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咲く前に、愛は枯れた
私、東雲千夏(しののめちなつ)の彼氏である一条湊(いちじょうみなと)は社長で、昔から優秀な人間にしか興味を示さない男だった。それなの...
Chương (1)
第1章
私、東雲千夏(しののめちなつ)の彼氏である一条湊(いちじょうみなと)は社長で、昔から優秀な人間にしか興味を示さない男だった。それなのに、使えないインターンの月島心春(つきしまこはる)を、なぜか大事に手元に置いていた。
理由は、彼が私を失うことを何より恐れていたからだ。健康診断で心春と私が同じ希少な血液型だと知った彼は、いつか私に何かあったときのために、彼女を血液の保険として手元に置いた。
湊は心春のために料理を作り、旅行にも連れて行った。手作りの贈り物まで用意して、何かにつけて彼女を気にかけていた。
それでも彼は、全部私のためだと言った。
けれど私が交通事故に遭ったとき、湊は遠方の病院から血液を取り寄せ、心春には輸血させなかった。
心春は風邪をひいていた。万が一、血を通して私に何か移ったら困るから、と彼は言った。
その翌日、心春に腎不全が見つかると、湊は私に薬を飲ませて意識を奪い、無理やり手術室へ運び込んだ。
私の腎臓を、心春に移植するために。
彼はいつものように優しい声で言った。
「心春は、最後の保険なんだ。健康でいてもらわなきゃ困る。いざというとき、君の命を救えるのは彼女だけなんだから、ちょっとした病気や怪我で頼るわけにはいかないだろう。君に腎臓を出してもらったのも、全部、君の将来のためだよ。変に考え込ませたくなかったんだ。手術が終わったら、俺は君と結婚する」
けれど彼は知らなかった。
私はもともと白血病の中期だった。腎臓を提供したことで、病状は一気に進んでしまった。もう長くは生きられない。
彼と結婚することは、もう叶わなかった。
第1話
私、東雲千夏(しののめちなつ)の彼氏である一条湊(いちじょうみなと)は社長で、昔から優秀な人間にしか興味を示さない男だった。それなのに、使えないインターンの月島心春(つきしまこはる)を、なぜか大事に手元に置いていた。
理由は、彼が私を失うことを何より恐れていたからだ。健康診断で心春と私が同じ希少な血液型だと知った彼は、いつか私に何かあったときのために、彼女を血液の保険として手元に置いた。
湊は心春のために料理を作り、旅行にも連れて行った。手作りの贈り物まで用意して、何かにつけて彼女を気にかけていた。
それでも彼は、全部私のためだと言った。
けれど私が交通事故に遭ったとき、湊は遠方の病院から血液を取り寄せ、心春には輸血させなかった。
心春は風邪をひいていた。万が一、血を通して私に何か移ったら困るから、と彼は言った。
その翌日、心春に腎不全が見つかると、湊は私に薬を飲ませて意識を奪い、無理やり手術室へ運び込んだ。
私の腎臓を、心春に移植するために。
彼はいつものように優しい声で言った。
「心春は、最後の保険なんだ。健康でいてもらわなきゃ困る。いざというとき、君の命を救えるのは彼女だけなんだから、ちょっとした病気や怪我で頼るわけにはいかないだろう。君に腎臓を出してもらったのも、全部、君の将来のためだよ。変に考え込ませたくなかったんだ。手術が終わったら、俺は君と結婚する」
けれど彼は知らなかった。
私はもともと白血病の中期だった。腎臓を提供したことで、病状は一気に進んでしまった。もう長くは生きられない。
彼と結婚することは、もう叶わなかった。
……
「東雲さん、白血病は中期の段階でしたが、腎臓提供の手術が負担になって、病状が急激に進んでいます。楽観的に見積もっても、余命は10日ほどです。どうか、できるだけ穏やかにお過ごしください」
その後の言葉は、もう耳に入らなかった。
私は無意識に爪の脇のささくれをむしっていた。血で指先が濡れているのに、それにも気づかなかった。
交通事故のあと、私は白血病だと診断された。湊に打ち明ける間もなく、彼はインターンの心春が腎不全だという検査結果を持ってきて、私に腎臓を提供してほしいと言った。
私は拒んだ。彼は無理強いせず、「会社の近くに君のためのマンションを買っておいたから、通勤中にまた事故に遭わずに済む」と言った。
手術室へ押し込まれて、私は初めて知った。
彼が私に署名させたのは不動産の名義変更書類ではなく、臓器提供の同意書だったのだ。
私がささくれをむしっているのに気づき、医師は凝固障害のことを注意しようと、何か言いかけた。けれど結局、言葉を飲み込み、首を振ってその場を離れた。
次の瞬間、湊の気遣わしげな声が入口で響いた。
「先生、千夏の様子はどうですか?」
医師は困った顔をして、言いにくそうに口をつぐんだ。
私は振り返り、淡々と言った。
「私は大丈夫」
湊の整った切れ長の目には、笑みが浮かんでいた。
「ほらね。俺が大事にしてきたんだから、腎臓を一つ提供したくらいで、何の影響もないはずなんだ!」
彼は私を騙して同意書に署名させたことには触れなかった。まるで、その件はもう終わったことのようだった。
私は拳を握りしめ、血のにじむ指を必死に隠した。
彼の後ろから、心春が両腕いっぱいの荷物を抱えて入ってきた。
湊は慌てて彼女のもとへ行き、荷物を受け取って、すべてベッドの上に置いた。
心春は申し訳なさそうな顔で、私に頭を下げた。
「ごめんなさい、千夏さん。湊さんがあなたを騙してまで腎臓を提供させるなんて、私、知らなかったんです。これは全部、湊さんにいただいたものです。よかったら、好きなものを持って行ってください。せめてものお詫びです」
湊の手編みのマフラーやセーターがあった。
そこには、数千万円は下らない宝石や、億を超える高級車の鍵まであった。さらには、屋敷の権利書まで置かれていた。
謝罪というより、むしろ見せびらかしだった。
思えば、湊が私にこんなふうに贈り物をしてくれたことは、一度もなかった。
彼はいつも、「俺たちはもう長い付き合いだろ。今さらそんな形だけのものにこだわらなくていい」と言っていた。
以前の私なら、きっと彼女と真正面から張り合っていただろう。
けれど今の私は、ただ淡々と言った。
「いらない」
それなのに湊は、私の手首をつかんだ。
「千夏、心春の気持ちも考えてやってくれ。心春は君のことを友達だと思って、こうして謝りに来たんだ。ここで突き返したら、彼女の面目が立たないだろう」
声は穏やかだった。
けれど私の手首を握る力は強く、拒むことを許さない強さがあった。
わかっていた。
湊は、心春が少しでも傷つくのに耐えられないのだ。
仕方なく、私はあのマフラーを指さした。
去年の冬、湊はそれを編むために、両手の指をぼろぼろにしていた。
私はてっきり、珍しく彼が記念日のプレゼントを用意してくれているのだと思っていた。だからこつこつお金を貯めて、そのマフラーに合うコートまで買った。
第2話
けれど、そのマフラーを湊が自分の手で心春の首に巻いているのを見て、すべて私の勘違いだったのだと知った。
もうすぐ死ぬからだろうか。未練が残っていたからなのか、今になってそのマフラーを目にした瞬間、どうしても手に入れたいという強い衝動が胸の奥から噴き上がった。
湊は私の指先を見た瞬間、露骨に顔を曇らせた。
「それはだめだ。心春は体が弱い。寒がらせるわけにはいかないだろ。それに、俺が手作りしたものだ。彼女にとっても大事なはずだから、別のものを選べ」
「私はこれがいい」
湊の心にまだ私がいるのか確かめたかったのかもしれない。私は譲らず、強い口調で言い張った。
けれど湊は、思いがけず逆上した。
「千夏、心春は将来、君を救ってくれるかもしれない存在なんだ。君が腎臓を一つ差し出したのも、彼女への借りを返したようなものだろう。前の君なら、こんな物にこだわったりしなかった。なのに今さら、彼女の大切なものを奪ってまで意地を張るのか?」
私は力なく笑った。
湊はもう、自分がどちらを大事にしているのか隠そうともしない。
一年前、心春が入社時の健康診断を受けたとき、彼女と私が同じ血液型だと知ってから、湊は心春を特別に気にかけるようになった。
仕事では、湊は心春を昇進させ、給料まで上げた。おまけに、私が進めてきたプロジェクトの成果を彼女の手柄にして、社内で一目置かれる存在にまで押し上げた。
私生活では、彼女の洗濯をし、食事を作り、三度の食事まできっちり世話した。呼ばれれば、いつでもすぐに駆けつけた。
私が少しでも不満を漏らすと、湊は決まって私を心が狭いと責めた。心春はいつか私の命を救ってくれるかもしれない人間なのだから、私は彼女に借りがあるのだと。そうやって私は、いつの間にか身に覚えのない重い負い目を背負わされていた。
これほどあからさまに心春ばかり大事にされているのに、それでも私は、湊の中にまだ少しは私への気持ちが残っているのではないかと期待していた。
本当に、笑ってしまう。
死を目前にして、ようやく湊の本心が見えた。
今思えば、かつて真夜中に何度も寝返りを打ちながら、どうしても納得できずに思い悩んでいたことなど、大したことではなかった。
「冗談よ。心春の大事なものを、私が奪うわけないでしょう」
私は小さく笑って、それ以上言い張るのをやめた。
同時に、湊への未練もきれいに手放した。
ところが心春は、急に傷ついたような顔をした。
「千夏さんがお金持ちで、いいものなら何でも持っているのはわかっています。私のものなんて安っぽくて、受け取る価値もないって思っているんですよね。そうですよね。私は所詮、ただの血の保険ですもの。お二人の友達になりたいなんて、思い上がりでした」
湊の目には、痛ましげな色が浮かんだ。
「大丈夫だよ、心春。今日はオークションがある。今から、もっといいものを買いに連れていく」
彼は振り返ると、ボディーガードにベッドの上の品々を片づけるよう命じた。まるで、私が本当に持って行ってしまうのを恐れているかのようだった。
ドアのところまで歩いたとき、湊は何かを思い出したように、はっとしたように足を止めた。
彼は窓を閉め、私に上着をかけると、優しい声でなだめた。
「千夏、連れていかないのは君のためだよ。今の体で無理をさせたくないんだ。俺が一番大事にしているのは君だよ。欲しいものがあったら言って。全部競り落として、結婚祝いに持って帰ってくるから。な?」
そう言い終えると、彼は心春と寄り添って出ていった。
窓越しに、私は下を見下ろした。
車のそばで、湊は心春のために身をかがめ、シートベルトを締めてやっていた。
心春が、助手席に置かれていた私と彼のツーショット写真を指さした。
次の瞬間、私たちの写真は窓の外へ投げ捨てられた。
車が動き出し、後輪がその写真を無情に踏みつぶしていった。
これが、湊が何度も口にしてきた「君を大事にしている」「愛している」という言葉の答えだった。
湊、私はもう長く生きられない。
それに、あなたと結婚する気もなくなった。
私はカーテンを閉めると、医師のもとへ行き、退院したいと伝えた。
「東雲さん、最期をどう過ごすかは、あなたの意思が一番大切です。ですから無理に引き止めることはできません。ですが、治療をやめれば、おそらく——」
私は口元だけで笑った。けれど、目は少しも笑っていなかった。
「先生、お願いは一つだけです。十日分の痛み止めを出してください」
残された十日間を、病院で過ごすなんてごめんだった。
両親が病院で亡くなってから、私は病院という場所にどうしても恐怖を覚えるようになっていた。
病院の正面玄関を出たところで、湊から電話がかかってきた。
「どうして退院した?」
「退屈だったの。寝ているのも好きじゃないから」
第3話
「だめだ——」
湊は眉をひそめ、私を説得しようとした。
電話の向こうで、心春の声が聞こえた。とても近い。彼のすぐそばにいるようだった。
「湊さん、このペアリング、すごくきれい……」
「いいよ。どれだけ値が上がっても、必ず競り落としてあげる!
千夏、君はもう大人なんだから、自分のことは自分でちゃんと面倒を見て」
湊の声から優しさが消えた。彼は二言三言だけ適当に告げると、あっさり電話を切った。
けれど心春が現れる前は違った。接待の席で無理をして胃から出血し、病院で「珍しい血液型だから気をつけてください」と言われたとき、湊はひどく怯えていた。夜も眠れず、泣きながら「俺を置いていかないでくれ」と私にすがり、それ以来、片時も私のそばを離れようとしなかった。
たとえ私の指に小さな切り傷ができただけでも、過剰に反応していた。
なのに今では、私が腎臓を一つ失っても、彼はただ軽く受け流し、適当に済ませるだけだった。
この恋を手放したとはいえ、胸の奥にはやはり、勝手ににじみ出る苦しさが少しだけ残っていた。
私は自嘲気味に笑い、湊の番号を着信拒否にした。
一日目にまずしたことは、ハウスクリーニングの業者を呼び、家の中にある私のものをすべてきれいさっぱり片づけることだった。
手作りのペアの陶器人形、七年間で撮った二万枚の写真、屋敷の鍵まで、すべて処分した。
二日目、私は葬儀社に連絡し、自分の死後の手配を決めた。
三日目、私は友人たちとパーティーをはしごした。ゲームに負けた罰として、かっこいい男の子と腕を絡めて酒を飲む私を見た友人は、顔色を変えた。
「彼に見られたら、私、殺されるって!」
ネオンの光と酒の匂いの中で、私は平然と笑った。
「どうでもいい。もう気にしてないから」
その夜、我慢できなくなったのか、湊から一枚の写真が送られてきた。薄暗い照明の下で、私が若い男の子と腕を絡めて酒を飲んでいる写真だった。
「千夏、家に帰ってこい。正座して説明しろ!」
四日目、私はようやく家に戻った。
湊に怯えたからではない。注文していた荷物が届いたからだ。
玄関を開けた家政婦の山村は、私を見るなり声を潜めた。
「千夏様、あとで湊様に逆らってはいけませんよ。素直に謝ればそれで済みますから」
中に入ると、湊がソファに座り、泣いている心春をなだめていた。
心春は部屋着姿で、手には淡いピンク色のエンディングドレスを握りしめている。薬指には、あのペアリングがきらりと光っていた。
私が状況をつかめずにいると、心春は私を見るなり、さらに泣き声を大きくした。
「千夏さんが私をよく思っていないのはわかっています。私がこの家にいるのも、嫌なんですよね。でも、だからってエンディングドレスを送りつけるなんて……まるで私に死ねって言ってるみたいじゃないですか」
この二日間、彼女はここに住み始めていたらしい。私は本当に知らなかった。
湊は眉をひそめた。
「千夏、表向きは平気なふりをして、裏でこんな嫌がらせをするなんてな。君が家を飛び出して、外で好き勝手していたことだって、俺は何も言わなかっただろう。
俺はただ、心春の具合が心配で、しばらくこの家に置いているだけだ。それなのに、どうして——」
私は冷めた目で心春を見たまま、彼女の手からそのドレスを奪い取った。
「誰があなたに買ったって言ったの?」
ドレスを広げ、自分の身にまとった。
「これは私が自分のために買ったの」
それどころか、姿見の前で軽く確認までした。
ぴったりだった。
以前の私は、本当に死ぬのが怖かった。私がいなくなったら、湊が生きていけないと思っていた。
けれどいざ死を目前にして、ようやく気づいた。
私は自分を買いかぶりすぎていたのだ。
湊の表情はひどく険しくなり、立ち上がるなり私のドレスのボタンを外そうとした。
「千夏、気でも狂ったのか!早くそんな服を脱げ!」
私は身をよじって避けた。
湊の表情が沈んだ。
「責められるようなことをしたなら、逃げずに向き合え。心春にちゃんと謝るんだ」
私が口を開く前に、湊は伸ばしていた手を下ろし、ため息まじりに数枚の書類を取り出した。
「君は意地になって退院して、外で好き勝手に遊び回っている。なのに心春は、退院したばかりなのに会社のためを思って、何日も残業してくれたんだ。
心春は、君が腎臓を提供してくれたことに本当に感謝している。君の負担も少しでも減らしたいと言っているんだ。副社長のポストは、心春に譲ってやってくれ。彼女が君の仕事を引き継げるように」
第4話
それこそが、彼の本当の目的だったのだ。
私から心春へ、副社長の座を譲らせること。
私は自嘲するように笑った。
「いいわ。異論はない」
どうせ死ぬ身だ。肩書きや財産のようなものは、もうどうでもよかった。
私はそのまま腰を下ろし、彼が差し出したペンを受け取った。
どの書類も、署名欄のページまでめくられていた。
私は昔から慎重な性格で、必ず表紙と中身が合っているか確認するようにしていた。
一枚目は、副社長職の解任同意書だった。私は迷わず署名した。
湊と心春は顔を見合わせ、どちらも少し驚いているようだった。
二枚目は、不動産の名義変更書類。
この家は、私と湊が初めて稼いだまとまったお金で買ったものだった。そして唯一、私の名義になっている家でもあった。
私が拒むのを恐れたのか、湊は後ろめたそうに言い訳した。
「心春の家族が、街に出てきて治療を受けたいそうなんだ。滞在する家が必要でね。どうせ君は住んでいないだろう」
ただ滞在するだけなら、名義まで変える必要があるのだろうか。
私はわざわざ暴くのも面倒で、そのまま署名した。
三枚目をめくろうとしたとき、湊が手を伸ばして私を止めた。
「千夏、俺が君に悪いようにするわけないだろ。そのままサインしてくれればいい」
私は顔を上げた。
湊も心春も、ひどく緊張した顔で私を見ていた。
開いてみて初めて、それが株式譲渡契約書だとわかった。
それは、湊が私との関係を公表したときに贈ってくれた、20%の株式だった。
当時、社内では誰もが、私がいずれ社長夫人になる人間だと知っていて、羨望のまなざしを向けていた。
湊の呼吸が一瞬止まった。
「説明を聞いてくれ……」
けれど私は、そのまま署名した。
最後の一筆を書き終え、私は湊に尋ねた。
「ほかにもある?」
湊は信じられないという目で私を見た。
けれど、これこそ彼が望んでいたことではないのか。
私がすべてを心春に差し出すことを、彼は喜ぶべきだった。
心春は有頂天になっていた。けれど口では、しおらしく取り繕った。
「千夏さん、安心してください。私が少し預かっておくだけです。体がよくなったら、ちゃんと全部お返ししますから」
私は冷めた気持ちで立ち上がった。
今回戻ってきたのは、届いたエンディングドレスを受け取るためだけだった。
手に入れた以上、ここに残る必要はなかった。
踵を返したとき、背後から湊が私を呼び止めた。彼はふいに眉をひそめた。
「千夏、痩せたな。ずいぶん痩せた」
私はこけた頬に触れ、どうでもよさそうに言った。
「大丈夫。今日はまだ死ぬわけじゃないから」
湊の表情が、かすかに揺れた。胸を突かれたように、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
それから彼は、珍しく穏やかな声で言った。
「食事はしたのか。昼の残りを温めてくるよ。全部、俺が作ったものだ」
湊は潔癖症だった。私を一番愛していたころでさえ、私のために一度も食事を作ったことはなかった。
けれど、心春が一度「胃が痛い」と言っただけで、その日から彼は料理を覚え始めた。熱い油で指に水ぶくれを作りながら。
私はそれが羨ましくて、少し食べてみたいと言ったことがある。けれど彼は許さなかった。これは心春だけのものだと言って。
断ろうと口を開きかけたとき、湊は勝手にキッチンへ入っていった。
気づけば、リビングには私と心春だけが残されていた。
心春の目には、はっきりとした悪意が浮かんでいた。彼女は後ろ手に隠していた古い懐中時計を取り出すと、口元だけで笑った。
「千夏さん、私、この時計が気に入ったんです。母に贈りたいので、いただいてもいいですか?」
その懐中時計は、母が生前ずっと大切にしていたものだった。湊が私の代わりに保管すると言って、金庫にしまっていた。
「ほかのものなら何でもあげる。でも、それだけはだめ」
「本当にだめなんですか?」
「だめ」
心春は小さく舌打ちした。
次の瞬間、彼女はその懐中時計を床に叩きつけた。
「じゃあ、お返しします!」
その瞬間だけ、時間がひどくゆっくり流れたように見えた。
床に叩きつけられた懐中時計は、乾いた音を立てて跳ね、ガラスの文字盤が砕けた。折れた針と歪んだ蓋が、ばらばらに床に散らばった。
私はそれを、ただ目の前で見ていることしかできなかった。
心春はいつも、人前と二人きりのときとで態度を使い分けていた。
人前では私を立てるふりをするくせに、陰では平気で見下し、挑発してくる。だから私が湊にどれだけつらいか訴えても、彼は決まって、私がわざと心春を悪者にしているのだと言った。
聞き分けがないのは私のほうだ、と。
もうすぐ死ぬ身で、彼女と言い争う気力なんてもうないと思っていた。
けれど、母の形見が床の上で壊れているのを見た瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
第5話
どうして、私は何度も譲ってきたのに。どうして彼女は、それでもなお踏み込んでくるのだろう。
私は何も言わず、心春の前へ踏み出し、その頬を打った。
心春は避けなかった。まるで最初からそうするつもりだったように、まともに平手を受け、そのまま床に倒れ込んだ。
同時に、男の怒鳴り声が響いた。
「やめろ!」
キッチンから飛び出してきた湊が、私を突き飛ばした。勢いよく倒れた拍子に、ポケットに入れていた鎮痛薬が床に転がった。
そのうえ、湊の靴の踵が腰の傷口を踏みつけた。
あまりの痛みに、私は起き上がることもできなかった。
医師は言っていた。
白血病の患者は、傷が治りにくいのだと。腰のあたりは、みるみる血で濡れていった。
湊は私を見下ろし、嫌悪を隠そうともしない目で言った。
「千夏、少しは変わったのかと思っていたのに、結局そうやって俺の気を引きたいだけだったんだな。契約書にサインさせたのは俺だ。文句があるなら俺に言えばいい。心春に手を上げる必要なんてないだろう!」
私は痛みに耐えながら叫んだ。
「心春が、母の懐中時計を壊したのよ!」
湊は一瞬だけ動きを止めた。
けれどすぐに、ばかにしたように笑った。
「ただの古い時計だろう。そんなことで人を殴るなんて、どうかしてる」
視界が赤く染まった。喉の奥から、絞り出すような声がこぼれる。
「これは、母の形見なのよ!」
湊はその場で固まり、心春を見た。
心春は何も言わず、ただ傷ついたような顔で彼を見上げた。
それだけで、湊は彼女に何一つ問いたださなかった。
代わりに、私を責めた。
「形見だから何だ。あとで修理に出してやる。いい大人が、物一つで恩人に手を上げるなんて」
また、恩人。
私はいったい、彼女からどんな恩を受けたというのだろう。
抑えていたものが、そこでぷつりと切れた。
「心春のどこが恩人なの?」
湊は不機嫌そうに眉をひそめた。
「君が事故に遭ったとき、心春は真っ先に輸血すると言ってくれただろう。それが恩じゃなくて何なんだ」
私の胸には、冷えきった虚しさだけが残っていた。
「心春が分けた血なんて、たった10ミリリットルじゃない。すぐにあなたが止めたんでしょう。彼女が風邪をひいていたから、私に何か移るのが怖かったの?それとも、ただ心春が可哀想だっただけ——」
ぱん、と乾いた音が響いた。
湊が力任せに私の頬を打った。
「千夏、どうして俺をそんなふうに疑うんだ。俺がしてきたことは、全部君のためだ!心春が君のための保険なのは確かだ。でも、少しの病気や怪我で簡単に使っていいわけじゃない。彼女は物じゃない。ちゃんと生きている人間なんだ!」
湊は、心春を可哀想だと言う。
けれど私が心春のために腎臓を一つ失ったことを、可哀想だと思ったことは一度もなかった。
私は頬を押さえたまま、力なく笑った。
床に散らばった壊れた懐中時計の部品を、みじめに拾い集める。
「お母さん……私、何もなくなっちゃった……」
母は死ぬ前、何度も湊に感謝していた。
自分の代わりに私を愛してくれる人がいてよかった、と。
でも今、私を愛してくれる人は、いったい誰なのだろう。
湊は私が泣きながら笑うのを見て、戸惑いと怯えの入り混じった目をした。
「千夏、君には俺がいるだろう……」
次の瞬間、私は彼の目の前で床に倒れ、意識を失った。
再び目を覚ますと、そこはまた病院だった。
医師は同情に満ちた顔をしていた。
「東雲さん、病状がさらに進行しています。残された時間は、あと三日ほどです」
「三日って何のことですか?」
湊が病室へ入ってきたとき、ちょうどその言葉を聞いた。
私は何食わぬ顔で嘘をついた。
「三日で退院できるってこと」
彼は少しも疑わず、私の鎮痛薬をテーブルに置いた。
「薬はちゃんと飲めよ。お母さんの形見は、もう修理に出した。心春が勝手に持ち出した件も、俺がちゃんと叱っておいたから。今日は俺と口をきくなと言ってある。それで反省させる」
私がどんな薬を飲んでいるかなど、彼は今まで一度も気にしたことがなかった。
一日口をきかないだけで、罰になるらしい。
「元気を出して、千夏。俺がどんなサプライズを用意したか、当ててみて」
次の瞬間、彼は背中に隠していたものを差し出し、結婚式の企画書を私に見せた。
「君に余計な心配をさせたくない。だから、君と結婚することにした。式は三日後だ。これからは、もう君につらい思いをさせない」
私は拳を握りしめたまま、その企画書を受け取らなかった。
湊も、無理に押しつけてはこなかった。
「だから約束してくれ。これからは心春と張り合わないって。わかってるだろう?俺が彼女に優しくしているのは、全部、君のためなんだ」
第6話
湊の表情は和らいでいた。まるで、これまでのすべてがもう水に流されたかのように。
けれど私は、もう二度と元には戻れないのだと知っていた。
「湊、結婚しなくていい。私たち、別れましょう」
湊は呆気にとられたように私を見たあと、言い聞かせるように言った。
「また怒りに任せてそんなことを言う。俺と心春は何もない。彼女は自分からブライズメイドを務めたいと言ってくれたんだよ。それでもまだ安心できないのか?」
私は皮肉っぽく口元を上げたが、言い返す気にもならなかった。
どうせ、あと三日しかないのだから。
ところが翌朝、秘書の小谷が大勢のボディーガードを連れてきて、私を無理やり採血室へ連れていった。
彼女の話では、心春が湊の結婚式のリハーサルに付き添っているとき、ステージから転げ落ち、輸血が必要になったらしい。
採血室の中で、湊は焦った様子で行ったり来たりしていた。
心春は車椅子に座り、彼の気遣いを満喫しながら、挑発するように私を見ていた。
いわゆる傷口とは、彼女の足首にできた五センチほどの切り傷だった。出血量は10ミリリットルにも満たなかった。
湊は看護師を待ちきれず、低い声で命じた。
「早く採血しろ」
看護師は逆らえず、私の腕に採血用の針を刺した。
「ごめん、千夏。心春は君のために式場を確認していて転んだんだ。だから君にも、彼女を助ける責任がある。君は恵まれた暮らしをしてきたし、体だって丈夫だろう。少し血を抜くくらい平気だ。心春が落ち着いたら、すぐに式を挙げよう」
けれど血管から抜かれた血は、淡いピンク色をしていた。
湊は息をのんだ。
それが白血病の末期症状だとは知らなくても、明らかに異常だということだけはわかった。
心春は目を泳がせると、わざと車椅子から降りようともがいてみせた。
「湊さん、千夏さんはそんなに私に血を分けたくないんだね……わざと血の色がおかしく見えるようにするなんて。もういい、無理にお願いしないで。少し出血しただけだし、私は平気だから」
笑えてきた。
湊の目の前で私の血管に針を刺したのに、私にいったいどんな細工ができるというのだろう。
それなのに湊は立ち上がり、冷たい声で命じた。
「千夏、危うく君の芝居に騙されるところだった。小谷、千夏から目を離すな。ちゃんと赤い血が抜けるまで、採血を続けろ」
そう言うと、湊は心春の車椅子を押し、診察室のほうへ向かった。
壁一枚隔てた向こうから、医師の声が聞こえてくる。
「少し貧血気味ではありますが、輸血が必要な状態ではありません」
湊はきっぱりと言った。
「だめです。心春に万が一のことがあったらどうするんですか!」
私のそばでは、何人ものボディーガードが目を光らせていた。手足を押さえつけられ、私は身動き一つできない。
時間だけが、一秒、また一秒と過ぎていった。
八百ミリリットルも抜かれたころには、血管はしぼみ、ほとんど血が出なくなっていた。それでも私の血はピンク色のままで、むしろ少しずつ色が薄くなっていった。
秘書の表情がこわばった。息も絶え絶えの私を見て、怯えた声で湊に報告した。
「社長、もう八百ミリリットル抜きました。ですが——」
湊は冷たく叱りつけた。
「足りない!千夏に伝えろ。俺が一番いい薬と栄養のあるもので、彼女の体を回復させてやる。もう少しだけ耐えろと!」
私の目からは、もう何の感情も消えていた。
私はスマホを取り出し、葬儀社にメッセージを送った。
今日、私の遺体を引き取ってほしい、と。
血が抜かれていくにつれて、体温も少しずつ冷えていった。
朦朧とする意識の中で、私の頭はかくんと傾き、闇に沈んだ。
三十分後、秘書が震える手で、ピンク色の血が入った大きな採血バッグを三つ差し出した。
それを見た湊は、怒りで顔を歪めた。
「何だ、これは。お前まで千夏と一緒になって、俺を騙すつもりか?」
彼は怒りに任せて隣の部屋へ向かった。
私を問い詰めるつもりだったのだろう。
秘書は一瞬呆然としたあと、泣きそうな顔で言った。
「一条社長……ご存じなかったんですか。東雲さんの血は、社長が抜かせ続けたせいで、もう……東雲さんは、亡くなりました」