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狂愛の銃声、純白の私
「決めたわ。神代家のあの植物人間には、私が嫁ぐ」 瀬戸柚和(せと ゆわ)は瀬戸家本邸のドア枠に寄りかかり、唇に皮肉めいた笑みを浮かべた...
Chương (1)
第1章
「決めたわ。神代家のあの植物人間には、私が嫁ぐ」
瀬戸柚和(せと ゆわ)は瀬戸家本邸のドア枠に寄りかかり、唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。
瀬戸宗一郎(せと そういちろう)の指から葉巻が滑り落ち、値打ちのつけられない絨毯を焦がしそうになった。彼は本革のチェアから勢いよく身を乗り出し、パッと相好を崩した。
「柚和、ようやく踏ん切りがついたか!よかった!神代家の方も急いでいてな、半月以内にはS市に嫁いでもらわなければならないんだ。ウェディングドレスはどんなデザインがいい?俺がすぐに手配させてやるから……」
「それだけ?」柚和は鼻で笑った。「あなたの大事な隠し子の身代わりになって嫁ぐっていうのに、少しは誠意を見せたらどう?」
第1話
「決めたわ。神代家のあの植物人間には、私が嫁ぐ」
瀬戸柚和(せと ゆわ)は瀬戸家本邸のドア枠に寄りかかり、唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。
瀬戸宗一郎(せと そういちろう)の指から葉巻が滑り落ち、値打ちのつけられない絨毯を焦がしそうになった。彼は本革のチェアから勢いよく身を乗り出し、パッと相好を崩した。
「柚和、ようやく踏ん切りがついたか!よかった!神代家の方も急いでいてな、半月以内にはS市に嫁いでもらわなければならないんだ。ウェディングドレスはどんなデザインがいい?俺がすぐに手配させてやるから……」
「それだけ?」柚和は鼻で笑った。「あなたの大事な隠し子の身代わりになって嫁ぐっていうのに、少しは誠意を見せたらどう?」
リビングの空気が一瞬にして凍りつき、宗一郎は険しい顔つきになった。「親に向かってなんという言い草だ。隠し子などではない、お前の妹だろう」
「同じお腹から生まれてこそ、妹なのよ」彼女は軽く笑ったが、その瞳の奥には氷のような冷たさが宿っていた。「彼女はあなたの不倫の産物よ。死んでも認めない」
宗一郎はこめかみに青筋を立てたが、激昂する直前で無理やり怒りをねじ伏せた。
彼は深く息を吸い込んだ。葉巻の灰がパラパラと落ちる。「何が望みだ?」
「二千億円」彼女は言った。「それから、私が嫁いだ後は、蒼琉をあの隠し子の護衛に回してちょうだい」
宗一郎の表情が固まった。
狂人でも見るかのような目で柚和を睨みつける。「正気か?二千億円も出せば、うちの流動資金がすべて底をついてしまう!
それに蒼琉といえば、お前が一番気に入っていた人だろう。以前はあいつに嫁ぐと駄々をこねていたくせに、今さら置いて行くというのか?」
「条件を呑むのか、呑まないのか、それだけ答えて」柚和は苛立ちを見せ、きびすを返して立ち去ろうとした。
「わかった!」宗一郎は机を叩いて立ち上がった。「お前がS市へ嫁ぐ日、その二つの条件をすぐに履行してやろう」
彼は深く追及する気になれず、ただ一刻も早くこの件を片付けてしまいたかったのだ。
かつて神代家の独り子が世間の注目を一身に集めていた頃、彼は先手を打って両家の婚約を取り付けた。将来は瀬戸望愛(せと もあ)を嫁がせ、この下の娘にふさわしい居場所を用意してやるつもりだった。
ところが、不慮の事故によりその独り子は植物状態となってしまった。
望愛に苦労をさせたくない一心で、彼は柚和もまた自分の娘であったことを思い出したのである……
柚和は背を向けたまま手を振った。大理石の床を叩くハイヒールの足音は、まるで誰かの頬を平手打ちしているかのように、高く澄んだ音を響かせていた。
ドアノブに手を掛けた瞬間、背後から再び宗一郎の声がした。「金が必要な理由はわかる。だが、あれほど蒼琉に執着していたお前が、どうしてあいつを望愛に譲れるんだ?」
柚和の指が強張った。
振り返ることはなかったが、不意に目頭が熱くなった。
その名前は一本の棘のように、彼女の心の最も柔らかい部分に深く突き刺さっていた。
彼女は力任せにドアを押し開け、宗一郎と今の問いを一緒に背後へと閉め出した。
自宅に戻った時には、すでに深夜になっていた。
柚和がハイヒールを鳴らして階段を上がり、如月蒼琉(きさらぎ そうる)の部屋の前を通りかかった時、中から、何かを押し殺したような、艶めかしい声が漏れ聞こえてきた。
ドアは完全に閉まっておらず、ふと視線を向けると、室内の光景がこの上なく鮮明に目に飛び込んできた。
蒼琉はベッドのヘッドボードに寄りかかり、その細く長い指の間に一枚の写真を挟んでいた。
彼は目を閉じ、喉仏を激しく上下させながら、低く掠れた色気のある声を漏らしていた。「望愛……いい子だ……可愛い……」
それは望愛の写真だった。
去年の誕生日パーティーで撮られたもので、白いワンピースを纏った彼女が、いかにも純真無垢な様子で微笑んでいる。
柚和は高級ブランドバッグの持ち手に爪を食い込ませ、深い三日月型の跡を残しながら、ようやく心の中で宗一郎の問いに答えた。
――だって彼もあなたと同じで、望愛のことしか見ていないからよ。
その答えが胸の中で渦巻き、五臓六腑を焼き尽くすように痛んだ。
三年前、柚和が初めて蒼琉と出会ったのは、護衛を選別する日のことだった。
ずらりと並んだ大柄な男たちの中で、彼女は一目で彼に釘付けになった。
理由は単純明快だった。
彼が常軌を逸するほど美形だったからだ。
188センチの長身に、肩幅が広く引き締まった腰周り、精悍で彫りの深い顔立ち。とりわけその漆黒の瞳は、氷のように冷ややかに澄んでいた。
柚和は界隈でも名高い「小悪魔」であり、最初は彼をからかって遊んでやるつもりだった。しかし、この三年間――
彼女がわざと泥酔したふりをして彼の胸に倒れ込んでも、彼は片手で彼女の首根っこを掴み、まるで子猫を摘み上げるようにして、ソファーへと放り戻した。
真夜中にキャミソール姿で彼の部屋のドアを叩いても、彼は自分のジャケットで彼女の体をすっぽりと包み込み、あくまで慇懃に彼女の部屋へと送り届けた。
プールで溺れたふりをした時でさえ、彼は水に飛び込んで助け出しはしたものの、彼女の腰に触れることすらしなかった。
どれほど色仕掛けを用いても、彼は柚和に一切の興味を示さず、常に自制心を保って礼儀正しく「柚和様」と呼ぶだけだった。それなのに、柚和はあろうことか、そんな彼に心を奪われてしまった。
なぜ惹かれてしまったのか、自分でも分からなかった。
おそらく、母親を亡くして以来、あまりにも孤独な日々を生きてきたからだろう。
七歳の年、宗一郎は不倫の末に一人の隠し子を家に連れ込んだ。
その隠し子の名は望愛。柚和よりわずか三ヶ月年下だった。つまり、結婚生活十年のうち九年もの間、宗一郎は外で女を作っていたのだ。
その日、柚和が信じて疑わなかった幸せで穏やかな家庭は、音を立てて粉々に砕け散った。
当時、母親である瀬戸幸子(せと さちこ)のお腹には二人目の子供がいた。妊娠九ヶ月の臨月で、出産まであと数日という時期だった。
宗一郎を骨の髄まで愛していた幸子は、ヒステリックに彼を問い詰め、過呼吸になるほど泣き叫んだ。その晩、あまりのショックからお腹の子に障りが出て病院へと担ぎ込まれたが、手術室に入る間もなく母子ともに命を落とした。
それ以来、柚和は宗一郎を激しく憎み、望愛をも深く憎悪した。
彼女は瀬戸家本邸を出て、一人で学校に通い、一人で食事をし、一人で成長した。
あまりにも美しく育った彼女に対し、界隈の放蕩息子たちによる執拗な付きまといや嫌がらせが後を絶たなくなった。そんな連中にほとほと嫌気がさし、ようやく護衛を雇う決意を固めたのだ。
蒼琉は、彼女にとって初めての護衛だった。
その日から、彼女は一人ではなくなった。何をするにも蒼琉がそばにいてくれた。
最初は彼への感心、次にからかうような誘惑、そして最後には……いつしか芽生えた本気の恋心。しかし、三年という千日以上の月日が流れても、彼が彼女のために情を動かしたことなど、一度もなかった。
生まれつき感情の欠落した、冷徹な男なのだと思っていた。あの日、彼が望愛の写真を見つめながら自涜に耽り、果てた直後に一本の電話に出るまでは。
「若旦那様、この護衛ごっこはいつまでお続けになるおつもりですか?あなたはN市を牛耳る如月家の跡取りでいらっしゃいます。女など、それこそより取り見取りでしょうに。
望愛様に一目惚れなさったのでしたら、力ずくで手に入れてしまえばよろしいものを。まさか、あの方がこれほどまでに純情な真似をなさるとは思いもしませんでした。
柚和様のもとで護衛に身をやつしてまで、四六時中望愛様の顔を見るためにそこまでなさるのですか?」
蒼琉は冷淡な表情で答えた。「調べたところ、望愛は隠し子として不遇な幼少期を送り、安心感にひどく飢えている。強引に迫れば怯えさせてしまう。俺は時間をかけて手に入れるつもりだ」
「なるほど、さようでございましたか。如月家の中に、これほどまでに一途な想いを抱かれるお方がおられるとは、思いも寄りませんでした。
柚和様が毎日誘惑してくるっていうから、少しは心が動くかと思いましたがね。彼女、界隈じゃ有名な小悪魔です。彼女を狙ってる男なんて、掃いて捨てるほどいます」
蒼琉は微かに笑ったようだったが、その口から放たれた言葉は、柚和を底知れぬ淵へと突き落とした。
「そうか?興味ないな。彼女は望愛の髪の毛一本にすら及びはしない」
一文字一文字が鋭利なナイフとなって、柚和の心臓を情け容赦なく抉った。
その瞬間、彼女の心の中から蒼琉への恋心は、欠片も残らず消え失せた。
部屋の中では自涜行為がどれほど続いているのか分からなかったが、なぜか今日の蒼琉は、遅々として絶頂を迎えようとしなかった。
それを見て、柚和は冷たい笑みを口元に浮かべると、勢いよくドアを押し開けた。
第2話
蒼琉が顔を上げた瞬間、柚和はその瞳の奥に底知れぬ暗闇を見た。
生まれながらの支配者ゆえか、このような場面を抑えられても、彼の表情には微塵の動揺も走らなかった。
彼は余裕の態度で写真を枕の下へと忍ばせると、長く美しい指で悠然とファスナーを上げた。
わずか数秒で、彼は再びあの禁欲的で人を寄せ付けない護衛の顔に戻った。先ほど理性を失っていた男の姿など、まるで幻であったかのように。
柚和は思わず冷笑を漏らした。「最後まで出し切らずにしまうなんて、欲求不満にならない?私が手伝ってあげようか?」
蒼琉は表情一つ変えず、ただわずかに上体を後ろへ反らして彼女との距離を置いた。「柚和様、何か御用ですか?」
いつもこうだ。
望愛の写真相手にはあれほど情欲を剥き出しにするくせに、柚和を前にすると、まるで欲を捨てた修行僧のようになる。
柚和は手のひらに爪を深く食い込ませ、望愛のあの味気ない顔を思い浮かべた。
スタイルも容姿も自分には遠く及ばないというのに、どういうわけか、誰もがあの「清純」という名の三文芝居にコロリと騙されるのだ。
まあいい。私には美貌も、金も、完璧なプロポーションもある。
今日を境に、私を愛さない男など、こちらから切り捨ててやるわ。
「明日のオークション、付いてきなさい」柚和は冷ややかに用件だけを告げると、きびすを返した。
蒼琉は微かに眉をひそめた。「二日間の休暇をいただいていたはずですが……」
「望愛も来るそうよ」彼女は背を向けたまま言い放った。
背後で一瞬の沈黙が落ち、やがて男の低く響く声が返ってきた。「……承知いたしました、柚和様」
柚和の心臓が鋭い針で突き刺されたように痛んだ。
やはり、望愛の名前さえ出せば、彼は自分のルールなどいとも容易く踏みにじるのだ。
安心なさい。
間もなく、この私が自らの手で、あなたを望愛の元へ送り届けてあげるから。
翌朝、柚和が邸宅を出ると、蒼琉はすでに車の傍らで待機していた。
黒のスーツが広く逞しい肩と引き締まった腰の完璧なラインを際立たせ、朝の光が、その彫りの深い横顔を金色の輪郭で縁取っている。
以前の彼女なら、こんな時は必ずと言っていいほど彼を誘惑したものだ。足首を挫いたふりをしてその胸にしなだれかかったり、耳元でわざと艶やかな吐息を吹きかけたりした。
だが今日は、彼女は無表情のまま車に乗り込み、彼に一瞥たりとも与えなかった。
蒼琉は予期せぬ彼女の態度に、わずかに訝しげな視線を向けたが、すぐに目を逸らし、無言で助手席へと乗り込んだ。
車がオークション会場へと向かう道中、柚和はずっと窓の外を眺めていた。いつものように些細な口実を作って彼に話しかけることもなく、車内は互いの呼吸音が聞こえるほどに静まり返っていた。
オークション会場は、市内の最高級ホテルに設けられていた。
巨大なクリスタルのシャンデリアが眩い光を放っており、着飾った名士たちが優雅に談笑している。
柚和が入場するや否や、前方に立つ望愛の姿が目に飛び込んできた。白いワンピースに身を包み、艶やかな黒髪をさらりと背中に流して、数人の令嬢たちと楽しげに笑い合っている。いかにも純真無垢といった様子だ。
蒼琉の目つきが瞬時に変わった。
柚和の背後に立ち、護衛としての職務を全うしてはいるものの、彼の意識が完全に望愛へと奪われているのを、柚和は感じ取っていた。
「お姉さん!」望愛はこちらに気づくと小走りで駆け寄り、馴れ馴れしく柚和の腕に絡みついた。「奇遇ね、お姉さんもオークションに来てたの?」
柚和は冷酷にその手を振り払った。「気安く触らないで」
望愛はすぐさま目尻を赤くし、いかにも可哀想な素振りで蒼琉を見つめた。「蒼琉さん、私はただお姉さんと親しくしたかっただけなのに……」
蒼琉は微かに眉をひそめ、柚和へ向けるその視線には、押し殺したような嫌悪の色が滲んでいた。
望愛はその隙に蒼琉の袖を引いた。「ねえ、蒼琉さん。聞いたわ、この前私が熱を出して和菓子を食べたいって言った時、あなたが真夜中の大雨の中、わざわざ買って届けてくださったんですって?
あの時は熱がひどくて意識も朦朧としていたし、その後もずっと養生していたから、お礼を言うのがこんなに遅くなって、本当にごめんね」
蒼琉の冷酷な目元が瞬時に和らいだ。「望愛様、どうぞお気になさらず。ただのついでですから」
ついで?柚和は鼻で笑った。
あの日、彼は五時間も姿を消し、ずぶ濡れになって帰ってきたというのに。それが彼の言う「ついで」なのか?
「だったら、お礼にご飯でもご馳走させて!」望愛は甘ったるい声で言った。
蒼琉は今度は拒まず、「望愛様の仰せのままに」と答えた。
「じゃあ、その時はお姉さんも一緒に!」望愛は柚和の方を向き、わざとらしく驚いたような声を上げた。「あら、お姉さん、なんだかすごくやつれて見えない?病気だったのは私の方なのに……」
「あなたとそんなに親しかったかしら?」柚和は冷酷に遮った。「愛人の娘は、自分の身の程だけ弁えていなさい」
望愛の顔色がさっと変わり、蒼琉も再び眉をひそめた。
ちょうどその時、オークショニアが開始を宣言し、この忌々しい会話はようやく断ち切られた。
柚和もこれ以上望愛を相手にする気はなく、そのまま席に着いた。
柚和は間もなく神代家に嫁ぐことになっている。宗一郎に嫁入り道具の用意を期待するのは到底非現実的であり、自力で揃えるしかない。それこそが、彼女がこのオークションに足を運んだ真の目的だった。
席に着くと、すぐに最初の出品物がステージに運ばれてきた。
ピジョンブラッドのルビーのネックレス。スタート価格は二千万円。
柚和はためらうことなくパドルを挙げた。
「四千万円」
意外なことに、望愛もパドルを挙げた。「六千万円」
柚和が視線を向けると、望愛は微かに微笑み返してきた。「お姉さん、私もこれ気に入っちゃった。私に譲ってくれるわよね?だってお父さんがくれるお小遣い、お姉さんは私よりすこし少ないみたいだし」
柚和は冷笑した。すこし少ないなどという次元ではない。
幼い頃から、宗一郎が望愛に与える小遣いは月一億円。それに対し、柚和にはたったの一万円しかなかった。
幸子が残した遺産がなければ、とうの昔に野垂れ死んでいたかもしれない。
だが、今は違う。彼女の手元には二千億円があるのだ。
「八千万円」柚和は再びパドルを挙げた。
望愛は明らかに動揺したが、それでも奥歯を噛みしめて食い下がった。「九千万円」
「一億円」
「一億一千万円」
何度かの競り合いの末、望愛の顔色は見る見るうちに険しくなっていった。「お姉さん、そんな大金どこにあるの?払えなかったらどうするつもり?」
「二億円!」
柚和は一気に額を倍に跳ね上げ、皮肉な笑みを浮かべて望愛を見据えた。「今の状況だと、払えないのはあなたのほうじゃないかしら?」
望愛は屈辱に顔を真っ赤に染め、周囲の客たちもひそひそと噂話を始めた。
オークショニアが丁寧な口調で尋ねた。「望愛様、これ以上値を上げられますか?」
「ちょっと待って」望愛は慌ててスマートフォンを取り出し、宗一郎にメッセージを送った。
しばらくして、彼女の顔色はさらに曇った。どうやら断られたらしい。
その様子を見て、柚和は冷ややかに口角を吊り上げた。
拒絶されるのは当然だ。
あの男は二千億円もの大金を渡したばかりなのだから、愛娘の面子を保つための余裕など残っているはずがない。
この極めて気まずい瞬間に、パリッとしたスーツ姿の男が突如として会場の中央に現れ、大声で言った。
「十億円」
第3話
会場は一瞬にして騒然となった。
「十億円」オークショニアが驚愕の声を上げる。
高木凛空(たかぎ りく)は淡々と説明した。「私は如月家の若旦那様の秘書を務めております。若旦那様より、『本日、望愛がお気に召した品はすべて、いかなる高値になろうとも必ず落札せよ』との命を受けております」
オークション会場は一瞬にして沸き立った。
「若旦那様だって?あの如月家の御曹司、N市で知らぬ者はいないあの……」
「彼は女に一切興味がないはずじゃなかったのか?なぜ望愛さんのためにあんな高額な買い物を?」
「どうやら瀬戸家の次女は、とんでもない玉の輿に乗るようだな……」
周囲のざわめきが絶え間なく響く中、望愛は最初こそ驚きに目を見開いていたものの、やがてそれは歓喜へと変わり、最後には隠しきれない優越感へと変わっていった。
「あの、彼はどこにいらっしゃるの?直接お礼を言わせていただけないかしら?」望愛は頬を赤らめて尋ねた。
凛空は恭しく答えた。「若旦那様は現在お姿を現せる状況にございません。時が来れば、自ずとお会いできるかと存じます」
望愛はそこで初めて柚和の方を向き、勝利の喜びに満ちた目を向けた。「お姉さん、まだ競り合うつもり?」
次の瞬間、彼女はわざとらしく無邪気な顔を作って付け加えた。「お姉さんがこれ以上競り合ったら、破産しちゃうわよ。だってこの界隈で、如月家の若旦那様よりお金持ちな人なんていないもの」
柚和の顔色がさっと変わり、猛然と蒼琉を睨みつけた。しかし、当の蒼琉は甘やかすような視線を望愛に向け、その瞳は優しさに満ち溢れていた。
その後のオークションは、まるで三流の恋愛ドラマだった。
望愛がほんのわずかでも視線を向けた品は、ことごとく凛空によって落札されていく。
例のルビーのネックレスも、古の至宝と称される陶磁器も、開始価格十六億円を誇る巨匠の名画でさえも、すべては望愛の掌の中に収まっていった。
柚和は勢いよく立ち上がり、たまらず凛空を問い詰めた。「如月家の若旦那様は、他人に一つも譲る気がないわけ?」
凛空がさりげなく蒼琉に視線をやると、蒼琉は気づかれないほどの僅かな動きで頷いた。
「申し訳ございません、柚和様」高木は極めて冷淡に答えた。「これらはすべて、若旦那様から望愛様への贈り物でございます。若旦那様は、望愛様がこのオークションを楽しまれることだけを望んでおられます。他の方々のお気持ちなど、一顧だにされておりません」
柚和は笑った。爪が掌に深く食い込む。
彼女は蒼琉の方を見たが、彼の視線は終始、勝ち誇ったように微笑む望愛だけを追いかけていた。
蒼琉、いい度胸ね。
本当に、大したものだわ!
オークションが終わり、望愛はすぐさま令嬢たちに取り囲まれ、ちやほやされていた。
柚和はその反吐が出るような茶番を見ていられず、早歩きで会場を後にした。
車に乗り込むなり、運転手に命じた。「宵月クラブへ行って」
今はアルコールで感覚を麻痺させる必要があった。
ところが、ドアが閉まる前に望愛が強引に乗り込んできた。「お姉さん、クラブに遊びに行くんでしょ?私も最近退屈してたの、連れてってよ!」
柚和が追い出そうとした矢先、蒼琉が表情ひとつ変えずに車のドアを押さえ、運転手に向かって短く言った。「出せ」
道中、望愛はずっと興奮冷めやらぬ様子で今日のオークションの話をしていた。
「蒼琉さん、如月家の若旦那様はどうして私にこんなに良くしてくださるのかな?会ったこともないのに」
蒼琉の声は、信じられないほど優しかった。「あの方が、望愛様をお好きだからです」
望愛は瞬時に目を丸くし、頬を赤らめた。「蒼琉さん、からかわないでよ!」
「男のことは、男が一番よく分かります」そう言う彼の視線は、熱を帯びて望愛を見つめていた。
「愛の重さは、注がれた財の重さに現れるものです。それに……望愛様はこれほど素晴らしいお方なのですから、あの方がお心を寄せられるのも、決して不思議なことではございません」
「じゃあ……蒼琉さんも私のこと、好き?」望愛が突然尋ねた。
蒼琉は一瞬言葉に詰まり、口を開きかけたが、柚和が冷酷に遮った。「イチャつきたいなら降りてちょうだい。これは私の車よ!」
望愛はたちまち目尻を赤くした。「ごめんなさい、お姉さん。うるさかったわね、もう黙るから」
柚和は相手にする気も起きず、窓の外へと顔を向けた。
車の窓ガラスの反射越しに、蒼琉が望愛へ向ける痛ましげで優しい眼差しと、自分へ向ける氷のように冷たく嫌悪に満ちた視線が、はっきりと見て取れた。
柚和は自嘲気味に笑った。
どうやら世の男という生き物は、例外なく清純ぶった腹黒女しか愛せないらしい。
第4話
クラブの照明は妖しく揺らめき、柚和は三杯目のウイスキーをあおった。
アルコールが焼けつくように喉を通っていくが、胸の奥底に渦巻く鬱憤は一向に晴れる気配がない。
ダンスフロアの中央、ピンヒールで激しく踊る彼女の真紅のドレスが鮮やかに翻る。その視界の端に、VIP席の傍らに立つ蒼琉の姿を捉えた。
本来なら柚和の護衛であるはずなのに、今この瞬間も、彼は望愛の傍から一歩も離れようとしない。
望愛が何かを囁いたのか、彼女の唇が蒼琉の耳たぶに触れんばかりに近づく。柚和に対しては常に氷のように冷徹なあの男の耳先が、ほんのりと赤く染まった。
柚和は冷笑し、踵を返した。しかしその瞬間、群がる遊び人の男たちに取り囲まれてしまう。
「柚和さん、一杯どう?」
「連絡先、教えてよ」
「ずっとお近づきになりたかったんだ。いやあ、噂に違わぬ絶世の美貌だね」
フロアの隅に追い詰められ、身動きが取れない。拒絶しても無意味で、群がってくる男たちは増える一方だ。中には、無遠慮に彼女の腰へと手を這わせる者までいた。
「蒼琉!」ついに堪忍袋の緒が切れ、柚和は叫んだ。
蒼琉はようやく柚和の窮地に気づいたかのように、眉をひそめて群衆を掻き分けながら近づいてきた。黒いスーツ越しにも分かる、無駄のない逞しい腕の筋肉。彼が一瞥しただけで、周囲の男たちは気まずそうに退散していった。
「事情を知らない人が見たら、あなたが望愛の護衛だと思うでしょうね」柚和は鼻で笑い、鎖骨に跳ねた酒の滴を指で拭い取った。
蒼琉は伏し目がちに答えた。「申し訳ございません。気づきませんでした」
「気づかなかった?」柚和は唐突に距離を詰め、唇を彼の顎先に触れんばかりに寄せた。「それとも、初めから見る気がなかったのかしら?」
熱を帯びた吐息が不意に迫り、蒼琉の喉仏が微かに上下した。彼は半歩後ずさりする。「柚和様、少し酔いが回られているようです」
「ご心配なく。私が嫁いだ後は、思う存分望愛のことだけを守ればいいんだから」
柚和の言葉は、ステージから突然巻き起こった絶叫に完全に掻き消された。
スタッフが巨大な鉄檻を押し出してきたのだ。中には、苛立たしげに歩き回る二頭の巨大な闘犬の姿があった。
「今夜のスペシャルプログラム!」MCが興奮気味にマイクで叫ぶ。「『影嵐』対『紅蓮』、これよりベットを開始します!」
柚和は不快げに眉をひそめた。
このクラブではこうした闘犬の賭けが頻繁に行われているが、彼女は昔から嫌悪感を抱いていた。
その場を立ち去ろうとした瞬間、鉄檻からギィッという軋むような音が響いた。
錠前が外れた。
惨劇は一瞬だった。
ひと回り体格の大きい闘犬が檻の扉を突き破り、最も近くにいた客の群れへと一直線に飛びかかった。
絶叫が飛び交う中、柚和の目に映ったのは、一瞬の躊躇もなく踵を返し、まるで本能に従うかのように望愛のもとへ駆けつける蒼琉の姿だった。彼は望愛をその腕の中にすっぽりと庇い、非常口へと押しやっていく。
一方、柚和自身は闘犬に最も近い場所に立ち尽くしていた。その闘犬の口元から滴る唾液まで、はっきりと見えるほどの至近距離で。
「あっ……」
激痛は、あまりにも唐突に、容赦なく襲いかかった。
闘犬の鋭利な牙がふくらはぎの筋肉を貫いた瞬間、柚和は布地と肉が一緒に引き裂かれる嫌な音を聞いた。肉が無理やり食いちぎられ、鮮血が噴き出す。
床にへたり込んだ柚和は、その闘犬が再び自分めがけて飛びかかってくるのを、ただ見開かれた目で見つめることしかできなかった。
ターンッ。
鼓膜を劈くような銃声が響き、闘犬はドサリと床に崩れ落ちた。
柚和が最後に見たものは、銃を構えたまま望愛を庇い続ける蒼琉の背中と、グルグルと回転しながら暗転していく天井だった。
消毒液の匂い。
激痛の中で柚和が意識を取り戻した時、最初に視界に入ったのは真っ白な天井だった。ふくらはぎを襲う灼熱の痛み。息を吸い込むたびに、裂けた傷口の奥にある神経が剥き出しで引き摺られるような、おぞましい感覚が全身を駆け巡った。
痛みに耐えながらゆっくりと首を巡らせた彼女の目に、病室の入り口の光景が飛び込んできた。混濁した意識に、その有り様は残酷なまでの追い打ちをかけ、彼女の心を再び絶望の淵へと叩き伏せた。
望愛が蒼琉の胸に顔を埋めるようにして泣きじゃくっていた。「蒼琉さん、あなたはお姉さんの護衛なのに、どうして私を助けたりしたの……私のせいだわ、私があんなところに行かなければ……」
蒼琉の手が、望愛の背中を優しく撫でる。その声は、信じられないほど甘く優しかった。
「望愛様がご自分を責める必要はございません。たとえ百回やり直したとしても」彼は言葉を区切り、指先で望愛の頬を伝う涙を拭った。「私は真っ先に、望愛様をお守りいたします」
「どうして?」望愛は涙に濡れた瞳で見上げた。
蒼琉は望愛を見つめ返し、その目に隠しきれない情熱を滲ませた。「それは……私が、望愛様を……」
第5話
ガシャン。
グラスが床に落ちて粉々に砕け散る鋭い音が、蒼琉の言葉を容赦なく遮った。
望愛は怯えたウサギのごとく、蒼琉の腕の中から弾かれたようにして離れた。
「お姉さん、気がついたのね!」望愛はベッドの傍らにすがりつき、あっという間に涙を溢れさせた。「具合はどう?まだ痛む?全部、全部私のせいで……」
柚和は血の気を失った蒼白の唇を歪め、冷たく笑った。「あなたがそこで目障りに居座っているのに、良くなるわけないでしょう?」
その言葉に、望愛の涙はさらに堰を切ったように溢れ出した。彼女はこの世の全ての悲劇を背負ったかのように、肩を痛ましく震わせる。
望愛は唇を噛みしめ、最後にすがるような視線を蒼琉に向けると、踵を返して病室から走り去っていった。
蒼琉は反射的に後を追おうとしたが、その足を強引に止めた。
彼は柚和へ向き直り、低く沈んだ声で言った。「柚和様。あの時は事態が急変し、とっさに反応できませんでした……」
柚和は何も答えず、ただ顔を背けて窓の外へと視線を落とした。
聞きたくなかった。
それから丸三日間。蒼琉は職務に忠実な護衛として病室のドアの前に立ち続けたが、柚和が彼に言葉を交わすことはただの一度もなかった。
退院の日を迎えるまで。
柚和はまだ完治していない脚を引きずりながら、真っ直ぐに書斎へと向かった。
引き出しを開け、漆黒の革鞭を取り出す。
それは瀬戸家に代々伝わる折檻用の具だ。一振りすれば皮膚を裂き、肉を削ぎ落とすほどの威力を秘めたものである。
「蒼琉をここへ呼んできなさい」彼女は執事に短く命じた。
蒼琉が扉を開けて入ってきた時、柚和は悠然とした手つきで革鞭を拭い清めていた。
大きな窓から差し込む陽光が、彼女の長い睫毛の下に影を落としている。
「蒼琉。あなたは私の護衛でありながら、主を守るという責務を怠った」彼女は静かに視線を上げ、彼を射抜いた。「私があなたに罰を与えても、異論はないわね?」
蒼琉はその場に立ち尽くしたまま、わずかに目を見開いた。
柚和はその一瞬の動揺を、はっきりと見逃さなかった。
あのN市で飛ぶ鳥を落とす勢いの如月家の御曹司が、まさか自分に対して鞭が向けられる日が来るなど、想像すらしていなかったのだろう。
無理もない。彼は如月家の一人息子だ。普段なら誰もが彼に媚びを売り、指一本触れることさえ許されない男。
しかし今、彼女はその男を自らの手で鞭打とうとしているのだ。
柚和は彼の表情を見つめ、ふと自嘲気味に笑った。
彼がためらっている?
踵を返して出て行くことも、辞表を叩きつけることもできるはずなのに、まさか彼はためらっている。
望愛のために?
私の傍に留まり続け、望愛に近づき続けるために?
目頭が熱く焼け付く。あまりの滑稽さに、柚和は涙が滲むほど笑った。
蒼琉は奥歯を噛み締め、やがて低い声で絞り出した。「……異論はございません」
その瞬間、柚和の心臓が鷲掴みされたように激しく痛んだ。彼女は鞭を強く握りしめ、力任せに振り上げた。
「やめて!」
か細い人影が突然飛び込んできて、蒼琉の前に死に物狂いで立ちはだかった。
望愛は目に涙をいっぱいに溜め、声を震わせて叫んだ。「お姉さん、打つなら私を打って!蒼琉さんは悪くないわ、全部私のせいよ!」
「どきなさい」柚和は氷のように冷たい声で放った。
「どかない!」望愛は首を横に振り、痛ましいほどに涙を流した。「お姉さんが怪我をしたのは私のせいよ。罰するなら私を罰して……」
蒼琉は望愛を押し退けようと手を伸ばした。「望愛様、あなたには無関係なことです。どうか、退いてください」
しかし望愛は頑なに彼の前に立ちはだかり、てこでも動こうとしなかった。
その茶番劇を冷ややかに見下ろしながら、柚和の心の中でどす黒い怒りが沸点に達した。彼女は容赦なく、勢いよく鞭を振り下ろした。
鞭が空気を裂く鋭い音が部屋に響き渡る。狙いは蒼琉だったはずなのに、望愛が自ら身を挺して飛び込み、その一撃をまともに受けた。
「きゃあっ!」
望愛は短い悲鳴を上げ、その華奢な体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
蒼琉がとっさに望愛を抱き留め、背中の傷を確かめる。そして、ゆっくりと顔を上げたその瞬間――柚和は、冷酷な瞳と視線を交差させた。
そこに宿っていたのは、隠しようもない剥き出しの殺意だった。
まるで次の瞬間には飛びかかってきて、自分の首の骨をへし折るのではないかと思わせるほどの凄まじい殺気だった。
柚和は指先から血の気が引いていくのを感じ、まるで奈落へ突き落とされたような感覚に陥った。
「失せなさい」喉の奥からどうにか絞り出した声は、自分でも驚くような震えを帯びていた。
蒼琉は気を失った望愛を横抱きにし、無言のまま踵を返した。書斎の扉が耳を劈くような轟音を立てて閉ざされる。
柚和はその場に立ち尽くした。気がつけば、激しく震える両手はもう鞭を握り続けることさえままならなくなっていた。
第6話
三日後。
柚和は一人でウェディングドレスのフィッティングに訪れていた。
夜の帳が深く下りた頃。店を出た直後、突然背後から何者かに口と鼻を塞がれた。
鼻を突く薬品の匂いが気管に流れ込む。二、三度激しくもがいたものの、彼女の意識は急速に暗闇へと沈んでいった。
再び意識を取り戻した時、視界は完全な漆黒に覆われていた。
目隠しをされ、両手は椅子の背に縛り付けられており、指先一つ動かせない。
ピシャッ。
第一撃の鞭が容赦なく振り下ろされた瞬間、柚和は激痛に背中を弓なりに反らせた。
ザラついた縄が手首の肉に深く食い込む。視覚を奪われた暗闇の中で痛覚だけが異常に研ぎ澄まされ、彼女は唇から血が滲むほど噛み締め、喉まで出かかった悲鳴をどうにか飲み込んだ。
「お前は、怒らせてはならない相手の逆鱗に触れたんだよ」鞭を振るう男の冷酷な声が、どこか遠くから響くように聞こえた。
ピシャッ。ピシャッ。ピシャッ。
降り注ぐ鞭打ちは、鋭く空気を切り裂く音と共に、容赦なく彼女の皮膚を裂き、肉を削ぎ落とした。
柚和は死に物狂いで唇を噛み締め、意地でも悲鳴を上げまいと耐え抜いた。
一体、誰が……?
誰が私をこんな目に……?
暴行は永遠とも思えるほど長く続き、彼女の意識が限界を迎える寸前になってようやく止んだ。
続いて、電子音が静寂の中に響き、電話が繋がる気配がした。
「若旦那様。仰せつかった件、完了いたしました」
男が恭しい声で報告する。
電話の向こうから、聞き馴染んだあの低い声が漏れ聞こえてくる。
「ああ。後は送り届けておけ」
たったの一言。
その瞬間、柚和の全身の血液が凍りついた。
蒼琉だ。
私をこんな目に遭わせたのは、蒼琉だったのだ!
私が望愛に一撃の鞭を浴びせたというだけで、彼はその報復として、私に九十九回もの鞭を打ち下ろさせたというの……?
凄まじい激痛が全身を駆け巡り、ついに限界を迎えた彼女は、深い闇の底へと沈んでいった。
病院。
柚和は病室のベッドにうつ伏せになっていた。背中に刻まれた無数の傷跡が、焼けるように疼いている。
ドアの外からは、看護師たちのひそひそ話が漏れ聞こえてくる。
「ねえ、あの男、すっごくイケメン!彼女さんにもめちゃくちゃ優しいし……」
「本当よね。たった一筋の鞭の痕だけで、この世の終わりみたいに心配しちゃって。それに比べて、304号室のあの人……全身傷だらけなのに、お見舞いに来る人すらいないなんてね……」
柚和は無言で点滴の針を引き抜き、壁伝いに一歩ずつ、重い足を引きずって廊下へと向かった。
案の定、VIP病室のドアの隙間から、蒼琉の姿が見えた。
彼は水の入ったグラスを手に持ち、壊れ物を扱うかのように慎重に望愛に水を飲ませている。望愛が甘えるように何かを呟くと、蒼琉はその指で彼女の口元の水滴を優しく拭い去った。その眼差しは慈しみに満ちていた。
柚和は力なく壁に背を預け、目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
どうして。もうとっくに彼への想いは断ち切ったはずなのに、なぜ心臓がこれほどまでに痛むの。まるで、ナイフでじわじわと心臓を抉り取られているような、そんな耐えがたい痛み。
泣いちゃダメ、柚和。
彼女は心の中で自分に言い聞かせた。
だって、私のために心を痛めてくれる人なんて、もうこの世のどこにもいないのだから。
退院の日。柚和が家に戻るやいなや、背後から聞き慣れた足音が響いた。
蒼琉が戻ってきたのだ。
二人の視線が交差する。互いの瞳の奥に、以前とは決定的に違う何かを見て取った。
重苦しい沈黙を破ったのは、柚和のスマートフォンが震える音だった。宗一郎からの電話だった。
「明日は望愛の誕生日パーティーだ」宗一郎の声は、有無を言わさぬ威圧感を伴っていた。「あの子は最近、お前と仲直りしたいと言って泣いてばかりいる。お前も顔を出しなさい」
柚和は冷笑して吐き捨てた。「行かないわ」
「意地を張るんじゃない。これが最後になるかもしれないんだぞ」宗一郎は声を荒らげた。「神代家との結納の日はすでに決まっている。お前があちらに嫁げば……」
柚和は話を最後まで聞かずに通話を切り、廊下の陰に立つ蒼琉を見上げた。「……あなたは私が行くべきだと思う?」
ブラケットライトの光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように冷たく強張っていた。
彼は数秒の沈黙の後、低く沈んだ声で答えた。「行くべきです」
「そう」彼女は自嘲気味に口角を吊り上げた。「なら、あなたの望み通りにしてあげる」
誕生日パーティーの会場は、瀬戸家本邸の大広間だった。
柚和が深緑のベルベットのドレスを纏って到着した頃には、すでに大勢の招待客で賑わっていた。
煌びやかなクリスタルのシャンデリアの下、ふんわりとしたピンクのドレスを着た望愛は、まるで本物のプリンセスのように衆目の的となっていた。
「お姉さん!」望愛がパッと顔を輝かせて駆け寄り、柚和の腕にすがりつこうとした。
柚和は冷たく身をかわし、宗一郎が用意したであろう山積みのプレゼントを一瞥した。職人による一点物の最高級バッグ、眩いばかりの輝きを放つ大粒のダイヤモンドネックレス、そして海外製高級スポーツカーのスマートキー。
「望愛は昔から聞き分けの良い子でね。俺もつい甘やかしてしまうんだ」
望愛の傍らに立つ宗一郎の顔は、慈愛に満ち溢れていた。それはまるで……遠い昔、幸子と自分の傍らに立っていた時のように。
白いワンピースを着た幼い自分が、宗一郎に高く抱き上げられ、傍らで幸子が優しく微笑んでいた、あの日のように。
だが今や、その全てが跡形もなく崩れ去ってしまった。
ケーキカットが終わり、招待客たちが三々五々に歓談し始めた頃、望愛の親友が彼女を引き寄せ、声を潜めて噂話を持ちかけた。
「ねえ望愛。今日は名家の御曹司がいっぱい来てるけど、宗一郎さんはあなたにお見合いでもさせる気なの?でも私聞いたわよ、あなた、神代家と婚約してるんじゃなかった?」
望愛はふんわりと微笑み、少し離れた場所にいる柚和を意味深にチラリと見た。「その話は、とっくに白紙になったわ」
「ああ、良かった!だって神代家のあの人、植物状態になっちゃったんでしょう?あんなところに嫁いだら生き地獄だもの」親友は声を弾ませる。「ねえ望愛、今日はいい男がたくさん揃ってるじゃない。教えてよ、あなたの理想のタイプって?」
周囲にはやし立てられ、望愛は頬を赤らめながら指折り数え始めた。「一つ目はね、私を何よりも愛してくれること。胸元に私の名前のタトゥーを彫ってくれるくらい。
二つ目は、勇気があること。月影崖に百年に一度咲くっていう緋色の茨薔薇を、私のために摘んできてくれる人。それから三つ目は……」
望愛が言い終わるよりも早く、宴会場の重厚な扉がバーンと押し開かれた。
「如月家の若旦那様より、お祝いの品のお届けです!望愛様の誕生日を祝し、溢れんばかりの多幸と喜びを!」
第7話
凛空が使用人たちを引き連れて次々と足を踏み入れ、途方もない価値を持つ贈り物の数々を恭しく捧げ持ってきた。
希少なピンクダイヤモンドのネックレス、年代物の名画、果てはプライベートアイランドの権利書まで。
会場は一気にどよめきに包まれた。
「こ、これ、如月家の若旦那様からの贈り物だって?」
「前のオークションでも、彼が望愛様のためにありとあらゆる至宝を競り落としたって噂だったけれど。今日もまたあんな贈り物まで持参するなんて……どうやら望愛様、本物の玉の輿に乗る気ね!」
ひそひそ話が次々と巻き起こり、あちこちから柚和を盗み見るような視線が投げられ、そこには隠しようもない憐憫の色が滲んでいた。
容姿は彼女の方が美しく、瀬戸家の正統な血筋であるにもかかわらず、今や誰もが彼女は負けたと信じて疑わなかった。
柚和はシャンパングラスを置き、踵を返してテラスへと向かった。
夜風が微かに冷たい。柚和が深く息を吸い込んだその時、背後から望愛の声が聞こえてきた。
「お姉さん、どうしてこんなところで一人なの?」
招待客も、宗一郎の目もないここで、望愛はついにその偽りの仮面を脱ぎ捨てた。
「知ってる?お父さんが言ってたわ。お姉さん、あの植物状態の男に嫁ぐんですってね」望愛は甘く、それでいて毒を孕んだ笑みを浮かべる。
「本当に惨めね。昔、お姉さんのお母さんは私のお母さんに敵わなかったけれど、今度は、お姉さん自身が私に敵わないのよ」
柚和は勢いよく振り返った。「もう一度言ってみなさい」
「だから――」望愛は顔を近づけ、真っ赤な唇から心臓を抉り取るような鋭利な言葉が吐き出された。「お姉さんのお母さんが難産で死んだのは、自業自得だっ――」
パァンッ。
甲高い平手打ちの音が響き渡る。
だが、手を上げたのは柚和ではなかった。望愛自身が、自分の頬を思い切り張り飛ばしたのだ。
次の瞬間、望愛の瞳から涙が溢れ出し、よろめきながら数歩後ずさると、急いで駆けつけてきた蒼琉の胸にすっぽりと倒れ込んだ。
「お姉さんを責めないで……」望愛は頬を押さえて啜り泣く。「私が、お姉さんを怒らせてしまったの……」
続いて、騒ぎを聞きつけた宗一郎と招待客たちも駆けつけ、非難の眼差しが矢のように柚和へと突き刺さった。
「柚和!」宗一郎が怒鳴りつける。「お前というやつは、どこまで教養がないんだ!」
客たちのひそひそ話もまた、刃のように彼女を切り裂く。
「なんて悪毒な……今日は望愛様の誕生日だというのに」
「なにせ母親が早くに死んでるからね。生みっぱなしで躾もされてないから、あんなに心が狭いのよ……」
柚和はこの周到に計算された茶番劇を見つめ、不意に笑い出した。
柚和は大股で歩み寄ると、衆人環視の中、望愛の頬を思い切り張り飛ばした。
「よく見ておきなさい」柚和は持っていたシャンパングラスを床に叩きつけて粉々に砕き、その破片が無数の驚愕する顔を映し出す中、冷たく言い放った。「これが、私が打ったということよ」
踵を返して立ち去る瞬間、柚和の視界の端に、望愛の肩を抱き寄せる蒼琉の姿が映った。その眼差しは、冷徹そのものだった。
庭園の小道。
柚和が角を曲がった直後、手首を力任せに掴まれた。
蒼琉の握力は異常なほど強く、骨が砕けそうなほどの痛みが走る。
「柚和様」彼は低く、怒りを押し殺した声で呼んだ。
「何?」彼女は嘲るように目を上げた。「望愛を一度打ったからって、今度は私に九十九回のビンタでもお見舞いする気?」
蒼琉は、微かに目を見開いた。
それはどういう意味だ?まさか、あの時の鞭打ちのことを知っているのか?
いや、あり得ない。あれは完璧に隠蔽したはずだ。
「柚和様」彼は少しだけ指の力を緩め、眉間を深く寄せて言った。「あなたは全てを持っているというのに、なぜ望愛様を虐げるのですか?」
「私が全てを持っている?」柚和は突如として声を上げて笑った。その笑い声は、泣き声のようにひどく掠れていた。「私に何があるって言うの?望愛が来たせいで、私のお母さんはショックで難産になり、お腹の赤ちゃんもろとも死んだのよ!
彼女がこの家に住み着いてから、私の部屋も、おもちゃも、お小遣いも、お父さんも、全部奪われた!挙句の果てには私の留学枠から、私の人生のすべてまで!」
蒼琉がこれほどまでの彼女の心中を聞かされたのは、これが初めてだった。月明かりの下、いつもは冷ややかな嘲りを浮かべている柚和の瞳には涙がいっぱいに溜まっていたが、彼女は意地でもそれをこぼそうとはしなかった。
「私の聞き及んでいるところでは」蒼琉の声は冷たかった。「不遇な扱いを受け、苦しまれてきたのは望愛様の方だと伺っておりますが」
柚和は乱暴に彼の手を振り払い、背を向けて立ち去ろうとした。「信じたくなきゃ、勝手にすればいいわ」
車に乗り込もうとした瞬間、蒼琉が背後から再び口を開いた。「柚和様、数日ほどお暇をいただきたいのですが」
「好きになさい」彼女は振り返ることもなく、車のドアを閉めた。
黒いセダンが走り出してしばらくした後、柚和は突然運転手に命じた。「引き返して」
瀬戸家の本邸付近に戻ると、案の定、蒼琉がある高級車に乗り込むところだった。
柚和は運転手に距離を保って尾行させ、やがて車はある高級タトゥースタジオの前に停まった。
ガラス窓越しに見える店内。蒼琉がシャツのボタンを外し、引き締まった精悍な胸板を露にするのが見えた。
彫り師が何かを尋ねると、彼は自らの胸元を指差し、二つの音を口にした。
――その口の動きはどう見ても「望愛」だった。
第8話
凛空が傍らで必死に諫める。「若旦那様、いけません。大旦那様がお知りになれば、ただでは済みません……」
「彫れ」蒼琉はただ一言、短く命じた。
タトゥーマシンの電針が不気味な音を立てる。その一針一針が、柚和の心臓を抉り、癒えることのない生傷を刻み込んでいくかのようだった。
二時間後、蒼琉は血の滲む胸元を押さえながら店から出てきた。顔は青ざめていたが、意地でも車に乗り込もうとする。
「月影崖へ向かえ」蒼琉は運転手に告げた。
「いけません!あそこは危険すぎます、彫ったばかりの体で――」
「今すぐだ」
少し離れた車の中でその様子を見ていた柚和は、ふと望愛が語っていた「理想のタイプ」を思い出した。
「胸元に私の名前のタトゥーを彫ってくれるくらい」
「月影崖に百年に一度咲くっていう緋色の茨薔薇を、私のために摘んできてくれる人」
柚和はふっと笑いを漏らした。笑って、笑って――やがて、とめどなく涙がこぼれ落ちた。
「出して」彼女は運転手に告げた。「もう、追わなくていいわ」
その晩、彼女はSNSで望愛の投稿を目にした。
添付されていたのは、断崖に咲き誇る「緋色の茨薔薇」の写真。
添えられた言葉は【私のために、険しい山を越えてこの花を摘んできてくれた人がいる】
午前三時。蒼琉が戻ってきた。
全身血まみれで、右手は骨折していた。それなのに、その唇には微かな笑みが浮かんでいた。
翌朝、柚和が出かけようとしたまさにその時、蒼琉が部屋から出てきた。
彼の顔色は青白く、右腕には包帯が巻かれ、シャツの襟元は少しはだけている。
「柚和様」彼の声は少し掠れていた。「昨晩、交通事故に遭いました。数日ほど静養が必要なため、一時的に護衛をお休みさせていただきます」
交通事故?
どう見ても崖をよじ登って、滑落した怪我でしょうに。
だが、彼女はその見え透いた嘘を暴く気力すらなく、ただ淡々と「そう」とだけ返し、彼を一瞥もせずに屋敷を出た。
今日は、親友たちと別れを告げる日だった。
高級クラブのVIPルーム。
「さあさあ、今夜はとことん飲み明かすわよ!」親友の篠田佳澄(しのだ かすみ)が柚和の肩をぐっと抱き寄せる。「柚和がもうすぐお嫁に行くんだから!これからは神代夫人ね、盛大にお祝いしなきゃ!」
室内には、この数年間彼女に寄り添ってくれた、一番親しい友人たちが顔を揃えていた。
シャンパンタワーが照明を反射して光を放ち、耳を劈くような重低音の音楽が響き渡っている。それなのに、柚和には不思議と、世界がひどく静まり返っているように感じられた。
「でもさ、植物状態の旦那様なんて最高じゃない!」佳澄は酔っ払った様子でグラスを揺らす。「お金はあるし、顔もいいし、面倒な世話もいらない。まさに理想の結婚生活よ!」
「そうそう!」別の友人も同調する。「それに神代家のあの巨大な財産、いずれ全部あなたのものになるんだから!」
柚和は笑い、グラスの縁を指先でなぞった。「嫁ぐからには大人しくしなきゃね。神代家の顔を潰すわけにはいかないもの」
その言葉に皆一瞬きょとんとしたが、すぐに口々に慰め始めた。
「神代家の御曹司、絶対に目を覚ますわよ!」
「あなたみたいないい女を前にして、いつまでも寝てられるわけないって!」
「その通り!うちの柚和は社交界一の美人なんだから、一生を棒に振るなんてあり得ないわ!」
柚和は友人たちのでたらめな慰めを笑って聞き流しながら、次から次へとグラスを空けていった。
いよいよお開きの時間。佳澄が突然柚和に抱きつき、声を詰まらせた。「あなたの父親、本当に最低……それにあの望愛!私たちがガツンと痛い目見せてやろうか?」
「いいのよ」柚和は佳澄の背中を優しくポンポンと叩いた。「私がここを離れたら、もう彼らなんて私には何の関係もない人間だから」
柚和は一人一人と抱擁を交わした。やがて、その場の全員の目尻が赤く染まっていった。
会計を済ませて廊下に出た時、柚和は隣の個室から漏れ聞こえてくる耳慣れた声に足を止めた。
「その花、そんなに摘むのが大変なの?」
「当たり前じゃない!月影崖なんて、プロの登山家だってそう簡単に近づかないような危険な場所なのよ」
半開きのドアの隙間から覗き込むと、望愛が例の緋色の茨薔薇を指先で弄んでいた。彼女の親友が、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「それなのに、あの男、命がけで摘みに行ったんでしょ?昨日花を届けに来た時、胸元にあなたの名前が彫ってあるのが見えたわ!彼、本気であなたを射止めようとしてるのね」
「ただの護衛の分際で、私に釣り合うわけないじゃない。
私は今、如月家の若旦那様に見初められている身なのよ」彼女は無残に傷ついた花びらをなでながら、冷笑を浮かべた。「……まあ、蒼琉さんは確かに顔はいいし、愛人くらいにするなら、悪くないけどね」
第9話
親友が目を丸くして尋ねた。「そんなこと言って、蒼琉に聞かれたらどうするの?」
「聞かれたからって、どうってことないわ」望愛は全く意に介さない様子で言った。「男なんて、少し甘い顔を見せておけば、勝手に尻尾を振って尽くしてくる生き物なんだから」
廊下の角の影に佇みながら、柚和はふと、もし蒼琉が今の言葉を聞いたらどんな顔をするだろうかと考えた。
あの誇り高き如月家の若旦那が、自分が単なるキープ扱いされていると知ったら、一体どんな反応を示すのだろうか。
――蒼琉。これが、あなたが命を懸けてまで愛そうとした女の正体よ。
柚和は皮肉げに口角を上げると、中にいる者たちに気づかれることなく、静かにその場を立ち去った。
クラブを後にした彼女は、そのまま真っ直ぐに墓地へと向かった。
柚和は幸子の墓碑の前に跪き、石に刻まれた幸子の名に積もった埃を、指先でそっと拭い取る。
「お母さん、私、お嫁に行くことになったわ。神代家のあの……植物状態の人だけど……でも、ちょうどいいわよね。少なくとも、浮気される心配だけはないもの」
墓前に供えられた白菊を夜風が揺らす。それはまるで、声なき相槌のようだった。
「安心して。私は、お母さんみたいにはならないから」彼女の指先が、冷え切った墓石をなぞる。「命を削るほど誰かを愛するなんて、そんな馬鹿げた真似はしない。私は自分の人生を、絶対に誰よりも立派に生きてみせるわ」
夜の闇が深まる中、柚和は立ち上がり、最後にもう一度幸子の墓石を見つめてから、踵を返した。
屋敷に戻った柚和は、一晩中かかって荷物をまとめた。
衣服、アクセサリー、アルバム……
一つ一つ整理しながら、彼女は二度とこの家には戻らないという決意を完全に固めていた。
空が白み始めた頃、スマートフォンが震えた。
【口座への入金、二千億円を確認しました】
直後に、宗一郎から電話が入った。「神代家が急いでいる。お前は今日中に出発しろ。約束の二千億円は振り込んでやった。それと、蒼琉のことだが……」
「彼を本邸へ向かわせるわ」柚和は言葉を遮った。「今日から彼は望愛の護衛よ。私はもう、あんな男はいらないから」
電話の向こうで数秒の沈黙が落ちた後、宗一郎が急に湿っぽい声を出した。「柚和……俺はな、本当はお前のことも、幸子のこともずっと愛して――」
「以前はただ、あなたはモラルに欠けた不道徳な人間だと思っていたけれど」柚和は冷笑した。「今わかったわ。あなたは心底、反吐が出るほど気持ち悪い人ね」
彼女は電話を切ると、迷わずその番号を着信拒否に設定した。
門の外には、すでに引っ越し業者のトラックが到着していた。
柚和が作業員に荷物の運び出しを指示していると、ちょうど蒼琉が部屋から出てきた。
「柚和様、これは……?」彼は床に並べられた段ボール箱を見て眉をひそめた。
「引っ越しよ」柚和は顔も上げずに答えた。「住む場所を変えるの」
蒼琉は頷いた。深く考えていない様子だったし、ましてや彼女の言う「引っ越し」が、N市からS市への嫁入りだとは夢にも思わなかった。
「手伝いましょうか」
「いいわ」彼女はようやく彼の方に視線を向けた。「あなたには別の任務がある」
「何ですか?」
「今すぐいちご大福を買って、本邸の望愛に届けてあげて」
蒼琉は一瞬、呆然としていた。「なぜですか?」
「行けばわかるわ」
彼女は彼の喉仏が上下に動くのを見た。その冷徹な瞳の奥に、一瞬だけ戸惑いの色が過る。
だが最終的に、望愛に会いたいという渇望が疑念に勝った。
蒼琉は何かを思い出したように付け加えた。「柚和様、引っ越し先の新しい住所を後で送ってください。夜には私の荷物もまとめて、そちらへ向かいますので」
二十四時間の専属護衛。彼女と寝食を共にし、いかなる時もその身の安全を保障する。
それが、二人が当初交わした契約だった。
だが今回、柚和は何も答えなかった。
彼はしばらく待っていたが、彼女が本当に答える気がないのを見て取り、後で連絡が来るだろうと勝手に納得して、そのまま背を向けて歩き出した。
大門に差し掛かった時、背後で彼女が何かを呟いたのが微かに聞こえた。
「何か仰いましたか?」彼は振り返る。
朝の光の中に佇む柚和は、静かな声で言った。「……ううん、何でもないわ。行って」
彼の後ろ姿が完全に見えなくなるのを見届けてから、柚和は車に乗り込み、運転手に告げた。「空港へ」
車窓の景色が飛ぶように後ろへ流れていく。彼女はスマートフォンを取り出し、SIMカードを抜き取ると、指先でパキッと折り曲げた。
パキッ。
二つにへし折られたカードは、開いた窓から容赦なく外へと放り捨てられ、そのまま、跡形もなく消え去った。