしめ、少し控えめにするよう促した。 葵が事態を呑み込めていない間、涼太が言った。「おばあちゃんの言う通りです。若葉の風邪が治ったら、ここに連れてきて顔を見せることにします」 言葉が終わるのとほぼ同時に、涼太に莉子から着信が入った。 「涼太様、大変です。家中が火事で炎上して、若葉様がその中で…… 今すぐ戻って確認してください!大変なことになっています!」