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中古PCの壁紙が婚約者の裸でした
私は三枝麗奈(さえぐさ れいな)。 ある日、フリマアプリで中古のノートパソコンを購入した。 届いた箱を開け、何気なく電源を入れる。すると...
Chương (1)
第1章
私は三枝麗奈(さえぐさ れいな)。
ある日、フリマアプリで中古のノートパソコンを購入した。
届いた箱を開け、何気なく電源を入れる。すると、立ち上がった画面の壁紙に映し出されたのは――婚約者の手塚有博(てづか ありひろ)の、全裸の無修正写真だった。
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
どういうこと?
まさか神様のいたずら?
有博の持ち物が巡り巡って、また私のところに戻ってきたってこと?
混乱したまま、有博に電話をかけようとスマホを手に取った、そのときだった。
知らない番号から、着信が何度も続けざまに入る。
恐る恐る出ると、受話器の向こうから若い女の声が飛び込んできた。
「すみません!彼氏のパソコンを間違えて送っちゃいました!そのパソコンの中に大事な仕事のファイルが入ってるんです。絶対に触らないでください!
すぐ本来送るはずだったパソコン、送り直します!送料も全部こちらで負担しますので、中のファイル、本当に触らないでくださいね!」
電話越しに響くその言葉が、胸の奥に重く沈んだ。
甘ったるい声が、やけに耳に残る。
有博には――いつから、私以外の彼女がいたの?
第1話
私は三枝麗奈(さえぐさ れいな)。
ある日、フリマアプリで中古のノートパソコンを購入した。
届いた箱を開け、何気なく電源を入れる。すると、立ち上がった画面の壁紙に映し出されたのは――婚約者の手塚有博(てづか ありひろ)の、全裸の無修正写真だった。
頭の中が、一瞬で真っ白になる。
どういうこと?
まさか神様のいたずら?
有博の持ち物が巡り巡って、また私のところに戻ってきたってこと?
混乱したまま、有博に電話をかけようとスマホを手に取った、そのときだった。
知らない番号から、着信が何度も続けざまに入る。
恐る恐る出ると、受話器の向こうから若い女の声が飛び込んできた。
「すみません!彼氏のパソコンを間違えて送っちゃいました!そのパソコンの中に大事な仕事のファイルが入ってるんです。絶対に触らないでください!
すぐ本来送るはずだったパソコン、送り直します!送料も全部こちらで負担しますので、中のファイル、本当に触らないでくださいね!」
電話越しに響くその言葉が、胸の奥に重く沈んだ。
甘ったるい声が、やけに耳に残る。
有博には――いつから、私以外の彼女がいたの?
電話を切ると、私は無理やり気持ちを落ち着けようとして、震える指でマウスを動かした。
壁紙以外には何もない。不気味なくらい整然としたデスクトップに、「My Treasure」と名付けられたフォルダが一つだけ置かれていた。
有博も昔、同じ名前のフォルダを私のために作ってくれたことがある。そこには、子どもの頃からの二人の写真がぎっしり保存されていた。
心臓が「どくん」と嫌な音を立てる。
あり得ないはずの考えが、不意に頭の中に浮かんだ。
――有博が、浮気?
その考えは一瞬だけよぎって、私はすぐに首を振って打ち消した。
だって私は知っている。たとえ世の中の男がみんな裏切ったとしても、有博だけは違う。
私たちは近所のみんなに見守られて育った、幼なじみなのだから。
有博は私を愛していた。
毎月の生理の時期をちゃんと覚えていて、前もってカイロや温かい飲み物まで用意してくれるくらいに。
スマホも、パソコンも、SNSも――どれも私の誕生日をパスワードにしてしまうくらいに。
それに、結婚式はもう半月後に迫っている。
だからこれはきっと、何かの間違いに決まっている。
私は深く息を吸い込み、胸の奥で膨らみ続ける正体のわからない不安を、必死に押し込めようとした。
フォルダをダブルクリックする。
次の瞬間、画面に表示された写真を見て、思考が止まった。
そこに写っていたのは、有博と見知らぬ女の子が肩を寄せ合っている姿だった。
全身の血が一瞬で凍りついた。
頭の中が真っ白になって、息さえ止まりそうになる。
一枚、また一枚と写真をめくるたびに、そこに映る現実が、必死に目をそらそうとしている私を逃がしてくれなかった。
有博は、本当に浮気していた。
それなのに私は――もうすぐ彼の花嫁になれるのだと信じて疑わなかった。
……なんて滑稽なんだろう。
どれくらい呆然と座り込んでいたのか、自分でもわからない。それでも私は、無理やり気持ちを落ち着けた。
真っ先にスマホを開き、七日後のパリ行きの航空券を予約した。
パリは、絵を学ぶためにずっと憧れていた街だった。
有博と一緒にいるために、私はその夢を一度、手放した。
でも、もう二度と諦めない。
今度こそ絵筆を握り直して、恋のために置き去りにしてきた夢を、自分の手で取り戻す。
それから私は、パソコンの中にあったあの写真をすべてまとめて、幼なじみの柴田美里(しばた みさと)に送った。
送った途端、美里から電話がかかってきた。声は驚きと怒りで震えていた。
「有博って、ほんとに最低……こんなの許せない。待ってて、今から私があいつに思い知らせてやるから」
私はその言葉を途中で遮った。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「いいの。土曜日、両家の顔合わせの席で――私が自分で終わらせる」
一度だけ息を整えてから続ける。
「美里、お願いがあるの。有博にとびきりの贈り物を用意したい」
言い終えた瞬間だった。
背後から、有博の声が不意に響く。明るくて、いつも通り優しい声。
「麗奈、何を買ってきたと思う?」
振り返ると、有博は私の好きな店のシュークリームを手に立っていた。
けれど私の顔を見た途端、その笑顔がふっと消える。
「麗奈?どうした?目、赤いけど……」
袋をその場に置くと、有博は足早に近づいてくる。腕を伸ばして抱き寄せようとして――
私は反射的に身を引いた。
思わず口を開いた。
けれど、出てきた声は自分の声とは思えないほどかすれていた。
「有博、あなた……」
続きを言おうとした、そのときだった。
突然、有博のスマホが鳴った。
有博はとっさに画面を見て、顔をこわばらせる。
慌てて音を止めると、そのまま画面を伏せるようにしてテーブルに置いた。まるで見られたくないものでもあるみたいに、その動きは妙に早かった。
「ただの……営業の電話だよ」
そう言った声が、わずかに上ずっている。
でも、私は見てしまった。
画面が光ったほんの一瞬、そこに表示されていた名前を。
――日菜。
取り繕うように笑うその顔が、ひどく滑稽に見えた。
私は顔を上げ、有博をまっすぐ見つめる。
「有博、私のこと、愛してる?」
有博は一瞬きょとんとして、それから吹き出すように笑った。
甘やかすように、指先で私の鼻先を軽くつつく。
「ばかだな。急にどうしたんだよ。愛してるよ。当たり前だろ」
私はその目をじっと見据えたまま、静かに問いかけた。
「じゃあ――雨宮日菜(あまみや ひな)は?あの子のことも、愛してるの?」
雨宮日菜。
それが、あのパソコンを売っていた女の名前だった。
第2話
有博の顔に浮かんでいた、いつもの笑みが少しずつ消えていった。
彼は呆然と私を見つめたまま、しばらく何も言えずにいた。それからようやく、声を絞り出すように言った。
「麗奈、何を言ってるんだ?その名前、どこで聞いた?」
けれど次の瞬間には、見慣れたその顔に、傷ついたような、困り果てたような表情が浮かんでいた。
有博は私の頬に触れようと手を伸ばし、低くやわらかな声で言った。
「麗奈、雨宮さんはうちの部署に入ったばかりの新人だよ。今日、プロジェクトで少しトラブルがあって、手を貸しただけなんだ」
身に覚えのないことで疑われた、とでも言いたげな顔だった。
その表情も、声の震わせ方も、あまりにも自然だった。
あの写真をこの目で見ていなかったら、私のほうが疑い深くなっているのだと思ってしまったかもしれない。
有博は私を抱き寄せようとする。声はさっきよりもさらにやわらかく、まるで機嫌を損ねた子どもをなだめるみたいだった。
「結婚が近いから、不安になってるんじゃないか?
変なこと考えるなよ。十五年も一緒にいたんだ。俺のこと、信じてくれよ」
すぐ目の前にある有博の顔を見ながら、私は反射的に彼を押し返していた。
その動きに、有博の目がわずかに揺れた。
その奥に浮かんだ傷ついた色が、さらに濃くなった。
「麗奈、本当にどうしたんだ?誰かに何か言われたのか?」
あのパソコンを取り出して、見たくもない証拠をすべて彼に叩きつけようとした、そのときだった。
テーブルに伏せて置かれていた有博のスマホが、もう一度短く震えた。
今度はメッセージの通知だった。
有博がとっさに手を伸ばす。
けれど、それより先に、私は画面に浮かんだカレンダーの通知を見てしまった。
【今日17時、『ひとすじ』受け取り】
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
『ひとすじ』は、私が初めて売った絵の題名だった。
大学に入ったばかりの頃、その絵は学内ギャラリーに飾られていた。けれど足を止める人はほとんどいなくて、誰にも見向きもされなかった。
それでも展示期間の終わりに、名前も知らない買い手が現れ、その絵を買ってくれた。
ずっと後になってから知った。
その買い手が、有博だったのだと。
有博はその絵を、私たちがこれから暮らすはずだった新居に飾った。
そして、絵の隅に入った私の拙いサインを指さしながら、笑って言った。
「俺が結婚するのは、麗奈だけだ」
あの絵は、私たちの恋の始まりだった。
有博が私に誓ってくれた、たった一つの、ひとすじの恋だった。
私が通知を見てしまったことに気づいたのだろう。有博の顔に、一瞬だけまずいという色がよぎった。
けれどそれもすぐに、困ったような優しい笑みに変わる。
有博はスマホを私に差し出し、その予定のメモ欄を開いて見せた。
そこには、こう書かれていた。
【麗奈の結婚指輪。『ひとすじ』をモチーフに、愛を込めて】
有博は小さく息をつくと、背後からそっと私を抱きしめた。顎が、私の肩にやわらかく触れる。
「本当は、結婚式の前日に渡して驚かせるつもりだったんだけどな。先に見つかっちゃったか。
フランスのデザイナーに頼んで、『ひとすじ』の構図を指輪のデザインにしてもらったんだ。麗奈、俺たちの指輪は、世界に一つだけなんだよ」
有博の声は、やけにやわらかかった。
温かい息が、耳元をかすめる。
「もう怒らないでくれよ、な?雨宮さんにしつこく話しかけられたのは認める。でも、俺はちゃんと断った。
俺には、麗奈しかいないんだよ」
少し間を置いてから、有博は私の額にそっと唇を落とした。
「指輪、受け取ってくる。外は寒いし、麗奈は家で待ってて。すぐ戻ってくるから」
私は彼の腕の中からそっと身を離し、自分でも驚くほど静かな声で言った。
「行ってらっしゃい」
有博が出ていったあと、私はすぐに自分のスマホを手に取り、フリマアプリの取引履歴を開いた。
出品者の名前は、雨宮日菜。
住所は、市の西側にある高級マンションだった。
かつて、有博はあのマンションの広告を指さして、私に言ったことがある。
「麗奈、ここに部屋を買ったんだ。これからはそこで、落ち着いて絵を描けるよ」
あのときの私は胸がいっぱいで、それもまた、私たちのこれからを形にしたものだと思っていた。
けれど今思えば――それがいちばん皮肉だった。
私はタクシーを呼び、その住所を伝えた。
三十分後、マンションのエントランス前で降ろされた。
すぐに、有博の見慣れた黒いカイエンが目に入る。
中には入らず、私は通りの向かい側の暗がりに身を潜めた。
やがてエントランスの自動ドアが開く。
有博が、小柄な女を連れて外に出てきた。
顔を見た瞬間、写真に写っていたあの子だとわかった。
日菜は親しげに有博の腕に絡みつき、ほとんど体を預けるように寄り添っている。
そのまま背伸びをして、有博の頬に軽くキスをした。
有博はそんな日菜を見下ろしながら、口元にやわらかな笑みを浮かべていた。
それは――十五年間、私だけに向けてくれていたはずの顔だった。
手足の先から、じわじわと冷えていった。
それでも私は、いつの間にかスマホのカメラを二人に向けていた。
第3話
胃の奥から、また吐き気がこみ上げてきた。
写真を見たときとは比べものにならなかった。
日菜は有博を見上げ、キスをせがむように唇を近づけた。
有博は彼女を押しのけるでもなく、困ったように笑って、人差し指でその額を軽くつつく。
「やめろ。誰かに見られるだろ」
日菜はますます有博の腕に絡みつきながら、わざと甘えた声で言った。
「見られたっていいじゃない。麗奈さん、あなたのこと大好きなんでしょ?たとえ知ったって、どうせ私が誘惑したんだって思うだけよ」
その言葉に、有博の表情がぴたりと止まった。
「最初に言っただろ。俺には背負うべき責任があるんだ。
麗奈と結婚するのは最初から決まってる。それは変わらない」
日菜は不満そうに唇を尖らせると、小さなバッグから上品なベルベットの箱を取り出し、有博の前に差し出した。
「もう、怒らないでよ。麗奈さんには迷惑かけないって約束するから。ねえ、見て。何を用意したと思う?
私たちの指輪も、『ひとすじ』って名前にしようよ」
有博の顔が、一瞬だけこわばった。
けれど日菜を見つめたあと、結局、彼は笑った。
「ほんと、お前には敵わないな」
私は、有博がその指輪を受け取り、左手の薬指にはめるのを黙って見ていた。
その指輪は、さっき有博が私に語っていた、『ひとすじ』をモチーフにした結婚指輪と、驚くほどよく似ていた。
十五年分の想いの奥に残っていた、最後のぬくもりまで。
その瞬間、きれいに消えた。
私は最後までその様子を録画すると、スマホをしまった。
そして二人に背を向け、その場を離れてタクシーを拾った。
家に戻っても、明かりはつけなかった。
暗闇の中、私はソファに座ったまま、あの動画を何度も繰り返し再生した。
有博があの指輪をはめた瞬間、顔をよぎった一瞬のためらいと――やがて迷いを手放したような表情。
やはり、すべて偶然なんかじゃなかった。
あのパソコンも、あの壁紙も、すべて日菜が少しずつ仕掛けていた罠だった。
婚約者である私に、その顔を見せつけるために。
そして――すべて彼女の思い通りになった。
私の世界は、十五年分の想いごと、跡形もなく崩れ落ちた。
その動画もまとめて美里に送ったあと、私は何事もなかったかのように過ごしながら、婚約式の日が来るのを静かに待った。
有博は後ろめたさでもあったのか、前にも増して私に優しくなった。
けれど、その優しさが、たまらなく気持ち悪かった。
婚約式の前の晩、有博は上機嫌な様子で帰ってきた。
手にはギフトボックスを持ち、いつもと同じやわらかな笑みを浮かべている。
「麗奈、こっち来て。ドレスをオーダーしたんだ。明日これ着た麗奈を見るの、ずっと楽しみにしてたんだ」
そう言って有博は得意げに箱を開けた。
中に入っていたのは、シャンパンカラーのマーメイドラインのロングドレスだった。
裾には細かなラインストーンが散りばめられ、灯りを受けてやわらかくきらめいている。
有博はそのまま片膝をつき、もう一つのベルベットの箱を開いた。
中にはダイヤモンドの指輪が収まっていた。
重なり合う繊細なラインは、『ひとすじ』の構図そのままだった。
有博は片膝をついたまま、私を見上げた。
その目は、まるで本当に私だけを見ているみたいだった。
「これが、俺たちの『ひとすじ』だ。俺の気持ちと同じで、ずっと変わらない。
明日が終われば、麗奈は俺の妻になる。ずっと、この日を待ってた」
声には、ほんのわずかな緊張が滲んでいた。指先もかすかに震えている。
私は、有博の瞳に映る自分を見つめた。
そこにいたのは、これからを疑いもせず信じていた私ではない。
十五年分の想いが、すっかり冷めきってしまった私だった。
私は手を差し出さなかった。
ただ静かに有博を見下ろし、その目に浮かんでいた期待が少しずつ消えていき、やがて不安に変わっていくのを見ていた。
有博は不安そうに、私の名を呼んだ。
「麗奈?どうした?気に入らなかったか?」
私はゆっくりと首を横に振った。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「ううん、とても気に入ったわ」
有博はほっとしたように、小さく息をついた。
そして私の手を取って、指輪をはめようとする。
けれど私は静かに身を引き、指輪の箱だけを受け取った。
絡み合うラインを見つめているうちに、ふいに笑みがこぼれる。
「ねえ、もし明日、私が式から逃げたら……どうする?」
第4話
「何をばかなこと言ってるんだ?」
有博は呆れたように笑って、私の髪をくしゃりと撫でた。
「麗奈が逃げたら、世界中どこにいたって見つけ出すよ。二度と離れられないように、俺のそばに置いておく」
私は目を伏せ、浮かびかけた笑みを隠した。
「有博、もし……もし私が、あなたを裏切るようなことをしたら、許してくれる?」
有博の顔から、笑みが消えた。
彼は両手で私の頬を包み、まっすぐ自分のほうを向かせる。その表情は、怖いくらい真剣だった。
「そんなこと言うな」
指先が、私の頬をゆっくりとなぞる。
「麗奈、俺たちの間にそんなの必要ないだろ。
麗奈が俺を裏切るはずないし、俺も絶対そんなことしない」
有博は、少しの迷いもなくそう言った。
あまりにも真剣で、あまりにもそれらしい声だった。
私は思わず笑いそうになる。
本気でそう思っているのか。
それとも――うまい演技で、ただそういう顔をしているだけなのか。
私はそれ以上何も言わなかった。
ただ有博に抱きしめられるまま、変わらないはずのぬくもりを、どこか遠く感じていた。
婚約式の当日。家を出る前に、私はスマホを取り出して美里に最後のメッセージを送った。
【予定どおりに】
会場は、にぎやかで和やかな空気に包まれていた。
両家の両親をはじめ、親しい親戚たちが顔をそろえていた。
有博の母は私の手を取り、嬉しそうに頬を緩めた。
「麗奈ちゃん、本当にますます綺麗になったわね。こんな素敵な子にお嫁に来てもらえるなんて、有博は本当に幸せ者だわ」
私は微笑みながら、花嫁になる幸せそうな人を演じていた。
有博は私の隣に座り、さりげなく料理を取り分けてくれる。ときどき耳元で何かを囁いてきて、そのたびに両家の親たちは微笑ましそうにこちらを見守っていた。
食事が半ばを過ぎた頃、有博の父が軽く咳払いをして立ち上がった。
そろそろ、私たちの正式な結婚式の日取りを発表するつもりなのだろう。
全員の視線がそちらに集まった、そのときだった。
有博のスマホが、不意に震えた。
有博は画面を一瞥し、ほんのわずかに眉を寄せた。けれどすぐに私へ微笑みかけ、声を落として言った。
「会社で少し急ぎの用件が入った。電話だけしてくる。すぐ戻るよ」
そう言い残して、有博は足早に会場を出ていった。
扉が閉まったのを確認してから、私は静かに立ち上がる。
周囲の視線を受けながら、思い出の映像を流すはずだったスクリーンの前まで歩いていった。
スマホを接続し、美里が作ってくれた動画を再生する。
次の瞬間――映像が流れ始めた。
さっきまで和やかだった会場の空気が、一変した。
有博の母が息を呑む音が聞こえた。
視界の端で、私の両親の顔からすうっと血の気が引いていくのが分かる。
私は震えそうになる指を押さえ込みながら、マイクを手に取った。そして、会場の隅々まで届くよう、はっきりと告げた。
「皆さま、申し訳ありません。本日の婚約式は、ここで取りやめにさせていただきます」
そう言ってマイクを置くと、全員の視線を浴びながら背を向け、この息の詰まるような会場をあとにした。
廊下の突き当たり、窓辺にもたれている有博の姿が目に入った。
彼は電話の向こうの日菜を、低い声でなだめていた。
「はいはい、胃が痛いだけだろ。婚約式が終わったらすぐそっちに行くから。泣くなよ、日菜」
電話が切れるより先に、乾いた音が廊下に響いた。
有博の頬に平手打ちを食らわせたのは、彼の父だった。
有博は何が起きたのか分からない様子で固まり、頬を押さえたまま、信じられないという顔で父を見上げた。
次の瞬間、有博の父は怒りで体を震わせながら彼を指さした。
「この大馬鹿者が!今すぐ中へ戻れ!自分が何をしでかしたのか、その目で確かめてこい!」