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家族を奪った復讐鬼。一緒に地獄へ堕ちましょう
木村紗奈(きむら さな)は、山本翔太(やまもと しょうた)を8年間も愛していた。 両親の反対を押し切り、彼を木村グループに入社させたほどだ...
Chương (1)
第1章
木村紗奈(きむら さな)は、山本翔太(やまもと しょうた)を8年間も愛していた。
両親の反対を押し切り、彼を木村グループに入社させたほどだ。
しかし翔太が、木村家を深く恨む仇の息子だったとは紗奈は知らなかった。彼女に近づいたのも、すべては復讐のためだったのだ。
父親は死に、兄は植物状態に。紗奈は一晩ですべてを失った。
絶望の果てに、彼女が自分の「初めて」をオークションにかけると、翔太は血走った目で怒鳴った。「紗奈、お前、本気か!」
第1話
澄波ヶ丘にある木村家の邸宅。豪華で上品だったリビングはひどく荒らされ、がらんとした部屋に木村彩花(きむら あやか)の甲高い泣き叫ぶ声が響き渡っていた。
「紗奈、この疫病神!恩知らずが!
あの時、翔太と付き合うのなんてやめろって言ったのに。あなたがどうしても彼がいいって聞かなかったから、こんなことになったのよ!お父さんの亡骸を見てみなさい!病院で寝てる蓮のことを考えて!全部あなたのせいよ!
なんであなたが死ななかったのよ!
あなたなんか、産まなきゃよかった!」
彩花は髪を振り乱し、服も汚れたままだった。彼女は怒りにまかせて、娘の木村紗奈(きむら さな)に殴りかかった。
紗奈は呆然と床にひざまずいていた。父の木村隆(きむら たかし)の血まみれの亡骸が、冷たい床の上に横たわっている。四肢は不自然に折れ曲がり、優しかった面影はない。どす黒い血の跡が、目に焼き付いて離れなかった。
彼女は顔面蒼白で、頬は涙で濡れていた。絶望に打ちひしがれて声を殺して泣きながら、彩花に殴られるがままになっていた。
母の言う通りだ。自分は疫病神なんだ。
山本翔太(やまもと しょうた)を愛したばかりに、会社へ招き入れ、重役に抜擢してしまった。彼に数年かけて会社を乗っ取られ、父を借金取りに殴り殺させ、兄の蓮も事故に遭わせたのだから。
幸せだった自分の家族は、めちゃくちゃになった。
「翔太、よくも、よくも8年間も私を騙してくれたわね!」
彩花は力を使い果たし、崩れ落ちる。紗奈は深い絶望と怒りを胸に、背を丸めたままだった。
……
彼女は、翔太と初めて出会った日のことを思い出した。日差しの心地よい夏の日、桜の木の下に立つ彼。そのカッコよく、どこか近寄りがたい姿に、紗奈は一目で恋に落ちたのだ。
翔太が経済学部の学生だと知ると、紗奈は猛アタックをしかけた。そして2年後、彼はやっと紗奈の彼氏になってくれた。
翔太の家があまり裕福でないと知っていたから、付き合っている間、紗奈は彼のプライドを傷つけないよう、いつも気を配っていた。見下しているなんて、絶対に思われたくなかったから。
彼女はかつて、翔太こそが自分の生涯を伴にする「運命の人」だと信じ込んでいたのだ。
だが、愛した男の正体が冷酷な悪魔だったとは思いもしなかった。
こんなに大きな「サプライズ」を用意してくれるなんて。
家族の命を奪い、すべてを破滅させるという絶望の「サプライズ」だったのだ。
指が白くなるほどカーペットを掴みしめ、紗奈は悔しさと憎しみに顔を歪めた。彼女はふらつきながら立ち上がると、外へ向かった。
翔太に直接問いたださなければ。木村家が一体何をしたっていうの?どうして、あんな酷いことができるの?
紗奈は木村グループのビルに着くと、社長室に駆け込んだ。
「翔太!教えてちょうだい、どうして恩を仇で返すようなことをしたの!
私の両親は、あなたのことを実の息子みたいに可愛がっていたのに!これがその恩返し?」
駆け込んできた紗奈は、社長椅子に座る翔太を見ると、充血した目で彼を睨みつけ、力いっぱい平手打ちをしようとした。
しかし、その手は翔太に掴まれてしまった。
翔太は冷たい顔で、掴んだ紗奈の腕を強く振り払った。紗奈は数歩よろめき、床に強く体を打ち付けた。
床に倒れた紗奈を見て、翔太は思わず眉をひそめ、鼻で笑った。「恩を仇で返す、だと?
十数年前、お前たち木村家は俺の両親を死に追いやった。これはその報いだ!」
亡くなった両親の話をする時、翔太の目には憎しみが宿っていた。
紗奈はさらに顔を青ざめさせ、大声で叫んだ。「そんなの嘘よ!父は誰にでも親切な人だったわ。そんなことするはずがない!」
「お前の母親はまだ生きてるだろ。帰ってよく聞いてみれば分かるさ!ここも今は木村グループのものじゃない、出て行け!」
翔太は紗奈を見下ろし、あざけるように言った。「今の自分の姿を見てみろ。狂った女にしか見えないぞ」
翔太の冷たい視線に、紗奈の心臓は針で刺されたように痛んだ。彼女は震える声で尋ねた。「じゃあ、最初から、あなたは目的があって私に近づいたの?私のことなんて……一度も好きになったことはなかったの?」
蒼白で弱々しい紗奈の姿に、翔太は一瞬、唇を引き結んだ。だが、すぐに残酷な言葉を口にした。「ああ、そうだ。お前のことなんか一度も愛したことはない。
お前と一緒にいた時間は、吐き気がするほど不愉快だったよ」
第2話
「ははっ、吐き気がするほど不愉快?」
翔太のあまりに冷酷な言葉を聞いて、紗奈の目は鋭く変わった。地面から勢いよく這い上がり、デスクの上のペーパーナイフを掴んで彼に襲いかかった。
「死ね!」
父の敵を討たねばならない。彼を招き入れたのは自分なのだから、自分でこの間違いを終わらせる。
狂乱する紗奈を見て、翔太は冷たい視線を向けて、素早く一歩下がった。
彼は紗奈の腕を掴むと、力任せにひねり上げた。彼女が持っていたナイフは床に落ちた。
翔太の目に一瞬、複雑な感情がよぎった。しかし彼はすぐに冷酷な表情に戻り、片手で紗奈の首を締めあげてデスクに押さえつけた。
息ができず赤くなっていく紗奈の顔を、翔太は冷ややかに見下ろしていた。
紗奈は両手で彼の手首を掴み、必死にもがいた。
「ゲホッ、ゲホッ……」
紗奈の抵抗がだんだん弱まっていく。そして息が絶える寸前で、翔太はようやく手を離した。
紗奈は力なく床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
「これ以上、俺を試すような真似はするな、紗奈。
残された家族に手を出さないのが、俺からの最後の情けだ。二度と俺の前に現れるな。
さもないと、お前たちを生き地獄に突き落としてやる!」
顔を涙で濡らしている紗奈のスマホが、不意に鳴った。電話に出ると、向こうから冷たい事務的な声が耳に届いた。
「木村さん、お兄さんの特別室の費用と、保険適用外の先進医療費が未納のままです。至急お支払いいただけない場合、一般病棟へ移っていただきます。そうなれば、現在の高度な延命治療は打ち切らざるを得ません」
「お願いします、兄を助けてください。今すぐ払います!」
紗奈は震える声でそう言うと、社長室を飛び出した。
「あら、木村家のお嬢様じゃない?まあ、なんてみじめな姿なの!
あ、ごめん。もうすぐこの東都から木村家は消えるんだったわ。
お嬢様からどん底まで転落した気分はどう?」
その聞き慣れた声に、紗奈がうつろに顔を上げると、親友であるはずの宮本陽菜(みやもと ひな)が立っていた。
陽菜は得意げにこちらを見ていた。この瞬間、紗奈は彼女も自分を裏切ったのだと悟った。めまいがして、胸が苦しくなる。やり場のない怒りが体中を駆け巡った。
どうして、たった一晩で何もかも変わってしまったの?
陽菜の目の奥には、暗い嫉妬の炎が宿っていた。紗奈と出会った日からずっと、狂おしいほど彼女に嫉妬していたのだ。
なんで紗奈だけが、家柄もよくて、みんなの中心にいられるの?それに比べて自分の家はただの成り上がり。周りから見下されるうえに、親には彼女のご機嫌をとれって無理強いされていた。
その雲の上の存在だった令嬢が、やっと自分よりもみじめな立場に落ちてくれた。もう、最高にいい気分だった。
「陽菜、お天道様はみてるから。あなたたちが痛い目にあう日を、楽しみにしてるわ!」
紗奈は憎しみを込めて言い放ち、その場を足早に去った。
陽菜は紗奈の背中を憎々しげに見つめた。どす黒い嫉妬心が、彼女の心を支配していた。
陽菜はフンと鼻で笑い、ハイヒールの音を響かせて社長室に入った。颯爽とした翔太を見つめる彼女の目には、強い執着が宿っていた。
陽菜は翔太の隣に立つと、わざとらしく体を彼に預け、甘えた声で言った。「翔太さん、さっき、紗奈が出ていきましたよ。彼女の父親は死んで、兄も病院でしょう?誰かを使って、とどめを刺しましょうか……」
きつい香水の匂いに、翔太は眉をひそめて身を引いた。陽菜の言葉を聞いていると、わけもなくイライラしてくる。脳裏には、絶望しきった紗奈の顔がちらついていた。
彼は冷たく言い放った。「落ち目の人間を、これ以上いたぶる趣味はない」
その言葉を聞いた陽菜は、爪が食い込むほど拳を握りしめた。翔太がまだ紗奈に気持ちを残していることに、彼女はすぐに気がついたのだ。
紗奈……
まだ、やり足りないようね。
第3話
紗奈は雨に打たれながら家に走り着いた。ずぶ濡れで、ひどいありさまだった。
リビングに入った途端、彩花が焦りきった顔で駆け寄ってきた。たった2日間で、彼女の黒かった髪は白髪交じりになり、手入れの行き届いた顔は10歳も老け込んで見えた。
彩花は紗奈の腕を掴んで激しく揺さぶり、狂ったように叫んだ。「病院が、蓮の延命治療を打ち切るって……そんなこと、絶対にさせないわ!
紗奈!どんな手を使ってでもいいから、蓮を助けるのよ!」
紗奈は彩花の痩せた体を抱きしめ、その場に崩れるように膝をついた。白髪の増えた彼女の髪を見ていると、涙が思わずこぼれ落ちた。
木村家の資産はすべて差し押さえられ、動かせるのは家にあったわずかな現金だけだった。
「お兄ちゃんは死なないわ。お母さん、私を信じて。絶対に死なせたりしないから!
私にはまだ、ブランドのバッグやアクセサリーがあるわ!今すぐこれを売って、病院への当面の支払いにあてるから!
この家を売れば、何億円かにはなるはず。そうすれば、保険適用外のあの延命治療費だって……」
彩花はうつろな目で、か細い声で呟いた。
「お金があればいいのよね。お金さえあれば……」
紗奈は彩花の背中をゆっくりとさすり、少し落ち着いたのを見計らって、平静を装って切り出した。「お母さん、翔太は最初から復讐するつもりで近づいてきたのよ。お父さんが彼の両親を死に追いやったって言ってたけど、本当にそんなことがあったの?」
「そんなのデタラメよ!」
呆然としていた彩花は、怒りを込めて叫んだ。「お父さんは、誰よりもまっすぐな人だったわ。ライバルでさえ彼に一目置いて、立派な人だと褒めていたくらいよ。そんな人が、誰かを死に追いやるなんてことするわけないじゃない。翔太は、恩を仇で返す腹黒い男なのよ……」
彩花は怒りの言葉を吐き続けた。
紗奈はそっと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、冷たいようで、どこか優しさを秘めた翔太の瞳。彼と愛し合った数年間の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
違う。二人の間にそんな殺したいほどの恨みがあるなんて信じない。絶対に、何か裏があるはず。
でも……
紗奈は目を開け、めちゃくちゃにされた家を見渡して力なく笑った。家は壊れ、家族も失った。誤解だったとしても、もう元には戻れない。
彼女は苦痛に顔を歪め、きつく眉をひそめた。
翔太、なんて残酷な人。自分を愛させておいて、こんなにもひどい仕打ちをするなんて。天国から地獄に突き落とされた気分よ。
あなたに出会わなければよかった。
彩花をなだめた後、紗奈は蓮の延命治療費を支払い、売れるものはすべてフリマアプリに出品した。不動産屋にも連絡を入れ、それからようやく、疲れ切った体で父親の納骨に向かった。
冷たい雨が降りしきる中、紗奈は墓の前に泣き崩れた。石に刻まれた父の名を見つめると、冷たい墓石にすがりつき、許しを乞うように深く頭を垂れた。
雨は彼女を容赦なく打ちつけ、空はどこまでも暗く広がっていた。その中で、紗奈の姿はちっぽけで、ひどく哀れに見えた。
その時、電話の着信音が鳴った。不動産屋からだった。
紗奈は真っ青な唇を震わせながら電話に出た。「もしもし……家は、売れそうでしょうか?
なんですって?家が差し押さえられて、売れないって、どういうことですか!」
かすれた声が甲高くなった。スマホが手から滑り落ち、濡れた石畳の上に転がる。紗奈は墓石の父親の名前を見つめていると、突然激しく咳き込み始めた。
「ゴホッ、ゴホッ!」
紗奈は体をくの字に折り曲げ、地面に倒れ込む。顔に降り注ぐ雨が、彼女の涙を隠してくれた。
翔太。
石畳を掴む指先から血が滲んでいたが、紗奈はそれに気づくことさえなかった。
心の痛みが、すべての感覚を麻痺させていた。
翔太、なんてひどい人なの。兄を救う最後の手段まで、容赦なく奪い去るなんて。
電話が再び鳴り、画面に病院からの着信が表示された。紗奈は慌てて電話に出た。
「木村さん、お兄さんの容態が急変しました。すぐに病院へ来てください。もしかしたら……これが、最期になるかもしれません!」
「すぐに行きます!どうか、どうか兄を助けてください!」
紗奈はよろめきながら地面から立ち上がると、病院へと急いだ。
病院に駆けつけると、紗奈の目に飛び込んできたのは、「手術中」と赤く光るランプだけだった。
彼女は落ち着きなく手術室の前を行ったり来たりし、涙が絶え間なくこぼれ落ちた。この数日で流した涙は、これまでの人生で流してきた涙のすべてを合わせたよりも多い気がした。
「紗奈、今度の出張から帰ったら、君が一番好きな香水を買ってきてやるよ!」
「紗奈、やりたいことがあるならやってみろ。何かあっても、俺が何とかしてやるからな!」
「紗奈、怖がらなくていい。俺がいるから、もう誰も君をいじめたりしない」
蓮との思い出が次々と脳裏に浮かび、重い罪悪感と後悔が紗奈の心を埋め尽くしていく。
紗奈の顔からは完全に生気が失われ、瞳は虚空を見つめたまま焦点が合わない。突然、彼女は手術室のドアにすがりついた。ガタガタと震える手でドアを叩こうとして、そのまま床に滑り落ちる。
全部、自分のせいだ。
どうして翔太なんて好きになってしまったんだろう?
どうして彼を会社に入れてしまったんだろう?
自分の兄は、才能にあふれ、誰よりも眩しく輝く存在になるはずだったのに。それが今、手術室の中で生死の境をさまよっている。
爪が手のひらに食い込む痛みも、次第に感覚が麻痺していった。だが、どれほど自分を痛めつけようと、心にのしかかる深い罪悪感が和らぐことは決してなかった。
6時間後、手術室のランプの色が変わった。
絶望しきっていた紗奈の瞳に、かすかな光が宿った。彼女はよろめきながら立ち上がり、出てきた医師に駆け寄った。
「先生、兄はどうなりましたか?」
医師はつらそうな表情で、静かに首を横に振った。
「まだ危険な状態です。意識が戻る可能性は、かなり低いでしょう……」
その瞬間、紗奈の視界は真っ暗に染まり、足から力が抜け落ちた。
第4話
紗奈はふらりと身体を揺らし、大きく目を見開いた。彼女の視線は、医師の肩越しにベッドの上の蓮へと向けられる。
自分の兄はまだ危篤状態だ。最悪の場合、ずっと意識が戻らない植物状態になるかもしれないという。
度重なるショックで、紗奈の心はとうとう折れてしまった。目の前が真っ暗になり、彼女はその場に倒れ込んだ。
1時間後、意識を取り戻した紗奈はふらつく身体を引きずり、蓮の主治医のもとへ向かった。相手は重い口を開いた。「木村さん、事故の影響で、お兄さんの脳に深刻な出血が見られます。全力を尽くしましたが、あとは運に任せるしかありません。
現在は特別集中治療室で、保険適用外の特殊な生命維持装置に頼っている状態です。ですが、いつまで持ちこたえられるかは我々にも予測がつきません。
この高度な延命治療と特別室の費用は、全額自己負担となるため非常に高額になります。木村さん、早急に資金の工面をお願いします」
医者は気の毒そうに紗奈を見た。木村家が破産したことは東都中で噂になっており、医者も事情を知っていた。
特別集中治療室の利用代は1日につき約20万円近くかかる。今の紗奈に払えるのか、医師には皆目見当もつかなかった。
病院の廊下で、紗奈はスマホの画面を見つめた。電子マネーの残高は、たったの数百円。それが今の、彼女の全財産だった。
彼女は唇を噛みしめ、連絡先を開いて電話をかけ始めた。
何度もかけても繋がらない。ようやく繋がっても、金を貸してほしいと言った途端に友人たちは冷たく電話を切り、あるいは言い訳をして断った。
「紗奈、ごめんね。無理だよ」
「紗奈、私は海外に行くから……」
「紗奈、最近父に小遣いを削られてて、あんまり手元にないんだ」
親友の加藤達也(かとう たつや)に言い逃れられ、紗奈はついに堪え切れず、怒りに声を震わせた。「達也、もう20年の付き合いじゃない?
兄は以前、あなたを助けたこともあるでしょ。あなたが月のお小遣いを少し出すだけで兄の命は救えるのよ。それでも見殺しにするの?」
電話の向こうの沈黙が長く続き、ようやく達也の声が聞こえた。「紗奈、山本社長が口を出したんだ。君を助ける者は敵だと。
紗奈、うちの会社だって山本社長の標的にされたくないんだよ」
プー、プー。達也は電話を切った。
紗奈は力なく、冷たい廊下の床に座り込んだ。
翔太、自分の大切な人を次々と追い込んでいくなんて、あまりに残酷すぎる。
彼女は苦痛に顔を歪め、身を小さくして震えた。誰もいない廊下で、声にならない慟哭が漏れた。
どれくらいの時間が過ぎたか、電話が鳴った。噂の御曹司、岩崎圭佑(いわさき けいすけ)だ。繋がるなり、軽薄な声が耳元に届いた。
「木村、金に困ってるんだって?」
紗奈はスマホを強く握りしめ、精一杯平静を装った。「ええ。貸していただけますか?借用書を書きますので、必ず返しますから」
「ハハハ、返す?」
圭佑の下品な声が聞こえた。「木村家が倒産して、どうやって返すつもりだ?
俺の愛人にならないか?それならお前の兄の延命治療費なんて安いもんだろ!」
「そんなの嫌ですよ!そこまで落ちぶれてはいません!
だいたい、自分の身の程をわきまえたらどうですか!」
怒りと屈辱で顔を真っ赤にし、紗奈は一言一言、吐き捨てるように言い放った。
「調子に乗るなよ!破産したくせに、いつまでお高くとまってるつもりだ!
今に俺の足元に這いつくばって、泣きついてくるようにしてやるからな……」
紗奈は迷わず電話を切った。しかし、怒鳴り声が頭から離れない。彼女は顔を上げ、涙を必死にこらえた。
……
東都一番のクラブ「エリュシオン」で、紗奈は青い清掃服に身を包み、掃除用カートを押して掃除をしていた。
マスクをして、その容姿は完璧に隠されている。
かつて誰もが羨んだ木村家の令嬢だとは、誰も思わないだろう。
「山本社長はすごいね、たった半年で東都の頂点だよ。一体1日でどれだけ稼いでいるんだろう!」
「近々婚約するんだってさ。相手も大層なお家柄らしい……」
床を拭きながら小耳にはさんだ仕事仲間たちの噂話に、紗奈の手が止まった。表情がふと遠くを見つめるように固まる。
第5話
翔太のせいで、どの会社も紗奈を雇ってくれなかった。紗奈は屈辱をこらえ、エリュシオンで清掃の仕事を始めた。辛かったけれど、これで蓮の延命治療費はなんとかなるはずだった。
もう二度と翔太と関わることはないと思っていた。でも今日、彼が婚約するという話を耳にしてしまった。
「木村さん、ちょっといいかしら」
ぼんやりしていると、上司の中村花凛(なかむら かりん)に呼び出された。
紗奈は、手にしていた雑巾を強く握りしめた。嫌な予感が胸をよぎる。
花凛は紗奈を哀れむように見つめ、ため息をついた。「荷物をまとめて。明日で辞めてもらうことになったわ。
私じゃどうしようもないの。上の人が、あなたを名指しで辞めさせろって」
紗奈の手から雑巾が滑り落ちた。でも、彼女の表情は驚くほど落ち着いていた。まるで、こうなることが分かっていたかのように。
「フッ……」
紗奈は力なく乾いた笑いを漏らした。花凛を見上げると、その瞳の奥は光を失っている。そして、どこか虚な声で言った。
「中村さん、丸山さんに連絡を取っていただけますか?
木村家の令嬢、木村紗奈が、エリュシオンでホステスをやるって、それと、私の初めてをオークションにかけるとも伝えてください」
花凛は驚いて彼女を見つめた。「……本気なの?」
紗奈がここで働き始めた初日から、ぶかぶかの清掃服でも彼女の美しさは隠せなかった。客は後を絶たず、しつこく言い寄ってくる金持ちの御曹司もいた。
エリュシオンの後ろ盾が強くて、普通の従業員に手を出す客がいなかったからよかったものの、そうでなければ、紗奈はとっくにどこかへ連れ去られていただろう。
「私に、他に選択肢があるんでしょうか?
もう、これでいいんです……」
紗奈は自嘲するように口元を歪め、力なく手を振った。まだ25歳にもならないというのに、彼女からは若々しい活力が失われていた。背中は少し丸まり、まるで老人のように生気のない空気をまとっていた。
花凛は、紗奈の黒髪に混じって白髪がひどく増えているのを、まざまざと目にした。
彼女は何かを言いかけたが、結局ため息をつくだけだった。「わかったわ。聞いてみる」
花凛が去ると、紗奈は壁にもたれかかった。その口元には自嘲的な笑みが浮かび、すべてを諦めたような表情をしていた。
兄の延命治療だけは、絶対に中断させるわけにはいかない。
自分の生きる道は、翔太によって少しずつ断たれていく。
身を売って、誰にでも抱かれる安い女になる。それこそ、彼が望んでいることじゃないか?
もう何もかも失った自分に、世間体なんて関係ない。
それに、今こうして生きていること自体が、罪滅ぼしなのだから。
疲れ果てた体を引きずって家に帰ると、紗奈はまず、深く眠っている彩花の様子を見に行った。それから自分の部屋に戻った。
過去の記憶が脳裏をよぎり、悔いと苦痛に苛まれる毎日。そこからは一生逃げ出せそうもない。
あまりの苦しさに、何度も死のうと思った。でも、今の自分には死ぬ資格さえない。
……
賑やかな個室で、界隈では有名なお金持ちの御曹司である圭佑がニヤニヤしながら口を開いた。「おい、エリュシオンから流れてきた噂、聞いたか?
元令嬢の木村紗奈が、初めてをオークションにかけるらしいぜ。どうだ、興味あるか?」
圭佑が公然とそんなことを言い出したので、何人かが目を泳がせ、中心の翔太に、そっと視線を向けた。
第6話
1週間後。エリュシオンの外には、高級車がずらりと並んでいた。
夜9時、オークションは定刻通りに始まった。
広々としたホールは満席で、照明は薄暗く淫靡な雰囲気だ。ステージに立った支配人の丸山康弘(まるやま やすひろ)が小さな槌を鳴らし、へつらうような笑みで客席を見渡した。「皆様、こんばんは。今夜オークションにかけられますホステスは、皆様もご存知のことでしょう。
東都一の華、木村紗奈さんです!」
彼は下品な笑みを浮かべた。「エリュシオン始まって以来、最も価値のあるホステス、開始価格は2億円からとさせていただきます!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、客席からヤジが飛んだ。
「たかが一度寝るだけで2億円だって?頭おかしいんじゃないかよ?あいつにそんな価値あるわけないだろ?」
「昔はどんなにお高くとまってたか知らないが、今じゃただの売女じゃないか」
「お高いのには、それ相応の理由がございますよ」
康弘は意味深な笑みを浮かべた。
その時、眩いスポットライトがステージの中央を照らし、ソファがゆっくりとせり上がってきた。紗奈が、そこに寝そべるように横たわっている。体にぴったりとフィットした露出の多い赤いドレスは、彼女の雪のような肌を際立たせ、完璧なボディラインをあますところなく浮かび上がらせていた。
紗奈は妖艶に微笑み、媚びるような流し目で男たちを誘う。しかしその心は、ひどく冷え切っていた。
商品を値踏みするような男たちの視線は、紗奈に屈辱を感じさせた。しかし、彼女は顔に不満の色を一切見せず、笑顔でいなければならなかった。
紗奈がゆっくりと客席を見渡すと、薄暗い隅に座る翔太と目が合った。彼女は翔太を、まるで知らない人を見るような、何の感情も浮かべない目で見つめた。胸がずきりと痛み、慌てて視線をそらした。
翔太は唇を引き結んでいた。固く握られた左の拳が、彼の心の乱れを物語っている。あんなふうに自分を安売りする紗奈の姿に、腹の底で怒りが燃え上がっていた。しかし、一体何に腹を立てているのだろう?
翔太は一度目を閉じ、すべての感情を押し殺すと、再び冷たい表情に戻った。紗奈とはもう何の関係もないのだ。彼女がどうなろうと、もう知ったことではない。
「私の初めての夜のオークションへ、ようこそ!
私を落札してくださった方には、今夜はどんなことでも、最後までお付き合いいたします」
紗奈は妖しく笑い、華奢な指を胸元で這わせた。すると、もともとずり落ちそうだったドレスが滑り落ち、艶めかしい胸元が露わになった。
「すげぇな、まさに極上の女だ!この女はこんなにグラマーだったなんて、今まで気づかなかったぜ」
圭佑は目を釘付けにしていた。彼の席は翔太からさほど離れておらず、その言葉は翔太の耳にもはっきりと届いていた。
「前はあんなにきっちり着込んでたからな、わかるわけないだろ。それが今じゃ……」
「なあ圭佑さん、あなたが飽きたら俺にもやらせてくれよ。この木村家のお嬢様が、そこらの女とどう違うのか、俺も味わってみたいもんだ」
「ああ、いいとも。俺はとっておきのおもちゃをいろいろ持ってるんだ。その時は一緒に楽しもうぜ」
下劣な会話が、次々と翔太の耳に流れ込んでくる。彼は顔色一つ変えず、ただ静かに目を閉じた。
隣に座っていた陽菜は、翔太のそのかすかな反応を見逃さなかった。彼女は穏やかな笑みを浮かべていたが、心の中では激しい憎しみに燃えていた。
どうして?
自分がこれだけ長い間そばにいるのに、翔太は少しもなびいてくれない。なのに、紗奈が現れただけで、いとも簡単に彼の心は揺さぶられてしまう。
紗奈!
やっぱり、生まれついての売女ね。男をたぶらかすのが、あんなに板についてるんだから。
陽菜が圭佑に視線を送ると、二人は言外の意を込めて視線を交わした。
圭佑が不意に翔太に問いかけた。
「山本社長、本日こちらへお越しになったのは……もしかして、まだあの女のことが気になるとか?」
圭佑は、紗奈を破滅させるという約束を陽菜としていた。翔太がまだ紗奈に執着しているのなら、計画を変える必要があった。
翔太は薄目を開け、軽蔑しきった声で言った。「あんな女に、俺が気にかける価値なんて、あると思いますか?
今日ここに来たのは、彼女がどれだけ落ちぶれたかを、この目で確かめるためです!」