過ぎ去りし日々は、二度と戻らず​

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過ぎ去りし日々は、二度と戻らず​

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30歳の誕生日の日、夫の西坂裕治(にしざか ゆうじ)は出張で遠くへ行っていた。 ​ 埋め合わせにと、彼は私・西坂瑞穗(にしざか みずほ)のた...

Chương (1)

第1章

30歳の誕生日の日、夫の西坂裕治(にしざか ゆうじ)は出張で遠くへ行っていた。 ​ 埋め合わせにと、彼は私・西坂瑞穗(にしざか みずほ)のためにケーキを予約してくれた。 ​ けれど届いたのは、三歳の子供が喜ぶようなウルトラマンのケーキだ。 ​ 裕治に連絡しようとした矢先、彼の方から電話がかかってきた。 ​ 「瑞穗、あの店、本当にいい加減だ。ケーキを間違えて届けるなんて」 ​ 私はたいして気に留めず、このちょっとした出来事をSNSに投稿した。 ​ すぐにフォロワーからコメントがついた。 ​ 【お店の間違い?それとも、旦那さんに外で子供がいたりして】 ​ そんな冷やかし、これっぽっちも真に受けなかった。 ​ 学生時代から付き合って結婚に至るまで、子供がいないこと以外は、私たちは誰もが羨むおしどり夫婦だ。 ​ ざわつき始めた投稿を削除しようとしたその時、ケーキ屋からDMが届いた。 ​ 【お客様、配達員の間違いではございません。 ​ ご主人様は二つのケーキを購入され、お届け先をあべこべに指定されたのです】 ​ 第1話 ​ 30歳の誕生日の日、夫の西坂裕治(にしざか ゆうじ)は出張で遠くへ行っていた。 ​ 埋め合わせにと、彼は私・西坂瑞穗(にしざか みずほ)のためにケーキを予約してくれた。 ​ けれど届いたのは、三歳の子供が喜ぶようなウルトラマンのケーキだ。 ​ 裕治に連絡しようとした矢先、彼の方から電話がかかってきた。 ​ 「瑞穗、あの店、本当にいい加減だ。ケーキを間違えて届けるなんて」 ​ 私はたいして気に留めず、このちょっとした出来事をSNSに投稿した。 ​ すぐにフォロワーからコメントがついた。 ​ 【お店の間違い?それとも、旦那さんに外で子供がいたりして】 ​ そんな冷やかし、これっぽっちも真に受けなかった。 ​ 学生時代から付き合って結婚に至るまで、子供がいないこと以外は、私たちは誰もが羨むおしどり夫婦だ。 ​ ざわつき始めた投稿を削除しようとしたその時、ケーキ屋からDMが届いた。 ​ 【お客様、配達員の間違いではございません。 ​ ご主人様は二つのケーキを購入され、お届け先をあべこべに指定されたのです】 ​ 私はその短い内容を、じっと見つめた。 ​ 見間違いではないかと、何度も読み返した。 ​ 目頭が熱くなるまで見つめても、胸に湧いた疑念を抑え込むことはできなかった。 ​ 昨日の朝、裕治は急な出張が入ったと言った。 ​ 彼は申し訳なさそうに私を抱きしめた。 ​ 「瑞穗、ごめん。今年もまた誕生日に一緒にいてあげられない」 ​ 私は微笑みながら首を振った。 ​ 「もう30歳よ。誕生日なんて、どうってことないわ」 ​ 裕治が私の誕生日を逃すのはこれで三年連続だ。 ​ 彼の忙しさには、もう慣れっこになっていた。 ​ けれど、配送伝票に記載された住所が、どうしても頭から離れない。 ​ Fマンション。うちのすぐ隣だ。 ​ 理性をかろうじて保ちながら、私はFマンションの入口に立っている。 ​ 警備員の訝しげな視線を受け、ここに住む人を訪ねに来たのだと言おうとした。 ​ 言葉を発する前に、背後から子供の笑い声が聞こえてきた。 ​ 裕治の顔をはっきりと認めた瞬間、私は彼を問い詰める勇気を一瞬で失った。 ​ 植え込みに身を潜め、仲睦まじい親子三人の姿を見つめた。 ​ まるで、自分のものではない何かを覗き見している泥棒になったような気分だ。 ​ 震える手でスマホを取り出し、裕治にメッセージを送った。 ​ 【今どこ?】 ​ 返信はすぐに届いた。 ​ 【M市に出張中だ】 ​ そのわずか数文字が、鋭い刃となって何度も私の心を抉った。 ​ 浮気の現場を突き止めるはずが、結局は無様に逃げ出すことしかできなかった。 ​ 私はリビングのソファに座り、壁に飾られた結婚写真を見上げた。 ​ 「遊びに来るみんなに、俺たちがどれだけ幸せか見せつけたいんだ」 ​ 裕治がこの写真を掲げたときの言葉が、不意に脳裏をよぎった。 ​ 私は立ち上がり、ありったけの力を込めて額縁ごと写真を床に叩きつけた。 ​ 額縁は瞬く間に粉々になった。 ​ まるで、私と裕治の結婚生活そのもののようだ。 ​ 床に散らばったガラスの破片を、私はただ見つめている。全身の力が抜けていく。 ​ 不意に、スマホの着信音が鳴り響いた。 ​ 電話に出ると、受話器の向こうから裕治の心配そうな声が聞こえてきた。 ​ 「瑞穗、ずっとメッセージを送ってるのに、どうして返してくれないんだ? ​ 何かあったのか?」 ​ 問い詰めたい言葉を飲み込み、口から出たのは別の言葉だ。 ​ 「裕治、帰ってきて私の誕生日を祝ってくれない?」 ​ 電話の向こうで、長い沈黙が続いた。 ​ 私も何も言わず、ただひたすらに返事を待ち続けた。 ​ 裕治の声には、どこか後ろめたさが混じっている。 ​ 「瑞穗、今は出張中なんだ。明日帰ったら、改めてお祝いさせてくれないか?」 ​ その時、電話の向こうから小さな男の子の「パパ」と呼ぶ声が聞こえた。 ​ 裕治は「上司に呼ばれた」とだけ言い、一方的に電話を切った。 ​ 男の子の「パパ」という声が、耳の奥で何度も繰り返し響く。 ​ 今年の年明け早々、私は妊娠していることがわかった。 ​ 子供を授かることを、ずっと心待ちにしていた。 ​ 妊娠を伝えたときの裕治の反応は、どこか奇妙だった。 ​ 後になって、嬉しすぎたのだと言われたけれど。 ​ しかし翌日、妊婦健診に向かう途中、私は階段で足を滑らせて転げ落ちてしまった。 ​ 赤ちゃんがいなくなった。 ​ 裕治は仕事を休み、一週間付きっきりで看病してくれた。 ​ 第2話 ​ けれど、裕治が病院に駆けつけたとき、最初に放った言葉が不意に脳裏をよぎった。 ​ 「あの時、階段に誰かいたか?」 ​ 当時は悲しみのあまり、その言葉の違和感に気づかなかった。 ​ 今にして思えば、クリニックの階段に果物の皮が落ちているなんて、おかしな話だ。 ​ そこまで考え、私はそれ以上深く思考を巡らせるのが怖くなった。 ​ そんな時、見知らぬアドレスからメールが届いた。 ​ 【ケーキ、届いた?さっき送った住所で待ってるよ】 ​ その内容から、送り主が得意げな表情をしているのが容易に想像できた。 ​ 私はタクシーを拾い、指定されたカフェへと向かった。 ​ ドアを押し開けると、窓際に座る平木マリカ(ひらき まりか)の姿が目に飛び込んできた。 ​ マリカの正面に座った。口を開く前に、彼女の指にある指輪が目に留まった。 ​ それは、私のものと全く同じデザインだ。 ​ マリカは私の視線に気づくと、自慢げにその手をひらひらとさせて見せた。 ​ 「これ、あなたのとは違うのよ。 ​ 裏には私と裕治の名前が刻んであるんだから」 ​ 結婚する時、裕治は「世界に一つだけの指輪を贈る」と言ってくれた。 ​ 一ヶ月かけてデザインし、制作してくれたものだった。 ​ 結婚式当日、その指輪を見て、私は長い間涙を流した。 ​ その後もしばらくの間、友人たちに自慢して回った。 ​ まさか、私が誇りに思っていた愛の証が、別の女の自慢の種にされているなんて。 ​ 私は拳をぎゅっと握りしめ、一文字一文字を噛みしめるように言った。 ​ 「無駄話はやめて。用件は何?」 ​ マリカはコーヒーに角砂糖を二個も入れ、一歩も引かない鋭い目つきで私を見つめた。 ​ 「いつ裕治と離婚してくれるの? ​ 怜央は今年で三歳。これ以上、あの子にこんな思いはさせられないわ」 ​ 私は呆れて、思わず笑いがこぼれた。 ​ 「愛人の立場で、よくそんな口が利けるわね」 ​ マリカは痛いところを突かれたのか、表情を醜く歪めた。 ​ 「子供もいないくせに、私に勝てると思ってるの! ​ 物わかり良く身を引いたらどう?」 ​ 彼女の激昂とは真逆に、私は不思議と冷静でいられた。 ​ 「私たちに子供がいないって、どうして言い切れるの?」 ​ マリカの顔色が微かに変わったが、すぐに余裕を取り戻したような笑みを浮かべた。 ​ 「子供がいたところで何よ。無事に産まれてこられるかどうかはまだわからないんじゃない!」 ​ 私は奥歯を噛みしめ、静かに返した。 ​ 「あなたが何を言おうと、戸籍上の妻は私。あなたはいつまでも愛人だし、あなたの息子は一生、父親のいない子供のままよ」 ​ マリカがさらに何か言い返そうとしたとき、彼女の電話が鳴った。 ​ 彼女は画面を私に向けて振り見せた。そこには【夫】と表示されている。 ​ わざとスピーカーにすると、裕治の穏やかな声が響いた。 ​ 「マリカ、もう帰ってくる?怜央がお腹空いたってさ」 ​ マリカは勝ち誇ったような表情で私をちらりと見て、「すぐ帰るわ」とだけ言って電話を切った。 ​ 彼女は立ち上がり、見下すように言い放った。 ​ 「瑞穗さん、戸籍上の名前が誰であろうと、私と裕治が本当の家族なの」 ​ そう言い残すと、彼女は背を向けて去っていった。 ​ 私は長い間、カフェに座り込んでいる。 ​ 店を出る前に、ずっと一緒にスタジオを立ち上げようと誘ってくれていた幼馴染にメッセージを送った。 ​ 【お誘い、受けるわ。こっちの片付けが終わったら戻る】 ​ カフェを後にする前、私は結婚してから肌身離さず着けていた指輪を外し、そばにあったゴミ箱へ投げ捨てた。 ​ 誰かとお揃いのものなんて、もういらない。 ​ 指輪も、男も。 ​ 家に戻ると、結婚生活で買い揃えたペアの品々をすべてゴミ袋に詰め込んだ。 ​ 半分ほど空っぽになった家を見て、なぜか清々しい気分になった。 ​ 翌日の仕事帰り、家の前で立ち尽くしている裕治に出くわした。 ​ 彼は私が見たことのない、グレーのシャツを着ている。 ​ そこからは、微かなミルクの香りが漂ってくる。 ​ 別の女の存在を誇示するような変化に、どうして今まで気づかなかったのだろう。 ​ 彼はいつものように荷物を置き、私を抱きしめようとした。 ​ 私は身をひるがえして、それを避けた。 ​ 彼は戸惑いながら私を見つめ、やがて何かを悟ったように口を開いた。 ​ 第3話 ​ 「昨日、誕生日に一緒にいられなかったからって、拗ねてるのか? ​ プレゼントを買ってきたんだ。家に入ったら渡す」 ​ そう言って裕治は家のドアを開けたが、すぐに振り返って私を見た。 ​ その瞳には、戸惑いの色が浮かんでいる。 ​ 私は荒れ果てたリビングを素通りし、淡々とした口調で言った。 ​ 「額縁の裏の釘が緩んでたみたい。昨日、落ちたのよ」 ​ 裕治はそれを聞くと、慌てて私の体をあちこち確認し、怪我がないと分かるとようやく安堵の吐息を漏らした。 ​ そして私の意思を無視し、その腕の中に抱き寄せた。 ​ 「君が無事で本当によかった」 ​ 何よりも私を優先する裕治の姿を見ていると、外に別の家庭があるなんて、どうしても信じられなかった。 ​ 彼は私を部屋で休ませ、自分はリビングに散らばった破片を片付け始めた。 ​ 夕食の後、風呂に向かう前に、裕治は可愛らしいギフトボックスを差し出した。 ​ 私が不思議そうに見つめると、彼は私の頭を優しく撫でながら、穏やかに微笑んだ。 ​ 「さっき約束したプレゼントだ」 ​ 促されるままに、私はギフトボックスを開けた。 ​ 中には、雫の形をしたネックレスが入っている。 ​ 「気に入ったかな?ずいぶん時間をかけて選んだんだ」 ​ 以前の私なら、彼が贈ってくれるものなら何でも喜び、大切にしていた。 ​ 結婚三周年の記念日に、彼が道端で摘んで贈ってくれた花さえ、私はドライフラワーにして今でも大切に保管しているというのに。 ​ 何気なくネックレスをギフトボックスに戻そうとしたとき、一枚のレシートが目に入った。 ​ そこには、100 万円のダイヤモンドネックレスの購入履歴があった。 ​ そしてこの雫のネックレスは、そのおまけだ。 ​ ふと、昨日マリカがしきりに首元のダイヤモンドを弄っていた姿が思い浮かんだ。 ​ 私は自嘲気味に笑った。 ​ 裕治にとって、私はおまけを受け取る程度の存在でしかないのだ。 ​ 彼が風呂から上がってきたとき、私はすでに彼に背を向けて横になっていた。 ​ 彼が私の肩を揺すったが、私は生返事で応じた。 ​ 「触らないで。眠いの……」 ​ 裕治が顔を近づけてきたが、私は顔を背けて避けた。 ​ 彼は気にする様子もなく、小さく「おやすみ」と言ってスマホを弄り始めた。 ​ 意識がぼんやりとしてきた頃、裕治が足音を忍ばせながら部屋を出ていく気配がした。 ​ すぐに玄関のドアが閉まる音が聞こえた。 ​ 私は起き上がり、窓辺へと歩み寄った。 ​ しばらくすると、外へ出ていく裕治の姿が見えた。 ​ そこへマリカが駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。 ​ 二人はマンションの階下で、人目を憚らず激しくキスを交わした。 ​ 裕治は慎み深い人のはずだった。 ​ 人前で私とスキンシップをとることは滅多になく、ましてやキスなど考えられなかった。 ​ 裕治がドアを開けて戻ってきた瞬間、私は部屋の明かりをつけた。 ​ 「こんな夜中に、どこへ行ってたの?」 ​ 彼は飛び上がらんばかりに驚き、数秒経ってようやく言葉を絞り出した。 ​ 「……仕事の電話だ。君を起こしちゃ悪いと思って、外で受けてたんだ」 ​ 「そうなの?」私は疑わしげに彼を見つめた。 ​ 「でも、香水の匂いがするわよ」 ​ 裕治の顔に、一瞬だけ動揺が走った。 ​ 「……うちのボディソープの匂いじゃないかな?」 ​ そんな下手な嘘を聞き流し、私は「そう」とだけ言って追求をやめた。 ​ それを見た裕治は、あからさまに安堵の表情を浮かべた。 ​ 翌朝、私と裕治はいつものように近所で朝食をとっている。 ​ 店に入るなり、どこからか平木怜央(ひらき れお)が飛び出してきて、裕治の足にしがみついた。 ​ 「パパ!どうしてここにいるの?」 ​ 裕治はうろたえながら私を見た。 ​ 「この子は人違いをしてるんだ、俺は……」 ​ 「俺はパパじゃない」という一言が、どうしても彼の口からは出てこなかった。 ​ 私は怜央を自分の方へ引き寄せ、裕治が言えなかった言葉を代わりに伝えた。 ​ 「坊や、この人はあなたのパパじゃないわよ」 ​ それを聞いた怜央は、わっと泣き出した。 ​ 「意地悪しないで!この人は僕のパパなんだ!」 ​ それを見た裕治は、あろうことか私を地面に突き飛ばし、怜央を抱きしめて優しくあやし始めた。 ​ 地面で擦りむいた手の傷を見つめながら、私の心は氷のように冷えていった。 ​ この男と、これ以上一緒にいる必要はない。 ​ そこへ、マリカが血相を変えて駆け寄ってきた。 ​ 裕治の腕から怜央を引き寄せた。 ​ 「ごめんなさい、目を離した隙に怜央が……」 ​ 第4話 ​ マリカと怜央が立ち去った後、ようやく裕治は私のことを思い出した。 ​ 彼が手を差し伸べて私を立たせようとしたが、私は冷たくその手を拒んだ。 ​ 裕治は慌てて釈明を始めた。 ​ 「瑞穂、すまない。さっきはつい焦ってしまって……」 ​ 私は彼を冷ややかに一瞥し、何も言わずにその場を立ち去った。 ​ タクシーに乗り込むと、マリカからメールが届いた。 ​ 【裕治の心の中では、私と怜央が一番大切なの。物分かりよく身を引きなさい】 ​ 私はその画面をスクリーンショットし、そのまま裕治に送りつけた。 ​ その日一日、彼から何度も電話や釈明のメッセージが届いたが、私は一切無視した。 ​ 仕事が終わって帰宅すると、裕治はすでにリビングで待っていた。 ​ 私の姿を見るなり、彼は足早に駆け寄ってきた。 ​ 「瑞穂、あの女は頭がおかしいんだ。あんな言葉、信じちゃだめだ。 ​ あんな女なんて知らないし、君……」 ​ 嘘を聞くのも馬鹿らしくなり、私は言葉を遮った。 ​ 「どうしてそんなに必死なの?裕治が私を裏切るなんて、これっぽっちも思ってないわよ。 ​ だって、母の病床の前で、一生私を守るって誓ってくれたもの。もし破ったら天罰が下るって」 ​ 裕治の顔が強張った。 ​ 彼が何か言いかける前に、私は背を向けて部屋に戻った。 ​ その後の数日間、表面上はいつもと変わらない日常が続いた。 ​ ただ、裕治の「残業」は目に見えて増えていった。 ​ 彼が「残業」をしている間、私のもとには決まってマリカから写真が送られてきた。 ​ 仲睦まじい親子三人の姿。 ​ 怜央を抱いてあやす裕治の姿。 ​ そして、裕治とマリカのプライベートな写真。 ​ 私は一度も返信せず、ただ黙ってそれらを保存し続けた。 ​ これこそ、裕治を家から一銭も持たせずに追い出すための、何よりの証拠となるのだから。 ​ ある日、いつものように家路を辿っているときのことだ。 ​ Fマンションの近くに来ると、子供の泣き声が聞こえてきた。 ​ 近づく間もなく、怜央が走ってきて私の前に跪き、泣きながら縋りついてきた。 ​ 「おばさん、パパを返して!パパがいない子だって、もう笑われたくないんだ! ​ お願い、パパを返してよぉ!」 ​ 私は眉をひそめて彼を見下ろし、冷たく問いかけた。 ​ 「お母さんはどこ?」 ​ 怜央は答えず、ただ床に頭を打ちつけて泣き叫ぶばかりだ。同じ言葉を繰り返しながら。 ​ 泣き声に気づき、野次馬たちが集まり始めた。 ​ 怜央の言葉を聞いた人々が、私に向かってひそひそと囁き合っている。 ​ そこへマリカと裕治が人混みをかき分けて現れた。跪く息子の姿を見ると、マリカは激しい剣幕で怒鳴りつけた。 ​ 「情けない!こんな女に縋るんじゃないわよ。パパはいつまでもあなたのパパよ!」 ​ そして彼女は、勝ち誇ったような視線を私に向けた。 ​ 怜央は立ち上がり、裕治の足にしがみつき、哀れっぽく訴えかけた。 ​ 「パパ、パパがいい!」 ​ 野次馬はさらに増え、面白がってスマホで動画を撮り始める者まで現れた。 ​ 裕治は顔を強張らせ、人だかりの中で立ち尽くしている。 ​ マリカから「怜央がいなくなった」との電話を受けて駆けつけた彼は、まさかこんな事態になるとは夢にも思わなかったのだろう。 ​ 怜央とマリカの言葉を鵜呑みにした野次馬たちは、私を不倫女だと決めつけ、罵声を浴びせてきた。 ​ 私は真っすぐに裕治を見つめた。 ​ 「裕治、何か言いたいことはないの?」 ​ 裕治の顔に一瞬、後ろめたさがよぎったが、彼は開き直るように口を開いた。 ​ 「……先にアプローチしてきたのは君のほうだ。俺は何度も断ったんだぞ」 ​ 彼が言い終わるか終わらないかのうちに、マリカが歩み寄り、私の頬を激しく張り飛ばした。 ​ 彼女は驚きと悲しみの表情を浮かべながらも、その瞳の奥には隠しきれない挑発の光が宿っている。 ​ 「なんて破廉恥な女なの!私と裕治の間には三歳になる子までいるのに、よくも彼を唆せたわね!」 ​ 私は打たれた頬をそっと撫でながら、冷笑を浮かべて裕治の方へ歩み寄った。 ​ 彼は気まずそうに顔を背け、私と目を合わせようとしなかった。 ​ 私はカバンから戸籍謄本を取り出し、彼の体に叩きつけた。 ​ 「西坂裕治、離婚よ!」 ​