夫の初恋が帰国。身代わりの私は対テロ部隊へ

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夫の初恋が帰国。身代わりの私は対テロ部隊へ

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「村上、本当にこの道を行くつもりなのか?」隊長は掠れた声で言った。「君のお兄さんのことは……」 「覚悟はできています。あの時、兄が成し...

Chương (1)

第1章

「村上、本当にこの道を行くつもりなのか?」隊長は掠れた声で言った。「君のお兄さんのことは……」 「覚悟はできています。あの時、兄が成し遂げられなかったことを、今、私が最後までやり抜くつもりです!」 第1話 「隊長!この度認識番号を引き継ぎ、国際対テロ特殊部隊として任務に参加することを申請させていただきます!」 広い会議室に村上怜奈(むらかみ れいな)の声が響く。目の前には亡き兄・藤原蓮(ふじわら れん)の戦友たちが制服姿で並び、胸部の部隊章や国旗が輝いて見えた。 隊長は、蓮の認識番号が刻まれたプレートを怜奈に渡す際、少し手を震わせていた。 「村上、本当にこの道を行くのか?」かすれた声で隊長が問う。「君のお兄さんは……」 「覚悟はできています。あの時、兄が成し遂げられなかったことを、今、私が最後までやり抜くつもりです!」 壁の国旗を見つめながら、怜奈は幼い頃に蓮から敬礼を教わった記憶がフラッシュバックする。 蓮はいつも言っていた。「怜奈、もう少し手を高く上げるんだ」と。 隊長は背を向けて涙を拭う。「いいだろう。ようこそ、国際対テロ特殊部隊へ。2週間後のX国への派遣、君も同行してくれ!」 怜奈は大きく頷き、警察署から出ると、ちょうどスマホが鳴った。村上家本家の執事からの電話だ。 「怜奈様、お戻りください!海斗様が大旦那様に呼び出されて……酷くしつけられてます」 一瞬の迷いの後、怜奈はタクシーを拾い、村上家本邸へと急いだ。 別室のドアを開けると、村上勲(むらかみ いさお)が持つ竹刀が村上海斗(むらかみ かいと)の背中を容赦なく叩いていた。 バシッ―― 静かな空間に響く竹刀を振り下ろす音はやけに耳についた。 海斗は正座のまま背筋をピンと伸ばし、背中で竹刀が振り下ろされるのを受け止めるが、声をひとつも上げなかった。 「内緒であの岩崎家の小娘を連れ戻すなど、お前の亡き両親に合わせる顔があるのか!?」勲は声を震わせ、再び竹刀を振り上げる。「長年経ってもまだあの女が忘れられんのか?」 海斗は沈黙を貫いた。 「返事をしろ!」勲は激昂し、さらにもう一発食らわせた。「まだ忘れていないんだな!?」 海斗はそれでも無言を続けた。 一方、ドアの前で固まる怜奈は、指先が掌に食い込むほど強く拳を握りしめていた。 海斗の背中を叩かれる乾いた音が、そのまま怜奈の胸にも響き、彼女の息を詰まらせた。 海斗は最後まで何も語らなかった。 その沈黙こそが、どんな言葉よりも残酷だった。 否定しないということは、認めざるを得ない事実だからだ。 こうして打撃が止むことはなく、海斗はついに耐えきれず、前のめりに倒れ込んで気を失った。 怒りに震えながら、勲は倒れた海斗を指差した。「病院へ運べ!」 ほどなくして、病室で、怜奈は海斗の手当てをしていた。 薬を含ませた綿棒で傷口に触れるたび、痛みで筋肉が強張っていったが、海斗はまだ目を覚まさないのだ。 蒼白な海斗の顔を見て、ずっと昔の記憶が蘇る。 かつて、怜奈は幼い頃に両親を亡くし、兄の蓮と二人で生きてきた。 国際対テロ特殊部隊の蓮はずっと海外に駐在していた。怜奈が彼の帰国を待ちわびていたある日、訃報が届いた。 現地での事故に巻き込まれ、彼は勲をかばって命を落としたのだ。 責任を感じた勲によって、当時まだ学生だった怜奈は村上家へと引き取られた。 引き取られたばかりの頃、怜奈は毎晩蓮を思い出しては泣いていた。 海斗と初めて会ったのも、そんな夜だった。 庭で影に隠れて泣いていたとき、帰宅途中の海斗が足を止め、蹲る怜奈にハンカチを差し出した。 「泣くな」と彼は言った。「今日からここは、君の家だ」 あの日、月明かりに照らされた彼の目元が優しく見えた。 その時から、怜奈は海斗が好きだった。 でも、怜奈は彼が自分のことをただの妹のようにしか見ていないことを知っていた。 海斗は初恋の人である岩崎杏(いわさき あん)にずっと想いを寄せているのだった。 これまで、海斗は杏に対してずっと過保護なほど優しく接してきた、だから誰もが海斗と杏は結婚すると思っていた。 怜奈もそう思っていた。あの雪山の惨劇が起きるまでは…… 海斗と杏の両親たちがスキーへ出かけた折、雪崩が発生した。その際、杏の両親は咄嗟に海斗の両親を盾にし、自分たちだけ生き残ろうとしたのだ。 こうして、助け出された時、海斗の両親はすでに冷たくなった亡骸となっていたのだった。 それ以来、勲は海斗と杏が関わることを徹底的に禁じた。 海斗もその命令に従った。 そして、すぐさま勲は、岩崎一家を海外へ追放した。 一方海斗は何事もないかのように振る舞っていたが、実際には毎晩酒に溺れていた。 ある日、泥酔した彼は杏の名前を呼びながら、怜奈の寝室に入り込んだことがある。 そして、事情を知って激怒した勲に無理やり詰められ、二人は結婚することになった。 それからというもの、夜の営みはあるが、海斗がずっと杏を忘れられないでいることも、怜奈は分かっていた。 怜奈も何とかして海斗を振り向かせようと努力もした。 だが、杏の思い出に浸る海斗の姿を見るたび、気持ちが次第に冷めていくのだった。 今回も、そうだ。 なぜ海斗があそこまで厳しく叱責されるのか、怜奈は知っている。 杏が海外で苦労しているのを聞きつけ、海斗は秘密裏に彼女を連れ戻し、生活の面倒を見ていたのだ。 そのことに、勲よりずっと早く怜奈は気付いていた。 異常を感じて後をつけてみると、海斗が杏のために自ら台所に立ち、庭に花を植える様子を……彼女は見てしまったからだ。 その瞬間怜奈は、海斗が自分を好きになることは二度とないのだと悟った。 だからこそ、去ろうと決めたのだ。 蓮がかつていた場所に足を運びたい。そこに、蓮の医者である元の婚約者がいたことも聞いている。 蓮が帰国したのは、結婚式の準備のためでもあった。 今回の任務が最後だ、そう決めて婚約者との再会を夢見ていたのだ。 だが、蓮は二度と帰らなかった。 だから怜奈は、蓮が愛した人に会ってみたい、蓮が突き進めなかった道を、代わりに成し遂げたいと思った。 病室では、海斗が苦しそうに寝言で誰かの名前を呼んでいた。 「杏……」 怜奈は傍らに座り、空中に止まった指先で、海斗の眉間に刻まれたしわをそっと撫でた。 ここ数年間、怜奈が目にしてきたのは、いつも何かを想い詰めて、眉間にしわを寄せる海斗だった。 海斗が決して自分に無関心だったわけではないことは分かっている。 自分の好みは完璧に把握し、雷が鳴るときはいつも怯える自分を守ってくれた。そして、飲み会帰りにもいつもお菓子を買ってきてくれていた。 けれど、自分といる時間、海斗は幸せではなかったのだ。 一分一秒が、彼にとって苦しい時間だったのだろう。 幸い、この愛のない結婚生活から、海斗はもうすぐ解放される。 そのとき、病室のドアが勢いよく開かれた。 涙を浮かべた杏が「海斗!」と叫んで駆け込んでくる。 慌てていたのだろう。杏はそこにいる怜奈に気づかなかったようだった。 彼女は怜奈を乱暴に押し除けると、海斗の胸元へと飛び込んだ。 一方、押された怜奈はよろめいた反動で頭が壁に打ち付けられた衝撃で、出血してしまい血が髪をつたって流れたのだった。 だが、杏は怜奈への謝罪はおろか、視線すら送らなかった。 怜奈はふらつきながら立ち上がり、眠り続ける海斗の寝顔を見て思う。 きっと、海斗が目を覚まして一番最初に目にしたいのは、自分の姿じゃないのだと。 そう思って、怜奈は無言で病室を立ち去り、ナースステーションで怪我の手当てを受けた。 そしてあてもなく外をさまよった後、海斗が多分お腹を空かしているのだろうと思い、軽食をいくつか持ち帰った。 そして、再び病室に戻り、そっと覗き込んだ怜奈の目に映ったのは―― ベッドサイドで海斗にすがりついて眠る杏の姿だった。 そして海斗は、目覚めたばかりの身体を起こし、杏の髪先に何度もそっと口づけを繰り返していた。 第2話 それを見た怜奈は病室の前で買ってきた軽食を提げて立ち尽くし、ポリ袋を持つ指先でさえ白くなるほど強張っていた。 胸がギュッと誰かに思い切り握りつぶされたかのようだ。怜奈は持ってきた軽食を置くと、身を翻してその場を去った。足音を立てることもなく。彼女はこの一時の安らぎを、邪魔したくなかったのだ。 それから、家に帰ると、怜奈は自分の荷物をまとめ始めた。 これまで海斗からもらったプレゼントや、二人の数少ない写真、彼に選んであげたシャツ……それらを一つひとつ箱の中に収めていく。 そして、書斎へ入り、自分の本を取り出そうとした時、うっかり本棚の裏にある隠し棚に手が触れた。 カチッと音がして、壁がゆっくりとスライドする。奥には隠し部屋が現れた。 それを見た怜奈は呆然と立ち尽くしてしまった。 そこには、杏にまつわる品々が整然と飾られていたからだ。 かつて勲が叩き割った花瓶の破片が丁寧に修復され、金継ぎされている。 杏が描いた油絵。破り捨てられたはずが、完璧につなぎ合わせられている。 さらには、杏が子供の頃に海斗へ渡したという紙飛行機まで。色あせた紙は大切にラミネート加工までされていた…… それらを眺める怜奈の指先が、小さく震えた。 海斗がいつから、これら破棄された品を拾い集め、いつから隠れて修復し、この秘密の場所に隠していたのかを、彼女は知る由もなかったのだ。 そして、机の上には、一冊の日記があった。 ページをめくれば、どこもかしこも杏に関する内容が綴られていた。 【今日は、杏が去って87日目。杏が泣きながら寒いと言う夢を見た。目が覚めると、杏がいる街への飛行機を予約した。遠くから彼女を一目だけ見た。ずいぶんと痩せてしまった……】 【会社のパーティーで、杏と似た赤いドレスを着た人がいて、見惚れて深酒してしまった。帰宅後、酔って怜奈を杏だと勘違いし、そのまま体を重ねた。その結果、おじいさんに結婚を強要されてしまった。そんな、自分が憎い】 【今日は杏の誕生日、隠れて彼女のマンションまで行き、花束を置いた。帰宅すると怜奈が寝ずに酔い覚ましを作ってくれていた。怜奈はいつもそんな風に気遣ってくれるのだ。でも、やっぱり愛せない……】 最後のページの最後の日付は、先週だった。 【やっと杏を連れ戻せた。眠る彼女を見て、さすらう俺の心もようやく帰る場所を見つけた気がする。ずっと、毎日、杏のことを考えていた。怜奈は良い子だけど、結局愛することはできない。俺の心はとっくに死んでいて、両親と一緒にあの雪崩の奥に埋まってしまったんだ】 「……」 それらを見て、怜奈の視界はかすんでいった。 杏は、海斗の人生から消えたはずなのに、だけどまるで最初から離れていなかったようだ。 怜奈は急いで日記を閉じ、後ずさる際に足元の棚にぶつかってしまう。 写真立てが一つ床に落ち、ガラスが砕け散った。 慌てて拾おうとして、ガラスの破片が手に突き刺さり血が流れるのも構わなかった。 あたふたしていると、背後から凍りつくような怒声が響いた。 「何をしているんだ?」 入口に立つ海斗の表情は沈んでいて、とてつもなく険しかった。 彼の視線が怜奈の顔から床の写真立てへ移った時、その瞳は一瞬にして縮まった。 「私……」怜奈は言葉を紡ごうとしたが、声が出ない。 海斗は大股で歩み寄ると、乱暴に怜奈を押しのけた。 予期せぬ力に、怜奈は床に激しく投げ出された。手のひらと膝にガラスが深く刺さり、すぐに真っ赤な血が流れ出た。 「誰に許可をもらって入ってきたんだ?」海斗は注意深く写真立てを拾い上げると、凍りつく声で言った。「誰が、これに触っていいって言った?」 それはこれまで、怜奈が見たことがなかった海斗だった。 そんな彼は眉間を深く寄せて、恐ろしい怒りを漂わせて、鋭い目線を向けてきた。 かつての海斗は、自分を愛していなくても温厚で、決して叱責したりはしなかった。 それが今、杏にまつわる些細な物だけで、これほど海斗を激昂させるとは。 「ごめんなさい……」手のひらが焼けるように痛い。怜奈は痛みに震えながら這い上がって言った。「わざとでは……」 「出て行け」海斗は怜奈の手の流血に目もくれず、ただ写真立てを握り締めて言った。「すぐにな」 そう言われ、怜奈は痛んだ足を引きずりながら出て行こうとした。しかし、その一歩ずつ進むごとに、まるで鋭い刃物を踏んでいるかのようだった。 部屋から出る直前、怜奈は我慢しきれずに振り返った。「あの写真立ては、弁償するから……」 「必要ない」海斗はすでに平静を取り戻していたが、視線は相変わらず冷たかった。「二度とこの部屋には近づかせないよう、見張らせておくから」 そして、海斗が呼び出しボタンを押すと、すぐさま二人のボディーガードが駆けつけてきた。 「妻を部屋へ送ってやれ」海斗が命令する。「医者を呼んで、処置をさせろ」 こうして、怜奈はその場を追い出された。 閉まりかけるドアから最後の一瞥。怜奈には、床に跪いてガラスを拾い集める海斗が見えた。その手つきは、世界で最も大切な宝物を扱うかのように優しかった。 第3話 医師が傷の処置に来た。手のひらと膝に数針縫う怪我で、跡が残ると言われたが、怜奈は感情が抜けたように黙って聞いていた。 皆が去った後、彼女はスマホを取り出し、街で一番腕のいい修復師を探した。 深夜2時、怜奈はこっそり壊れた写真立てを持って家を抜け出した後、教えられた住所にある深夜まで営業しているスタジオへ向かった。 修復師は状況を聞くと、首を横に振った。「このような古い写真立てのガラスは入手困難で、修復には時間がかかります」 「お金ならいくらでも出します」怜奈は切実に言った。「どうかお願いします。とても大事な品なんです」 修復師はため息をついて答えた。「3日。それが最短です」 それからの3日間、怜奈はほとんどそのスタジオに入り浸っていた。 家に帰って海斗と向き合う勇気はなく、何をしているのかを知られたくもなかった。 修復師が作業している間、怜奈は傍らに座って眺め、時折工具を手渡したり、手伝いを買って出たりした。 その間、海斗から連絡はなかった。 電話1本、メール1通も届かなかった。 3日目の午後、写真立てがようやく修復された。 修復師が怜奈にそれを渡した瞬間、海斗が突然ドアを蹴り開けるように入ってきた。 「海斗様は街中の修復師を当たられ、ようやくこちらを見つけ出されたのです」見かねた執事が後ろから小声で怜奈に説明をした。 海斗の表情は依然として険しいままだったが、無事な写真立てを見て、強張っていた肩が少しだけ和らいだように見えた。 「ここ、そしてここを特に注意してほしいです」海斗は写真立ての隅を指さし、修復師に言った。「この紋様は手彫りなので、傷一つあってはいけません」 修復師は頷いた。「お任せを。これでも40年間修復の経験があるから、この程度の損傷ならすぐに直るでしょう」 彼は好奇心を隠さず海斗を見た。「この写真立て、お客様にとってよほど特別なものなのでしょうね」 海斗は何も答えず、壊れそうな宝物を扱うかのように慎重に写真立てを受け取った。 その横で、怜奈は目に見えない手に心臓をギュッと握りつぶされるような感覚に襲われた。 この写真立ての由来を、怜奈は知っているから。 そこにかつて飾られていたのは、海斗と杏が婚約していた頃に撮ったツーショットだった。 勲がそれを焼いてしまったにも関わらず、海斗はどこからか写真を探し出し、全く同じ写真立てまで用意したようだ。 海斗が執着しているのは写真立てそのものではない。もう二度と戻れないあの日の自分だ。 「助かりました」海斗は修復師に礼を言うと、怜奈に向き直り、「帰ろう」と言った。 それは、海斗がここ3日間で怜奈にかけた最初の一言だった。 怜奈は頷き、一歩足を踏み出したところで、目の前がクラっとしてしまった。 この3日間、食事も満足に取らず緊張し通しだった身体が、限界を超えたのだ。 意識が途切れる直前、怜奈の視界に、海斗のスマホが光るのが見えた。 画面には「杏」という文字が表示されていた。 そして、電話に出た海斗の顔色はすぐに一変した。 「ああ、すぐに行く」 こうして海斗は、倒れた怜奈を顧みることなく、足早にスタジオを去っていった。 次に目を覚ました時、怜奈は病院のベッドの上にいた。 霞む視界の中でゆっくり目を開けると、すぐ横に海斗が座っているのが見えた。 彼は片手で額を支えて目を閉じ、憔悴しきっている様子でいたから、徹夜続きだったのかもしれない。 怜奈が微かな物音を立てると、海斗は即座に目を開け、じっと彼女を見つめた。 「目覚めたか」その声は低く、疲労でかすれていた。「気分はどうだ?」 そう言われ、怜奈はぽかんとしたまま、すぐに反応できなかった。 倒れる直前、確か、海斗は杏からの電話に動揺し、迷わず出て行ったことを鮮明に覚えているからだ。 それなのに、なぜ今、病室で見守ってくれているのか? 「杏さんのところへ行ったんじゃなかったの?」怜奈が聞くと、声は乾ききったかのように掠れていた。 海斗の動きが一瞬止まり、彼はすぐさま水を注いで差し出した。 「杏はもう大丈夫だ」海斗は落ち着いた口調で、躊躇しながら言った。「うつ病を患っていてね。最近自傷の傾向があったから、帰国させただけなんだ」 彼は少し間を置き、複雑な眼差しで怜奈を見つめた。 「誤解するな。杏とは何もない」 しかし、それを聞いた怜奈はコップを強く握りしめた。 何もない? 嘘だ。本当は、杏をまだ愛しているのに。 第4話 そう思ったが、怜奈は視線を落とし、何も言わなかった。 海斗もそれ以上何も釈明せず、飲み終えたコップを受け取ると、怜奈の布団をかけ直した。 その動きは優しく、触れた指先から懐かしい温もりが伝わってきた。 怜奈の胸に、ふと昔の記憶がよみがえる。 初めての生理で泣き出した時、海斗は耳を赤らめて優しく教えてくれた。ひどいインフルエンザで高熱が続いた時も、海斗は感染のリスクを厭わず、3日間ずっと看病してくれたのだ。 海斗は誰よりも優しく、だからその優しさに甘えた怜奈は、時が経てばきっと彼にも愛してもらえると信じていた。 その想いに浸りながら、怜奈はそっと目を閉じ、なぜか胸の奥がずきずきと痛むのを感じた。 病室には、点滴の音が規則正しく響いていた。 その時―― ピロン。 海斗のスマホが光った。 一件、また一件…… ひっきりなしに届くメッセージで、画面が明滅し続ける。 怜奈が目を開けると、海斗が眉をひそめてスマホを見ていた。彼は数秒迷った末、結局返信をせずに画面を消した。 だが数秒もしないうちに、またスマホが光る。 通知欄には、立て続けに杏の名前が表示された。 怜奈は口元を歪め、小さく呟いた。「杏さんのことが心配なら、行ってあげて」 すると、海斗は険しい表情になり、淡々と告げた。「杏は安定しているし、ただの我儘だ。今は、君を看病しなきゃいけないんだから」 そう言われ、怜奈は無言で彼を見つめた。 そんなことを言っても、彼はやっぱりスマホを見てしまうのだ。 結局杏のことが気になって仕方ないのに。 だが、怜奈は問い詰めず、ただ優しく微笑んだ。「わかった」 すると、海斗はより一層深く眉を寄せて言った。「誤解するな。杏の親がしたことに対して、村上家が許すことなんて一生ないんだ」 そう言い終えた瞬間、病室のドアが勢いよく開いた。 入口に立つ杏の目は真っ赤に腫れていた。「やっぱり、私のことなんて許せないの?」 彼女は震える声で叫んだ。「なら、なぜ私の命なんて救ったのよ!」 そう言い放つと、杏は踵を返して駆け出した。 それを見て、海斗は顔色を一変させて、慌てて後を追って飛び出していった。 怜奈も一瞬呆然としたが、すぐさま手の甲の点滴を引き抜き、よろめきながら後を追った。 辿り着いた先は屋上で、強風が吹き荒れていた。 杏はフェンスの半分を乗り越え、長い髪を乱しながら今にも落下しそうな状態だった。 海斗が声を荒げて怒鳴りつけた。「杏!今すぐ降りろ!」 しかし、振り返った杏は、涙で顔を濡らしていた。「降りてどうするの?あなたはこんなにも私を憎んでいるんだし、どうせもう、怜奈しか見ていないんでしょ?」 嗚咽しながら、彼女は叫ぶように訴えた。「ねえ、かつてあれほど愛し合ったことを忘れたの?どうしてこうなっちゃったのよ……あの事件だって、私が悪いわけじゃない!あなたが他の女を選ぶなら、私はもう生きる必要なんてないわ!」 そう言って、杏は勢いよく飛び降りようとした。 そこへ海斗は間一髪で駆け寄り、彼女の手首を強く掴んだ。「違うんだ!」 彼は鬼気迫る表情で杏を見つめ、声を殺して言った。「俺とおじいさんの間には、交換条件があるんだ! 俺が怜奈と一緒にいることで、君を国内にいさせると言われていたんだ」 頭の中でガンと音がした。 それを聞いた、屋上の入り口に立ちすくむ怜奈は激しい衝撃に震えた。 これで、やっとわかった。 海斗がどうして自分と一緒にいるようになったのかを。 全ては、杏を国内に留めておくためだったのだ。 杏は呆然とし、涙に濡れた顔で問いかける。「じゃあ……私をまだ愛してるの?」 海斗はしばらく黙り込んだ。 彼がもう答えないんだろうと、怜奈がそう思った時だった。 杏がさらに身を投げ出そうとするのを見て、海斗が必死で彼女を抱きとめた。「愛してるよ!くそっ、最初からずっと、君だけを愛してたよ!それでいいだろ?」 それを聞いて、杏は声を上げて泣き、海斗のネクタイを引き寄せ、その唇を強く重ねた。 拒むことはなく、海斗もすべてを捨てたように杏の後頭部を押さえ、激しく応え始めた。 二人はまるでこの数年間の空白を、一気に埋め合わせるように。 一方、離れた場所に立つ怜奈は体がみるみる冷えていくのを感じた。 二人がキスを交わし、海斗が狂ったように杏を抱きしめて、あんな風に貪るほどにキスをしている姿を見ていると、相手を骨の髄まで愛していなければできないことだろうと感じるのだった。 怜奈はいつも、海斗の自分へのキスがひどく優しくて理性的だと思っていた。しかし、今ふとそれは性格の問題ではなく、ただ愛していないからなのだと気づかされてしまったのだ。 もっと早く、気づいていればよかった。 そう思って、怜奈は踵を返し、ゆっくりと、力なく立ち去った。 そして、病室に戻ると、消毒薬の匂いがひどく鼻についた。 怜奈はスマホを手に取り、勲の連絡先を見つめて、震える指で押した。 「おじいさん」怜奈の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。「海斗と離婚しようと思ってます」 すると、受話器越しに、茶碗を落としたような音が響いた。「あいつ、一体何をしたんだ!?」 「いいえ」怜奈は首を振り、目を赤く腫らしながら言った。「私たちは……夫婦としてあまりにも不釣り合いです。 海斗は優しすぎてくれます。でも、そこには愛がないんです。 私の兄が亡くなった後、おじいさんが私を迎えに来てくれた時、何か一つ願いを叶えてくれるとお約束くださいましたよね?」 そこまで言って、深く息を吸い込むと、堪えていた涙がついにこぼれ落ちた。 「今その願いを言ってもいいですか? 私たちの離婚に同意してください」 その時だった。病室のドアが荒々しく開け放たれた。 海斗がドアの向こうから、じっと怜奈を見つめていた。 「何の同意だ?」 第5話 すると、怜奈は慌ててスマホの受話口を手で覆い、ドアから急に姿を見せた海斗を見上げた。 「別に……なんでもないわ」彼女は取り繕うように、精一杯の笑みを浮かべて答えた。「おじいさんに電話して、様子を伺ってただけ」 海斗はひどく疲れ切った様子だった。乱れた前髪に、少しはだけたシャツの襟元。その首筋には、爪で引っかいたような微かな赤い傷が残っていた。 幸い、彼もそれ以上追及はしなかった。短く「そうか」とだけ返すと、「急ぎの用がある。数日は顔を出せない」と言い残した。 怜奈が黙って頷くと、海斗はその背中を向けて立ち去った。 そして彼の姿が廊下の突き当たりで見えなくなってようやく、怜奈は握りしめていたスマホから指を離した。 すると、受話器の向こうで、勲が深い溜息を漏らす。「怜奈……海斗は、お前を失ったことを後悔することになるだろう」 その言葉に怜奈の目頭が熱くなり、胸が詰まった。「おじいさん……離婚のこと……どうしても、私から伝えたいんです。 どうか、まだ海斗には内緒にしていてください。お願いできますか?」 しばらくの沈黙の後、勲の声には年老いた者の無念と疲労が滲んでいた。「俺にも……もうあやつを止める術がない。 離婚を決めたのなら……そうしなさい」途切れ途切れの声で、彼は続けた。「ただ、俺はお前に……残りの人生を幸せに過ごしてほしいんだ」 怜奈は下唇を噛み締め、堪えていた涙を溢れさせた。 「はい……約束します。 おじいさん、どうかご安心ください……」 退院後、怜奈は黙々と荷造りを始めた。 海斗が家に戻ることは一度もなかった。 その代わり、杏のインスタは連日更新されていた。 【今日見た夕日は、海斗が『18歳の頃と同じくらい綺麗だ』って言ってくれた風景そのもの】 投稿された写真には、海斗の背中が写っていた。夕陽を浴びた横顔は、あまりにも優しそうに見えた。 そして別の投稿ではこう書いてあった。【海斗が、『治療を頑張ろう。俺が願いを込めて祈願してくるから』って言ってくれた】 それに添えられた写真の中の海斗は、真剣な眼差しで祈願していた。 さらに別の投稿ではこう書いてあった。【眠れない夜は、明け方3時まで海斗が寄り添ってくれた】 …… 怜奈は指先を震わせながら、次々とそれらを見ながらスクロールしていった。 そして慣れなきゃと、自分に言い聞かせた。 しかし、それでも胸を抉られるかのように痛くて、息が詰まるのを感じずにはいられなかった。 そんな中、静寂を一本の電話が引き裂いた。 「怜奈ちゃん!すぐに病院に来い!海斗に事故があった!」電話越しに海斗の友人は焦った声で切迫した状況を告げた。 すると、怜奈は思わずドキッとして、ジャケットを羽織って外へ飛び出した。 病院の廊下は、消毒薬の鼻をつく臭いと、生臭い血の気配が混ざり合っていた。 足もとをふらつかせながら救命救急に辿り着くと、突きつけられたのは手術同意書だった。 「ご家族のサインが必要です!」医師の焦った声が響く。 そう言われ、怜奈の手は震え、まともにペンも握れなくなった。 「どういうことなの!?」怜奈は、廊下に立つ海斗の友人を振り向いた。 すると、誰もが怒りを込めた、鋭い視線を端の方でシクシク泣く杏へと向けた。 「こいつに聞いてくれ!」誰かが吐き捨てるように言った。 すると、泣きじゃくる杏が、ようやく真相を断片的に語った。 実は、夜中急に流れ星を見に山に行きたいと言い出した杏を、海斗が車で連れ出したのだ。 そして、その道中で連鎖的な交通事故に巻き込まれた。 咄嗟の瞬間に杏を庇った海斗は、激しい衝撃を受けて意識不明に陥っていた。 「お前のせいで、海斗はどれだけ死に目を見てきたと思ってるんだ!」友人たちの激しい叱責が飛ぶ。 「小さい頃からあれほど海斗に愛され、守られてきたくせに! 7年前のお前の誕生日の時だってそうだ!彼は酷い熱をだしてもお前を迎えに行って、それで交通事故にあって肋骨を折ったんだぞ! 18の時だってそうだ!スノボに行きたいとお前が無理を言って、行った先でお前を守ろうとした海斗が崖から転落しかけたろ! それで今回もまた……」 「いい加減にしてください!」医師の叫びがその言葉を遮った。「今患者は出血多量で予断を許さない状況なんです!血液バンクにも備蓄がありません!O型は誰ですか?」 第6話 すると、皆が一斉に黙り込んだ。 そんな中、怜奈はゆっくりと手を挙げ、「私です」と告げた。 採血は長い時間がかかった。 針が血管に刺さったとき、怜奈は痛みさえ感じなかった。 ただ静かに、真っ赤な血が管を通って流れ出る様子を見つめていた。一滴、また一滴と海斗の体へと流れていく。 「もう十分です。これ以上抜いたらショック状態になりますよ!」看護師が眉をひそめて忠告する。 怜奈は首を横に振った。「あと少しだけ……海斗には必要なのです」 その結果、怜奈は採血のし過ぎで、気を失ってしまった。 再び目が覚めたのは、翌日の夕方のことだった。 怜奈は弱りきった体で立ち上がり、よろよろと海斗の病室へ向かった。 そして、病室の前に着くと、中から怒ったような押し殺した声が聞こえてきた。 「謝れ」海斗の声は冷徹に響いた。 「なぜ俺たちが謝る必要がある?」友人の一人が激高して笑い出した。「こいつは疫病神だ。ご両親を死なせただけじゃ飽き足らず、今度はお前自身にまで危害が加わっているんだ!」 ドン!重い音が響き、ティーテーブルが蹴り倒されたようだ。 「もう一度言う」海斗は一言ずつ、凍りつくような声で吐き捨てた。「杏とのことに、君たちは口出しするな。 謝らないなら、もう今後も付き合う必要がない」 すると、病室はしんと静まり返った。 やがて、数人は杏を睨みつけ、歯を食いしばりながら「すまなかった」と絞り出した。 「俺たちは海斗さんのことを思って言っているんだ」一人が目を赤くして言った。「どれだけ杏さんを愛していても、あなた達二人が結ばれることは絶対にない。 だから今は、側にいてくれる人を大事にするべきじゃないのか。 昨日、怜奈ちゃんはあなたのために採血をして倒れたんだぞ。なのに彼女の様子を見にも行かず、ここで杏さんをかばうなんて…… 怜奈ちゃんが知ったら、どれほど心を痛めるだろうか?」 そう言い捨てて、数人はドアを強く閉めて出ていった。 一方それを聞いた怜奈は廊下の陰で、体が冷え切るのを感じていた。 そして、ドアの隙間から見えたのは、杏が海斗の胸に飛び込んで泣き崩れる姿だった。「海斗、ありがとう……あなたがいなかったら、私、もう生きていけないわ……」 それに対し海斗は黙ったままだったが、杏を突き放すことはしなかった。 すると杏は顔を上げ、小さな声で尋ねた。「ねえ……怜奈の様子を見に行かなくていいの?」 海斗は喉を鳴らし、しばらくの間を置いてから低く答えた。「俺に行ってほしいのか?」 杏は唇を噛み、首を横に振った。 「なら行かない」と海斗は言った。 それを目にして、怜奈はその場を立ち去る時、まるで体の中で何かが粉々に砕かれてしまったように感じた。 廊下の真っ白な照明の中、壁を伝いながら歩く彼女は何度もクラクラして倒れそうだった。 だが、採血による貧血のめまいよりも、胸の痛みの方がずっと強くこたえた。 家に戻ってから、怜奈は3日間、一歩も外に出なかった。 海斗の様子を見に行くことも、彼と杏を邪魔することもなかった。 ある日、国際対テロ特殊部隊から制服が届いた。 紺色の制服。胸部の部隊章や国旗が、陽の光を浴びてなんとも眩く見えた。 怜奈は丁寧に服を洗い、干した。ふと蓮のものだったバッジを指で撫でていると、目頭が熱くなった。 ちょうど片付けようとしたとき、玄関のドアが勢いよく開いた。 海斗が入り口に立ち、怜奈の手の中にある制服に目を留めて眉をひそめた。「それは何だ?」 怜奈は素早く服を畳み、クローゼットへ押し込んだ。「なんでもない。友達から贈られた記念品よ」 海斗はそれ以上問い詰めず、後ろの秘書に高級そうな箱を持ってこさせた。 「先日は輸血してくれて、ありがとう」海斗は低い声で、まるで仕事の話でもするかのように落ち着いた調子で言った。 だが、怜奈は受け取らず、淡々と笑った。「そんなに他人行儀にしなくても、私たちも一応……」 「夫婦だ」海斗は怜奈の言葉を遮り、平然とした口調で続けた。「だが、それでも礼はきちんとするべきだ」 そう言って彼はプレゼントをテーブルに置くと、書斎へと去っていった。 その後ろ姿を見つめながら、怜奈は胸を鋭い針で刺されるような思いがした。 だけど、二人はもうすぐ他人になる。 これからは、ただの家族に戻るのだ。 そう思って、怜奈は制服を片付けて休もうとしたとき、突然スマホが鳴った。 杏からの電話だった。 第7話 「怜奈、話があるの」受話器の向こうから聞こえる杏の声は、泣きそうだった。「湖のそばで待ってる」 湖畔に着くと、冷たい風が吹き荒れていた。 杏は薄手の白いワンピース姿で、長い髪を乱したまま震えていた。 彼女は一枚の紙を握りしめていて、怜奈を見るとぽろぽろと涙をこぼした。 「お願い」そう言うと、杏は湖のそばで、怜奈の足元に崩れ落ちた。 「海斗を返して……お願い、海斗がいないと私……」杏は泣きながら、手に持っていた診断書を差し出した。「重度のうつ病なの。海斗なしじゃ私は生きていけないの……」 それを言われ、怜奈は言葉を失い、思わず杏の肩に手を伸ばした。「まず立って。座り込んでないで」 しかし杏は怜奈の手首を強くつかみ、爪を食い込ませた。「いいえ、あなたが離婚を了承してくれるまで、私は動かないわ!」 怜奈は大きく息を吐き、もう認識番号の引き継ぎの手続きを終えたこと、海斗と別れるつもりであることを伝えようとしたが―― しかし、彼女がなかなか応じてくれないと感じた杏の顔つきが、突如として一変した。 「別れる気はないのね!?」杏は立ち上がると、冷酷な瞳で睨みつけてきた。「海斗はあんたを愛してない!海斗のおじいさんの力を借りて彼を縛り付けても、彼の気持ちがあなたに向くことはないわ! それを、はっきり証明してあげる。 海斗が選ぶのはいつだって私よ!」 その言葉と共に、杏は怜奈の腕を強く引き、湖へ突き落とした。 ザバーンッ。 瞬間的に冷たい水が、容赦なく怜奈の頭まで覆った。 泳げない怜奈は必死に手足をばたつかせたが、体はどんどん沈んでいった。 鼻から水が入り込み、息ができなくなる苦しさが押し寄せてくる。 薄れる意識の中で、海斗が猛スピードで走り寄り、ためらいもなく湖に飛び込むのが見えた。 そして彼は、迷わず一緒に飛び込んできた杏を抱え上げ、振り返りもせず岸へと泳ぎ去った。 そして沈んでいく自分に、一度も振り返らなかった。 こうして限界を迎え、肺から空気が消えていく感覚に襲われ、怜奈はそのまま意識を失っていった。 最後に見た光景は、杏を抱きかかえて去っていく海斗の背中だった。 目を覚ますと、病室の眩しいライトが目に入った。 点滴を変えていた看護師が淡々と言った。「意識が戻りましたね。間一髪でした。あと少し遅れていたら危なかったんですよ」 喉の焼けるような痛みに耐えながら、怜奈は尋ねた。「誰が運んでくれたんですか?」 「湖の管理スタッフですよ。ご主人に連絡は入れましたけれど、もう一人の方を看病しているらしくて。 また連絡を取ってみますか?」 怜奈はそっと目を閉じ、小さく首を横に振った。「いいえ、もう大丈夫です。 もう一生、会うこともありませんので」 それから、怜奈は止める看護師を振り切り、すぐに退院の手続きをした。 そして家に帰ると、リビングにはいくつかスーツケースが置かれていた。 そしてそばにいた海斗は、怜奈を見て少しだけ身を強張らせた。 「戻ったのか」彼は躊躇ったように言った。「ちょうど伝えようと思ってたんだ……杏のうつが酷くなって、医者も離れられないと言ってて。 しばらくここに住まわせるつもりだ。昔の貸しがあるからな。湖で先に彼女を助けたのも、杏がまた死のうとしてるんじゃないかって心配していたからだ」 怜奈は静かに頷いた。「わかった。あなたが決めたことなら、わざわざ私に言わなくてもいい」 そう言われ、海斗は眉をひそめ、気まずそうに口を開こうとしたとき―― 彼のスマホが鳴り響いた。 杏からの着信だった。 電話を切ると、海斗はさっさと上着を手に取って言った。「じゃあ行ってくる。詳しいことは後で」 すると、怜奈は彼を呼び止めて言おうとした言葉を飲み込んだ。本当は伝えようと思った。 離婚しようって。 だが、海斗はすでに去っていた。怜奈はまた、何も言えずに取り残された。 その30分後、国際対テロ特殊部隊から電話がかかってきた。 「怜奈さん、作戦が早まった!1時間後に空港集合だ!」 怜奈は受話器を置くと、紺色の制服に着替え、サイン済みの離婚届をテーブルに置いた。 そして、荷物を掴んで、もう二度と振り返ることなく家を出た。 海斗。これでやっと、あなたを自由にしてあげられる。