999回輸血し死亡。死に戻った私は夫を捨てる

Đang tải thông tin quảng bá...

999回輸血し死亡。死に戻った私は夫を捨てる

GoodNovel Hoàn thành

結婚して7年、高木凛音(たかぎ りんね)は、高木海斗(たかぎ かいと)の初恋の人・中島景子(なかじま けいこ)のために、999回も輸血用の血を...

Chương (1)

第1章

結婚して7年、高木凛音(たかぎ りんね)は、高木海斗(たかぎ かいと)の初恋の人・中島景子(なかじま けいこ)のために、999回も輸血用の血を抜かれた。 すべては、景子が血液凝固障害という持病を抱えており、少しの傷でも命にかかわる出血をしてしまうからだ。 しかも、景子は希少なRhマイナス血液型で、東都中を探しても、輸血で完璧に適合するのは凛音ただ一人だった。 一度目に景子のために輸血したとき、凛音は結婚を条件として持ち出し、海斗はそれを受け入れた。 二度目の輸血のとき、凛音が「愛してる」と言ってほしいと求めると、海斗はその通りにした。 三度目の輸血のとき、凛音が「私を抱いて」と望むと、海斗はそれすらも受け入れた。 …… 999回目となる輸血で、凛音は顔を真っ青にして意識が遠のきかけたとき、看護師の緊迫した声が聞こえた。 「高木さん、もうすでに1000ccも抜いています。これ以上は無理です、本当に命にかかわりますよ」 第1話 結婚して7年、高木凛音(たかぎ りんね)は、高木海斗(たかぎ かいと)の初恋の人・中島景子(なかじま けいこ)のために、999回も輸血用の血を抜かれた。 すべては、景子が血液凝固障害という持病を抱えており、少しの傷でも命にかかわる出血をしてしまうからだ。 しかも、景子は希少なRhマイナス血液型で、東都中を探しても、輸血で完璧に適合するのは凛音ただ一人だった。 一度目に景子のために輸血したとき、凛音は結婚を条件として持ち出し、海斗はそれを受け入れた。 二度目の輸血のとき、凛音が「愛してる」と言ってほしいと求めると、海斗はその通りにした。 三度目の輸血のとき、凛音が「私を抱いて」と望むと、海斗はそれすらも受け入れた。 …… 999回目となる輸血で、凛音は顔を真っ青にして意識が遠のきかけたとき、看護師の緊迫した声が聞こえた。 「高木さん、もうすでに1000ccも抜いています。これ以上は無理です、本当に命にかかわりますよ」 処置室は静まり返っていた。海斗が中止を命じない以上、凛音の体から輸血用の針を抜く者はいなかった。 凛音はチューブの中を流れる自分の血を見て、体中に寒気が走るのを感じた。 鼓動が弱まり、ゆっくりと止まっていく。意識も薄れていった。 死が迫る中、最後に聞こえたのは、海斗のひどく冷淡な声だった。 「なら死なせておけ。俺は景子さえ無事ならそれでいい」 その言葉を最後に、果てしない闇が押し寄せ、凛音を完全に呑み込んだ。 ふたたび目を覚ました時、時を遡っていた。 景子に初めて輸血することになった、あの日…… 凛音は処置室の椅子に座っていた。太い針が腕に刺さり、思わず身震いする。隣にはすでに600ccを採り終えた血液パックがあった。 看護師がいたたまれなくなり、口を開いた。 「あの、こんなに血を採るなんて……自ら進んでのことなのでしょうか?」 凛音が返事をするより早く、聞き慣れた声が静かに響いた。 「彼女本人の意思だ」 凛音は顔を上げた。真っ先に目に入ったのは、海斗の冷たく整った端正な顔だった。 目が合う瞬間、胸が激しく締め付けられ、無数の記憶が脳裏に溢れ出た。 前世、高校入学初日に凛音は、誰もが憧れる存在だった海斗に一目惚れした。 3年間思い続けたが、海斗は冷たく、何度告白しても凛音を拒んだ。 凛音はS大学まで追いかけたのに、入学初月に海斗と、清楚な女子学生の景子が付き合っているという噂を聞かされた。 誰もが「あの人、今回は本気だから」と言い、凛音を諦めさせようとした。 凛音は何度努力しても忘れることはできず、自分の気持ちを隠したまま、海斗が景子を愛するのを見つめるしかなかった。 校庭の木の下で、海斗が景子を抱き寄せ、何度も口づける姿も、街中で盛大な花火を上げ、周囲に景子への愛を公言する姿も、凛音はただ眺めていた。 家同士が決めた縁談に逆らい、景子と添い遂げるためなら、どんなに重い罰でも受け入れた海斗の姿も見てきた。 二人の熱烈な恋愛を目に焼き付けながらも、凛音は諦めきれなかったのだ。 だからこそ海斗が初めて輸血を頼んできた時、凛音は結婚を提案した。 あの日、海斗が見せた表情が今も忘れられない。 驚きと拒絶、そして嫌悪感。それが最後には、愛する人を救うための妥協に変わっていった。 海斗は言った。「いいだろう、結婚してやる。だから今すぐ血を提供しろ。景子は待てない」 その後、念願通りに結婚できた。 でも、それがなんだというのか? 結婚しても海斗の心は、ずっと景子のものだった。 部屋中を景子の写真で埋め尽くし、情事の最中に景子の名前を呼ばれ、最後には凛音の命も顧みず、体中の血を搾り取って景子を救った。 死ぬ瞬間にようやく、自分がどれほど愚かな選択をしてきたかを思い知った。 間違っていたのだ。 海斗と景子は愛し合っていた。自分が割って入り、二人を引き裂くべきではなかった。 海斗が愛しているのは景子だけだった。自分が愛されるなど、愚かな夢に過ぎなかった。 無理やり結んだ縁に、実りはなかったのだ。 一つの命と引き換えにして、やっと悟ったことだった。 凛音はぼんやりしているうちに、輸血が終わっていた。 海斗が輸血パックを持って立ち去ろうとしたので、凛音は声をかけた。 「海斗、結婚のことだけど……」 海斗は足をとめ、せかされていると誤解して冷ややかに吐き捨てた。 「分かっている。一度言った以上、約束は破らない。役所にはもう話を通してある。必要な書類を持って行けば手続きできるはずだ。俺はここで景子が目を覚ますのを待つ。お前に付き合っている暇はない」 前世、たった一人で役所へ向かった自分を思い出した。 指輪もプロポーズもなかったが、それでも、あの頃の自分は幸せだと思い込んでいた。 遠ざかる背中を見つめ、凛音は目を伏せ、自嘲気味に笑った。 言いたかったのは、そんなことじゃない。 私が言いたかったのは、この結婚はもうやめにしよう、ということだった。 この人生では、二度とあなたを好きにはならないから。 しばらく休憩してから立ち上がろうとすると、凛音は看護師に呼び止められた。 「あの、バッグが落ちてますよ」 凛音は受け取ろうとして取り落とした拍子に、バッグの中身が散らばった。 見慣れない柄とデザインのバッグだった。海斗が取り違えてここに置いた、景子のバッグだった。 鏡や口紅と一緒に、景子のマイナンバーカードまで落ちている。 その瞬間、凛音の頭に一つの考えが浮かんだ。 彼女はそのまま役所へ行き、婚姻届を出した。 しかし書類に記入したのは、海斗と景子の名前だった。 並んだ二人の名前を見て、凛音の口から、ようやく胸のつかえが取れたような笑みが漏れた。 この世ではもう、自分に縁のないものに執着したりはしない。 二人を結ばせ、海斗の人生から完全に姿を消そう。 第2話 婚姻届の手続きを済ませた後、凛音は海斗に何度も電話をかけた。大事な報告をしたかったが、彼は一度も電話に出ることはなかった。 無理な輸血が続き、凛音の体は限界を迎えていた。もう疲れ果てて、帰宅して横になるしかなかった。 翌日、凛音は病院へ向かった。病室の入り口に、海斗がいるのを見つけた。 彼はベッドサイドに座り、雑炊を器に取り、冷ましてから景子にゆっくりと食べさせていた。その手つきは、どこまでも優しかった。 凛音はそれを静かに見つめた。前世の自分が何度輸血の後に意識を失っても、海斗は一度も見舞いに来なかったことを思い出す。自分が笑えるほど哀れに思えてきた。 深呼吸を何度も繰り返して気持ちを整え、凛音は意を決して扉を叩いた。 こちらを向いた海斗の表情から、笑みがスッと消えた。 彼は顔をしかめて病室を出て、扉を閉めた。「電話に出なかったら、今度はここまで来たのか?一体何のつもりだ?」 充血し、深いクマの刻まれた海斗の目には、苛立ちが滲んでいた。 凛音は躊躇せず、景子のバッグを返し、婚姻届を提出したことが分かる写真を見せた。 「ただ伝えたくて来たの。婚姻届は、もう出してきたから」 海斗は冷ややかな目で凛音を一瞥し、冷たく言い放った。 「黙れ!景子は事故から目覚めたばかりだ。俺が結婚したなんて事実、今は景子に知られたくないんだ!」 「違う。あなたと私じゃなくて、届けを出したのは……」 凛音は事実を説明しようとしたが、景子という言葉を発する前に海斗の低い声に遮られた。 「もういい!忘れるな、景子のために籍を入れただけだ。思い上がるな。このことを言いふらすことも、景子の前で見せびらかすことも許さない!」 そう言って海斗は景子のバッグを取り上げ、写真など眼中にないといった様子で、病室へ戻って行った。 凛音は説明を諦めるしかなかった。 どうせもうすぐここを去るのだ。いつか海斗も、本当の妻が誰だったのかを知るだろう。 それ以上そこに留まることはせず、凛音はエレベーターへと足を向けた。 たまたま乗り合わせた看護師たちが、下の階へ向かう途中で噂話をしていた。 「特別病室に入っているのは高木グループの社長だって。さすがよね。入ってるのは彼女さんかしら?何日も付きっきりで看病して、引退した専門医まで呼んでくるなんて、すごい愛情よね」 「彼女さん、運ばれてきたときは危ない状態だったらしいよ。それを高木さんが、あらゆる手を尽くして助けたんだって。大怪我だったのに、高額な治療も惜しまず受けさせて、しかもどこからか適合する血液まで用意して、そこまで愛されてるなんて、本当に幸せよね」 凛音は静かに聞き入っていた。 海斗は確かに、周囲がそう思うほど深い愛を注いでいた。 その愛情のすべてを景子に向け、残りの人生の幸せすら差し出してでも、景子を生かそうとしている。 それほどに愛しているのだ。 だが、もう二度と海斗がそこまでの自己犠牲を払うことはない。自分は完全に、彼を景子のもとへ返したのだから。 そして自分自身も同じ道を繰り返さない。新しい未来が、ここにはあるのだ。 そんな思いを抱えながら、凛音はビザの申請に向かった。 前世は、海斗の側にいるためなら、海外留学の機会すら投げ出していた。 今回は海斗から離れて、自分自身の夢だったデザイナーの道を歩もうと思っている。 職員は凛音の書類を確認し、申請手続きを進めた。 「申請結果が出るまで2週間ほどかかります。結果は改めてご連絡しますので、一度戻ってお待ちください」 期日を確認し、凛音は外へ出てタクシーを拾った。 帰宅後、家の中にある海斗との思い出の品々を整理し始めた。 隠し撮りした数千枚の写真。卒業時に海斗が捨てたのを拾った制服。クリスマスに、彼が交換に出したプレゼントを人づてに買い取ったもの…… 15歳で好きになり、22歳で妻となり、29歳で死んだ。部屋中が、海斗の物で埋め尽くされていた。 まる2日間かかって、ようやくすべて片付けた。 家中の不用品として箱詰めし、外に出して捨てようとしたその時だった。 積み上げられた荷物の先に、1台の車が停まるのが見えた。 窓が開くと、冷たい目をした海斗が、その荷物の山を見下ろしていた。 「景子はまだ体力が落ちている。だから、俺の家で世話をすることにした。お前との婚姻届は出したかもしれないが、勝手に引っ越すなんてことは許可しない」 凛音は一瞬呆気に取られたが、誤解されているのだと気づいた。 「違う、これは処分するために出しただけで、引っ越すなんて考えていないわ」 「引っ越してこないなら、何を捨てようが興味はない。早く乗れ」 海斗は有無を言わせず運転手に指示を出した。 事の成り行きが分からず、凛音は困惑を隠せなかった。 「どこに行くの?」 第3話 「婚姻届を出した時、大学の同級生に見られたらしくてな。今日、同窓会がある。景子に何か噂が入るかもしれないから、一緒に行ってうまく説明してくれ。俺たちが籍を入れたことは伏せておくんだ」 凛音は、確かに役所で大学の同級生に遭遇したことを思い出した。 前世は嬉しさのあまり周囲に漏らしてしまい、翌日には二人が入籍した噂が広まり、それによって景子が泣き叫び騒動になった。 今世では誰にも何もしゃべっていないし、何の目的で行ったかも隠していたはずなのに、それでも誤解を受けてしまったようだ。 凛音も丁度、誤解を解きたかったため承諾した。 車が猛スピードで会場に到着し、海斗は凛音を個室の入り口まで連れて行くと、改めて言い含めた。 「中に入ったら、ただ家族にマイナンバーカードを届けに行っただけだと言え。余計なことは言うな。もし漏らせばただじゃおかないからな」 海斗の威圧的な警告を受け、凛音は無言で頷いた。 「わかってるわ。私たちが籍を入れたなんて誤解がないよう、ちゃんと説明してくる」 何しろ、彼が籍を入れた相手は、どうせ私ではないのだから。 ありのままの事実を伝えるだけだ。 海斗は安心して、一人で行くようあごで促した。 戻っていく海斗を見送ってから、凛音は息を一つ吐き出し、中へ入った。 気配を感じたみんなが一斉に振り返り、凛音を囲みこんだ。 「凛音、珍しいじゃない?なにかいい報告でもあるの?噂で聞いたんだけど、婚姻届を出してるところを見られたんでしょ。海斗の名前があったって。ねえ、本当に入籍したの?今日は報告をしに来たの?」 好奇の目にさらされながら、凛音は海斗の言葉をそのまま話し、噂を打ち消した。 だが同級生たちは信じず、一斉に目を剥いた。 「家族にマイナンバーカードを届けるため?そんなの嘘でしょ!ずっと海斗が好きだったじゃない?熱烈に追っかけて、毎朝寮まで朝食を届けたり、海斗を守るために怪我をして病院送りになったり、大学院への推薦まで蹴って……」 過去の話を聞いて、凛音は少し呆然とした。自分はまだ29歳のつもりでいて、学生時代など遥か昔のことのように感じていた。 だが今は22歳。卒業して半年、人生はまだこれからだ。 時を遡ったチャンスを与えられた以上、もう海斗に関わり続けるつもりはない。 そこでバッグから用意してきた戸籍謄本を取り出し、配偶者欄が未婚になっている部分を皆に見せた。 それを確認してようやく独身であることを納得し、みんなは驚いたように感嘆の声を漏らした。 「本当にマイナンバーカードを届けに行っただけなんだ……じゃあ、あの日、海斗と入籍したのって誰?見なかった?」 「会ってないし、知らないわ」 その回答に皆は失望したが、それでも話題はやめなかった。 「凛音じゃないとしたら、景子?でも景子は家も貧しいし、お父さんは酒浸りで、お母さんは寝たきりなんでしょ。高木家は格差を気にするのに、あんなのが嫁になるの?」 「そうは言っても、海斗くんは景子を溺愛してるじゃない?3年前だって、景子のために家族と決裂してでも一緒にいようとしたじゃない。今の海斗くんは、この街で誰も逆らえないほどの力を持ってるんだよ?事後報告で家族も認めざるを得なかったんだよ!」 「でもおかしいわ。そこまで好きなら華やかなプロポーズがあってもいいはず。何もないのにいきなり入籍なんて彼らしくないね。きっと同姓同名の別人よ!」 そう盛り上がっているとき、再び誰かが来た。 海斗に手を引かれて景子が入ってきて、困惑しながら見渡した。 「プロポーズ?何のプロポーズ?」 何かを感じ取ったのか、景子は頬を赤らめて海斗を見た。 「海斗……もしかして近いうちに、私にプロポーズしてくれるの?」 海斗の口からは否定の言葉が出かかっていたが、景子の期待に満ちた目を見て言葉が詰まった。 景子はずっとそれを待っている。しかし自分は既に凛音と入籍しており、景子を妻にすることはできない。 景子には生きていてほしい。だが、彼女が失望する顔を見るのも耐えられなかった。 色々な事情が脳裏をよぎり、海斗は凛音の方を一瞥してから頷いた。 「ああ、景子。今度、プロポーズしようと思ってたんだ」 第4話 その言葉に、全員が沸き上がった。 「鉄は熱いうちに打て、今日ここでプロポーズしちゃえよ!俺たち同級生みんなが見届け人になってやるからさ!」 海斗の表情が硬くなる。 「今日だって?いや、式もなければ、花も指輪もない。そんなのはあまりにも軽率すぎる」 景子は嬉しさのあまり涙を潤ませ、何度も首を振りながら、言葉を詰まらせた。 「海斗……あなたがプロポーズしてくれるなら、何もなくてもいいの。私、あなたと結婚できるならそれだけで幸せよ」 二人はお互いを見つめ合い、そこに熱い想いが溢れていた。 その光景を静かに見つめながら、凛音の胸には言いようのない痛みが走っていた。 こぶしを強く握りしめ、手のひらを爪で刺して血を流しながら、目の奥に寂しさがよぎった。 海斗が抱く、心からの愛がそこにあることは分かっていた。 たとえ自分と結婚した前世であっても、海斗の心には常に景子しか存在しないのだ。 かつての凛音は、独りよがりで身の程知らずだった。無理やり彼を手に入れ、時間をかければいつか海斗の心も自分に向くはずだと信じていた。 けれど今は違う。現実を思い知り、ようやく目を覚ましたのだ。 凛音が視線を向けると、海斗は景子を抱き寄せ、優しく囁いていた。 「お前はそれでいいと言うかもしれないが、俺は嫌だ。愛する女を中途半端なまま嫁がせるようなことはしたくない。30分だけくれ。すぐ手配する」 そう言うとすぐに秘書の久保晴人(くぼ はると)を呼び出し、式の準備を命じた。指輪や花、さらにはドレスとメイクの手配まで始めた。 居合わせた同級生たちも興味津々で手伝い、プロポーズに必要なものが次々と整えられていく。 式を前に、景子はカメラを手に取ると、隠し切れない得意げな顔で凛音の前に立った。 「お願いがあるの。頼んでいたカメラマンが来られなくなっちゃって。凛音は写真上手でしょ?私たちを撮影してくれない?」 ちょうどそれを見ていた海斗は、凛音には妨害する理由があるはずだと思い、止めに入ろうとした。 しかし、予想外にも凛音はそれを受け入れ、黙ってカメラを受け取った。 「いいわよ。精一杯、お二人の幸せな瞬間を撮らせてもらうわ」 海斗は驚きに動きを止めた。あの凛音がこんなにおとなしく従うなんて、信じられなかったからだ。 少し考えたあと、海斗は凛音にメッセージを送った。 【お前の望み通り、俺はお前と籍を入れた。だからこの先、景子を妻にすることはできない。景子がプロポーズを望んでいるから、その願いを叶えるだけだ。今日どれだけ嫉妬しても、絶対に邪魔はするな。もし景子に何かあったら、タダでは済まさないからな!】 その画面を眺め、凛音は声を出さずに微笑んだ。 二人の恋路に割って入ったせいで、一度死んだ身だ。また同じ過ちを犯すはずがない。 凛音は返信はせず、ただカメラを会場の中心へと向けた。 レンズ越しに、スーツ姿の堂々とした海斗がバラの花束を持ち、景子の前に歩み出て、片膝をつくのが見えた。 海斗はリングケースを開き、そっと景子の手を握りしめ、その瞳には尽きることのない深い慈しみが溢れていた。 「景子、出会った時から決めていた。4年間、お前との時間は人生で何よりもかけがえのないものだ。俺と結婚してくれ。一生かけて大切にするから……妻になってくれないか?」 その偽りのない真心と深い愛情のこもった告白が凛音の耳に届くが、心はどこか現実味を感じていなかった。 数歩先では、景子がプロポーズを受け入れ、指には輝くリングがはめられていた。 二人は抱き合い、海斗はその唇に口づけを落とした。 歓声と拍手が、いつまでも鳴りやまなかった。 凛音はその晩の幸せな様子をすべて記録し、最後の役目を果たした。 式が終わり、凛音は景子に歩み寄ってカメラを返した。 「おめでとう。長年の想いが、ようやく実を結んだのね……」 祝福の言葉を言い終える間もなく、会場に突然悲鳴が上がった。 何が起きたか理解するより早く、凛音は何者かの力で前に押し出された。 次の瞬間、凛音は倒れてきたシャンパンタワーにまともにぶつかり、血まみれになって床に倒れ込んだ。 冷たい酒と割れたガラスが全身を容赦なく襲う。 波のように押し寄せる激痛が、神経を引き裂いていく。 額から温かい血が流れ出すとともに、視界はかすみ、意識が暗闇へと吸い込まれていった。 重いまぶたを無理やり開けると、景子を抱きしめ、心配そうに見つめる海斗の姿が見えた。 「景子、大丈夫か? さっき凛音を突き飛ばして防いだが、怪我はないか?」 なるほど、自分は海斗に盾にされ、突き飛ばされたのだった。 凛音は真っ青な顔のまま、自嘲な笑みを口元に浮かべた。 そして微笑みながら、目からは冷たい涙がこぼれ落ちる。 この涙の跡こそが、意識が途絶える寸前まで感じていた、唯一の感覚だった。 第5話 目を覚ますと、そこには看護師が心配そうにこっちを覗き込んでいた。 「体調はどうですか?ご家族に連絡してください。ご両親でもご主人でもいいですよ」 凛音は青ざめて乾ききった唇を開き、かすれた声で言った。 「両親はそばにいませんし、夫もいません。独身です」 言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアが激しく開いた。海斗が眉をひそめてこちらを見ている。 「独身だと?数日前に、俺と籍を入れろとすがったのは誰だ?」 海斗の冷ややかな視線を受け、凛音は全身から力が抜けていくのを感じた。 「結婚相手が誰か、確かめれば?」 海斗はその意味がわからなかったようで、ただ嫉妬して拗ねているのだと決めつけ、うんざりした口調で返した。 「凛音、景子の命を救うためじゃなきゃ、俺とお前が結婚なんてするわけないだろう!俺はただ、愛する女にプロポーズの場を用意してやりたかっただけだ。俺の妻という立場を奪うわけじゃないんだから、いい加減にしろ。お前を甘やかす暇はない」 海斗が吐き捨てた本心を聞き、凛音の瞳から光が消えた。 「わかってるわ。景子にプロポーズするのも、結婚式を挙げるのも勝手にして。気にしないわ。だから私にも構わないで。お願い、放っておいて」 海斗はじっと凛音を見つめ、彼女の言わんとする意図を探るようにしていた。 だがすぐに、凛音は自分を愛しすぎているから、たとえ名ばかりの妻でも満足なのだろうと考えた。 病室がしばらく静まり返った後、海斗は視線をそらし、いくぶん落ち着いた口調で続けた。 「そうか。ならば今後、形だけの夫婦でいればいい。景子が怪我をした時、いつでも血を提供できる状態であれば離婚はしない。昨日、景子の身代わりにシャンパンタワーの直撃を受けた件のお詫びだ。このカードに4億円入っている」 海斗は銀行カードをテーブルに投げ置くと、振り返りもせずに立ち去った。 凛音は彼を呼び止めて本当のことを伝えようとしたが、もう声を出す力も残っていなかった。 2日間入院している間、海斗は一度も現れなかった。 景子のSNSを見れば、二人が一緒にいるのは一目瞭然だった。 海斗は景子と海辺で夕日を眺め、観覧車の中で口づけを交わし、彼女の髪を梳き、眉を描き、自らキッチンに立って料理まで作っていた…… そのどの写真にも、海斗は穏やかで幸せそうな笑みを浮かべていた。 その写真を見て、凛音はかつての出来事を思い出していた。 前世で海斗と結婚した時、自分は良き妻として家庭を守り、彼の心を溶かそうと必死だった。 料理をしたことがなかった自分が、海斗のために毎日手料理を作っても、彼は一口も手をつけなかった。 胃の痛みを訴える海斗のために深夜雪の中、薬を持って駆けつけても、彼は家に入れてもくれず、会おうともしなかった。 数ヶ月前から準備した記念日のサプライズも、景子の「好きじゃない」という一言で、海斗は全てをぶち壊した…… 海斗の妻として過ごした7年間で痛いほど理解した。愛のない結婚がどれほど地獄かということを。 だから今世では、もう未練なんて持たない。自分から消えることを選んだのだ。 今日からは、海斗も、彼に関わる全てのものも、自分とは一切無関係なのだから。 第6話 退院後、海外に行くためにもう戻ってこないだろうと思い、凛音は仲の良い友人たちを誘った。 仲良しのグループで買い物をして食事を楽しみ、カフェで暗くなるまでおしゃべりをして解散した。 会計を終え、バッグを取りに戻る際、他のテーブルを通りかかったときのこと。凛音は自分の名前が聞こえてきた。 「凛音が名家のお嬢様だって何なの?海斗を何年も追っかけしてたけど、結局、景子には敵わなかったじゃない?」 「本当ね。あの日、海斗から景子へのプロポーズを見て、さぞ悔しかったでしょうね?しかも無理して笑って動画を撮るなんて、滑稽すぎて可哀想にも程があるわ」 テーブルの真ん中に座る景子は、傲慢な表情で得意げに眉を上げた。 「私をあの女と比較しないで。あの女が私と並べるわけないでしょ?」 凛音はその言葉を聞き届け、胸の鼓動を抑えながら、密かにスマホを取り出す。 凛音がいるとは知らず、景子の取り巻きたちが相変わらず凛音の悪口で盛り上がっている。 「凛音の実家である岡本家もお金はあるけれど、高木グループと比べたらゴミ同然。自分の身の程もわきまえずに寄ってくるなんて……まあ、海斗は景子に夢中だから相手にするわけないけどね」 「そういえば景子、前に交通事故に遭った時、凛音から輸血を受けたって本当?彼女、あんなに景子のことを恨んでたのに、よく承諾したわね」 景子はコーヒーを一口すすり、気だるげに答えた。 「海斗が連絡したのよ。きっと良い条件を出したんじゃないかしら。海斗からは、また私が怪我をしたら凛音から血を取るって言われてるわ。もし懲りずに海斗に色目を使ったら、その時は血が枯れるまで抜き取ってやれば大人しくなるでしょ!」 「名案ね!海斗は景子が甘えればなんでも言うこと聞くもの。専属の『生きる血液バンク』として扱うにはもってこいだわ」 前世で景子が怪我をしていたのは、すべてわざとだったのだ。自分から血を奪い、殺すために。 冷たい恐怖が心に広がり、体は震えが止まらない。 爪を手のひらに深く食い込ませ、血が滲むほど唇を噛み締め、喉から漏れそうになる悲鳴をかき消した。 すると、着信音が響き、数秒後に足音が聞こえてきた。 凛音はとっさに隠れると、険しい顔をした景子が店を出ていくのが見えた。 残された女友達たちは、まだ元カレだの幼なじみだのといった話をしている。 凛音は何かが起きると思い、景子を追いかけた。非常階段で景子は見知らぬ男に掴まれ、口論をしていた。 「哲也、言ったでしょ。もう二度と連絡しないでって。私、もうすぐ結婚するの!」 「結婚?高木となんて嘘だろう。景子、あいつと結婚して玉の輿に乗るために俺を捨てたのか?長年寄り添ってきた幼なじみの俺より、あいつがそんなに良いのかよ?」 「ええそうよ!女は高みを目指して何が悪いの?海斗は高木グループの立派な後継者よ。あなたみたいな先行き真っ暗な男と付き合って、みじめな暮らしをしろと言うの?私が本当に好きなら、身を引いて祝福しなさい!」 冷酷な言葉を投げつけられ、栗原哲也(くりはら てつや)は青筋を立てて激昂した。 「祝福?そんなことできるか!高木は、お前が玉の輿に乗るためだけに近づいたことを知っているのか?ずっと付き合いながら裏で俺とくっついたり離れたりしていることも知っているのか?それに昨日も一緒にいたんだぞ!」 その事実に触れた凛音は、その場から一歩も動けなかった。 指先が震え、録音中だったスマホが床に勢いよく落ちた。 第7話 「誰!」 景子の慌てた声が聞こえ、凛音はハッとして急いでスマホを拾った。 店に戻り、高鳴る胸を必死に抑えながら、なんとか落ち着こうと努力した。 録音を保存し、時間を確認してからバッグを持って店を出ようとした。 カフェの出口へ向かうと、そこには景子が取り巻き数人を連れて、険しい顔で立ちはだかっていた。 「さっき盗み聞きしてたでしょ?」 一瞬、凛音の頭が真っ白になった。 景子は凛音を見ると、鼻で笑いながら一歩ずつ追い詰めてきた。 「私の秘密を聞いたからって、弱みを握ったつもり?いい?海斗に告げ口したところで、証拠もなしに私のことを信じてもらえるわけないわ!どっちを信じるか、試してみる?」 そう言って景子は海斗に電話をかけ、迎えに来るよう伝えた。海斗はすぐに応じた。 その後、景子は連れの女友達に凛音を裏路地へ引きずり込ませた。 女たちが凛音の肩を押さえつけ、髪を掴んで壁に何度も打ち付けながら罵詈雑言を浴びせた。 凛音は逃げ出そうとしたが、あまりの激痛に力が入らず、頭皮が剥がれそうな感覚に陥った。 頭を何度も打ち付けられて意識は朦朧とし、額から血が流れ落ち、顔を真っ赤に染めていた。 目の前が暗くなり、狭い裏路地に悲鳴が響き渡った。 どれくらいの時間が過ぎただろうか、ふとスマホの着信音が響き、景子はみんなを止めた。 景子はコーヒーのカップを手に取り、凛音の体に浴びせて、血の跡をごまかした。 それから通話ボタンを押し、あえて声を震わせた涙声を作る。 「海斗!カフェ近くで凛音に絡まれて……お願い、助けて!」 痛みに意識が遠のきかけていた凛音は、その言葉に絶望で胸が締め付けられた。 なんとか起き上がって逃げようとしたが、景子に手を強く引き止められた。 その直後、足音が聞こえた。 景子は無理やり涙を浮かべ、自ら自分の頬をバチンと叩いた。 乾いた音が響くと同時に、海斗がやってきた。 海斗を見た瞬間、景子は彼の胸に飛び込み、泣きじゃくった。 「海斗、凛音にいきなり叩かれて……顔がすごく痛いの」 景子の頬に残った手形を見て、海斗の顔に痛ましげな表情が浮かんだ。凛音へ向ける目は、ひどく冷えている。 「凛音!景子にだけは手を出すなと言ったはずだ。それなのに、まだこんなことをするのか?」 「そんな、やってない……」 凛音は青ざめた顔で必死に説明しようとしたが、海斗の激昂した声にかき消された。 「俺のいない隙に彼女に手を出すとは、その代償をきっちり払わせてやる!」 海斗は冷たい顔のままボディーガードを呼び、30発叩くよう命じた。 ボディーガードたちは即座に襲いかかり、容赦なく凛音に平手打ちを食らわせた。 パシッ!パシッ!パシッ! 3回打たれただけで、凛音の顔の片側は大きく腫れ上がった。 焼けつくような痛みに意識が朦朧とする。 容赦ない連打に唇は引き裂かれ、血が溢れ出した。 海斗は苦しむ凛音を冷たい目で見下ろすと、言葉を吐き捨てて景子と共に去っていった。 「いいか、今のうちに身の程を知れ!次があれば、お前も岡本家も終わりだと思え!」 凛音は床に崩れ落ち、海斗の背中を追いながら、とめどなく涙をこぼし続けた。 第8話 傷だらけで家に戻ってから、凛音はどこへも出かけず、一日中部屋に籠もって荷造りをしていた。 荷造りを終えると、不動産業者のもとへ足を運んだ。 凛音の両親は海外市場を開拓するため、数年前から海外に定住している。 凛音は海斗のためだけに国内に残り、両親は彼女にこの家を譲ってくれていたのだ。 資産を少しでも早く整理するため、凛音は安値で家を売却した。 所有権の移転手続きを終えて帰宅した頃にはすっかり日が暮れていて、街灯も消えていた。停電のようだった。 凛音が暗闇の中、スマホのライトをつけようとした瞬間、十数メートル先で止まっていた車がヘッドライトをつけた。 眩しさに目を細めて顔を上げた時、その車がこっちに向かって猛スピードで突っ込んできた。 ドンッ! 逃げる間もなかった。凛音は激しく跳ね飛ばされ、路上に投げ出された。 血がどんどん流れ出てくる。内臓がひっくり返ったような感覚に襲われ、息をするのもままならないほどだった。 体が引き裂かれるような痛みの中、血だまりの中で痙攣していた。 脳内は真っ白になり、事故の瞬間の光景が繰り返しフラッシュバックした。 凛音ははっきりとわかった。運転していたのは、景子の元恋人、哲也だった。 加害者が誰か知っても、もう手遅れだった。意識が次第に遠のいていく。 遠のく意識の中で、すぐ横に車が止まるのが見えた。 ドアが開き、視界に海斗の顔が映り込んだ。 駆け寄ってくる海斗の姿が、意識を失う直前、凛音が最後に見た光景だった。 エンジン音が耳元で鳴り響き、周囲の人々の騒ぎ声や、心電図のモニター音が聞こえた。 鼻をつく消毒薬の匂いが、神経を逆撫でする。 意識をわずかに取り戻し、目を細めて見てみると、医療スタッフたちが切迫した様子で話し合っていた。 「処置室の準備は整っています。高木社長、すぐに救命処置に移ります」 海斗は、凛音に冷めた視線を向けると、冷徹な声で言い放った。 「救命は後回しだ。景子が怪我をして待っている。先に血を採れ」 その要求に、医師たちは言葉を失った。 「しかし、この患者は重症です。すぐ手術をしなければ後遺症が残りますし、出血も激しいです。この状態で血を採れば、命に関わります!」 「わざわざここに運んできたのは景子を救うためだ。死のうがどうなろうが構わない、景子が助かればそれでいい!手術は後回しにしろ。同意書なら俺が書く。夫として!」 その一語一句が鋭いナイフのように胸を突き刺し、凛音は耐えがたい絶望を感じた。 腕に針が刺さるのを眺めるしかなかった。最後の力が抜け落ちていく。 全身を覆う空虚感と激痛の中で、再び死の影が忍び寄ってきた。 ゆっくりと瞼を閉じると、看護師たちの憐れむような会話が聞こえた。 「夫が妻の命を助けるどころか、別の女のために血を抜かせるなんて……。愛情なんて少しもないのね。もし彼女が目を覚まして全部知ったら、きっと結婚したことを後悔するでしょうね」 目尻からひと筋の涙が零れ落ち、誰にも気づかれることなく髪の中に消えた。 完全に意識が途切れる直前、凛音の脳裏には一つの思いだけが残っていた。 その通り、後悔していた。 海斗と出会わなければよかった。結婚などしなければよかった。これほど長く、無駄な情を抱かなければよかったのだ。 海斗という男を愛したこと。それが、人生最大の過ちだった。 第9話 凛音は、自分がまだ生きていることに驚いた。 重い瞼を開けると、看護師が点滴の瓶を交換していた。一瞬、夢を見ているのかと思った。 「目が覚めましたか?よかったですね……一晩中、懸命な処置を続けました。一時はどうなることかと思いましたが、峠は越えましたよ。今は安静にして、しっかり体を休めてくださいね」 看護師の優しい言葉を聞き、凛音は自分がまた一命を取り留めたのだと実感した。 喜びと悲しみ、そして笑いや涙が入り混じり、心は激しく揺れ動いた。冷静さを取り戻すまでにかなりの時間がかかった。 落ち着いてからは付き添いのヘルパーを一人雇い、再検査や薬の処方、身の回りの世話をしてもらうことにした。 邪魔をする者はいなかった。凛音の体は少しずつ回復し、心も晴れやかなものになっていった。 時折やってくる医師も、診察の合間に、あれこれと探りを入れてくる。 「あれほどの大怪我だったのに、ご主人は面会に来ないのですか?」 「あのときあなたを運んできた人は、本当にご主人なのですか?」 そんな質問に対して、凛音は決まってこう答えていた。 「夫ではありません。私は独身です」 その間も、景子は相変わらず、海斗から丁寧にお茶を出されたり、街へ連れ出してもらったり、プレゼントを買ってもらったりする様子の写真ばかり送ってきた。 それを目にして、凛音の心はもう何も動かなかった。 時は流れ、退院の日がやってきた。 荷物を片付け終わると、電話が入った。 「岡本様、申請されていたビザが承認されました。いつお取りに見えますか?」 その知らせに、凛音はふっと肩の荷が下りたような笑顔を見せ、晴れやかな声で答えた。 「今日のうちに伺えます。領事館は最終受付が何時まででしょうか?」 相手の返答をじっと聞き入っていた彼女は、病室の扉が開いた音に気づかなかった。 海斗が眉をひそめて入ってきた。その声には、冷たさと隠し切れない疑念が混ざっていた。 「領事館なんて、何のために行くんだ?」 海斗を見ると、凛音は笑顔をすっと消して電話を切った。 「別に。あなたに関係のないことよ」 その氷のような口調に、海斗の表情が険しくなった。 「無関係だって?忘れるな、今のお前は俺の妻だ。何をしようとしているのか、知る権利が俺にはある」 「私はあなたの妻ではないわ。あなたの妻は、景子でしょ」 凛音はじっと海斗を見つめた。その眼差しは、静かな水面のように凪いでいた。 一瞬、疑念を抱きかけていた海斗だったが、その言葉を聞いて気を取り直した。 どうせまた、いつものように嫉妬をして自分を試しているだけだろう。海斗は高慢な調子で言葉を継いだ。 「そうだ。お前との結婚は形だけだ。俺が心から愛しているのは景子だ。明日、景子のために盛大な結婚式を挙げることに決めた。お前も来て見届けろ」 投げつけられた招待状を見て、凛音の目がかすかに揺れ、静かに口元に笑みを浮かべた。 「いいわよ。明日、とびっきりの贈り物を用意しておくから」 あまりに平然としたその反応に、海斗は一抹の違和感を覚えた。 問い詰めようとした矢先、景子から電話がかかってきた。 「海斗、いつ迎えに来てくれるの?早くウェディングドレスが試着したい!」 景子の甘える声に、海斗は途端に他のことなどどうでもよくなってしまった。 彼は甘い声をかけながら、背を向けて立ち去ろうとする。 出口へ向かう直前、何かを思い出したのか振り返って言い捨てた。 「そうだ、景子の世話はもう手配してある。お前は今夜から俺の家に住めばいい。例の輸血への埋め合わせだと思って受け取れ」 海斗の背中を見送りながら、凛音は小さく呟いた。 「埋め合わせ?私の欲しいのはそんなものじゃないわ。唯一の望みは、あなたと縁を切って、これから先もお互い一生関わらずに過ごすこと。それだけよ」 退院の手続きを済ませた後、凛音は領事館へ向かい、ビザを受け取った。 帰宅してすぐに泥のように眠り、翌朝8時のアラームでスッキリと目が覚めた。 彼女はこれまで整理していた音声データと二枚の戸籍謄本を一つの箱にまとめ、速達を手配した。 「12時に、この荷物を招待状に書かれた場所へ届けてください。高木という名字の男性に渡して、『結婚おめでとう、凛音からの結婚祝いよ。末永くお幸せに』と伝えてください」 すべての支度を終え、時間を確認すると、凛音はスーツケースを持って空港へと向かった。 11時半。飛行機に乗り込むと、海斗の連絡先をすべてブロックして削除した。 窓の外で大雪が降り始めていた。20年以上暮らし続けたその街が少しずつ遠ざかり、やがて黒い点のように小さくなっていく。 凛音は目を閉じ、安らかな眠りに落ちていった。心は穏やかで、何も恐れることはなかった。 二度の人生にわたって続いた悪夢は、これで終わったのだと分かっていた。 これからの人生には、幸せな夢だけが待っている。