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愛という名の共謀
私は江坂紗月(えさか さつき)。 前夫の白川陽翔(しらかわ はると)は、会社が倒産したと言い残し、ビルの屋上から身を投げた。 悲しみに押...
Chương (1)
第1章
私は江坂紗月(えさか さつき)。
前夫の白川陽翔(しらかわ はると)は、会社が倒産したと言い残し、ビルの屋上から身を投げた。
悲しみに押し潰されそうになりながらも、私には生後五か月の娘・江坂つかさ(えさか つかさ)がいた。
その子を抱えて、私は数千万円もの借金を背負うことになった。
そんな私を不憫に思った幼なじみの江坂慎也(えさか しんや)は、周囲の反対を押し切って、私に結婚を申し込んでくれた。
慎也は、つかさを実の娘のように大切にし、誰よりも愛すると約束してくれた。
けれど、つかさは不幸にも、それから間もなく肺結核でこの世を去った。
心が空っぽになったように日々を過ごしていたある日、私は偶然、慎也と、死んだはずの陽翔が話しているのを聞いてしまった。
「やっぱりお前は容赦ないな。会社を潰れたように見せかけて、俺を死んだことにするなんて。
まあ、そのおかげで俺は金を持ったまま、絵梨と結婚できたわけだけどな」
――芦原絵梨(あしはら えり)。陽翔や慎也と同じ、私の幼なじみの一人だった。
「お前も紗月と結婚して一年以上だろ。つかさに手を出してなかったら、本気で紗月に情が移ったのかと思ったぞ」
しばらく黙っていた慎也が、低い声で言った。
「つかさがいると、絵梨が安心できないんだよ。俺だって、好きであんなことをしたわけじゃない。
絵梨が幸せでいられるなら、俺はなんだってする」
第1話
私は江坂紗月(えさか さつき)。
前夫の白川陽翔(しらかわ はると)は、会社が倒産したと言い残し、ビルの屋上から身を投げた。
悲しみに押し潰されそうになりながらも、私には生後五か月の娘・江坂つかさ(えさか つかさ)がいた。
その子を抱えて、私は数千万円もの借金を背負うことになった。
そんな私を不憫に思った幼なじみの江坂慎也(えさか しんや)は、周囲の反対を押し切って、私に結婚を申し込んでくれた。
慎也は、つかさを実の娘のように大切にし、誰よりも愛すると約束してくれた。
けれど、つかさは不幸にも、それから間もなく肺結核でこの世を去った。
心が空っぽになったように日々を過ごしていたある日、私は偶然、慎也と、死んだはずの陽翔が話しているのを聞いてしまった。
「やっぱりお前は容赦ないな。会社を潰れたように見せかけて、俺を死んだことにするなんて。
まあ、そのおかげで俺は金を持ったまま、絵梨と結婚できたわけだけどな」
――芦原絵梨(あしはら えり)。陽翔や慎也と同じ、私の幼なじみの一人だった。
「お前も紗月と結婚して一年以上だろ。つかさに手を出してなかったら、本気で紗月に情が移ったのかと思ったぞ」
しばらく黙っていた慎也が、低い声で言った。
「つかさがいると、絵梨が安心できないんだよ。俺だって、好きであんなことをしたわけじゃない。
絵梨が幸せでいられるなら、俺はなんだってする」
「紗月がどれだけつかさを大事にしてたか、お前だって知ってるだろ。お前が死なせたって知られたら、一生恨まれるぞ」
陽翔が、電話の向こうで面白がるように言った。
「だから、このことは墓場まで持っていけ」
慎也は大きな窓の前に立ったまま、しばらく黙り込んでいた。
やがて、低い声で答える。
「大丈夫だ……俺なりに、償っているつもりだ。
子どもがいれば、どうしたって情は残る。絵梨も、お前がつかさを理由に紗月と切れなくなるんじゃないかって不安がっていたんだよ。つかさがいなくなれば、絵梨も安心できる。
紗月は俺を信じている。真実に気づかせない自信はある」
二階の廊下でその言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。
喉が塞がったように息ができない。
慎也が顔を上げる前に、私は逃げるように寝室へ戻った。
鍵をかけた途端、力が抜け、その場に座り込んだ。
陽翔は、死んだはずだった。
会社が倒産したと言い残し、ビルの屋上から身を投げたはずだった。そして私には、返しきれないほどの借金だけが残された。
何もかも失ったと思っていた私に手を差し伸べてくれたのが、慎也だった。
つかさは、まだ生後五か月だった。慎也は私たちを支えたいと言って、結婚を申し込んでくれた。
けれど、ようやく少しだけ前を向けるようになった頃、一歳を過ぎたばかりのつかさが肺結核でこの世を去った。
たった一年のあいだに、私は何度も人生を壊された。
それでも慎也だけは、私の味方だと思っていた。
なのに、今になってようやく分かった。
全部、あの三人が仕組んだことだった。
陽翔は死んでいなかった。
慎也もまた、最初から私を騙していた。
私の信頼を利用して、私の最愛の娘まで奪ったのだ。
あの三人はみんな、私にとって大切な幼なじみだった。
陽翔はすべてを持って、絵梨のもとへ行った。
それなのに、どうしてつかさまで奪われなければならなかったのだろう。
気づけば、涙が止まらなくなっていた。
そのとき、背後でドアノブが回る音がした。
「紗月?」
鍵がかかっていると分かったのか、慎也は焦ったようにドアを叩き始めた。
「紗月、頼む。開けてくれ。
つかさのこと、まだ受け止めきれてないのは分かってる。でも、これからは俺がいる。ずっとそばにいるから。
頼むから開けてくれ。一人で抱え込むな。
つかさは優しい子だったんだから、お前がそんな顔してたら悲しむよ。
紗月……開けてくれ」
よくも、そんなふうに言えたものだ。
さっきの会話を聞いていなかったら、私はきっと――何も知らないまま、ずっと騙されていた。
やがて慎也が鍵を見つけてドアを開けた。
その頃にはもう、涙は拭っていた。
「……紗月、びっくりした。どうしたんだよ」
そう言いながら慎也は私の手首を取った。
傷がないと分かると、ようやく息をついたように私を抱きしめた。
「よかった……ほんとに、よかった。
もう前みたいなことはするなよ。頼むから」
少し間を置いて、低い声で続ける。
「俺がいるだろ。
約束したじゃないか。一緒に年を取っていくって」
そして、私の肩を抱いたまま言った。
「子どものことは……また考えればいい。次はきっと、大丈夫だから」
第2話
慎也の心臓は早鐘のように鳴っていた。
彼は私の背中を、ぽん、ぽん、と何度もやさしく叩いた。
けれど、さっきの言葉が本当に私を思ってのものだったのか、それとも絵梨のためのものだったのか、私にはもう分からなかった。
陽翔との子でさえなければ、どんな子だって無事に育つことを許されたのだろうか。
「慎也」
私は彼の胸を押し返した。
「つかさはずっと元気だったわ。それなのに、どうして肺結核なんかになったの?」
慎也は私の手を取ると、ベッドのそばまで連れていき、そのまま私を抱えるようにして一緒に横になった。
彼はひどく胸を痛めているような顔をして、しまいには無理に絞り出したような涙まで見せた。
「つかさは、俺たちの宝物だった。あの子がいなくなって、俺だって……」
慎也はそこで言葉を詰まらせた。
私は天井を見つめたまま、静かに笑った。
陽翔は絵梨のために、死んだふりまでして金を持ち逃げした。
そして慎也は絵梨のために、私のたった一人の娘を殺した。
どうしてこの二人は、絵梨を守るためなら、いつも私を犠牲にするのだろう。
……
慎也の隣で眠るなんて、できるはずがなかった。
布団の中で何度も寝返りを打った。目を閉じても、胸の奥がざわついて、少しも落ち着かない。
結局、私はベッドを抜け出し、つかさの部屋へ向かった。
まだ半月しか経っていない。それなのに、部屋に残っていたあの子の匂いは、もうほとんど薄れていた。
つかさが使っていた小さな掛け布団を胸に抱いた瞬間、堪えていたものが一気に崩れた。
その場に座り込み、息もできないほど泣いていると、ふいに指先に鋭い痛みが走った。
布団の内側に、銀色の針が一本、潜んでいた。
血の滲んだ指先を見つめながら、私は息を呑んだ。慌てて布団をめくると、針は一本だけではなかった。
この布団は、つかさが生まれた頃からずっと使っていたものだ。何度も手で洗い、干して、大事にしまってきた。針を取り残すなんて、そんなことは絶対にありえない。
また、慎也だ。
そう思った瞬間、体の芯がすっと冷えた。
こんな細い針が、あの小さな体に刺さっていたのだ。
つかさは泣いただろうか。
痛いと訴えることもできず、ただ震えていたのだろうか。
そう思った瞬間、布団を握る手に力が入った。指先が白くなるほど強く握りしめても、震えは少しも止まらない。
私はよろめくように立ち上がり、そのまま慎也の書斎へ向かった。
これが初めてのはずがない。
慎也はきっと、何度も私の娘を消そうとしていた。
書斎の戸棚を片っ端から開けていくうちに、奥のほうに押し込まれていた青い日記帳と、見覚えのないスマホを見つけた。
【6月8日。絵梨から妊娠したと聞いた。心から嬉しかった】
【1月2日。妊娠六か月。健診では何の問題もなかった。けれど絵梨は浮かない顔をしていた。お腹の子が女の子だと分かったからだ】
【1月15日。絵梨は怯えている。いつかすべてが明るみに出たとき、つかさの存在が、あの子の幸せを脅かすんじゃないかと……】
【ごめん、紗月。つかさには消えてもらうしかない。俺は一生かけて償う】
絵梨の誕生日を入れると、サブ機のロックはあっけなく解除された。
画面には、何年にもわたる二人のやり取りが残っていた。ほとんど一日も欠かさず交わされていたその会話は、私の知らない時間を埋め尽くすように続いていた。
甘い言葉も、他愛のないやり取りも、そこには当たり前のように並んでいる。
読み進めるうちに、まるで私のほうが後から二人の間に割り込んだ女だったような気さえしてきた。
胸の奥が、鋭い刃で抉られるように痛んだ。
私が地獄のような日々を必死に耐えているあいだ、あの三人は陰でどんな顔をして私を見ていたのだろう。
笑っていたのだろうか。
哀れんでいたのだろうか。
どちらにしても、私が本当に謝らなければならない相手は一人だけだった。
つかさ。
私の、たった一人の子ども。
明後日、この場所を離れる飛行機のチケットを取った。
その夜、私はつかさの遺品を抱いたまま、眠ることもできずに朝を迎えた。
夜が明ける頃、震える手で弁護士に連絡を入れた。
訴える。
私の気持ちを踏みにじったことなら、もういい。
けれど、つかさは違う。
あの子は、何も悪くなかった。
……
よほどひどい顔をしていたのだろう。
慎也は私を見るなり、痛ましそうに声をかけてきた。
「紗月、また一睡もしていないのか?そんな顔をしていたら、つかさだって心配するだろ」
伸ばされた手を避けるように、私はそっと顔を背けた。
唇を強く噛みしめる。今すぐ彼を問い詰めたい衝動を、必死に押し殺した。
「大丈夫。つかさのことは、私がちゃんと安心させてあげる」
つかさは、病気で死んだんじゃない。
誰かの身勝手な都合で、命を奪われたのだ。
だから私は必ず、あの子を傷つけた人間に罪を償わせる。そうして初めて、つかさを安心させてあげられるのだと思った。
慎也は私の言葉の意味に気づかなかったのだろう。目元に滲んでいた心配の色が、ほんの少しだけ薄れた。
「少し、外の空気でも吸いに行かないか?」
続けて彼は、思い出したように言った。
「今日は陽翔の命日だろ。毎年、陽翔のご両親に会いに行くって約束していたじゃないか。……忘れたのか?」
陽翔は最低な男だった。
それでも、彼の両親だけは違う。つかさのことを、本当にかわいがってくれていた。
つかさの物も、まだ陽翔の実家にいくつか残っている。持ち帰れるものがあるなら、私が取りに行かなければならない。
そう思って足を運んだ。
けれど、玄関をくぐった瞬間――奥のほうから、明るい笑い声が聞こえてきた。
第3話
扉の向こうから絵梨の笑い声が聞こえただけで、慎也の目元は分かりやすく和らいだ。
普段は私を気遣うふりをしているくせに、その瞬間、私の存在など忘れたようだった。
「絵梨も来ていたのか」
私より先に扉を開けて中へ入った慎也の声は、隠しきれないほど弾んでいた。口元も、無意識のうちにほころんでいる。
私があとに続いて部屋に入ると、それまで賑やかだった空気がふっと止まった。
陽翔の両親の顔から、分かりやすく笑みが消える。
絵梨は七か月になるお腹を撫でながら、ちらりと私を見た。それから、何でもないことのように首を傾げる。
「つかさちゃんは?」
言った直後、今さら気づいたというように、絵梨は慌てて口元を押さえた。
「あ……ごめんね、紗月。お腹の子が生まれたら、つかさちゃんと一緒に遊ばせたいって、ずっと思っていたから。つい」
そこで彼女は、傷口に塩を塗るように続けた。
「つかさちゃんが肺結核で亡くなったこと、すっかり忘れていて」
本当にうっかりなのか、わざとなのか。
そんなこと、絵梨自身が一番よく分かっているはずだった。
「絵梨、あなた……」
私が言い終えるより先に、慎也がすっと私の前に立ちはだかった。
まるで私から守るように絵梨の肩へ手を添え、彼女をソファに座らせる。
「大丈夫だ。紗月も、そんなことで責めたりしない」
低く穏やかな声でそう言ってから、彼は振り返って私を見た。
「そうだろ?」
娘を殺した二人が、何食わぬ顔で私の前に立っている。
声を抑えようとすればするほど、喉の奥が震えた。
「うっかり口にしたのか、わざと言ったのか。あなたが一番分かっているでしょう」
その瞬間、慎也の眉がわずかに寄った。
「紗月」
名前を呼んだだけだった。
けれど、その低い声だけで、これ以上は許さないと言われているのが分かった。
絵梨は一瞬目を丸くし、それから顔を覆ってすすり泣き始めた。
「ごめんなさい、おじさん、おばさん。陽翔のこともあったから、少し顔を見に来ただけだったの。紗月が嫌な思いをするなら、私、帰るね。
つかさちゃんのことだって、あの子が小さい頃から知ってるんだよ。そんなふうに言われるなんて、悲しいよ」
絵梨は片手で腰を支え、大きなお腹をかばいながら、つらそうに立ち上がろうとした。
腰がソファから少し浮いた、そのときだった。
陽翔の母がつかつかと歩み寄り、何の前触れもなく私の頬を打った。
乾いた音が部屋に響く。
あまりのことに、私は呆然とその場に立ち尽くした。
陽翔の母は私の服をつかむと、玄関のほうへ乱暴に押しやった。
「この疫病神。この家で歓迎されていないのは、あんたのほうよ!
うちの息子を破産させて、飛び降りるところまで追い込んだくせに、今度はたった一人のかわいい孫まで死なせるなんて!
あんたと関わる人間は、みんな不幸になる。二度とこの家の敷居をまたがないで。出ていきなさい!」
周囲から見えない角度で、絵梨が私に向かってうっすらと口元を歪めた。
挑発しているのは明らかだった。
陽翔の母に腕をつかまれ、私は数歩よろめいた。それでも慎也は、まるで私が絵梨に危害を加えるとでも思っているかのように、彼女の前にしっかりと立ちはだかっている。
そして、無様に引きずられる私を、冷ややかな目で見下ろしていた。
「何よ、その目は。この家に来る資格がないのは、あんたのほうでしょう」
陽翔の母は、憎しみを隠そうともせずに吐き捨てた。
「あのとき陽翔を結婚させるなら、絵梨を選ばせるべきだったのよ。あんたみたいな疫病神じゃなくて!
出ていけ!」
私は乱暴に玄関の外へ突き飛ばされた。
けれど、ドアが閉められようとした瞬間、とっさに手を伸ばして押し止めた。
幼い頃から、私は陽翔の両親にはいつも丁寧に接してきた。結婚してからは、実の親のように気を配ってきたつもりだった。
それなのに、私は昨日、一つだけ大事なことを見落としていた。
陽翔の偽装死に、彼の両親は本当に関わっていなかったのか。
「あんた、まだ何か用?」
私は陽翔の母をまっすぐ見据えたまま、低い声で問い返した。
「陽翔が生きていることを、あなたたちは本当に知らなかったの?」
その瞬間、部屋にいた四人の顔色がわずかに変わった。
やっぱり。
この人たちは、最初からみんなで私を騙していたのだ。
隠しているものを全部暴いてやろうとした、そのときだった。
「紗月!」
慎也が低く、強い声で私を遮った。
「つかさを亡くして、頭がおかしくなったのか」
彼は足早に近づいてきた。
両手で私の肩を支えるようなふりをしながら、その指は骨に食い込むほど強く私を押さえつけている。
「そんなことを言い続けるなら、一度、精神科で診てもらったほうがいい」
私は慎也を見つめた。
もう、失望すら湧いてこなかった。
胸の奥に残っていたわずかな情さえ、音もなく冷えていく。
第4話
押し問答になりかけたとき、絵梨がこちらへ歩いてきて、私の腕にそっと手を添えた。
「お父さん、お母さん。紗月はまだ、気持ちの整理がついていないんだと思う。少しだけ分かってあげて。だって、娘を亡くしたばかりなんだから」
お父さん、お母さん?
私が思わず目を見開くと、絵梨は待っていたかのように、にこりと笑った。
「二人がこの先、寂しい思いをするのは見ていられなくて。だから私、二人の娘になることにしたの。この子が生まれたら、おじいちゃん、おばあちゃんって呼ばせてあげられるし」
よくもそんなことが言えたものだ。
胸の奥から、吐き気にも似た嫌悪感が込み上げてきた。
陽翔は死んでいない。
ならば、命日と呼ばれる今日に、この家が悲しみに包まれるはずもなかった。
四人は何事もなかったように庭でバーベキューを始め、私は一人で二階へ上がり、つかさのものをまとめた。
服。哺乳瓶。使いかけのタオル。
どれも、あの子が確かにここにいた証だった。
途中で一度だけ、慎也が様子を見に来た。
彼はドアのそばに立ち、困ったようにため息をつく。
「紗月、家ならまだしも、ここでまで感情的になるなよ。あの二人だって、つらいんだ。
つかさの物を全部持っていくなんて、そこまでしなくてもいいだろ」
私は答えなかった。
手も止めなかった。
つかさに関わるものを、この人たちのそばに一つだって残しておきたくなかった。
荷物をまとめて部屋を出ようとしたとき、絵梨がふいに私のバッグを奪い取った。
「何が入ってるの?」
そう言いながら、絵梨は指先でつまむようにして、つかさの服を一枚ずつ引っ張り出していく。
私はバッグの反対側を掴んだ。
「つかさのものよ。触らないで」
「やだ、そんなに怒らなくてもいいじゃない。ちょっと見るくらい、いいでしょ?」
私が止めようとすればするほど、絵梨は面白がるように中を漁った。
やがて私たちは、バッグを挟んで引っ張り合う形になった。
「放して!」
絵梨は悪意を隠そうともせず、唇の端を上げた。
「嫌だって言ったら?」
次の瞬間、強く引かれた拍子に、私の手の中でバッグの紐がぶつりと切れた。
絵梨はそれを見るなり、わざとらしく「あっ」と声を上げた。
私が一瞬気を取られた、その隙だった。
彼女はつかさの遺品を奪い取ると、誰もいない庭へ駆け出し、火のついたばかりの炭の中へ放り込んだ。
乾いた綿の服に火が移り、炎が一気に立ち上がる。
頭の中が真っ白になった。
私は反射的に駆け寄り、まだ燃え残っていたおもちゃを素手で火の中から掻き出した。
焦げた匂いが鼻を刺す。
つかさのおもちゃは黒く焼け焦げ、私の手の甲には、熱で赤く腫れた水ぶくれが浮かんでいた。
「絵梨!」
血走った目で睨み上げると、絵梨は腕を組んだまま、余裕ぶった笑みを浮かべていた。
「何?
死人のものなんて、燃やしてしまうのが普通でしょう。いつまでも残しておいたら、縁起が悪いじゃない」
その言葉で、頭の中が真っ白になった。
手の甲の痛みさえ、もう感じなかった。
気づいたときには、私は絵梨に飛びかかり、その首に両手をかけていた。
本気で力を込めた。
けれど、絵梨は苦しげに顔を歪めながらも、なお私を煽るように唇を動かした。
「さっきの……陽翔が生きてるって話。どこまで知ってるの?」
そして、私の表情を見た絵梨は、かすかに笑った。
「……なんだ。もう気づいてたんだ。
そうよ。私のお腹の子は陽翔の子。あの人は死んでなんかいないし、破産もしていない。あなたが必死に借金を返している間、陽翔は私のために、惜しみなくお金を使ってくれていたわ。
つかさちゃんも、本当にしぶとい子だったわ。何度も消そうとしたのに、なかなか思い通りにならなくて」
絵梨は苦しげに息を吸い、それでも唇の端を歪めた。
「でも、最後はあっけなかったわね。肺結核で死ぬなんて」
その瞬間、頭の中で何かがぷつりと切れた。
この女を、この場でめちゃくちゃにしてやりたい。
そんな衝動を抑えきれないまま、私はさらに指に力を込めた。
「つかさに何をしたの!」
絵梨の顔が苦しげに歪み、目尻に涙が滲む。
それでも彼女は、掠れた声で言った。
「慎也が……肺結核の患者の痰を、あの子に飲ませたのよ」
耳の奥で、嫌な音がした。
次の瞬間、視界が真っ赤に染まった。
「死ね……!」
喉の奥から、押し殺したような声が漏れた。
私は絵梨の首を掴んだまま、何度も激しく揺さぶった。
頭に血が上っていた私は、ここが白川家だということさえ忘れていた。
「紗月!お前、何してるんだ!」
異変に気づいた慎也が、血相を変えて駆け寄ってくる。
それでも、私は手を放さなかった。
むしろ、さらに指に力を込めた。
あと少しだった。
絵梨の瞳から、少しずつ焦点が消えていく。
けれど次の瞬間、駆け込んできた慎也の足が、私の腹を思いきり蹴りつけた。
鈍い痛みが腹の奥に突き刺さる。
手から力が抜け、私はその場でよろめいた。
そして、そのまま床に崩れ落ちた。
第5話
尻から地面に落ちただけのはずだった。
それなのに、腹の奥だけが、抉られるように痛んだ。
「絵梨!」
慎也は私には目もくれず、その場に膝をついた。必死に絵梨の名を呼びながら、彼女の胸元に手を当てる。
「絵梨と腹の子に万が一のことがあったら、絶対に許さない!」
陽翔の両親も、支え合うようにして駆け寄ってきた。
「なんて恐ろしい女なの……!つかさを死なせたばかりか、絵梨まで殺そうとするなんて!」
陽翔の父は杖を握りしめ、怒鳴りながら私に向かって振り下ろした。
私は痛みに耐えながら、とっさに腕で頭をかばった。立ち上がろうとしても、腹の痛みがひどく、体に力が入らない。
「この疫病神が……!うちの血を絶やす気か!」
「あなた、もっと打って!今日こそ分からせてやらなきゃ、この女はまた同じことをするわ!」
重く振り下ろされた杖が、私の頭を打った。
視界がぐらりと揺れる。
私は歯を食いしばり、痛みに耐えながら、その杖を必死につかんだ。
「何だ、やり返すつもりか!」
その声が響いた直後、絵梨が目を覚ました。
彼女は胸元を押さえ、堰を切ったように泣き出す。
慎也は痛ましげに顔を歪め、絵梨を大事そうに抱き寄せた。
「絵梨、聞こえるか?大丈夫だ、俺がついてる。すぐ病院に連れていくからな」
彼は絵梨を抱き上げると、私の横をまっすぐ通り過ぎた。
私を見ることはなかった。
ほんの一瞬でさえ。
私はその場に崩れたまま、全身の痛みに息を詰まらせていた。
腹の奥が熱く、重く、何か大切なものが体の中から流れ出ていくようだった。
そして、足元に広がる赤を見た。
その瞬間、ようやく分かった。
生理が遅れていたのは、悲しみで体調を崩していたからではなかった。
私は、妊娠していたのだ。
けれど、お腹にいたはずの子は、もういない。
父親の手で、殺された。
痛みをこらえながら、自分で救急車を呼んだ。
病院に運ばれ、いくつもの検査を受けたあと、手渡されたエコー写真には、妊娠八週とはっきり記されていた。
医師は気の毒そうに目を伏せた。
「残念ですが……赤ちゃんは、もう助かりません。
このまま処置に入ります。子宮の中をきれいにする必要があります」
私はエコー写真を握りしめたまま、ぽつりと涙を落とした。
つかさを失ったばかりなのに、この子まで守れなかった。
手術はすぐに行われた。
術後、まだ麻酔の名残で体が重いころ、慎也から電話がかかってきた。出た途端、彼は一方的に私を責め立てた。
「お前は少し取り乱しているだけだと思っていた。けど、まさか妊婦に手を出すなんてな。絵梨は今、大事な時期なんだぞ。
絵梨に何かあったらどうするつもりだったんだ。母子ともに危なかったかもしれないんだぞ。そうなれば、お前は人殺しだ。
つかさのことは不幸な事故だった。つらいのは分かる。けど、自分の子を守れなかったからって、他人の子まで巻き込むのは違うだろ。
絵梨はただ、うっかりつかさの名前を出してしまっただけだ。それを首まで絞めるなんて……紗月、お前、本当におかしいぞ」
私は、もうどこか麻痺していたのかもしれない。
私が、人殺し?
消毒液の匂いが染みついたシーツを握りしめ、私は冷たく問い返した。
「慎也。自分には何の罪もないとでも思っているの?」
二人の子どもを死なせたのは、ほかでもない彼だった。
「どういう意味だ。ちゃんと説明しろ、紗月」
彼が言い終える前に、私は電話を切った。
その夜、私は弱りきった体を引きずるようにして家へ戻った。
すべてを片づける余裕なんてなかった。普段着る服だけをバッグに詰め、そのまま出ていくことにした。
家を出る前に、離婚届とエコー写真をリビングの目につく場所に置いた。
他人の子なら、彼はためらいもなく殺せる。
なら、自分の子にも同じように無関心でいられるのか。
それだけは、知りたかった。
この街を離れる前に、私は霊園へ向かった。
つかさに、好きだったものを持っていくつもりだった。
けれどベビー用品店を一回りして、私はようやく思い知らされた。
つかさは、私の子に生まれたせいで、ずっと我慢ばかりしていたのだと。
陽翔のせいで、私は莫大な借金を背負った。
つかさには、必要最低限のものをそろえるだけで精一杯だった。
一歳の子ども向けのおもちゃは、こんなにもたくさんある。
それなのに、つかさは、そのどれにも触れたことがなかった。
私は埋め合わせをするように、目についたものをいくつも買い込んだ。
そして、つかさの墓前に一つずつ並べた。
声をかけようとしても、喉が詰まって、うまく言葉にならなかった。
頭に浮かぶのは、小さな手を伸ばして、たどたどしく声を上げるつかさの姿ばかりだった。
第6話
墓前を離れる前に、私は小さな金の延べ棒を二つ、墓石のそばの目立たない場所にそっと忍ばせた。
「つかさ。ママ、ずっと考えていたの。でも、本当にあなたのものだと言えるのは、これしかなかった。
本当はね、一年に一本ずつ買って、いつかあなたが大きくなったときに持たせてあげるつもりだったの。借金取りが家まで押しかけてきたときも、これだけはどうしても売れなかった」
言い終えた途端、私は顔を両手で覆って泣き崩れた。
張り詰めていたものが、そこでようやく切れた気がした。
空が暮れかける頃になって、私はやっと立ち上がった。
「次に来るときは、必ずあなたを苦しめた人たちに、ちゃんと罪を償わせるから」
……
翌朝早く、私は空港へ向かった。
そこで初めて、慎也から何十件ものメッセージが届いていることに気づいた。
【絵梨が無事だったからまだよかった。もし腹の子にまで何かあったら、お前を一生許さなかった】
【少しは自分が何をしたのか考えろ。あの状態の絵梨に手を出すなんて】
【一度、本気で病院に行ったほうがいい。今のお前はまともじゃない】
【絵梨は目を覚ましてからずっと泣いてる。眠っていても急に怯えて起きるんだぞ】
【今すぐ来て謝れ】
【返事くらいしろ。見てるんだろ】
下へスクロールしても、似たようなメッセージばかりが続いていた。
もう読む気にはなれなかった。
最後のほうで、慎也はようやく短い一文だけを送ってきていた。
【明日帰ったら、一度ちゃんと話そう】
私はそのメッセージを最後に、彼をブロックした。
そして、そのまま飛行機に乗った。
続きは、弁護士と話してもらえばいい。
つかさを殺したことには、何も感じなかったのかもしれない。
けれど、自分の子の命まで、その足で絶ったと知っても、本当に平気でいられるのだろうか。
……
慎也は病院で絵梨のそばにつき、リンゴの皮をむいていた。
けれど、手元が狂い、刃先が指をかすめる。
絵梨はそれを横目で見て、不満そうに唇を尖らせた。
「慎也、せっかく一緒にいられるのに、どうしてそんなに上の空なの?
誰のこと考えてるの?」
慎也は答えなかった。
ただ、無意識にスマホへ目を向ける。
返事は、まだ一通も来ていない。
あれだけメッセージを送ったのに、紗月からは何の反応もなかった。
怒るべきなのだろう。
いつものように、面倒なことをしていると呆れればいいはずだった。
それなのに、胸の奥だけが妙にざわついて、どうしても落ち着かなかった。
慎也は、幼い頃から紗月と一緒に育ってきた。
子どもの頃、取っ組み合いの喧嘩をしたことだってある。それでも紗月が、彼を完全に無視したことは一度もなかった。
紗月は昔から、喧嘩をしても無視だけは嫌だと言っていた。
言いたいことがあるなら、ちゃんと言えばいい。黙って相手を困らせるようなことはしたくない、と。
それなのに、今回はどうして――
慎也は眉をひそめたまま、絵梨に合わせるように答えた。
「違う。絵梨の体が心配なだけだ。
今回は怖い思いをさせた。医者も言ってただろ。しばらくは安静にして、何かあったらすぐ知らせろって」
絵梨は唇を尖らせた。
首を絞められたところが、今もまだ痛む気がする。
彼女は慎也の手を握り、甘えるように言った。
「本当に怖かったの。紗月がどうして急にあんなことをしたのか、私にも分からなくて……」
絵梨はしばらく黙り込んだあと、不安そうに慎也を見上げた。
「……紗月、まだ私のこと怒ってるのかな。病院にも来てくれないし」
あの騒ぎのあと、慎也はずっと病院で絵梨につき添っていた。
その言葉を聞いた瞬間、慎也は何かに背中を押されたように、すぐ紗月へ電話をかけた。
けれど、何度かけてもつながらない。
呼び出し音もろくに鳴らないまま切れてしまうたび、慎也の苛立ちは少しずつ募っていった。
彼はむきかけのリンゴを皿の上に置くと、立ち上がった。
「まだ意地を張っているなら、俺が直接連れてくる」
そう言って病室を出ていく慎也を見て、絵梨は無意識に掛け布団を握りしめた。
おそらく慎也本人でさえ、気づいていない。
紗月のことを口にした瞬間から、彼の目元には隠しきれない焦りが滲んでいた。
……
家に着くと、慎也は急いで鍵を開け、そのまま寝室へ向かった。
「紗月、どうして電話に出ないんだ……」
けれど、がらんとした寝室を見た瞬間、その声は喉の奥で途切れた。
部屋の中に、紗月はいなかった。
慎也は寝室を出て、リビング、書斎、浴室まで順に見て回った。
それでも、どこにも彼女の姿はない。
胸の奥に、嫌なざわめきが広がっていく。
そこでようやく、紗月が普段使っていた服や荷物が消えていることに気づいた。
そして、ローテーブルの上に置かれた離婚届を見つけた瞬間――慎也の頭から、すっと血の気が引いた。