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死んだはずの君は、他の子の父親に
私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。 婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。 ...
Chương (1)
第1章
私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。
婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。
しかも二人とも、私の誕生日に。
私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。
だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。
五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。
私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。
ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。
思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。
「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」
子どもは不満そうに頬をふくらませた。
改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。
「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」
パパ?
二人は死んでいなかった。
それどころか、子どもまでいたのだ。
「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」
親戚の子が言った。
その声に反応して、始が振り向いた。
そして、私を見た。
第1話
私の名前は、香村夏穂(こうむら かほ)。
婚約者だった小澤始(おざわ はじめ)が死んだ翌年、親友の駒井翔子(こまい しょうこ)も死んだ。
しかも二人とも、私の誕生日に。
私は昔から、周りにお姫様のように大切にされてきた。
だから二人が死んでから、いつしか「不幸を呼ぶお姫様」と呼ばれるようになった。
五年が過ぎても、私はずっと自分を責め続けていた。
私が誕生日なんて迎えなければ、二人は死なずに済んだのだろうか、と。
ある日、親戚の子の転校手続きで学校へ行った私は、始によく似た男を見かけた。
思わず追いかけると、その男は子どもの前にしゃがみ込み、叱っているところだった。
「美羽(みう)、また友達を叩いたのか?次やったら、おやつ抜きだぞ」
子どもは不満そうに頬をふくらませた。
改めてよく見てみると、この子は驚いたことに、どこからどう見ても翔子にそっくりだった。
「パパのばか!何もわかってない!先に意地悪してきたのは、あの子なのに!」
パパ?
二人は死んでいなかった。
それどころか、子どもまでいたのだ。
「夏穂お姉ちゃん、何見てるの?」
親戚の子が言った。
その声に反応して、始が振り向いた。
そして、私を見た。
私はその場に立ち尽くしたまま、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。
あの二人は、私のせいで死んだわけではなかった。
それを喜ぶべきなのか。
それとも、二人がいちばん残酷な形で私を裏切っていたことを、悲しむべきなのか。
どうしてなのだろう。
始は、私の幼なじみだった。
二十歳のときには、わざわざ名前を「始」に変えてまで、私に告白してきた。
彼はこう言った。
「過ぎ去ったものは、すべて序章にすぎない。俺たちの過去は恋の始まりで、これからの一生こそが本編なんだ」
あのときの私は、それが私たちの物語の始まりを意味しているのだと信じていた。
誕生日の前日、始は私にこう言っていた。
「夏穂、一生俺が守る。お前につらい思いなんてさせない」
けれど、いつだって私をいちばん傷つけるのは、ほかでもない彼自身だった。
いったい、いつから彼の心は私から離れていたのだろう。
私にはわからなかった。
そのとき、突然チャイムが鳴った。
死んだはずの親友、駒井翔子(こまい しょうこ)。その娘である美羽は、もう一人の生徒と一緒に慌てて教室へ戻っていった。
私はどうしていいかわからないまま、その場に立ち尽くしていた。
始が私に近づいてくる。
見つかった気まずさなど少しもなく、昔と変わらない慣れた口調で言った。
「夏穂、思っていたより早く気づいたんだな」
胸の奥に、じわりと苦い痛みが広がった。
私に知られることまで、彼の想定内だったのだろうか。
私は顔を上げて彼を見つめ、深く息を吸ってから尋ねた。
「いつから?」
始は少し考えるそぶりを見せた。
けれどその顔には、申し訳なさよりも、どこか他人事のような諦めが浮かんでいた。
「お前が翔子のために喧嘩した日かもしれない。守られている女も、案外悪くないと思ったんだ。
それとも卒業の日かな。翔子が着ていた、色褪せたシャツに惹かれたのかもしれない……」
始はわずかに目を細めた。
まるで年上の者が、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、落ち着いた口調だった。
「夏穂、人が次の瞬間に何を好きになるかなんて、誰にもわからないんだ。
俺だって昔は、金持ちのお嬢様なんて大嫌いだった。それなのに、お前を好きになっただろう」
残酷なほど率直に人を傷つけるのは、昔から始の得意なことだった。
私は胸の痛みを押し込め、さらに問いかけた。
「だったら、どうして直接言ってくれなかったの?どうして死んだふりまでして、隠れて結婚する必要があったの?」
始は、私がそう聞くことも読んでいたように、落ち着いた声で言った。
「俺はお前のことをよく知っているからだよ、夏穂。あの頃のお前はまだ、愛情と利益のどちらを取るべきか、ちゃんと考えられなかった。
騒ぎが大きくなれば、両家にとっても、翔子にとってもよくない。
でも今のお前なら、わかるだろう。そうでなければ、こうして俺の前に立っているはずがない。とっくに世間にばらしていたはずだからな」
何もかも、始の計算どおりだった。
私が黙って飲み込むことまで、彼には見透かされていた。
たしかに、私はもう騒がない。
けれどそれは、損得を考えられるようになったからではない。
私はもうすぐ死ぬからだ。
残された時間は、あと半年しかない。
だからこそ、残りの時間は大切なことにだけ使いたかった。
学校を出たあと、私はカフェで長いあいだ席を立てずにいた。
自分の病気のことを、どう両親に伝えればいいのか。
そのことばかりを考えていた。
夕闇が深まるころ、家の玄関先まで戻ると、中から女の子の笑い声が聞こえた。
不思議に思って立ち止まったそのとき、母の声がした。
「翔子、あと五分したら、美羽を連れて帰ってね。夏穂がもうすぐ戻るって言っていたから。
それに……五年前のことは、さすがにやりすぎだったと思うの。夏穂はこの五年間、ずっとつらそうだった。実の娘じゃないとはいえ、見ているこっちまで苦しくなるのよ」
父は深いため息をつき、重い声で言った。
「これから少しずつでも、償っていくしかないな」
翔子は穏やかな声で答えた。
「お父さん、お母さん、悪いのは私よ。夏穂には、できるだけ早く全部話すから」
その瞬間、いろいろなことが腑に落ちた。
どうして母はいつも、翔子も家に呼んで一緒に食事をしなさいと言っていたのか。
どうして母は翔子を見るたびに泣きそうな顔をして、こっそりお金を渡していたのか。
それから、家の中で時々見かけた、女の子が遊ぶような着せ替え人形のことも。
本当は、翔子こそが母の実の娘だったのだ。
翔子が死を偽り、子どもを産んでいたことも、両親はとっくに知っていた。
体の芯から冷えていくようだった。
父も母も、私が五年ものあいだ罪悪感に苦しんでいるのを、黙って見ていたのだ。
それなら、それでいい。
私が死んだあと、両親が悲しみすぎる心配をしなくて済む。
二人ももう、必死になって私を騙し続ける必要はない。
そう思って、私は主治医に抗がん剤治療を中止したいとメッセージを送った。
そのとき、不意に目の前のドアノブが回った。
第2話
ドアが開くより先に、私は玄関先から逃げ出していた。
顔を合わせる勇気なんてなかった。ただ何も考えず、外へ向かって走った。
公園まで来て、ようやく足を止めた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。私はその場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。
夜が深まっていく。
この世界にはもう、私を愛してくれる人なんていないのだと思った。
しびれた脚をさすりながら、私は迷いに迷った末、もう自分の居場所ではない「家」へ戻った。
父と母は、それぞれ気まずそうな顔をしていた。しばらく沈黙が続いたあと、とうとう父が口を開いた。
「夏穂。実は翔子は……死んでいないんだ」
二人は探るように私の顔色をうかがいながら、言葉を続けた。
「翔子は始くんと結婚している。子どももいるんだ」
私が黙ったままでいると、母の声が少し強くなった。
「翔子を責めないで。あなたと翔子は、生まれたときに取り違えられていたの。本当ならあなたが背負うはずだった苦労を、翔子が代わりに背負ってきたのよ」
母は私をなだめるように続けた。
「始くんのことは……つらいと思う。でも、あなたが香村家の娘であることは変わらないでしょう」
私は、それで満足するべきなのだろうか。
なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
責めることも、恨むことも、私には許されない。
泣きわめいて怒れるのは、愛されている人だけだ。私には、その資格がない。
私はただ、小さくうなずいた。
父も母も、少し意外そうな顔をした。私がここまで何も言わないとは思っていなかったのだろう。
「美羽ちゃんの学校、今の家からだと少し遠いの。だからしばらく、三人にはうちで暮らしてもらうことにしたから」
もう決まっている話だった。
その夜、始は翔子と美羽を連れて、この家に移ってきた。
みんなが嬉しそうだった。
家の中は、たちまち三人の荷物でいっぱいになった。
母はキッチンに立ち、忙しく手を動かしながら、私が見たこともないほどやわらかな笑みを浮かべていた。何度も翔子に声をかけている。
「翔子、ゆっくりでいいのよ。疲れたら休んで。あとはお母さんがやるから。あなたは小さい頃からずっと苦労してきたんだもの。思うだけで胸が痛いわ」
始はソファに座ったまま、玄関に立ち尽くす私を横目で見た。
「そんなところに立ってないで、こっちに座れ」
私は動かなかった。
二十年以上住んできた家なのに、突然、私だけがよそ者になったようだった。
夕食には、テーブルいっぱいに翔子の好物ばかりが並んでいた。
母は何度も翔子の皿に料理をよそい、それから美羽の頭をやさしく撫でた。
「美羽、たくさん食べなさいね。翔子は小さい頃、こういうものをあまり食べられなかったんだから」
その言葉は、まるで私に聞かせるためのもののようだった。
美羽は茶碗のご飯をつつきながら、ふいに顔を上げて私を見た。
「夏穂お姉ちゃん、どうして食べないの?私たちのこと、嫌いなの?」
その言葉で食卓は一瞬にして静まり返り、全員の視線が私に集まった。翔子は箸を置き、やわらかな声で取りなした。
「美羽、そんなこと言わないの。夏穂お姉ちゃんは、ちょっと食欲がないだけよ」
私が口を開こうとした瞬間、母が先に声を荒らげた。
「夏穂、三人がここで暮らすことも、ようやく受け入れてくれたんだと思ったのに。そんな顔をして、何が不満なの?
お願いだから、これ以上みんなを困らせないで。ね?」
箸を握る指先に力が入り、胸の奥が鈍く痛んだ。私は必死に首を横に振ったが、次の瞬間、激しく咳き込んでしまった。
父は小さくため息をつき、少し責めるような目で私を見る。
「夏穂、口に合わないなら、お母さんに何か別のものを作ってもらいなさい」
私は口元だけで笑い、ご飯をひと口かき込んだ。砂でも噛んでいるような気分だった。
「ううん。おいしいよ」
ふと視線を感じて顔を上げると、始がこちらを見ていた。
ほんの一瞬、その目が痛ましそうに揺れた。
夕食は、気まずい沈黙のうちに慌ただしく終わった。
やはり私は、ここにいるべきではないのだと思った。
部屋に戻って扉を閉めた途端、張りつめていた糸が切れた。
冷たいドアに背を預けると、胸の痛みがまた強くなり、私はその場にしゃがみ込んで、声を殺して泣いた。
スマホが震えた。主治医からのメッセージだった。
【香村さん、もう一度だけ確認させてください。本当に治療を中止されますか。今やめれば、残された時間はかなり限られます。治療を続ければ、少なくとも半年ほど延びる可能性があります】
私は長いあいだ画面を見つめた。
やがて指先を動かし、返信した。
【ありがとうございます。もう決めました。ここを離れることにします】
そのとき、ノックの音がした。
私は涙を拭い、扉を開けた。
始だった。
始は小皿に餃子をいくつかのせて、やさしい声で言った。
「夕飯、ほとんど食べていなかっただろ。お前、昔から焼き餃子が好きだったから」
私は受け取らず、静かに答えた。
「もう好きじゃない」
そう言って扉を閉めようとすると、始がドアに手をかけて止めた。
その拍子に、私のスマホが床に落ちる。
画面はまだ消えていなかった。
そこに表示されたメッセージを見た瞬間、始の目の色が変わった。
第3話
「出ていくのか?」
私は慌ててスマホを拾い上げた。
どうやら始の目に入ったのは、最後の一文だけだったらしい。
彼は私を見下ろし、もう一度、低い声で尋ねた。
「俺のせいか?」
私は思わず身を引き、冷たく答えた。
「違う。ただ、別の街へ気晴らしに行くだけ」
始はまだ何か言いたげだったが、私はその前に扉を閉めた。
翌日、部屋で荷物を整理していると、古い箱が出てきた。
中には始との写真と、昔、告白されたときにもらったネックレスが入っていた。そこには、始の名前が小さく刻まれていた。
あの頃の始の目には、私しか映っていなかった。あの頃の両親も、たしかに私を愛してくれていた。
胸の奥がきゅっと痛んだ。私はそれらを袋にまとめて、捨てに行くことにした。
部屋を出ると、美羽と鉢合わせた。
美羽は床にしゃがみ込み、積み木で遊んでいた。私を見るなり、不思議そうに首をかしげる。
「夏穂お姉ちゃん、それ、捨てるの?」
私はしゃがみ、美羽の頭をそっと撫でた。冷えきった指先が子どものぬくもりに触れ、ほんの一瞬、ぼんやりしてしまう。
「たいしたものじゃないよ。もう必要ないものだから」
美羽はぱちぱちと瞬きをして、私の顔をじっと見上げた。
「夏穂お姉ちゃん、私とママのこと、嫌いなの?」
始によく似たその顔を見ていると、胸の奥が少しだけやわらいだ。
「嫌いじゃないよ。美羽のこと、好きだよ。とても可愛いと思ってる」
「じゃあ、どうしていつも悲しそうなの?」
美羽は私の手を握り、不思議そうに首をかしげた。
「パパがね、夏穂お姉ちゃんは昔、お姫様みたいに大事にされてたって言ってたよ。おばあちゃんも、夏穂お姉ちゃんは小さい頃から可愛がられて、何でも持ってて、いちばん幸せなんだって」
お姫様みたいに。
その言葉が、胸に冷たく刺さった。
今の私には、皮肉にしか聞こえなかった。
みんな、そう思っているのだ。夏穂は、ずっと幸せに生きてきたのだと。
しかし、誰も、私がどれだけ傷ついているかなんて考えもしない。
涙がこみ上げてきて、私はそっと顔を背けた。美羽に泣き顔を見せたくなかった。
そのとき、始と翔子がこちらへやってきた。
美羽が私のそばにいるのを見ると、始はわずかに目を見開いた。
翔子はすぐに駆け寄ってきた。私が子どもの前で余計なことを言うとでも思ったのだろう。
翔子は慌てて美羽を抱き上げ、やわらかな声で言った。
「美羽、夏穂お姉ちゃんの邪魔をしないの。体調がよくないんだから、そっとしておいてあげて」
翔子は「体調がよくない」という言葉だけ、妙に強く言った。まるで、私が弱ったふりをして始の同情を引こうとしているのだと、遠回しに言っているようだった。
美羽は私を見て、気の毒そうに言う。
「ママ、夏穂お姉ちゃん、泣いてるよ。手もすごく冷たい」
始の視線が私の顔に向いた。赤くなった目元を見て、一瞬言葉を失った彼は、次の瞬間、私の手から袋を奪い取った。
中から写真とネックレスがこぼれ出る。
始の目がわずかに揺れた。
「これ、捨てるのか?」
私を見る彼の声は、かすれていた。
「うん。持っていても、もう意味がないから」
始は袋を強く握りしめた。怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。
「夏穂、本当に捨てるつもりなのか」
私は思わず薄く笑った。
「始、もう終わったことよ。私も前を向きたいの。いつまでも大事に持っている理由なんてないでしょう」
「前を向きたいって?」
始は苦く笑った。
「それで本当に前に進んでいるつもりなのか?こんなふうに全部投げ出して、平気な顔をして。今のお前を見て、俺が何も思わないとでも思ってるのか」
その言い方に、胸の奥がひやりとした。
けれど、私をこんなふうにしたのは、ほかでもない始ではないか。
私は何も言わず、ただ彼を見ていた。
胸の奥にかろうじて残っていたものまで、静かに冷えていく気がした。
翔子がそっと始の腕を引いた。
声はやさしいのに、言葉の端々に棘があった。
「始、もうやめて。夏穂は小さい頃から大切にされてきたから、急に私たちが家に入ってきたことを受け入れられなくても、無理はないわ。
私は平気よ。あなたと一緒にいられて、美羽と三人で暮らせるなら、何だって我慢できる」
私はもう、説明する気にもなれなかった。
そのまま家を出ると、すぐに始が追ってきた。
手首をつかまれたかと思うと、壁際まで引き寄せられる。
間近にある始の目には、隠しきれない罪悪感が揺れていた。
「夏穂、なぜそんな表情で俺を見つめるんだ?!昔のお前はこんなんじゃ……」
私は始を押し返した。
けれど、情けないほど力が入らなかった。
「始、今の私がどうだろうと、あなたには関係ない」
言い終えた途端、鼻の奥がつんと熱くなった。
次の瞬間、血がぽたぽたと落ちる。
慌てて手で押さえたけれど、血は指の隙間からにじんで止まらなかった。
始ははっと目を見開き、動揺した声で尋ねた。
「お前……病気なのか?」
第4話
私はすぐに首を振り、ごまかすように言った。
「最近、乾燥してるせいか、鼻血が出やすくて」
始がまだ何か言おうとしたそのとき、翔子が慌てて飛び出してきた。
「始、美羽の様子がおかしいの。アレルギーかもしれない……怖い、どうしよう」
始は私を一度だけ見て、すぐに家の中へ駆け戻った。
足音が遠ざかってから、私はこらえきれずに咳き込んだ。口元を押さえた手を開くと、指の間が真っ赤に濡れていた。
あの袋を処分したあと、私は病院へ行き、痛み止めを少し出してもらった。
主治医はもう一度、抗がん剤治療を勧めてきた。私は小さく笑う。
「治療しても、半年延びるだけですよね。それに、とてもつらいんでしょう。この数年、生きているだけで苦しかったんです。せめて最期くらい、少しでも楽でいたいんです」
主治医はしばらく黙って私を見つめたが、結局それ以上は何も言わなかった。
私はそのまま病院で一晩を過ごした。
翌日、家に戻ると、リビングではみんなが重い顔でソファに座っていた。
「夏穂、どうしてあんなことをしたの?」
母が目を赤くして怒鳴った。
もしかして、私が病気で、治療をやめたことを知ったのだろうか。
胸がざわついた。何が起きたのかわからないまま、私は一歩近づいて尋ねた。
「どうしたの?」
始が冷たい顔で、怒りを押し殺した声で言った。
「美羽は昨日、ピーナッツアレルギーで危なかった。
翔子もピーナッツアレルギーだって、お前も知っていたよな。それなのに、料理にピーナッツバターを入れたんだろ」
私は翔子を見た。
翔子は何も言わず、一瞬だけ目をそらした。
まさか私を陥れるために、自分の娘まで危険にさらすなんて思わなかった。
「私じゃない。そんなことしてない」
けれど、その短い否定は、母には言い逃れにしか聞こえなかったらしい。
母は勢いよく立ち上がると、私の頬を思いきり打った。
乾いた音が、リビングに響いた。
頬が熱を持ち、視界がぐらりと揺れる。私は床に崩れ落ち、喉の奥まで上がってきた血の味を、必死にのみ込んだ。
父が慌てて私を起こそうとしたが、母がそれを止めた。
「甘やかしすぎたのよ。人を傷つけておいて、まだしらを切るなんて」
涙がぽたりと床に落ちた。
母は私を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。
「こんなことになるなら、最初からあなたを育てなければよかった」
母は怒りに任せて家を出ていき、父もそのあとを追った。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
やがて翔子が私の前にしゃがみ込み、いかにも私を気遣っているような顔で言った。
「夏穂、美羽はまだ目を覚ましていないけど、心配しないで。あなたがわざとしたわけじゃないって、私はわかってるから」
始は目を腫らした翔子を抱き寄せ、やさしく慰めた。
「翔子、昨日の夜からずっと美羽についていたんだろ。先に少し休んでこい」
二人がいなくなってから、私はどうにか体を起こし、バッグから痛み止めを出して飲み込んだ。
「何の薬だ」
背後から始の声がした。
私は答えなかった。
始は近づいてくると、私の手首をつかんだ。そして、その細さに気づいたように目を見開く。
「夏穂……お前、どうしてこんなに痩せてるんだ」
けれど始はすぐにその動揺を押し殺し、怒りを含んだ声に戻った。
「美羽は何も悪くない。俺を恨んでいるなら、俺にぶつけろ。あの子を巻き込むな」
私だって、何も悪くない。
どうして誰も、それを見ようとしてくれないのだろう。
「恨んでない。あの子には何もしてない」
それだけ言って、私は部屋に戻り、必要なものだけをバッグに入れた。
玄関へ向かうと、母が泣き腫らした目で立っていた。
私が荷物を持っているのを見て、父も母も一瞬言葉を失った。
「どこへ行くの?」
母は思わずそう尋ねた。
けれど次の瞬間、そんなことを聞いた自分を打ち消すように、声を荒らげた。
「出ていくなら勝手にしなさい。自分が何をしたのか認めるまで、もう帰ってこなくていい」
家を出てから、私は病院に入った。
手元のお金で払えるのは、ひと月分の入院費がやっとだった。
日が経つにつれ、髪は少しずつ抜けていった。
少し体調のいい日は、病院の近くを歩いた。公園のベンチに座り、暮れていく空を眺めるだけの日もあった。
そんな日々が続いたある日、始から電話がかかってきた。
「夏穂、ちゃんと食べてるのか?お父さんたちも心配してる。もう帰ってこい。明日は誕生日だろ。みんなで祝おう」
私は鏡に映る、すっかり痩せ細った自分を見つめながら、静かに答えた。
「二人のそばにいてあげて。私は帰らない」
夜、ベッドに横になったばかりなのに、骨の奥から痛みが染み出してくるようだった。
ベッド脇の棚に置いた痛み止めに手を伸ばす。
けれど指先に力が入らず、薬の瓶が床に落ちた。白い錠剤が、ぱらぱらと床に散らばる。
喉の奥から、鉄のような味が込み上げてきた。
慌てて口元を押さえたけれど、指の隙間からこぼれた血が、真っ白なシーツに落ちていく。
もう誕生日を迎えなくていい。
そう思うと、ほんの少しだけ救われた気がした。
視界がゆっくりとかすんでいく。
そして、最後の息が静かに途切れた。