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愛は風に消えて、帰る日はいない
産婦人科の外来。 長野夕月(ながの ゆづき)が今日最後に診た妊婦は、妊娠九ヶ月の女性だった。 若くて美しく、二十歳そこそこの、まだ大学生...
Chương (1)
第1章
産婦人科の外来。
長野夕月(ながの ゆづき)が今日最後に診た妊婦は、妊娠九ヶ月の女性だった。
若くて美しく、二十歳そこそこの、まだ大学生のような出で立ちをしている。
「横になってください。検査します」
女性は素直に横になり、膨らんだお腹に手を当て、幸せそうに微笑んでいる。
「先生、実は先週も検診を受けたんです。ただその……夫とさっきしたばかりで、ちょっと激しいから、少し気分が悪くなった。夫が心配して、どうしても診てもらえって」
「津田青音(つだ あおね)さん、ですね」
夕月は視線を落としてカルテを確認する。家族欄に目が止まった瞬間、指先がぴたりと止まる。
夫の氏名欄には、平松樹(ひらまつ いつき)と書いてある。
奇妙な偶然だ。自分の夫も同じ名前だ。
第1話
産婦人科の外来。
長野夕月(ながの ゆづき)が今日最後に診た妊婦は、妊娠九ヶ月の女性だった。
若くて美しく、二十歳そこそこの、まだ大学生のような出で立ちをしている。
「横になってください。検査します」
女性は素直に横になり、膨らんだお腹に手を当て、幸せそうに微笑んでいる。
「先生、実は先週も検診を受けたんです。ただその……夫とさっきしたばかりで、ちょっと激しいから、少し気分が悪くなった。夫が心配して、どうしても診てもらえって」
「津田青音(つだ あおね)さん、ですね」
夕月は視線を落としてカルテを確認する。家族欄に目が止まった瞬間、指先がぴたりと止まる。
夫の氏名欄には、平松樹(ひらまつ いつき)と書いてある。
奇妙な偶然だ。自分の夫も同じ名前だ。
「先生、どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
夕月は首を振り、そのまま検査を続ける。
同姓同名なだけのはずだ。樹はあんなに自分を愛しているのだから、裏切るなんてあり得ない。
結婚して五年、彼はありったけの偏愛を夕月に注いできた。
仕事で出張に行くたびに、真っ先にプレゼントを買ってきてくれる。
車に宝石、バッグ、服。部屋が埋まるほどに増えていった。
不動産でさえ、すべて彼女の名義にしている。
ある年のドライブ旅行では落石に遭い、彼は迷わず夕月を庇って下敷きになった。
震え上がる彼女を死に物狂いで抱きしめ、大丈夫だ、絶対に守ると励ましてくれた。
その後、彼は重傷でICUに運ばれたが、彼女はかすり傷で済んだ。
去年、彼女は妊娠した。だが子宮外妊娠だった。
痛みに耐えて手術を受けた後、同僚からは今後妊娠は難しいかもしれないと言われた。
産婦人科医でありながら、自分はもう子どもを持てないかもしれない。その事実は、何よりも重くのしかかる。
絶望の底にいたとき、樹の母親は彼に離婚を迫った。それでも彼は言い切った。「母さん、俺の妻は一生夕月だけだ。彼女と別れるくらいなら死んだ方がいい」
それ以来、彼の母親が離婚や出産のことで口を出すことはなくなった。
子どもが欲しくて、体外受精も何度も試した。けれど結果はいつも同じだった。
樹は彼女の体を気遣い、もう子どもはいらないとまで言った。
こんなにも彼女を愛している男が、浮気などするはずがない。
検査を終え、夕月は手袋を外してゴミ箱に捨てる。
「特に問題はありません。次もきちんと検診を受けてください。妊娠後期ですから、少しは気をつけて。夫婦生活も控えめに」
若い二人は、ずいぶん激しいようだ。
妊娠後期だというのに、この女性の体には愛し合った跡がいくつも残っている。
自分と樹のことを思い出す。体外受精で体を痛めて以来、彼は彼女に無理をさせたくないと言い、二人は長い間そういう関係から遠ざかっている。
青音は頬を赤らめて笑う。「全部、夫のせいです。私を見ると我慢できないって言うんです。最近は毎日で、今日の午後も……でも妊娠前よりは優しくなりましたよ。妊娠前はもっと回数も多くて、激しかったんです」
「そうですか」
夕月は軽く微笑む。「それから少し貧血気味ですね。鉄剤を出しておきます。お一人ですか。それともご主人を呼びますか」
「外で待ってます。検診のときは毎回一緒なんです。先生が妊娠したら、ご主人もきっと同じくらい心配してくれますよ」
夕月は一瞬言葉に詰まる。数日前、彼女は病院で体外受精を受けたばかりだ。
樹は付き添うと言っていたが、急な出張が入ったとかで、いまだに姿を見せていない。
そのとき、スマホが震えた。画面を見ると、樹からのメッセージ。
【夕月、今日は迎えに行けそうにない。まだ出張中で、仕事が終わったらすぐに帰る。愛してるよ】
胸の奥のわずかな寂しさを押し込め、夕月は画面を閉じた。
「では、ご主人を呼んでください」
青音は外に向かって声を上げる。「あなた、入ってきて。ちょっとふらつくの」
ドアが開き、逆光の中から、高くて見覚えのある影が入ってくる。
「ごめん、次はもう少し優しくするから」
男は部屋に入るなり、慣れた手つきで女性を抱き寄せた。
夕月が顔を上げると、男もまた彼女の方を見つめている。
第2話
視線がぶつかった瞬間、時が止まったかのようだった。
「あなた?」
夕月は自嘲気味に鼻で笑った。だが次の瞬間、目の縁がじわじわと赤く染まっていく。
やはり、海外に出張しているはずの樹だ。
彼は浮気をしていた。
それどころか、他の女との間に子供まで作っていた。
胸が一気に引き裂かれる。夕月の体がぐらりと揺れ、慌てて隣の机に手をついて、ようやく立っていられる。
「ちょっと、誰に向かって、あなたなんて呼んでるのよ!」
青音が即座に不機嫌そうな声を上げた。「先生、いい年して不倫でも狙ってるわけ?うちの旦那が格好よくて魅力的なのはわかるけど、本人の前で旦那様扱いするなんて図々しすぎるわ。非常識にもほどがあるわよ!」
これまでも樹と出かけるたびに、女たちが彼に色目を使うのを青音は見知っていた。
青音は、夕月もその一人だと思い込み、迷いなく手を振り上げた。
「恥知らず!こんな人が医者をやってるなんて信じられない。患者の夫を誘惑したってSNSにぶちまけてやろうか」
夕月は決してやられっぱなしでいるような人間ではない。打たれたら、当然打ち返す。
「勘違いしないで。私があなたの夫を誘惑したのか、それともあなたが私の夫を寝取ったのかをね!」
夕月の手が青音の頬を叩いた瞬間、彼女は金切り声を上げた。
「私を打ったわね!この泥棒猫、ぶち殺してやる!」
青音は叫びながら突進し、両手でめちゃくちゃに顔を引っかく。
鋭い爪が肌を裂き、夕月の顔に生々しい血の跡が刻まれる。
夕月が反撃しようと手を伸ばしたとき、その腕を樹が強く掴んで遮った。
「もうやめろ、夕月。青音はまだ若いんだ。たかが一発殴られたくらいで、彼女を責めないでくれ」
引き裂かれた頬が焼けるように痛む。
だが、その痛みも心の痛みには及ばない。
樹と付き合い始めたばかりの頃、夕月も他人に虐げられたことがあった。
当時の彼女はただの研修医にすぎず、樹は江市の平松家の御曹司だ。
彼は奔放で女遊びも激しく、歴代の彼女は数えきれないほどいた。
だがある日、多重事故の現場で夕月の姿を見て心を奪われた。
それから周りの女たちを切り捨て、彼女だけを追い続けた。
三年かけて、ようやく彼女の心を手に入れた。
しかしそれ以来、樹の元カノたちが代わる代わる夕月をいびるようになった。
最もひどい時は、一人の女がチンピラを雇って夕月の純潔を奪おうとした。
それを知った樹は血相を変え、怒りに任せてチンピラたちを半殺しにした。
さらに、その女の首を締め上げ、あと一歩で命を奪うところだった。
「警告しておく。もう一度でも夕月に手を出したら、この手で首をへし折ってやる。俺は本気だ!」
あの時以来、夕月をいじめる者はいなくなった。
なのに今、彼が腕の中で守っているのは、別の女なのだ。
長い沈黙の後、夕月は力なく手を下ろした。
「わかったわ、彼女のことはもういい。樹、離婚しましょう」
「離婚?何よそれ、あなたたちどういう関係なの?」
青音が突然腹部を押さえ、苦しそうに叫んだ。「あなた、お腹が痛い!私たちの赤ちゃんが死んじゃう!」
答えを待たずして、青音の太ももから真っ赤な鮮血が流れ落ちた。
医師としての本能で、夕月は診察しようと駆け寄る。だが、青音は悲鳴を上げて彼女を突き飛ばした。「近寄らないで!あなたが私を打ったから血が出たのよ!
ううっ、樹、怖い!誰か呼んで、赤ちゃんを助けて!もしこの子に何かあったら、この女を訴えてやる!一生医者ができないようにしてやるわ」
第3話
青音は感情が高ぶりすぎて、突然の早産となり、男の子を出産した。
幸いにも妊娠九ヶ月を過ぎていたため、赤ちゃんの体重は正常で、保育器に入る必要もない。
夕月は病室の前まで歩みを進める。樹を呼び出し、すべてをはっきりさせるつもりだった。
だがドアを開ける前に、室内に大勢の人が集まっているのが目に入る。
「グループチャットの通知を見て、青音さんが急に産気づいたって知ってさ、すぐに駆けつけたんだ!」
「青音さん、樹さんは本当に君を愛してるんですね。出産が近いと知って、何千億円もの取引を放り出してきたんですよ」
「青音さんがケーキを食べたがってたからって、特大のケーキを注文するよう言われてね。もう星月エリアの家に届けてあるよ」
「樹さん、おめでとう。青音さんと付き合って二年、ついに子供が生まれたんだな。これで安心だ」
樹は赤ん坊を抱き、とても穏やかに微笑んでいる。
「ああ、青音には苦労をかけたよ」
……
部屋にいたのは、樹の友人たちだ。彼らが青音と親しげに話す様子は、まるで長い付き合いがあるかのようだ。
彼らには専用のチャットグループがあり、樹の友人は彼女を「青音さん」と呼んでいる。
星月エリアは、青音と樹の家だ。
あそこの屋敷は一軒で二十億円もする、一般人には手の届かない場所だ。
何より夕月の心を切り裂いたのは、二人がすでに二年も付き合っていたという事実だ。
二年もの間、自分は微塵も気づかなかった。
体の脇で握りしめた拳に力がこもる。ドアを押し開けようとした瞬間、青音がベッド脇の花瓶を掴み、思い切り樹に投げつけた。
樹が素早く避けたため、花瓶は壁に当たって粉々に砕け散った。
買いたてのバラの花も、無残に踏みにじられている。
「樹!本当のことを言って。あの長野夕月って女と、一体どういう関係なの?なんであの人、あなたのことを夫って呼んだの?どうして私が奪ったみたいな言い方するの?今日はっきりさせないなら、明日、子供を連れて永遠にあなたの前から消えてやるわ」
一瞬で、病室は静まり返る。
樹は困ったように赤ん坊をベビーベッドに戻すと、優しく青音の涙を拭った。
「馬鹿だな、産後早々に泣くなよ。夕月は元妻だ。一年も前に離婚している。俺が愛しているのは君だけだ。君に籍も与えず、俺たちの子供を産ませるような真似をするはずがないだろう」
「本当に?」
青音は疑いの眼差しを向ける。「じゃあ、なんで彼女はさっき離婚するなんて言った?」
友人たちも口々に加勢する。「青音さん、樹さんの言葉が信じられないのかい。籍を入れる時も俺たちが立ち会ったんだ、嘘をつくわけないだろ」
「きっとあの長野とかいう女、未練があって樹さんと離婚したことを忘れてるんだよ。これほど優秀な男、別れたら次なんて見つからないからな」
「だったらどうして早く教えてくれなかったの」青音が恨めしそうに訴える。
「ってことは、あの女わざとよね。私に子供を産ませないつもりだったのよ。産婦人科医のくせに、なんて陰険なの。あいつのせいで早産になったんだわ!樹、あんな女、この病院から追い出して。二度と医者ができないようにして」
樹は黙り込む。
青音はさらに激しく泣きじゃくる。「嫌なの?まだあいつが好きなの?だったら出ていって。あの女のところに行けばいい!樹、別れよう。もう二度と私と赤ちゃんには会わせないから」
「わかった、約束する」
樹は彼女を抱き寄せ、忍耐強く、優しい声で言う。「すぐに手配するから。君はゆっくり休んでくれ」
ようやく、ドアのそばに立つ夕月に気づいた者が、慌てて声を上げた。「夕月さん!」
「この泥棒猫!何しに来たの!出ていってよ」
夕月の姿を見るなり、青音が激昂する。「赤ちゃんにまで手を出すつもり?恐ろしい女!樹とはもう離婚したのに、まだしがみついて離れないなんて。本当に恥知らずね」
「ふっ……」
その言葉を聞いて、夕月は笑った。
彼女は瞳を上げ、樹を見据える。「樹、言って。私たち、本当に離婚したの?」
樹は青音をなだめながら、淡々と答えた。「ああ、俺たちはすでに離婚している。夕月、現実を受け入れろ」
胸の奥から、凍りつくような痛みが広がる。冷たく突き放すその表情を見て、夕月はすべてを悟った。
自分と平松樹はここで終わりだ。
第4話
人々の視線を浴びながら、夕月は病室を後にした。数歩も歩かないうちに、手首を強く掴まれる。
追いかけてきた樹が、彼女を強引に抱きしめた。
「すまない、夕月!君を傷つけるつもりはなかったんだ。見ただろ、青音は出産したばかりで情緒が不安定なんだ。これ以上刺激できない」
「放して!樹、放してよ」
必死に抗うが、どうしても振り払えない。
樹は腕に力を込め、まるで骨の中にまで閉じ込めるかのように強く抱きしめる。
「放さない。夕月、俺の妻は君だけだ。一番愛しているのは君なんだ、絶対に離さない!青音との婚姻届は偽物、俺たちの関係こそが真実なんだ。彼女に子供を産ませるために、そうするしかなかったんだ。わかってくれ」
「放してって言ってるの!」
夕月は力いっぱい押し返し、その頬を思い切り平手打ちした。
「樹、あの女とベッドにいた時に、私が何をしていたか知ってる?私は病院の手術室で、体外受精の処置を受けていたのよ!どれだけ怖くて、どれだけ痛いか分かる?手術室を出たらすぐにあなたに会えると思ってた。
でも、あなたは来なかった。家に帰ってもいなかった。仕事で忙しいんだと思ってたのに、他の女と寝るのに忙しかったなんて」
夕月は崩れ落ちるように泣き叫んだ。「子供なんていなくてもいいって言ったじゃない!どうして他の女とは子どもを作る?どうしてこんな残酷なことができる?」
泣きじゃくる彼女を見て、樹はひどく胸を痛めた表情を浮かべる。「母さんからのプレッシャーがどれほどか知っているだろう。俺には跡取りが必要なんだ。青音は母さんが用意した相手で、俺が望んだわけじゃない。母さんは孫が欲しいだけなんだ。彼女の要求に応えなきゃ、母さんの矛先が君に向いてしまうんだよ」
夕月は呆然とする。「お義母さんも知っていた?お義母さんが仕組んだことなの?」
樹はため息をつき、後悔を滲ませる。「ああ、母さんの考えでは、子供を産んだら彼女を追い出す手はずだったんだ。彼女はまだ大学生で金に困ってたから、話に乗っただけだ。
今は休学してるけど、復学したら子どもはお前に任せるつもりだった。俺は彼女を愛してなんていない。ただ母さんに君を苦しめさせたくなかったし、君にあんな辛い体外受精をこれ以上させたくなかったんだ。
夕月、俺が悪かった。欲しいものがあるなら何でも言ってくれ」
その言葉に、夕月の心が揺らぐ。
「今すぐ彼女と別れて、子供は私が引き取って育てる」
樹の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
彼は腕を緩め、視線を逸らす。
「青音は二年も俺に尽くして、息子を産んでくれたんだ。夕月、そこまで冷酷にはなれない」
一呼吸置いて、彼は言葉を継いだ。「彼女のことは外で養う。君はこれまで通り、平松家の妻でいればいい。君の地位を揺るがすような真似は絶対にさせない。君は永遠に、俺、平松樹の唯一の妻なんだ」
男のその真っ直ぐな瞳を見て、夕月は言葉を失った。
もう分かっている。樹はもう、あの若い女の子に心を奪われている。
だとしたら、もう何も言うことはない。
「樹さん、夕月さん……あの、青音さんが、そばにいてほしいって呼んでる」
二人が膠着状態にある中、樹の友人が呼びに来た。
樹は手を伸ばし、青音に引っかかれた夕月の顔をそっと撫でた。「大人しくして、もう騒がないでくれ。先に帰って休んでいろ、後で家に帰るから」
そう言い残すと、彼は振り返ることもなく友人と共に去っていった。
彼が行ってしまうと、夕月はスマホを取り出し、弁護士に電話をかけた。
「山崎弁護士、至急、離婚協議書を作成してください。樹と離婚します」
「長野さん、あなたと平松さんの離婚協議書なら、一年前にはもう作成済みのはずですよ。法律上、お二人はもう夫婦ではありませんが」
電話を握る夕月の手が凍りついた。「なんですって?私と樹が、一年前にもう離婚していますか?」
「ええ。平松さんは津田青音という女性と再婚されています。ご存じありませんでしたか。確か、その女性が法定年齢に達してすぐに入籍したと聞いています」
つまり、青音との婚姻届は本物だ。
全身の血が一瞬で凍りつく。唇を震わせ、何かを言おうとしたその時、看護師が血相を変えて走ってきた。
「長野先生、院長がお呼びです!解雇の話が出ているみたいです。すぐに来てください」
第5話
院長室。
院長は夕月を見つめ、重く厳しい口調で言う。
「長野先生、患者から暴力の通報が来ています。それに動画がネットに拡散されています。残念ですが、当院での継続勤務は難しい」
「院長、それは誤解です」
夕月は必死に説明しようとするが、院長は手を上げて制した。「誤解かどうかは問題ではありません。問題なのは、あなたがここにいられないという事実です。給与はきちんと支払います。解雇予告手当も一円たりとも欠かさず振り込ませます、安心しなさい」
「院長、私はこの病院で六年働いてきました。来月には主任に昇進する予定なんです……」夕月は声を詰まらせる。「その日をずっと待ってきました。この仕事がどれだけ好きか、院長もご存じのはずです」
涙を見て、院長は小さくため息をつく。「そうですね。あの産婦に謝罪してみてはどうですか。もしかしたら、もう一度チャンスをくれるかもしれません」
院長室を出た瞬間、夕月は唇を強く噛み、涙が止まらない。
たった一日で、夫を失い、仕事までも失おうとしている。
樹は、あまりにも冷酷だ。
五年の結婚生活がありながら、愛人のために、自分のすべてを壊そうとしている。
深く息を吸い、夕月は花束と赤ん坊への贈り物を買い、青音の病室へ向かう。
部屋に入ると、青音はちょうど休んでいる。
夕月の姿を見るや否や、彼女ははっと目を開き、子どもを抱き寄せて警戒の目を向ける。
「長野、何しに来たの?」
「謝りに来ました」
花とプレゼントを置き、夕月は頭を下げる。「ごめんなさい。手を上げるべきではありませんでした。どうか通報を取り下げてください。医者としてここで働き続けたいんです。もう二度とあなたに手を出しませんし、樹の前にも現れません」
「私を早産に追い込んでおいて、一言で済むと思ってるの?ありえない」
「どうすればいいの」
「この病院から出ていって。この街からも、そして樹からも消えて」青音はじっと彼女を見つめ、ふと口調を変える。「実はね、前からあなたのこと知ってたの。長野、樹のお母さんが私に話を持ってきたとき、あなたの存在はすでに分かってた。離婚してるって言われたけど、自分で調べたのよ。本当はまだだった。でも気にしなかった。どうせこうなるって分かってたから」
彼女は腕の中の赤ん坊の頬を撫で、勝ち誇ったように微笑む。「ほら、今の私が一番の勝者でしょ。本物の平松奥様は私。あなたはもう何でもない」
それ以上言葉を重ねる意味はない。夕月は何も言わず、背を向ける。
数歩進んだそのとき、背後で鋭い叫び声が上がった。
「何これ!長野、なんて恐ろしい女なの!息子への贈り物の中に針を仕込むなんて!」
「針?」
夕月は眉をひそめ、状況が飲み込めないうちに、ドアの外から樹と友人たちが一斉に駆け込んでくる。
「どうした、青音。何があった!」
樹が部屋に入ると、赤ん坊を抱いて震えが止まらない青音の姿があった。
赤ん坊は激しく泣き、腕には血がにじんでいる。
「どうして血が?誰がやった」
「分からない」青音は首を振り、涙をこぼす。「どうしてあなたの元妻がこんなことするの?彼女、謝罪に来たふりをして、通報を取り下げてくれって縋ってきた。赤ちゃんに服をプレゼントしたいって言うから、つい同情して受け取ったわ。着せてあげようとしたら、中に針が隠されていたの」
第6話
「樹、怖い、本当に怖い!退院したい、ここにいたくない。このままじゃ赤ちゃんがこの女に殺されちゃう」
「なんだよそれ……」
「夕月、それでも医者か。どうしてこんなことができるんだ」
「こんな小さな子に、よくそんな真似ができるね」
一瞬にして、その場の全員が夕月を非難し始めた。
言い返そうとした彼女の手首を、樹が力任せに掴む。
「君がやったんだろ。こんな小さな子どもに手を出すなんて!夕月、失望した」
言葉が終わるが早いか、彼は彼女の頬を激しく張り飛ばした。
乾いた音が響き渡る。
病室は静まり返り、赤ん坊の泣き声だけが残る。
夕月は頬を押さえ、ゆっくりと顔を上げて目の前の男を見つめると、ふっと笑った。「私だって思うの?樹。私がそんな人間に見える?私は産婦人科医よ。子どもがどれだけ大切か分かってる。どうして服に針なんか仕込んで傷つけるの」
「どうしてって?青音に嫉妬するだろ。俺への仕返しだろ」樹は彼女を睨みつけ、忌々しげに言い放つ。
「はっきり言っておく。君をクビにするよう仕向けたのは俺だ。青音とは関係ない。すぐにこの病院を辞めろ。でないと、医者として二度とやっていけなくしてやる」
「知ってるよ、君は医者の仕事が大好きだって。安心しな、俺が全力でサポートするからね。君は命を迎える天使、俺の中で一番優しくて、大切な人だ」と樹はかつてそう言ってくれた。
甘い記憶と、今の冷酷な言葉が重なり合う。
その瞬間、何かが完全に切れた。
「そう。私がやったことにしたいなら、それでいい。それで、どうするの。警察に突き出す?」
樹は無表情のまま答える。「辞めればそれで終わりだ。青音もこれ以上は追及しない」
「分かった。辞める」
夕月は振り返らず、病室を後にする。廊下に出ても、背後から声が聞こえてくる。
「長野ったら、さすがにやりすぎだよな。樹、このまま許すのか」
「辞職で済ませるのはかなり重い処分だ。来月には主任になる予定だったらしいが……残念だな」
樹は、彼女が主任になることを知っている。
知っていて、あえて辞職に追い込んだ。
「樹、もしかしてまだ彼女のこと……もしそうなら、私が身を引く。私とこの子は負担にならないから」
「ばかだな。何を言ってる。君が俺の妻だ。あいつはもう関係ない人間だ」
関係ない人間。
五年も連れ添った末に、自分はただの他人に成り下がった。
この瞬間、夕月はようやく理解した。これまでの献身的な日々のすべてが、何の意味もなかったのだと。
「長野先生」
廊下で院長が声をかけてくる。
「どうでした。話はつきましたか?」
「院長、ご心配なく。すぐに退職します」
「あなたは優秀な医師です。実は最近、海外医療支援の募集があります。南大陸で五年間勤務して、その後戻れば主任として復帰できます。どうですか」
夕月の目がわずかに見開かれる。「本当ですか?」
「ええ、産婦人科医が不足している地域で、あなたのような人材が必要なんです。ただ三日後には出発ですが、大丈夫ですか」
「行きます。行かせてください。本当にありがとうございます」
どうせ樹とは離婚しているのだし、この病院に居場所はない。
医療支援に行くことは、彼女にとって最高の選択肢だ。
第7話
夕月が家に戻って最初にしたことは、樹との離婚協議書を探すことだった。
それは書斎のキャビネットの中にあり、彼と青音の婚姻届受理証明書と一緒に保管されている。
二つを同時に手に取った瞬間、夕月は胸の奥に冷たい嘲りのような感情が広がるのを感じる。
離婚協議書をしまうと、彼女は荷物をまとめ始めた。
半分ほど片付けたところで、樹が帰ってくる。
「何してるんだ?」
「見ればわかるでしょ」
夕月は手を止めずに答える。「引っ越しの準備よ」
「馬鹿なこと言うな。どこに行くつもりだ」
樹はスーツケースを乱暴に閉め、どこか後ろめたそうな顔を見せる。「今日、君を叩いたのは悪かった。でも、君がやりすぎなんだ。あの子は俺の息子だぞ。傷つけようとする前に、少しは俺の気持ちも考えろよ」
夕月は顔を上げて彼を見る。「言いたいことはそれで全部?私はもう仕事も辞めたのに、まだ何か望むの?」
「もう揉めるのはやめよう。家で大人しく休めばいい。俺の妻としてな」
「あなたの妻?」
その言葉に、思わず問い返したくなる。自分はまだ彼の妻なのかと。
だが、もう突き詰める気力もない。「ちゃんと休みたいのは本当よ。だから三日後に旅行に行って、少し気分転換するだけ」
樹はほっと息をつく。「旅行か。俺も一緒に行こうか?」
夕月は逆に問い返す。「生まれたばかりの息子を置いて行けるの?津田が嫌がらないとでも?」
樹は言葉を詰まらせる。「すまない。次は必ず一緒に行く」
「旦那様、津田様のお部屋の準備が整いました。お呼びです」
使用人の一言に、夕月は動きを止める。
「津田を連れてきたの?」
「夕月」樹は彼女を抱き寄せ、優しい声で言う。「青音はまだ未熟なので、何もわからないんだ。赤ちゃんも小さすぎるし、君は元産科医だろう。新生児の世話は慣れてるはずだ。それに今は仕事もなくて暇なんだし、少し手伝ってくれないか。彼女は復学の準備で忙しくて、子供に手が回らないんだ」
懐かしいはずの体温と匂いが、今はただ不快に感じられる。
夕月は彼を押しのけ、目に冷たい光を宿す。
「また私がその子に何かするって、思わないの?」
「君はそんなことしない。夕月、そんな冷たいこと言うな。俺を愛しているなら、俺の子供も愛せるはずだ。好きな人の大事なものも大事にするんだろ。君なら、きっと全力で赤ちゃんも青音も世話してくれる」
愛している?
夕月は、もう愛していないと伝えたくなる。
「でも私は三日後に旅行に行く。チケットももう取ってある」
「じゃあ三日だけでいい。その間だけ世話してくれ。三日後にはちゃんとベビーシッターを手配する」
「いいわ」
樹の性格はよくわかっている。正面からぶつかっても、ここからは抜け出せない。
耐えるしかない。この三日をやり過ごせば、自由になれる。
翌朝早く、夕月は突然、冷たい水を浴びせられて目を覚ました。
全身が一瞬で凍りつくような冷たさに包まれる。
かろうじて目を開けると、そこには洗面器を手にした怒り心頭の青音が立っている。
その隣には樹がいる。
彼は激しく彼女を睨みつけ、まるで罪人を見るような目をしていた。
「何のつもり?」
昨夜から体調が優れなかった上に、この冷水でさらに気分が悪くなる。
「夕月、やりすぎよ。青音が愛人だってマスコミにデマを流したでしょ。もうすぐ復学なのに、こんなことされたら卒業できなくなる。人生が台無しになるのよ」
「何それ、マスコミ?愛人?私は何も知らない」
第8話
夕月は激しい頭痛に襲われる。起き上がったその瞬間、樹がノートパソコンを彼女の目の前に突きつけた。
画面に映っているのは、青音と樹がこの二年間で過ごしてきたすべて。
彼女の誕生日には、彼は遊園地を一つ丸ごと贈っていた。
プロポーズのときには海外旅行に連れて行き、二人で手をつないで川のほとりを散歩した。
結婚のときには役所の前で抱き合って涙を流し、周囲の友人たちが拍手を送っている。
その一つ一つの場面が、重い槌のように彼女の胸に叩きつけられる。
その日付は覚えている。なぜならこの数年間、彼女はほとんどずっと体外受精の治療を受けていたから。
彼女が苦しみに耐えていたその間、夫はずっと別の女と一緒にいた。
やがて誰かがタイムラインを掘り起こし、夕月がまだ樹と離婚していない時点で、すでに青音が彼と関係を持っていたことが明らかになる。
そのため、世間は一斉に青音を非難し始めた。恥知らずだの、既婚者を誘惑しただのと罵声が飛び交う。
中には、権力者に取り入るために、妊娠を利用してのし上がったのだとまで言う者もいる。
さらに彼女が通う大学の学長からも連絡が入り、復学は認めないと通告されていた。
そのときになって、夕月はようやく理解する。なぜ樹が、この情報をネットに流したのは彼女だと言ったのか。
だが自分は、本当に何もしていない。
「どうだ、もう言い訳できないだろ。今すぐ俺と江市大学に来い。マスコミの前で全部説明しろ。青音は愛人なんかじゃないって、君が嫉妬してデマを流したってな」
夕月は即座に首を振る。「行かない。私は何もしてないのに、どうして説明しなきゃいけないの。それに、彼女は最初から愛人でしょ。世間の言ってることは間違ってない」
「あんた、私を潰すつもりなの」青音は感情を爆発させ、テーブルの上の果物ナイフを掴むと、そのまま手首に思いきり刃を走らせた。
次の瞬間、血が飛び散る。
「誰か来い。早く青音の手当てをしろ。青音、大丈夫だ、絶対に守る。夕月、君は来い。来なければ、ただじゃ済まないぞ」
激昂した樹は、彼女の腕を乱暴に掴み、そのまま階下へ引きずり下ろすと、車に押し込んだ。
大学に到着した瞬間、記者たちが一斉に押し寄せる。
「長野さん、ネットに出回っている写真や資料は本物ですか。平松さんは結婚中に不倫していたのでしょうか。そして相手は江市大学の学生、津田さんで間違いないですか」
「一言お願いします。青音さんが卒業できなくなった今、あなたは満足しているんですか。自業自得だと思っていますか」
次々と浴びせられる質問の中で、夕月はついに口を開いた。
「津田さんは愛人ではありません。私と樹は二年前から別居していました。彼らこそ夫婦です。私たちは一年前にすでに離婚しています。
ネットに情報を流したのは私です。嫉妬からやったことです。この件は津田さんとは無関係で、彼女は被害者です。どうか彼女が学校に戻って勉強を続けられるようにして、将来を奪わないでください」
その言葉に、樹の体が大きく震える。
なぜ彼女が、一年前に離婚していると知っているのか。
まさか離婚協議書を見たのか。
「では長野さん、嫉妬から津田さんの子供に危害を加えたという噂は事実ですか?」
「まだ平松さんに未練があって、二人の結婚生活に割り込もうとした挙げ句、津田さんさんに暴力を振るい、その結果病院を解雇されたというのは本当ですか」
「産科医のくせに妊婦や子供に手を出すなんて、医者失格だ」
次の瞬間、矛先はすべて夕月へ向けられ、罵声が四方から浴びせられる。
中には地面の石を拾い上げ、そのまま彼女に向かって思いきり投げつける者までいた。
第9話
ほどなくして、夕月は全身傷だらけになる。
避けようとしても、逃げ場がない。
学校に連れてこられたとき、彼女の服はまだ濡れたままだった。もともと体調も悪く、今はさらに具合が悪化している。
頭はぐらぐらし、下腹部には重く沈むような痛みが走る。
彼女は唇を強く噛みしめ、隣にいる樹の腕を掴もうとした。
だが彼は、記者に親密な様子を撮られ、青音の機嫌を損ねるのを恐れたのか、眉をひそめて一歩後ろへ下がった。
そのわずかな仕草が、夕月の胸を鋭く切り裂く。
彼女は腹を押さえ、必死に声を絞り出す。「樹……お腹が痛い……」
「芝居はやめろ、夕月。自分のしたことの代償は払うべきだ」
その冷酷さに、彼女の中で何かが完全に崩れ落ちる。
人混みの中から、なおも石が投げられ続ける。
最後の一つが額に当たった瞬間、彼女はついに耐えきれず、その場に崩れ落ちて意識を失った。
目を覚ますと、そこは病院だった。
傍にいたのは一人の医師だけ。
かつての同僚だ。
「長野先生、目が覚めたんですね」同僚は申し訳なさそうに言う。「残念ですが……お子さんは助かりませんでした」
「子供?」
夕月は口を開き、思わず笑ってしまう。「冗談やめてください。高村先生、あれだけ体外受精しても妊娠しなかったのに、そんなはずないでしょう」
青ざめた彼女の顔を見て、同僚は心を痛めながらも続ける。「今回は成功していたんです。でも体が弱っていたところに、冷えと外傷が重なって、運ばれてきた時には、もう手遅れでした」
目から涙がこぼれ落ち、夕月はさらに激しく笑った。
「嘘よ、そんなの嘘。高村先生、嘘だって言って。私はどれだけこの子を待っていたか、知ってるでしょ。お願い、嘘だって言ってよ」
感情が溢れ、彼女は取り乱す。高村医師は慌ててなだめる。
「本当なんです。落ち着いてください。あなたがどれだけ子供を望んでいたか、私は知っています。嘘なんて言いません。このこと、平松さんにはまだ伝わっていませんよね。連絡して迎えに来てもらいましょうか。子供はまた……」
夕月はふと動きを止める。「私を病院に運んだのは、樹じゃないんですか?」
「ある学生さんが連れてきました。あなたが倒れたあと、平松さんは電話を受けて、そのまま帰ってしまったそうです」
倒れた自分を置いて、あっさり帰った?
こんなにも長い間、自分は彼にとって一体何だったのか。
夕月はそれ以上何も言わない。ただ唇を強く噛みしめ、体の震えを止められない。
もう何も残っていない。
彼との関係は、これで完全に終わった。
翌朝、夕月は病院を出て家に戻る。
家には誰もいない。使用人の話では、樹は夕月が再び子供や青音に危害を加えるのを恐れ、彼女のために最高級の産後ケア施設を手配したという。
「今朝早く、旦那様が津田様をそこへお連れしました。とても嬉しそうにしていましたよ」
その言葉を聞いても、夕月の表情は変わらない。彼女は箱を一つテーブルの上に置き、スーツケースを手に取る。
「これを樹に渡して。私から二人への贈り物だと伝えて。末永く幸せにって」
出て行こうとする彼女を見て、使用人が思わず尋ねる。「奥様、どちらへ?」
「旅行よ」
「いつお戻りに?」
「もう戻らない」
そう言い残し、彼女は振り返ることなく家を後にした。
使用人は慌てて樹に電話をかける。やっと繋がると、向こうから不機嫌な声が返ってくる。
「何だ?」
「旦那様、奥様が旅行に行くと……」
電話の向こうで、樹は冷たく言い放つ。
「知ってる。好きにさせればいい、自分のしたことを反省させろ。どうせ数日もすれば戻ってくる」
「ですが奥様は、もう戻らないと……」
言い終える前に、通話は切られた。
夕月は道端に出て、タクシーを止める。
「空港までお願いします。できるだけ急いでください」