厳冬が明けても、すべては戻らない

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厳冬が明けても、すべては戻らない

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父は「たくましい男を育てる」という教育理念を信条としていた。 幼い頃、二科目で満点を取った僕に、父はこう言い放った。 「成績など何の意...

Chương (1)

第1章

父は「たくましい男を育てる」という教育理念を信条としていた。 幼い頃、二科目で満点を取った僕に、父はこう言い放った。 「成績など何の意味もない。本物の男なら、五階から飛び降りてみろ」 その後、見ず知らずの人を助けて表彰されたときも、父は鼻で笑った。 「かすり傷ひとつ負っていないのに、何が表彰だ?」 僕は、父なりに僕を鍛えようとしているのだと思っていた。 だが大晦日、父は「特訓」の名のもとに、僕をたった一人で雪山へ置き去りにした。 テントも与えず、火種ひとつ残さずに。 そのうえ父は得意げに、親戚や友人たちへ自分の教育法を吹聴していた。 「本当の男ってのは、絶境の中でこそ生まれ変わるものだ!ちゃんと言ってやったんだ。頂上まで這い上がってこなければ、父親と呼ぶな、と!」 だが、彼の携帯に表示されている、僕の位置を示すGPSの赤い点は、すでに三時間も動いていなかった。 僕はとっくに、雪の中で凍え死んでいた。 手には一枚の紙片を握りしめ、そこには父への遺言が綴られていた。 そして僕の魂は、食卓の上に漂いながら、父が自分のやり方を誇らしげに語る様子を見下ろしていた。 第1話 父は「たくましい男を育てる」という教育理念を信条としていた。 幼い頃、二科目で満点を取った僕・小野田安弘(おのだ やすひろ)に、父はこう言い放った。 「成績など何の意味もない。本物の男なら、五階から飛び降りてみろ」 その後、見ず知らずの人を助けて表彰されたときも、父は鼻で笑った。 「かすり傷ひとつ負っていないのに、何が表彰だ?」 僕は、父なりに僕を鍛えようとしているのだと思っていた。 だが大晦日、父は「特訓」の名のもとに、僕をたった一人で雪山へ置き去りにした。 テントも与えず、火種ひとつ残さずに。 そのうえ父は得意げに、親戚や友人たちへ自分の教育法を吹聴していた。 「本当の男ってのは、絶境の中でこそ生まれ変わるものだ!ちゃんと言ってやったんだ。頂上まで這い上がってこなければ、父親と呼ぶな、と!」 だが、彼の携帯に表示されている、僕の位置を示すGPSの赤い点は、すでに三時間も動いていなかった。 僕はとっくに、雪の中で凍え死んでいた。 手には一枚の紙片を握りしめ、そこには父への遺言が綴られていた。 そして僕の魂は、食卓の上に漂いながら、父が自分のやり方を誇らしげに語る様子を見下ろしていた。 …… 父はふと視線を落とし、スマートフォンを一瞥した。 口元に浮かんでいた得意げな笑みは消えるどころか、むしろ一層濃くなる。 「ほら、二時間も動いてないぞ」 そう言って、画面を伯父の目の前に突きつけ、静止した赤い点を指で二度、強く突いた。 「あいつめ、どうせ俺に意地張って、風下の斜面かどこかに隠れて寝てるんだろ。 俺はあいつのことをよく分かってる。母親と同じで、ちょっと困るとすぐに縮こまる性格だ。 ちゃんと言ってやったんだ。今夜十二時までに山頂まで登れなければ、来学期の生活費は半年停止だってな」 食卓の上に漂う僕は、胸の奥が苦くてたまらなかった。 吹雪はあまりにも急だった。僕は方向を見失った。 低体温で幻覚を見始め、父から施されたあの薄っぺらいシェルジャケットさえ脱ぎ捨ててしまった。 死の間際、僕はなおも父が助けに来てくれると幻想を抱いていた。 伯母は肩をすくめ、窓の外で荒れ狂う吹雪を一瞥した。 「ねえ、剛(ごう)さん。この雪、相当なものよ。ニュースでも警報が出てるわ。安弘はちゃんと防寒できてるの?」 父は脂の多い肉を飲み込み、酒杯を手に取ってぐいとあおった。 「シェルジャケットを一枚やったし、中には防寒インナーも着せてる。十分だ。 男は寒さに耐えられなきゃな。昔、俺が消防隊にいた頃は、氷点下三十度で裸同然のまま五キロ走ったもんだ。それでこそ男だろう」 僕は宙で冷ややかに笑った。 彼の言う「裸で五キロ走った」話など、酔った勢いで仲間に吹いていた与太話に過ぎない。 だが彼は、その作り話を真実として信じ込み、その「真理」を僕に押し付け、容赦なく実行した。 ――でも、父さん。僕はもう死んでいる。 完全に、取り返しがつかないほどに。 僕は父の前へと漂っていった。 伝えたかった。僕だって必死だった。登ろうとしていた。 けれど、父さん。肺は破裂しそうに痛み、息をするたびに刃物を飲み込むようだった。 脚はとっくに感覚を失っていた。それは、「お前が根性を鍛えるためだ」と言って履かせた、あの薄い登山靴のせいだ。 僕は口を開き、父の顔に向かって叫んだ。 「父さん!寒い!本当に寒いんだ!」 父はぼそりと何か呟き、スマートフォンを手に取ると音声入力のボタンを押した。 「安弘、死んだふりするな。位置情報が動いてないぞ。座り込み抗議のつもりか? 言っとくが無駄だ。今夜十二時までに山頂に着かなきゃ、そのクソ大学も終わりだ。 工事現場で肉体労働でもしろ!」 指を離し、音声は送信された。 僕は見慣れたそのチャット画面を見つめる。 その一つ前のメッセージは、三時間前、僕が送ったものだった。 【父さん、息が苦しい。薬、そっちのバッグに入ってる?持ってくるのを忘れたみたいだ】 父の返信はこうだった。 【薬だと?捨てた。そんなものは弱者の杖だ。我慢しろ、耐えればどうにかなる】 その瞬間、僕は絶望した。 雪の中で必死に這い上がり続け、ついには最後の体温まですべて失った。 宙に漂いながら、二十年間「お父さん」と呼んできたその顔を見つめる。 そして、どうしようもなく見知らぬものに感じた。 これが、僕の父だ。 彼の目には、僕の命など、食卓に並ぶ酒の肴一皿にも劣る。親戚の前で自慢話をするための、ただの材料にすぎない。 第2話 僕は顔を背け、窓の外を見た。 闇が天地を飲み込み、その向こうで……僕の体はゆっくりと硬直し、やがて一塊の氷へと変わりつつあった。 それに比べて、この部屋はどうだ。 杯を交わし、笑い声が絶えず、暖かさに満ちている。 本当に、いいものだ。 父さん。そんなに絶体絶命の状況が好きなら。 きっと気に入るだろう。 僕が用意した、この新年の贈り物を…… そのとき、激しく扉を叩く音が鳴り響き、けたたましい呼び鈴の音と重なって、テレビから流れていた歓声を一瞬でかき消した。 部屋の中の笑い声は、ぴたりと止まった。 伯父の指に挟まれていた煙草が小さく震え、灰がズボンの上に落ちた。 父は不機嫌そうに眉をひそめ、箸をテーブルに強く叩きつけた。 「誰だ?こんな時に縁起でもない、葬式の知らせでも持ってきたのか? 店員!どうなってる?誰でも勝手に入れるのか?」 次の瞬間、個室の扉が勢いよく押し開けられた。 母が立っていた。 全身に雪をまとい、髪は乱れて顔に張り付いている。 「剛!どうして安弘の電話がつながらないの?なんで電源が切れてるのよ!」 父はその姿を見ても、眉間に深い皺を寄せるだけで、体をわずかに後ろへ引いた。 ゆっくりとティッシュを一枚取り出し、口元を拭く。立ち上がることすらしない。 「何を騒いでる」 父は冷笑した。 「ここで暴れる気か?どうした、あのヒモ男にでも捨てられて、また金でもせびりに来たのか?」 母はテーブルの前に駆け寄り、両手を突いて身を乗り出す。爪がテーブルクロスに食い込み、関節が白くなる。 「息子はどこなのよ! こんな大雪で、ニュースでは入山規制が出ているって言ってるのよ!あの子をどこに連れて行ったの!?」 父は酒杯を持ち上げ、一口含み、蔑むような視線を向けた。 「あいつは特訓中だ。男になるための特訓だ。 何だ、心配か?そもそもお前が甘やかすから、肩一つで荷物も担げない、何もできない腑抜けに育ったんだろうが。だから俺が鍛え直してやってるんだ」 母の声が一気に鋭く跳ね上がる。 「特訓ですって?」 彼女はテーブルの上の酒瓶を掴み取り、そのまま床に叩きつけた。 パリン。 ガラスが飛び散り、酒が四方に広がった。 親戚たちは悲鳴を上げ、叔母は耳を押さえて夫の後ろへ隠れた。 「剛、あなた人間なの!?安弘は喘息持ちなのよ!アレルギー性喘息!医者にも寒さは厳禁、激しい運動もダメだって言われてるの! 安弘を雪山に連れて行くなんて……殺す気なの!?」 母の叫びが、個室の中で反響する。 父の顔色が一瞬で曇った。 立ち上がると、そのまま母の肩を突き飛ばした。 もともと足元のおぼつかない母は、その一押しでよろめき、割れたガラスの上へと倒れ込んだ。 掌が切り裂かれ、血があふれ出した。 それでも、彼女は父を睨みつける。 父は床に倒れた母を指差し、唾を飛ばしながら怒鳴った。 「喘息だと?そんなもの、贅沢病だ! 全部お前が甘やかしたせいだ!寒さに弱いだの、運動できないだの、全部言い訳に過ぎん! 根性さえあれば、どんな病気でも乗り越えられる!俺は今日、あいつのその甘ったれを叩き直してやるんだ!」 母は怒りで全身を震わせ、涙があふれ出す。 彼女は立ち上がり、血のにじむ手も構わず、テーブルの上の父のスマートフォンへと手を伸ばした。 「位置情報は?GPSはどこ!?見せて!」 父は素早くそれを押さえ込み、反対の手で母の頬を強く打った。 パシン! 重い一撃だった。母は数歩よろめき、口元から血がにじんだ。 父は怒鳴りつける。 「いい加減にしろ!これは俺の教育方針だ!部外者が口出しする筋合いはない!出ていけ、今すぐ出ていけ!」 さすがに叔父も見かねて立ち上がり、仲裁に入ろうとした。 「義姉さん、落ち着いて。兄さんにも考えがある。さっきGPSもみんなで確認したし、ずっと見てるから」 父は鼻で笑い、スマートフォンのロックを解除し、そのアプリを開いて母の前に放り投げた。 「ほら、第一キャンプ場にいる。ピンピンしてるさ!」 母は震える指で画面を滑らせ、移動履歴を確認した。 だがその瞬間、彼女の顔から血の気が引き、全身の力が抜けたように、椅子へと崩れ落ちた。 第3話 母は青ざめた顔で、震える声を振り絞った。 「三時間も動いてないのよ! こんな寒さの中で、三時間もじっとしていたら、どんな人だって凍え死んでしまう! あの子、きっと何かあったのよ!」 父はスマートフォンをひったくり、ろくに画面も見ようとしない。 「くだらん!休んでるだけだ!体力を温存してるんだよ!お前に野外サバイバルの何が分かる!これは戦術的な休憩だ! 誰もがお前みたいに、少し歩いただけで音を上げると思うな!」 母は首を振りながら、声を震わせた。 「違うの……安弘は言ってたの……雪の中で三十分以上止まっていたら、それはもう歩けなくなってるって…… 必ず助けてほしいって、約束したのよ……」 父は苛立たしげに遮った。 「約束だと?弱者の言い訳だ! あのガキ、俺に隠れてお前と連絡を取ってやがったのか。いい度胸だな、俺を山から引き下ろそうって腹か?そんな手に乗るか!」 母はその場に崩れ落ち、父の脚にすがりついた。 「剛、それは一つの命なのよ! お願い、頼むから……頭を下げるから……あの子を見に行って、せめて救助隊に連絡して……お願い……!」 父は母の胸を蹴りつけ、容赦なく突き飛ばした。 「離れろ! ここでみっともない真似をするな!今日は大晦日だぞ!皆で楽しくやってるのに、水を差しやがって! 救助隊だと?俺の面目を潰す気か! そんなもの呼んだら、俺が息子一人まともに鍛えられない男だって、世間に知られるじゃないか!」 宙に漂う僕は、その光景をただ見ているしかなかった。 母が蹴り倒され、手から流れた血がカーペットを赤く染めていくのを。 駆け寄って抱きしめたかった。 母さん、もうやめて。あの人に何を言っても無駄だ。 あの人は僕の命なんて気にしていない。 気にしているのは、自分の体面と権威だけだ。 僕は手を伸ばし、母の頬の涙を拭おうとした。 だが、その手は彼女の顔をすり抜けた。 その無力さは、死そのものよりも苦しかった。 母さん、ごめん。僕が弱かった。 あの人の言葉に従うべきじゃなかった。 あのわずかな生活費のために、ただ一度でも父に認めてもらいたくて、こんな地獄のような場所へ来るべきじゃなかった。 あなたの言う通り、もっと早く逃げるべきだった。 たとえ働いてでも、たとえ物乞いになってでも。 もう、遅すぎる…… 「警察に……警察に通報する……」 母は地面から這い上がり、濡れたポケットから携帯を震える手で取り出した。 寒さと恐怖で指が思うように動かず、ロックを解除するのに何度も失敗する。 「やってみろ!」 父は二歩で詰め寄り、携帯を奪い取ると、壁の隅へ叩きつけた。 ドン! 画面は粉々に砕け、バッテリーまで飛び出した。 父は母の鼻先を指差し、怒鳴りつける。 「何を通報する気だ!親が子を教育してるだけだろうが、警察に関係あるか!これは家庭の問題だ! 親戚の前で俺に恥をかかせるつもりか?それとも俺を刑務所にでも入れたいのか?よくもそんなことが言えるな!」 母は泣き叫びながら壁際へ這い寄り、壊れた携帯をかき集めようとする。 だが、それはすでに完全に壊れていた。 「人の心がないのはあなたよ!あの子はあなたの実の息子なのよ!」 伯父が眉をひそめ、箸を置いた。 「なあ、電話くらいしてみたらどうだ?三時間も動いてないってのは、さすがに……」 父は不満げに伯父を睨みつける。 「兄さんまで甘いことを言うのか? あいつはただの怠け者だ!俺が迎えに来るのを待ってるだけだ! ここで情けをかけたら、今までの苦労が全部無駄になる! これは心理戦なんだ、分かるか?」 そのとき、テーブルの上に置かれていた父のスマートフォンから、澄んだ通知音が鳴り響いた。 ピン。 GPSの位置情報更新の音だった。 全員の視線が、一斉にその携帯へと集まる。 父はそれを手に取り、画面を確認すると、口元を大きく歪めた。目尻の皺が深く寄った。 「動いた!はははは、動いたぞ!」 彼は携帯を高く掲げた。 「見ろ!見ろよ!動いてる!百メートル以上、上に移動してるじゃないか!」 第4話 「見ろ、やっぱりあいつは死んだふりをしてただけだ!俺と心理戦をやってるつもりなんだ!」 母は顔を上げ、先ほどまで色を失っていた目に、かすかな希望の光を宿した。 「動いたの?本当に……?」 四つん這いになって近づき、画面を覗き込もうとする。 父は今度は突き放さず、むしろ得意げに見せつけた。 「よく見ろ!まだ動いてる!しかもペースも悪くない!」 ゆっくりと移動する赤い点を指差しながら、父は鼻で笑った。 「俺が相手にしないから、生活費を本当に止められると思って焦ったんだろうな。 根性のないやつだ。こうやって追い込まなきゃダメなんだよ!」 母はその赤い点を見つめ、再び涙をこぼした。だが今度は、安堵の涙だった。 「動いてる……よかった、本当によかった……!」 その場に崩れ落ち、両手を合わせた。 「どうか、どうか守ってください……」 親戚たちもほっと息をついた。 叔母が場を取り繕うように笑った。 「ほらね、安弘は体は弱いけど、ちゃんと言うことは聞く子よ。 義姉さんも心配しすぎよ。いくらなんでも実の父親が、子どもを危険な目に遭わせるわけないでしょう?」 伯父も酒杯を持ち上げた。 「そうだそうだ、杞憂だったな。さあ、飲もう、飲もう」 張り詰めていた空気は一気に緩み、先ほどの険悪なやり取りなど、ただの些細な騒ぎだったかのように消えていく。 だが、宙に漂う僕だけは、その赤い点を見つめながら、骨の髄まで凍るような寒気に襲われていた。 あれは僕じゃない。あれは、狼だ。 意識を失う直前、僕は遠くない場所で狼の遠吠えを聞いた。 岩陰のすぐ向こうだった。 今ごろ僕の亡骸は、あの飢えた野狼に引きずられ、雪の上に長い血の跡を残しているはずだ。 牙が脚に食い込み、そのまま巣へと運ばれていく。 新年の獲物として。 赤い点が一度跳ねるたびに、それは僕の体がさらに引き裂かれる瞬間だった。 父は見下ろすように母を見て言った。 「分かっただろ? 危うくお前に台無しにされるところだった。 さっき本当に通報なんかしてたら、警察が山に行って、あいつが元気に登ってるのを見て、僕の面目はどうなってた? 虚偽通報で罪に問われるところだったぞ!」 しゃがみ込み、母の額を指で何度も突く。 「この疫病神が。 危うく、あいつの人生で一番大事なことを潰すところだったんだぞ! 一生お前を恨むところだったな!」 母は反論しなかった。ただぼんやりと画面を見つめ、呟いている。 「生きてさえいれば……生きてさえいれば……恨まれてもいい……」 父は立ち上がり、ズボンの裾を軽く払った。 「もういい、そんな芝居はやめろ。 来たならもう帰るな。座って飯を食え! お前の息子がどうやって雪山を制覇するか、しっかり見ておけ! 甘やかしから離れたら、どれだけやれるかってな!」 無理やり母を引き起こし、空いている椅子へと押し込んだ。 母は震えながら隅に縮こまり、視線を一瞬たりともスマートフォンから離さなかった。 赤い点が、またわずかに動き――そして、再び止まる。 狼が疲れて、食事のために立ち止まったのかもしれない。 だが父は気にも留めず、再び音声メッセージを送った。 「動いたならさっさと登れ!女々しくぐずぐずするな! さっきのペースを維持しろ! 今夜十二時までに頂上に着いたら、二万円のお年玉をやる!」 その二万円は、彼にとっては褒美。僕にとっては、命の値段だった。 もっとも、もう受け取ることはできない。 酒で赤くなった父の顔を見つめる。口を開くたび、嫌な酒の匂いが吐き出される。 「さあ、みんなグラスを上げろ!安弘の特訓成功を祝って! 我が小野田家に、本物の男が生まれることを祝して!」 「乾杯!」 ガラスのぶつかり合う音が、やけに甲高く響いた。 僕は母を見た。大きな椅子の中に縮こまり、目の前の食器には一切手をつけず、ただその両目だけが、赤く腫れ、血走りながら、僕の命を示すあの赤い点を、じっと見つめ続けていた。 ――再び動くことを、祈りながら。 第5話 そして僕は祈っていた。 あの狼が、少しでも早く食べ終わってくれるようにと。 せめて、父が、僕の死体に向かって、あの吐き気のするような教育を施す機会など、二度と与えられないように。 時間は一秒一秒、容赦なく過ぎていく。 壁の掛け時計は、十一時五十分を指していた。 部屋の空気は、どこか異様に歪み始めている。 あの赤い点は、あの短い移動を最後に、二度と動いていない。 第一キャンプ場から四百メートルの地点で、ぴたりと止まったままだった。 父は酒が回り、時間を一瞥すると、スマートフォンをテーブルに叩きつけた。 「あと十分だ」 親戚たちを見回すその目は、焦点が定まらず、それでいて妙に熱を帯びている。 「賭けるぞ。あいつは十二時ぴったりに入ってくる。 もうとっくに着いてて、ドアの前で俺を驚かせようと待ってるんだ。 あいつは昔からそういう奴だ。俺に気に入られたくて、でも素直に言えない。 高い酒を一本賭ける。入ってきたらまず土下座して、父さん、俺が間違ってましたって言うに決まってる」 父は高らかに笑った。その笑い声は、静まり返った個室の中でやけに耳障りだった。 誰も相槌を打たない。 伯父は黙って煙草を吸い、叔父はスマートフォンをいじるふりをし、伯母は落ち着かない様子で手を擦り合わせている。 誰もが、何かがおかしいと感じていた。 ただ一人、母だけが、あの赤い点を見つめ続け、唇を噛みしめすぎて血を滲ませていた。 ゴーン。 遠くから、新年を告げる鐘の音が響く。続いて、窓の外に無数の花火が咲き乱れた。 赤、緑、金……漆黒の夜空を昼のように照らし出す。 歓声が、かすかに届く。 十二時。この個室の扉は、固く閉ざされたまま、誰も入ってこない。 誰も、膝をついて謝る者などいない。 父の笑みが、凍りついた。 扉を睨みつけるその視線は、まるで穴でも穿とうとするかのようだった。 一分経過。 二分経過。 五分が経過しても、扉は微動だにしない。 父の面子は、完全に潰れた。 あれほど大口を叩き、賭けまで持ち出したその言葉は、今やただの笑い話でしかなかった。 「……クソが」 吐き捨てるように呟き、スマートフォンを掴んだ。 「このガキ……俺をコケにしやがって……」 電話をかけた。 プルルル…… 長い呼び出し音。 その一音一音が、父の張り詰めた神経を切り裂くように響いた。 切ろうとした、その瞬間。 通じた。 圏外でも、電源オフでもない。 誰かが、出た。 「……おい?」 父はスピーカーに切り替え、怒りを押し殺した声で言った。 「返事しろ。口がきけないのか?時間も守れないで、何様のつもりだ?」 食卓は一瞬で静まり返る。 呼吸音さえ聞こえるほどの静寂。 だが、電話の向こうから、僕の声は聞こえない。 あるのは、吹き荒れる風の音だけ。 その不気味な風音の中で、やがて一人の男の声が混じった。 低く、荒れた声。荒い呼吸を伴っている。 「小野田剛さんですか?」 父は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐさま怒りを爆発させた。 「誰だお前は!?安弘はどうした! あいつが携帯をよこしたのか?それとも金でも払って芝居させてるのか!?」 スマートフォンに向かって怒鳴り散らす。 「ふざけるな!本人を出せ! 見知らぬ男に出させて何のつもりだ!脅かせるとでも思ってるのか!?俺がそんなことでビビると思うな!」 数秒の沈黙。 そして、再び男の声が響いた。 今度は、迷いではなく、明確な震えを帯びていた。 抑えきれない怒りと、恐怖が滲んでいる。 「……こちらは救助隊の隊長、吉永強(よしなが つよし)だ」 救助隊? 父は鼻で笑い、嘲りを口にしようとした、その瞬間。 「まだ芝居を続ける気か?」 男の声が一気に張り上がり、スピーカー越しに響き渡った。その振動で、テーブルの食器がかすかに震えた。 「第一キャンプ場の上、四百メートル地点の崖下で、彼を発見した! 全身が凍りついている……まるで石のように硬直している! 手には……手には、引き裂かれた紙切れが、しっかり握られていた!」