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五十六回捨てられた花嫁
私は、白川沙織(しらかわ さおり)。 篠原恭弥(しのはら きょうや)と婚約して、もう五年になる。 軍の総司令である彼は、そのあいだに結婚...
Chương (1)
第1章
私は、白川沙織(しらかわ さおり)。
篠原恭弥(しのはら きょうや)と婚約して、もう五年になる。
軍の総司令である彼は、そのあいだに結婚式を五十六回も延期した。
一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、彼は式の途中で呼び戻された。
二回目は、凛沙の昇進の日だった。彼は私を式場の入口まで送り届けると、祝いの品を手にしたまま慌ただしく去っていった。
……
五十六回目は、式の最中に凛沙から電話がかかってきた。
失恋したと泣きつかれた彼は、またしても迷いなく私を置いて行こうとした。
行かないでとすがる私の手を、彼は冷たく振り払った。
「式ならまた延期すればいい。でも凛沙は失恋したって泣いて、今にも飛び降りるって騒いでるんだ。もし本当に何かあったら、お前が責任を取れるのか?
お前の結婚式なんかより、人の命のほうが重いに決まってるだろ!」
軍人の妻になるつもりなら、人一倍我慢することを覚えろ――彼はそう言った。
自分がいつだって他人を優先する男だということも、受け入れろというのだ。
けれど私は、まだ一度だってまともに式を挙げてもいない。
そんな私のどこが、軍人の妻だというのだろう。
私は一通の申請書を提出し、機密要員として再び任務に呼び戻された。
すると彼は、私が去ったあとになって婚約指輪を握りしめ、果たせなかった結婚式をやり直したいと泣きながら縋ってきた。
――けれど、もう遅かった。
第1話
今日は私――白川沙織(しらかわ さおり)の結婚式の日だ。
「ごめん。でも、凛沙の命のほうが大事なんだ。今日はどうしても行かなきゃならない!」
こんなやり取りは、もう何度も繰り返してきた。
それでも、篠原恭弥(しのはら きょうや)がうつむいたまま私に謝った、その瞬間だけは今でも胸が締めつけられる。
これが、私と恭弥にとって56回目の結婚式だった。
これまで式を挙げようとするたびに、決まって何かが起きた。
一回目は、彼の部下の水瀬凛沙(みなせ りさ)が任務中にけがをして、恭弥は式の途中で駆けつけていった。
二回目は、凛沙の昇進が決まった日だった。恭弥は嬉しさのあまり涙ぐみながら、式場の入口に私を残したまま飛び出していった。
三回目は、私が選んだ挙式日が偶然にも凛沙の母親の命日と重なってしまい、「配慮が足りない」と恭弥に責められ、そのまま式にも来てくれなかった。
……
そんなことを、私はもう55回も繰り返してきた。
それなのに今日の式だけは――なぜか、すべてが驚くほど順調に進んでいるように見えた。
けれど――
式の最中に、不意に恭弥のスマホが鳴った。
受話口の向こうから聞こえてきたのは、女の甘えるような泣き声だった。
穏やかだった恭弥の表情が、一瞬で強張る。
……ああ、まただ。
胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じながら、私は思わず口を開いていた。
「恭弥、あと10分だけ待って。指輪を交換したら、すぐ行っていいから。
お願い……凛沙が命に関わるような状態じゃないって、あなたも分かってるでしょう?」
これまで私は、恭弥に何かを頼んだことなんて一度もなかった。
それでもこのときだけは――
情けないと思いながらも、私は彼の袖を必死に掴んでいた。
恭弥がゆっくり顔を上げる。
その目に浮かんでいたのは、隠そうともしない苛立ちだった。
「いい加減にしろ。軍人の妻になるなら、それくらいの覚悟は最初からしていたはずだろ。
俺は遊びで動いてるんじゃない。今この瞬間だって、人の命がかかってるんだ。
凛沙は今、屋上で俺を待ってる。一分でも遅れたらどうなるか分かってるのか?もし何かあったら――お前が責任取れるのか?」
そう言うと恭弥は、本来なら私に渡すはずだったブーケを無造作に放り出し、そのまま振り返りもせず式場を出ていった。
ざわめきが広がる。
参列者たちはこんな光景を何度も見てきたはずなのに、それでも小声で噂するのをやめなかった。
「またなの……?」
「さすがにしつこすぎない?あそこまで嫌がられてるのに」
「もう結婚する気なんてないの、見てれば分かるでしょ……」
「篠原さんも大変よね」
一つ一つの言葉が、胸の奥に突き刺さっていく。
遠ざかっていく恭弥の背中が、涙でぼやけていく。
ずっと押し込めてきた感情が、とうとう溢れた。
「恭弥……!」
声が震える。
それでも私は叫んだ。
「今日ここを出ていくなら――私たち、本当に終わりだから!」
泣きながら絞り出したその言葉に、恭弥はようやく足を止めた。
振り返った彼は眉をひそめ、その声には苛立ちしかなかった。
「今さら何だよ。もう何回目だと思ってるんだ?
来月、改めて式を挙げればいいだろ。次は途中で抜けないって約束する。けど今回は本当に緊急なんだ」
言い終えるとすぐに顔を背ける。
私がどれだけ泣いていても、もう振り返ろうともしなかった。
会場のあちこちから、くすくすと笑う声が漏れてくる。
両親の顔も、見る間に暗くなっていった。
いつもなら――
こんなときの私は決まって取り乱して泣きじゃくり、子どもみたいにその場に座り込んで、誰かが慰めてくれるのを待っていた。
恭弥が戻ってくれば、その手をつかんで「本当に私のことが好きなの?」と何度も問いかけて、みんなの前で、結婚したい相手は私だって言わせようとしていた。
そして、みっともないほどすがりついて、次の挙式日を決めてほしいと頼み込むのだ。
――でも今回は違った。
追いかける気力さえ、もう残っていなかった。
付き合い始めた頃、私は「待たされるのが嫌いなの」と話したことがある。
すると恭弥は、それからどんなデートでも、必ず30分前には待ち合わせ場所に来るようになった。
雨の中で30分も私を待っていたことさえあるのに、私を1分でも待たせたことは一度もなかった。
それなのに――
人生でいちばん大切なはずの結婚式になると、彼は何度も先延ばしにして、気がつけば私は五年も待たされていた。
結局のところ、もう愛されていない。ただ、それだけだった。
私は一人でゆっくりと式場の中央へ戻った。
さっきまで胸の奥にあったはずの高揚感は、もうどこにも残っていなかった。
代わりに残っていたのは、どうしようもない疲れだけだった。
無数の視線を受けながら、私は静かに口を開いた。
「これで式は終わりです」
そして――
「これが、私たちの最後の結婚式になります」
第2話
客を見送り終えて家に戻った頃には、もう夜もとっくに更けていた。
それでも、恭弥はまだ帰ってきていなかった。
私はひとり、ぼんやりとSNSを開く。
タイムラインには、案の定、私を嘲るような投稿がいくつも並んでいた。
【ほんと懲りないよね。またこれが最後って言ってたのに、どうせ来月には次があるんでしょ】
【さっきのあの顔見た?もう終わりにするって言ってたけど、絶対そんなことできないでしょ】
【あそこまで振り回されてもまだ離れないとか……ある意味すごいよね。あのメンタルだけは本当に尊敬する】
私は無表情のまま、投稿をひとつずつ流していく。
こんな悪意、この五年で嫌というほど見てきた。
今さら何を言われても、もう心はほとんど動かなかった。
けれど――
その中に凛沙の投稿を見つけた瞬間だけ、指先がぴたりと止まる。
【五年経っても、あなたはいつも私のところに来てくれる】
添えられていた写真の中で、凛沙は男の腕の中にすっぽり収まりながら、悪戯っぽくウインクして笑っていた。
あまりにも幸せそうで、見ているだけで胸の奥がじくりと痛んだ。
前に一度だけ、私は恭弥に二人の関係を聞いたことがある。
すると彼は、露骨に顔をしかめた。
「お前、自分が何言ってるか分かってるのか?
俺たちは戦友だ。命を預け合ってきた仲なんだよ。
そんな関係を、変なふうに考えるな」
そんな言葉なら、もう何度も聞かされてきた。
だから私は、それ以上何も聞く気になれなかった。
私は顔を洗って涙の跡を拭い、大きなスーツケースを引き寄せた。
部屋の隅に置いてあった羊革のブーツを手に取る。
これは、私が持っている中でいちばん高かった靴だ。恭弥が最初の給料で買ってくれたものだった。
あれからも何度か靴を買ってくれたけれど、だんだん作りは安っぽくなっていって、ひどいものは一か月もしないうちに壊れてしまった。
だから私がずっと大事にしてきたのは、この一足だけだった。
テーブルの上に置かれたマグカップは、恭弥が初めて結婚式を延期したとき、自分で焼いて持ってきてくれた謝罪の品だった。
あの頃の彼は、たしかに私だけを見てくれていた。
そこにあったのは、ただまっすぐな想いと、隠しきれないほどの申し訳なさだった。
「沙織。俺だって本当はお前のそばにいたい。でも俺は軍人なんだ。頼む、もう一度だけチャンスをくれ。俺にどっちか選べなんて言わないでくれ」
部隊では誰も逆らえないような男が、目を赤くして声を詰まらせる。
そんな姿を見るたびに、私は結局、許してしまっていた。
――だからこそ。
あの頃の私が何度も引き下がってきたせいで、あの二人をここまで好きにさせてしまったのかもしれない。
また置いていかれたあの日も、このカップだけはどうしても割れなかった。
これを壊してしまったら、本当にもう二度と、あの頃には戻れなくなる気がして怖かったから。
荷造りが終わる前に、恭弥が酒の匂いをまとったまま部屋に入ってきた。
私はもう、酔い覚ましの飲み物を出そうとも思わなかったし、どうして凛沙のことでそこまで酔い潰れているのか、聞く気にもなれなかった。
どうせ返ってくるのは沈黙か、そうでなければ筋の通らない嘘だけだと分かっていたから。
私は深く息を吐いてから、重たい声で言った。
「恭弥、もう終わりにしよう。もうすがったりしない」
酔っているのだから、どうせ聞いてもいないだろうと思っていた。けれど恭弥は、はっきりと私に答えた。
「俺から離れて、お前を受け入れる男なんかいるわけないだろ。
お前は昔、俺と結婚するために全部投げ出して、ずっと家のことをやってきたんだろ。今さら行くあてなんてあるのか?
俺がいなきゃ、お前は二か月も持たない。沙織、俺だってもう疲れてるんだ。頼むから、これ以上俺を困らせないでくれ」
そして、小さく息を吐くように続けた。
「お前は……どうして凛沙みたいに、もう少し周りを見られないんだ。あいつのほうが、昔のお前に似てるよ。明るくて、夢もあって……」
胸の奥が、じわじわと痛んでいく。
夢……か。
あの頃、私と恭弥は同期で部隊に入った。あの時の成績は、むしろ私のほうが上だった。
けれど恭弥は、結婚したいと言った。温かい家庭がほしい、と。
私が優秀でいればいるほど、自分は隣に立てなくなる気がするとも言っていたし、表彰台に立つ私を見るたび苦しくなるのだとも打ち明けてくれた。
だから、そばにいてほしい。家庭を守っていてほしい――そう頼まれた。
あんなふうに苦しそうな顔をされたら、断れなかった。
でも、私が恭弥のためにすべてを手放してからは、今度は何度も凛沙の名前を口にするようになった。
凛沙は私よりずっと優秀だと。
私とは比べものにならないくらい上なんだと。
お前みたいな女は最初から俺には釣り合わない――
そんな言葉を、何度も繰り返された。
私は何度、夜中にひとりで泣いただろう。
思い出すのはいつも、恭弥が床に膝をついて、仕事を辞めてほしいと頼み込んだあの日の姿だった。
けれど今の私には、もう未来なんて残っていない。あの頃、私を愛していたはずの人も、もうどこにもいなかった。
恭弥は、まだ詰め終わっていないスーツケースを見て、小さく笑った。
「沙織、そんな大げさな話にするなよ。どうせお前だって、俺から離れられないの分かってるだろ」
喉の奥がひりつくように乾いて、視界が滲んでいく。
もう愛されていない。
分かっているのに、それでも胸の痛みだけは消えてくれなかった。
私がその場で震えるほど泣いていても、恭弥はまるで見えていないかのように凛沙へ電話をかけ、優しい声で彼女を気遣っていた。
スーツケースの中に詰めた荷物を見つめながら、もう持っていく意味なんてないのかもしれない、とふと思った。
私はソファに座り込んだまま朝を迎え、ようやく電話をかけた。
「白川沙織です。
機密任務に志願します」
受話器の向こうの相手は、何度も確認してきた。
それでも私は電話を切らなかった。
寝室でまだ凛沙と通話を続けている恭弥を見ながら、もう一度はっきりと言った。
「戸籍も名前も消して構いません。このまま任務に入らせてください」
第3話
まとめ終えた大きなスーツケースは、そのまま置いていった。
スマホだけを手に、私は五年間暮らした家を後にした。
あれから私はホテルに身を寄せ、友人たちや両親を食事に招いた。
これがきっと、みんなと顔を合わせる最後になる。そんな思いを胸の奥に押し込めながら。
その間も、恭弥から連絡が来ることは一度もなかった。
まるで、私が今どこで何をしていようと、そんなことどうでもいいみたいに。
発つ前の夜、私は両親と親しい友人を数人招き、食卓を囲んでいた。
それでもみんな、まだ私を思いとどまらせようとしていた。
「今さら篠原くんと別れても、あなたにいいことなんて何もないでしょう。
五年もやってこれたんだから、この先だって何とかなるわよ」
私は何も答えなかった。
母の白髪が前より増えているのに気づいて、ほんの一瞬だけ心が揺らいだ。
もしこのタイミングで恭弥が歩み寄ってくれていたら。
もし、たった一言でも引き止めてくれていたら。
きっと私は、また簡単に折れてしまったと思う。
この息苦しい空気から逃げたくて、私はトイレに行くふりをして席を立ち、恭弥に最後の電話をかけようとした。
けれど電話をかけようとした、そのとき――
目の前で、恭弥が凛沙を連れて隣のテーブルに座るのが見えた。
その場にいた仲間たちは一斉にどよめき、面白がるような声を上げた。
「恭弥さん、今日は婚約者いないんですか?
前はどこ行くにも一緒だったのに。女の人が近くにいるだけで、すぐ騒いでたじゃないですか」
恭弥は凛沙を気遣うように椅子へ座らせながら、私の話になると途端に面倒くさそうに笑った。
「あいつはどうせ、俺が迎えに行くの待ってるだけだよ。部隊に戻るとか言い出してさ、また変に意地張りやがって。
俺とあいつの婚約が周りに知られてなきゃ、とっくに終わってるよ。式を取りやめたら面倒だからそのままにしてるだけで、正直もう顔見るのもうんざりなんだよ」
すると別の男が、にやにやしながらさらに囃し立てた。
「じゃあ本当に終わったら、次は誰と結婚するんですか?
そのときはちゃんと俺たちにも声かけてくださいよ。もしかして、次の相手って凛沙さんだったりして?」
恭弥も凛沙も、頬を赤くしたまま何も否定しなかった。
――否定しないなら、それが答えと同じだった。
私はそのやり取りを黙って見つめたまま、胸の奥が痛みで震えていくのを感じていた。
次の瞬間、手にしていたグラスが指先から滑り落ち、床の上で甲高い音を立てて砕け散る。
その音に、その場にいた全員の視線が一斉にこちらへ向いた。
赤く滲んだ私の目と、露骨な嫌悪を浮かべた恭弥の目が、またぶつかった。
「いい加減、俺につきまとうのやめてくれないか。少しは放っておいてくれよ。今のお前見てるだけで、ほんと息が詰まるんだよ。
これ以上騒ぐなら、本気で容赦しないからな」
凛沙は私の姿を見るなり、びくりと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をした。
「沙織さん、怒らないでください……全部、私が悪いんです。今日、恭弥さんを呼び出したのも私なんです。本当に、ごめんなさい。
沙織さんが私のこと嫌っているのも分かっています。でも、どうか許してください……」
そう言うと、凛沙は怯えたように視線を落とし、何度も頭を下げた。
恭弥はとっさに凛沙を背中へ庇い、今にも私に詰め寄ってきそうな様子だった。
けれど私は、床に散ったガラス片を拾ってゴミ箱へ捨てると、淡々と言った。
「あなたが何をしようと、もう私には関係ない。
私たち、もう終わってるから。いちいち私に説明しなくていい」
そう口にした瞬間、自分で自分の胸を抉ったように苦しくなった。
この五年間ずっと押し殺してきた想いが、一気に込み上げてきた。
恭弥は一瞬だけ言葉を失った。
けれど次の瞬間には露骨に苛立った顔で、私の目の前まで詰め寄ってきた。
「こんなところで、わざと俺に恥かかせる気か?
俺はお前と結婚してやるって言ってるんだぞ。まだ何が不満なんだよ!
さっさと帰れ。これ以上ここでみっともない真似するな。もうすぐ大蔵さんが来るんだ。ここで騒いでみろ、本気で許さないからな」
恭弥は歯を食いしばりながら、低い声で私を脅した。
そのとき、大蔵周平(おおくら しゅうへい)がこちらへ歩いてくるのに気づいた。
恭弥は慌てて私を脇へどかすと、急いで椅子を引き、その人をうやうやしく席へ案内した。
「大蔵さん、まさか本当にいらっしゃるとは……」
恭弥は愛想笑いを浮かべながら必死に取り、ついには隣にいた凛沙の腕を引いて、この場を借りて彼女を紹介しようとした。
けれど、周平は恭弥の横をそのまま通り過ぎ、まっすぐ私の前で足を止めた。
「沙織。航空券はもう手配してある。今すぐ出発できる」
その瞬間、恭弥の体がぴたりと固まった。
彼の視線は、私の手に渡された航空券に釘づけになっていた。