3年介護したのに妹扱い?私は海外へ消える

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3年介護したのに妹扱い?私は海外へ消える

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東都でも名の知られた名家の御曹司である斉藤弘樹(さいとう ひろき)は3年ぶりにようやく歩けるまで回復した。その快気祝いとして、仲のいい友...

Chương (1)

第1章

東都でも名の知られた名家の御曹司である斉藤弘樹(さいとう ひろき)は3年ぶりにようやく歩けるまで回復した。その快気祝いとして、仲のいい友人たちが会員制のラウンジでささやかなパーティーを開いていた。 石田楓(いしだ かえで)は入口の前に立ち、心を込めて選んだプレゼントを抱えたまま、ドアに手をかける。そのとき、中から弘樹と仲間たちの話し声が聞こえてきた。 「弘樹、楓ちゃんてほんとできた子だよな。この3年間、ずっとお前に付きっきりだったんだろ?」 「だよな。毎日マッサージして、リハビリにも付き添ってさ。夜だって、お前のことを心配して、ちゃんと眠れてなかったんじゃないか?あれは簡単にできることじゃないぞ」 「ああ、楓には感謝してる」弘樹は、落ち着いた声でそう答えた。 その一言に、楓の胸がふっと温かくなる。 しかし、次の瞬間。「でさ、結局どうするんだ?楓ちゃんとは、結婚するつもりなのか?」 第1話 東都でも名の知られた名家の御曹司である斉藤弘樹(さいとう ひろき)は3年ぶりにようやく歩けるまで回復した。その快気祝いとして、仲のいい友人たちが会員制のラウンジでささやかなパーティーを開いていた。 石田楓(いしだ かえで)は入口の前に立ち、心を込めて選んだプレゼントを抱えたまま、ドアに手をかける。そのとき、中から弘樹と仲間たちの話し声が聞こえてきた。 「弘樹、楓ちゃんてほんとできた子だよな。この3年間、ずっとお前に付きっきりだったんだろ?」 「だよな。毎日マッサージして、リハビリにも付き添ってさ。夜だって、お前のことを心配して、ちゃんと眠れてなかったんじゃないか?あれは簡単にできることじゃないぞ」 「ああ、楓には感謝してる」弘樹は、落ち着いた声でそう答えた。 その一言に、楓の胸がふっと温かくなる。 しかし、次の瞬間。「でさ、結局どうするんだ?楓ちゃんとは、結婚するつもりなのか?」 個室は静まり返り、冷たい空気が流れた。 ドアにかけられた楓の手は固まり、動悸が早くなる。まるで判決を待つ被告人のような気分で、息を潜めた。 長い沈黙の後、弘樹が淡々と口を開いた。「楓は妹みたいな存在だから」 「妹だって?お前を3年も支えてくれたんだぞ!弘樹、まさか、まだ松本さんを引きずってるんじゃないだろうな? あの女はお前が倒れた時、何も言わずに消えたくせに、お前が回復したのを知ったら、ふらっと戻ってくるような奴だぞ?お前が誰を好きになろうが構わないけど、あの女だけはやめとけよ!」 しかし、弘樹は何も言い返さない。 楓の心臓は、まるで誰かに握り潰されたかのように痛んだ。 その沈黙こそが、弘樹の答えだろう。 3年もそばにいれば、いつかは想いが通じると信じていた。しかし、彼の心の中には、ずっと別の誰かがいたようだ。それも、彼自身を置いて去っていった人が…… 3年前、弘樹は輝かしい成功への階段を登るエリートだった。 名のある大学を卒業し、家業を引き継いだ。さらに、趣味はスキーや乗馬。極め付きは、神に作られたような容姿だった。 一方の楓は、斉藤家に経済的援助をしてもらっていた、苦学生に過ぎなかった。 楓が弘樹を初めて見たのは学校の表彰式で、舞台上に立つ彼は、とても凛々しく、手が届かない存在だと思ったことを、今でも覚えている。 最後列に座っていた楓は、奨学金の書類を握りしめ、拍手一つするのさえ、恐れ多かった。 その頃、弘樹の横にいたのは名家の娘で容姿端麗な学校のマドンナ、松本結衣(まつもと ゆい)だった。 誰もが、まるで映画の主役みたいに、お似合いな二人だと言った。 しかし、あの事故がすべてを変えた。 弘樹は脊椎を損傷し、医師から二度と立てないかもしれないという診断を下された。 しかし、結衣は病院へ顔も見せず、ただ一方的に別れを告げるラインを送って姿を消したのだった。 星のように輝いていた斉藤家の御曹司は、一晩でどん底へ突き落とされた。 それからというもの、弘樹は暴力的になり、自傷行為を行うほどまでになってしまった。 彼の両親も泣くばかりで、途方に暮れていた。 そこで立ち上がったのが、楓だった。 弘樹の車椅子の前にかがみ込み、楓は静かに言った。「大丈夫、きっと良くなるから。私がずっとついてる」 それからの3年間、楓はあらゆるマッサージ技術を独学で学び、弘樹が突発的に死を選ばないよう、1日2時間睡眠で、彼を見守り続けた。 弘樹が感情を抑えきれず、椅子を振り上げて自分の足に叩きつけようとした時も、楓は迷うことなく飛び出し、その一撃を真正面から受け止めた。 1年、また1年と寄り添ううちに、楓は弘樹にとって欠かせない存在となった。 皆が言った。弘樹は、楓がいなければ眠ることもできない、と。 だから、弘樹が回復した今、二人は結婚するのだろうと誰もが思っていた。 楓自身も、そう夢見ていた。 しかし、今は弘樹が誰を想っているかなど、痛いほどわかった。 弘樹が回復し、本命の結衣が戻ってきた以上、「妹」という役割の自分は身を引くしかない。 楓は深く息を吐き、個室のドアを押して入る。 談笑していた声が止まり、弘樹の仲間たちがどこか後ろめたそうに楓を見つめた。 「楓ちゃん?いつ来たの?」一人が探るように尋ねる。 「たった今来たとこだけど、どうかした?」楓は何も聞いてないかのように笑顔を作り、プレゼントを弘樹に差し出した。「回復おめでとう!治ってよかったね」 弘樹が受け取ろうとしたその時、またドアが開いた―― そこには、目を潤ませた結衣が立っていた。「弘樹、治ったんだね……本当、よかった……」 その場の空気が一気に凍りつく。 「なにしに来たんだよ?弘樹が倒れたって知ったら我先に逃げたくせに。よく来られたな」 そう言われた結衣は、耳まで真っ赤にして俯き、プレゼントを弘樹に渡すと、そのまま部屋を出ようとした。 しかし、弘樹が結衣の腕を掴む。「せっかく来たんだ。そんなにすぐ帰ることはない」 全員が言葉を失い、申し合わせたかのように楓の顔を見た。 楓は笑みこそ崩さなかったが、掌には爪が深く食い込んでいた。 結局、この3年という時間も、結衣のたった一粒の涙には勝てないのだ。 それからの快気祝いは、かなり息が詰まるものとなった。 弘樹の仲間たちは故意的に結衣を無視し、楓と弘樹をくっつけようとした。 「楓ちゃん。弘樹のリハビリの時、ずっと毎日マッサージしてくれてたんだよな?」 「じゃなかったら、誰ができるんだよ!楓ちゃんのマッサージはプロ並みだし、他の奴が触ると弘樹は怒り出すんだから」 楓は顔を伏せ、結衣からの嫉妬混じりの視線に気づかないふりをする。 弘樹は一言も発さなかったが、ずっと結衣を気にしているのが見てとれた。 しばらくすると、ゲームをしようということになり、最初に負けた結衣は、知らない男の連絡先を聞くという罰を受けることとなった。 結衣が助けを求めるような目で弘樹をチラチラと見る。 しかし弘樹は手元のスマホに視線を落とし、気づかないふりを通した。 結衣は唇を噛み締め、意地になって席を立った。「別にどうってことないんだから!」 そう言って部屋を出て行った結衣に、楓は視線を向ける。すると、結衣は反対側の個室で男たちに囲まれていた。 酔った一人が結衣の手首を強引に引き寄せている。「別に連絡先は教えてやってもいいから、ちょっと触らせてくれよ?」 「やめて!放して!」結衣が悲鳴をあげた。 その瞬間、弘樹が猛然と立ち上がり、廊下を駆け抜けて男の顔に一撃を食らわせた。「死にてえのか?」 現場は修羅場と化した。 「おい、弘樹!やめろよ!」仲間たちも止めに入る。 楓は真っ先に弘樹の体が心配になり、駆け寄った。「弘樹、やめ……」 しかし、楓の言葉が終わらないうちに、弘樹の手が楓を突き放した。「どけ!」 ドン! 足を滑らせた楓の体は、階段を転がり落ち、後頭部を強打した。温かな液体がこめかみを流れ、世界が真っ赤に染まっていく。 必死に体を起こそうとしたとき、目に入ったのは、結衣を抱えて出ていく弘樹の後ろ姿だった。 彼は一度たりとも、後ろを振り返らなかった。 窒息しそうなほどの痛みが、胸を襲う。 突然、ある時の記憶を思い出した。 自暴自棄になった弘樹が、椅子を彼自身の足に叩きつけようとした時、楓は咄嗟に自分の体で彼の脚を庇った。弘樹の足は守ることができたが、その代償として、楓は肋骨を3本折ったのだった。 すると、弘樹は目を真っ赤にして、楓を怒鳴りつけた。「俺の足はもうだめになったんだよ!だから、壊れたって同じだ!それなのにお前は……こんなことして!何が大事かくらい、分からないのかよ!」 それでも楓は、頑なに弘樹の足を抱きしめながら、静かに言った。「分かってるよ。 私にとっては、あなたの足が大切だから、止めたの。 いつか、必ずまた歩けるようになるから」 その瞬間、これまでずっと気丈だった弘樹が、震える手で楓を抱きしめたのだった。「楓、俺から離れるなよ……」 人々は弘樹の快復を奇跡だと言った。 しかし、奇跡なんかではないと楓と弘樹だけが知っている。 ただ楓が、少しずつ少しずつ弘樹を奈落の底から引き上げてきただけのことだから。 しかし、今…… 光が見えた弘樹は、もう自分を必要としていない。 その時ふいに、楓のポケットのスマホが鳴った。 震える手で画面を見ると、「光希さん」との表示。 電話の用件は聞かなくともはっきりしている。 電話に出るのと同時に、弘樹のお母さん・斉藤光希(さいとう みつき)の冷静で無機質な声が聞こえてきた。 「楓さん。弘樹は今やグループの社長なの。だから、そばにいる女性も、それなりに釣り合う家柄や立場で、きちんと支えられる方じゃないと正直困るの…… 3年間、弘樹を支えてくれたことには感謝しているわ。だけど、うちは金銭的援助ということであなたに恩は返してきたつもりなの。だから、もう貸し借りはなしってことでいいわよね?」 電話の向こうの相手は、一瞬だけ沈黙した。自分が取り乱して問い詰めてくるのか、もしくは、すがるように懇願してくるとでも思っているのだろう。 楓は、弘樹が去っていった方を見上げる。がらんとした通路が、空回った自分の3年を嘲笑っている気がした。 「分かりました」楓は淡々と答えた。「もう二度と、弘樹の前には現れませんから」 第2話 楓は電話を切ると、そのまま病院へ向かった。 後頭部の傷は3針縫い、医師からは水に濡らさないようにと言われた。 ぼんやりとした頭で頷きながら診察室を出ると、病院の入り口近くに弘樹のマイバッハが停まっていた。 少し空いている窓の隙間から、結衣が弘樹に縋りついて泣いているのが見える。 「弘樹、あの時はごめんなさい……」結衣は声を詰まらせた。「許してなんて言わない。でも、離れなきゃいけない事情があったの。親に無理やり海外へ連れ出されて、スマホまで取り上げられて……ずっと連絡したくても、できなかったの」 弘樹は黙って座ったまま。その横顔は氷のように冷たい。 少し離れた場所からその様子を見ていた楓は、足が地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。 「で、今さら何のために戻ってきたんだ?」弘樹が低い声で言った。 顔を上げた結衣の頬を、涙が伝う。「あなたが忘れられなかったから……でも、今の弘樹には石田さんがいることは分かってる。だから、ただ遠くから見ているだけでいいの……」 影の中に立つ楓の前で、弘樹は長い沈黙のあと、そっと結衣の涙を拭った。 「責めないさ」と彼は言った。「楓のことは……妹としか思ってないから。お前が思うような関係じゃない」 すると、結衣は目を輝かせ、涙を拭い笑顔を見せた。「本当?」 弘樹が頷く。 嬉しさのあまり涙を流した結衣が、弘樹の胸に飛び込んだ。 楓は自嘲に満ちた笑いを浮かべ、くるりと背を向けるとA国大使館へ向かった。 …… 窓口の係員は書類を渡しながら「また2週間後にビザを受け取りに来てください」と言った。 礼を言って外へ出ると、もう日が暮れていた。 楓は弘樹が暮らす屋敷へと戻った。 この3年間、弘樹の世話をするため、ここに住んでいた。 かつて、楓はここを自分の家だと思っていた。玄関には彼女が選んだスリッパを並べ、リビングには彼女の多肉植物を飾り、キッチンには「胃腸に優しい食事リスト」を貼っていた。 しかし今、その痕跡をすべて自分の手で消していく。 荷物をまとめていた時、引き出しの奥底から写真が一枚出てきた。 それは、弘樹のリハビリが成功した日に撮ったものだった。珍しく笑っている弘樹の横で、楓も三日月目の笑顔を浮かべている。 何度も何度も指で触れたせいで写真はくたびれ、色も褪せていた。 じっと見つめたあと、楓はそれを静かにゴミ箱へ投げ捨てた。 もう夢から覚めなければいけない。 翌朝、弘樹から電話がかかってきた。 「胃薬を忘れたから、会社まで持ってきてくれ」寝起きのような声で、まるで昨日の出来事が何もなかったかのようにとても自然だった。 楓は数秒黙って、「わかった」と答える。 会社に着くと、高級そうな紙袋を持った結衣と偶然鉢合わせた。 「偶然ね」と、結衣が笑顔で言った。「弘樹にお昼持ってきたんだけど、一緒に行く?」 楓は答えることなく、結衣の後ろをついて社長室へと向かった。 書類を見ていた弘樹は、一緒に入ってきた二人を見て眉をひそめる。「なんで一緒なんだ?」 「偶然会ったの」そう言いながら、結衣は高級そうな紙袋から中身を取り出す。その瞬間、肉の脂っぽい匂いが社長室中に広がった。「有名な鉄板焼きのお店で、わざわざA5ランクの霜降りステーキをテイクアウトしてきたの」 楓はさっと顔色を変えた。「弘樹は胃が悪いので、脂っぽいものは食べられないんです」 しかし、弘樹は一度楓をちらりと見てから、ナイフとフォークを手にした。「たまには大丈夫だ」 テカテカと光る肉から、脂が滴り落ちる。 バッグの中の薬を握りしめる楓の手は、白くなるほど力が込められた。 すぐに弘樹の額から汗が吹き出し、ペンを持つ指先が少し震え始めた。 「弘樹?大丈夫?」結衣が心配そうに聞く。 「ああ」と弘樹は無理やり笑みを浮かべながら言った。「まだ少し仕事が残っているから、先に帰っててくれるか?」 楓は一度だけ弘樹を見つめると、テーブルに薬を置き、何も言わずに部屋を出た。 エレベーターで下に降りた時、楓は言わずにはいられなかった。「弘樹の胃はかなり悪いんです。だから、今後の食事は気をつけてあげてください」 しかし、結衣が突然笑った。「石田さん、自分の立場がまだ分かってないの? 弘樹にとって、あなたは身の回りの世話を焼かせるための便利な道具でしかないの。だから、そういう細かい気遣いが求められるわけ。でも私は違う。弘樹に愛されてるから、何も気にすることなんてないの」 結衣は楓に一歩近づき、唇を歪めた。「私が毒を与えても、弘樹はそれを喜んで食べる。そんなのも分からないかな?」 胸が引き裂かれるような痛みを感じ、楓の指先は震えた。 それが現実だってことは、痛いほど分かっている。 自分は3年間かかって、ようやく弘樹に少しだけ見てもらえるようになった。 だがそれに対し、結衣は何もせずとも、弘樹に毒さえも飲ませることができるのだ。 第3話 その夜、帰ってきた弘樹の顔は真っ青で、見ていられないほどだった。 キッチンでお茶を淹れていた楓は、物音に気づいて振り向いた。弘樹のあまりの顔色の悪さに、手から湯呑みを落としそうになった。 「薬、飲まなかったの?」楓は、引きつった声で尋ねた。 「あまりにもひどかったから、病院で胃洗浄を受けてきた」弘樹が、力なくソファに倒れ込む。冷や汗で前髪が濡れ、ひたいに張り付いていた。 楓の手は震え、湯呑みの中の熱いお茶が手の甲にはねてしまい、瞬時に赤くなった。 それほどまでに結衣が大切なのだろうか?胃洗浄をする羽目になっても、彼女が持ってきたものなら食べたいというのか? 楓は湯呑みにお茶を淹れて弘樹に渡すと、彼の隣に座り込んで胃を優しくさすってあげた。 お茶を飲み干し、柔らかな手に癒されたのか、弘樹は顰めていた眉をゆるめ、そのまま楓の肩に寄りかかって眠りについた。 今まで何度も見てきた、いつもの光景。 しかし今回、楓はその寝顔を見つめても、心が動かされることはなかった。 弘樹をゆっくりソファに寝かせ、ブランケットをかけてから、迷いなく階段を上る。 …… 翌朝、目を覚ますと、弘樹はすでに着替えを終えてリビングに立っていた。 「ずいぶん家の中のものが減った気がするんだが?」彼は怪訝そうに辺りを見回している。 楓が説明しようと口を開きかけたが、弘樹は聞かずに話をかえた。「結衣が今日個展を開いてるらしいから、俺たちも行くぞ」 「えっと……」 「結衣は帰国したばかりで友達がいないんだ」弘樹は楓の言葉を遮り言った。「少しでも人がいた方が喜ぶだろ?」 楓は唇を噛みしめ、ただ黙ってうなずくしかなかった。 個展の会場に着くと、弘樹を見つけた結衣が駆け寄ってきて、親しげに彼の腕を組んだ。 「弘樹!この絵を一番見てもらいたかったの……」と言いながら、結衣は雪山の絵を指さす。「海外にいた時に描いたものなんだけど、あの頃は、毎日毎日、弘樹のことばかり考えて……」 弘樹は黙って結衣の話を聞きながら、その絵を見つめていた。その瞳は深く、何を考えているのか分からない。 結局、弘樹はそこに並んでいた全ての絵を買った。 周囲からはひそひそと聞こえてくる―― 「昔から斉藤社長は松本さんを特別扱いしてるって聞いてたけど、やっぱり噂通り……」 「一度捨てられたのに、ここまで大切にするなんて、本当に愛してるんだね……」 結衣は勝ち誇ったように楓をちらりと見た。弘樹が支払いをしている隙に、楓の耳元で囁く。「聞こえた?長いことそばにいなくたって、弘樹の心には私しかいないの」 さらに声をひそめ、紅い唇をゆっくりと動かした。「まだあきらめられないのなら、もっとはっきりと思い知らせてあげようか?」 そう言うや否や、突然会場内に非常ベルが鳴り響いた。 「火事だ!逃げろ!」 人混みの中で揉みくちゃにされた楓は、転倒した拍子に足を強くひねった。激痛で目の前が真っ暗になる。 這い上がろうともがいたその時、人波を逆流して走ってくる姿が見えた。 「結衣!どこだ!」 弘樹の声には、楓がこれまで聞いたことのないほど取り乱した焦燥感が滲んでいる。 次の瞬間、弘樹は怯える結衣を見つけると、しっかりと抱きかかえ、彼女を守りながら真っ直ぐ出口へ駆けていった。 床に座り込んだまま、楓はその背中が濃い煙の中に消えていくのをただ見つめていた。 なんとか立ち上がったその瞬間、「ガンッ!」と大きな音が響く。 燃えた梁が、楓の頭に直撃したのだった! …… 目が覚めた時、目に映ったのは刺すような白い天井だった。 「楓!よかった。目を覚まして……」赤く腫らした目で、親友の二宮洋子(にのみや ようこ)が駆け寄ってきて、泣きじゃくる。「もう!死ぬほど心配したんだよ?あと一歩間違えてたら、命を落とすところだったんだからね!」 楓は首を動かそうとした。すると、その瞬間体中の骨が粉々になったような痛みが走る。 「ひ……弘樹は?」と、枯れた声で尋ねた。 洋子の表情が険しくなった。「あの男?今は松本さんに付きっきりだよ!肋骨を折った楓のことは放っておいて、かすり傷だけの松本さんを心配してるなんて、ありえなくない?」 楓はそっと目を閉じた。呼吸をするだけで胸が握りつぶされるように痛む。 「あの男、いくらなんでも最低すぎるよ!半身不随だった頃、誰が付きっきりで介護したと思ってんだろうね?寝る間も惜しんで、死なないように見守ってたのは誰だよって話!こんな重傷の楓がいるっていうのに……」 洋子は楓の手を握りしめ、声を詰まらせた。「楓、あの男はもう回復したっていうのに、いまだにあなたとの今後について何も話し合おうとしない。なのに、一体、いつまでそんなふうに自分を押し殺して耐え続けるつもりなの?」 病室には、モニターの音だけが虚しく響く。 長い沈黙の後、楓は静かに口を開いた。「海外に行く準備をしているの。 ビザが下りたら……」 彼女は天井を見つめたまま、今にも消えそうなほどか細い声で続ける。「すぐにでも行こうって思ってる」 言葉が終わるのとほぼ同時に、勢いよくドアが開けられた。 「行くって?」ドアの前で仁王立ちした弘樹の表情は冷え切っていた。「誰がどこに行くんだ?」 第4話 「別に、何も。洋子は仕事が忙しいから、もう仕事に行かなきゃって」楓は、弘樹の探るような視線を避けるように、そっとまつ毛を伏せた。 洋子は言いたいことがありそうな顔で一度楓を見やったが、結局は何も追及はしなかった。ただ弘樹をきつく睨みつけると、「楓。何かあったらすぐ連絡して」と言い、病室から出て行った。 病室のドアが閉まると、弘樹はベッドサイドまで歩み寄り、申し訳なさそうに口を開く。「あの時は人が多すぎて、お前の姿が見えなくて……」 「気にしないで」楓は淡々と彼の言葉を遮り、ベッドサイドにある水筒に手を伸ばした。 楓が体を少し起こすと、病院服の襟元がはだけて、鎖骨の下の生々しい火傷の跡が見えた。 弘樹の瞳孔が小さく震える。「怪我……そんなに酷かったのか?煙を少し吸い込んだだけと聞いていたんだが」 楓は視線を落とすと、何事もなかったかのように襟元を直した。「たいしたことないから」 弘樹は眉をひそめた。「怪我がこんなに酷かったなんて……てっきり煙で意識を失っただけかと」 楓は唇の端を歪ませる。 弘樹に何がわかる? 彼の目には結衣しか映っていないのだから、自分の怪我なんかに気づくわけがないのに。 楓は黙って、水を一口飲む。 「この数日は、俺が面倒をみるよ」弘樹が急に言い出した。 「大丈夫」楓は首を振った。「忙しいでしょ?私のことなんて気にしないでいいから」 弘樹が何かを言い返そうとした時、スマホが鳴った。 「弘樹……」電話の向こうから、結衣の泣きそうな声が聞こえる。「手がすごく痛いの……先生が傷口から感染しているかもしれないって……」 弘樹の表情が瞬時に揺らいだ。 楓はそんな彼を見つめて、小さく微笑んだ。「行ってあげたら?」 「俺は……」スマホを握りしめた弘樹が、険しい顔になる。「やっぱり、介護に慣れてない俺じゃなく、看護師にお願いすることにするよ」 楓はただ頷いた。「うん」 弘樹が慌ただしく去って行き、ようやく病室に静寂が戻った。 楓は天井を見つめ、ふと笑みをこぼす。 面倒をみるなんて言ったくせに、結衣の一言でためらいもなく行ってしまった。 あの火事の時と同じだ。ためらうことなく結衣のもとへ走り、自分の方なんか一切向くことはない。 胸の奥が張り裂けるほど痛み、ゆっくりと目を閉じた。 守られることのない約束など、最初から信じるべきではなかった。 …… 退院の日、弘樹が自ら迎えに現れた。 「夜にオークションがあるから、一緒に行こう」と、彼は新しく買ってきたコートを楓に差し出す。 楓は思わず断ってしまった。「いらない……」 「まだ怒っているのか?」楓がまだ機嫌を直していないと思ったのか、弘樹は軽く眉を寄せた。「本当にあの時は見えなかったんだ。でも、お前が出てきていないとわかって、すぐ救助に向かわせたんだから」 楓は何か言おうと思ったのだが、結局は黙ってコートを受け取った。 車に乗り込んで初めて、楓は結衣も一緒であることを知った。 「結衣も行きたがっていたから、連れて行くことにしたんだ」弘樹が何気なく言った。 楓は何も言わず、後部座席に静かに座る。 道中、結衣は終始楽しそうに、昔の話や留学中の思い出話を弘樹に語っていた。弘樹も、多くは語らないものの、結衣への相槌はとても自然だ。 窓の外を流れる景色を見つめながら、楓は邪魔をしないようにと沈黙を保つ。 オークション会場でも、結衣が少しでも気になった商品は弘樹がことごとく落札し、彼女に贈っていた。その豪快な振る舞いは、たちまち周囲の注目を集める。 「あれ、斉藤社長じゃないか?同伴者に随分と大盤振る舞いだな」 「3年間尽くしてくれた彼女さんを大事にしてるって噂、本当だったんだね」 「いや、あの人、噂の石田さんじゃない。前、斉藤社長を捨てたっていう……」 周囲は結衣のことを楓だと思い込んでいた。 それを耳にした弘樹は、はっと我に返り、楓の方を向いて聞いた。「何か欲しいものはあるか?」 ちょうどその時、壇上にサファイアのネックレスが運び込まれた。照明を浴びたそれは、深海を思わせる幽かな青い光を湛えている。 楓の視線が、無意識のうちに釘付けになった。 弘樹はすぐに札を掲げた。「2億!」 「このネックレスには逸話があるの」結衣が急に話し始める。「海外のある王様が王妃に贈った愛の証でね。変わらぬ忠誠と、死ぬまで揺るがない愛を意味しているんだって」 彼女は意味ありげに楓を一瞥して付け加えた。「石田さんにぴったりね」 弘樹の手が一瞬止まった。 落札したネックレスが届くと、彼はそれを躊躇いもなく結衣へ手渡した。「こっちの方がお前に似合う」 「いいのかしら?」結衣はわざとらしく迷うふりをした。「石田さんが欲しがってたやつじゃないの?」 「楓にはまた別のを買うから」弘樹は楓に視線を移す。「何が欲しい?」 楓は瞳を伏せ、自嘲めいた笑みを唇に浮かべた。 揺るがない愛を象徴するような贈り物を自分には渡せないのに、結衣には平然と贈れるらしい。 愛の有無とは、こんなにもわかりやすい。 「いらない」楓は静かに言った。 第5話 オークションが終わり、出席者たちがまばらに会場を去っていく。 弘樹が他の出席者と挨拶を交わしている隙に、結衣が楓に近寄ってきた。 「これでやっと分かった?」結衣は声を潜め、赤い唇を歪めて勝ち誇る。「弘樹が好きなのは私なの。そんなにしつこくつきまとっても、弘樹をうんざりさせるだけよ?」 楓は静かに結衣を見つめ、静かに言った。「望み通りになるはずですよ」 「どういう意味?」結衣が眉をひそめる。 楓は答えず、身を翻してその場を後にしようとした。 「きゃっ!」 背後から突然、叫び声が上がった。 楓が振り返ると、結衣が階段から転がり落ちるところだった。 「楓!」 弘樹の怒鳴り声が会場に響く。 彼は駆け寄ってくると楓を突き飛ばした。強い衝撃で、楓は壁に激しくぶつかった。 「結衣が何をしたっていうんだ?なんでこんなことするんだよ!」弘樹は怒りのあまり、楓を睨みつける。「今までのことで、文句があるなら俺に言えばいいだろ?なのに、なんで結衣を傷つけるんだ?」 冷たい壁に背を預け、楓は小さく、しかし毅然とした声で言った。「押してない」 「弘樹……」結衣が弱々しく弘樹の袖を掴む。「私の注意不足なだけだから……石田さんのせいじゃない……」 「庇う必要はない」弘樹は冷ややかに楓を一瞥し、結衣を横抱きにして背を向けた。「帰りは自分で何とかしろ」 楓はその場に立ち尽くし、結衣を連れ去る弘樹の背中を見つめた。 彼のスーツは結衣にかけられ、その仕草はまるで宝石を大切に守るかのようだった。 弘樹はいつだってそうだ。 結衣が涙を流せば、必ず悪いのは楓になる。 ポケットの中で、1週間後にA国へと飛ぶ航空券を触った。これは愛も痛みも全てから、自分を逃がしてくれるはずだ。 もう弘樹が自分を重荷に感じることもなくなる。 なぜなら、自分という重荷は彼の前から永久に消えてなくなるのだから。 弘樹の暮らす屋敷まではかなり距離があるうえに、会場は人里離れた場所にあったため、タクシーすら捕まらず、楓は歩いて帰るしかなかった。 半分ほど歩いたところで雨が降り出した。 冷たい雨が髪と服を濡らし、靴の中にも水が浸み込んでくる。一歩歩くごとに、まるで刃の上を歩いているように感じた。 帰宅した時には足の裏に血豆ができており、高熱まで出ていた。 なんとか薬を探し出し、応急処置を終えると、楓は倒れ込むように眠りに落ちた。 翌日、階下の騒がしさで目を覚ます。 階下に下りていくと、リビングには結衣の荷物が積み上げられていた。 すると、弘樹の声が聞こえてきた。「結衣の両親が海外に行ってしまったから、一人で住まわせるのは心配なんだ。だから、数日間はここで暮らしてもらう。いいか、変なことは考えるなよ?」 楓は手すりを掴み、青白い顔で下へ降りていきながら言った。「そんなことしないよ」 もう、二度とそんなことは考えない。 なぜなら、もう弘樹のことを好きでいることがないのだから。 第6話 結衣が家で暮らすようになってから、楓は弘樹の今まで見たことのない一面を見ることとなった。 彼は結衣の嫌いな食べ物を把握していて、もし結衣が眉をひそめれば即座に別の料理を準備する。 雷が鳴る夜、結衣が怯えていれば、すぐに駆け寄って宥めた。 以前、楓さえ立ち入ることを許されなかった書斎も、結衣には自由に出入りさせた。 弘樹の「愛する」とはこういうことらしい。 ここ数年のことが、ふと脳裏に蘇る。弘樹が躁うつの発作に襲われたとき、自分がそばにいるだけで自傷行為を思いとどまってくれた。それは、彼が自分を好きになり始めた証だと思って、密かに喜んでいたのに……今思えば、なんて滑稽だったのだろう。 ある日、楓が書斎の前を通りかかると、結衣が何かをいじっているのが目に入った。 半開きのドアの隙間から中を覗く。 結衣が手にしていたのは、弘樹が亡き祖母から受け継いだ大切なヒスイの置物だった。 それは結衣の手から今にも落ちそうで、見ているだけでひやひやした。 いてもたってもいられなくなった楓は、たまらず中へ飛び込んでヒスイの置物を奪い取る。 「何してるんですか?これは弘樹のおばあさんの形見なんですよ。そんな風に扱わないでください!」 「あなたに関係ないでしょ?」結衣がイラついた様子で奪い返した。そして、必死な様子の楓を見て、意地悪く口元を歪める。「そんなに大切なの?じゃあ……」 結衣はわざと指を開いた。 パリンッ。 ヒスイの置物は硬い床に打ちつけられ、無残にも粉々に砕け散った。 楓の心臓が凍りつく。 あれほどまでに弘樹が大切にしてきた、唯一の宝物だったのに。 「何してるんだ?」 弘樹の声がドアの外から聞こえた。顔を上げると、割れた欠片を凝視する彼の凍りついた表情が楓の目に映る。 「石田さんが落としたの」結衣はすぐさま口を開き、わざとらしく目を潤ませた。「私が手に取ってみていただけなのに、石田さんが急に突き飛ばしてきて……」 弘樹の瞳が、一瞬にして暗くなった。「楓、お前……」 「防犯カメラがあるでしょ?」震える声で楓は弘樹に訴える。「防犯カメラの映像を見れば、何があったのか分かるから」 一瞬にして、その場に緊張が走った。 結衣は表情をこわばらせ、仕方なさそうに口を開いた。「ごめんね、弘樹。私が落としちゃったの……もしかして、すごく大切なものだった?同じものを弁償するよ……」 信じられないことに、弘樹の怒りが瞬く間に消えていく。 彼は結衣の元へ歩み寄ると、彼女の手を握りしめた。「怪我はないか?」 呆然と立ち尽くす楓の目の前で、結衣の手を心配そうに確認する弘樹の姿に、えぐられるような激痛が心に走った。 そのヒスイの置物が弘樹にとってどれほど大切なものか、楓以上に知る者はいないだろう。 3年前、弘樹の母親の光希が誤って同じものを失くしたときのこと。 足の手術を終えたばかりだったにもかかわらず、弘樹は冬の極寒の中を3時間も探し回り、戻るなり激昂して部屋で荒れ狂ったのだった。 その時、彼と一緒に吹雪の中を這いずり回り、感覚が失われるまで庭中を探して、やっとそれを見つけたのは楓だったのに。 結衣によって砕かれた今、弘樹の関心はただ、結衣に怪我がないか、それだけだとは…… 楓は自嘲気味に笑みを浮かべた。 弘樹が結衣に向ける愛情はかなりのものらしい。 なのに、自分は弘樹が回復すれば一緒になれると、あんなにも純粋に信じ切っていたとは、なんと滑稽なことなのだろう。 あれほどの夜を、彼の苦痛に付き添い、この人と一生を添い遂げようと心に誓ってきたのに…… 弘樹の荒れ果てた心に寄り添いながら、いつかは共に笑える日が来ると、願ってきた日々すら、今はゴミ同然に思える。 どうやら、自分だけが夢を見ていたらしい。 だが、これでようやく目が覚めた。 もう大事にしてもらえないような気持ちに、これ以上自分をすり減らすつもりはない。 第7話 あの日以来、楓はほとんど自室に引きこもるようになった。 そんなある日の夕食の時。突然、結衣が腹痛を訴え、真っ青な顔をして弘樹の腕の中で倒れたのだ。 「どうしたんだ?」弘樹は動転し、すぐにかかりつけの医師を呼んだ。 診察を終えた医師は深刻な顔つきで言った。「毒物ですね」 屋敷内が一瞬で騒然となる。 使用人たちは怯えながら控え、執事は夕食の調理過程について尋問を始めていた。 「私、見たんです……」一人の若い使用人が震えながら口を開く。「石田さんがスープに何かを……」 弘樹の眼光が冷たく凍りついた。 彼は大股で楓に歩み寄ると、楓の手首を骨が砕けそうなほどの力で掴んだ。「あのヒスイの置物のことがあったから、結衣を殺そうというのか?楓、どうしてこんな人間になってしまったんだよ?」 楓は弘樹を見上げて、静かに言う。「私じゃない」 「まだ言い訳を?」弘樹は冷酷に言い放つと、使用人に命じた。「残ったスープを持ってこい」 楓は目を大きく見開いた。「何するの?」 「身をもって知れ」弘樹は楓の顎を掴み、氷のように低い声で言った。「やっていいことと悪いことを叩き込んでやる」 持ってきたスープは、弘樹の合図で強引に楓の口へ流し込まれた。 二人のボディーガードにしっかりと押さえつけられていたので、抵抗など無駄だった。 喉に注ぎ込まれた熱いスープで、楓はひどくせき込む。 毒の効果はすぐに現れた。 楓は激痛で床に這いつくばる。背中には冷や汗がびっしょりと浮かび、身体を丸めて震えながらも、楓は頑なに口を動かした。「私は毒なんか盛ってない……」 しかし、弘樹は楓を一切振り返りもしない。ベッドサイドで結衣に付き添い、丁寧に水を飲ませ、額の汗を拭いてやっている。その目は、底なしの優しさに満ちていた。 「弘樹……」結衣は弱々しく弘樹の手を握る。「石田さんのことを……」 「あいつなんかどうでもいい」弘樹は優しくなだめた。「お前はゆっくり休め」 遠のく意識の中、楓はひどい痛みで目の前が暗くなっていく。最後は、乱暴に救急車へと運び込まれた記憶だけが残った。 一晩中、病院のベッドにいたが、誰一人として面会に来ることはなかった。 翌日戻った屋敷は、ひっそりと静まり返っていた。 すると、スマホに結衣から一枚の写真が送られてきた。 どこまでも広がる海を背に、弘樹が結衣の腰に手を回し、カメラに向かって眩しいほどの笑みを向けている。 【気分転換に海に連れてきてくれたんだ。驚かせてしまったから、ゆっくりしろって】そんなメッセージも添えられていた。 楓は静かに画面を閉じると、荷造りを始めた。 スーツケースに手をかけた瞬間、ここには3年間もいたのに、自分のものがかなり少ないことに気づく。 24インチのスーツケース一つで、自分のものはすべて収まってしまった。 もとより、ここに自分の居場所などなかったようだ。 まあ、弘樹の心の中に入り込んだことさえ、一度もなかったのだから、当然といったら当然かもしれない。 「自分が間違ってたって認めるか?」 その時、突然後ろから弘樹の声がした。振り返ると、スーツ姿の彼が入り口に立ち、険しい表情でこちらを見下ろしていた。 「うん、私が間違ってた」楓は静かに答える。 あなたを好きになったのが間違いだった。 あなたにこんなにも長く、執着したのが間違いだった。 弘樹の表情がわずかに和らぐ。「分かればいいんだよ。早く着替えろ。パーティーに行くぞ」 「パーティー?」楓はきょとんとした。 「今日が俺の誕生日だということも忘れたのか?」弘樹はますます眉を寄せた。忘れているなどありえないと言いたげな、呆れ混じりの口調だった。 そうだ、今日は弘樹の誕生日だ。 いつもなら、ケーキを用意し、贈り物を吟味し、手配のすべてを完璧にこなしていたはずだった。 彼の好みも、苦手な飾りつけも、毎年何を願っていたかも、すべて知っていたから。 それなのに、まさか忘れていたとは…… 「先に行ってて」楓の声は聞こえないほど、小さかった。「着替えて、プレゼントを持ったら行くから」 「弘樹!」下から甘えたような結衣の声もした。「みんな待ってるよ!」 弘樹は頷くと、最後に楓をチラリと見て言った。「早くこいよ」 そう言い残し、くるりと背を向けて去っていった。足音も、次第に遠ざかっていく。 楓は一人立ち尽くし、彼の後ろ姿を見送りながら、自嘲気味に口角を上げた。 弘樹。今年の誕生日プレゼントは、私があなたの世界から完全に消えること…… 結衣とお幸せに。私も私自身を解放するから。 楓はまとめていたスーツケースを持ち、3年間過ごしたこの場所を最後に見渡すと、振り返ることなく歩き出した。 賑わう空港の搭乗口で、最後のメッセージを弘樹に送る。 【弘樹。私もう行くね。松本さんと末長くお幸せに】 そしてスマホの電源を切り、楓は搭乗口へと向かった。 3年間の片想いも、これでもうお終い。 これからは別々の道へ。もう二度と、交わることはないのだ。