最愛の君を失った、あの日

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最愛の君を失った、あの日

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財界の頂点に君臨する名門に嫁いで十年目、榊原晩夏(さかきばら ばんか)は末期がんと診断された。 病院でひとしきり泣いた直後、夫・榊原研...

Chương (1)

第1章

財界の頂点に君臨する名門に嫁いで十年目、榊原晩夏(さかきばら ばんか)は末期がんと診断された。 病院でひとしきり泣いた直後、夫・榊原研(さかきばら けん)から電話がかかってきた。 どこか気のない声だった。「白金中央通りのカフェだ。あの子の写真は携帯に送った。四千万以内で片付けてくれ」 結婚して十年。 研は九十九回も不倫をした。――そして、これが百回目。 彼は言った。 上流社会の男なんて皆そうだ。愛人の一人や二人、誰にだっている、と。 晩夏は、自分は名門の妻としての役割をきちんと果たせると思っていた。 だが、研が妊娠中の愛人を家族の席へ連れて来て、平然と離婚を切り出した瞬間―― 晩夏の心は、刃で切り裂かれたように痛んだ。 それでも、彼を手放すことができなかった。 必死に気丈を装い、言い放つ。「……死んでも離婚しない」 だがその直後、背を向けて泣き崩れ、すべてを失ったような心で―― 自ら、十日後の遠野原での自然葬を予約した。 第1話 財界の頂点に君臨する名門に嫁いで十年目、榊原晩夏(さかきばら ばんか)は末期がんと診断された。 病院でひとしきり泣いた直後、夫・榊原研(さかきばら けん)から電話がかかってきた。 どこか気のない声だった。「白金中央通りのカフェだ。あの子の写真は携帯に送った。四千万以内で片付けてくれ」 結婚して十年。 研は九十九回も不倫をした。――そして、これが百回目。 晩夏の顔色は蒼白で、言葉にできない悲しみが涙となってこぼれ落ちる。「研……もう疲れたの。今、まだ病院にいる。あなたに話がある」 電話の向こうで、研は笑った。「安心しろ。これで最後だ。話があるなら、今夜の家族の食事会で聞こう」 晩夏は長い時間をかけて気持ちを落ち着かせ、診断書と携帯をバッグにしまった。 胸が重く、息が詰まりそうだった。 その苦しさの名は――愛。 そもそも、愛とは何だろうか。 晩夏にとっての愛とは、若く多感だった頃に芽生えた、一目で心を奪われるほどの想いだった。 そして、研の心に永遠に残る忘れられない人が亡くなったあと、見返りを求めることもなく、十年間、身代わりとして生きてきたことでもあった。 さらには――今こうして、どこか姉に面影の似た若い女性と向かい合い、苦いコーヒーを口にしながら、何事もないかのように穏やかに言葉を交わすことでもあった。 「研に頼まれて、会いに来ました。彼の妻です。私たちは結婚して十年になります。……いくら欲しいですか?」 若い女性は取り乱して叫んだ。「彼は私を愛してる!亡くなった妻に似てるって言ってた!あなたが妻のはずないじゃない!嘘ついてるんでしょ!」 だが今日の晩夏には、相手をなだめる気力はなかった。 カップの中のコーヒーを飲み干し、相当額の小切手を残して、静かに店を出た。 五歳で研と出会い、二十歳で夫婦になった。 彼は言った。 上流社会の男なんて皆そうだ。愛人の一人や二人、誰にだっている、と。 だが今夜、彼は新しい恋人・秦野奈々(はたの なな)を家族の食事会に連れてきた。 二人が晩夏の隣に腰を下ろした瞬間、奈々の指先に輝くダイヤの指輪が、晩夏の胸に鋭い痛みを走らせた。 その場で研の祖父・榊原隆宗(さかきばら たかむね)が激しくテーブルを叩いた。 「研!これは家族の席だぞ!結婚した妻が表に出せないだけでも恥だというのに、今度はこんな素性の知れない女まで連れてきて……わしを怒り死にさせる気か!」 しかし研は聞く耳を持たなかった。 優しくゴムで奈々の柔らかな黒髪をまとめながら、低い声で語りかける。 「カニは食べない?どうして?ああ、アレルギーか。忘れてた。 じゃあエビは?手が汚れるのが嫌?大丈夫、俺が剥いてやる」 隆宗は怒りで息も絶え絶えになり、胸を押さえて呻いた。「この出来損ないめ……」 隆宗が部屋へ運ばれていくと、広い食卓には三人だけが残った。 高価なイタリア製の手縫いシャツの袖を高くまくり上げ、研は奈々のためにエビを剥きながら、世間話でもするかのように晩夏に言った。「時間を見つけて離婚手続きしよう。奈々、妊娠した」 晩夏の心臓に、鋭い刃が突き立てられたようだった。その痛みに、足つきグラスを握る力を失う。 床に落ちたガラス片が跳ね上がり、晩夏の脛を鋭く切りつけた。 だがその痛みは、心の痛みに比べれば万分の一にも及ばなかった。 妊娠? 結婚して十年、晩夏は七人の子供を堕ろした。 最後の一人は二年前。 晩夏は海外へ逃げ、密かに出産しようとしたが、結局見つかって連れ戻された。 泣きながら懇願した。「研……医者が言ったの。これ以上中絶したら、一生子供が産めなくなるって。お願い、この子を残させて……」 だが研は微笑んだまま言った。 「晩夏、もう忘れたのか。お前の姉と俺の母が、どうやって死んだのかを。 お前の姉は昔から純粋だった。お前のその、吐き気がするような思惑なんて想像もしなかっただろうな。 お前はずっと俺のことを愛していたんだろう?その醜く汚れた愛のせいで、お前はわざと彼女を死なせた。 俺がお前と結婚した理由が、何だと思っている? 俺の子供を産みたいだと?……身の程を知れ。お前は一生、俺のそばに縛られて、罪を償い続けるべきなんだ」 その時、晩夏は初めて悟った。研が自分と結婚した本当の理由を。 自分は可笑しいほど愚かだった。研と共に生き、やがて情が芽生えると夢見ていたなんて。 少女の頃から胸に秘めていた想いを、研はずっと知っていたのだ。 …… 研は榊原家の婚外子だった。 幼い頃から、ギャンブルに溺れる母・前田美沙(まえだ みさ)とスラム街で暮らしていた。 水商売の女が産んだ子供など、榊原家は相手にしなかった。 だが榊原家の二代目・三代目の跡継ぎが飛行機事故で相次いで亡くなり、隆宗は最後に残った血筋である研を榊原家へ迎え入れるしかなかった。 研は榊原家に引き取られる時、美沙にこう言った。向こうで地位を固めたら、迎えに来る、と。 だが人生は、いつも予想外の方向へ転がる。 借金取りが押しかけてきた夜、美沙は命がけで晩夏を外へ逃がした。「晩夏、逃げて。警察を呼びなさい。早く」 だが晩夏は怖くて、公園の隅で一晩震えていた。 翌朝、庭には無惨な姿となった美沙の遺体。 そして晩夏の姉・江口晩月(えぐち ばんげつ)は片腕だけを残し、行方知れずになっていた。 研が駆けつけた時、晩夏は泣きながら何度も謝った。「ごめんなさい……」 研は晩夏の手を引き、榊原家へ連れ帰った。 そして彼はナイフで自分の体を九度も刺し、ようやく隆宗に二人の結婚を認めさせた。 その時の晩夏は、まだ気づいていなかった。研が自分を憎んでいることに。 結婚したのは――ただ晩夏を苦しめるためだったのだ。 「研……足切っちゃったの、痛い……」 回想に沈んでいた晩夏は、奈々を庇って立ち上がった研に突き飛ばされ、床へ倒れた。 ガラス片が掌に突き刺さる。 それは、傷だらけの心をさらに抉るかのようだった。 研はすすり泣く奈々を優しく慰め、小さなすり傷のついた奈々の脚に口づけると、冷酷な視線を晩夏へ向けた。「余計なことは考えなくていい。離婚すれば、金も家も株も全部やる。だがもし面倒を起こすなら……容赦しないぞ」 晩夏は胸を押さえ、ようやく理解した。研が電話で言っていた「これで最後だ」の意味を。 淡々とした声で、皮肉を込めて言う。「離婚しないと言ったら?どうするの?」 研は冷笑した。「試してみればいい。俺がどうするか、思い知ることになる。……大人しく離婚届にサインしろ。金も家も株も、全部やるから」 晩夏も笑った。 今の自分はそれらをもらっても、何の意味もない。 自分の体はがんに蝕まれていた。 医者は言った。抗がん剤すら必要ない。――長くてあと一か月。 涙がこぼれる前に、晩夏は立ち上がり、エルメスのバッグを手に取った。「諦めなさい。私は一生、あなたと離婚しない。あなたの配偶者欄を、一生占領してやる。死んでも……私は榊原夫人よ」 彼女は必死に涙をこらえた。 自分のパナメーラに乗り込んだ瞬間―― 堰を切ったように涙があふれ出し、声を押し殺すこともできず、嗚咽を漏らした。 長い時間が過ぎたあと、彼女はようやく携帯電話を取り上げ、ある番号へ発信した。 夜の帳の中で、晩夏の声はかすれながらも、はっきりとした強さを帯びていた。 「自然葬の予約をお願いしたいのですが。名前は、榊原晩夏です。……十日後、そちらに向かいます」 第2話 午前三時、晩夏は傷の手当てを終え、榊原家の邸宅へ戻った。 疲れ切った体を引きずり、寝室の前まで来たとき―― 半開きの扉の隙間から、男女の甘い吐息と乱れた声が漏れ聞こえてきた。 晩夏が扉を押し開けると、床一面に散らばった服と、生々しい空気。 ベッドの上の男女は、どれほど激しく求め合っていたのか想像もつかないほど乱れていた。 晩夏の姿を見た瞬間、奈々が悲鳴を上げる。 ベッドサイドの花瓶が、晩夏めがけて投げつけられた。 花瓶は晩夏の額に当たり、割れた破片が飛び散り、血が滲んだ。 同時に響いたのは、研の怒りに満ちた声だった。「出ていけ!」 三十分後、研が晩夏の前に現れた。 「奈々は今日からここに住む。妊娠してる彼女を一人で外に住まわせるのは心配だ。 晩夏、離婚しても俺とお前の関係は変わらない。お前は今まで通り俺のそばにいればいい。ただ、奈々と子供には表向きの立場が必要なんだ。 奈々は、この数年で出会った中で一番、晩月に似ている子だ。彼女のことを妹だと思えないか? お前が晩月を死なせたんだ。これは、お前が俺に負っている罪だ」 先ほど花瓶が当たってできた傷口から、再び血が滲み始めた。 悔しさと痛みが胸の奥で絡み合う。 晩夏は研の首筋に残る生々しいキスマークを見つめながら、ゆっくりとバッグから書類を取り出した。 そして、今夜弁護士のもとで署名したばかりのA4用紙を、彼の目の前で引き裂いた。 紙片となって床に散った離婚協議書を見て、研の表情が険しく沈む。 だが晩夏は嘲るように笑った。 「渡すつもりだったけど、気が変わったわ。研、あなたは一生『死別』しかない。離婚なんて絶対にさせない。 もし私が死ぬ日まで待てないなら、訴訟を起こせばいい。判決が出るまで、早くて一年、普通は二年はかかる。 あなたの子供は、結局あなたと同じ――婚外子のままよ」 研の目が怒りで赤く染まる。 彼は晩夏の首を掴み、強引に引き寄せた。 締めつける力が強まるにつれ、晩夏の顔色は青紫に変わっていく。 やがて息が途絶えかけた頃、研は彼女を床へ突き飛ばした。 晩夏は激しく咳き込みながら、それでも笑った。「他にも……方法はあるわよ……奈々に中絶させればいい。あなた、私にはそうしたでしょう?」 研は何も言わなかった。 だが、いつの間にか部屋から出てきていた奈々が、勢いよく晩夏の頬を叩いた。 乾いた音が室内に響いた。 「私の子供はもう四ヶ月なのよ!大事な命なのよ!あなた、本当に冷酷な女ね。だから研はあなたと離婚したがってるのよ。 あなたの姉と研のお母さんが、あなたのせいで一人は行方不明になって、一人は死んだのに、黙って隠れて、警察署にも行かなかったんでしょう? あなたみたいな人、早く死んだほうがいいわ!」 奈々の平手打ちでよろめいた晩夏は、テーブルの角に額をぶつけた。 血が勢いよく流れ落ちる。 しかし奈々はすぐに研の胸へ身を寄せ、涙を流した。「研、お腹が少し痛いの……赤ちゃん、私たちがいらないって言ったから怒ってるのかしら……」 研の視線は冷たいまま晩夏に向けられていたが、腕の中の奈々を抱きしめる手つきは優しかった。「馬鹿だな。大丈夫だ。赤ちゃんは、パパとママが愛してるって分かってる。心配するな、今すぐ病院へ行こう」 研が奈々を抱きかかえ、その姿が視界から消えていくまで、晩夏はその場に立ち尽くしていた。 激しい眩暈に襲われながら、彼女は親友・森川智香(もりかわ ともか)へ電話をかけた。 …… 次に目を覚ましたのは、翌日のことだった。 病室で目を開けると、そこには智香の姿があった。 目を赤く腫らし、声を詰まらせる。「晩夏ちゃん……どうしてこんなになるまで放っておいたの?」 乾ききっていた晩夏の目から、涙が一気に溢れ出した。「智香……あの人を許したくない……悔しいの……」 「でも、晩夏ちゃんの病気……」 晩夏の視線は窓の外へ向けられた。 「九日後、遠野原へ写生に行くんでしょう?私も連れて行ってくれる? 私、自然葬の予約をしたの。でも一人だと少し怖くて……一緒に来てくれる?」 晩夏の言葉に、智香の涙が再び溢れる。 智香は晩夏を抱きしめた。「晩夏ちゃん、今は医療も進歩してるの。きっと治る。諦めないで……」 晩夏は真剣な表情で、智香の涙を指で拭った。「智香……もう痛すぎるの。全身が、がんに侵されていて、薬も効かない。今はモルヒネポンプに頼るしかない」 遠野原の自然葬―― それが、晩夏が自分のために選んだ最期だった。 智香が何か言おうとしたとき、電話が鳴った。 受話器の向こうから、画廊のスタッフの慌てた声が響く。「オーナー、大変です!店の前に大勢の人が集まっていて、今にも店を壊されそうで……」 言い終える前に、電話は切れてしまった。 晩夏と智香が画廊へ駆けつけたとき、すでに店内はひどく荒らされていた。 智香は慌てて中に駆け込む。 だが晩夏の目は、人混みの中にいる研と奈々の姿を一瞬で捉えた。 胸が締めつけられる。 何が起きたのか、すぐに理解した。 二人の前まで歩み寄ると、奈々が先に晩夏の手を掴んだ。 「晩夏さん、やっと来てくれた。カフェを開きたいの。研が言ったのよ、榊原家の物件は好きに選んでいいって。 色々見たけど、ここが一番気に入ったわ。欲しいの。晩夏さんのお友達、今日中に引っ越せてくれる?」 晩夏の胸に鋭い痛みが走る。 さきほど打ったモルヒネの副作用で込み上げていた吐き気が、突然喉までせり上がった。 晩夏は思わず花壇に駆け寄り、激しく吐いた。 戻ってきたとき、顔色は紙のように白かった。 「研……私たちの問題に智香は関係ない。この画廊は、彼女の亡くなった両親が残した唯一のものなの。 何十年もここで経営してきて、今年ようやく十五年契約を更新したばかりなのよ。こんなこと、許されるはずがない」 研は血の気を失った晩夏の顔を見つめ、まったく関係のないことを口にした。 「俺を見ると吐くのか?俺がそんなに気持ち悪いか? 店を壊した件だが――俺がやろうと思えば、できないことはない」 第3話 晩夏が言葉を発する間もなく、研の背後にいたボディガードが大きな鉄槌を取り出した。 ――ドンッ! 画廊の全面ガラスが激しい音とともに砕け、無数のガラス片が一面に散った。 「契約を結んでいようが関係ない。奈々がここを気に入ったんだ。違約金がいくらになろうと、俺が払う。昨日、彼女を怖がらせた詫びだ」 奈々は申し訳なさそうな表情を浮かべた。「晩夏さん、ごめんね。本当にここが気に入ってしまって……お腹の赤ちゃんのことを思って、許してくれない?」 研は甘やかすように奈々の鼻を軽くつついた。「馬鹿だな。どうして謝る必要がある?俺のものは、全部お前のものだ」 先ほどまで絵を選んでいた客たちは、すでに外へ逃げ出していた。 研のことを知る者もいた。 「さすが榊原社長だな、奥さんを溺愛してる。こんな一等地、違約金だけでもとんでもない額になるぞ」 「何も知らないな。あそこに立ってるのが妻だよ。あの女は笑い者さ。中絶ばかりさせられて子宮を失いかけたらしい。外の愛人の方が妊娠してるんだから、離婚して席を譲るのも時間の問題だろ」 結婚して十年。 研に軽んじられてきたせいで、晩夏はこうした言葉を数えきれないほど耳にしてきた。 それでも――何度聞いても胸に突き刺さった。 「どうすれば、智香の画廊に手を出さない?離婚すればいいの?」 研は嘲るように笑った。 「俺の子供を俺と同じ婚外子にするんじゃなかったのか?まだ始まったばかりなのに、もう耐えられないのか? 離婚は急がない。どうせ最後には、お前が自分から署名するさ。 画廊に手を出されたくなければ簡単だ。ここで土下座して、奈々に謝れ。そうしたら考えてやる」 晩夏の瞳孔が大きく揺れた。「彼女はあなたの愛人よ。どうして私が土下座して謝らなきゃならないの?」 だが研の瞳には狂おしいほどの怒りが宿っていた。 晩夏は十年間、自分のそばで従順に振る舞ってきた。 二年前、子供を産もうとしたとき以外、一度も自分の意に逆らったことはない。 それが最近になって、何度も反抗する。 その誇りを踏みにじりたいという衝動が、今この瞬間、頂点に達していた。 「土下座して頭を下げるか――それとも画廊が跡形もなく壊されるか。選べ」 奈々は困ったような表情を浮かべる。「研、もういいわ。こんなに人が見てるし……晩夏さんを困らせないで」 だが研は周囲を見渡し、冷酷な声で言った。「選べ」 人が多いほうがいい。 晩夏に思い知らせるためだった。 彼女は自分に依存するしか、生きる場所がないのだと。 十年かけて、ようやく従順に躾けた。 ここで台無しにするわけにはいかない。 晩夏の表情には言いようのない哀しみが浮かんだ。「研……この前は私が悪かった。 離婚には応じる。遠いところに行くよ。もう二度とあなたの前には現れない」 その言葉は、まるで大きな手で研の心臓を握り潰されるようだった。 もう二度と俺の前には現れないんだって? そんなこと、許せるはずがない。 研は晩夏を一瞥もしないまま、ボディガードに破壊を続けるよう合図した。 晩夏は、智香が華奢な体で必死に彼らを止めようとしながら、両親の遺した絵を胸に抱いて泣いている姿を見た。 その瞬間、膝から力が抜けた。 晩夏はその場に崩れ落ちるように土下座した。 自分の声が、ひどく弱々しく響く。「やめさせて……土下座するから……」 晩夏が土下座した瞬間、研の胸の奥に、得体の知れない感情が浮かんだ。 だが奈々は慌てて駆け寄り、晩夏を支えようとする。 「晩夏さん、頭を下げないで。私なんかに謝らないで…… 研が私を愛してくれて、子供もできただけなの。あなたを傷つけたいわけじゃないわ……早く立って」 晩夏は奈々の手を振り払った。 頭を下げては「ごめんなさい」と繰り返した。 額から血が滲み始めても、晩夏はやめなかった。 奈々が再び晩夏の腕を引く。「晩夏さん、もうやめて……私が困ります」 晩夏は再び手を払った。 だが今度は奈々がそのまま床に倒れた。「晩夏さん……立たせようとしただけなのに、どうして突き飛ばすの?お腹に赤ちゃんがいるのに……どうしてそんなに酷いことを……」 研はすぐに奈々を抱き起こした。 智香も晩夏のもとへ駆け寄る。「晩夏ちゃん、何してるの!お願いなんてしなくていい、立って、一緒に行こう!」 だが晩夏は土下座したまま動かなかった。「私は……突き飛ばしてない」 奈々は腹部を押さえながら泣いた。 「晩夏さんを尊敬していたのに……まさか赤ちゃんまで傷つけようとするなんて……自分はもう産めないから、私まで同じ目に遭わせたいんでしょう? 研の言う通りね。施設で育った人って、やっぱり自分のことしか考えないのね」 晩夏の顔色が一瞬で蒼白になった。彼女は研をじっと見つめる。「あなたが土下座して謝れと言ったから、そうした。だから……画廊を智香に返して」 智香は晩夏を立たせることができず、その場に座り込んで泣いた。「晩夏ちゃん、お願い……一緒に行こう。こんな人たちに頼る必要なんてないよ」 研の口元に冷酷な笑みが浮かぶ。 「晩夏……お前は本当に変わらないな。奈々の言う通りだ。やっぱり性根が腐ってる。 確かに約束はした。だが――気が変わったんだ。前にお前がしたのと同じだ」 彼は奈々を抱いたまま背を向け、それ以上晩夏を見ることはなかった。 去り際、最後の言葉だけを残す。 「徹底的に壊せ。作品は一つも残すな。賠償金がいくらになろうと構わない。榊原家には優秀な弁護士がいくらでもいる」 未練の欠片もない背中を見つめながら、晩夏の血の気のない唇から、かすかな声が漏れた。「智香……ごめんね……」 その言葉を最後に、晩夏は智香の腕の中で意識を失った。 第4話 再び目を覚ましたとき、晩夏を包み込んだのは、ひどい眩暈と激痛、そして吐き気だった。 体を起こそうとした瞬間、看護師に強く押さえつけられる。「動かないでください。今、モルヒネを投与しています」 吐き気をこらえていたが、注射が終わった途端、晩夏は耐えきれず嘔吐した。 涙で濡れた晩夏の顔を見た看護師が、同情するように尋ねる。「ご家族に連絡しましょうか?」 晩夏は天井を見つめながら、痛みと眩暈が過ぎ去るのを待った。「家族はいません……代わりに、付き添いの介護士を手配してもらえますか」 …… 介護士は晩夏に清潔な服を着せ替え、車椅子に乗せて中庭へ連れて行き、日光に当たらせてくれた。 智香は画廊の後処理に向かっており、夜には戻って一緒に夕食を取ると約束していた。 だが、介護士が晩夏を中庭へ押し出したその瞬間―― 車椅子が後ろから止められた。 振り返ると、そこには研と奈々がいた。「晩夏さんも病院に来てたのね。研は私の妊婦健診に付き添ってくれてるの。まさか、私たちの後をつけてきたわけじゃないわよね?その額の小さな傷で車椅子だなんて、大げさじゃない?」 晩夏は淡々と奈々を一瞥した。「そんなことを気にするより、自分のお腹の心配をしたら?ずいぶん目立ってきてるじゃない。もうすぐ生まれるんじゃない?」 奈々は悔しさで目を赤くしたが、言い返せず、研の胸に顔を埋めてすすり泣いた。 研は何も言わず、しばらく晩夏を見つめていた。 介護士が車椅子を押して離れようとしたとき、彼は晩夏の腕を掴んだ。 晩夏は強くその手を払いのけた。 「土下座して頼んで、頭まで下げたのに、画廊は結局壊された。まだ何をしたいの?私を殺したいの? それとも、私が早く死ねばいいと思ってる?そうすれば彼女と結婚して子供を作れるものね。 甘く見ないで、研。私はきっと長生きして、あなたが報いを受けるのを見届けるわ」 血の気のない顔に浮かんだ嫌悪の表情が、研の胸を鋭く刺した。 彼は突然笑った。「晩夏、連れて行きたい場所があるんだ」 奈々は大人しくその場に残り、迎えの車を待つことにした。 晩夏を見る奈々の目には、隠しきれない悪意が宿っていた。「研、晩夏さんは額を怪我してるんだから、優しくしてあげてね。ちゃんと落ち着いて話して、あまり怖くしないでね」 研は奈々の額に軽く口づけた。「分かった」 彼は介護士から車椅子を受け取った。 「榊原さんはまだ退院できません!」と介護士が慌てて声を上げたそのとき、彼は振り返り、淡々と言い放つ。 「俺は彼女の夫だ。少し外に連れて行くだけだ。すぐ戻る」 晩夏は研に抱き上げられ、彼のロールス・ロイス・ファントムへ乗せられた。 車内には奈々らしい小物があふれていた。 ピンク色のクッション、シートベルトに挟まれた小さなピンクのヘアクリップ―― 目に入るものすべてが、奈々の存在を強く感じさせた。 ふと晩夏は思い出した。 かつて自分がうっかりショールを車に置き忘れたとき、研はそれを窓の外へ放り捨てたことがあった。 だが今の自分には、もうどうでもよかった。 車内では一言も交わされないまま、やがて郊外の古びた家屋の前で車が止まった。 入口の看板の文字を見た瞬間、背筋を冷たい恐怖が駆け上がる。 ――【子どもの家】 それは、かつて晩夏自身が書いた文字だった。 晩夏の手が震え始める。唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。 ただ、微笑を浮かべる研を見つめることしかできなかった。 彼女の姿を見つけた施設長が嬉しそうに声をかけてくる。「晩夏、よく来てくれたね。子供たちも会いたがっていたよ。そちらの方は?お友達かな?」 晩夏はぎこちない笑みを浮かべて答えた。「施設長、彼と少し話があります。先にお仕事を続けてください」 施設長は何度も頷く。 「晩夏、顔色が良くないね。台所に頼んで栄養たっぷりの料理を用意させよう。急いで帰らなくていい。夕飯も一緒に食べていきなさい。 お友達に案内してあげて。私は少し用事を済ませてくるよ」 施設長が離れると、晩夏は研の服の裾を掴んだ。「研……一体何を考えてる!?ここへ連れてきて」 怒りで紅潮した彼女の顔を見て、思わず彼女の頬へ手を伸ばした。 ――やはり、こうでなくては。 これまであの手の女が現れるたび、晩夏もいつも同じように、自分に怒鳴り、感情をむき出しにしていた。 そして彼女を押さえ込めば、彼女は「汚い」と嫌がりながらも、結局は自分に身を委ねた。 そこまで思い至ったとき、研の体はわずかに強張った。「俺が何を望んでるか……分かってるだろ?」 「離婚でしょ。いいわ、同意する。今日すぐ署名する」 「いや」研の声は静かだった。 「晩夏、お前を手放す気はない。離婚はする。奈々の子供を婚外子にはできないからな。彼女はお前の姉によく似ている。生まれてくる子供も、きっと似るだろう。 だが、お前は行かせない。離婚しても、お前はどこにも行けない。俺の言うことを聞き続けろ。俺が飽きるまで。そうでないと……どうにも気が済まないんだ」 晩夏の頬を、静かに涙が伝った。「……そんなに私が憎いの?」 その言葉を聞いた瞬間、彼女の顎を支えていた手が、力強く締め付ける手に変わった。 容赦なく。 「とっくに分かっていただろ。なぜ今さら聞く? 俺の母親が借金を作ったのは事実だ。連中を招いたのも母だ。お前を責める理由はない。 だが、お前の姉は何も悪くなかった。俺が彼女を愛していると思い込んで、嫉妬したんだろ。だからわざと警察を呼ばなかった。 お前の醜い心のせいで、彼女は死んだ。それなのに、今さら逃げようとするのか? これは、お前が俺に負うべきものだ」 晩夏は何も言い返さなかった。 謝罪も弁解も――この十年間、何度も繰り返してきた。 だが無意味だった。彼は、最初から何一つ信じていなかったのだから。 「もし、私が同意しなかったら?」 晩夏が言い終えたその瞬間、物陰から一台のブルドーザーがゆっくりと姿を現した。 第5話 ――轟音。 何の前触れもなく、「子どもの家」の半分の塀が崩れ落ちた。 子供たちの悲鳴と泣き声が、辺り一面に響き渡った。 晩夏も涙を流しながら、必死に研の手を掴んだ。「やめて……止めさせて。どれだけ私を憎んでいても、それは私とあなたの問題でしょう。施設長も関係ない。この子たちだって、何も悪くないの」 だが研は何も言わず、ただ微笑んで彼女を見つめていた。 ――轟音。 さらにもう一面の壁が崩れ落ちる。 晩夏は乱暴に涙を拭いながら、震える声で訴えた。「やめて……あなたの言うことは全部聞く。離婚も……あなたの側に残ることも、全部従うから……」 ブルドーザーがぴたりと動きを止めた。 研は満足そうに人差し指で彼女の頬をなぞる。 「それでいい。手配が整ったら離婚手続きに連れて行く。奈々は最近情緒が不安定なんだ。しばらくホテルに泊まって、彼女の前に現れるな。 奈々との婚姻届を出し終えたら戻って来い。これからは、家では奈々を怒らせないようにしろ。 それから――もうこれ以上、俺を試すな。俺が気の長い人間じゃないことくらい、分かっているはずだ」 晩夏は激しい眩暈に耐えながら、研の高級車が視界から消えるのを見送った。 意識を手放す直前、智香が泣きながら自分の崩れ落ちる体を抱き止める姿が見えた。 だが晩夏には、笑みを返す力すら残っていなかった。 かすかな声で呟く。「智香……私って、本当にだめね……」 その言葉を最後に、押し寄せる痛みと眩暈に、晩夏の意識は飲み込まれていった。 …… 二日間、病院で懸命な救命処置が行われた。 まばゆい手術灯の光の中で、晩夏の意識は再びあの古びたスラム街へと引き戻される。 研の母である美沙が、必死に扉を押さえながら叫んでいた。「晩夏、逃げて。警察を呼びなさい。早く」 晩夏は必死に走った。 走れなくなると、這いながら進み続けた。 ようやく警察署へ辿り着いたとき、胸の奥から解き放たれるように叫んだ。「どうか……助けてください……」 次に目を開けたとき、骨まで砕かれるような激痛に襲われた。視界に映ったのは、泣き腫らした目をした智香の姿だった。 看護師がモルヒネを注射する。 鋭い痛みが鈍い痛みへと変わるのを待ってから、晩夏はかろうじて微笑んだ。「智香……少し水を……」 智香はそっと水を口元へ運ぶ。 だが一口飲んだだけで、晩夏はすぐに吐き戻してしまった。 目を赤くした智香が、晩夏の口元を拭いながら言う。「晩夏ちゃん……四日間も目を覚まさなかったのよ。お医者さんが言ってた……晩夏ちゃんの体……遠野原まで持たないかもしれないって……」 「だめ」晩夏の声は弱々しく、それでも確かだった。「智香……絶対に行きたいの。約束して……何があっても、連れて行って」 「分かった、連れて行く。だから落ち着いて、少し休もう。 画廊の損害は榊原家がかなり賠償したの。晩夏ちゃんは遠野原が好きでしょう? 小さな家を買って、風の音を聞きながら、羊を眺めて暮らすのもいいと思うの」 智香の語る未来は穏やかで美しかった。 だが晩夏には、そこまで生きる力が残っていないと分かっていた。 それでも智香を悲しませたくなくて、胸の奥の苦しさを押し込め、微笑む。「いいね。京北市から離れられるなら……きっと幸せになれるわ」 研が病室へ入ったとき、耳に入ったのは「離れられる」という言葉だった。 彼の表情が、みるみるうちに陰を帯びる。「離れられる?この前、はっきり言ったはずだ。晩夏、お前はどこにも行けないぞ」 その姿を見た瞬間、智香は雛を守る親鳥のように、細い腕を広げて晩夏の前に立った。「何しに来たの?まだ晩夏ちゃんを苦しめるつもり?帰って、もう顔も見たくない!」 晩夏は小さな声で言った。「智香……彼と話があるの。少し外してくれる?」 研の視線は一瞬たりとも晩夏から離れない。 青白くやせ細った顔を見つめ、眉をひそめる。「お前……そんなに弱かったか?少し具合が悪いだけで入院とはな。それで、どこへ行くつもりだ?」 晩夏の顔から、わずかに浮かんでいた笑みが消えた。 彼の問いには答えない。「私に何か用?」 胸の奥に、息苦しいほどの苛立ちが込み上げる。 だが研は、それを晩夏への嫌悪のせいだと決めつけた。 子供の頃から彼女はそうだった。 冷たく無感情で、他人を寄せつけないような態度。 その冷酷さがあったからこそ―― 彼女は逃げ出したあと、一人で身を隠し、彼女の姉と自分の母を見殺しにしたのだ。 そう思った瞬間、迷いは消えた。 彼は直接、晩夏をベッドから引きずり下ろした。 その衝撃で、激しい眩暈が晩夏に襲った。 胃の中にはもう何もなく、わずかな胃酸だけを吐き出す。 「死にそうなふりをするのはやめろ。その様子、本当に気持ち悪い。身なりを整えろ。 俺は外で待ってる。奈々が、俺と結婚するのを楽しみにしてるんだ」 晩夏はゆっくりと体を起こした。 荒々しく閉められた扉と、研の遠ざかる背中を見つめる。 こらえていた涙が、静かに溢れた。 「研……演技なんかじゃない……本当に……もう死ぬのよ……」 あまりにも軽いその一言は、空気の中へと消えていった。 第6話 研とともに弁護士事務所へ向かい、離婚協議書に署名する頃には、晩夏はすでに丁寧に化粧を施し、落ち着いた表情で条件を切り出した。 「協議書の内容には異論はない。でも研、離婚後も私を囲うつもりだと、前に言っていたでしょ。それなら、その条件を上乗せしてもらう必要がある」 研の眼差しは暗く沈み、声には警告が滲んでいた。「何が欲しいんだ?」 「『子どもの家』の土地と建物」 研は笑った。「いいだろう」 研は素早く離婚届を提出し、その日の午後には受理証明書を奈々に渡した。 そして―― 児童養護施設「子どもの家」の所有権は、晩夏の手に渡った。 榊原家の邸宅では、奈々が研の腕に寄り添い、甘えるように彼の顎へ口づける。「研、私と赤ちゃんのために、いろいろしてくれてありがとう」 晩夏は二人を一瞥すらしなかった。 ここまでの出来事で、すでに体力は限界に達していた。 今日は「子どもの家」へ行く予定だったが、諦めるしかなかった。 遠野原へ向かうまで、あと三日ある。 まだ間に合う――そう思った。 重い足取りで、ゲストルームへ向かおうとしたそのとき、奈々の言葉が晩夏を引き止めた。「研、郊外のあの土地なんだけど、今日もう解体を始めさせたの。今から建設すれば、赤ちゃんが大きくなった頃には、ちょうど遊園地として使えると思うわ」 晩夏は振り向き、奈々の手首を強く掴んだ。 顔色はひどく青ざめていた。「どの土地のこと?」 「痛い……晩夏さん、離して……」 「どこの土地のこと?」 「本当に痛いの……離して……」 晩夏が言葉を続ける前に、研が晩夏の手を振り払った。「晩夏、俺の警告を忘れたのか?奈々を困らせるな。彼女は妊婦だ」 突き放された晩夏は数歩よろめき、そのまま床に崩れ落ちた。 痛みと眩暈、そして説明のつかない恐怖が同時に押し寄せる。 何度も立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。 奈々が穏やかな声で言った。 「どうしてそんなに取り乱しているの?研、ちゃんと話していなかったの?あの日、病院でもう説明してあるものだと思っていたわ。 子どものために、プライベートの遊園地を建てる土地が必要なの。でもあそこ、ずっと立ち退かない人がいてね。あの日、病院で研にきちんと伝えておいたから、てっきりあなたたちの間で話はついているものだと思っていたのだけれど」 胸の奥に広がる苦しさで、晩夏は息をすることすら難しかった。 長い時間をかけて呼吸を整え、椅子につかまりながらようやく立ち上がる。 「研……『子どもの家』は、あなたが私に渡すと約束した場所よ。今さら撤回なんて、許されない」 研の表情がわずかに曇る。「ただの土地だ。そこまで重要か?奈々が気に入っているなら譲ればいい。代わりの場所を用意する」 「いやよ!」晩夏は叫んだ。「私はあの場所がいいの!あそこに手を出させないで!」 研が何か言いかけたそのとき、奈々の携帯が鳴った。 通話を終えると、奈々は研の胸に身を寄せ、小さく泣き出した。 「研……どうしよう……作業員から電話があったの……現場で事故が起きたって…… そこのおばあさんがずっと止めていて……ブルドーザーが誤って轢いてしまったらしいの…… どうしよう……怖い……」 奈々の言葉を聞いた瞬間、晩夏の頭の中で何かが崩れ落ちた。 施設長が優しく「晩夏」と呼ぶ声。 幼い頃過ごした児童養護施設。 眠れない夜に、そっと子守歌を歌ってくれた施設長の姿―― 全身の血の気が引いていく。 手探りで携帯を探した。 違う。きっと違う。 すでに手配は済ませていたはずだ。 施設長のはずがない。 ようやく携帯を取り出したとき、画面は真っ暗だった。 充電が切れていた。 その間も研は奈々を優しく抱きしめ、低い声であやしていた。 「大丈夫だ。心配するな。全部俺が処理する。お前のせいじゃない。 ほら、泣くな。赤ちゃんが驚くだろう」 胸の奥に広がる悲しみが、次第に怒りへと変わる。 晩夏は突然、研の腕の中から奈々を引き離し、強く頬を打った。 乾いた音が響く。 「……あなた、人間じゃない」 もう一度叩こうとした手は、研に止められた。 しばらく彼を見つめたあと、晩夏は何も言わずに背を向けた。 痛みに耐えながら車へ向かい、そのまま邸宅を後にする。 「子どもの家」へ着いたとき、そこにはもう、かつての笑い声はなかった。 崩れた壁。壊れた建物。 子供たちの途切れ途切れの泣き声が、夕焼けに染まる空へと溶けていく。 晩夏は車を降り、ふらつきながら地面に倒れている施設長のもとへ駆け寄った。 声が震えて言葉にならない。 「施設長……私、来た……遅くなってごめんなさい…… 頑張って……救急車がすぐ来るの…… ここにはまだたくさんの子供たちがいるの……施設長が必要なの……」 施設長はゆっくりと目を開いた。 「晩夏ちゃん……来てくれたのね…… 私が……守れなかった……私たちの家…… 怖がらないで……私の後ろにいなさい……守ってあげるから……」 幼い頃の呼び名を聞いた瞬間、晩夏は声を上げて泣いた。 どうして。 どうして自分はこんなにも無力なのだろう。 何一つ守ることができない。 ただ一人の人を愛してしまっただけなのに―― どうして、大切な人たちまで、こんな結末を迎えなければならないのだろう。 第7話 処置室の前の廊下で、晩夏は看護師にモルヒネを打ってもらい戻ってきたところだった。 そこで目に入ったのは―― 研が奈々を抱き寄せて立っている姿だった。 胸の奥に燻っていた怒りが、一瞬で燃え上がった。 晩夏は早足で二人の前へ進み、奈々の腕を掴んで引き離そうとした。 だが研が強く遮った。「晩夏、落ち着け。奈々のせいじゃない。彼女が怯えているだろうが」 力では到底敵わない。 もみ合う中で、晩夏は突然奈々の手首に噛みついた。 「痛い!離して!」 その一噛みに、積もり積もった憎しみをすべて込めた。 ボディガードたちが引き離そうとしても、晩夏は決して口を離さなかった。 研は強く晩夏の顎を掴み、容赦なく頬を打った。 その衝撃で晩夏は力を失い、床へ倒れ込む。 「晩夏、正気か?奈々は妊婦だぞ。気が弱いんだ。それなのに手を出すとは。 轢いたのは彼女じゃない。奈々は優しい人間だ。今も怖がって泣いているじゃない。これ以上どうしろというんだ」 床に座り込んだまま、晩夏は乾いた笑いを漏らした。 「ええ……狂ってるわ。十年前、あなたと結婚した時からずっと狂ってる。 あなたの言う『優しくて臆病な奈々』が了承しなければ、業者が勝手に強制解体なんてすると思う? 『手段は問わない、何かあっても榊原グループが全部責任を取る』――そう伝えたのは彼女じゃないの?」 奈々の手から血が滴り落ちる。 痛みに顔を歪めながら叫んだ。「ブルドーザーを止めようとしたのは、あの老婆の勝手でしょ!自分から死にに行ったのよ、私には関係ない!」 研の表情が曇る。「奈々……もういい」 その時、手術室の扉が開いた。 医師が外へ出てくる。「申し訳ありません……最善は尽くしましたが……」 晩夏の顔から血の気が引いた。 周囲の制止も聞かず、手術室へ駆け込む。 目に入ったのは――白布に覆われた施設長の姿だった。 そのとき、研が晩夏の隣に来た。「晩夏……こんな結果は誰も望んでいなかった。別の場所に、もっと立派な『子どもの家』を建てよう。設備も整えよう。奈々からの償いとして」 晩夏の体から力が抜けた。 悲しみは極限に達していたが、涙は一滴も出なかった。 「償い……?どんなに立派な施設でも……施設長は戻ってこない。 施設長はそこに横たわっているのよ……もう動かないって、分からないの?」 研の胸の奥に、言葉にできない痛みが広がる。 低い声で言った。「晩夏……人は生き返らない。これは事故だ」 晩夏はゆっくりと彼を見た。 表情には悲しみも怒りもなかった。「事故……?」 研が答える前に、外から奈々の苦しそうな声が響いた。「研……お腹が痛いの……」 彼は数秒だけ迷った。だが結局、晩夏を振り返ることなく、奈々の元へ向かった。 手術室の扉を出る直前、足を止めて言った。 「賠償は榊原グループが倍でも三倍でも払う。余計なことは考えるな。 今回の件は奈々にも落ち度がある。補償はする。 後の手続きは早く済ませろ。費用はすべて榊原グループが負担する」 廊下で奈々を抱き寄せ、優しく声をかける研の姿を見ながら、晩夏は呆然と立ち尽くした。 滑稽で―― あまりにも虚しい。 もしかすると、最初から間違っていたのかもしれない。 自分と研は、決して同じ道を歩く人間ではなかった。それでも無理に一緒にいようとしたから、こんな結末になった。 研の言う通りだ。 施設長の死は、誰のせいでもない。すべて、自分のせいなのだ。 もし自分が、わざわざ榊原グループの資産を使って「子どもの家」を建てたりしなければ。 研の気を引きたいなどと、愚かな期待を抱かなければ。 いつか彼の手を取って、施設長に「生涯を共にする人に出会えたのだ」と伝えられる日が来ると、そんな夢を見たりしなければ。 そんな、身の程知らずの幻想にすがったからこそ、今の悲劇を招いてしまったのだ。 晩夏、あなたは本当に愚かだ。 だが―― もうすぐ終わる。 それだけが救いだった。 …… 三日後。 智香に付き添われ、晩夏は葬儀場で施設長の遺骨を受け取った。 簡素な骨壺を胸に抱え、空港へ向かう車に乗る。 誰にも別れは告げなかった。 残された手続きをすべて終え、病院から処方された大量のモルヒネを携え、静かに人生最後の旅路へと向かう。 隣に座る智香は、どう声をかけていいか分からず、ただ晩夏の肩を抱いた。「晩夏ちゃん……悲しまないで……」 晩夏は微笑んだ。「智香……悲しくないよ。もうすぐ施設長に会えるもの。ほら……ちゃんと一緒に連れてきたし」 智香の涙があふれ出す。言葉にならない。 「泣かないで、智香。私は毎日ずっと痛みに耐えてきたの。これから解放されるのよ」 智香も分かっていた。 それでも―― 晩夏のことが、ただただ可哀想でならなかった。 そのとき、研から電話がかかってきた。 晩夏は少し迷ってから、通話ボタンを押した。 受話器の向こうから、苛立った声が響く。「晩夏、どこへ行った?別荘で大人しくしていろと言ったはずだ。奈々が怯えて流産しかけている。すぐ戻って彼女の面倒を見ろ」 晩夏の声は、驚くほど静かだった。「もう戻らないわ。私たちに、もう何の関係もないでしょ。だから、もう電話をかけてこないで」 研の声は張り詰め、彼は低く脅すように言った。「晩夏、俺を怒らせるな。どこへ行こうが、お前は必ず連れ戻してやる。逃げられると思うな」 しばらく沈黙が続いた。 そして晩夏は、静かに言った。「今回は違うの、研」 それだけ言うと、彼女はそれ以上言葉を交わすことなく、一方的に通話を切った。 そして研の番号も、すべての連絡手段も、完全にブロックし削除した。 半生をかけて抱き続けてきた彼への深い愛は、十年の結婚生活――三千日以上の時間の中で、すでに燃え尽きていた。 これからの彼女の願いは、ただ一つ。 あの世に行ってさえ、研と二度と出会わないことだった。