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愛人が妊娠?親権と慰謝料をもらい即離婚する
除夜の鐘が鳴り響く中、原田雅美(はらだ まさみ)に今年の最初のプレゼントが届いた。 夫が他の女と親密にしている写真だった。 10分前まで娘...
Chương (1)
第1章
除夜の鐘が鳴り響く中、原田雅美(はらだ まさみ)に今年の最初のプレゼントが届いた。
夫が他の女と親密にしている写真だった。
10分前まで娘を抱いてパフォーマンスを見ていた夫が、今は別の女と寝ている。
ほぼ同時に、原田グループの御曹司が新人女優と密会しているというゴシップが、SNSのトレンドを埋め尽くした。
屋敷では、パーティーの参加者たちが一斉に雅美に視線を注ぎ、彼女の反応を待っていた。
「奥様……」秘書の中村拓也(なかむら たくや)が早足で近寄ってきたが、どこか緊張している様子だ。
「いつものやり方で、トレンドをさらに盛り上げ、火をつけてしまいましょうか?」
雅美の声は淡々としていた。「ううん。広報部に連絡して、噂をもみ消して」
拓也は呆然と立ち尽くした。
第1話
除夜の鐘が鳴り響く中、原田雅美(はらだ まさみ)に今年の最初のプレゼントが届いた。
夫が他の女と親密にしている写真だった。
10分前まで娘を抱いてパフォーマンスを見ていた夫が、今は別の女と寝ている。
ほぼ同時に、原田グループの御曹司が新人女優と密会しているというゴシップが、SNSのトレンドを埋め尽くした。
屋敷では、パーティーの参加者たちが一斉に雅美に視線を注ぎ、彼女の反応を待っていた。
「奥様……」秘書の中村拓也(なかむら たくや)が早足で近寄ってきたが、どこか緊張している様子だ。
「いつものやり方で、トレンドをさらに盛り上げ、火をつけてしまいましょうか?」
雅美の声は淡々としていた。「ううん。広報部に連絡して、噂をもみ消して」
拓也は呆然と立ち尽くした。
周りのひそひそ話が一瞬止まったかと思うと、さらに大きなざわめきとなって爆発した。
「……今の聞いた?揉み消す?聞き間違いじゃないわよね?」
「昔なら、渉さんの顔を潰すために何でもやっただろうに」
「本当よ。前に渉さんがモデルと車でいるのを撮られた時は、車をハンマーで壊してたわ」
「前回だってそう。パーティーの最中にあの豪華なクルーザーを焼き払ったのよ」
「毎度あの騒ぎぶりだものね。狂ったふりじゃ渉さんの心は留められないと気づいたのかしら?戦術を変えて、物分かりのいい妻を演じ始めたのね?」
そんな陰口は、容赦なく雅美の耳にも届いた。
雅美は聞き流し、何食わぬ顔でパーティーの進行を続けた。
誰もが彼女は、ただ騒ぐよりも手段を変えただけなのだろうと思っていた。
けれど2年間も続いて、雅美ももう疲れてしまったのだ。
パーティーのあと、遊び疲れて寝入った娘を寝室に運ぶと、雅美は書斎に向かった。
扉を叩くと、原田楓(はらだ かえで)がソファで眉間を押さえながら座っていた。
「お義母さん」雅美がそっと呼びかける。
楓は顔を上げ、隠しきれない申し訳なさを表情に滲ませた。
「雅美、本当に辛い思いをさせたわね……今すぐあのバカ息子に電話するわ!」
通話ボタンを押すとスピーカー越しに鋭い声が響いた。
「渉!年越しに家にいないでどこにいるの?すぐに戻ってきなさい!」
電話の向こうからは賑やかな音楽と、女の嬌笑が聞こえてくる。原田渉(はらだ わたる)の声はひどく投げやりだった。
「母さん、今は忙しいんだ。明日になったら謝りに行くから。
今日は友達の誕生日なんだよ。一緒にケーキを切る約束をしててさ。あ、雅美によろしく言っておいて。今日の対応は良かった、物分かりが良くなったなって。少しは『社長夫人』らしくなってきたよ。またな」
楓は胸を大きく波打たせて怒り、スマホをソファに叩きつけた。
「本当に救いようのない子ったら!」
雅美はふわりと笑った。瞳には穏やかな光が宿っていた。「お義母さん、今日はもう彼への非難を聞きに来たのではありません」
楓がきょとんとする。
雅美は穏やかに告げた。
「5年前に私の母の肝臓が限界を迎えた時、命を繋いでくださったのはお義母さんの善意でした。その恩は決して忘れません。
ですから、渉を繋ぎ止めて落ち着かせてほしいと頼まれた時、私は承諾しました。
精一杯努めましたよ。でも、翠が生まれて1年も経たずに元通りになってしまいました。ここ2年間、私も見っともないほど泣き叫んだし、出来る限りのことは全てやりました。でも、私には彼を留められませんでした」
楓は深い溜息をつき、冷たくなった雅美の指先をそっと握った。
「可哀想なことをしたね。恩で縛り付けてしまったのは、私の方よ。いいわ、望むことは何でも言ってごらん」
雅美は手元から一通の書類を取り出し、楓の前へ差し出した。
「離婚させてください。それから、翠の親権を譲ってください」
楓は複雑な表情でしばらく沈黙していたが、静かに頷いた。
「いいよ。手配してやる。その代わり、あと2週間だけ私のそばにいてちょうだい」
雅美は微笑んで小さく頷き、その場を後にした。
ドアノブに手をかけた時、背後から独り言のように楓の声が聞こえた。
「渉は最初、あなたに一目惚れしたから、あんなに執拗に追いかけ回していたのに……」
雅美の足がわずかに止まった。
確かに、かつての渉は雅美に真心があったのだ。
東都きっての遊び人が、雅美のために女遊びをキッパリとやめ、ひたむきであろうと学んでいた時期があった。
プロポーズの時、渉は公証書類を渡し、「俺のすべてはお前のものだ。そして、俺自身もお前のものだ」と言ってくれた。
娘の原田翠(はらだ みどり)が生まれた夜、雅美が難産で命が危うかった時、彼は初めて神仏にすがり、「自分の寿命の半分と引き換えにしてもいい」と願った。
かつて渉が注いでくれた愛情の全ては嘘ではないと思いたかった。世間の誰もが、「遊び人の改心」というお伽話を信じたのだ。
けれど真心ほど、移ろいやすいものはない。
1階へ降りると、スマホの画面が明るく光った。
渉からの多額の振り込み通知と共に、メッセージが表示されていた。
【みんなお前が丸くなったって言ってるぞ?いい女ぶりを見せるなんて、ガラじゃないな】
【今から『クラブ・星影』へ来るんだ。先月お前が潰そうとした例の会員制クラブだけど、再開したばかりだ】
【コンドームを持参しろ】
第2話
雅美はそのメッセージを見ても、表情一つ変えなかった。
返信すらする気になれず、ただ心が凪いでいくようだった。
雅美は無表情のままデリバリーアプリを開くと、渉から送られてきた住所を届け先に設定した。
近くのコンビニを選択し、コンドームを1箱カートに入れて決済を済ませる。
渉が挑発してくるのはわかっていたけれど、もう揉め事を起こす気力すら残っていなかった。
翌朝、雅美が寝ぼけた翠の髪を丁寧に編んでやっていると、寝室のドアが開いた。
渉だった。
「パパ!」翠は目を輝かせ、小さな腕を広げて彼に飛びついた。
渉は腰をかがめ、手慣れた手つきで翠を抱き上げると、軽く上下に揺らした。
「翠、一晩会わないうちにパパに会いたくなったのか?」
渉は笑顔で自分のあごを翠の頬に寄せ、翠をくすぐると、可愛い笑い声が部屋に響いた。
雅美はドレッサーの前に立ち、ブラシを手にしたまま、その様子を静かに眺めていた。
夫婦としてどんなに冷めきっていても、渉が翠にとって完璧な父親であることは認めざるを得ない。
彼は夫としては失格かもしれないが、娘の純粋な世界を守るという点において、2人には阿吽の呼吸があった。
少なくとも、あの汚らわしい女性関係が翠の耳に入ることは一度もなかった。
渉は翠を少しあやしてから、ようやく顔を上げて雅美を見た。
昨晩の屈辱的なメッセージなどなかったかのように、平然とした声で彼は言った。
「今日、翠の予防接種だったろ?間違いないな?」
「ええ、9時に予約してあるわ」雅美は視線を伏せ、翠のもう片方の髪を編み終えるまで、淡々とした声で答えた。
「わかった。送っていく」
病院へ向かう車の中で、翠は早起きをしたせいで、チャイルドシートですぐに眠ってしまった。
渉はハンドルを軽く叩きながら、ふと低く笑った。
彼はちらりと雅美に目を流し、探るような視線を向けた。
「昨夜はてっきり、取材陣か、さもなくば警察でもやって来るのかと思っていたよ。
なのに届いたのはコンドームだけ。雅美、らしくないな」
雅美は車窓を流れる街並みを眺めながら、感情の乗らない声で答えた。
「周囲の空気を読み、揉め事を起こさない『良妻』が欲しいんでしょう?」
その言葉に渉は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに言い放った。
「心配するな。誰がどうあろうと、俺が正真正銘、結婚したのはお前だけだ。他は単なる気休めに過ぎない」
その言葉が細い針のように胸に突き刺さり、痛みはないけれど、チクリと嫌な余韻を残した。
雅美は唇の端を少しだけ歪めただけで、言葉は返さなかった。
結婚する時は「一生お前だけだ」と言っていたのに、今や「単なる気休め」が絶えることはない。
車は病院の前に止まった。
雅美はバッグから1枚の書類を取り出し、渉に差し出した。
「署名して。翠の来年の幼稚園の入園手続きに必要な書類よ」
厚い書類の束には、離婚届がこっそり紛れ込ませてある。
渉は中身も見ることなく、スーツの内ポケットからペンを出すと、淀みなくサインを重ねた。
「そういう事務手続きは、お前に任せる」
彼はファイルを返し、車を降りると、反対側に回って眠る翠を抱こうとした。
その時、病院の入口で騒ぎが起こった。
青白い顔の女性が、受付の職員に乱暴に押されていた。
「お金がないならどいてください、後ろが支えてるんですよ!」
女性はよろめき、転びそうになった。
渉が視線を向け、雅美もそれにつられた。
かつて渉が雅美のために縁を切ったはずの、女の1人だ。
雅美は平然と言った。
「助けてあげないの?一応、昔馴染みなんでしょう?」
渉は口元に不敵な笑みを浮かべ、娘を抱き上げた。
「知ったことか。言ったろ、今日は翠が一番だ」
予防接種を終えて顔を上げた時には、すでに渉の姿はどこにもなかった。
ちょうどスマホが震え、渉からのラインが届く。
【急な仕事が入った。翠を連れて先に帰れ。娘の誕生日はちゃんと付き合うと約束する】
雅美は無表情で画面を閉じた。
もう彼が何をしていても気にならず、そのまま1人で翠を連れてファミリーレストランへ向かった。
予想通り、SNS上ではすでに#原田グループの御曹司、病院前で女性を助ける、というニュースが拡散されている。
病院の入り口で撮られた、対応の瞬間を捉えた写真が拡散されている。
雅美はアイスを美味しそうに頬張る翠を見て、語りかけた。
「翠……もし、もしね。これからはママとパパが別の家で暮らすことになったら、翠はどっちについていきたい?」
第3話
翠は顔を上げ、じっと考えてから頷いた。「ママがどこにいても、ついていくよ」
翠は少し間をおき、小さな声で付け加えた。「パパはいつも忙しいから、ママが一緒にいてくれたら嬉しいの」
子供の世界は、かくも単純で正直なものだ。
雅美の胸はチクリと痛み、身を屈めて翠の額に口づけをした。
「いい子ね。でも、このことはまだパパには内緒にしておこうね?」
「わかった!」
翠を寝かしつけ、家政婦に任せて自宅へ戻ったとき、雅美のスマホが鳴った。秘書の拓也からだった。
受話器の向こうの拓也は、雅美がすぐに激怒しないよう、おずおずと言葉を選んでいる。
「奥様、渉様が『澄波ヶ丘』の鍵を持ち出されました。どうやら新しい恋人の菊地遥(きくち はるか)という、芸能界でも目立たない端役の女性に渡したようです」
雅美はスマホを握りしめた手に、自然と力がこもった。
澄波ヶ丘は、雅美が結婚前に購入した物件だった。
場所の選び方も、彼らしいというべきか。
雅美は電話越しに、淡々と言い返した。「そう、わかったわ」
電話を切ると、すぐに東都の相場に基づいた家賃の請求書を、渉へ送りつけた。
人の物件に住まわせるのなら、それなりの家賃は払ってもらわねばならない。
渉からの返信はなかったが、間もなくして銀行から、かなりの大金の振込通知が届いた。
それからの数日間、渉が顔を見せることはなく、雅美にとっては静かで穏やかな日々が流れた。
もう渉の行動に振り回される必要も、執着して騒ぎ立てる必要もなくなったからだ。
さらには、2年ぶりに曲作りまで再開できた。視線を渉から離すと、心が驚くほど軽くなっていた。
ただ、共通の友人が投稿するインスタのストーリーで、彼の姿は目に入ってきた。
昨夜は海外のVIPカジノで豪遊していたらしく、遥が渉に寄り添って上機嫌に笑っていた。
その前の晩はプライベートクルーザーでのパーティー。写真の中の彼は遥の腰に手を回し、背景には海から打ち上がる花火が輝いている。
そして最新の投稿は、有名なプロデューサーがアップした撮影現場の合間の様子だった。
驚いたことに、渉が恋愛リアリティーショーの収録現場に現れていたのだ。
彼はモニターの横に気ままに座り、遥を見つめていた。
数年経っても、一度切れたはずの女をここまで寵愛し、自ら現場まで足を運ばせるとは、彼女もなかなか大したものだと雅美は思った。
翠の誕生日パーティーは週末に開かれ、会場は各界の著名人で溢れ返っていた。
パーティー始まる直前、雅美は翠の3歳の誕生日を完璧にするため、キッチンでメニューをもう一度確認しに行った。
会場に戻ると、真っ先に楓が不愉快そうな表情をしているのが目に飛び込んできた。
大勢の輪の中心で、翠の目の前にしゃがみこんでいる女がいた。間違いなく、遥だ!
遥は高価そうなブレスレットを手に、わざとらしく微笑んでいた。
「翠ちゃん、プレゼントだよ。可愛いでしょう?つけてあげよう?」
翠は怖かったのか、反射的に後ろへ身を引いて、小声で必死に拒否した。
「やだ……」
遥は翠の拒絶を無視して無理やり腕を掴もうとしたため、翠は思わず身をひるがえして逃げ出した。
遥は顔を上げ、近くにいた男を潤んだ瞳で見つめた。
「翠ちゃん、私に慣れてくれないみたい。仲良くしたいだけなんだけど……」
雅美はその光景を見て、一気に頭へ血が上るのを感じた。
数歩で歩み寄り、遥を突き飛ばすと、震えている翠をしっかりと抱き寄せた。
座り込んだ遥には目もくれず、真っ直ぐ渉を射抜くように見た。
「渉。外の汚らわしい事はここへ持ち込まないでって言ったでしょう。翠の目が汚れるわ」
その場が凍りついた。突き飛ばされた遥は驚いた表情をした後、わざとらしく目を赤くした。
遥は今にも泣きそうな顔で渉にすがりつく。
「渉さん……言われた通りに翠ちゃんへのプレゼントを持ってきただけなのに……」
渉は顔色を曇らせた。
雅美を一瞥してから手を差し伸べ、地べたに座る遥を立ち上がらせた。
「どこか打たなかったか?」
遥は彼にもたれかかりながら、か弱げに首を横に振った。
ようやく渉は雅美に視線を移し、苛立ちを隠そうともしなかった。
「最近はおとなしくなったと思っていたが、やはり分別のないままだな。
遥は新たに雇ったプライベートアシスタントだ。翠のことを知ってもらうために連れてきたのに、それすら許せないのか?
原田家の妻としての自覚はどこへ行った?」
第4話
雅美はそっと目を閉じた。
ここ2年間、自分は渉の浮気を暴き、その場をめちゃくちゃにし、物を投げ捨てては、人として恥ずべきことばかりしてきた。
そのたびに渉は、自分が落ち着くのを待ってから適当な言葉でなだめ、自分が見ている前でその女たちを追い払うだけだった。
なのに今は、遥が翠に手を出したくせに、夫の方が自分に対して、「妻としての自覚」なんてと言ってくる。
「愛人を堂々と家に連れ込み、翠の誕生日パーティーでその姿をさらしといて、今さら顔だの『自覚』だの言う資格があると思ってるの?」
渉の顔色が曇りかけたその時、楓が口を挟んでそれ以上深追いするのを止めた。
入念に準備した誕生日パーティーは、後味の悪さを残して終わった。
招待客たちは気を遣ってそそくさと引き上げ、後には散らかった会場と重苦しい空気だけが残された。
翠がショックを受けてその晩熱を出したので、雅美は付きっ切りで看病した。
翠を寝かしつけた後、雅美は資産整理に取り掛かることにした。
しかし、渉の父親である原田宏(はらだ ひろし)が翠のために設立した家族信托を照合した時、異変に気が付いた。
口座から大金が臨時に引き出されており、その承認者はなんと渉だった。
金額は膨大で、信托金のほぼ全額にあたる額だった。
どうしてこんなことが……信じられない。
背筋が凍りつき、目の前が真っ黒になる思いがした。
雅美はすぐさま渉に電話をかけたが、何度かけても繋がらない。
電話を切ると、そのまま原田グループ本社へと車を走らせた。
最上階の社長室の前で、渉の秘書が止めるのを無視して詰め寄る。「奥様、社長は今取り込み中でして……」
雅美は構わず、ドアへと向かった。
手をかけた瞬間、ドアの向こうから女性の艶めかしい声と、男の荒い息遣いが聞こえてきた。
雅美は立ち止まり、吐き気を押し殺すように深呼吸をしてから、その扉を開けた。
社長室の中には、むせ返るような男女の営みの空気が漂っていた。
デスクの端には遥が半分服を脱ぎ散らかして座っており、スカートを腰までたくし上げた状態で入り口に向かっていた。
対して渉は入り口に背を向けていて、シャツを乱している。
遥は動じることなく雅美と目を合わせ、挑発的な笑みを浮かべた。
次の瞬間、わざとらしく悲鳴を上げ、渉の懐に飛び込んだ。
渉の手が一瞬止まり、わずかに眉間にしわが寄った。
妻に浮気現場を押さえられたという焦りは微塵もなく、彼は淡々と服を整え始めた。
背後に遥を隠すようにかばい、のんびりとタバコに火を点けてから、ようやく雅美に視線をやった。
「なんだ、急にどうした?」渉はけだるげに言った。「何か用か?」
雅美は2人を見るのも耐えられず、突き付けられた資産履歴を見せつけた。
「家族信託の金がほとんど引き出されているわ。あなたがやったの?」
渉が答える前に、その後ろに隠れた遥が小さく声を上げた。
「ごめんなさい、渉さん。私が抱える違約金のせいで翠ちゃんの金を使うことになって、それで雅美さんを怒らせてしまって……
私が悪いの……」
渉はなだめるように遥の手の甲を軽く叩き、それから視線を雅美に向けた。
「そんなに腹を立てるな。前のパーティーで大勢の前で遥を侮辱したから、彼女はずっと泣いていたんだ。
この金は翠の代わりに俺が払ったちょっとした、遥への補償だ。これで丸く収まるなら安いもんだろ?」
補償だと?娘のものを使って、愛人の尻ぬぐいをするつもりなの?
雅美は耳鳴りに襲われ、意識が一瞬遠のくのが分かった。
渉がどれだけ身勝手でも、翠にとって良い父親であり続けていると信じたかった。
だが現実は残酷にもその期待を粉砕し、自分に突きつけてきた。
その時、社長室の扉が叩かれた。
「社長、会議のお時間です」
渉は何気ない様子でシャツを整えると、遥を連れて外へと出ようとした。
雅美の側を通る際、一度歩を止めて言葉を投げた。
「まあ、そう不機嫌になるな。最新のジュエリーを注文しておいた。家に着いたら届くようにしてある。翠へのお詫び代わりだ」
そう言い放つと、彼は迷うことなく雅美の横をすり抜け、ドアを開けた。
がらんとした社長室に、男女の生々しい匂いだけが雅美とともに残された。
社長室のあちこちに見覚えのある装飾が残っており、ここでかつて渉と良い思い出を共有した時の光景がよみがえった。
今はただ、この社長室でどれほどの女と関係を持ったのかと思うと、ただ胸が悪くなるばかりだ。
あのかつて抱いた愛情も、今では嫌悪感以外何物も残っていない。
第5話
渉から届いたお詫びのジュエリーを、翌日には邸宅に届いていた。
雅美は見向きもせず、家政婦に指示してそのまま納戸へ片付けさせた。
例のお金の行方について追及する気もなければ、遥のことで騒ぎ立てることもなかった。
渉は、雅美のそんな沈黙を「折れたのだ」と解釈したようだ。
彼はもう家には戻らず、遥の元で羽を伸ばし、女性関係のスキャンダルを絶やさなかった。
無名だった遥は、渉の後ろ盾で急激に売れっ子となり、過去の素行もネットで晒され始めた。
掲示板には興味津々なネットユーザーの書き込みが溢れた。
【結婚前にも3ヶ月付き合ってたんだって!あの遊び人の渉さんにしては長続きしたほうよね】
【5年も経ってまた戻るなんて。他の女の影もないなんて……相当なやり手ね】
【っていうか、かつて今の奥さんを口説いた時も、あんなに情熱的で周囲の反対を押し切って全てを捧げていたはずよね……結局、あの人のやり方は昔から変わらないってことね】
「やり方は昔から変わらない」という言葉が鍵となり、不意に記憶の扉をこじ開けた。
雅美は、ふとぼんやりとした。
あの頃、渉が自分と付き合うために過去の関係をすべて清算したことは、東都の誰もが知る有名な噂だった。
自分のために無茶な喧嘩をし、有り金すべてを投げ打って尽くしてくれた彼。
だからこそ、彼のお母さんに母の命を救う代わりにと言われた条件を、自分は呑んだのだ。
渉を繋ぎ止められるのは自分だけ、というその言葉を信じて。
自分こそが、彼のたどり着く港だと信じて疑わなかった。
今振り返れば、ただの滑稽な勘違いに過ぎない。
雅美は気持ちを切り替え、結婚前から手がけていた音楽のスタジオ運営に全力を注ぐことにした。
数日後には、ブランドとのコラボレーション発表会を控えている。
雅美の築き上げた大切なキャリアであり、今年の最も重要なプロジェクトだ。
格式高いイベントにするため、自ら大物女優へ出演を依頼し、ブランドのステータスを高めるべく万全を期していた。
ところが、発表会当日。
照明を浴びて現れたのは、華やかな笑顔の遥だった。
言葉を失いその場に立ち尽くしたが、舞台の上で騒ぎを起こすわけにはいかない。
いつの間にか会場に入っていた渉が、ワインを片手に雅美の隣で涼しい顔をしている。
仕組んだのが誰なのかを悟り、雅美の表情は険しくなった。
「渉。誰の許可を得て、私が手配したゲストを勝手に変えたの?」
「いい話じゃないか?遥は今まさに旬だし、顔を見せれば話題作りには事欠かないだろ。
夫婦なんだから、お前のものは俺のものだろ?分ける必要なんてない。俺も彼女をどう売り出すか考えていたところなんだ。今回は俺に貸しを作ったと思ってさ……いいだろ?
彼女が稼げば、例の家族信托の穴埋めにもなる。お前にとっても悪い話じゃないだろ」
雅美は吐き気がした。大きく息を吸い込み、怒りで殴りかかりたい衝動を必死に抑え込んだ。
大勢の前で、自分のスタジオの発表会を台無しにするわけにはいかない。
だがメイン製品の紹介に入った途端、遥はボロを出した。
何を言えばいいか分からなくなったのか、舞台の真ん中で黙り込んでしまう。
記者が質問を投げかけると、遥は慌てふためき、しどろもどろになった。
「えっと……技術とか詳しくないし、スマホのアプリみたいな……そんな仕組みですよ、多分」
客席からざわめきが漏れ、スポンサー側の顔色が一気に変わった。
その時、緊張に耐えかねたのか、遥が展示台に置いてあった水をひっくり返した。水は無残にも、隣にあったサンプル品の音響機器にかかってしまった。
鋭い電子音と共に機器がスパークし、モニターの電源が完全に落ちた。
会場は騒然とした。
「信じられない!ショートしたのか?」
「何しに来たんだ、ただの嫌がらせかよ?」
「基本的なことさえ分からず、どうして呼ばれたんだ?正気か?」
遥はステージ上で固まったまま青ざめ、今にも泣き出しそうな顔で渉を見つめた。
渉はボディーガードに指示して遥を連れ出させると、事もなげに雅美の方を向いた。
「少し緊張しただけだよ。次は事前に練習させればいいだろう」
発表会はそのまま強引に終了させられた。
黙る雅美をよそに、ポケットのスマホが狂ったように震え始めた。
一件目は、大物女優のマネージャーからの詰問で、スタジオの誠意ある対応の欠如を非難するものだった。
続いて、提携先のブランドから責任を追及するメールが届き、今日の事故に関する説明と賠償の協議を求めてきた。
さらに、交渉中だった複数のプロジェクトの責任者から、【再度検討させてほしい】という遠回しな断りのメッセージが届いた。
最後はスタッフからの緊急報告、【3社から契約解除と違約金の請求が来ました】と。
第6話
雅美は渉の顔を見ようともせず、そのままスマホの画面を突きつけた。
画面には提携ブランドからの抗議メール、契約解除の通知、そして制作班が算出した巨額の損害予想が並んでいた。
渉は視線をさらりと落とし、眉間にしわを寄せた。
「ただの事故だ。処理はさせておくし、損害は倍にして補填してやる」
彼はテラスで電話をかけ始め、その横で遥が顔を上げた。
遥の表情からは怯えなど消え失せ、残ったのは得意げな挑発だけだった。
「見てのとおりよ。私が少しねだるだけで、渉さんはあなたのスタジオを、あっさりと私の踏み台にしてくれるの。
私ならもう引き下がっているわ。いつまでも奥さんの座に固執して、惨めじゃない?2年もの間、大声を上げて泣きわめいて、まるで狂ったような騒ぎ方をしても、結局は何の結果も残せなかったじゃない?
男一人、振り向かせることすらできない。正直、そんな負け方をして恥ずかしくないのかしら」
遥の思い上がった表情を見つめながら、雅美は不意に笑みをこぼした。
「そうね。私は狂っていたわ。
私がどんな人間だったか知っているはずなのに、何がきっかけでそんなに強気になれたの?」
言い終わるか終わらないかのうちに、雅美は迷いなく手を振り抜いた。
パシッ!という乾いた音が休息室に響いた。
遥は打たれてよろめき、頬を押さえ、信じられないというように目を見開いた。
雅美が本気で手を出すとは思っていなかったようだ。
ちょうどその時、電話を終えた渉が振り返った。
彼が目にしたのは、雅美が遥の頬を平手打ちし、遥が床にへたり込む姿だった。
「雅美!」
渉は表情を激変させ、猛然と雅美を突き飛ばして遥を抱きかかえた。
不意を突かれた雅美は、男の力強い一押しで後ろへよろめいた。
彼女の腰が、展示台の鋭い角に強く打ち付けられた。刺すような激痛が瞬時に走り、冷や汗が一気に背中を濡らした。
だが渉は彼女の状態など全く気に留めず、焦ったように遥の顔を確認すると、怒りに満ちた顔を上げた。
「雅美!いい加減にしろ。補填するって言ったろ、2倍でも3倍でもいくらでも出す!
以前は車を壊したりクラブを燃やしたりするだけだったが、今度は手を出したのか。どうしてそんなに根性悪くなった?」
根性悪?
雅美は展示台の端を掴み、痛みに耐えながら身体を立て直した。
「根性悪?
なら、あなたはどうなの?娘のお金を横領して、愛人を連れて妻の仕事の邪魔をしに来るような夫は、なんて呼べばいいの?クズかしら?」
渉はこれまでそんな風に反論されたことがなかったのか、憤りで激しく息を荒げ、雅美を指差した。
「雅美、お前がいつまで強がっていられるか見ものだな!」
彼は遥を抱き締め、振り返りもせずその場を去った。
腰の痛みがより鮮明になる一方で、胸の中は何も感じられないほど冷めきっていた。
雅美はゆっくりとその場に滑り落ち、目を閉じた。
あの突き飛ばされた力、腰に残る激痛が、冷たく事実を告げている。
自分が少しでも顔をしかめることを耐えられなかったあの男は、もう死んでいた。
どのくらいの時間が経ったか、スマホの呼び出し音が静寂を破った。姑の楓からだ。
雅美は深呼吸をし、努めて普通の声を出した。「お義母さん」
「雅美、ごめんね」楓の声にはすまなさが混じっていた。
「手続きはあらかた済んだわ。あと5日もあれば、完全に終わるはずよ。
安心して。渉に非があることは承知している。財産分与については弁護士と整理済みだから、雅美も翠も不当な扱いにはさせない」
「ありがとうございます」
「それともう1つ……」楓は言葉を切った。
「数日後が、渉の父親の百箇日なの。しきたり通り、親族で集まることになるわ。今のあなたに仕切りを頼むのは筋違いだと分かっているけれど、あの人も生前、嫁であるあなたのことをとても可愛がっていたから……最後にもう一度だけ、私の手伝いをしてくれないかしら?」
雅美は数秒沈黙した。渉の父親である宏にはこれまで大変良くしてもらった。これが宏との最後の告別かもしれない。
「わかりました。お義母さん、手配させていただきます」
第7話
宏の百箇日、空はどんよりと曇っていた。
雅美は家政婦たちに指示を出して準備を進めていた。それは、生前彼女に優しく接してくれたあの老人への、彼女なりの最大限の敬意だった。
屋敷の外から、車のエンジン音が聞こえてきた。
振り返らなくても、渉が帰ってきたのだと分かった。
戻ってきた渉の隣には、連れの女性がいる。
遥が、渉に親しげに寄り添い、その腕を抱えていた。
渉は何食わぬ顔をしていた。この大事な日に別の女を連れてくるなど、彼にとっては当然のことなのかもしれない。
法事の間、雅美と渉の間には一切の会話がなく、互いに目を合わせることすらなかった。
夫婦でありながら、今の2人には他人のような距離感がある。
一方、遥はずっと控えめな姿勢で渉の側を離れようとしない。
儀式を終えると、親戚たちは別室へ移り、会食が始まった。
誰よりも気が強い親戚の叔母・原田惠(はらだ めぐみ)が、箸を置いて遥に目を留め、ついにしびれを切らして言った。
「渉くん、私が口出しすることじゃないかもしれないけど、今日がなんの日だか分かってるの?お兄さんの百箇日なのよ!
そんな大切な席に、部外者を連れてきて。一体何を考えているの?
雅美さんだっているというのに、親戚の者たちがどう思うか考えてもみなさいよ」
会場に重苦しい沈黙が落ち、皆の視線が一斉に遥へと注がれた。
遥の肩が微かに震え、その目元が一瞬にして赤く潤んだ。
彼女は顔を上げ、涙ぐんだ瞳で惠を見つめ、震える声で言った。
「分かっています……私なんかが来るべきじゃありません。私には何の立場もなくて、ここにいる資格なんてないのに……」
彼女は声を詰まらせながら、ゆっくりとバッグに手を入れ、折りたたまれた一枚の紙を取り出した。
「でも……私、妊娠したんです。この子は、原田家の血を引く子供なんですから……
私はただ、原田家に新しい命が宿ったことを、この子のおじい様にも知って欲しくて……」
部屋全体が静まり返り、息遣いさえもはっきりと聞こえるほどだった。
その場にいる全員が青ざめ、渉ですら呆気にとられて遥を見つめている。
遥は唇を噛み、いかにも可憐な様子で渉を見つめた。
「まだ、どうやってあなたに伝えようか迷っていて……ごめんなさい、渉さん。怒らないでね……」
渉の顔色が変わったが、最終的に彼はそれを押し殺し、惠に向かって言った。
「原田家の子供を身籠っているのなら、法事に同席して何が悪いんですか?」
その承認の言葉は鋭い刃となって、雅美の心臓を突き刺し、そして容赦なく抉り回した。
ここ2年、外で羽を伸ばす渉に対し、あの手この手で懐妊を告げる女たちは幾人もいたが、渉はそのたびに金で縁を切ってきた。
彼は、「他の女に俺の子供を産む資格はない」と言っていた。だから、たとえ彼らの関係が最悪になろうとも、翠はずっと原田家における唯一の子供だった。
だが、渉自身の口から、遥との子を認めると宣言してしまった。
雅美は目頭を抑え、唇を噛みしめて必死にこらえた。
怒りに顔を真っ赤にした惠が、渉を指さして罵る。
「あんた、本当にどうかしてる!雅美さんや翠ちゃんのことを何だと思っているの!」
「おばさん」雅美がついに口を開いた。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「今日はお義父さんの百箇日です。私のことで、亡くなったお義父さんを煩わせないでください」
渉は少し驚いたように彼女をちらりと見た。
今回の件は今までとは違う。彼女なら、少なくとも怒り狂って修羅場になるだろうと彼は思っていた。
だが、雅美はただ立ち上がり、上座で顔を青筋立てている楓の方を見た。
「お義母さん。少し気分が優れませんので、翠を連れて先に失礼いたします。後片付けをお任せして申し訳ありません」
彼女は誰の返事も待たず、そばで大人しくおもちゃで遊んでいた娘の元へ真っ直ぐ歩いていき、その小さな手を優しく引いた。
その背中を見て、渉の心はなぜか一瞬、ざわついた。
だが、雅美が東都のセレブ界隈の笑い者になっていた時期でさえ、彼女は離婚など考えもしなかったのだ。これほど自分を愛している女の、何を心配する必要があるというのか?
「ママ、もう帰るの?」翠が小さな顔を見上げて尋ねた。
雅美は腰をかがめて翠を抱き上げる。そして、翠は素直に彼女の首に腕を回した。
「ええ。帰りましょう」
第8話
彼女は翠を家に送り届け、家政婦に細かく指示を出した後、一人で書斎にこもった。
離婚まで残り数日、もう余計な面倒は起こしたくなかった。
渉が遥の子供を自分の子として認めるというのなら、好きにすればいい。その代わり、これで心置きなく娘を連れて去ることができる。
だが、夜になる前。家政婦が一本のボイスレコーダーを握りしめ、パニック状態になって書斎のドアをノックした。
「奥様!奥様!大変です!お嬢様がいらっしゃいません!」
雅美が勢いよく立ち上がる。「どういうこと?庭で遊んでいたんじゃないの?」
「庭にいらっしゃいました!私が水筒を取りに部屋に戻った、ほんの少しの間に、姿を消されてしまって!どこを探しても見つからず、ただこのレコーダーだけが落ちていて……」
家政婦は焦りのあまり涙をポロポロと流していた。
氷のような寒気が、一瞬にして足の裏から全身を突き抜けた。
雅美は無理やり自分を落ち着かせ、ボイスレコーダーを再生した。
中からは、変声機を通したような奇妙な声が聞こえてきた。「雅美さん。あんたは私の邪魔よ。あんたの子供も、私の子供の邪魔なのよ。2人とも消えなさい」
遥だ。
幸いにも、彼女は常に翠の靴底にGPSチップを仕込んでいた。すぐにシグナルを受信し、郊外の廃埠頭を示していた。
雅美は車のキーをひっつかみ、猛スピードで車を飛ばして現場へと向かった。
彼女は車を運転しながら、電話で秘書の拓也へ極めて冷静に指示を出した。
「菊地遥に関するすべての情報を調べ上げてちょうだい。デビュー前にキャバクラで働いていた時の写真、学歴詐称の証拠、それから仕事を貰うために枕営業をしていた動画。全部、ネットにばら撒きなさい。
金ならいくらでも積んでいいわ。24時間以内に彼女を社会的に抹殺するのよ」
廃埠頭に駆けつけると、遠くの波間に小さな舟が浮かんでいるのが見えた。
舟の下は穴が空いているらしく、ゆっくりと沈んでいて、水は翠の胸元まで迫っていた。
「翠!」心臓が張り裂けそうになりながら、雅美は迷わず海に飛び込み、翠を強く抱き寄せた。
翠はすでに気を失っており、全身が氷のように冷たく、ガタガタと震えていた。
雅美は目を真っ赤に充血させ、心の中で遥への憎悪が頂点に達した。
彼女は翠を抱きかかえて岸へ泳ぎ着き、すぐに病院へと急行した。
娘に命の別状がないことを確認し、雅美は濡れた服を着替えて、ようやく安堵の息をついた。
彼女が指示を出してから、翠を病院へ送り届けるまでの3時間の間に、遥の評判は完全に地に落ちていた。
公式アカウントは炎上して大荒れになり、遥のスポンサー契約も次々と打ち切られていた。
雅美がスマホをしまったその時、廊下の突き当たりから慌ただしい足音が聞こえてきた。
怒りに満ちた顔の渉と、その後ろには目を真っ赤にしてひどく可憐に泣きじゃくる遥がついてきていた。
「雅美!お前の仕業だな!?遥に関するあの悪質な暴露記事は!
どこまで追いつめれば気が済むんだ?原田家の妻の座は守ってやると言っただろう。なぜそんな下劣な手を使って遥を追い詰めるんだ!
彼女は妊娠してるんだぞ!妊婦がどれだけ精神的に不安定か、分からないのか!」
雅美はゆっくりと顔を上げ、目の前の男を見た。かつては自分を骨の髄まで愛していたのに、今は別の女のために自分を理不尽に責め立てる男を。
彼は自分が病院にいる理由すら問おうとはしなかった。
雅美の顔には何の表情も浮かばず、むしろ、フッと小さく笑いさえした。
彼女は渉の目を見つめ、一字一句、はっきりとした声で問いかけた。
「渉、今日あなたが守るべきはずの翠が拉致されて、溺れ死にかけたこと、知ってる?」
渉の顔に浮かんでいた怒りが一瞬にして凍りつき、瞳孔が急激に収縮した。
彼の後ろにいた遥の顔色が、サーッと真っ白になり、その瞳に明らかなパニックの色が走った。
数秒の沈黙の後、渉はやっと言葉を取り戻した様子で言った。
「翠が……大丈夫なのか?」
雅美は顔を背けた。もう彼を見たくもなかった。
彼女が何も答えないのを見て、渉は眉をひそめた。
「娘に何かあったのなら、俺だって心配だ。俺が必ず調べてやる!だが、それが遥と何の関係があるって言うんだ!」
雅美は冷たく鼻で笑い、彼の言葉を遮った。
彼女はもう渉を見ることはせず、あの小さなボイスレコーダーを取り出した。
そして手を上げ、ボイスレコーダーを渉の目の前に突きつけた。
「何の関係があるかですって?あなたご自身で聞いてみなさい」
第9話
渉の視線が、そのボイスレコーダーに落ちた。
彼が動く前に、背後にいた遥の顔色が変わった。
遥は声を詰まらせ、涙を堰を切ったようにこぼした。
「違うわ、あれは私の声じゃない……嘘よ、全部でっち上げよ……
雅美さん、そこまで私が憎いの?私の評判を地に落とすだけじゃ飽き足らず、今度はこんな手を使って……私が翠ちゃんを殺そうとしたなんて、デマまで流すの?」
彼女はもう片方の手で力なく自分の下腹部を覆い、体を小さく丸めた。
「渉さんが翠ちゃんをあんなに可愛がっているのに、私もあの子を自分の子供だと思っているのに、どうして私が傷つけたりするのよ?これじゃ、私に死ねって言ってるようなものじゃない……私とこの子は……いっそ死んで消えた方がマシなのね……」
渉の困惑に揺れていた表情が、完全に冷めきった。
彼は腕の中で気絶しそうになるほど泣きじゃくる遥を見下ろし、それから顔を上げて、波一つない静かな表情の雅美を見た。
「雅美。お前は遥を陥れるために、俺たちの娘の命までダシに使ったのか?」
雅美は静かに彼を見つめた。かつて深く愛したその顔を透かして、彼のすべてを見極めようとするかのように。
しばらくして、彼女はごく微かに笑った。
「渉、あなたって本当にどうしようもないくらいに目が曇っているのね」
雅美は彼の返事など待たず、背を向けて病室のドアを開け、中へ入っていった。
病室の中は静かで、翠は青白い顔をしていたが、呼吸は安定して眠っていた。
雅美はベッドのそばに歩み寄って静かに座り、指先で娘の柔らかな前髪を撫でた。
彼女の心は不思議なほどに凪いでいた。先ほどの茶番劇が、彼女に残っていた最後の一欠片の感情まで絞り尽くしてしまったのだ。
彼女は窓から夕日が差し込むまで、長い間病室に座り続けた。
スマホの画面が光った。新着メッセージが二件。
一件目は、渉からだった。
【遥は精神的にかなり追い詰められているし、お腹の子も危険な状態だ。医師からも刺激は禁じられている。
何があろうと、あの子は原田家の血を引いている。
彼女を落ち着かせるため、何らかの立場を与えるかもしれない。お前は大人しくしていろ、お前の立場には影響しない】
言葉の端々から、あからさまな「えこひいき」が透けて見えた。
渉はボイスレコーダーが本物かどうかさえ尋ねようとはしなかった。いや、彼にとっては、遥とお腹の中の子のほうが、何よりも大切なのだ。
雅美はその数行の文字を見つめたが、顔には何の感情も浮かばなかった。
指を動かし、短く返信した。
【好きにすれば】
もう一件のメッセージは、楓からだった。
【雅美。すべての手続きは済ませておいた。書類は空港へ送らせてある。翠の親権に関する書類も同封してあるからね。元気でね】
雅美は深呼吸をしたが、胸の奥にあった息苦しさはもう消え去っていた。彼女はただ一言だけ返信した。
【ありがとうございます】
雅美は翠の退院手続きを済ませた。
あどけない翠は、甘えるように身を預けてきた。「ママ、お家に帰るの?」
「ええ、帰るわよ」雅美は娘の額にキスをし、彼女を抱いて車に乗り込んだ。
あまりにも多くの思い出が詰まったあの家に戻っても、雅美は一切立ち止まらなかった。
真っ直ぐに二階へ上がり、ウォークインクローゼットに入ってスーツケースを取り出し、荷造りを始めた。
その動きは無駄がなく、微塵の躊躇いもなかった。
自分と翠の生活に必要なものと、大切な記念品だけを詰め込んだ。
それ以外の高価な宝石やドレスには、一切手を触れなかった。
そんなものと引き換えにしていたのは、もういらない。
最後に、「家」と呼ばれた場所をぐるりと見渡したが、目線に一片の未練もなかった。
ここにはもう温もりなどなく、ただ精巧に作られた抜け殻が残っているだけだ。
雅美は翠を抱きかかえ、スーツケースを引いてドアを開けた。振り返らずに車に乗り込み、そのまま空港へと向かった。
飛行機が雲を突き抜けて上昇し、窓の外には雲海がどこまでも広がっていた。
翠は腕の中で静かな寝息を立てている。
地上で起きたことのすべてが遠のき、ついには視界から完全に消えていった。
飛行機は新しい街へと降り立つ。そこには渉も、遥も、あの息の詰まるような愛憎のしがらみも存在しない。
彼女と翠の新しい生活が、今始まったのだ。