あなたが奪い去った七年の歳月

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あなたが奪い去った七年の歳月

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帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。 岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。 私・本間千夏(ほ...

Chương (1)

第1章

帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。 岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。 私・本間千夏(ほんま ちなつ)は少し戸惑った。 だって、彼は普段、暗証番号しか使わないのだ。 鍋で油の跳ねる音を聞きながら、それ以上深くは追及しなかった。 しかし、シャワー室の排水口に、一本の髪の毛が張りついているのを見た。 長くて、縮れていて、ワインレッドの髪。 だが私はショートカットだ。 スマホが鳴った。翔太郎のアシスタント、宮原愛梨(みやはら あいり)からのメッセージだ。 【本間さん、先日、翔太郎さんから合鍵を預かりまして。何かと便利かと、と】 何に便利なのか。私は聞かなかった。 ただ、いつも通りに風呂の温度を37度に設定し、作りたての栄養スープをベッドサイドに置いた。 翌日、私は玄関の鍵を取り替えた。 そして、翔太郎の会社のlineグループに、こう書き込んだ。 【鍵を交換した。宮原さん、新しい鍵が必要でしたら、私のところへどうぞ】 第1話 帰宅すると、玄関の合鍵が一本減っているのに気づいた。 岩崎翔太郎(いわさき しょうたろう)に尋ねると、なくしたと言う。 私・本間千夏(ほんま ちなつ)は少し戸惑った。 だって、彼は普段、暗証番号しか使わないのだ。 鍋で油の跳ねる音を聞きながら、それ以上深くは追及しなかった。 しかし、シャワー室の排水口に、一本の髪の毛が張りついているのを見た。 長くて、縮れていて、ワインレッドの髪。 だが私はショートカットだ。 スマホが鳴った。翔太郎のアシスタント、宮原愛梨(みやはら あいり)からのメッセージだ。 【本間さん、先日、翔太郎さんから合鍵を預かりまして。何かと便利かと、と】 何に便利なのか。私は聞かなかった。 ただ、いつも通りに風呂の温度を37度に設定し、作りたての栄養スープをベッドサイドに置いた。 翌日、私は玄関の鍵を取り替えた。 そして、翔太郎の会社のlineグループに、こう書き込んだ。 【鍵を交換した。宮原さん、新しい鍵が必要でしたら、私のところへどうぞ】 翔太郎が帰宅したとき、その顔は真っ黒に曇っていた。 「千夏、お前、頭おかしいんじゃないのか?会社のグループで、何を言いやがったんだ。周りが彼女のことをどう言ってるか、わかってるのか」 私はスープを置き、じっと彼を見つめた。 「じゃあ、なんで鍵をなくしたなんて、嘘ついたの」 彼は一瞬、固まった。 数秒の沈黙のあと、深いため息をつき、声をやわらげた。 「愛梨は俺のアシスタントだ。鍵を渡したのだって、仕事をしやすくするためだ。嘘をついたのは、お前が変に勘ぐるだろうと思ったからだ。そんなことで、そこまで言うのかよ」 私は少し黙ってから、かすれた声で言った。 「それなら、家の鍵、全部彼女にあげちゃおうか」 「本間千夏!」 翔太郎は苛立ちまぎれに声を張り上げた。 「愛梨は泣きながら帰ったんだぞ。俺と彼女は、ただの仕事上の関係だ。いちいちそんなふうに疑うのは、やめてくれないか」 「じゃあ、浴室の壁についてた手のひらの跡は、どう説明するの」 「手の跡?」 私は彼の腕をつかんで浴室に連れて行き、壁の跡を指さそうとした。 けれど、そこにはもう何もなかった。 翔太郎は私の手を乱暴に振り払い、鼻で笑った。 「お前と喧嘩する気はない。だが、次はないからな。自分でちゃんと反省しろ」 その直後、私は会社のlineグループから追い出された。 それだけじゃない。システムに新たな通知が届き、総務アシスタントの私が、解雇されたと表示されていた。 グループからの追放と、解雇通知。 この二つは、まるでビンタを食らったみたいに、頬をじりじりと熱くさせた。 キッチンからは、栄養スープの湯気がふわりと漂ってくる。なのに、さっきまではあんなに食欲をそそった香りが、なぜか急に、ちっとも美味しそうに感じられなくなった。 第2話 7年経った。彼が約束した結婚式は、開かれなかった。それなのに今、みんなの前で別の女をかばっている。 父がビルから飛び降りて、母が出て行ったあの年のことを思い出した。 翔太郎は私を抱きしめ、赤くなった目でささやいた。 「千夏、世界中がお前を見捨てても、俺だけはそばにいる。手術はできなくなっても、医薬品の代理店はできる。 お前に必ず家をやるんだ。ベランダに、お前がサツキを植えて、俺は多肉植物を育てる。いつか子どもだって持てる……」 あのとき、胸が張り裂けそうなほど切なかった。 翔太郎は私を助けるために交通事故で両手を傷めて、メスを握れなくなったのだ。 それでも彼は約束をくれた。 だから、私は残った。 ピアニストの夢を捨て、私が、彼の世話のために家政婦に成り下がった。 マッサージに、スープの作り、生活の段取り――私の暮らしは隅々まで翔太郎で埋め尽くされた。 母は納得していなかった。 「自分の夢を捨ててまで、それで後悔しないの?」 あの時、はっきりと「後悔しない」と答えた。 それなのに今、オレンジ色のダウンライトに浮かぶ翔太郎の整った顔が、かつてないほど冷たく感じられてた。 自分は間違っていたのと思い知らされる。 翔太郎と私は冷戦状態になり、彼はもう家に帰らなくなった。 いつもどおり執事に食事を届けさせた。 愛梨のSNSの更新も、前よりずっと頻繁になった。 翔太郎がいつも使う休憩室の前に、可愛らしいスリッパが置かれるようになった。 私のサイズじゃない。そして翔太郎の好みでもない。 スープ用の新しい器は、彼が絶対に選ばないようなピンク色。 写真の中でふたりはひとつの器を分けあい、見つめ合って笑っている。 【好きな人とスープを分けあえるって幸せ。退場すべき人は、とっくに決まってるのかもね】 そのスープは、私が4時間かけて煮込んだものだ。 捨てられた器は、7年前にペアで贈ったものだった。 SNSのコメント欄では、みんなが囃し立てていた。 【翔太郎さん、彼女変えたんだ。前の人よりお似合いじゃん】 翔太郎は否定どころか、そのコメントに「いいね」を押していた。 照明はオレンジで、暖房はよく効いている。 なのに、心まで凍えるようだった。 翔太郎のために、7年間すべてを注いできた。 でも結局、私は何者でもなかった。 スマホがチラリと光り、愛梨がSNSで私をメンションしてきた。 【本間さん、この前うっかり服を汚しちゃって、お宅のお風呂をお借りしました。ごめんなさい。翔太郎さんを困らせないでくださいね】 【翔太郎さんがもう私の指紋をシステムに登録してくれたので、わざわざ本間さんから鍵を借りなくて済むようになりました】 その後に、ドヤ顔のスタンプがくっついている。 得意げになるのもわかる。 表向きは謝罪、その実、翔太郎は自分の味方だと世間に言いふらしているようなものだ。 友人が私のため怒りをあらわにした。 【これ、謝る気あるの?それとも宣戦布告?翔太郎も、なんで何も言わないわけ?】 【ほっとけば?どうせ彼女、交代でしょ】 コメント欄は大荒れで、翔太郎は返信などしないだろうと思っていたが、【彼女、交代】というコメントの下で、笑顔のスタンプを送ってきた。 画面をじっと見つめるうちに、目が痛くなるほど乾いてきた。 SNSを閉じて、指紋認証のアプリを開く。 自分の指紋だけを削除し、あのふたりだけを残した。 翔太郎が彼女を変えたいのなら……この家政婦ごっこには、私ももう飽き飽きだ。 第3話 夜、翔太郎は家に帰ってきた。 表情からは何も読み取れなかったが、私を見つめる目だけが異様にぎらついていた。 彼は一冊の楽譜を私に渡した。 「前にやるって言ったろ。受け取れよ」 そう言って私をソファに押し込み、自分はピアノの前に座った。 背中を丸め、ぎこちない手つきで鍵盤を叩き始める。 昔の私なら、きっと愛梨と同じことをしていただろう。 その姿を写真に撮ってSNSに上げ、【彼氏が私を笑わせようと必死】なんて書いていたに違いない。 けれど今の私は、ただ静かに問いかけた。 「いつからなの?」 ピアノの音がやんだ。 翔太郎が振り返り、眉をひそめる。 「説明したし、謝っただろ。千夏、これ以上俺にどうしろって言うんだ?」 私は顔を上げ、彼をまっすぐ見据えた。 「家に、新しいスリッパと新しい香水が増えた。それからあのぬいぐるみ。ベッド脇の引き出しには、私が絶対買わないイチゴフレーバーの薄いやつが何箱も入ってた。あなたのクローゼットには……」 「もういい!」 リビングに重い沈黙が落ちた。 聞こえるのは互いの息遣いだけだった。 翔太郎はしばらく黙った後、勢いよく立ち上がった。 手にした楽譜をぐしゃりと握りつぶし、首に青筋を浮かべる。 失望しきった目で私を睨みつけてきた。 「千夏、お前の父さんの精神病が遺伝したんじゃないのか。今度は飛び降りて俺を脅すつもりか? 昔、お前の母さんが浮気して、お前の父さんがしたことみたいにな」 耳元で爆弾が炸裂したようだった。心臓が破裂するかと思った。 説明や否定をされるとは思っていた。 けれど、まさか彼がこんなやり方で私の古傷をえぐるとは、想像すらしていなかった。 「わかってても口にしないことだってあるんだ。俺が外でどうしていようと、お前は将来の俺の妻だ。俺はお前を助けるために両手を怪我して、医者の夢まで諦めたんだぞ。それでもまだ疑うのか? 愛梨がお前の風呂を借りたのはたしかに悪かった。でも謝ったじゃないか。なぜそこまで彼女を責める!」 声はどんどん大きくなる。 彼の冷たい目は、研ぎ澄まされた刃物のようだった。 まるで、部下と曖昧な関係になっているのが彼ではなくて、私であるかのような顔つきだった。 私は彼の目に浮かぶ、あの揺るぎない確信が、ひどく眩しくてたまらなかった。 後ろめたさはみじんも感じていない。 私には退路がなくて、彼から離れられないと、そう踏んでいるのだ。 喉の奥が詰まった。 私はもう一言も発せなかった。 彼が覚えているのは、自分が両手を怪我して、医者の夢を諦めたことだけだ。 私も両手を駄目にしたことなど、忘れてしまったのだろう。毎日彼のために台所に立ち続けたことも、忘れてしまったのだろう。 彼が寝室に戻った後、私は無意識にピアノの鍵盤を叩いた。 音は流れても、昔の響きはもう戻ってこなかった。 その夜、私たちは一言も口をきかなかった。 深夜、翔太郎はこっそりと家を出ていった。 ドアが閉まる音で、私は目を開けた。 ほどなくして、愛梨がまたSNSを更新した。 五枚の写真がアップされている。 夜空に打ち上がる無数の花火が、文字を形作っていた。 それは並べると、【翔太郎は愛梨を愛してる】と読めた。 同じような告白を、三年前に私は一度受けたことがある。 あの時は翔太郎の会社が上場したばかりだった。 彼は私に、郊外の豪邸の鍵をくれた。 広いバルコニーがついていて、バラにシャクヤク、それに蘭や多肉植物まで置いてある。 まるで小さな、にぎやかな家みたいだった。 あの夜も、満天の花火が夜空を埋め尽くした。彼は大声で笑いながら叫んだ。 「約束通り、叶えたぞ。俺は一生、千夏を愛する」 彼は変わらない。 けれど、彼の愛する相手だけが、変わった。 スマホが震えた。母からの返信だった。 画面を閉じて、私はスーツケースを取り出し、必要な服を詰め込んだ。 それ以外の物は、すべてゴミ箱へ放り込んだ。 翔太郎が戻ってきた時、彼はまずそのスーツケースを目にした。 第4話 翔太郎は、無意識に眉をひそめた。 「どこへ行くつもりだ」 「旅行に」 「旅行?」 彼は冗談でも聞いたように、ネクタイを緩めた。 「丸七年、一日だって家を出なかったお前が?本気で言ってるのか? 千夏、そんな手で俺を折れさせようなんて無駄だ。 お前が正しいとも思わないし、俺と愛梨に落ち度があったとも思わない。七年も面倒を見てきたんだ。いい加減、分別を持ったらどうだ」 私は何も言わなかった。反論もしなかった。 ただ、スーツケースを再びクローゼットに押し込んだ。 驚くほど軽いケースだった。 この七年間過ごしてきた、この家と同じだ。 待ち続けた七年間の結婚生活とも、同じだった。 見た目はとても綺麗だけれど、中身はもう空っぽ。 翔太郎は満足げに頷き、鼻で笑った。 「わかればいい。 この世の中で、俺以外の誰がお前に居場所をやれる。そのありがたみを、ちゃんと自覚しろ」 その言葉には確信と冷たさがあった。 空気に混じる、覚えのないストロベリーミルクの香り。心臓が、ぎゅっと痛んだ。 「忘れるな。お前はもう、かつて舞台で輝いていた頃のお前じゃない。今のお前はただの家政婦みたいな存在で、役立たずの女だ。俺に逆らわず、おとなしくしていれば、悪いようにはしない……」 彼の冷たい声、水音で途切れ途切れに聞こえる。 それでも、十分だった。 私は小さく笑い、何も返さなかった。 あのスーツケースの中に、私のマイナンバーカードと着替えが入っていたことを、彼は気づいていない。 出て行かなかったのは、未練があったからじゃない。 航空券が、明後日の便だったからだ。 翌日、翔太郎からは珍しく優しい口調で電話がかかってきた。 「会社でパーティーがある。取引先の連中が、お前に会いたがってるんだ」 向こうで、彼の笑みを含んだ声が聞こえる。 「来いよ。ちょうどいい機会だ、プロポーズしようと思ってる」 鼓動が早まり、そしてすぐに静まった。 結局、私は行くと答えた。 期待があったわけじゃない。この七年間の苦労に、ただ一つの答えがほしかっただけだ。 その夜、翔太郎からサファイアのイヤリングと、黒のロングドレスが届いた。 私の好きな色だった。サイズもぴったりだ。 胸の奥が、少しだけ熱くなった。 会場の扉がゆっくりと開き、人波の中心へ歩みを進める。 その時、不意に足が止まった。 花で飾られた壇上には、黒のラインストーンがあしらわれたドレスを着た愛梨が立っている。 その首元には、もっと大きなサファイアのネックレスが輝いていた。 そして、翔太郎が指輪を手に、片膝をついているところだった。 眩い照明が、二人を照らし出す。 カメラのシャッター音と祝福の声が、津波のように押し寄せ、私を飲み込んだ。 悲しむべき場面なのに、不思議と悲しくなかった。 ただ、やっぱりこうなったか、という、胸のつかえが下りるような感覚だけがあった。 第5話 翔太郎が私に気づいた。 近づいてくるなり、声をひそめて言った。 「このプロポーズは芝居なんだ。愛梨の誕生日の願いを叶えるためのな。ブライズメイドが一人足りなくて、お前に代役を頼む。詳しくはあとで説明する」 あまりにも馬鹿げている。 彼は私の背中を押し、愛梨の隣に立たせた。 本物の彼女である私は、引きつった笑みを浮かべるしかない。 七年間愛し続けた男が、私の婚約指輪を愛梨の指に通すのを、私は見つめていた。 二人が見つめ合い、眉を上げて微笑み交わすのを、私は見つめていた。 みんなの前で抱き合い、キスをするのを、私は見つめていた。 耳に届くのは打ち上がる花火の音。 目の前にあるのは、笑いすぎて歪んだ人々の顔。 こんな光景は、夢でなら見たことがある。 いつだって私が主役だった。 なのに現実は、馬鹿げたことに、私が愛梨のブライズメイド役をやらされている。 翔太郎が挨拶まわりで酒を注ぐたび、愛梨はしじみの味噌汁を手に、ぴったりと背後をついて歩いていた。 中には刻んだ大根が入っている。 私が何十回も試して、ようやく見つけた酔い覚ましのレシピだ。 あの人はかつて、笑いながら私に尋ねた。 「これからずっと、俺のためにこれを作ってくれないか」と。 なのに今、私が苦労して見つけたレシピを、あっさり愛梨に渡してしまった。 「岩崎さんと宮原さんは、本当にお似合いだ。生まれてくるお子さんも、きっと優秀だろうね」 誰かがグラスを掲げて、冗談めかして言う。 「ありがとう」 翔太郎は笑顔で応じた。 周囲がどっと沸く。 愛梨は私を見て、いっそう勝ち誇った笑みを深める。 笑いながら身を寄せてきた。 「本間さん、あなたが七年も待ったプロポーズを、私はたった一度の嘘で手に入れたよ。あなたは死んだ父親と同じ、何の役にも立たない。さっさと死んじゃえ」 声は小さいのに、きっちり聞こえる。 誰かがグラスを手に、微笑むだけで何も言わない。 誰かが目を見開き、舌打ちを漏らす。 私はただ、翔太郎だけを見つめた。 聞こえていたはずだ。 なのに、聞こえなかったふりをしている。 私はそばにあった赤ワインを手に取り、一口だけ口に含んでから、残りをすべて、笑っている愛梨の顔へぶちまけた。 振り返り、翔太郎を呼びとめる。 「あなたが私を呼んだのって、一体何のため?ブライズメイドをさせるため?それとも私を笑いものにするためだったの?」 笑い声がさっと静まる。 翔太郎の声には、怒りが押し殺されている。 「千夏!ちゃんと説明しただろ、また何をバカなことを……!」 彼は愛梨の前に立ち塞がり、彼女をかばった。 私は彼を見ず、淡々とした口調で言った。 「どれであっても、もうどうでもいい。 翔太郎、終わりにしよう」 彼はいきなり私の手首を乱暴につかんだ。 声の調子まで変わっている。 「今の言葉を撤回しろ。そういう手は俺には通じないって言ったはずだ」 「離して!」 私は彼の手を振り払った。 彼はせせら笑った。 「俺に七年もついてきて、ずっと家にこもってただけだろ。もう社会から完全に取り残されてる。俺がいなきゃ、どうやって生きていくつもりだ。 プロポーズをぶち壊したことは、許してやる。素直に謝るだけで済むんだぞ……」 私はテーブルの上の赤ワインをつかみ、彼の顔に浴びせかけた。 周囲から一斉に驚きの声が上がる。 翔太郎は顔を上げ、呆然と私を見た。 私は手を差し出した。 「返して」 「なにを?」 「腕時計」 その腕時計は、父が遺してくれたものだった。 父は最期の力を振り絞り、私にそれを手渡した。 「千夏、これを持っていなさい。これが父さんだと思って、ずっと一緒にいるからな」 私は頑なに手を差し出した。 「返して!」 翔太郎は怒りで笑い声をあげた。 「あの時、お前の方から俺に渡してきた時計じゃないか。今さら返せって……どういうつもりだ」 第6話 彼の嘲笑うような顔を見て、私は腕時計を彼の腕から外そうと飛びかかった。 でも、手が震えてどうしても外せない。 翔太郎は苛立ち、私の手を掴んで大声で詰め寄った。 「そんなに欲しいのか?だったら絶対にやらねえよ!」 彼はベルトを外すと、思い切り床に叩きつけた。 ガシャン! その瞬間、時が止まった気がした。 腕時計がゆっくりとひび割れていく。 ガラスの破片が足元に散って、まるで涙がこぼれ落ちたみたいだった。 頭が真っ白になり、目の前に、口元を血で染めた父の姿が浮かぶ。 父は血を吐きながら、真っ赤な目で私を見つめていた。 「千夏、泣くな。これを持っていれば、父さんと千夏の時間はずっと重なっている。ずっと……一緒にいるからな」 後に私は、その願いが込められた腕時計を、翔太郎に贈った。 今はもう、二度と動くことはない。 ガラスの破片で手を切るのも構わず、私は床に膝をつき、慌てて破片をかき集めた。 指先から血がにじみ、痛々しいほど赤い。 翔太郎が私の手を掴み、鋭い声で怒鳴った。 「お前、正気か!手が怪我するだろ!」 腕時計はまた落ち、完全に砕け散った。 愛梨が一歩前に出ると、ハイヒールが文字盤を踏みつけた。 かすかに聞こえていた歯車の音が、完全に消える。 私が彼女を押しのけようとしたら、逆に手で押し返され、ガラスの破片の上に激しく倒れ込んだ。 破片が肉に刺さり、電流が走るような痛みが全身を貫く。 ロビーは静まり返り、全員が私を見つめていた。 なのに、翔太郎はよろめいた愛梨を支えている。 「大丈夫か?怪我はないか?」 愛梨は唇をとがらせ、目を赤くして言った。 「本間さんが急に押したの。私、怖くて……」 翔太郎の冷たい視線が、私に向けられた。 「千夏!お前の父さんはイカれて、母さんは浮気した。その最低なところを全部受け継いで、お前もイカれてるんだな!」 掌から血が流れ出す。 それなのに、痛みはまるで感じなかった。 かつて、翔太郎は母を空港まで見送った時、こう言った。 「千夏は花を育てるのが好きで、彼女こそ、俺が一生かけて育てる花なんだ」 たった数年で、私は愛される花から、彼の言うイカれてる人に変わってしまった。 砕けた腕時計を拾い上げ、よろよろと一歩後ずさる。 誰かが嘲笑い、誰かが「頭がおかしい」と罵った。 愛梨は翔太郎の胸にすがり、可哀想に、そして甘えるように泣いている。 「泣くな。必ずあいつに謝らせるから」 翔太郎の声がだんだん遠ざかっていった。 私は事前に用意していたスーツケースを引きずり、土砂降りの雨の中へ飛び出した。 雨が窓を打つ。まるでハンマーで心臓を叩かれているみたいだ。 掌の中の時計は粉々で、血とガラスの破片が混ざっている。 タクシーの後部座席で、私は慎重に破片を組み合わせようとした。でも、どうしても元に戻らない。 ようやく涙がこぼれ落ちた。 痛いからじゃない。自分の愚かさで、父の形見を目の前で粉々にしてしまったからだ。 顔を上げ、バックミラーに映る自分を見る。 血の気のない顔に、泣き腫らして真っ赤な目、見るも無惨な姿だった。 翔太郎から着信が入った瞬間、私はそのまま電源を切って、SIMカードを抜き取った。