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元カノを優先する彼との三年に終止符を
私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞...
Chương (1)
第1章
私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。
病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。
「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」
真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。
けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。
彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。
そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。
「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。
栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。
だから、もうこれ以上困らせるな……」
一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。
けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。
最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。
その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。
「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」
固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」
第1話
私、橋本真緒(はしもと まお)の幼なじみの高城郁人(たかぎ いくと)が、ついさっき私に想いを告げてくれたばかりなのに、その元恋人の森田栞里(もりた しおり)が交通事故に遭った。
病院の廊下で、郁人の声だけがやけにはっきりと響いた。
「栞里は今、刺激しないほうがいいんだ。悪いけど、しばらく我慢してくれ。俺たちのことは彼女に言わないでほしい」
真剣な眼差しを向ける彼を見て、私はそっと頷いた。
けれど、その「我慢」が、まさか三年にも及ぶなんて思ってもみなかった。
彼は彼女のために栄養食を作り、リハビリに付き添い、ありったけの優しさを彼女に注いだ。
そのくせ、私がたまに不満をこぼすと、だんだん苛立ちを隠さなくなっていった。
「真緒、変なこと考えるな。今はただ、栞里が俺を頼りにしてるだけだ。元気になれば、ちゃんと元に戻る。
栞里に友達として責任を果たしてるだけだ。
だから、もうこれ以上困らせるな……」
一度や二度じゃなかった。そのたびに彼は、まるで本心からだと言わんばかりに言い切った。
けれど、温かい手料理の入った保温ポットを手に病室の扉を開けた瞬間、キスを交わしている二人の姿が目に飛び込んできて、そのとき初めて思い知った。
最初から最後まで、自分がどれほど愚かだったのかを。
その場で立ち尽くす私に気づくと、栞里はやわらかな笑みを浮かべた。
「真緒、いい報せがあるの。私たち、よりを戻したのよ。あなたも早く彼氏を見つけなきゃね。真緒が幸せになるところを見たいわ」
固くつながれた二人の手を見つめながら、私は目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「実は私にも彼氏はいたの。でも、さっき……別れたの」
その言葉が落ちた途端、郁人の身体がはっきりと一瞬こわばった。
栞里は申し訳なさそうな声を出した。
「真緒、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
私は口元をわずかに引きつらせた。
「大丈夫」
「でも、どうして別れちゃったの?」
どうして、なのだろう。
たぶん私は、誰にも言えない関係を三年ものあいだ守り続けてきたからだ。
そして今、もう守るのをやめたくなった。
彼女は車椅子を寄せながら近づいてくると、物わかりのいいお姉さんみたいに私の手をぽんと叩いた。
「人と人がこうして出会えたのも縁なんだから、少しのことで別れてしまうなんてもったいないわよ。
ほら、私と郁人だって、あの頃は若気の至りで離れただけだったの」
栞里はそう言って彼のほうを振り向き、目元に甘い笑みをにじませた。
「でもよかった。こうして、また一緒になれたんだから」
しばらくのあいだ、部屋には私たち三人の、重なり合わない呼吸の音だけが静かに漂っていた。
私は気づかれないようにそっと手を引き戻し、かすかな笑みを作った。
「ちょっとしたことでもなかったし、若気の至りでもなかった。
彼の心の中には、まだ別の人がいたから」
栞里は唇をきゅっと結び、気まずそうに曖昧な笑みを浮かべた。
私は顔を上げ、彼女越しにまっすぐ郁人の目を見た。
彼は眉をきつく寄せ、表情を強張らせたまま私を見つめていた。何を考えているのかは分からなかった。
しばらくして、彼は前に出ると、ごく自然な仕草で私の手から保温ポットを受け取った。指先が不意に私の手の甲をかすめ、ほんのわずかに触れた。
慰めだったのか、それとも牽制だったのか。
私には分からなかった。
私はその場に立ち尽くしたまま、二人を見つめた。あまりにもお似合いで、まるで最初から結ばれる運命だった恋人同士みたいだった。
それも当然だった。もともと二人は付き合っていたのだから。
彼女は、郁人が大学時代に付き合っていた恋人だった。頭がよくて、きれいで、眩しいほどに人目を引く人だった。
その関係は、一時は結婚の話まで出るほど真剣なものだった。
まさか卒業の年に、彼女が金持ちの御曹司のために、あんなにもきっぱりと郁人に別れを告げるなんて、誰も思っていなかった。
郁人は丸一か月、自分の部屋に閉じこもった。
酒に溺れ、眠れなくなり、見る影もないほど痩せ細っていった。
私は冷たい床に座り込んで、ぼんやりする彼のそばにずっといた。一日中そうしていても、言葉を交わすことはほとんどなかった。
彼の荒れ果てた姿を家族に知られないよう、私は必死に隠し通した。
私はずっと見てきた。失恋のどん底から這い上がり、起業して、必死に働きながら、少しずつ会社を軌道に乗せていく彼の姿を。
そしてある日、何の前触れもなく彼が私にこう言った。
「真緒、俺たち、付き合おう」
やっと、ずっと願っていた幸せが自分のものになるのだと思った。
けれど、それはただ、運命に弄ばれていただけだった。
付き合い始めてまだ数日しか経っていない頃、栞里は交通事故に遭った。
第2話
彼は言った。栞里は足に障害が残り、ひどく心を病んでいて、少しでも刺激を与えれば、心が折れてしまいそうなほど脆いのだと。
彼は言った。今の彼女にはもう自分しかいないから、しばらくは私たちの関係を隠してほしいと。
彼は言った。栞里に対して、もう恋愛感情なんて欠片もなくて、ただ友人として世話をしているだけだと。
私はそれを信じた。
でも、私は忘れていた。長年あれほど深く絡み合ってきた二人が、ただの友達でいられるはずがないのだ。
帰り道、車内の空気は息が詰まるほど重かった。
先に沈黙を破ったのは郁人だった。
「さっきは、栞里を刺激したくなかったから、話を合わせただけだ。変に考えるなよ」
私は窓の外を流れていく景色を見つめたまま、感情のない声で言った。
「説明しなくていい」
彼はしばらく黙ったあと、車を路肩に停めて、こちらを振り向いた。
「怒ってるのか?」
彼はいつものように、なだめるような仕草で私に身を寄せてきた。
「医者も、栞里の状態はだいぶ良くなってきてるって言ってた。もう少し落ち着いたら、ちゃんとしたタイミングを見て、彼女にきちんと話すから」
また、その言葉だった。
この三年で、もう何度聞かされたのかも覚えていない。
そして、それがただ私をその場しのぎで宥めるための口実にすぎないことも、もうとっくに分かっていた。ただ目の前の波風を立てないためだけの言い訳なのだと。
私は淡々と相槌を打った。
「うん」
彼は眉をひそめて、さらに問い詰めるように言った。
「今日、いったいどうしたんだ?」
分かっていた。彼がそう尋ねる時、本当に私を気にかけているわけではない。
ただ、慣れていないだけなのだ。
私が目を赤くして傷ついた顔を見せないことにも、頭を撫でられるのを待つペットみたいにおとなしくしないことにも、彼は戸惑っていた。もう私は、聞き分けのいいペットをあやすようなやり方で宥められる女ではなかった。
私は顔を上げ、静かに彼を見つめて、一語一語はっきりと口にした。
「郁人」
「ん?」
「あなたは、本当に私と結婚してくれるの?」
その瞬間、私は彼の目を見ていた。
そこにあったのは、ためらいと逃げの気配だけだった。愛情だけはひとかけらもなかった。
心が、少しずつ底へ沈んでいった。
その時、突然彼のスマホがけたたましく鳴り出した。
画面に表示されていた名前は、栞里だった。
郁人は一瞬で姿勢を正し、電話を取った。その声は、栞里に向ける時だけのやわらかな響きに変わっていた。
「栞里、どうした?どこか具合でも悪いのか?」
電話の向こうで何か言われたのか、彼の表情が一気に張りつめた。
「分かった、そのまま動くな。
今すぐ行くから、怖がるな」
電話を切ると、彼は私のほうを一度も見なかった。
「栞里がうっかり転んだらしい。俺、行って様子を見てくる。お前は自分でタクシー拾って帰ってくれ」
そう言いながら、彼はすでに私のシートベルトを外し、そのまま片手で車のドアを開けていた。
エンジン音はあっという間に遠ざかり、テールランプは重たい夜の闇の中へ消えていった。
彼と同じように、そこには私への未練なんてほんの少しもなかった。
自分がいったいどれくらい歩いたのか、もう覚えていない。
ただ、家に着いた頃には、両足にはもう靴擦れの水ぶくれが潰れて血がにじみ、一歩進むたびに刺すような痛みが走っていた。
見慣れたその扉を開けると、室内からあたたかな黄色い灯りがこぼれ出た。
ここは私たちの新居だった。私が何度も思い描いてきた、二人の家だった。
けれどそれも、郁人が私を宥めるために買っただけのものだった。
淡いベージュのソファ、木目のダイニングテーブル、壁には幼い頃から今までの私たちの写真が飾られていた。
幼稚園で手をつないで写った写真、高校で肩を並べて撮った写真……
どの古い写真の中でも、彼は私の髪をくしゃっと撫でながら、目元をやわらかく細めて、清潔で優しい笑顔を見せていた。
でも、そうした光景は私の記憶と一緒に、少しずつぼやけて色褪せていった。
いちばんはっきりしているのは、私たちが付き合ってから撮ったあの一枚だけだった。
その写真の彼は、ただぎこちなく私の隣に立っているだけだった。口元にはかろうじて笑みを浮かべていたけれど、目はまったく笑っていなかった。
十年に及ぶ片想いは、蔦のように私の青春に絡みつき、長いあいだ私を縛りつけていた。
そして今日、その蔦もようやく枯れ落ちた。
どれくらい時間が経ったのか分からない頃、玄関の鍵が回る音がした。
郁人が帰ってきた。
外の冷えた空気をまとったまま、彼は目元に疲れを滲ませていた。
そして、私の足にできた赤く腫れて皮の剥けた靴擦れを見た瞬間、彼の目がかすかに揺れた。
第3話
そのあと、彼は棚から救急箱を取り出し、しゃがみ込んで私の傷の手当てをしてくれた。
私は拒まなかった。ただ、彼が救急箱を開け、消毒液を手に取って、私の足首に丁寧に塗っていくのを黙って見ていた。
その手つきはひどく慎重で、力加減も絶妙だった。
「タクシーで帰れって言っただろ。どうしてこんなになるまで無理したんだ?」
私は答えなかった。
真夜中で、人けのない場所だった。タクシーがつかまらないのは言うまでもなく、たとえ拾えたとしても、女一人で安心して乗れるはずがなかった。
栞里のこととなると張りつめていた彼も、その緊張が抜けた途端、ほとんど一瞬でそこまで思い至ったようだった。
手の動きがわずかに止まり、声の調子まで少しやわらいだ。
「しばらくあまり歩くな。明日、病院で診てもらったほうが安心だ……」
私はそっと彼の言葉を遮った。
「郁人、別れよう」
静寂。
息が詰まるような静寂だった。
しばらくして、彼は眉をひそめたまま立ち上がり、苛立たしげに息を吐いた。
「真緒、いい加減にしろよ」
私はうつむいて、かすかな苦笑を漏らした。
ようやく覚悟を決めて別れを切り出したのに、彼の目にはただ私が駄々をこねているようにしか映らない。
私が十年も彼を好きだったからこそ、彼はきっと思い込んでいるのだ。本気で自分のもとを離れることなんてできない、この関係を本当に手放せるはずがない、と。
私は静かに彼を見つめ、真剣に言った。
「郁人、もう待ちたくないの」
私の恋も、私の人生も、どうして別の女の人に振り回されなきゃいけないの?
そんなふうになるくらいなら、いっそいらない。
郁人は口を開き、何か言おうとした。
けれど、言葉になる前に、またスマホが鳴った。
また栞里だった。
郁人は電話に出ると、数秒後にはコートを手にして玄関へ向かった。
玄関先まで行ってから、ようやく振り返り、さっき別れを告げたばかりの私を見た。
「変なこと考えるな。待ってろ、そしたら――」
そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。さっき私が口にした言葉を思い出したのだろう。
少し迷ったあと、言い直すように言った。
「俺は絶対に、お前と結婚する」
ドアが静かに閉まり、かちりと小さな音を立てた。
彼は、車の中で私がした問いに答えたのだった。
「あなたは、本当に私と結婚してくれる?」
ようやく肯定の答えをもらえたのに、少しも嬉しくなかった。
私はがらんとしたリビングに座ったまま、一睡もできずに夜を明かした。
空が白み始めるころ、私は立ち上がってパソコンを開き、会社が前から出していた海外赴任の募集ページを開いた。
必要事項をすべて入力し終え、指先がほんのわずかに震えたあと、私は迷わず送信ボタンを押した。
画面に「申請完了」と表示されたとき、私は長く息を吐いた。まるでこの三年間ずっと背負っていた重荷をようやく下ろせたみたいだった。
上司から電話がかかってきた。その声は驚きを隠しきれていなかった。
「橋本さん、まさか君が海外赴任に応募するなんて。
これまで三回もチャンスがあったのに全部断ってたのに、どうして今回は急に気が変わったんだ?」
会社では毎年一度、海外派遣の機会があった。待遇はよく、将来性もある。誰もが喉から手が出るほど欲しがる枠だった。
私はそのたびに、郁人のために諦めてきた。
何度も何度も、彼のために自分の人生をその場に縛りつけてきた。
でも、もう今回は違う。
私は少しずつ明るくなっていく窓の外を見つめ、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「別に大したことじゃないんです。ただ急に吹っ切れただけ。もう誰か一人のために立ち止まりたくないんです」
電話を切ると、SNSに新しい投稿の通知が表示された。
栞里の投稿だった。
写真はたぶん付き添いの人が撮ったのだろう。構図は出来すぎなくらいきれいだった。
彼女は安心しきったように郁人の膝の上に腰を下ろし、郁人は顔を伏せて彼女を見つめていた。その眼差しは、とろけるように甘かった。
添えられていた一文は、ただそれだけだった。
【遠回りしても、やっぱりあなた】
私は指先で軽く画面を叩き、その投稿に「いいね」をつけた。
それからスマホを置き、立ち上がって荷造りを始めた。
ほどなくして、スマホの画面がまた点いた。
郁人からのメッセージだった。表示されたメッセージは、結局いつもの取り繕うような慰めの言葉ばかりだった。
細かく読む気力すらもうなくて、私はそのままスマホをマナーモードに切り替え、手近なところへ放り出した。
第4話
その時から、彼の世界はもう私とは無関係のものになった。
翌朝早く、私はリビングの物音で目を覚ました。
郁人はリビングに立っていた。目は赤く充血していて、一晩中まったく眠っていないのがひと目で分かった。
以前の私なら、きっとすぐに駆け寄って、体調を気遣う言葉をかけていたはずだ。
でも今は、彼が疲れていようが、眠れていなかろうが、もう私には関係なかった。
私はそのまま彼の横を通り過ぎようとした。けれど不意に手首をつかまれた。
彼の声はかすれていて、隠しようのない疲労が滲んでいた。
「真緒、どうして俺のメッセージに返事しなかったんだ?」
「スマホをマナーモードにしてたから。気づかなかったの」
「どれだけ心配したと思ってるんだ?何かあったんじゃないかって思って、慌てて戻ってきたんだぞ」
私は少し黙ってから、顔を上げて彼を見た。
今度こそ、彼の目の中にいくらか本物の感情が見えた。
でも、もう遅かった。私はもう、信じない。
私は少し力を込めて、その手を振りほどいた。
「私は大丈夫よ」
郁人は、私が栞里のあの投稿のことで腹を立てているのだと思ったらしい。
彼は目を伏せ、声をやわらげて取り繕うように言った。
「ただ、栞里を動揺させたくなくて、その場しのぎで話を合わせただけで……」
「分かってる」
私は静かに彼の言葉を遮った。
「あなたは栞里に対して、友達としての責任を感じてるだけ。それ以上の気持ちなんてない」
彼が言おうとしていたことを、私はもう慣れきったように先回りして口にした。声は自分でも驚くほど静かで、何の揺らぎもなく、かえって可笑しささえ込み上げるほどだった。
彼は複雑な目で私を見つめた。私の顔から、拗ねている証拠でも探そうとしているみたいだった。
けれど、何も見つけられなかった。
郁人は口を開き、まだ何か言おうとした。だが、その時スマホが鳴った。
わざわざ確かめなくても分かった。また栞里だ。
ただ今回は、郁人はいつものようにすぐ電話を取らなかった。
彼の視線は私と画面のあいだを揺れ、なかなか通話ボタンを押せずにいた。
私はどこか他人行儀な笑みを浮かべた。
「出てあげて。待たせたらかわいそうでしょ」
郁人は少しためらった末、結局ベランダへ出て電話を取った。
通話を終えて戻ってきた時、私はゆっくり朝食を口にしていた。
彼の分は用意していなかった。
彼の視線が何もないテーブルの空いた場所をかすめ、その目にわずかな居心地の悪さがよぎった。
「真緒、もう一度そっちに行ってくる。戻ったら、ちゃんと説明するから」
ドアが閉まったその瞬間、私は目の前の牛乳を手に取り、一気に飲み干した。
ぬるい温度の液体が喉を通っても、冷えきった心は少しも温まらなかった。
私はそばに置いてあったスーツケースを引き寄せ、最後の荷造りを始めた。
服、書類、パスポート。一つずつきちんとたたみ、ケースの中へ収めていく。
昨日、海外赴任の申請を出した。そして明日には出発する。
私はソファに腰を下ろし、思い出の詰まったこの家を見渡した。
ここはかつて、私の希望と憧れのすべてだった。
でも、ようやく手放せる。
その夜、郁人は帰ってこなかった。
彼からはたくさんのメッセージが届いた。一通、また一通と続き、文章はどんどん長くなっていった。
ただ私は、せっかく取り戻した静けさまでかき乱された気がした。だから一つも返さなかった。
翌日の午前、私は早めに空港へ着いた。
チェックインを済ませたばかりの時、突然スマホが鳴った。
出た瞬間、郁人の張りつめた声が耳に飛び込んできた。
「真緒、今どこにいる?お前の荷物が全部なくなってるんだけど。
どこにいるか教えてくれ。迎えに行く。ちゃんと話そう、な?」
「もういいの」
私は落ち着いた声で彼の言葉を遮った。
「もう遅い」
電話の向こうで、彼は一瞬言葉を失った。
「……どういう意味だ?」
ちょうどその時、空港のアナウンスが流れた。はっきりとした案内音声が受話口越しに聞こえたのだろう。
彼の声が一気に高くなる。
「空港にいるのか?どこへ行くつもりだ?」
「もうあなたには関係ない」
私は少し間を置き、搭乗口のほうへ流れていく人の波を見つめながら、続けた。
「もう一つ、あなたに隠していたことがあるの。だけど、それももう隠したくない。実は……」