夫が兄になりすまして義姉と契った話

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夫が兄になりすまして義姉と契った話

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カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。 震える手で包帯を巻きながら、...

Chương (1)

第1章

カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。 震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。 「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」 私は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。 さすが双子だ。 今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。 しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。 「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」 「いらない」 きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。 「彰宗さんは、ちゃんと知恵(ちえ)さんのそばにいてあげて」 口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。 不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。 「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」 あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。 別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。 第1話 カミソリでまた手首を切ったとき、真っ先に駆け込んできたのは、やはり桐谷彰宗(きりたに あきむね)だった。 震える手で包帯を巻きながら、彼は言った。 「薬、また飲み忘れたんじゃないか?」 私・久遠美咲(くおん みさき)は何も答えず、ただぼんやりと、赤く潤んだ彼の瞳を見つめていた。 さすが双子だ。 今この瞬間、心配で歪んだその顔立ちまで、あの人と瓜二つだった。 しばらくして、彼は小さく息をつき、ようやく重い口を開いた。 「もし……本当に翔伍(しょうご)のことが忘れられないなら、俺が……」 「いらない」 きっぱりと言い切り、私の視線は、彼の襟元から覗く、生々しいキスマークへと落ちた。 「彰宗さんは、ちゃんと知恵さんのそばにいてあげて」 口元にわずかな笑みを浮かべて、彼を見た。 不思議と、心にはもう悲しみは残っていなかった。 「だって、私もそろそろ自分を解放して、やり直そうと思うの」 あのとき、あなたが私を捨てたのと同じように。 別の人間として、別の誰かと一生を歩んでいく。 彰宗は呆然と立ち尽くした。 「何を言っているんだ?」 私は手を引き抜いて、自分でガーゼを巻き始めた。 「この数年間、私の病気のせいで、彰宗さんにも知恵さんにもたくさん迷惑をかけたわね。でも、もうすっかり良くなったから、そろそろここを出て行こうと思うの」 彼は弾かれたように立ち上がった。 「良くなった?それなのに手首を切ったのか?」 私は俯いたまま、サージカルテープを歯で噛み切り、ガーゼの端をきちんと押さえた。 「リンゴを剥いてたら、ちょっと滑っちゃっただけ」 信じてくれなかった。 この三年間で、私は十七回も手首を切っていて、そのたびに一番にドアを蹴破って駆け込んできたのは彼だったから。 でも、今回は違う。 本当に、リンゴが食べたかっただけ。 「喜んでくれないの?」 顔を上げて、彼を見つめた。 「ずっと前に進めって言ってくれてたじゃない。今、やっと前に進めるようになったのに、どうして喜んでくれないの?」 彼の表情がわずかに揺れ、口を開きかけて、また閉じた。 その顔を見つめながら、私はいつの間にか指先を握りしめていた。 翔伍と彰宗は、本当に瓜二つだった。 双子だから、当然だけど。 眉の形も、鼻筋も、唇も。 こめかみの小さなほくろの位置まで、すべて同じだった。 昔は、ふたりは似てないと思っていた。 彰宗の笑顔は穏やかで、翔伍が笑うと目尻がほんの少しだけ上がって、少年らしい快活さが滲む。 でも、それは三年前の話だ。 三年前、こう告げられた。 「翔伍は事故に遭って助からなかった」 あの日、私は愛した人を失った。 お腹の子も失った。 私はあまりの衝撃に、睡眠薬を多量に飲み込んだ。 その時に、彰宗が、水を飲ませて吐かせてくれた。 屋上に立ったとき、引き戻してくれたのも彼だった。 何度も何度もリストカットをくり返して、そのたびに包帯を巻いてくれたのも彼だった。 彼は義兄として、この三年間、私のそばにいてくれた。 心から感謝していた。 一ヶ月前までは。 夜中にトイレに起きたとき、書斎の前を通りかかると、電話している声が聞こえてきた。 「お母さん、彰宗兄さんのことは誤魔化せるうちは誤魔化しておこう。知恵はこんなこと耐えられないよ、元々精神が不安定なんだから。 美咲のことは……あいつは強いから、大丈夫」 口を押さえてドアの外にうずくまり、全身が震えていた。 まさか死んでいたのは、彰宗だったとは。 そして今、兄の彰宗になりすまして、三年間生きていたのは翔伍だった。 なのに、あの夜、私は部屋に飛び込んで問い詰めることはしなかった。 本当の彰宗は彼を庇って死んだのだと、自分に言い聞かせた。 彼が兄嫁の世話を続けているのは、罪悪感からなのだと。 そう理解すべきだと思っていた。 でも、ふたりの寝室の前まで来たとき。 彼が林田知恵(はやしだ ちえ)を押し倒して、唇を重ねる光景を目にしてしまった。 もう、自分を騙しきれない。 彼が欲情したときの様子を、私は誰よりもよく知っている。 呼吸が荒くなると、指先には無意識に力がこもること。 かつては私だけのものだったその些細な仕草が、今は寸分違わず別の女に注がれていた。 責任感なんてもの、とっくに変質していたのだ。 この三年間、朝夕をともに過ごすうちに、彼は知恵に惹かれていったんだ。 そのとき、ドアがノックされた。 「美咲ちゃん、大丈夫?」 知恵の声だった。 翔伍……いや、やはり彰宗と呼ぶべきか。彼は薄手のカーディガンを一枚だけ羽織った知恵を見て、反射的に腕の中へと引き寄せた。 「外は寒いのに、どうしてそんな薄着で来るんだ」 第2話 彼の口調は、まるで子供をあやすように柔らかかった。 知恵は彼の肩に寄りかかり、少し心配そうにこちらを見ていた。 「大丈夫よ」 私はかすかに笑みを浮かべた。 「ふたりとも、部屋に戻って休んで」 彰宗はすぐには動かなかった。 私を見つめる目が、珍しくも真剣だった。 「前に進めるのは、当然いいことだ。でも、出ていくとなると話は別。家族みんなで、ちゃんと話し合わないと」 その言葉に、知恵は少し驚いたように私を見つめた。 何も言わず、彰宗の後について出ていった。 ドアが閉まった。 私はベッドの端に腰かけて、小さく笑った。 家族、か。 私たちって、本当に家族なのだろうか。 スマホが震え、画面を見ると、スケジュール確認の通知だ。 翔伍と一緒にアイスランドでオーロラを見るのがずっと私の夢だった。 でも桐谷家は政界と深く結びついた複雑な関係を持っていて、家の長老たちは子どもたちが自由に海外へ出ることを許さなかった。 彼が生きていた頃、私は待ち続けていた。 死んでからも、私は彼に縛られていた。 でも今はもう、自分のために生きたい。 …… 翌朝早く、書類と身分証をカバンに詰めた。 部屋を出ると、ちょうど彰宗が朝食を作っているところだった。 厚焼き玉子、知恵の好物だ。 しじみの味噌汁に揚げパン、私の好物だ。 毎朝ずっとそうだった。 知恵は甘い味が好きで、私は塩味が好きで、彼は一度も間違えたことがなかった。 この三年間、文句のつけようがないほど細やかに気遣ってくれたものだ。 「おはよう。朝ご飯できたぞ」 彰宗が私のために椅子を引いた。 「いい。二人で食べて」 踵を返して玄関へ向かおうとしたとき、彰宗が私の手に持った書類袋に目を留めた。 歩み寄り、私の腕を掴んだ。 「それ、何だ?どこ行くんだ?何しに?」 こんなに反応するとは思っていなかった。 とっさに言い訳を作った。 「この前の健康診断で、ひとつ数値が良くなかったから。先生に再検査って言われて」 じっと私を見つめて、信じていないのが分かった。 彼は手を伸ばして書類袋を取ろうとした。 その指先が触れかけた瞬間、寝室から、知恵の小さな悲鳴が上がった。 一瞬で彰宗の手が離れ、彼は駆け足で寝室へ向かった。 「知恵?どうした?」 「つま先をベッドの角にぶつけちゃって…… イタタタ……」 甘えた泣き声が、ドアの隙間から漏れてきた。 続いて、彰宗の声がやさしくなった。 「ほら、見せてごらん……」 私は玄関に立ったまま、書類袋を握りしめて、小さく笑った。 そして背を向け、家を出た。 …… ビザはすんなり取れた。 ビザセンターを出たとき、スマホに十九件の不在着信があったことに気づいた。 それに、未読メッセージが三十件以上。 全部、彰宗からだった。 どこの病院にいるのか、返事をしてくれ、早まったマネはするな、と。 一件ごとに、焦りが滲んでいた。 最後の一件は、十五分前に送られていた。 【今から探しに行く】 その一文を、しばらく眺めた。 以前、私が外出するときは必ず誰かを付き添わせてくれていた。 運転手でも、家政婦でも、常に誰かがそばにいた。 彰宗は、私が思い詰めて変なことしないか心配で。 でも今朝の彰宗は、寝室から聞こえたあの小さな泣き声で頭がいっぱいだった。 スマホの電源を切り、返事はしなかった。 ビザも取れた。航空券も押さえてあった。 来週の金曜日には、ここを出る。 …… あてもなく、ずいぶん長いこと歩き回っていた。 家に帰ったのは、夜の十時を過ぎていた。 ドアを開けた瞬間、リビングのソファに座っていた彰宗に心臓が跳ね上がった。 彼はどれくらいそうしていたのか、明かりもつけず、スマホの画面の薄い光だけが、横顔の半分をぼんやりと照らしていた。 「どこにいたんだ?なんで返事しなかった?」 低く落とした声に、感情は読めなかった。 心拍を落ち着かせながら、玄関の照明スイッチに手を伸ばした。 ようやく気づいた。 コートはまだ着たままで、靴も替えていないことに。 外を探し回った末、戻ってきたばかりのようだ。 「スマホの電池が切れてたの」と私は言った。 スリッパに履き替えて、彼の横を抜けて部屋へ戻ろうとした。 ドアの前まで来て、手をかけようとしたその時。 体をぐいっと反転させられ、背中が激しくドアに打ち付けられた。 彼は私を壁に押しつけた。 ドアと彼の体の間に閉じ込められ、彼の服に染み付いた冷たい風の匂いが感じられるほど、息の詰まる距離だった。 「彰宗さん」 身をよじったが、逃げられなかった。 第3話 「何をするの!」 彼はうつむき、その吐息が額にかかった。 数秒、沈黙が続いた。 「変わったな、お前」 私は一瞬固まって、すぐに彼の言いたいことが分かった。 思わず笑ってしまった。 「悲しい過去を忘れて、前に進んだら、変わったってことになる……っていうの?」 顔を上げて、彼を見据えた。 「あなたも、知恵さんも、お義母さんも、散々私に言ったじゃない。前に進めって、やり直せって。 今、やっとその通りにできたのに、何がいけないの?」 彼の顔色がさっと険しく変わった。 ギリッと歯を食いしばった。 「嘘だ。あんなに愛していたのに……俺……の、弟のことを」 押し殺した声が、ほとんど歯の隙間から絞り出されるようだった。 「たった三年で、翔伍のことを忘れられるのか?あの子のことも?」 最後の一言が、刃のようにまっすぐ心臓を突き刺した。 私はぎゅっと手を握り締めた。 あの子。 私が守り切れなかった、あの子。 なのに、どの口がそれを言うのか。 彼の訃報さえ聞かなければ、あんなふうに取り乱して早産することもなかったのに。 赤ちゃんだって、感染して窒息死することもなかったはずなのに。 自分が何を言ったか気づいたのか、彰宗は慌てて謝ろうとした。 だが、私はそれを許さなかった。 「自分が何様だと思っているの」 必死に涙をこらえて、彼の顔を射抜くように睨みつけた。 「どうして信じないの?愛してないって言ったら、もう本当に愛してないのよ。もうあの人のために一人で生きたりしない。涙だって、二度と流さない」 「黙れ!」 彼の瞳はわずかに揺れた。 私にそんなことを言わせたくないのか、耳元に押しつけていた手が、さらに強く押しつけられた。 焦ったように顔を近づけ、何かしようとしたその瞬間。 「あなたたち、何をしているの?」 顔が青ざめている知恵が、薄暗い明かりの下に立っていた。 彰宗はすぐに手を離した。 「誤解しないでくれ」 大股で歩み寄って、彼女を腕の中に引き寄せた。 「美咲がよろけたから、ちょっと支えただけだ」 なんて見え透いた言い訳だというのに、知恵はそれにあっさり騙された。 そして、無理に笑みを作った。 「そうだったの、てっきり……」 少し間を置いて、話題を変えた。 「さっきお義母さんから電話があって、優(ゆう)が会いたがってるって」 「優」という名前を聞いた瞬間、息が止まりそうになった。 あの頃、私と知恵はほぼ同時期に妊娠していた。 本当の彰宗が事故に遭ったあの日は、ちょうど知恵の出産予定日だった。 その事情も慮って、彼らは「身分交換」という途方もない大嘘をついたのだ。 なんて滑稽なんだろう。 知恵のことは考えたのに、私のことは、考えなかった。 知恵の子は元気に生まれてきた。 だが私の子はいなくなった。 子供の存在が私の傷に触れないようにと、優はずっと義母のもとで育ってきた。 車で十分もかからない距離だから、会おうと思えばいつでも会える。 「美咲ちゃん」 知恵が呼んだ。 「明日、彰宗と一緒に大事なお客様に会いに行かないといけなくて、悪いんだけど、幼稚園に優を迎えに行ってもらえる?」 彰宗は眉をひそめた。 「体の具合が良くないんだから、家政婦さんに行ってもらえばいい」 「大丈夫、私が行くわ」 彼の言葉を遮って、私は答えた。 …… 翌日の午後。 買ったばかりのキャンディを手に、幼稚園の門の前に立っていた。 小さなリュックを背負って走り出してきた優は、甘えるように私を呼んだ。 「美咲おばちゃん」 小さな手が私の手のひらに滑り込んできた瞬間、その温もりに目頭が熱くなった。 私の子が生きていたら、同じくらいの歳になっていた。 でも、その小さな手を包み込もうとしたとき、制御を失った配達バイクが、歩道に突っ込んできた。 反射的に体を翻して、優をきつく抱きしめて庇った。 背中に激痛が走り、優を抱えたまま地面に転がった。 自分の傷など構わず、すぐに優を確認した。 優はひどく怯えて大泣きしていて、額をぶつけてすりむき、そこから血がとめどなく流れていた。 病院へ向かう途中も、血はなかなか止まらなかった。 …… 救急室の前。 知恵はボロボロと涙をこぼし、普段の穏やかさとはまるで別人のようで、私を指差して激しく罵った。 「あなたがここ数日落ち込んでいるみたいだから、気を遣って優を迎えに行かせてあげたのに!こんな風に面倒を見るなんて、どういうことなの!? 」 第4話 頭を下げたまま、背中の痛みで息をするのもままならず、ただひたすら謝り続けた。 「ごめんなさい、私が悪かった。本当に……ごめんなさい……」 ふと彰宗の方を見ると、知恵をしっかりと抱きかかえて、必死になだめていた。 義母は傍らに立ち、その目には失望の色が満ちていた。 歯を食いしばり、それ以上何も言わなかった。 医者がカルテを手に現れ、深刻な面持ちだった。 「お子さんには重度の凝固障害があります。現在、出血が多く、輸血が必要な状態です。Rh陰性血液型なのですが、あいにく血液バンクの備蓄が足りていなくて」 廊下が死んだように静まり返った。 思わず知恵の方へ目をやった。 彼女がO型だということは知っている。 彰宗も翔伍も、A型だった。 なら優がRh陰性なんて、あり得ないはずだ。 でも、そんなことを考えている場合ではなかった。 「私がRh陰性です。私の血を使ってください」 私は立ち上がって言った。 その言い終わった瞬間、義母が甲高い悲鳴を上げた。 「ダメよ!」 その場の全員が固まった。 「どうしてダメなんですか?」私は振り返って彼女を見た。 義母の視線が泳いで、私と目を合わせようとしなかった。 知恵も泣き止んで、まるで時間が止まったみたいに動かなかった。 彰宗だけがギリッと奥歯を噛み締め、私に説明した。 「早産のあと、ずっと体が弱っているんだ。母さんは、お前の体のことを心配してるんだ」 馬鹿げていると思った。 でも採血室へ向かおうとしたまさにそのとき、彰宗のアシスタントが一人を連れて駆け込んできた。 「社長!ご指示通り、事前に手配していたドナーを連れてまいりました」 思わず足を止めた。 その献血者に、見覚えがあった。 私がRh陰性だと分かったとき、翔伍は万が一に備えて、高額の謝礼を用意して同じ血液型の献血ボランティアを探し、バックアップの契約を結んでいたのだ。 でも、周りの人たちが安堵の表情を浮かべるのを見て——私が献血すると言った時の慌てた様子とは打って変わったその態度に、私は全身の血が凍る思いがした。 ふと、直系の親族からは輸血できないはずだと思い出した。 二時間の手術を終えて、優は一命を取り留めた。 家族みんなが優を取り囲んで世話をする姿を、私は傍らで見つめながら、胸が激しく鳴っていた。 妊娠中、医者は「お子さんの発育はとても順調です」と言っていた。 たった半月早く生まれただけで、本当にあんなにあっさり逝ってしまうものだろうか。 それに優の血液型、さっきの全員の表情、彰宗が普段優を見るときのあの複雑な眼差し…… 突拍子もない考えが、頭の中で弾けた。 口実を作って、優の使用済みの血の付いたガーゼを持ち出し、急いで自分とのDNA鑑定に回した。 …… 鑑定報告書を手にしたその瞬間、全身の血が凍りついた。 涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。 そこに記されていたのは—— 99.99%、母子関係。 そのとき、背後から彰宗の声がした。 はっと顔を上げると、真っ赤に腫れた私の目を見て、彼は大股で駆け寄ろうとした。 でも私の手の中の報告書を目にした瞬間、その場に釘付けになった。 説明も、弁解もなかった。 だが、その沈黙こそがすべてを物語っていた。 もう彼を見ていられなく、彼を押し除け、優の病室へと飛び込もうとした。 その手首を、彼にぐっと掴まれた。 骨が軋むほどの力だった。 「離して!」 振り向いて、彼の頬を思い切り叩いた。 「これ以上、あなたを恨みたくない」 横を向いた顔が、ゆっくりとこちらに戻ってきた。 手を伸ばして、私の持っていた報告書をひったくった。 一瞥すると笑い、片手でくしゃっと丸めて傍らのゴミ箱へ投げ込んだ。 「やっぱり優に会わせるわけにはいかないな」 その声はひどく淡々としていた。 「会うたびに発作を起こして、挙句の果てには偽の鑑定書まで用意するとは」 私は言葉を失った。 「さあ、帰って薬を飲もうな」 手首を掴んだまま、引きずるように外へ歩き出した。 私は声を上げて、必死に抵抗した。 彼は足を止めず、駆け寄ってきた看護師に言った。 「俺の妻です。以前子供を亡くしてから、ずっと精神的な問題を抱えていまして。今日また発作が出て。申し訳ないが、鎮静剤を一本打ってもらえますか。自傷してしまいそうで」 看護師は私の様子を見て、それから彼を見た。 そして、迷うことなく注射を取りに行った。 腕に針が刺さった瞬間、すべての力が抜けていった。 第5話 優の病室のある方を見つめながら、絶望の中でそっと目を閉じた。 次に目が覚めたのは、見知らぬ部屋だった。 窓には釘が打ちつけられ、使えそうな道具は何もなかった。 三日間、彰宗は姿を見せなかったが、食事だけは運ばれてきた。 食べなければ鎮静剤を打たれ、栄養剤を点滴されるだけだった。 だから絶食はやめた。 きちんと食べて、体力を温存して、機会を待った。 でも、彰宗より先に姿を現したのは知恵だった。 ベージュのコートを羽織り、隙のない完璧なメイクをしていた。 「つらいでしょう?」 笑みを浮かべたまま、私の向かいに腰を下ろした。 その目が、まるで別人のように冷ややかだった。 「実はね、彰宗の本当の身分は、ずっと前から知ってたのよ。優のことは……確信したのは数日前だけど」 全身が震え、声もかすれた。 「幼稚園の前で突っ込んできたあのバイク……あなたが仕組んだの?」 知恵は小首を傾げて、涼しい顔で笑った。 「ええ、そうよ。でも恨むなら、自分を恨みなさい」 立ち上がって、ゆっくりと言い放った。 「もし美咲ちゃんが彰宗の正体に気づかなければ、何もかも今まで通りだったのに。でも、知ってしまったものは仕方がないわ。 彰宗はあなたに負い目を感じてる……だから分からせてあげないといけなかった。美咲ちゃんはこの家で、何の価値もない人間なんだってね」 頭の中で、何かがぐらりと揺れた。 たったそれだけの理由で、三歳の子供に向けてバイクを走らせた。 その瞬間に、理性が完全に砕けた。 勢いよく飛びかかり、両手で彼女の首をきつく締め上げた。 「殺してやる!」 知恵は抵抗しなかった。 その口元には、計画通りだと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。 次の瞬間、ドアが蹴破られた。 彰宗が飛び込んできて、私を力任せに突き飛ばした。 「彰宗……助けて……」 私は床に激しく叩きつけられ、肘の皮が大きく擦りむけた。 知恵はそのまま彼の胸に倒れ込み、気を失った。 「美咲!いい加減にしろ!」 低く怒鳴りながら、私には一瞥もくれず、知恵を抱えて飛び出していった。 しばらくして、彼が戻ってきた。 見張りの人たちを下がらせ、殺気立った様子で言い放った。 「お前には本当に失望したぞ」 「失望したって?」 よろめきながら立ち上がり、冷たく笑いながら彼を見た。 「兄の代わりに義姉の面倒まで見て、挙句の果てにベッドまで共にしたくせに。 他の女の機嫌取りに実の娘まで使った。それで私に失望したって?」 彼の体がぴくりと強く張った。 「全部、知ってたのか」 「ええ。だから優を連れて行くわ。あなたたちのような吐き気のする連中は、二度と見たくない!」 彼はその場に立ち尽くした。 長い沈黙の後、苦しげに口を開いた。 「あの日のことは……俺が決めたことだ。恨んでも、憎んでもいい。でも、お前をここから出すつもりはない」 しゃがみ込み、私と同じ目線になった。 その目に、狂おしいほどの執念が宿っていた。 言い終えると、ドアに錠をかけて、また出ていった。 …… 翌日、彼は医師を一人連れてきた。 催眠療法を行えと命じた。 トラウマの記憶を消すためだと。 バカな…… こんな手段で、すべてを消し去れると本気で思っているのか。 目を閉じ、言われるままに数を数えた。 やがて、意識が静まっていった。 再び目を開けたとき、彰宗がベッドの端に座って、緊張した面持ちでこちらを見ていた。 「美咲、俺が誰かわかるか?」 虚ろな目で彼を見つめ、長い長い沈黙の後、無機質な笑みを作った。 「彰宗さん、喉が渇いた」 彼は深く長く息を吐いて、私を抱きしめた。 熱い涙が肩に落ちてきた。 「もう大丈夫だ。これからはずっと、俺がそばにいてやる」 それからの数日間、私は騒ぎも起こさず、おとなしく薬を飲んだ。 知恵に向かって、甘えるように「知恵さん」と呼びかけさえした。 彼らの警戒が、少しずつ解けていった。 …… そして、金曜日。 彰宗と知恵が夜会に出かけて、家に誰もいなくなった。 マットレスの下に隠してあったパスポートを取り出した。 邸宅の玄関ドアを押し開け、義母の家がある方向に目を向けた。 「ごめんね、優。ママは先に、自分を助けに行かなきゃいけないの」 タクシーを拾った。 「空港までお願いします」